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ラプンツェルの塔

 

はじまり

 ここは精霊が棲むと言われる地。

 多くのものがその姿を見たという。

 姿、というより、光る陽炎のようなもの、と口々にその人々は言った。

 

――私はそれを見たことがない。

 

 吹雪もこの丘の中では木々に遮られ、静謐な冷たい空気に満ちている。

 

 山羊の毛皮でできた服を脱がされる。靴も脱ぐ。

 みるみる全身に鳥肌が立つ。

 覚悟はできていても生物として逃れられない恐怖に震えながら、それでも心のどこかで、誰が私のその服を着るんだろう、と思う。

 あの子に渡してほしい。

 私が代わりをかってでた、あの小さな盲いた子に。

 私のほうがずっと体が大きくて肉がたくさん採れるぞ、と言い張って私はあの子を救えた。

 それは満足している。

 でも涙が止まらなかった。

 今、あの子は何か食べさせてもらえているだろうか。

 誰が食事を与え、服を縫い、温かい寝床を支度し、視えぬ目の代わりとなって生きる術を教えていくんだろう。

「なぁ……」

 男達は誰も私を見ようとしない。

 私は最後の望みを男たちに伝えた。

「約束通り、あの子を一生面倒見てやってくれよ?こんなひどい年がまた来ても、私みたいな目には遭わせないでやってくれ」

「わかっている。約束する」

 掠れた声で一番年嵩の男が答える。彼は彼なりに私を悼んでいる。

 彼の実直さに、私は縋るように言った。

「ありがとう。くれぐれも頼む」

 雪の上に両膝をつかされ、目を閉じた。

 一息の後、鈍い音と共に後頭部に強い衝撃を感じる。

 血と脳漿が温かい湯気を立てて飛び散り、肺に入っていた空気が口からぶつぶつと漏れる。

 もう痛みも、雪の冷たさも感じない。

 視界が昏くなる。

 呼吸が止まる。

 心臓が止まる。

 でも聴覚だけは生きている。

 私の身体は、石斧で叩き斬られている。

 肉を、内臓を、腱を、関節を石の刃で切り離されている。

 嫌な音を立てながら、私はばらばらにされる。

 一人の男が積もる雪を貫いて杭を地に打ち込み、その上端を斧で割って尖らせる。

 男は私の髪を掴み、首の断面にそのささくれて尖った部分を押し当てると一気に体重を掛け、私の首は墓標のように杭に突き刺される。

 これは、精霊への供物だ。

 

 こうして私はいなくなった。

 

 私の身体で、飢えたみんなが春まで生き永らえられるなら……

 私の娘が、生きることを保証してもらえるなら……

 

 そのとき、何か意志を持たぬ波動のようなものがふわりと若い女の残骸を覆った。

 男達がそれぞれ持ち帰るために皮袋に詰め込み始めた肉片もそれは流れる水のように浸していく。

 彼らは気づかず、生きるために同胞を屠殺し解体した場から立ち去って行った。

 ややあって、血に染まった雪が青白く燐光を発し、鉛色の空へと向かって緩やかな風が吹きあがる。

 その風に吹き上げられながら、不可視なものがふわふわと人のかたちをとり始めた。

 文字通り人々の糧になるために死んでいった女の血塗れの頭部にそれは「手」を伸ばし、血に汚れた目蓋や鼻、薄い唇の奥の白い歯や舌、組織の垂れさがる首の断面、黒髪や陥没した頭蓋にしげしげと触れ、撫で回し、弄び始めた。

 

********************

 

 その日は雨で、ヴォルフリートは黒い服を着せられていた。

 教会の祭壇の前にきれいな棺が三つ並んでいる。

 白い布がかかって、たくさんの花が飾られている。

 でもあの棺の中は潰れた肉の塊だ。

 もう二度と彼を抱いたり、撫でたり、遊んだり、笑いかけたりしてくれない父と母、それと兄だ。

 彼が車の後部座席で横になって眠っていると金属やガラスに凶暴な力が加わる恐ろしい音がして、目を覚ますと車の上半分が完全に潰れていた。ダンプカーに正面衝突し、車は車高のある巨大な車体の下へめり込んでしまったのだ。

 父と母、兄は胸から上がすり潰されたように無くなっていた。

 ヴォルフリートは、目の前3cmに迫る歪んだ車のルーフの下、隣にいた優しかった兄の温かい血でぐっしょり濡れていた。

 

「あの子、泣かないのね。家族みんな亡くなったってのに」

「気味が悪いくらい大人しいわね。手探りで歩いてるみたいだけど目が悪いの?」

「心因性の弱視ですって。事故からずっとあんなふうみたいよ」

「でももともと色覚異常もあるって……誰があの子の面倒見るのかしらね」

「確か11歳って言ってたかしら? これから難しい時期じゃない?」

「でも保険金や賠償金があるから……」

「しっ! あの子に聞こえるでしょ?!」

 喪服を着た女たちは憚りなく話す。特に老女たちは耳が遠くて、自然と声が大きくなる。

 一昨日まで、ヴォルフリートが家族と共に暮らしてたこの家に親類が詰めかけている。

 父がいいことがある日にだけ少しずつ飲んでいたブランデーをみんなで勝手に空け、兄が大事にしていた飛行機の模型を親類の子どもが投げて遊び、壊した。

「うちはみんなブロンドなのに、あの子だけブルネットだわね。色も黒いし」

「あの子の母親、移民のハーフだったから」

「ゲルマン人よりああいうののほうが図太いんじゃないか? 運よく生き残っちゃってるし」

「運よくっていうのかしら? 運悪くじゃないの?」

 何が楽しいのか、笑い声さえ聞こえる。

 ここは僕の家なのに、もう僕の居場所はないのだ、とヴォルフリートは思った。

 

 ヴォルフリートは家から抜け出して、手探りで家の裏に生い茂る林の中へ歩いて行った。

 目がぼんやりとしか見えない。自分の庭のように遊びまわっていた林の中の小道で何度も転び、ズボンの膝は裂け、泥まみれになった。

 だがもう何もかもから離れたかった。

 どのくらい歩いただろう。もう道などなかった。

 顔に細い木の枝が当たる。足の下で枯葉が滑り土が崩れる。雨に濡れて、シャツが肌に貼りつき、靴の中に溜まった水が歩くたびに嫌な音を立てた。

 地面が傾斜している。丘陵地帯の森へ入りこんだのだ、と彼は気づいた。

 もう自力では戻れない。でもそれでいい。

 

――なんで僕だけ、生き残ってしまったんだろう。

――僕も一緒に行きたかった。

――僕は独りぼっちだ。

 

 歩くうちに突然、暗い木陰から開けた場所へ出た。

 そこには、何か灰色の、植物が絡みついた建物があり、その下にうすぼんやりとした金色の光に包まれた背の高い女が一人、立っている。

 雨が、女の上を避けて降っていた。

 ヴォルフリートの目には、他のものは霞んでほぼ見えないのに、その女だけははっきり見えた。

 黒い長い髪はぼさぼさで破れた服を着ている。

 少し浅黒い肌に切れ長の目。

 北欧系先住民の血を引いてるように見えた。

 女は黄色っぽい眼で泥まみれの黒髪の子どもをじっと見た。

 その目つきは鋭かったが、ヴォルフリートは不思議と怖くなかった。

「変なガキ」

 女は近寄ってきて、右手を伸ばしヴォルフリートの額の真ん中に人差し指を当てた。

 痩せて削げたような頬ににっと悪戯っぽい微笑が浮かび、びりびりとした痺れのような、それでいて暖かいものが女の身体から伝わってくる。

 

 頭の中に風が一瞬吹き抜けるような感覚。

 

――視える!

――今まで見たこともない色が!

 

 赤っぽく、野のけもののように発光する金色の眼で女は言った。

「お前、オルガン弾けるか?」

 それがヴォルフリートとルルゥの出会いだった。

 

 それからほぼ毎日、学校が引けるとヴォルフリートはそこへ行った。

 塔の中に置いてある古ぼけた足踏みオルガンを下手なりに懸命に弾いていると、三日に一度ほど、彼女が現れる。

 たまに一週間ほど現れないときもあり、半月ほども姿が見えなかった後に久しぶりに会った時はヴォルフリートは思わず泣き出しそうになった。

「ルルゥ! どこ行ってたんだよ!」

「……どこって?」

 ぼんやりと返すルルゥにヴォルフリートは何故だか苛々する。

 

―― Amazing grace how sweet the sound

That saved a wretch like me.

I once was lost but now am found,

Was blind but now I see.

 

 いくつか音の出ない鍵盤のある朴訥なオルガンの音に合わせて、声変わりしかけた軋む声で歌ってやる。とても上手とは言えないが音階は几帳面に正確だった。

 弾いている曲の歌詞を教えると、彼女も楽しげに声を合わせてくる。

 彼が楽譜を持ってくる簡単な曲の他に、ルルゥは塔の床に散らばり、紙を漂白するリグニンのせいで黄色く劣化している古謡の楽譜を指差して「これ弾けるか」と言う。

「昔ここにいたやつが弾いてた」

 初見の楽譜に途中で何度もつっかかりながらも何とか弾き終え、ほっと息をつく。

 楽曲と言えるかどうか、頭を捻りたくなるほどの下手な演奏にもルルゥは喜色を浮かべる。

「すげえな!」

 彼女はふざけたようにヴォルフリートの頭を抱きかかえ、どぎまぎとしながらヴォルフリートも腕を回す。

 しかし、そこには何もない。

 何の手応えもなく、虚空に腕を持ち上げているだけの状態。

 確かにそこにあるのに、まるでホログラムのように何も触れない。

 なのに、ルルゥ自身が触れている部分は確かに肉の感触がある。柔らかい胸も、細く骨ばった腕も。

 頼りなげな幼い顔に浮かぶ怪訝な表情に、ルルゥがくっくっと笑った。

「触ってみるか」

 ルルゥがそう言った途端、女の身体のヴィジョンのみで実体が存在しなかった場所に物質の存在感が現れ、ヴォルフリートの腕はルルゥの体に巻きついた。

 なぜか、それが約束されたことのように受け容れられ、ヴォルフリートはほとんど驚かなかった。

 ルルゥの身体はひんやりと温かみがなく、いつも木々の緑の匂いがした。

 もはや彼は自分が不幸だとは思っていなかった。

 

 見えるようになったと思った彼の眼は、この森の中だけでしか機能しない。

 緑にこんなにデリケートな濃淡があるとは、彼は思い描いたこともなかった。

 初めて見る色鮮やかな世界。

 緑と赤が、黄土色や灰色とは完全に切り離された世界。

 それがここだけに存在しているということに、彼は一つの理由を見出していた。

 ルルゥがここにいるからだ。

 彼女が手を触れた蕾は、みるみる花が開く。

 空に手を差し伸べれば、蝶や小鳥が舞い降りてくる。

 雨上がりに彼女が手を伸ばし空を一撫でして見せ、その掌の軌跡に虹が出たときなど感激で涙が出た。

 色が視えなかった彼には、それが初めて見る天空のアーチだった。

 ヴォルフリートが様々な現象に驚き、喜ぶとルルゥは嬉しげににっと笑う。

「今の……どうやったの?」

「わからねえ。こうなる、と思うとこうなる」

 彼女は言葉遣いも立居振舞も品がいいとは言い難い。

 不思議な力を持ちながら、ともするとヴォルフリートよりも知識も思慮もへらへらと浅い。人の気持ちを察することなど一切ない。

 それでも彼女に触れられると彼は、自分がルルゥに選ばれたという矜持を感じ、胸の奥に灯りが点るような気がする。

 彼はそれまで家族、そして自身を取り巻く社会に向けていたものを、今目の前にいる人ならぬものに総て振り向けた。

 

 そして3年が経った。

 

 拒絶されることに怯えながら、会うたびにおずおずと甘えてきたが、いつもルルゥは屈託なく笑顔で彼を抱き止めた。

 それを拠りどころに過ごす日々。

 心は幼いままでも体は男の機能に目覚めていく。

 体の奥から湧き上がる声に従って縋りつくように身を重ねたのは数日前だった。

 何の外連味もなく自分を受け容れてくれるルルゥに、まだ年端もいかないくせにヴォルフリートは心身ともに溺れ、ろくに人と口を利かなくなっていた。

 弱視が治らないことを理由に彼を弱虫呼ばわりして殴り、事あるごとに男らしくあることを強要してくる大叔父の家にいるときも、うるさくて敵わないガキどもで溢れかえる学校にいるときも、ルルゥのことが片時も頭から忘れなかった。

 そんなヴォルフリートにとって、ある日ルルゥの発した言葉はひどく残酷だった。

「男っていうのは、こうするのが好きなんだな」

「え?」

「私に会った男はみんな、私に触りたがる」

面白がっている口調に、ヴォルフリートは一瞬何のことを言っているのかわからなかった。

「ここに住んでたやつも、ここを建てたやつらも……私がこの『かたち』になってから会った男はみんなお前みたいにくっついて、乗っかってきたぞ」

 その意味を理解したとき、少年は胸に銛でも打ちこまれるような衝撃を受けた。

 ヴォルフリートはひどく生々しい不快さ、そしてルルゥの身体に不潔感を覚える。

 彼女が望まなければ誰も彼女には接触できない。

 男達がルルゥに触れられたとしたら、ルルゥ自身が身を許したということだ。

 ルルゥが男達の行為を笑って肯定しているのがたまらなく厭わしい。

 ルルゥはヴォルフリートの頭を撫でながらけらけらと笑い声をあげた。

「がきんちょもおっさんも年寄りも、男ってみんな似たようなもんだ」

 彼はやっと悟った。

 

――僕が特別なわけじゃない。僕も、その中の一人なんだ

 

 依存心も愛情も他に振り向けるべき存在がいない、そしてその存在を作ろうともせずただひたすらルルゥに惑溺しきっていた少年は背筋が冷たくなった。

 しっかり抱きしめていた体を突き飛ばすように離す。

 みるみる喉から心臓にかけて焼き尽くすような、怒りと悲しみと独占欲の綯交ぜになったものが湧き出してくる。

 生まれて初めての感情だったが、これこそが嫉妬と呼ばれるものだと彼はすぐに理解した。

「……何笑ってるの」

「可笑しいから」

 邪気なく不思議そうに返され、自制の箍が弾け飛ぶ。

 ヴォルフリートはルルゥの髪を掴んでぐいと引き倒し、昂ぶりに任せて土埃まみれの床を振り回すように引き摺った。

 彼女は一度も、生きているものに対し力を振るおうとしたことが無い。 この時もルルゥは合点の行かない顔で、しかし声もあげずなすがままになっていた。

 もう体躯は彼のほうがほんの少しだが大きい。膝下に引き据えて馬乗りになり、声を荒げた。

「もう他の男の話はしないで!これから二度と僕以外の男に触らないでよ!」

 語尾が震え、視界が水の潤みで歪む。

「ねえ!」

 ルルゥがぽつりと言った。

「……みんなそんなこと言ってた」

 ルルゥのシャツを剥ぎ取ろうとしていた手がびくりと止まった。

 彼の顎から、涙がぽたぽたと手元に落ちた。

 彼がここへ持ってきて与えた、自分には小さくなったシャツがルルゥの皮膚の上で水の粒を吸い込んでいく。

 ルルゥは続けた。

「だけどみんないなくなっちまった。お前だってきっとすぐに……」

 ルルゥはヴォルフリートの顔に手を伸ばした。指の腹で、眉、目、特徴的な鷲鼻、濡れた頬、わななく唇に柔らかく触れていく。

「みんなみんな、行ってしまう。私は、変わらないのに」

 そして、顎、嗚咽に震える喉、肩、腕と伝って力の抜けたヴォルフリートの手を取り、頬に押し当てて切れ長の目を細めた。

 嗚咽を押しとどめながら、少年は訊ねた。

「寂しかったの?」

「それも時々訊かれた」

「ルルゥは何て答えたの」

「『寂しいって何だ?』って言った」

「ちゃんと答えてくれる人はいた?」

「『大好きな人に会えなくなって独りぼっちだと感じるときの気持ち』だってよ……やっぱわかんねえ」

 

――僕にはわかる。

――彼らは君に拠りどころを求め、君にも自分の不在に寂しがって欲しかったんだ。

 

「ルルゥはずっとそばにいてくれる誰かが欲しくないの?」

「……わかんねえ。どうせすぐいなくなるし。お前らは私と違う」

 水のように、手の内にあるかと思えばすぐに零れ、流れ出ていくもの。

 彼はルルゥのことをそう思っていた。

 

――ルルゥも、僕のことを、僕らのことを、いや森羅万象全てをそう思っているのかもしれない。

 

「もし、僕がいなくならずにずっと一緒にいたらどうする?」

 ルルゥのひんやりとしたキャラメル色の身体を幼稚な性急さで揺すり立てながらヴォルフリートは訊いた。

「……もう他のやつとこんなことしたりしない?」

 浅い息の下、詰るように問われ、今の自分の状況にもヴォルフリートの思いにも特段何の感慨も抱いていなさそうだったルルゥは少し考え込んだ。

「そうだな……毎日オルガンを弾いてくれるなら、多分」

「多分じゃ嫌だ」

 激しい所有欲。

 自分の中での唯一無二の存在にとって、自分も等しく唯一無二でありたいと願う心。

 それが自分の中で爆ぜる。

 ルルゥはじっとその表情を見上げていたが、終わったと見るや実体を失くしふわりとヴォルフリートの身体の下から影のように抜け出した。

 組み敷いていたものを突如失って床に這いつくばっている彼にルルゥは乱れた着衣で背を向けたまま、初めて人に似た感情を滲ませた声で言った。

「私は、いったい何なのか、どうして生まれて、いつまで生きるのか……」

 ルルゥは少しうなだれた。

「人に触れたことで……何も考えなかった私が、なんかこう……ああ、わからねえ……何ていうんだろう。けど時々人の声が聞きてえんだ。なんだろうな、この感じ……」

 目の前でルルゥの後ろ姿は実体を失くして大気に混じり、煙がくゆるように消えた。ヴォルフリートの手に絡みついていた数十条の黒髪も一瞬光った後、熱もなく虚空に溶けて行った。

「……」

 我知らず、ヴォルフリートは唇を強く噛みしめていた。

 口元から赤いものが滴り、床に落ちる。

 朽ちかけた木の床に落ちたそれは、土埃にまぶされて丸く滴のかたちを保っていた。

 ぼんやりとそれを見つけていると、奇妙なことに、それはちりちりと青く光を放ち始める。

 

 ルルゥに出会いさえしなければ信じることもなかったが、ここは常世の住人の存在する地。

 ここでは、生きているただの人間たる自分より、自分の身体から迸り出た生命力の象徴のほうが呪術的な強い意味を持つようだ。

 微かな光を見つめながら、少年はある決意をした。

 

 どうせ僕の目の前には濁った色に満ちた、誰も僕を愛してくれない世界が広がっているだけだ。

 ルルゥの周りに極彩色の光が溢れ、そこだけ世界は美しい。

 そこにいられるなら僕は何でもする。

 もう僕は、他に何もいらない。

 僕が、僕自身であることさえも。

​のちのはじまり

 世界は眩しい。そして乳白色に霞んでいる。

 美しいという意味では全くない。

 眩しくて、目をまともに開けられない。

 黒板の字が見えにくい。いつも教室の最前列の席に座っているのに、霞んだようになってやはり見えない。

 

 シーナは半年前、小児白内障の診断を受けていた。進行性で、このまま数年も経てば、失明状態とまではいかなくともかなりそれに近い状態になる可能性があると言われ来月手術することが決まっている。

 小柄な体に見事な色素の薄いブロンド。零れるほどに大きな青い瞳。親の趣味で着せられているひらひらと可愛らしい服。

 本当に彼女は愛らしく、まるで子役タレントだった。

 そこへ、まるで不似合いな視力矯正レンズの嵌った眼鏡をかけている。

 それが悪童どもの恰好のからかいの的になっており、よく奪われては壊されたり隠されたりする。今かけているこの眼鏡で5代目だった。

 好意的に接してくれるクラスメイトも幼稚なモラル臭さを滲ませており、却って自分が異質の存在だと言い聞かされているような気になる。

 しかし、それでも誰にも顧みられなくなるのよりはましだった。

 犬猫シェルターやケアハウスでのボランティアに精を出し、教師を積極的に手伝い、低学年の子供たちにも我慢強く優しく接する。だから教師たちには「いい子」と思われているが、本当の自分はいい子でも何でもない。教師たちに可愛がられることによってクラスメイト達に一目置かれたかっただけだ。

 ゲザムトシューレ(中等教育の総合制学校)3年の11、12歳ともなれば、惚れたのはれたの、早熟な子供たちのえげつないジョークなども出てきはじめるが、人形のように愛らしいにもかかわらず所作も表情もどこか作り物めいたシーナに「不気味の谷」めいたものを感じ、恋愛どころか親愛の情で近づいてくる子どもすらいなかった。

 

「おい、この学校の裏の森ん中に古い給水塔があるだろ? 昔、あそこでギムナジウムの男子が自殺してたんだって? 行ってみようぜ」

「やだ。あそこ出るんでしょ?」

「あそこに行ったやつ、よく目がおかしくなるっていうよね」

「悪魔祓いが何人も逃げ帰ったって聞いたよ」

「そうだ、シーナ連れていくといい!どうせあいつろくに見えてねえんだろ? 目がどうこうなったって今更平気じゃね? あいつ先頭にしようぜ」

目が悪いせいか、耳はよく聞こえる。

 

――だけど……そうね、今更平気かも知れない。

――こんなことでもないと誰も、私を名指しで誘ってくれたりしないもの。

 

 こんな言われ様でも、人とのつながりをほんの少し期待している自分が悲しかった。

「おい、シーナ、放課後俺たちと遊ぼうぜ」

「でも、おかあさんが迎えに来るから……」

「お前の母ちゃん来るの、6時じゃん。それまでいいだろ?」

「でもわたし、それまでスミス先生の手伝いを……」

「先生に約束したわけじゃないんでしょ?あたしたちと遊ぼうよ。手ぇ引いてあげるわよ」

「……うん、わかった」

 

 初夏の太陽は斜めに翳りはじめている。

 橅や楢の茂る森を、クラスメイトに手を引かれて緩やかな斜面を歩く。

 切り株に足をとられて、一番太った東洋系の男子が転んだ。

 ここの楢は時々伐採され、林床を整備した後また楢の幼木が植えられる。楢はいいブランデーの樽になる。地元の名前を冠した杏のブランデーは生産量こそ少ないものの人気があり、この町の名産品だ。学校でのバザーに、古くなった樽やその端材で作った小さなコンテナやキャビネットなどが時々登場する。

 はしゃいでいた子どもたちはだんだん言葉少なになり、足音と葉擦れの音、子どもの喉笛から漏れる、上り斜面にはずんだ呼吸だけが聞こえている。

「あ……」

 頂上にほど近いところで、シーナの手を引いていた大柄な女子が小さく声を上げた。

 鉄条網を絡ませた柵が、行く手を阻んでいる。

 その向こうは木々もなく、シダや柔らかい緑の苔に覆われた平地になっていた。ここが頂きなのだろう。

 そしてそこに、百数十年前に建てられたという小さな石造りの給水塔が立っていた。

 見た目の美しさなど全く頓着されない、ただ石を積んで作った武骨な塔。

 塔というより、三階建て程度の細長い納屋のようだった。

 しかしやはり近代の鉄材を組んで作った水槽のみのものよりは古風な趣がある。

 昔、この近くに蒸気機関車の鉄路を通す計画があり、そのために作られたものだというが隣町が鉄道駅を強引に招致したため工事ルートは変更され、この給水塔だけが無計画の象徴のように残ってしまった。

 世界の大半を敵に回した戦争が終わった頃に、一度も使われなかったこの給水塔を戦地帰りの男が買い取って、別荘のように使って園芸を楽しんでいたというが、今は荒れ放題だ。

「いい匂いがするわ。何か花が咲いてるの?」

 帰化植物のスイカズラが、塔に這い上がり金色と銀色の花を咲かせている。

 初夏の生命力に溢れた空気にその甘い香りが混じっていた。

「ここ、くぐれそうだぜ」

 首領格の、砂色の髪をした男子が言った。

 次々と子ども達は鉄の棘だらけの柵をくぐり抜ける。

 シーナも懸命に身を屈めたが、やはりスカートが少し裂けてしまった。

 

――おかあさん、怒るだろうな。

 

 急にどす黒く曇り始めた空の下、子ども達はそろそろと塔へ向かって歩く。

 シーナが沈黙を破った。

「何か光ってる……」

 彼女の白く濁った目が草地の上に何かを視ている。

「ここ全部、何か光る線みたいなので丸く囲まれてるわ。ほら」

 

――何なのかしら、この模様……

 

 地を指して、大きく弧を描くシーナの指先に子ども達は顔を見合わせた。

 彼らにはそれらしきものは何も見えていない。

「嘘ついてんじゃねえよ」

 そのシーナにしか視えない光る線の上に被さるシダを、赤い巻き毛の男子が足で蹴りのけようとしたとき、さらにシーナが言った。

「ね、聞こえない? オルガンの音がするわ」

「……お前、聞こえるか」

「え?」

「何も聞こえねえよ」

 子ども達は口々に訊ねあい、シーナ以外の誰もその音を聞いていないことを確かめた。

「シーナ、俺たちを怖がらせようとしてんのか?」

「嘘じゃないよ!」

 艶のない、朴訥な古い楽器の響き。

 前奏部分が終わったところで、女の声がオルガンの音にすっと乗った。

「誰か歌ってる……聞いたことがあるわ。ああ、何ていう歌だったかなあ」

 歌詞はなく、ただ母音のスキャットが続いている。

 声楽など何も学んでいない風の歌い方だったが、その声は抗いがたい魅力に溢れ、そっと心の奥に触れるような懐かしさ、優しさがあった。

 まるでローレライの歌を聞いてしまったかのように、どうしても声の主に会いたいという思いを掻きたてられる。

「嘘だよね? 何も聞こえないわよ」

「俺も聞こえねえ」

「黙って!」

 鋭い声に、子ども達はシーナを慄く眼差しで見つめた。

 口を小さく開けてうっとりした表情を浮かべ、何かに憑かれたようにシーナはふらふらと塔の扉へ向かって歩き出した。

「シーナ!!」

「ろくに見えてないくせに! 危ねえぞ!」

 慌てて彼女を追おうとした砂色の髪の少年が不意に立ち止まった。

「おい……なんか……目が……」

 痛みも何もなく、突然それは起こった。

 本来ならば見えているはずの場所が見えない。

 白くぼやけているわけでも黒く抜けているわけでもない。ただ、「見えない」としか表現できない。

 視界に、見えない個所が虫食いのように発生している…視野欠損の症状だった。

 赤毛のファニーフェイスも、ころころと太った子どもも、流行りの服に血道を上げている少女も、申し合わせたように顔を見合わせた。

 彼らがそこに見たのは顔を引き攣らせたお互いの顔だったが、ひどく歪んで見えているのは恐怖のせいだけではない。

 視野の欠けた場所に、シーナが指していた青く光る線が浮き上がった。

 突如現れた明らかな異変に、視える世界しか知らなかった子どもたちはパニックになり、一人が倒けつ転びつ駆け出すと皆それを追った。

 

 クラスメイト達に起きた異変も知らず、扉を開けたシーナは、ふと眼鏡を外した。そしてまたつける。それを数回繰り返し、最後にそれをポケットにしまった。

 シーナは驚いていた。

 

――どうして、こんなにはっきり見えるの?

 

 塔の一階の小さな部屋。

 扉の脇から壁に沿って作られた螺旋状の階段。

 ところどころ腐ってささくれた木の床。

 小さな窓にかかる日焼けしたカーテンの破れ目から真っ直ぐ注ぐ光。

 使い込まれたアンバー色の古い丸椅子。

 背の高い書棚に並ぶ朽ちかけた本。

 ビール瓶を運ぶ木のコンテナを並べて作った粗末なベッド。

 そして、黄ばむのを通り越し、白鍵が茶色くなっている古いウォルナット色のリードオルガン。

 ストップ(音色を変えるつまみ)がついていない廉価な普及品で、響孔板に張られた目の粗い布が破れている。

 ピアノに比べればまだ、オルガンは解体して運びやすい。きっとそうして、この山の中に持ち込まれたのだろう。

 

 時が止まったような濃密な重い空気と奇妙な閉塞感の中で、今までになく澄んだ視野をそこここに向けていたシーナは徐々に眩暈と頭痛を感じ始めた。

 慣れていない視覚、その像を結ぶための感覚野を突如使い始めたことによるものだ。

 少女は部屋の中央に転がった丸椅子を起こしてふうっと埃を吹き払い、強度を軽く確かめるとその上に座りこめかみを押さえた。

「頭、痛い……」

 シーナが小さく呟くと、女の声がした。

「おいちび」

 慌てて立ち上がるその目の前に、ふわりと発光する背の高い女の姿があった。

 悪意は感じない。それどころか面白そうに笑っている。

「ふーん……」

 女はシーナの顔を見つめて小首をかしげると、つと手を伸ばしてシーナの額に手を当てた。

 体温らしい体温のない冷たい手。なのに何か温かい波動のようなものが頭蓋に響く。

 その瞬間、痛みがすっと溶けていくのを碧眼の少女は感じた。

 

――わたしに何をしたんだろう、この人……

 

 女は手を離すと獣のような尖った歯をぞろりと見せてまた笑った。

「あの……勝手に入ってごめんなさい。学校のみんなに、ここに何かいるから行ってみようって誘われて……」

 女はまだにやにや笑っている。

「そいつらは?」

「えっと、外でわたしを待ってる……多分」

 シーナの青い目を、金色の目が楽しげに覗き込んだ。

「……怒らないの?」

「おう」

 女は遠慮なしにシーナの金色の髪に指を通すと、くしゃくしゃと掻き回し始めた。否応のない馴れ馴れしさに一瞬身を固くしたが、不思議とすぐに気にならなくなった。

「……いい匂いすんなぁお前」

 

――この人の手、気持ちいい…

 

「……あの……えっと……私はシーナ・マルフィっていうの。あなたは?」

 女はルルゥ、と名乗った。

 姓は?と尋ねるとルルゥはよくわからないような表情を浮かべ、シーナは深くは訊かないことにした。

「……ルルゥはここに住んでるの?」

 シーナが訊ねた。

「うん、ここに居る」

「さっき、歌ってたのはあなたなの?」

「ん」

「あなたの歌、なんだかすごく好き」

「……」

 頭痛も消え、ルルゥの穏やかな様子に少し余裕が出たシーナは、古びたオルガンの前に立った。

「これ弾いてたのはルルゥ?」

「違う」

「ね、少しだけ弾いてみていい?」

「やめとけ」

 ルルゥは笑顔を引っ込め、少し暗い顔をした。

「これはヴォルさんのだ」

「え」

「うん、僕のだ。触らないで」

 螺旋階段の下、異様に濃く翳っている場所から、若い男の声がする。

「君のお友達はもうみんな帰ったよ」

 大人しそうだが人を近づけない雰囲気のある黒い髪の少年がゆらりと現れた。

 年の頃はシーナよりも2、3歳年長に見えるが、身体だけはもうその辺りの大人と変わらず、ルルゥよりも長身だった。

「??」

 シーナは目を擦った。この少年の輪郭全体に暗くぼやけた、陽炎のような揺らぎが見える。

 光を纏ってくっきりと鮮やかな女とは対照的だった。

「こんにちは……あの、わたしシーナ・マル……」

「聞いてたよ」

 少年は自身から名乗るそぶりも見せず、取りつく島もない。

「……みんな……帰ったってほんと?」

「うん。君を見捨てて」

 棘のある口調だった。

「わたし、一人で帰れないのに……どうしよう……」

 黒髪の少年はそのシーナの言葉に無意識に表れた、相手の助力の申し出を待ち受けるあざとさに眉をひそめた。

「帰れるよ」

「だってわたし、目が悪くて……ここに来たのだってみんなに手を引いてもらって……」

「この森が途切れるところまでは見えるように『してあげる』。そこまで行けば大丈夫だろ?」

「ヴォルさん、シーナに意地悪言うな」

 ルルゥが少年に声をかけた。

「このガキは、人の居場所に勝手に入り込んできたんだよ? 怒ってもいいじゃないか」

「お前だってガキのくせに」

「僕はもうガキじゃないって何度言えば」

「あの……ヴォルさん……勝手に入ってごめんなさい」

 シーナは耳から入った相手の名前を口にし、おずおずと謝罪した。

 

――そうよ、この人の反応が正常。

――ルルゥのほうが普通じゃないんだ。

――わたしだって誰かが勝手に家に入ってきたらすごく嫌だもの。

 

「僕はヴォルフリート。僕を『ヴォルさん』なんて呼んだら許さない」

 シーナの謝罪はかえって彼の機嫌を損ねたらしい。

 彼の輪郭をぼかしている暗いゆらめきが一瞬シーナの目の前に伸びた。

「止めろ!」

 シーナは不意にルルゥに抱きしめられ、驚いてルルゥの顔を見上げた。

 彼女はシーナを抱いたままヴォルフリートを睨んでいる。

 ヴォルフリートに視線を移すと、彼は驚愕に顔を歪めていた。

 初めて見るルルゥの怒りの表情にヴォルフリートは押し殺したような声を上げた。

「どうして…?どうしてそんな怖い顔するんだよ」

「今お前こいつに何しようとした?!」

「……」

 ヴォルフリートはルルゥにしっかり抱かれ何が何だかわからない様子のシーナに視線を移した。

歪んでいた顔がみるみる無表情に戻る。不穏な、黒々とした双眸にシーナは思った。

 

――この人、やっぱり怒ってる。

 

 シーナは心の中ではっきりとこの二人を優しい人、怖い人とカテゴライズした。

 ヴォルフリートの視線など意に介さず、ルルゥは腕の中のシーナの髪をいじり始めた。

 

――この人に抱かれてると何だか……何だろう、懐かしいような気がする

――怖いほどに。

 

 じっと黙って抱かれていることにふと危うさを覚え、意識を逸らすようにシーナはルルゥに訊ねた。

「ねえ、あなたたちはいくつなの?」

「……いくつって??」

 ルルゥは少し訝しげに眉を顰め、ちらりとヴォルフリートを見た。ヴォルフリートはルルゥに微笑んで見せた。

「君には僕らがいくつに見える?」

 シーナは考え込んだ。

 ルルゥは大人になりたてくらいに見える。だけど分別というものがシーナと同じ程度、いや、それより幼いように感じた。ひょっとしたら、器質的な障害があるのだろうか?

 そしてそのそばにいるヴォルフリートはルルゥより少し大きい。そしてルルゥのことばかりに気にかけている。

 姿かたちには少年の伸びやかさがあるが、やたらと暗く、話しかけづらい。育ちの良さそうな温和な言葉の端々に棘を感じる。時々、無表情にシーナを見つめている真っ黒な瞳が、数々の死骸を呑みこんで奈落の底まで続くタールピットのように不気味だ。

「ルルゥは20歳くらい?ヴォルフリートは15歳くらいかな」

 再びルルゥはぼんやりとヴォルフリートに視線を投げ、ヴォルフリートは可笑しそうに笑った。

 どうも彼の笑顔は、明るくない。何かいつも翳にいるように見える。

「外れた?」

「……まあ、君のいう通りってところだね」

「ねえ、あなたたちは一緒に暮らしてるの?」

「そうだよ」

「あなたたちって、姉弟なの?」

 顔だちはまったく似ていないが、この二人は黒髪に長身、肌の色など共通点がある。

「違うね。僕らは……」

 ヴォルフリートがふと言い淀んだ。

 ルルゥは少年に構わず、全く会話の流れを読んでいないうきうきとした口調で腕の中にいる金髪の少女に言った。

「なあ、私と遊ぼうぜ」

 その時、ピピピ…と小さな電子音が響いた。

 シーナは慌てて、ポケットから小さなピンク色のウサギのかたちをしたデジタル時計を引っぱり出した。

「あ……もう帰らないと。おかあさんが迎えに来るの……」

「じゃあ、また遊びに来い。歌ってやる」

「でも……迷惑じゃないかな」

 シーナはヴォルフリートの眼差しに居心地悪さを感じていた。

「私はお前とまた話したい。遊びたい」

 ルルゥは空中に片手を伸ばしくるくると手で何かを丸める動作を始めた。ルルゥの金色の虹彩が赤く輝き、その掌が小さな光に照らされる。

「え?手品?」

「これ、やる」

 それは水晶が直角に近い角度で交わって成長した小さな双晶だった。傷一つなく透明に澄んでいる。

シーナはこのちょっとした贈り物を掌に握りしめた。

「きれい。ありがとう」

「それ、大事にずっと持ってるんだぞ」

 

 あの少年の言った通り、森から出るところまでは眼鏡なしでもくっきりと見えた。

 見えるというだけでこんなに歩くことが簡単だということをシーナはここ数年で忘れていた。

 ところが森から出て校舎の裏手に辿り着いた途端世界は再び白く濁ってしまう。

 シーナは落胆した。

 知らなければ欲することのなかった世界に、シーナは触れてしまった。

 

 クラスメイト達の視野欠損は集団ヒステリーのようなものだったのか、一週間ほどで癒えた。

 しかし、彼らは二度とシーナに話しかけることはなかった。

 話しかけるどころか彼女の姿を目にすることさえ恐怖し、同じ教室にいることを拒否して異例のクラス替えが行われた。錯乱状態からなかなか抜け出せず転校して行ったものもいた。

 そんな彼らの姿に、生徒どころか教師にさえシーナを何となく避け始めるものも出始めた。

 

――あの子、なんか変な光るものがくっついてる!

​おわりのまえぶれ

*

「ほら、これ!」

 シーナは放課後母親が車で迎えに来るまでの間、ほぼ毎日塔に通うようになった。

「おかあさんに作ってもらったの」

 手芸用の銀色のワイヤーで小さな鳥籠を作り、その中にあの日もらった双晶を納めて仕立てたペンダントをシーナはルルゥに見せた。

「よかったな」

 ルルゥはこの少女が「おかあさん」の話をするたび何かちくりと胸の奥に小さなとげが刺さるような痛みを感じる。

 それが何故だかわからない。

「なぁ、木苺食うか?」

「うん」

 シーナは学校で黙っていた分を取り戻すように、少女の高い声で囀るように話す。

「昨日持って帰った木苺ね、『大きくてきれい』っておかあさんすごくびっくりしてた。タルトにしてくれたんだよ」

「タルト?」

「ああ、持ってくればよかった!おかあさんのタルトすごくおいしいの」

 壁の螺旋階段に、相変わらず無愛想にヴォルフリートが座っている。しかし、ルルゥがあいつはほっといても大丈夫だと言い、彼も何かしてくる気配を見せないので、シーナは彼のことは気になりつつ無視することにしていた。

 先日シーナが口うるさい奥方気取りで埃まみれだった部屋を掃除したので、部屋は何とか小ざっぱりとしている。

 その床の上に座って二人はゴップ(二人向けトランプゲームの一種)をプレイしていた。

 シーナは次々にダイヤのカードを巻き上げつつ、時々弱いカードを出してルルゥにも勝たせてやる。

 数の概念もあやふやで勝負への欲というものも希薄なルルゥは、ダイヤのA(ゴップにおける最弱カード)を掴まされても、手元のカードが増えることを単純に喜んでいた。

 シーナは言った。

「ねえ、ここに来る途中で『魔女の輪』を見たんだけどあれほんとに魔女が作るの?」

「違う。あいつらはああいうかたちを作りたい生きものだ」

「あいつらって魔女? 妖精?」

「キノコ」

 その単純で当たり前にもほどがある答えにシーナが笑い転げ、何が可笑しいのかわかっていないルルゥも笑う。

「じゃあさ、ここの周りにある青い線の輪っかって何なの?」

「あれは、『びりびり』だ」

 ルルゥは奇妙な幼児語を口にした。

「びりびり?」

「私はあれに触るとびりびりする。あの外には出られない」

「どうしてびりびりするの? あれは何?」

「わからねえ。寝て……目が覚めたらあった」

「へぇ……ルルゥが寝てるうちに誰かが勝手に描いたの?」

 

――私が寝てるうち?

――そうだ、寝るって?寝るって何だ?

――そもそもあのときの他に眠ったことはあるのか?

――私は『眠らないもの』じゃなかったのか?

 

「……ねえ、あの線の上を通れればルルゥも私の家に遊びに来たり一緒に公園に行ったりできるの?」

 無邪気なシーナの問いには答えず、ルルゥは階段に腰かけてぼろぼろの本を読んでいるヴォルフリートに歩み寄って行って訊ねた。

「ヴォルさん、あの『びりびり』は何だ? お前は知ってるよな?」

「『びりびり』は『びりびり』だよ」

「どうしてお前だけ『びりびり』を通れる?」

「……」

 やっとヴォルフリートは本から顔を上げルルゥを見た。

「『びりびり』ができてから、何でヴォルさんはずっとここにいるんだ」

「……」

「どうしてヴォルさんは何も教えてくれねえんだ」

 ヴォルフリートが何か言いたそうにルルゥをじっと見つめた。

 ルルゥは彼を睨んでいる。

 シーナは慌てて、道化じみた弾んだ声で場を和ませようとした。

「……ね、わたし全然びりびりしないで通れるよ!私が手を引けば、通れるかも!」

 時折この二人に訪れる張り詰めた雰囲気。

 そんなときいつもシーナは努めて明るく振舞う。

「……ねえ、大丈夫! 私と一緒なら通れるよ。ねえ、やってみよ?」

 シーナはルルゥの手を掴もうとしたがその小さな白い手はすいっと空を切った。

 

――え?!

 

 もう一度、今度はルルゥの肩に触れようとしたがやはりそこには実体がない。

 初めての現象に愕然とするシーナにヴォルフリートが言った。

「シーナ、わかったろ。ルルゥは人じゃないんだから常識は通用しないよ」

 ヴォルフリートを睨んでいたルルゥは我に返った様子でシーナとヴォルフリートを交互に見た。精一杯その頭の中で言葉を探していた様子だったが、無言で俯く。その顔にはらりと黒髪がかかり、翳を作った。

 ヴォルフリートはそのルルゥに追い打ちをかけるように言う。

「シーナの前では人のふりなんかして、何考えてるのさ。おかしいよルルゥ」

 ぱたんと本を閉じ、立ち上がったヴォルフリートはルルゥに手を伸ばした。

「シーナ、僕らが人じゃないっていうのはわかってるんだろ?」

 彼はルルゥの腕を強く引き、己が胸に引き寄せて抱き締めた。

「なぁシーナ……あのな……私は」

 片手で肉の薄い顎を捉えると、少年はシーナに何事か語りかけようとするルルゥの唇を己が唇で塞いだ。

 湿った音を立てて口の内を蹂躙されつつ、ルルゥは横目でシーナを見、まだ何か言おうとしている。

「……ん……んんん………んんぅ……」

 

――嫌だ……

――何でそんな汚いことをするの?

 

 凍りついたように立ち竦んで、二人を見つめているシーナに、口元を唾液で濡らしたヴォルフリートが言った。

「シーナ、君が来るのは迷惑だ。ここにはもう来ないでくれ」

 その言葉が終わらぬうちにルルゥもこの状況を把握しているのか甚だ怪しい、白痴めいた声を上げた。

「シーナ、また来て遊んでくれ……掃除もしとくし……トランプまたやろう! なぁ!」

「黙って!」

 ヴォルフリートが再びルルゥの唇を貪るように接吻るのを見て、何か下腹の奥にぞくりとするものを感じながらシーナは逃げるようにその場を後にした。

 

 シーナの後を追おうとするルルゥを、ヴォルフリートは必死に抱き止めた。

 在るものをただ在るものとして淡々と受け容れてきたルルゥ。

 なのに、シーナがそばにいるときだけ、ほんの少し頭が冴えるらしく様々な事象の因果関係を知りたがり意思のようなものを見せるようになった。

 シーナが来ると、ルルゥは不必要に彼女の近くに寄り、撫で回し、抱き締める。

 帰るとその後ろ姿をいつまでも見つめる。

 そして、ヴォルフリートに対して敵意を見せる。

 シーナが帰ってしばらくするといつものように、『びりびり』と呼ぶものの中を不思議そうにうろうろと歩き回り、ちょっと触れてみては「びりびりだー」と笑い、ヴォルフリートにも屈託なく接する。

 何故ルルゥにとってシーナが特別なのかヴォルフリートにはわからない。

 そうやってわからないなりに、彼はシーナを憎悪した。

 

――ルルゥが可愛がってさえいなければあんなちびなんかとっくの昔に……

 

 窓からの視線を感じながら、ヴォルフリートはやっと大人しくなったルルゥを簡素なベッドに組み敷いた。

 

 それから一週間、シーナは塔を訪れなかった。

 窓から見てしまった光景が脳裏から離れない。思い出すだけで鳥肌が立つ。

 人ではない、という現実離れした事実は、ルルゥがまだ子供の姿をしたヴォルフリートとインモラルな関係にあるという現実的な禁忌の感覚と生理的嫌悪感の前にかき消されてしまう。

 その関係というのも、知的に少々問題があるルルゥを図体ばかりでかい「ませガキ」のヴォルフリートが好いようにしているだけにしか見えなかった。

 そのことをできるだけ意識に上られないようにしながら、シーナはルルゥの手の優しさを思い出す。

 ルルゥに話を聞いてほしい。撫でてほしい。

 ひょっとすると、ルルゥのいる森では病んだ目が機能を取り戻すという事象とパブロフの犬のようにセットになって、余計慕わしく思えるのかもしれない。

 しかしルルゥの傍らにはいつも陰鬱な顔をしたヴォルフリートがいる。

 まだ子供のくせにルルゥにいやらしく触れ、シーナには憎悪に満ちた眼差しを向ける気味の悪いヴォルフリートが。

 彼には、もう来るな、とはっきり言われた。

 しかし、シーナはルルゥにどうしても会いたかった。

 

――もうすぐ夏休みだし……それに……

――忘れてきたトランプをとりに行くくらい、いいよね?

 

 久しぶりに森へ入って眼鏡を外し、緑の匂いの小道を延々と踏みしめて鉄条網をくぐると、突然シーナはルルゥに抱きかかえられた。

あの『びりびり』の縁までルルゥが出てきている。

「シーナ! どうして来なかったんだ」

 人ではないということを知ってみれば、確かにルルゥの腕の中は人間の持つ温かさも、生きものなら多少はあるはずの生臭さもない。

「あ……だってヴォルフリートが……」

「今ヴォルさんはいねえよ。あいつ時々、飯食いに行くんだ」

 ルルゥは嬉しそうだった。シーナを抱えてくるんと回る。

 シーナはほっと息をつくと、ルルゥの胸にそっと頭を凭せ掛けた。

 肉は薄いがやはり柔らかい胸。

 心音は、しなかった。

「ルルゥは食べに行かないの?」

「私は食い物は要らねえんだ」

 予想はしていたが、はっきり言われるとどきりとする。

 ルルゥの身体に自分の小さな身体を添わせ、シーナはすとんと地に降りた。

「へええ…ヴォルフリートってご飯食べるんだ」

「ヴォルさんは食事に行くっつうから、多分食うんじゃねえかな」

「あの人、どんなの食べるのかな」

 さあな、と興味無さげに答えた後、ルルゥはにかっと笑った。

「なあ、天気いいし、てっぺん行こうぜ」

「てっぺん?」

「これのてっぺん」

 ルルゥは塔の頂を指差した。

 

 塔の螺旋階段をぐるぐると登ると給水塔として巨大な水槽が収められているスペースがある。

 一度も水を満たさないまま使われることのなかったブリキの水槽の横の狭い通路を抜け、壁に打ちこまれた金属の足場を上ると屋上に出た。

「う……わあ……!」

 そこには、木々に阻まれて見えなかった景色が広がっていた。

 シーナの通うゲザムトシューレの校舎も、杏畑も、遥か西側のシーナの家のある辺りもジオラマのように見えた。

 そしてその反対側には木々も動物たちも命を謳歌している、夏の原生林が繁る。

 この塔の周りの森には人の手が入っている。いわばここは里山と呼ばれる区域で、人と森の境界が重なり合った場所だ。

 町には町の、この森にはこの森の、原生林には原生林の美しさがあった。

「きれいね」

 シーナは食い入るようにこの景色を見つめ、この光景を網膜に焼き付けようとしていた。

 この風景は一生忘れないだろう、とシーナは思う。

 シーナの感慨をよそに、ルルゥは空に手を伸ばした。

 ルルゥの上に影が差し、羽音を立てながら一羽の大きな鴉がその手首に舞い降りる。

 鴉は口に咥えていたものをルルゥの手にぽとんと落とすと、ルルゥを見つめて体を低くし賢しげにカァと鳴いた。

「ありがとな」

 細長い指がそっと胸元を撫で上げると、もう一度カ……と短く鳴き鴉は力強く羽ばたいて飛び去った。

「今、どうやったの?ねぇ」

「ん…くれっつったらくれた」

「ルルゥ、すごい!」

 ルルゥはにっと笑って掌に残ったものを摘み上げた。

「ほら、これ。もらった。お前にやる」

 ルルゥがシーナの手にのせたのは、安っぽく光るガラスの飾り玉だった。

「人間ってすげえな。こういうの作れるって」

 ルルゥはしきりと感心している。

 そのルルゥを見ていると、シーナは目の前がぼやけてきた。胸に何かが詰まったように息が苦しくなる。

「わたしね、明日手術なの」

「シュジュツ?」

「私の目ね、このままだと見えなくなっちゃうの。だから目の中にある悪いところをお医者さんにとってもらうの」

 これは幾度となく話してきたことだった。そしてルルゥの反応もいつも同じだった。

「……人間すげえ……」

 ルルゥは感嘆の声を上げる。

 だが、シーナの大きな青い目の縁からはぽろぽろと、幾筋も涙が落ちる。

「簡単な手術で、寝てるうちにすぐ終わるんだって。失敗する事ってあんまりないんだって」

「……」

「でもね、ほんの少しなんだけどその手術で本当に目が見えなくなる人もいるって」

 目は、体表から視認できる脳の一部と言ってもいい。

 そこに傷を入れられることに怯えるのは当然だ。

 手術で、シーナの眼の水晶体は掻把される。水晶体のない目というもの自体が想像できない。

 さらに除去された水晶体のあったところへ入れられる眼内レンズは、小児向けの最新式だが、やはり成長につれて入れ替える手術が必要だ。

 慣れる、怖くない、すぐ終わると誰もが言うが、そのたびにこんな恐怖を味わうのかと思うとシーナは胸が潰れる思いだった。

「……」

「ルルゥ……こわいよ。明日なんか来なきゃいいのに」

 シーナはガラス玉を握り締めしゃくりあげ始めた。

「わたしが……こわいっていったら……おかあさんは大丈夫っていうけど、……最近おかあさんね、私が怖いって言うと泣きそうな顔するの。おかあさんもこわがってるの。だからこわいって言えないよ」

 彼女は小さな身体でルルゥの身体にしがみついた。

「こわいよ! こわいよルルゥ! 手術なんかしたくないよ! こわいよ」

 ルルゥはシーナの身体にしっかりと細く骨ばった腕を回し、金色の頭を撫でた。

「そうか……」

 

――この小さな子の恐怖し悲しむ姿に身体の奥から衝き上がる焦り。

――人でも、生きものですらない私が初めて感じるもの。

 

 ふとルルゥは、雪の降りしきるある朝の光景が目の前に浮かんだ。

 太古の昔、人間が毛皮を纏い石の武器を持って野山を駆け巡っていたころの記憶。

 

――何故今思い出す?

 

 ちょうどここで、若い女が抵抗もせずに男どもに殺されて切り刻まれていった。

 それは、ルルゥにとって何の意味もない光景のはずだったが、なぜか立ち去り難い、興味のようなものを抱いた。

 生きものであれば、生きていることに執着し、足掻き、今わの際まで死と闘う。

 何もかも納得ずくで自ら死んでいくとは、人間とはなんと奇妙なものだろう。

 その骸のそこここに触れてみている間に、何の感情も持たないただ『そこに在るもの』だったルルゥは、死んだ女のかたちをなぞり今の姿となった。

 

――何だ、この感じは……

 

「シーナ、今日からここに住め。帰るな」

「……」

「ここにいればずっと目が視える。シュジュツなんかしなくてもいい」

「……」

「なぁ、そうしろ。それがいい」

「……ありがとうルルゥ」

ルルゥの腹に顔を埋めて、シーナが涙に潤む声で言う。

「……でも、だめだよ。わたし、おかあさん大好きだもん」

「……」

「…ごめんね。わたしあなたが好き。ここにいられれば最高だと思う」

「……」

「でも、おかあさんはわたしのおかあさんなの。おかあさんのいる場所が私のいる場所なの」

 

――そうだ、私は今『おかあさん』ではない。

――私はこの子に何の繋がりもない。

――それで?

――だから?

――どうしてこんな気持ちになる?

 

 ルルゥは生まれて初めて、目から水が出る現象を経験していた。

 彼女自身は不思議でたまらない。

 ルルゥはあの誰かの思考の残滓を姿かたちと共に取り込んでいたらしい。

 

 シーナはぽたんと半袖の腕に水滴が落ちるのを感じた。

「……ルルゥ?……」

 ルルゥが泣いている。

 顔をくしゃくしゃにして涙を零している。

「う……う……」

 

――ルルゥも泣くんだ……

――わたしが泣かせたんだ。

 

 その顔をしばらく無言で見上げているうち、シーナはしん、と心が静まっていくのを感じる。

 明日の手術への恐怖より何より、この目の前にいる、人ならぬものを悲しませてはいけない気がした。

 ルルゥのシャツで涙をふくとシーナはにっこり笑った。

「えへへ……シャツべとべとにしてごめんね」

「……」

「あのね、簡単な手術なの。虫歯削るくらいの。大騒ぎしてごめんね」

「……ほんとか」

「うん」

「……怖えんだろ?」

「こわくなくなったわけじゃないけど、大丈夫な気がしてきた」

「………私はシーナが目を切られるの、怖え」

「手術されるのはわたしだよ? ルルゥは怖がらなくても大丈夫! 全身麻酔だし寝てる間に……」

「ゼンシンマスイ?」

「えっとね、身体を切ったりするときに痛くないようにお薬で眠らせてもらえるの」

「……うう……」

 大仰に理解したらしくまた顔を歪めるルルゥにシーナは明るく大きな声を出して見せた。

「大丈夫だって!!」

 ルルゥを宥めているうちに、本当に大丈夫だという気持ちがふつふつと湧いてくる。

 大騒ぎしたつい先ほどまでの自分を笑いたいような気分だ。

「今日はルルゥに会えてよかった。なんだか元気が出てきたよ」

「……」

「……ありがとう、ルルゥ。ほんとにありがとう」

 

 そのとき、音もなく大きな人影がルルゥの背後に立った。

「ヴォルフリート!」

 まるで悪事を見つかったかのように、慌ててシーナはルルゥから離れた。

 彼はシーナを冷たく一瞥すると、ルルゥのうなじにすっと手を当てた。

「あ、ヴォルさ…?」

 ルルゥが振り向き、小さく声を上げたが、すぐにそれは途切れる。

 金色の瞳は閉じられ、彼女の体は大きく傾いだ。

「ルルゥ!」

「彼女に触るな」

 ヴォルフリートはルルゥの身体を長い腕で抱き、そっと石で組まれた塔の屋上に横たえた。

「あなた、ルルゥに何をしたの!」

 しゃがんだまましばらくルルゥの顔を見つめていたヴォルフリートはシーナに顔を向ける。

「それは僕の台詞だ」

 彼の声には憎悪が籠っていた。

「ルルゥを泣かしたね」

 ルルゥの首に当てていた彼の手に、あの塔を囲む線と同じ仄かな光が見えた。

 ルルゥに駆け寄ろうとするシーナの脚はぎくりと止まった。

「もう来るなって言ったのに」

 

 シーナといるとき、ルルゥは感情らしいものを見せる。

 彼にはそれが厭わしくてならない。

 人が当たり前に持っている意思と判断力、そして感情をルルゥが持ってしまうことをヴォルフリートは恐れていた。

 それは、ルルゥが彼を嫌悪し、忌避し、軽蔑し、そして二度と許さないことを意味する。

 ヴォルフリートは全てに寛容なルルゥでさえ蔑み許さないであろう自分の穢らしさを、知りすぎるほど知っていた。

 

「ルルゥは眠ってるだけだ。すぐ目を覚ます」

 ヴォルフリートは少し声を潜めた。

「どうして眠らせたの?」

「今から、ルルゥにはあまり見せたくないことをするから」

 夏だというのに、奇妙に冷たい風が吹きシーナの金色の髪が吹き上げられる。

 ヴォルフリートは彼女に塔の周りを見渡すよう促した。そこにはいつものように青く光る巨大な輪がある。

「ルルゥはあれを『びりびり』って呼んでるけど」

 ヴォルフリートは確かに悪意を感じる微笑を浮かべた。

「何だかわかる?」

「わからない」

「あれは魔法円だよ。魔法円って知ってる?」

「…?」

「不思議な力の干渉を遮ったり魔力のある生きものを入ってこないようにしたり、閉じ込めたりするための魔法の模様だよ。このタイプのは一度完成すると、特別な手順で破られたりしない限り永久に存在し続けるんだ」

 どのような手段を使ったのかは定かでないが、古の人間たちは常世の存在と様々な誓約を取り交わした。

 その取決めに則った幾何学図形や文字の組み合わせがある日突如出現し、ここはルルゥを囲う見えない鳥籠となった。

 普通に聞けば、笑い出したくなるような青臭いオカルティズムに満ちた言葉。

 しかし、彼らがここにいること、そしてシーナの眼に起きたことが、この馬鹿馬鹿しいものが人智の及ばぬ力を持つことを証明していた。

 ただ、シーナはヴォルフリートの言葉がどういう意味を持つのか、理解できなかった。

「それがどうしてここに?」

「ルルゥを捕まえておくために、僕が作った」

「捕まえる? ルルゥを?」

 シーナはやはり腑に落ちない表情を浮かべている。

「ルルゥは人に自由に触れられる。だけど人はルルゥが認めた時にしか触れさせてもらえない。それは知ってるよね?」

 先日、ルルゥがヴォルフリートに気をとられているときに、彼女に触れようとしてあの空を切った自分の手を思いだし、シーナは小さく頷いた。

「……うん」

「僕は自由にルルゥに触れるためだけに人間じゃないものになったよ」

 その言葉には、お前にはここまで出来まい、というひどく方向性のずれた優越感が滲んでいた。

 

ふたたびのはじまり

「どういうことなの?」

「……君、見ていたよね。この下の窓で、僕がルルゥに何をしていたか」

 身の下に、白いシャツの胸元を寛げてルルゥの乳房を吸っていた彼の姿を思い出しシーナは、顔を強ばらせた。

「ああしているときが、僕は一番幸せなんだ。何もかも忘れられる」

 うっとりと彼は続けた。

「僕は、ルルゥにいつでも自由に触れられるようになりたかった。僕を置いてどこかへ行ってほしくなかった」

 眠っているルルゥに視線を遣り、再び強張った表情のシーナを見下ろす。

「どうしても僕だけのものにしたかったんだよ。いろんな意味で」

 いつでも優しく抱き止め、襲ってくる苦しみや悲しみを鎮め、負の感情を宥めてくれる「母」として。

 自分の持つ知識に、素直に驚き喜ぶあどけなさに快さを得、自身の庇護欲を満たすための「劣る者」として。

 そして、男としての自我を受け容れさせ、自分の半身として、永劫に同じ道を歩むための「伴侶」として。

「だって僕にはもう他に誰もいなかったから」

 

――この人は、激しくルルゥを愛してるつもりなんだわ。

――でもルルゥはこの人を愛してない。

――っていうか、きっと何もわかってない。

 

 シーナは知らず知らず嫌悪感を表情に浮かべていたが、それを推してどうしても訊きたかったことをおずおずと口にした。

「ねえ…あなたたちって何なの?…幽霊?」

「僕は元人間だけど、幽霊とは少し違う」

 

 言ってもわからないだろう。

 ただ、人ならざるものに近づこうと足掻いた自分。

 多くの魂魄を呪っては手当たり次第に呑み下し、伸び行く生命から知覚を奪いその力を身のうちに取り込んで人間の霊体とは異質な何かになってしまった自分。

 それは彼の「願い」のなりふり構わぬ具象化だったが、彼にはわかっている。

 自分は幽霊などという生易しいものではない。悪霊、魔物の類だ。

 

「ルルゥは? ルルゥもあなたと同じように人間だったの?」

「違う。彼女はこの森で生まれて、人間だったことはないらしい」

 シーナは次のヴォルフリートの言葉を待ったが、彼の口から出てきたのは意外な言葉だった。

「ルルゥは、何だかわからない」

「え?」

「本当に、僕にもルルゥが何なのかわからないんだ」

「え? だって……あなたは……ルルゥと一緒にいるのに?」

 ヴォルフリートは何か甘美な台詞でも口にしているかのように目を細めた。

「僕はルルゥが何だっていいんだよ」

 本当は、彼には本能的にわかっていた。

 ルルゥは、自分のような穢れたものとは対極にある存在だと。

 

 地や、木々や、水、風、そのようなものが持っている息吹が坩堝のようにひとところに集まり、気紛れに人の姿をとったもの。

 意思らしい意思もなくただそこに存在し、古の日々に「精霊」と呼ばれたもの。

 常世の存在を許さぬ一神教が世を覆ったのちは「悪魔」「悪霊」と見なされたもの。

 自然の気の流れをあの円環で断ち切り、それでやっと、数多の人間を呪い、その生命力を奪い取った自分と力が均衡したもの。

 

 同じ「悪霊」と呼ばれるものでも、彼と彼女はまったく性質が違っていた。

 

「さて」

 剣呑なヴォルフリートの眼光にシーナは後ずさった。

「知ってると思うけど、僕は君が嫌いだ。ルルゥが少しでも触れた人間はみんな大嫌いだ」

 青く、燐光を発する真っ黒な瞳。

 この小さな少女への、狂気じみた嫉視と排除の意志。

 ヴォルフリートの腕がつとシーナに伸び、手がシーナの目に翳された。

「おこがましいんだよ! 僕のルルゥに触れようなんてさ!」

 彼は少女の顔の前で長い指をいっぱいに広げたかと思うと、ぎゅっと五本の指先を鉤のように曲げた。

 小さなシーナの顔がすっぽりと覆われそうなその大きな手の、掌の窪みから刺々しい閃光を走らせながら黒い霧のようなものが滲みだしてくる。

 シーナは自分の貧弱な体が空中に浮くのを感じた。

 支点を失った体は塔の屋上、石でできた縁から徐々に乗りだしていく。

「……やめて! やめて!!! ルルゥ! 助けて! ルルゥ!」

「うるさい」

「いやああああああ」

 支えを求め宙を泳ぐシーナの手から、ガラス玉がきらきらと光りながら塔の下へ落ちていった。

 それはこの塔の下、ここを組み上げた時に残ったと思われる石材の上に落ち、割れた。

「ルルゥ! 助けて!! ……たすけて!! おかあさん! きゃああああああああ!!!!!!!」

 身体が一切の支えを失くし血が一瞬慣性に従って重力とは逆に留まろうとする「落下」の感覚。

 胸元で何かの砕ける音を聞いた。

 その瞬間、赤い光がシーナの身体を包んだ。

 

 明るい動脈血の色。

 生命に大気の息吹を届ける神の色。

 その朱に輝く波動の奔流。

 

 温かく、優しく、まるで胎内を思わせるような柔らかさがシーナをくるみ込む。

 不思議な威厳をもって朗々と、歌うように繰り返される聞いたこともない言語。

 

――私の血 私の肉 私のただ一人の娘

 

 屋上からシーナを見下ろしていたヴォルフリートは、シーナの周りに赤く眩い光、そしてその中に少女の体を愛おしげに支える女の腕を視て、恐怖に凍りついた。

 己が身を抱くように腕をぎゅっと組み、震えながらゆっくりと振り向けば、背後に寝かせていたルルゥがいつの間にか目をかっと見開いていた。

 ルルゥの奥に転がっていた古い骸が、「おかあさん」と呼ぶ声に一万年近い時を超えてゆっくりと起きあがる。

 そこには彼の知るルルゥという意識体は存在していない。

 

 彼は、今知らず知らずのうちにこの世にある「愛」と呼ばれるもののうち最も強く厄介な部類に属すものと対峙していた。

 そしてそれは皮肉にも、彼が自分だけに向けて欲しかったものだった。

 

「かえせ」

 

 ただ一言、ルルゥの唇から言葉が発せられた。

 目の奥に閃光が走る。

 それは最初赤かったが次第に黄色味を帯びた白い光となった。

 与えられた色彩が再び奪い取られる感覚。

 どんなことをしても恬淡と笑っているのをいいことにルルゥの力を殺ぎ、弱らせ、もっともっと近くにいたいという望みを叶えたつもりになっていた彼は、ルルゥの心が今完全にシーナへ向かい、自分のもとから離れたのを彼は悟った。

「……かえせ」

 もう一度、そう言い終えるや否や、ルルゥはみるみる人のかたちを失い、醜く膨れ上がる。

 痩せぎすだが美しかったその肢体が、異形の巨大な生きものに姿を変える。

 その結膜も虹彩もない目から迸る輝き。

 人の理解を超えたところで命あるものを恣にする鋭い歯と爪。

 それはヴォルフリートに向かって塔を全体を揺るがす咆哮をあげ、その瞬間、青く光る魔法の円環の内側にあるもの総てが、まるで主に生命を捧げるように朽ち始めた。

 

 次に目を開けた時、シーナは病院のベッドの上だった。

 大きな窓にかかったブラインドから細く光が差し込む。

 時計の文字盤は6時半を指していた。

 それが朝なのか、夕方なのかシーナにはわからなかい。

 傍らには仕事帰りそのままの、化粧が剥げ疲れきった表情の母がいた。 黒っぽい画像と何か細かい数値がびっしりと記載された紙に目を落としている。

「おかあさん」

 小さく呼びかけてみると、母は手元のCT検査の結果表から目を上げ、呆けたようにシーナを見つめた。

「シーナ!」

 一瞬の後、彼女は身も世もない叫び声をあげながら、シーナを抱きしめた。

「シーナ!!!!!」

 シーナを抱いたまま、気が狂ったようにナースコールのボタンを連打する。

 母親が落ち着きを取り戻すまで、質問を待つ余裕がシーナにはあった。

「ねえ、おかあさん……今何月何日? 朝なの? 夕方なの?」

 部屋に掛け時計はあるのに、母親は慌てて何度か取り落しながら腕時計をバッグから出して、日付と時刻を言った。

「ねえ、6時半って? 朝なの? 夕方なの?」

「……朝……朝の6時半よ、シーナ」

 1日半、シーナは眠っていたということになる。

「ねえ、わたしなんでここにいるの? 森にいたと思ったんだけど」

「ええ、給水塔の下に倒れてたわよ。学校と警察に連絡して、みんなに探してもらったの。何であんなところにいたの?誰かに連れて行かれたの?」

「ううん、私が一人で遊びに行ったの」

「なんて人騒がせな子!」

 母は抱く腕に力を籠め、涙声で言った。

「でもよかった……よかったわ……目が覚めて」

 シーナは素直な気持ちで謝った。

「ごめんね」

 駆けつけてきた看護師と医師にバイタルチェックを受け、様々な口頭での問診を受ける。

 やや過保護気味の母親は代わりに答えようし、何度も医師に制止された。

「マルフィさん、今シーナに質問してるんです。彼女に答えさせてください」

「……おかあさんって、いつもこんな感じだよね」

 シーナは笑った。

 問診も終わり、母の持っていたペットボトルのミネラルウォーターを飲んで一息つく。

 そろそろ入院患者用の朝食の支度が始まったらしく、重いワゴンが通路を通る音、配膳の音、そして温めたパンの匂いがする。

「……お腹空いた」

「そういえば先生、食事のこと何も言ってなかったわね……何か食べていいか、訊いてくるわ」

 母が立ち上がった時に、膝に乗せていたハンカチが落ちた。あまり可愛くないところが可愛い、とシーナが大事にしていたアヒルの柄のハンカチだ。

「おかあさん、私のあひるさんハンカチ、また勝手に使ってたの」

「あ……」

「口紅ついちゃってるよ」

 母親は、奇跡を見る面持ちでシーナの眼を覗き込んだ。

「シーナ……あなた、……視えるの?」

「え? …あ!!!」

 シーナは今の今になって驚愕した。

 

――視える!

――眼鏡をかけてないのに!

 

 世界はもう白く濁ってはいない。

 視野いっぱい、物の輪郭も陰影もはっきりと認識できる。

 まるであの森にいるのと同じだ。

「……ねえ、私が見つかった時、近くに誰かいなかった?」

 眠っているシーナは脳や臓器、薬物の検査だけでなく、婦人科の検査も受けていた。

 その結果、自殺の可能性も少なく、他者からの「暴力」の痕跡も見当たらなかったが、それでも母は怯えを露わにした。

「誰かって? 誰かに何かされたの?」

「……ううん。違うの。誰かが私を助けてくれたんだって思って」

 そう、誰かが私を助けてくれた。

「誰もいなかったわ。きっと神様が護ってくれたのよ」

「神様…」

 シーナは寂しげに目を伏せた。

「うん、わたし、あそこで神様に会ってたんだと思う」

 ベッドサイドのキャビネットの上には、砕けてさざれ状になった双晶がごく小さな鳥籠のペンダントの中でキラキラと光っていた。

 

 様々な検査を受けても全く問題が見つからず、シーナ自身もけろりとしているため、軽い脳震盪か何かだろう、という診断で、翌々日彼女は退院できた。

 その足で母はシーナを、予約をとっていたかかりつけの眼科へ引っ張って行った。

 小児白内障の恐ろしさは、目からの映像という刺激が弱いために脳の視覚野が発達を停止してしまうところにあった。

 視覚野の発達が遅れれば、どんなに眼を弄っても失明は免れない。

 フィルムへ映像を焼き付ける機構が駄目になればどんなにカメラのレンズを交換しても写真が撮れないのと同じだ。

「この様子だとシーナは目が視える子と遜色なく発達してます。この間の検査では、ここの発達の遅れが際立っていたんですけどね」

 初老の眼科医は不思議そうに顎髭を捻り回し、いつもより少し早口で喋る。

 今までこんな事例を診たことも無ければ聞いたこともない。

 あり得ない病状の改善を目の当たりにして、自分の診立てへの自信が揺らいでいる。

 誤診ではないはずだった。様々な検査記録がそれを物語る。

 だが、このシーナの眼に起こったことには全く説明がつかない。

 シーナの青い目の真ん中に開いた瞳孔は、黒く澄みきっていた。

 

 意味の通らぬ音声の羅列。

 人間と常世の存在との約定。

 その詠唱がやっと終わった。

 夜空にふわふわと光の玉が舞い上がり、在るべき場所へ還っていく。

 あるものは力強く真っ直ぐに昇り、あるものは頼りなく辺りをしばし漂う。

 自分の身から剥がれたものがいずことも知れぬ場所を目指して飛び去って行く。

 もはや、円環は青い光を放たず黒く鎮まった草叢であり、その内側は除草剤でも散布したかのように全てが枯死し干からびていた。

「……」

 その線の上に立ち、再び人の姿をとったルルゥはけらけらと笑った。

「『びりびり』がなくなった! ヴォルさんすげえ」

 ルルゥは浮かれている。

 線のあったところをひょいひょいと行ったり来たりしているうちに、初めて出会ったころの光芒をルルゥが取り戻していく。

 その一方でヴォルフリートはルルゥの鋭い爪に傷つけられ、身の修復も叶わず地に倒れ伏していた。身の内に取り込んでいた数多の魂魄が飛散していくのにつれ、その身体はどろりと腐れ毀れていく。

 

――終りだ。

――何もかも。

 

「ルルゥ」

 感情をもともと持たぬ者にひたすら自身の思いをおしつけてきた彼は、混沌の渦に呑まれそうになりながら、狂気の域に達するほどに慕った存在の名を呼んだ。

「ん? 何だヴォルさん」

 いかにものんびりとした返事に、ヴォルフリートはわずかに笑った。

「ごめんね」

「?? …ヴォルさん、身体がぼろぼろだぞ」

 やっと気づいたかのようにルルゥが怪訝な顔をした。

 自分がヴォルフリートに何をしたか、全く覚えてないらしい。

 覚えていたとしても、それがどうした、程度の認識しかないのだろう。

「僕はね、どうしても君と一緒にいたかった」

「ん」

「だけど僕は人間だったし……子供だったし……馬鹿だったから……ごめんね」

「……」

「これで君は自由だよ。どこにだって行ける」

「ふーん……ヴォルさんは?」

「僕は……僕はね……」

「……」

「僕も、他の人達と同じように、もういなくなるんだ」

 ルルゥがやっとヴォルフリートの言うことに得心の行った顔をした。

 そのしれっと笑ったような顔を見ながら、ヴォルフリートは最期に、切れ切れに言った。

 溶けた眼球が眼窩から流れ、まるで涙のように見えた。

「僕は……これでも……本当に……愛して……」

 唇が腐敗して溶け崩れ、歯列がむき出しになる。もうこれ以上は言葉にならなかった。

 

「やっぱり変なガキだな、お前」

 

 そのとき、彼はもうピクリとも動かなくなっていた体に温かい風が吹き込まれるのを感じた。

 体表を撫でるのではなく、体の芯へ向かって流れ込む風。

 腐汁で汚れるのも構わず、ルルゥが崩れてゆくヴォルフリートの身体を膝の上に引っ張り上げて抱きかかえている。

 骨の空洞と化した胸腔、頭蓋の中、骨の髄。

 そしてこの今生の依り代であった身体から、剥がれかかっている魂の奥まで何かが優しく浸すのを彼は感じた。

 

――ルルゥが、僕を視ている。

――僕の記憶を視ている。

 

 ヴォルフリートは右手首から血を流していた。そして流れる血で、塔の周りに巨大な円を描く。

続けて、数本の直線や古代の文字を描いていく。

 血が止まりかけると、左手で右腕にナイフを突き立ててより深く傷つけ、血を噴き出させる。

 右手首はもう縦横についた刃物傷でずたずただった。

「できた…」

 一言呟いて、ヴォルフリートは草の上に膝をつき、そのまま前のめりに倒れる。

 冷たい月に照らされ、それが天頂に達したとき、その身体から全く同じ姿の少年が起き上り、新しい世界を眺める目で辺りを見回し、空を見上げた。

 

 そのヴォルフリートの脳裏に残る映像をルルゥは幾度も反芻する。

 さっぱりわからない。

 何のためにこの少年がこんなことをしたのか。

 死んでるくせにいじましく起き上って、自分に纏わりついていたのか。

 その因果がまったくわからない。

 わからないなりに、なんとなく面白い。

 

 腕の中にいるヴォルフリートの記憶を更に見ている間に、ルルゥは段々愉快になってきた。

 ヴォルフリートの目を通した自分が何となくこそばゆく、わははと声を上げて笑う。

 自分がどう人の目に映るかなど考えたこともなかったルルゥは、この姿に初めて愛着を感じた。

 

――そうか、こいつの目には私はこんなふうに映ってたのか

――私はこんな感触で、私を抱くとこんな感じなのか

 

 そして、この少年の記憶に残るこの森の色鮮やかさにルルゥは驚く。

 彼の思いを自分の中に容れ、空を見上げれば星はいつもよりも一段と美しい。

 視えなかったものが視えた時の、彼の鮮烈な感激を追体験しながらルルゥはふと涙ぐみそうになった。

 それは、あの少女の眼差しを思い出したせいかもしれない。

 

――寂しいって、これか…?

 

 ルルゥは静かに語りかけた。

「なぁ、ヴォルさん」

「……」

「私な、空のたかーいところに浮けるんだぞ。知ってたか?」

「……」

「私はまだまだいろんなことができる。今思い出した」

 腕の中の、黒い腐肉がこびりつく半ば白骨化した死骸にルルゥはふわりと息を吹き込んだ。

焔のようなものが一閃する。

骸は崩れ去り、粉々に砕けて大気に散っていった。

「だけどなぁ……私はオルガン弾けねえんだ……なぁヴォルさん」

 柔らかな光の混沌がたった今塵となった肉体そのままに、魂を容れる器を構築していく。

 そこへ、最後までこの場を悲しげに彷徨っていた一つのこころが緩やかに、健やかに収まっていく。

「私も、お前がいたらきっと『寂しく』ねえだろうなって思う」

 ルルゥは腕の中にいるものに頬ずりした。

 それは、怯えた子犬のように震えながら彼女の名を呻いた。

 

「おかあさん、遅いよ! 早く~!!」

「ちょっと待ってよ! ちびっちゃいくせに何でそんなに元気なの?!」

 新緑が美しい森に、シーナは来ていた。

 久しぶりに森を歩くシーナの前を、ひょいひょいと娘は進んでいく。

「なんでおかあさんはそんなに遅いの? 休んでばっかり!」

「休んでるんじゃなくて、森の空気を楽しんでるのよ!」

 

 一時この森を伐採し工業団地にされる予定が立ったが即座に反対運動が立ち上げられた。

 その中心人物がシーナだった。

 美しすぎる市会議員としてネットでもよく話題になり、パパラッチまで出現する始末だがシーナはいつでもにこやかに誰にでも手を振って見せた。

「工業団地が造成されれば莫大な税収が見込めるのになぜ反対するんですか?」

 多くの人間にそう訊かれ、シーナはそのたびにゆったりと答える。

「ここには、わたしの大事なものが在るんです」

 相手は必ず訝しい顔をする。

 そこへ、個人的な森への思い入れから、具体的な数字を交えて浅薄な増収歓迎論への反証をし、最後にこの地域の発展の歴史をノスタルジックかつセンチメンタルに語って見せると、大抵の人間はシーナに握手を求め賛同の意を示す。

 中には涙を浮かべる年配の人々もいる。

 それでも何か言いたげな相手には、少し寂しげににっこり笑ってみせると、たちまち黙ってしまう。

 地元マスコミに「女神の微笑」と書きたてられている、その微笑だ。

 

 丘の頂へ着く。

 そこにはシダや短いイネ科の植物が繁る草地があり、崩れを修復したばかりの古い給水塔がある。

 昔の話を知っていて、ここは呪われていると言って怖がる連中もいたが、今はもう、ここに来たことで心身を損なうものは誰もいない。

 時折ピクニックに訪れる者もいる。 

 

「ここでお弁当たべよっか」

「うん」

 幼い娘は喜んでピクニックシートを広げるシーナの手伝いをしていたが、まだ生まれて幾許も経たぬ小さなバッタを見つけて追いかけはじめた。

 その姿を見ながら、思い立って急ごしらえしたゆで卵にハム、レバーペーストにバターとパン、小さなトマトやキュウリのピクルス、木苺のタルトといった簡素なランチを広げてシーナは娘を呼んだ。

「ほら、おいで! おかあさんがぜーんぶ食べちゃうからね!」

「やだー! 待って―!」

 幼い娘の声の残響に懐かしい声が、そして風に揺れる木々の音に古いオルガンの音が混じるような気がする。

 幾度となく訪れても、あれから二度と彼女らには会えなかった。

 確かに気配は感じるのだが。

 

「ねえおかあさん、これ見て」

「ん?これ蛍石じゃない! きれいね……落ちてたの?」

「光るおにいさんにもらった。ごめんねって言ってた」

「!」

 

 ここは精霊たちが棲む森。

 多くの人々がその姿を見たという。

 その姿は光に包まれた若い女のようだった、と口々にその人々は言う。

 しかし稀に、少年の姿を見たという者もいる。

 

――かつて、わたしには確かに彼女たちを見、そのこころに触れていた日々があった。


 

    <了>

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