top of page

しあわせの場所

 

学校帰りの公園

 春の始まりとはいえ、まだ肌寒い。

 西から斜めに大気を照らす光が柔らかく橙色を帯び、東の空はもう群青色に、これから冷たい夜がやってくることを穏やかに告げている。

 小さな街区公園の錆びたフェンスの脇に、この近所にある学校のタグをつけた鞄が二つ並んで置かれていた。

 一つは、見るからに高級品だ。柔らかな滑革の艶に、大事に使われていることが見て取れる。

 もう一つは廉価なキャンバスの頭陀袋で、裁ち端から繊維が毛羽立ち、上に乗ったり投げたりしているのであろう、だいぶくたびれている。

「今日ね、わたし図書室の鍵当番だったんだけどね、」

 小鳥のように小柄で金髪の少女がうきうきと話している。

 空の色の瞳は楽しげに輝き、全身で歌を歌っているかのように快活だった。

 ペンキが剥げて地塗りが覗き、不快な軋みを上げるブランコが動く。

 そして、彼女が着ている愛らしいワンピースの裾も空気を孕んでふんわりと揺れる

「……鍵失くしちゃって、ずっと探してもどこにもなくって、泣きそうだったの。でもねリノが私が鍵失くさないようにって自分のポケットに入れて、それ忘れてサッカーやってたの!」

 彼女はクラスメイトの男子の名を出すと、非難の口調ながらうっとりと空を見上げた。

 彼女の器量なら、きっとどんな男子でも「おつきあい」したいだろう。

 しかし彼女が選んだのは、成績がよく運動神経抜群ではあるのだが、まるで肉襦袢でもつけているかのように筋肉に塗れて大きな図体をし、ミドルスクールの生徒と言っても誰も信じないほどいかつい顔の少年だった。

 彼は老けた…魁偉な容貌にも関わらず、いつもこのアリスという少女が困っていると助け、からかわれると庇い、アリスに話しかけられるとゲルマン民族特有の白い肌を真っ赤にする純朴な少年だった。男気もあるので人気もある。

 その二人がごく最近「カレシ」「カノジョ」の間柄になったのだ。

 アリスもリノも浮かれっぱなしで、休み時間はこそこそくすくすと 学校の物陰で他愛無く話をし、登下校も手を繋いでという仲睦まじさだった。

 コイビト同士とはいえもちろん、彼らは対になったぬいぐるみのようにただ相手がいるだけで嬉しくてたまらない子供らしさで、会話の内容もおままごとのように微笑ましいものだった。

「ねえ、ひどいと思わない?」

「……」

 隣のブランコに腰を下ろしているのは、痩せぎすで大柄な少女だった。

 高くも低くもない細い鼻梁に切れ長の目、黒鳶色のくせのない髪、キャラメル色の肌に散る雀斑が様々な人種の混血であることを示していた。

「ねえったら」

「…ん」

 髪はバサバサと艶がなく襟足より少し長いあたりで無造作に切られ、自分でカットしたのか毛先が全く整っていない。

 地味なシャツとズボンを身に着け、少女というより少年のようだった。

「……ねえ、メラニー、具合が悪いんじゃないの」

 漕いでいたブランコを止め、隣のブランコの座板に腰かけたまま黙りこくる「親友」にアリスは気掛かりそうに尋ねる。

「……何でもねえよ」

 数年前に母親が出ていき、優しかった継父が地下鉄のプラットホームから落ちて轢死した。

 そんなメラニーを、アリスが心配するのは当然の成り行きだった。

 どんな悲痛な出来事も、時の流れの前には朽ちていくものだ。まして、これから人生の長い旅路を歩いていく子どもならなおさら、毎日の輝きが辛い思い出を包み込んでいく。

 養父の死から、ずっと沈みがちだったメラニーもだんだんと年齢相応に笑うようになってきていた。

 以前と変わらず、だはははと品性の欠片もない笑い声を上げてクラスの丸坊主をからかい、ギリシャ系の呑気な女子を賭け事まがいの手遊びでカモにし、昼食を行儀悪く口に抛りこむ。ヴィルジニは少なからず安堵していた。

 ことに先週の土曜日はメラニーのバースデーパーティで、メラニーは本当に楽しそうだった。

 なのに、この月曜日から、メラニーと呼ばれた少女はひどく顔色が悪かった。日がな一日、生気のない顔でぼんやりと机の傷を眺め、休み時間は周りの少女たちから逃げるように、カーペットが敷かれた図書室の本棚の陰に蹲っている。

「なんでもなくないよ。ずっとメラニー具合悪そうだよ? 髪も切っちゃったし」

 この問いは、ここ数日学校でもずっと繰り返してきた。

「……」

「ねえ、具合悪かったら言ってよ。メラニーのお兄さん、帰りが遅いんでしょ?うちのお母さんに頼めば、病院にすぐ連れて行ってもらえるよ」

 とはいえ、午後6時を過ぎ一般診療所は閉まっている。

「本当に、何でもねえよ」

 徐々に暖かい色の光は弱まり、薄い闇が拡がってくる。

 メラニーは、泣きそうになりながら、ここにずっといたい、と思っていた。

 だがそれを、この子どもであることを当たり前に享受している少女に悟られるのは嫌だった。

「ほんとに?」

「うん」

 ぴょんとブランコから降りたアリスは、メラニーの背後に回るときゅっと抱きついた。

「だったら元気出してよ。メラニーがそんな風だとつまんないよ」

「……」

 その瞬間メラニーの身体がぎくりと強張った。

「???」

 メラニーは荒々しい手つきで、可憐な友人の手を振り払う。

「……? どうしたの?」

 傷付いたような声を上げるアリスにメラニーがさらにうなだれる。

 真ん中から分けた長い前髪が顔にかかり、メラニーの表情は見えない。

 今までこんなことはなかった。

 メラニーはいつもアリスにふざけて抱きついてきたし、アリスもメラニーに甘えてしなだれかかってきた。

「……ごめん」

 小さく呟く声。

 違う。

 謝ってほしいのではない。

 どうして、いつもの愉快で優しい彼女ではなくなってしまったのか。

 それが訊きたいのだ。

 アリスは、気の毒な友人の支えになろうという気負いが空回りする軋みに、少し苛立った声でメラニーを詰った。

「ごめん、じゃないよ! わたしは、どうしてって訊いたの! わたしはメラニーのシンユウでしょ?」

 少女は「シンユウ」の白い小さな顔を見て、すぐに目を伏せ顔を背けた。

「私は」

 メラニーが何か言おうとしたとき、怒りを含んだ男の声が遠く重なった。

「メラニー!」

 白いシャツの上に黒いセーターを着けた長身の男が急ぎ足で近づいてくる。

「ここにいたのか! 探したよ!」

 それは大学に通っているメラニーの兄だった。

 テュルク系の血が多く入ったドイツ出身の両親を持つ彼は、父の後添いの連れ子であるメラニーとは当然全く似ていない。

 メラニーより一段暗いトーンの肌と黒髪、青みを帯びた黒っぽい目。

 面長な顔の輪郭に鷲鼻、自信無さげな下がり眉。

 背が高く、肩幅も広い。

 同年代の子供から見てもかなり小柄なアリスの目からはまるで巨人のように見える。

 身体のサイズはまるっきり大人なのだが、彼は顔をじっと見詰められたりなどするとアリスのような子供に対してさえおどおどと落ち着きを失くす。

 しかしそれはただ人に凝視されることが苦手というだけのことのようで、アリスがメラニーの家に遊びに行くと笑顔で迎えいれ、菓子や飲み物をいそいそと出してくれる。

 そんな兄を、メラニーは足で小突いたり、タックルして転ばそうとしたり、やりたい放題だった。

「アリスと二人じゃつまんねえんだよグレ兄も一緒にやろうぜ」とメラニーがせがむと彼はゲームに加わったりもし、血の繋がらない妹の友人に何くれとなく気を配ってくれる。

 兄弟姉妹のいないアリスは、何をしても怒らない優しい兄を持つメラニーが羨ましかった。

「あ、こんにちは、グレン」

「こんばんは、アリス」

 もう遅い時間であることを皮肉に込め、メラニーの兄は妹の親友に挨拶した。

 メラニーがのろのろとぶらんこの座板から腰を上げ、グレンは、妹のキャンバス地の鞄を拾い上げた。

「もうこんな時間だ。君も早く帰らないと」

 言葉は柔らかく好意的だったが、今まで見たことのない非難の眼差しを浴びせられ、アリスはたじろいだ。

「あの、メラニーがずっと元気がなくて、具合が悪いんじゃないかって……心配だったから」

「そっか。ありがとう。でも、それだったらなおさら、メラニーを早く帰すべきだよね」

「……ごめんなさい」

 メラニーがアリスを庇った。

「グレ兄、アリスは悪くねえから」

 黄昏の光は消えてしまった。

 アリスは自分の鞄を肩に掛け、すべてが陰の色にくすむ住宅街の舗道をメラニーとグレンが歩いていくのを眺めた。

 グレンがすっかり短くなったメラニーの髪に長い指を通すと、素早く辺りを見回し、屈んで妹の頭にキスをするのが見えた。

――メラニーとグレンって本当に仲がいいんだわ。

――明日は、メラニー、元気になってるといいな。

 二人の後姿が角を曲がり見えなくなると、街路灯が照らす家路をアリスはとことこと辿り始めた。

​不憫な妹

**********************************


 

 そのとき僕は15歳で、メラニーは11歳だった。

 にっと悪戯っぽい笑みを浮かべて見上げられた瞬間、鳩尾に手を当てられじわじわと重みを加えられるような、そんな錯覚を覚えた。

 可愛らしい、という形容にはそぐわない肉の削げた顔立ち。

 落ちくぼんだ、睨むような三白眼。

 男の子のようにざっくりと短い髪。

 この日のために買ったと思われる真新しい、似合わないワンピースに包まれた痩せぎすの身体。

 その貧相で野生児じみた風体とは不釣り合いに、彼女の周りに匂いとも体温ともつかぬ何か懐かしいようなものが渦巻いているような気がした。

 

「父ちゃんと、グレ兄がいるとうれしい」

 食卓で、明るく目を輝かせて彼女はそう言うなり、皿の上の熱いベイクドポテトをスプーンでざくっと割った。上にかかったチーズが糸を引く。

まだ、新しくできた母と4つ歳の離れた妹の存在には慣れない。

 継母は、ぱっと見には美しい女だった。ただ時折、何とも言えない卑しい、小狡い表情をすることがある。何となくそれが気にくわない。

 父の前では絶対に見せないのだろうが、シミや皺の現れはじめた顔を鏡台の前で矯めつ眇めつし、一時間近くかけて髪の艶を出し、顔にいろいろ塗りたくって顔を作り上げる。

 だから女好きで母に逃げられた父の審美眼は、父自身が吹聴するほど大したものではない、と思う。

 それでも父が選んだ女なら母と呼ばざるを得ないし、その痩せっぽちな連れ子を妹として扱わねばならない。

「何で?」

 向かい合って、胡椒入れのグラインダーをガリガリと回しながら訊ねると妹は、うふぅ、と笑った。

「あのな、ちゃんと飯が食えるんだ」

「え?」

 驚いた。

 メラニーははっと顔を強張らせた。

 まずいことを言ってしまったと思っているのがありありとわかる。

 継母が父と結婚する前、困窮していたということだろうと理解しかけて、違和感を覚えた。

 継母は、この子のように痩せこけてはいない。

 服だって、装身具だってそれなりに持っている。

「この子は偏食で小食なの」と彼女は言うが、メラニーは好き嫌いなくよく食べる。

 口の周りを汚して無心に食べるメラニーの顔と来たら、もうずっと食べ物を与え続けていたいくらいに愛らしい。

 そういうとき、継母は優しくメラニーを窘め、作法を教えるのだが、そこには何か親子の情と言ったものとは違う何か刺々しいものを感じる。それはあまり好ましい眺めではなかった。だから血の繋がらない僕はさっさと席を立つことにしている。

 自分が腹を痛めた子を諭すというのはこんなに愛を感じさせない冷たいものなのだろうか?

 少なくとも僕の母親はそういう感じではなかったと記憶している。

「父さんや僕がいないときは食べられないの?」

 妹の顔を見守りながら訊ねると、妹はほこほこと柔らかい馬鈴薯を細い喉に飲みこんでしまってから小さく答えた。

「私みたいなのは飯食っちゃだめだって」

「何で?」

「私が汚いメスガキだからって」

「え?汚くないけど」

「大きくなったらもっといやらしくて臭くなるって」

 あの、メラニーに接するときに継母から感じる違和感は、幾重にも包んだ疎ましさによるものだ、とその時はじめて気づいた。

 キッチンから継母の声が飛んだ。

「グレン、そろそろバスの時間でしょう?メラニーに構ってないでさっさと行ってらっしゃい」

 

 ある日、学校から帰ってくると継母は部屋で外出の支度をしていて、メラニーはソファで絵本を読んでいた。

 もう絵本を好む年齢は過ぎかけているのだが、彼女は僕のお古の絵本を引っぱり出して貪るように読む。

 何かに飢えていたように。

「何読んでるの?」

 背後に立って上から覗くと、妹は頭をぐっと後ろに引いて仰のけになり、あの笑顔でにっと笑った。

 彼女の手元のページを見ると、小さな山羊、少し大きな山羊、そしてとても大きな山羊が踊るような足どりでどこかへ向かって歩いている。

 この草食の割に狡猾で獰猛な偶蹄目の三匹がたらふく草が食べられる新天地を目指して旅をするという北欧の昔話だ。

「この話、僕もよく読んでたよ」

 この絵本を見ること自体、何年振りだろうか。

 昔はこの大きな山羊を誰より強く優しいと思っていた父に、少し大きな山羊をいつも笑顔で快活な母に、小さな山羊を自分に擬えていたものだ。

でも実際の家族はそうではなかった。

 父の女癖に悩まされぼろ雑巾のように疲れていた母は、父の同僚と男女の仲になり、家を出て行った。

 それでも父はけろりとしたものだった。

 ちゃんと稼いで家族に金銭的不自由をさせていなければ、何をしようと勝手だというのが彼の信条だった。それを咎め立てする人間がいなくなり、ひょっとしたら嬉しくすらあったのかもしれない。そして当然のように、ハウスキーパーとシッターに家と息子を丸投げしてしょっちゅうよそに泊まってくるようになった。

 その挙句連れてきたのが、お化粧オバケの継母と、この骨と皮ばかりの身体に目ばかりぎろぎろ光る妹だ。

 そして父は家庭人ぶってこの家に帰ってくるようになった。

 父をこの家に誘引しているのは、自分ではなく継母と妹であることに目くじら立てるほど子供ではないが、やはり面白くない。

「あのな、この大きいのはとうちゃんでこっちはかあちゃんで、この小っちゃいのはグレ兄」

 彼女は幼かった頃の自分と同じように、一頭一頭山羊を指差してみせた。

「僕、もうお父さんより背が高くなっちゃってるのにちび山羊なの?」

 そういうと、メラニーは真剣な顔で考え込んだ、一番大きな山羊に、親を差し置いて息子を配役することに少々抵抗があるらしい。

 鹿爪らしく、徐々に唇が尖ってくる。

「このちびは、メラニーだよ」

 色褪せた寂しいことをいろいろと思い出しながら、僕は妹の頭を撫でた。

「違う。私はこれ」

 それは、橋の下で通るものを喰らおうと待ち構えている醜い化物だった。目を爛々と光らせ、白く鋭い牙を剥きだし不吉な口を開けている。

「え? これ?」

「うん」

「どうしてそう思うの?」

「私は橋の下がお似合いだから」

 それはどういうことか尋ねると、メラニーは2年前、この近所を流れる川の上流にある町で橋から落ちたことがあるからだと答えた。

「どうして落ちたの?」

「わかんねえ」

 きっと足が届かないほどに身を乗り出して川を覗き込んでいたり、欄干に上って歩いたりしていたんだろう。そういうことがしたくなる年頃だ。 わからなくはないが、命と引き換えにしてまでやりたいものでもない。

 そう、片付けようとした。

「……あんまり覚えてねえんだ。身体がふわってなって、川が近くに見えて、気が付いたら母ちゃんが泣いてて救急車とかレスキュー隊とかの人がいっぱい来てた」

「ケガは?」

「頭打って、肩が抜けた。でも大丈夫だって」

 妹はへへ、と笑顔で右肩をぐるぐると回して見せた後、絵本に目を落としぽつりと言った。

「馬鹿でどうしようもないガキだからくたばらなかったんだって」

「それ、お母さんが言ったの?」

「うん。だから馬鹿でよかったって思う」

 泣いていたという母親が、助かった娘にそういうことを言うものだろうか?

 心配のあまり口走ったのだと解釈しようとしたが、どういう気でそんなことを言ったにせよ、この小さな娘が酷く傷ついたのは変らない。

 背筋に氷柱でも突き入れられたような気分で、ソファの前に回りメラニーの隣に座った。

 僕が腰を下ろした振動で、軽いメラニーの身体は小さく揺れた。

「でも、メラニーは馬鹿じゃないよ」

 メラニーの太腿に、真新しい内出血のどす黒いシミを見つける。よく見ると、太腿や肋の浮いた胸元にも黄色くなった痕跡が残っている。今まで長いズボンを履いていたので気が付かなかったが、向暑のこの時期、短いズボンに変えたので初めて気が付いた。

「これは?」

「転んでぶつけた」

「本当に?何でこんなにたくさん?」

 メラニーは口をしばらくへの字に引き結んだあと、もう一度、自分が転んだのだと言い張った。

 その口調も表情も何だかとても弱々しく、しかし縋るような必死さがあった。

「メラニーは、お母さんが好きなの?」

「うん。こんな馬鹿で汚くて臭い子、面倒見てくれるの母ちゃんだけだって」

 その答えに、何だかたまらなく悲しくなって、骨がごつごつしている小さな身体をぎゅっと抱き寄せた。

 絵本がソファから滑り落ちる。

 メラニーはぎくりと身体を硬くし、首を後ろに引いてひどく驚いたような、困っているような顔をした。

「グレ兄、私、臭くて汚いんだぞ」

「メラニーは汚くなんかない。石鹸のいい匂いがする」

「本当か?」

「嘘じゃないよ」

 メラニーの薄いTシャツと、自分が素肌に着たオックスフォードのシャツ。

 その二枚の布を通して、彼女の身体は温かい。

 じっとしているとメラニーの身体から緊張が解けていくのがわかった。

 さらさらとした鳶色の髪を撫でてやると、遠慮がちに、頭の重みを僅かばかり胸に預けてくる。

 その頭にそっと頬を寄せると、耳の後ろから後頭部へかけて、髪に隠れて見えなかった大きな傷跡が見えた。

 髪を掻き分けて、それを見ようとすると、メラニーの手が伸びてきて制止するように指を掴んで、真っ黒な瞳孔をマホガニー色の虹彩が囲んだ目で物問いたげに僕の顔を見上げた。

 正直、魅力的だとかきれいだとか、そう言った言葉には縁遠いと思っていた妹がふと今まで見たどの女性よりも可愛らしく思えた。

「あのね、メラニー」

「……」

「僕はメラニーのお兄さんなんだし、嫌なこととか辛いことがあったらいつでも言うんだよ?」

「……」

「僕ができることは何でもしてあげるからね」

 メラニーは大それた願いを口にするかのように少し逡巡した。

「じゃあ、遊んでくれるか」

 

 そのとき、襟足あたりにちりちりするような嫌な感覚があった。

 例えるなら、鋭い刃物でそっとうなじを撫でるような、悪意に満ちた不快な視線。

 知らず知らず、眉根に力が入る。

 きっと、メラニーの母親に違いない。

 あの卑しい女狐。

 どんな醜い顔で、こっちを覗いているんだろう。

 睨み返してやるつもりで素早く振り向いた。

 

 そこにいたのは父だった。

 

「何をしている」

 扉のノブに手をかけて立ち、怒り、というには冷ややかな憤怒の表情を浮かべている。

 何故だかひどく、見られてはならないところを見られたような気がした。

 もう一度、声を低く、脅すように父は言った。

「何をしている」

 理不尽な怒りと非難の眼差しは、全く知らない他人のもののようだった。

 言い訳を口にしながら、僕の口調は自然と上ずる。

「メラニーに昔の怪我のことを聞いてたんだ」

 父はメラニーを見つめた。

「メラニー、グレンから離れなさい」

 メラニーは小鳥が飛び立つように腕をすり抜けて立ち上がった。叱られ慣れている面持ちで項垂れている。

「何か、変なことをされたんじゃないだろうな?」

 尖った男の口調に妹はかぶりを振り、父はメラニーの肩を抱いて自分の身体の後ろに庇った。

「グレン、お前は自分の部屋に行け」

 やたらと高圧的な、小学生を叱るような言い草。

 自分の息子が自分の体格をとっくの昔に追い越してしまっていることを忘れているのだろうか。

 メラニーの細い骨ばった肩に置かれた指の短い、汗でいつも湿った男の手。

 優位にあるオスの威嚇のパフォーマンス。

 何故か、頭の中が静まり返るような、冷めた気持ちになった。

 こうして見ると、父はただの、頬がたるんでビール腹の醜悪な中年男だった。

 

 僕は自分の部屋へ行った。

 自分の匂いが染み付いたベッドに横になり、幼い頃、両親とはしゃぎながら天井に貼った蛍光シールの星座を目でなぞる。

「グレンは12月30日生まれだから山羊座…これだな」

「この三角のが山羊?変なの」

 それは天球儀の星々とは随分ずれていて、歪つで、しかし幸せというものがここに在った何よりの証だった。

 しかし、そんな日々は戻ってこない、と感傷的になったのももう昔のことだ。

 灯りを消した後の暗闇に浮かび上がるライム色に弱々しく光った星座の群れは、今では特に何の感慨も覚えないものになってしまっていたが、無性にメラニーに見せてやりたくなった。

 

 翌日、父は帰ってくるなり、大きなクラフト封筒をリビングで本を読んでいた僕の胸に叩きつけた。

「来学期から、お前はここに行け」

 それは、同じ州の中でもかなり離れた街にある全寮制ハイスクールの編入手続書類だった。

 来たるべきときが来たような気がした。

「ここは名門だし、何より俺の母校だ。ここの寮ならお前もきっと落ち着いて勉強できるだろう」

 いつもこの男はぎくしゃくとした会話を数分すれば義務は果たしたとばかりに踵を返し、同じ空間にいることを避けている。本当はだいぶ前から息子を家から出したがっていたが面倒くささが勝り、顔を合わせないようにするにとどまっていた。

 皮肉なことに、その父親の無関心のおかげで僕はこの家を帰るべき場所として暮らし続けることができていたのだ。

「どうして急に?」

 間抜けな質問だと自分でも思った。だが、他にこの場にこれ以上ぴったりな言葉が見つからなかった。

 父はしばらく黙って、頭の中で話す筋道をおさらいしているようだった。

​諍い

*

「グレン、自分が昨日メラニーにしていたことをよく考えろ」

「は?」

「お前も身体だけは大人だ。これ以上メラニーと一緒に暮らすのはよくない」

「妹の昔の話聞いて同情してハグして、何が悪いのさ」

「メラニーが嫌がっているのがわからんのか」

 一瞬遅れてやってきたのは怒りだった。

 邪推も邪推、父はなんて性根が腐りきっているんだろう。

 わざとらしい諭す口調に顔が熱くなってくるのを感じる。

「嘘だ!メラニーの口から嫌かどうか聞かせてよ」

「あの子は嫌なことを嫌とは言えないんだ。特にお前みたいな親切ごかしなやつにはな」

「何だよその言い方!」

「メラニーを傷つけることは許さん」

 この男は自分の息子より、妻の連れ子の方が大事になってしまったらしい。

「メラニー!メラニー!!」

 我慢ならなくなって僕は大声で廊下に向かってメラニーを呼んだ。

 彼女はさっき階段下のストレージで海洋生物の縫いぐるみを並べ、皿に小魚やミミズの形のグミキャンデーを盛りつけておもてなし中だった。すぐに来るはずだ。

 軽い足音が聞こえ、リビングのドアで止まった。

「メラニー、こっちおいで」

 ドア枠に半ば隠れ、そばかすまみれの小さな顔が怯えた表情を浮かべている。腕には僕が近所の店でポイントを貯めて交換してもらったアオミノウミウシの縫いぐるみを抱えている。

「メラニー、ちょっとこっちに来て」

「いい子だからあっちへ行っていなさい」

 血の繋がらない父と兄に正反対のことを言われ、彼女はその場でどぎまぎしていた。

 僕は訊ねた。

「僕は、メラニーに何か嫌がることした?」

「してない」

「聞こえないよ。大きな声で!」

「してない」

 僕はさらに畳みかけた。

「僕のこと、嫌い?」

「好き」

「僕がお兄さんでよかったと思うだろ?」

「思う」

「ほら、父さん、メラニーは僕のこと嫌ってないし、僕はメラニーに変なことしてないよ」

 父は僕に無表情で一瞥をくれ、メラニーに近づいた。

「メラニー、父さんのことは好きか?」

「うん、好き」

「父さんもメラニーのことが大好きだ。だから、本当のことを言ってごらん。グレンが怖いだろう?近寄られると嫌な気持ちになるだろう?」

 父の粘っこい猫なで声に、僕はぞっとした。

「父ちゃんも、グレ兄も好き」

 メラニーは悲しそうに小さく言う。

「父ちゃんとグレ兄が喧嘩するの、嫌だ。みんなで仲良くしたい」

 開いたドアから、メラニーにも、継母にも総て筒抜けだったようだ。

 いつの間にか、継母がダイニングの方の入り口から、リビングに姿を現していた。

「私もグレンはこの家にいた方がいいと思うわ。家のこともちゃんとしてくれるし、勉強だって、学年でいつも五本の指に入る成績じゃないの」

 父は、鼻白んだ顔で僕と継母を見ていたが、そうか、と短く言い捨てて書斎へ入り、しばらく出てこなかった。

 

 一か月ほど経ってふと気づけば、メラニーは継母にいじめられなくなっていた。

 継母は、父と僕とがメラニーを庇うのが面白くなかった様子ではあったが、ここのところはほどほどに母親らしく接している。

 メラニーはよく食べ、よく喋り、よく笑うようになった。

 おそらく、今までで一番幸せなのだろう。

 喜ばしいことではあったが、僕自身は奇妙なわだかまりを感じた。

 それが「嫉妬」の変形だと気づいたのはずいぶん後になってからだ。

 僕がメラニーの母親に嫉妬するというのはおかしなことだったが、僕を頼ろうとすることが格段に減ってしまったのが寂しく思えた。

 そしてだんだん気づいてきた。

 初めメラニーに会った時に感じたあれは、不幸の匂いだ。

 僕だけを頼り、僕の手元から飛び立っていかないようにできる可塑性を、僕は嗅ぎ取ったんだと今でははっきり言える。

 

ファム・ファタール

 ある日、バードフィーダーに食べ残しのシリアルを入れに行ったメラニーの後についてテラスから庭に出ようとした僕を、継母が手招きした。

 今日も香水が異様に生臭くて閉口する。

「グレン、ちょっとそこの額を見て。そう、その栗色の馬の」

 シルクスクリーンの大きな絵を、彼女は目で指し示した。

「あんまりじろじろ見ないでね。その右の縁から黒い平べったいものがちょっと見えてるの、わかる?」

「それがどうしたの」

 化粧に隙のない女は怪鳥のような、耳障りな声で笑う。

「盗撮用のカメラよ。あなたの部屋にも、私たちの寝室にもあるわ」

 僕はぽかんとした。

「調べてみたけど、この機種は音声は拾わないタイプだから話す分には大丈夫よ」

「……」

 言葉を失くしている僕に、彼女は言った。

「あなたのお父さんがちまちま置いたみたいね。私が外すとアレだから、よかったら実子のあなたが外してくれないかしら?」

 彼女は、探るような目で今一つ打ち解けようとしない義理の息子を見つめた。

「これはね、多分私とあなたを見張るためのものよ。どういう意味か分かる?」

「……防犯用ってこと?」

「違うわ。私とあなたを見張るものだって言ったでしょう?」

 継母はマニキュアを塗ったばかりの爪を、仕上がりを確かめるように顔の前にかざした。

「彼は、邪魔者を追い出したがってるのよ」

「それは僕のこと?」

「あなたと私、両方」

「え?」

「彼ね、離婚したがってるの」

 僕は、またか、という顔をしたのだろう。

 実際そう思っていた。

 そういうごたごたは夫婦でやって欲しい。僕を巻き込まないで欲しい。

「とにかくね、もし離婚するにしても、慰謝料を減額されるのは真っ平なの。ああほんと、カメラに気づいてからいろいろと窮屈。交渉ネタにされるのもつまらないから、我慢して『母親』やってるんだけど疲れるわ」

 もう、この女は僕に隠すつもりもないのだ。

 メラニーは折檻をしなくなった母に、素直に喜んでいる。

 邪魔者同士という気安さで、聞きたくないことばかり勝手に喋りかけてくるこの女を、ここで殴ったらどんなにすっきりするだろう。

 苛々している僕の前で、継母はゆっくり目を伏せ、そして少し虚ろな口調で言った。

「……ねえ、グレン。これでも私ね、彼と結婚するとき、きっと幸せになれると思ってたのよ。何もかもうまく行く、ってね」

 それは、きっと彼女の本当の気持ちだったのだろう。

 細い手足に光を浴びて、芝生にまばらに生えた雑草の小さな花をメラニーが摘んでいるのを、彼女と僕は眺めた。

 

 その夜、僕は盗撮・盗聴用機器が発する微弱電波を拾う発見器をネットで購入し、届いたその日に見つけられる限り全部のカメラを外して、叩き壊して捨てた。

 僕の表情をカメラ越しに見た父はどう思ったのかわからないが、何も言わず僕と目も合わせようとすらしなかった。

 

 一年が過ぎた。無論、家の中には冷え切った空気しかない。

 僕はハイスクールの最終学年に進級し、継母は粘っているなと思いきや意外とあっさり離婚して出て行った。

 彼女の、父への捨て台詞はこうだ。

「お幸せに」

 父は「ああ」とも「うう」とも聞こえる声で応え、二度目の離婚にも恬淡としたものだった。

 彼女が腹を痛めて産み、虐め、支配していた娘は、涙を流して俯いていた。

 そして玄関前に停めた車へ荷物を運ぶ手伝いをしていた僕の耳元で、継母は囁いた。

「私の娘をよろしく、グレン。あの子は不思議と男に好かれるのよ、不っ細工なのにね」

 僕が黙っていると彼女は赤く塗った唇を歪めて微笑んだ。

「でも今になって思えば、メラニーがいてくれてよかったわ。さようなら」

 女は父が買い与えた高級車に乗って、家を後にした。

 このとき、僕は知らなかったが父は継母に法外な慰謝料を渡し、財産を分与していた。

 継母という女は性質こそ悪いが、賢かった。

 

 継母がいなくなってまた一年が過ぎた。

 メラニーはずいぶん背が伸びた。タンポポの根っこのようだった体つきも、慎ましやかではあったが女性らしさを帯びてきた。

 彼女はミドルスクールでも順調に成績を上げていた。元々賢い子なのだ。

 日中はハウスキーパーが家のことを取り仕切り、夕食まで作り置きしてから帰るのだが、彼女は朝早く起きて朝食を作り、気が向いたときだけ僕の分までずっしり重いランチボックスを用意する。

 飢えの記憶があるせいか、メラニーの作る料理はやたらと多い。

「グレ兄はでっかいからたくさん食え」

「もう無理だってば」

 やっとの思いで空にした僕の皿にまた、ポレンタをべしゃっとのせてくる。

 ポレンタと言ってもインスタントのものだが、メラニーは一度に何パック分も作る。

「たくさん作ったから遠慮すんな」

「遠慮じゃないって。メラニーが食べてよ」

 スプーンに乗せて差し出すと、メラニーがテーブルに身を乗り出してぱくんと大口を開け、僕が手に持っているスプーンを口に咥えたまま、にっと笑う。

 こういうやり取りが楽しくてたまらなかった。

 母親という重石がなくなり、やっと子供らしくあることに慣れたメラニーは、僕とフライングディスクを飛ばしたりビデオゲームを一緒にやったりする。突然飛びついてきて、首に手をかけてぶら下がったりもする。

 時々はふざけて、あるいは腹を立てて、僕を叩いたり蹴ったりもしてくるがそこは少し手加減しているようで、痛くはない。

 僕は、彼女がだんだん僕に馴れてきたのが嬉しかった。

 メラニーがおどおどしながら、友人を家に連れてきてもいいかと尋ねてきた時も、「いいよ」と即答し、ドリンクや菓子を山ほど用意して待った。

 うちの近所の豪勢な屋敷に住む金髪の小柄な少女や、物凄い勢いでスナックを平らげる栗色のポニーテールの子、たまにいかにも悪童という顔つきの丸坊主の少年がやってきたが、どの子も子どもらしく素直だった。

 僕は彼らをもてなしながら、メラニーが年齢相応にクラスメイト達と楽しく過ごしていることを心から喜びながら、とても寂しかった。

 いつかメラニーにもボーイフレンドが出来てこの家を出ていくこともあるのだろうかと思うと、大袈裟でも何でもなく、本当に泣きたくなった。

 

 ある晩のことだった。

 僕は部屋で卒業試験の勉強をしていた。

 グレンなら特に勉強しなくても合格できる、と教師や友人たちに言われたが、やはり落ち着かないのだ。

 夜の静謐の中、メラニーがバスルームに出たり入ったりする音が聞こえている。寝支度を整えているのだろう。

 過去、卒試で出題されたという複雑な微積の問題を解き終えたとき、パタパタと走る足音がドアの外に響いた。

 ドアノブががちゃがちゃと音を立てる。鍵をかけてはいないのに、この扉を開けようとしているものの動揺がそのままそこに伝わってきていた。

 僕はペンを置き、立ちあがってドアを開けた。

 そこにいたのはメラニーだった。

 彼女は開いた隙間からさっと入ると、がたがた震えながらドアを閉めて鍵をかけようとした。

 パニック状態で、いつもなら簡単にできることがうまくいかない。

 庭でカエルを踏んづけた時以上に、彼女は恐慌の真っただ中だった。

「メラニー、どうしたの」

 鍵を閉めてやりながら訊ねたそのとき、吐き気を催すような臭いがメラニーから立ち昇っているのに気付いた。

 腐った水に塩素系の漂白剤を混ぜたような、強い忌避感情を掻き立てる臭い。

 メラニーは僕のベッドのヘッドボードに転がるように駆け寄ると、そこにあったダストボックスに背中を痙攣させて、吐いた。

 傍らのティッシュを何枚も引きだして顔の下半分を覆い、捨てる。それを何度か繰り返した後、静かに泣きだした。

 僕は、何があったかをもう察してしまった。

 ドアの外で、スリッパを履いた足が立ち止まる。

 しばらく、父は僕の部屋の前に立っていた。

 三人とも息を殺し、黙っていた。

 二分ほど経っただろうか。

 父は何も言わず自分の寝室へと通り過ぎていった。

 父の寝室のドアが閉まる音の後、メラニーがわななきながら言った。

「グレ兄ごめん」

 メラニーの口からはおぞましい臭いがした。

 僕の生命の由来である液体の臭いだ。

 僕はショックで言葉が出なかった。

「ごめん」

 もう一度メラニーは僕に謝った。

「……何で謝るんだ」

 頭の芯が痺れたような、今ここで起こっていることが現実感を伴わないTVショーか何かのような感覚。

「父ちゃんが……口に入れて、飲んだら、グレ兄をずっとここに住まわせてやるって」

「は?」

「大学へ行く金も出してやるって」

 恐怖で、次に怒りで僕は自分の眼が吊り上がるのを感じた。

「でも、飲めなくて……ごめん……ごめんグレ兄」

「そんなのどうでもいいんだよ! この家を出たっていい! 学費だって自分で働くから!」

「グレ兄、この家が大好きだって言ってたから」

「馬鹿!」

 僕は初めてメラニーを怒鳴った。

「違う!違うんだよ!!」

 メラニーは竦み上がった。

 僕は怯えきっているメラニーを質問攻めにした。

 そして彼女は怒鳴られるの怖さに、言葉を詰まらせながら答えた。

 

 継母が自分を父に売って出て行ってしまったこと。

 父に身体を触られていたこと。

 手で奉仕させられていたこと。

 今夜、初めて口を使われたこと。

 

 僕は「家」に執着していた自分を殴り殺したくなった。

 もうとうに、この家は自分の拠りどころでも、メラニーを護る場所でもなくなっていた。

 僕にとっては、メラニーがいるところが「家」で、そこで僕は彼女を護って、頼られて暮らしたかった。

 ただそれだけだ。

 僕が「この家が大好きだ」と言ったのは、「メラニーが大好きだ」と言ったつもりだった。

 

 父は翌朝早朝に、誰にも顔を合わせないまま家を出て、帰ってこなかった。

 三日後、僕が学校の廊下を歩いていると、校内放送で僕の名が呼ばれた。

 校長室へ行くと、慈悲深い顔をした禿げ頭の初老の男が僕を待っていた。

 その男は、警察のバッジと身分証を店、僕に父らしき男が人ごみでごった返す地下鉄の駅でプラットホームから落ち轢死したことを告げて、本人確認を求めてきた。

 僕は眩暈を起こして、その場にへたり込んだ。

 父が死んだということよりも、警察への恐怖で。

 

 僕は、僕もよく利用するその駅の防犯カメラの位置とその死角、画像の切り替え周期を知っていた。

 

 警察署で、検死も何もあったものではない肉塊が入った段ボールを見せられ、汚らしい時計を形見として渡された。

 僕は、魚のはらわたや肉屋で売られている臓物類を想起して、目を背けた。首筋あたりの毛が逆立つのを感じた。

 警察の人々は、口々に慰めの言葉を述べ、フューネラルホーム(葬儀場)と、メラニーの通うミドルスクールにも連絡を取ってくれた。

 黒服の葬儀場職員四名がすぐにやってきて、二名が段ボールを持っていった。これでなんとか、メラニーにこれを見せずに済む。残りの二名は葬儀の段取りと様々な葬儀プランの説明をし、僕に選択させた。「状態が状態なので」という彼らの勧めるまま、僕はヴィジテーションとフューネラルを同時に行うプランを選び、さっさと終わらせることにした。

 一通りのことが済むと、僕は警察の車両に乗せられてメラニーの通うミドルスクールへ連れて行かれた。

 メラニーは既に帰り支度を済ませて僕を待っていた。

 じろじろと見つめてくる生徒たちの中を僕は悲しい顔でメラニーの肩を抱いて歩き、パトロールカーで家まで送ってもらった。

 家に戻って喪服を引っぱり出し着てみると実に窮屈で、つんつるてんだ。

 メラニーに至っては喪服自体持っていない。

「メラニー、服、買いに行こうか」

 メラニーは黙ってうなずいた。

 僕はまるでデートでもするような気分だった。

 

 喪主というのはなかなかの激務だった。

 家族の死におけるこざこざとしたことをてきぱきと行うフューネラルコーディネイターの手腕には舌を巻いた。

 父の勤務していた会社から人事課の社員がやってきて見舞金や退職金の振り込みについて説明された。

 さらに、生命保険、遺産相続や相続税の手続きについてプロの士業連中を斡旋され、僕は反対する理由もなく委託した。

 ハイティーンは得てして、大人たちが馬鹿で分からず屋に見えるものなのだが、皮肉なことに、父の死が僕にまだ自分が子どもであることを痛感させた。

 ただ僕が勉強しかできない世間知らずだというだけの話なのだが。

 

 何もかもが落ち着いてから、僕はメラニーが淹れたコーヒーに砂糖とミルクを入れながらしみじみ言った。

「僕達、二人きりになっちゃったんだね」

 キッチンの流しの前に立ち、僕に背を向けていたメラニーの頭が前へ傾いだ。

「なあ、グレ兄」

「ん」

「あのとき、私が……」

 メラニーの声は震えていた。

「全部我慢してたら、父ちゃんは死ななかったかなあ」

 その言葉を聞いて、僕は即座に否定した。

「違うよ。メラニーは全然悪くない」

「父ちゃんは、私のこと好きだって言ってた」

 それを優しさと履き違えてでもいるのか、この娘は。

 僕は頭の奥がかっと熱くなった。

「うるさい!」

 メラニーが洟を啜りだし、音のない嗚咽に細い肩が揺れた。

「だって……父ちゃんいないのに……これからどうすんだよ」

 メラニーは、不安なのだ。可哀そうに。

「ごめん」

 僕はすぐに謝った。

「父さんがいなくなっても大丈夫。お金も十分あるし、大学に行きながら僕も働くよ」

「……」

「僕はただ、メラニーに自分のせいだなんて言わないで欲しいんだ。君は何にも悪いことはしていない」

 そうだ、メラニーは被害者なのだから。

 僕はメラニーを背後から抱き、そっと頬ずりした。

「もう、大丈夫。僕がずっと一緒にいるから」

しあわせの場所

 18歳になって法的な成人の年齢に達したとき、僕はだだっ広い家を売り払い、近所にある一回り小さな家に引っ越した。

 あんな男の匂いが染み付いた家など、さっさと手放したかったのだ。

 この年齢で、しかもただの勤労学生が家を購入するのはやはり珍しいことで、不動産の仲介人は何となくやりにくそうだった。

 購入したのは、庭に葡萄を絡ませたパーゴラがある明るい南向きの家で、メラニーも転校せずに今の学校へ通い続けることができる。

 メラニーがどこに何を置くかはしゃいで話しかけてくる横で、僕は購入契約書にサインした。

 

 引っ越しして、やっと片づけも終わって居心地良くなった家に僕が帰ると、メラニーが「お帰り」という。

 僕とメラニーの部屋には、二人でまた星座の蓄光シールを張った。

 僕の部屋には秋と冬の星座、メラニーの部屋には春と夏の星座。

 たまにインスタントやレトルトも混じっているが、メラニーの料理の腕も上がってきている。

 ああだこうだといいながら、感謝祭やクリスマスを祝い、2月にはいつもの顔ぶれを呼んでメラニーのバースデーパーティをする。

「お誕生会ってやつ、いっぺんやってみたかったんだよ」

 皆が帰ったあと、二人でリビングを片付けながらメラニーが満足そうに言った。

「また来年もみんなを呼んでパーティすればいいよ」

「もういい」

 メラニーは照れ臭そうに笑い、小さな脚立に上って天井の派手なフラッグガーラントを外した。

「だいたい、この歳になってお誕生会ってちょっと恥ずかしいだろ?」

「何歳になってもお誕生会はいいものだよ」

 ガーラントを畳んで箱に入れ、僕はメラニーに訊ねた。

「メラニー、幸せ?」

「うん。グレ兄は?」

 僕はメラニーのうなじから背中、腰に続くラインを心から美しいと思いながら言った。

「僕も幸せだよ」

 

 他人と接するととても疲れるものだ。たとえそれが幾度となく会ってきた、メラニーの友人であっても。

 僕は、片付けが終わったリビングで、ついうたた寝をしてしまった。

 だいたい30分くらい眠っていたのだろうか。

 身体を揺すられて目が覚めた。

 シャワーを浴びてきたらしく、長くなった黒鳶色の髪から滴を垂らしたメラニーが、間近に僕の顔を覗き込んでいる。

 メラニーは生まれてこの方、散々な目に遭ってきたというのに、どうしてこんなに澄んだ瞳をしてるんだろう。

「グレ兄、ベッドで寝ろよ。ソファじゃ窮屈だろ」

 僕は手を伸ばして、すぐ目の前のそばかすの散る頬を撫でた。

「メラニーは大きくなったねえ。この間まで痩せた猿みたいだったのに」

「ひでえな」

「髪も伸びて、随分綺麗になったよ」

「どうしたんだよグレ兄」

 僕は毛布を捲って起き上り、徐ろにメラニーを抱えた。

「メラニーはいい匂いだねえ」

 メラニーは少し驚いていた。

「何ふざけてんだよ」

「僕ねえ、ずっとずっと前からメラニーが好きだったんだよ。メラニーもだろ?」

「うん、まあ……」

 メラニーは背丈こそ伸びたが、やはり軽かった。

 そのまま僕の部屋に連れて行くとメラニーは僕の頭をばしばしと叩いた。痛くはない。

 もうドアを開け放していても、誰にも憚ることはない。

 メラニーがふざけた、しかし不安を隠せない口調で僕を咎める。

「何だよもうグレ兄。離せよ」

 僕はベッドにメラニーを下ろし、抱き締めた。

 

 あの男が欲しがっていたもの。

 それが今、自分の腕の中に在る。

 

 そっと、洗いざらされて伸びきったTシャツの裾から手を差し入れ、背中の滑らかな皮膚に触れた。

 この温もりとこの肌理、このしなやかさに触れてももう邪魔する者はいない。

 背骨の窪みに手を這わせると、ぐっとメラニーは僕の胸を両手で押した。

「グレ兄、それ、嫌だ」

「大丈夫だから」

 自分の声が不快に掠れた。

 回した腕に力を籠めると、細い身体は折れるかと思うほど後ろに撓んだ。

 逃れようとするメラニーの耳に、頬を擦りつけて言った。

「父さんより、君のお母さんよりずっとずっと可愛がる。約束する。だから……」

 ぴったりと合わせていた胸を引き、メラニーの顔をじっと見た。

 メラニーの薄い唇が小さく開き、震えていた。

「だからメラニーは、僕を置いて何処にもいかないよね?」

 映画やドラマでの見よう見まねで、その唇の隙間に舌を入れ思い切り吸う。メラニーが塞がれた口で何か呻く声の振動がじかに伝わる。

 目は覚めているのに、甘ったるい夢のようにふわふわとして、それでいて胸を圧し潰すような切なさに、体の芯が熱くなった。

 唇が離れた途端、メラニーが呟いた。

「どうして」

 どうしてって、決まっている。

「愛してるからだよ」

 涙と洟と、僕の唾液でぐしゃぐしゃの小さな顔を捕まえ、瞼を啜りもう一度キスをした。

 本当に嫌だったら、咬むはずだ。それならそれでよかった。

 だがメラニーは咬まなかった。

 ただ、嫌だやめてと、哀れっぽく泣き声を上げる。

 腕に強く爪を立てて抗う細い手もそのままに、逃げようとする腰の骨の出っ張りを掴み、身体の下に押さえつける。

 ベルトの金具の音を聞いて、メラニーはさらに顔を歪めた。

 メラニーの太腿に赤く長いひっかき傷をつけながら、両脚の奥の下着を夜着のズボンごと掴んで引き下ろし、潤いの足りない狭い部分に身を沈めるとメラニーは身も世もない悲鳴を上げた。

 

 鈍く光る人工の星座の下、メラニーが小さく身体を丸めて泣き続けている。

 僕はぎゅっと、小さなメラニーを抱き締める。

「僕はメラニーを一人にしないよ」

 泣かなくてもいいのに。

 ここは、僕たちの幸せの家。

 あの山羊たちが目指した、光溢れる野原。


 

   おしまい

bottom of page