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Mr. Jellyfish, Miss Blossom

 

 小さな遊覧船のオーナーは客に声をかけた。

 

「お客さん、ここ、珊瑚の中に砂地があってちょっとした広場みたいでしょ?」

 

 彼はまだ若かった。父と兄たちは新型の漁船で漁に出るのだが、彼はお下がりの漁船をちょっとばかり小奇麗にリフォームして水上タクシー兼レジャークルーズの事務所を立ち上げた。経営者兼従業員が一人でやっている細い稼業だ。とはいえ、しかしお仕着せでないクルージングが楽しめるということでコミュニティ誌に掲載してもらってからは何とか食いっぱぐれなくやっている。

 

 どんなに鄙びていても、こんなリゾートアイランドで客商売をしていれば肌も露わな女たちと話す機会も多い。しかし彼は、仕事の切り口上ならともかくもじもじと気の利いた会話一つできない性分で、しかも彼が自分の名前を言うと大抵のものが苦笑する。

 

 彼の名は、海月と書いて「みづき」という。

 しかし、海の月という漢字は、衆知のとおり「くらげ」と読む。

 彼はこの名を改字したかったのだが、きちんとした手続きを取るのが面倒でそのままになっている。もっと商才があれば、これを逆手にとってシンボルアイコンにくらげをデザインしたものを使ったり、客に気軽な冗談のネタとして笑いを取ることもできただろうが、この名前でずいぶんからかわれてきた彼はあまりそこをいじられたくて、名刺もひらがなで作っていた。

 

「ほら、ここよく見るとハート型なんですよ」

 

 ここはダイビングをする者にはたまらないスポットだ。

 自然にできたハート型の砂地。

 水深二十メートルほどだが海水の透明度が高く、珊瑚や色とりどりの魚たちの姿が鮮やかに見える。その陰の砂底には、太古の姿のままの小さなサメたちがぼんやりし、グロテスクな姿ながらよく馴れて人懐こいウツボたちに餌を与えることもできる。

 今乗せている客は、遊覧料金でここへやってきている。ダイバーコースではないので海の上から眺めるだけだ。

 しかし、この透明度だからただ海面から覗くだけでも充分に楽しめる。

 この昼下がりの周遊の客は、お揃いのアロハシャツを着た熟年カップルと、大きな花柄のワンピースを着て造花を飾ったバッグを持った若い女だ。

 島育ちの海月が顔を知らないということは、この女は観光客なのだろう。

 

 身を乗り出して無料貸し出しの箱眼鏡で海底を覗き込んで、女が襟足までの緩い巻き毛を揺らして顔を上げた。

 

「ほんと! ハート型」

 

「ダイバーが水中結婚式とかよくやってるスポットなんですよ」

 

 カップルの方はくすくすと照れた笑い声をあげ、何ごとか囁き合いながらやさしく小突きあっている。乗客名簿に書いた名前からするとこの二人は夫婦のようで、まことに仲睦まじい。

 

「私たち、ここで海中結婚式したんですよ」

 

「そうなんですよ、もうなつかしくて」

 

 もちもちした体型の熟年に至っても新婚のような雰囲気を醸し出している夫婦を、海月は微笑ましく思った。

 

「うち、ダイビングコースもやってますよ、予約制ですけど」

 

「この人、去年胃の手術したんでちょっと今年まで我慢しようかなって」

 

「来年調子がよかったらまた潜りたいんですけどね」

 

「そのときはぜひうちに予約入れてくださいね」

 

 快活な会話中に、短い驚愕の声が上がった。

 

「あ!」

 

 声の主は若い女で、いきなり海へ大きく身を乗り出した。

 船はゆらりと一揺れした。

 

「お客さん、危ないって!」

 

「わたしのバッグ!」

 

 見ると、パラソルの紐を覗かせた花飾り付きのバッグが生地を空気で膨らませ、ぎりぎりの浮力で漂っている。

 もうすぐ沈むだろう。

 

「お願い、何とかして! お財布が入ってるの!」

 

 女はパニックになっている。

 海月はこんな事態には慣れている。哀願される前に手製のボートフックを取り出すと、彼は沈まなんとする布のバッグをひょいと引っ掛けて難なく拾い上げた。

 

「はい、どうぞ」

 

 客にフックに引っ掛けたまま渡すわけにはいかない。水道の蛇口のように海水を垂れ流しているバッグを手に取って、海月は女に渡した。

 

「……ありがとう」

 

 彼女はほっとした笑顔で海月を見た。

 その、光が当たる場所だけ明るいべっこう色に変わる黒い瞳が、海月には何となく心地よかった。

 

「いえいえ、お客さんが何か落っことすの、よくあることなんですよ」

 

 彼女はほっとはしたものの、服が濡れないよう身体から離してバッグをつまみ上げ再び困り顔だ。

 

「中身は大丈夫ですか? スマホとか」

 

「いいえ、スマホはポケットに入れてたから……」

 

「よかった」

 

「でもお財布もカードもびしょびしょだわ」

 

 海月は財布を海に落とした客に対処したはもちろん一度や二度ではない。もちろん自分自身の財布についても、その経験について語るのはやぶさかではない。

 

「大丈夫。ちょっと水洗いして干しときゃ元通りになりますよ」

 

 女は軽く溜め息をつくとやっと少し水が切れてきたバッグからピンク色の財布を出し、濡れた紙幣を慎重に取り出した。

 なにをするのかと思ってみていると、彼女はそれを軽く畳んで掌てのひらに載せその手で彼に握手を求めた。

 

「びしょぬれでごめんなさいね。本当にありがとう」

 

 その動きは実にこなれていて、金持ちはこうやってチップを渡すんだな、と海月は感心した。

 

「いや、あの……ここ読んでください」

 

 海月は手を出す代わりにキャビン外壁に無造作に貼った注意書きを指差した。

 そこにはコース料金といくつかの有料サービス以外について、金銭授受はしない旨が記載されている。こういうシステムにすると外国人客が喜ぶのだ。

 

「チップとかそういうのは受け取らないんで」

 

「いいのよ、これは私があなた個人に渡したいの」

 

「いやいいんです。大した手間じゃなかったし」

 

「いいじゃない、これでおいしいものでも食べて?」

 

「気にしなくていいですよ」

 

 こういう問答もそこそこ経験したことはある。

 頑として受け取らない海月に、女は不承不承によれよれの紙幣を財布にしまった。

 

「一度財布から出したお金を仕舞うのって恥ずかしいんだから」

 

「お釣りとか仕舞うときは?」

 

「それはまた別よ」

 

 女は素っ気なく言った。

 アロハシャツの夫婦が、小さなサメが近寄ってきたのを見つけ、歓声をあげた。


 

 その後も、土産物屋や日用品の店で姿を見かけるたび、間が悪いというのか何というのかその女はちょっとした失敗をしでかしていた。

 にわか雨に紙のショッピングバッグが濡れて底が抜け往来に買ったばかりの細々した雑貨をぶちまけてしまったり、アイスクリームを落としてしょんぼりしていたり、よそ見して街灯の柱に鈍い音を立ててぶつかっていたりだ。

 

……この娘、つくづくどんくさいな

 

 その度につい、ぶちまけたものを拾い集めるのを手伝い、たまたま持っていたポケットティッシュや絆創膏を差し出してしまう。

 彼女はその度に恥ずかしさを隠すような真面目くさった顔で礼を言う。

 こういうことがたび重なり、彼は彼女について様々なことを知った。

 

 彼女の名前は曄(はな)ということ。

 大学生で来春卒業すること。

 裕福な家の娘だが、結局は成金なのでお高くとまった金持ち連中とのつきあいは苦手なこと。

 そしてこの島に一人で遊びに来て、一か月ほど滞在すること。

 

 曄も何くれとなく助けてくれる海月に礼をし、世間話をするようになるうちに、曄は彼と一緒に遊びに出かけるようになった。海月も曄の頓珍漢な、それでいて精一杯の心配りや優しさに接して一緒に遊ぶ時間を楽しく思うようになっていった。

 遊ぶ、と言っても二人ともひどく晩熟で、田舎臭い喫茶店で茶を飲み、ショッピングし、古くてしょぼくれたぬいぐるみキャッチャーで大騒ぎするような付き合いで、周囲に「今どきの小学生の方が進んでいる」と笑われるほどだったが、二人は満足していた。

 

「くらげって、ふよーんふよーんってしてて癒されるよね」

 

「そうかなあ? なんかバカっぽくない?」

 

「ううん、綺麗だし、ガラスのお花みたい。わたしは好きだな」

 

 曄になら、くらげをもじって「くらちゃん」と呼ばれても気にならなかったし、かえって快かった。しかし二人とも、お互いの間に見えない線を引いてそこからは決して入らないようにしていた。晩熟だとか、遠慮だとかそういうものではない、恐れの感情が二人それぞれにあった。

 

 曄の滞在期間も終わりに近づいたある日。

 曄が宿のコンドミニアムで雨上がりを待っていた夕暮れのことだ。

 パンフレットの端に掲載されているある店のクーポンが彼女の目を引いた。

 彼女は金銭面でわりに鷹揚だったが、一方で割引だとか格安という言葉にも弱い。そういうことを楽しんでやっているせいでお嬢様というオーラが全くないのだろう。

 彼女は早速海月に夕食の誘いをスマホで送った。

 雨で客足が途絶えていた海月の返事はOKで、曄はクーポン付パンフレットを水玉柄のリネンのバッグに仕舞うと、髪にバッグの共布で作った巻き薔薇を飾った。バッグもこのヘアコサージュも、最近この島に出来た雑貨店で一目惚れして買ったものだ。

 

 リボンのついた新しいサンダルを下ろして履くと、鏡に映った自分の姿を見て

「うん、いいじゃない?」

と曄は独り言を言った。

 

 二人でパンフの店へ行ってみると、そこはこの島の女と米兵上がりの外国人の夫婦が開いたばかりの居酒屋だった。

 料理は女将おかみが作る堂に入いった郷土料理と、黒い肌の大将が拵こしらえるチリコンカンやワカモレというコントラストが楽しく、味も悪くなかった。

 それに常識人でおとなしやかな女将と、カタコトながらぐいぐい話に突っ込んでくる大将との会話が面白く、これは繁盛するだろうと思われた。

 

 二時間ほど食べて笑って飲んで店から出ると、空には少し欠けた月が薄緑色の傘を被っていた。

 通りには夕立に閉じ込められていた観光客がやっと出てきて、思い思いに散策している。二人は他愛ないことを話しながらぶらぶらと歩いた。

 海月は彼女が少し妙な歩き方をしているのに気付いて、訊ねた。

 

「曄、足、どうかした?」

 

「ちょっと靴擦れが出来ちゃったみたい。でも大したことないわ」

 

 買ったときは足に合うように感じたが長く歩くと少々痛くなってしまったという。海月は彼女をいたわってゆっくりと歩いた。

 

 曄が宿泊しているコンドミニアムのロビーで後ろ髪を引かれるおやすみの挨拶をしていると、天井がオープンになった下にある芭蕉ばしょうの葉から、夕立のしずくがぽつんと曄の頭に落ちてきた。

 曄は何気なく大きな水の粒が髪を濡らした部分に手をやり、驚きの声をあげた。

 

「あっ!!」

 

「どうした?」

 

 曄は頭のあちこちを触ってみては、みるみる困惑の表情になった。

 水玉模様のヘアコサージュが無くなっている。

 

「髪飾り、落としちゃった……買ったばかりなのに」

 

 海月もこの時初めて曄の髪に留められていたバラが消えているのに気付いた。

 

「店を出るときはあったよな?」

 

「わたしからは見えないからわからないわ」

 

 それはそうだ。

 しかし、店からここまで辿ればきっと見つかるだろう。

 

「俺探してくるよ」

 

「あ、わたしも行く!」

 

「足が痛いんだろ?」

 

「じゃあ、部屋で靴履き替えててくるわ」

 

「いいって。すぐだからロビーで座って待ってろよ」

 海月はそそくさと踵を返し、もと来た道を戻った。

 曄の役に立てると、何となく嬉しい。

 足を痛めてしまった彼女をいたわってやれて、なかなかいい気分だった。

 そして、髪飾りはあっさり見つかった。

 それは目抜き通りの、雨水溝うすいこうのグレーチングの縁ふちに引っ掛かっていた。

 確かに曄の髪に飾られていたバラだ。

 しかし、この雑踏ざっとう、そして雨あがりの道端みちばた。

 ポルカドットリネンのバラは、したたか踏まれたらしく泥まみれで糸がほつれ、金具はひしゃげて見る影もない。

 

――あんなに喜んでたのになあ……

 

 今日会ってあってすぐに「そのバラ似合うよ」と褒めると曄の頬がふわっと紅潮した。その血の通う色にふと自分は生身の女の横にいるのだということに思い至り、海月も顔が熱くなって二人でもじもじしていた。

 それはついさっきのことだったのに。

 たかが髪飾り一つのことだったが、海月はもの寂しい気分になってしまった。

 

 曄は誰も見ていないと思っているときには、ひどく虚ろな目をすることがある。

 何か困ったことがあるのか尋ねたこともあるが、曄は自分は何不自由なく暮らしている金持ちの娘なのだからそんなものはない、と必要以上に居丈高いたけだかに否定した。

 そしてしばらく黙って、小さく「ごめんね」と言われたのだが、それは何に対する謝罪なのか、未だにわからない。

 

 とにかく、彼はちょっとドジで優しい曄にあんな顔をさせるのは嫌だった。

 ホテルへ戻り人けのないロビーに入ると、曄がソファに腰かけているのが見えた。サンダルを半ば脱いで足のつま先に引っ掛けている。ホテルのロビーでやるにはかなり行儀がよくないことだが、それだけ痛かったのだろう。

 

「曄!」

 

「あ、くらちゃん……あれ、あった?」

 

「あったんだけど……こんなになっちゃっててさ」

 

 手に握ったぼろぼろの布の花を見せると曄は手を伸ばして受け取り、嬉しそうに撫でた。

 

「だいぶ汚れちまったな」

 

「こんな雨上がりだもん。仕方ないよ」

 

「……」

 

「ありがとう、探してきてくれて」

 

「……でも、これもう壊れて……」

 

「大丈夫。綺麗に洗ってここのところを縫えばわたしでも直せそうよ。金具は手芸店にあるし」

 

 曄は揃いの布で作られたサーキュラーバッグを開け、髪飾りをハンカチでくるんで大事そうにしまった。

 

「ねえ、くらちゃん」

 

「なに?」

 

「わたしね、くらちゃんがわたしのために何かしてくれるとうれしいの……すごく、すっごく」

 

「……」

 

「このバラ、ずっとずっと大事にするね」

 

 曄は微笑みながら、ふと涙ぐんだ。


 

――わたし、卒業したらすぐ取引先のおじさんと結婚するの

 

――短い間だったけれど、あなたが、わたしの癒しだったの

 

――きっとわたしは何年経っても、何十年経ってもこのバラを眺めていろんなことを大切に思い出すわ


 

 この猶予期間モラトリアムの中でささやかな恋を知り、曄は誰にも言えない悲しみでうなだれていた。

 曄の横で、海月はどうすればいいのかわからず、彼女の白い足の、赤く擦れた傷を黙って見ていた。


 

             <了>

 

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