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王女様の幸せな結婚

 

​呪いのカエル

 どうしてこうなった、というのがヴィルジニの正直な気持ちだった。

 目の前に猫ほどもある大きなカエルがいる。

 ぬらぬらと粘液に湿り、瞳孔が横に開いた両生類。

 黒っぽい緑色の皮膚に、膨れた白い腹。気持ち悪いにもほどがある。

 跳ねるたびにびしゃっびしゃっと肉を打つような不快な音が響く。

 そしてどぶ臭い。

「食べさせてくれるんじゃないの?」

 カエルが人語を操り、ヴィルジニの前にある鱒のポワレがのった皿に前脚をかけた。

 

 事の発端は今日の昼下りだった。

 ヴィルジニは教育係の鹿爪らしい顔に飽き飽きしていた。

「あなたは姫君なのですから!」

 二言目にはすぐこれだ。

 

 大口を開けて笑うな。

 大股を広げて座るな。

 静かに少しずつ食べろ。

 小鳥のように可憐に話せ。

 

――ああ、嫌だ嫌だ。

 

 ヴィルジニは自分は父の子ではないということを知っていた。

 父は要するに「種無し」で、何人愛妾を抱えても誰一人身籠らない。

 「石女」のレッテルを張った愛妾を臣下に払い下げた途端、彼女らが身籠ったことも一度や二度ではない。

 そんな中、占星術で幸運を運ぶと言われた色の服をたまたま着ていて、すぐにでも孕みそうな安産型の腰つきだというくだらない理由で、父は城に野菜を納めに来た美しくも賢くもない百姓娘に手を出し、ヴィルジニが産まれた。

 だがヴィルジニは知っている。

 産み月がおかしい。かなり月足らずで生まれた割に、彼女は体つきのしっかりした赤ん坊だったという。

 望んでなどいないのに王妃に次ぐ地位を得た母は、豪奢な居室にじっと座りいつも悲しげに遠くの空を見ていた。

「お前はよう似とらあ」

とヴィルジニの髪や頬を愛おしそうに撫でていたが、誰に似ているのか、は一度も言わなかった。

 父にも父方の血族の誰にも、そして母にも似ず、ヴィルジニは小麦色の肌に、赤っぽい栗色の髪と琥珀色の瞳を持っている。

 だから、自分はおそらく母の愛した誰かによく似ているのだ、とヴィルジニは思っている。

 父もおそらく感づいているのだろうが、自分の種無し説を払拭したいのと、ヴィルジニの将来的な利用価値を考えてのことか、一応王女として扱い大事にはしてくれている。

 しかしそこに肉親の情はなかった。

 ただ一人ヴィルジニを愛してくれた母は、お二人目はぜひお世継ぎの男子を、と周囲に言われ続けて最後には塔から飛び降りてしまった。

 ヴィルジニはどちらかと言えば、母と同じように城へ食材を納めに来る農婦や馬を商う博労達に親しみを感じ、いつの間にか立ち居振る舞い、口調が王女に相応しからぬものになってしまっていた。

 

 王位は、どこでも奇声を上げて視点も定まらないが御しやすい王弟が継ぐであろうし、彼女は自分が王女である以上一つの道具として一生を終えることを理解している。

 だから、今だけでも好きに振舞わせてほしいと考えていた。

 一応、父はヴィルジニをどこかに嫁がせたいらしいが、どの相手もひどく渋っていると聞く。

 そりゃそうだろう、と彼女は思う。

 こんな貧乏で何の産業もない国の、どう見ても田舎娘にしか見えない女なんぞ押し付けられずとも、好条件の揃った花のように可愛らしい姫君が近隣諸国にわんさかいる。

 

 そんな日々の中、ヴィルジニは頭の中がごちゃつくといつも広大な城の庭の東の端、山査子の茂みに隠れた古池のほとりで昼寝をしたり本を読んだり、厨房のコックたちから分けてもらった菓子をぱくついたりして過ごしていた。

 今日もヴィルジニは池にやってくると軽く背伸びをし、どさっと草の上に座った。

 頭にのせられた普段使い用の小さな金の冠をぐるっと回す。冠の下部についているコーム状の歯が、食い込んでいた髪から浮き上がり、冠はヴィルジニの頭頂から外れた。

 小さなものだとはいえ、金無垢なので重い。

 彼女はいつものようにそれをぽい、とそこにある岩の上に雑に置いたのだが、その日はどうしたことか冠はころころと転がり出した。

 慌てて拾おうと後を追うが、冠は睡蓮の葉に覆われた池に落ち、小さく水しぶきを上げると深く沈んでいった。光を遮られた昏い水底に、影も形もない。

 普段用の小さなものではあるが一応王女の証しであり、失くしたでは済まない。公的行事の中にいくつか、その冠をつけて出席することを規定されているものもある。

 ヴィルジニは靴と薄い靴下を脱ぎ、ドレスの裾を高くからげるとそっと池に脚を入れてみた。水の冷たさに身を硬くする。

 池は意外と深く、腿まで水に浸かっても足の先は底に触れない。

 何かぐにゃっとしたものがふくらはぎに触れたような気がするが、睡蓮の茎か何かだろうか。

 一旦池の水から足を引き上げて、青い空のうつる水面を見つめながら、ヴィルジニはシンプルに心情を吐露した。

「やべえ」

 

――仕方がない……誰も見てないし……脱いで潜るかな?

 

 ヴィルジニが胸の編み上げ紐を外し始めた時、池から人間の声とは言いがたい声がした。

「こんにちはヴィルジニ。はじめまして」

 声のほうを見ると、睡蓮の葉の隙間からぬめぬめと黒光りした暗緑色の大きな生き物が顔を半ば出し、ヴィルジニを見つめていた。

「今日まで、君のことはよく見てたよ」

 当然、ヴィルジニは仰天し、はだけたままの胸のことも忘れて池の縁から飛びのいた。

 

カ……カエルがしゃべったああああああ!!!!

 

「ちゃんと挨拶を返してよ、一応姫君なんだろ?」

 ゲコゲコ音が雑じり非常に聞き取りにくいが、大きなカエルが確かに人語を操っている。

 口調に害意はなさそうだ。

 しかし相手はカエルである。表情が読めない。

 そして何より、ヴィルジニは両生類が大嫌いだった。

 思わず後ずさりながら、ヴィルジニは恐る恐る挨拶を返す。

「…………ごきげんよう」

 カエルは睡蓮の葉に乗ろうとするがヒキガエルの3倍ほどもあるその体躯に、乗った端から睡蓮の葉は沈んでしまう。

 諦めたのか、カエルは水から顔だけ出して浮いたまま喋った。

「何かお困りのようだね」

 ヴィルジニは急いで足元の石を拾い、握り締める。

「話を聞いてあげようか?」

 石を拾ったはいいが、意思の疎通ができる生物に、いきなり投げつけるのには躊躇いを感じる。

 それにこいつはあくどい感じはしない。

 ヴィルジニは思った。このカエルなら、重い金の冠を持ったままでも泳げるだろう。

「……そうだ! うん、困ってる! 今、冠をそこに落としちゃったんだ。頼むから、拾って!」

「……粗忽者だね」

 カエルはしばらくヴィルジニの胸元をじろじろ見ていたが、妙な質問を始めた。

「ちょっと聞くけど、君、誰かとキスしたことは?」

「母と、それから儀式で父のほっぺたになら」

「口には?」

「ない」

「じゃあ男性経験は?」

「私は一応王女だよ? 男と寝るわけないでしょうがバージンは嫁入り道具だし」

「そっか」

 無表情なカエルが一瞬、嬉しそうな顔をしたように見えた。

「取引しようよ、お姫様」

「カエルのくせに私と取引?」

「うん。今日から、一緒に食事して『はい、あ~ん』って食べさせてよ。それから、一緒にお風呂に入って、一緒のベッドで寝る。それを約束してくれたら拾ってきてあげる」

「は?お前、私に飼われたいっての?」

「飼うっていうか、人間みたいに扱ってよ」

 やっとカエルの視線を感じ、ヴィルジニは慌てて解いていた胸の紐を結び直した。

 気持ち悪い。

「カエルの分際で何言ってんの」

「ねえ、約束してよ。まあ、脱いで潜りたいならそれでもいいけど、ここ結構深いよ。底は睡蓮の茎や根で見えにくくなってる」

 雨が近いのか、カエルは喉をひくひくと膨らませている。

「……だから僕も、ガイドとして裸の君と一緒に潜ってあげるね」

 ヴィルジニはその言葉にぞっとして、潜るという選択肢をあっさり捨てた。

 とりあえずここは嘘でいいからカエルにやらせるべきだろう。

 いくら人語を操ることができるからと言ってカエルはカエルだ。

 頭の中はハエやバッタのことだらけ、きっと約束の事なんか覚えていてもせいぜい1時間程度だ。

「……わかった。それでいいよ。拾ってきて」

 両生類との約束など全く守るつもりはなく、ヴィルジニは答えた。

 カエルは瞬膜で目を覆うと小さく水面を揺らして潜って行き、すぐに小さな冠を抱えて浮き上がってきた。

「おっ、これこれ!!ありがと!」

 手を伸ばして冠を受け取ろうとするヴィルジニの手にいきなりカエルは飛びつき、そこを踏み台にヴィルジニの顔へべしゃりと跳ぶ。

 ヴィルジニは唇に、カエルの軟骨状の口の端、冷たくべとついた両生類の皮膚を感じ、びっしりと鳥肌を立てた。

 

「ぎゃあああああああああああ!!!」

 よりによって顔に両生類が!!!

「うわああああああああ!!!!!!!!」

 ヴィルジニはカエルを振り落とすと、二度目の悲鳴を上げながら冠を掴んで全速力で走り去った。

「待って!約束はどうするんだよー!」

という間抜けな声が聞こえた。

 

 カエルはヴィルジニの後姿を見送ると、粘膜に覆われた長い指のある前足をじっと見つめた。

――だめだった……

 「王女のファーストキス」にはすごい魔力があるらしいぞ、と同類に聞いて、毎日のようにここへ来てくつろいでいる娘にやっとキスをしてみたが、無駄だった。

 肌が直接触れたところがひりひりする。水の中に棲む身は人間の肌のぬくもりで火傷寸前だ。

 やっぱり、決められている通りの手順を踏まないと駄目なのだろう。

 カエルはのそのそと鈍重な体で、ヴィルジニの後を追い始めた。

 

「窓を閉めて! ドアも全部閉じて!!」

 自分の部屋へ戻るなり、ヴィルジニは侍女に命じ、自らも手近な窓を施錠し始めた。

 そして水を運ばせて手と顔、そして冠をごしごしと洗い、歯を磨いた。

「どうなさいました?」

 教育係の女官に訊かれる。

「さっき、池ででかいカエルが喋ってて……」

 ヴィルジニは言いかけて、やめた。

 頭がおかしいと思われるのが関の山だった。

 それにあれは夢かもしれない。うん、きっと夢だ。単なる白昼夢だ。

 でも戸締りは厳重に!

「……なんでもない」

 

 夕刻、一人きりの寒々しい食卓につき、野菜の切れ端を煮たスープをしみじみと味わっていると、何かがヴィルジニの膝の上にのってきた。

 時々、父の愛妾たちが飼っている毛の長い猫が紛れ込んできて、たまにこうして膝の上に跳び乗ってくるので、ヴィルジニはもう慣れていた。

 今夜はメインに鱒が出ると聞いている。

 一口くらいなら食わせてやってもいいかな、と思いながらヴィルジニは膝の上を見た。

「こんばんはヴィルジニ。置いてくなんてひどいよ」

 その瞬間ヴィルジニは咽せ、激しく咳き込みながら悲鳴を上げた。

「う……ぎゃ…………あああ……ああああああ!!!!!!!!!!」

 膝の上に、あの変温動物がのっていた。

 排水路でも通ったのか、汚水の臭いを漂わせている。

 慌てて膝から払い落とそうとするのと、立ち上がろうとするのをいちどきに行おうとしてヴィルジニは椅子から転げ落ち、椅子は派手な音を立てて倒れた。

 カエルはそれを尻目にヴィルジニの膝から悠々と白いテーブルクロスの上に跳び移った。

「……質素なもの食べてるんだね」

 給仕が飛んできてすっ転んでいるヴィルジニを助け起こし、卓上にカエルを発見し驚く。

 彼はこの不潔にぬめつく生きものを、ナプキン越しに掴み上げた。

「どこから入ってきたんだこんなでかいの……」

 思わずつぶやく給仕に、カエルが言った。

「下水溝から入ったよ」

「!!!!!!!」

 その声を聞いてヴィルジニ同様給仕も凍りつき、この巨大なカエルを取り落した。

「僕には構うな。うるさく騒ぐと呪うぞ」

 カエルの真黒な瞳孔は夜の暗さに大きく開き、給仕の男を睨んでいる。

「ひ、ひいっ! ど、どうかお許しを! お慈悲を!」

「給仕なら給仕らしく給仕してればいい。僕とヴィルジニが静かに食事できるように計らってよ」

 

 そして現在に至る。

 したり顔のカエルが言う。

「約束は守らないとね。ちゃんと食べさせて」

 ヴィルジニは青ざめている。

「嫌だって言うなら君も呪っちゃおうか? カエルになって僕と一緒にあの池に住む?そして毎日虫食べてゼリーみたいな卵にょろにょろ産む?」

「やめて……吐きそう……」

「……じゃあ、その鱒の背中のとこ、食べさせて」

 自分がカエルになるという恐怖と生理的嫌悪感でヴィルジニは抗う気を無くしてしまった。

 ヴィルジニはフォークに魚の身を載せ、そっとカエルの前に出す。

 カエルは舌を出してそれを巻きとり、口に入れた。

 せり出していた眼球が頭蓋に沈みこみ、まるで目をしっかり閉じているように見える。カエルはこうやって眼球を使って、食べたものを嚥下するのだ。

 その気味の悪さに、ヴィルジニは思わずフォークを手から離した。

「久しぶりだ……人間の食べ物はいいね」

 カエルが感慨深げに言った。

 

 ヴィルジニは湯浴みの支度をしていた。うなじの留め櫛できっちり結っていた栗色の髪を解き、自らブラシを入れる。

 カエルは窓際にべったりと蹲り、ヴィルジニの一挙手一投足を見つめている。

「ヴィルジニ、君はあっちに行かないの?」

 カエルが訊ねた。小さな前足で回廊の向こうの大広間から漏れる灯りを指差す。

 風に乗って、人々のざわめきと緩やかな舞曲が流れてきた。

「舞踏会か何か、やってるみたいだけど?」

「私はいいんだよ。国外のやつの接待ならまだしも、ああいううちの国のえらいさんが集まるとこには出ないことにしてる」

 王女が国内の貴族連中を指して「えらいさん」というのには違和感があった。

 カエルは訊ねた。

「王女なのに? なんで出ないの?」

「私はほんとは王族じゃないから」

「え?」

「私の母は無理矢理愛妾にされた百姓女でね。父の側に上がったときには誰かの種が仕込まれててもう私が胎ん中にいたらしい。だから私は本当は生粋の田舎娘なんだよね」

 カエルは黙って聞いている。

「だけど、王女扱いされてそれなりに務めを果たしてるといろんなもん見ちゃうんだ。病気でやられた麦畑とか、ガキんちょの頃から最期までずっと働きづめで死んでいく年寄りとか、口減らしに捨てられたり売られたりした赤んぼとか。そんなん見てると、私が誰の子で、どういう経緯で王女やってんのかなんてどうでもよくなったよ」

「…………」

「で、この心優しいヴィルジニ様は思うわけ。私が我慢すれば、この国が他の国から守られて、もっと豊かになるんじゃないかって」

「何を我慢するの?」

「見たこともないよその国の男とかと結婚させられて子ども産んだりとかだよ。だから国外の客が来たときだけ、こっぱずかしいドレスきてお接待するんだよ」

 ヴィルジニは、政略結婚した多くの王や王子が王妃・王太子妃と不仲であり、世継ぎを生んだ途端無実の罪を着せられて処刑されたり病気と称して幽閉されたりすることも珍しくないことを知っていた。

「だから、結婚するまでは自由にさせてもらえたらって思うんだ」

 窓から入る夜風に、髪を弄らせながらヴィルジニは少し唇の端を吊り上げて微笑んだ。

「ま、私の自由って言ってもたかが知れてるけどさ」

「……君は甘いよ。ここはどう贔屓目に見ても弱小国だし、要所に存在してるわけでもないから、君には人質にする価値すらない。持参金もあまりなさそうだし」

「…………」

「自己犠牲の精神は素晴らしいけど、もっと世間を見てみるといい」

「カエルのくせによく知ってるなあ」

 ヴィルジニは特に怒る様子もなく言った。

「それでも私は、私にできることをやるしかないんだよゲコゲコ野郎。王族が駄目なら豪商を当るよ」

 カエルは小さな前足をよちよちと踏みかえてヴィルジニのほうへ上体を擡げた。

「……僕は、君がこの国の君主になるといいと思う。きっといい為政者になる」

「は?」

「そしてどこかから王配(女王の配偶者)でもとったらいい。ほら、近隣諸国にどんなに頑張っても王位を継承できなくて燻ってるのがぞろぞろいるだろ?」

「考えたこともなかった……」

「じゃあ今考えてみてよ。……この国を自由にできるとしたら、やってみたいことがあるんじゃない?」

 一次産業にやたらとしがみついている父には何か思惑があるんだろうか???

 ヴィルジニがそう深読みしたくなるほど、父は農業ばかりを振興したがっている。改革を好まぬ、いわゆる凡愚の類だった。

「……ここ、農業には向いてないけどいいカオリン(陶土の一種)や石英が出るんだ。ちゃんとした陶工連れて来て工房を作って、満足な磁器が作れるようになれば、みんな食えるくらいにはきっとなる。そしたら学校も病院も建てて……」

 ヴィルジニは本気で、この国を何とかしたいと考えていた。

 磁器の製法を手に入れ、ちゃんとした人材を育成し、工房を作って販路を確立さえすれば、きっとこの国はもう少し豊かになる。

 しかし当時、磁器はとある国家の専売特許状態で、製法は厳重に秘されていた。陶工は監禁状態で死ぬまで働き、逃亡しようものなら捕まったその場で殺される。

 ヴィルジニは自嘲するように小さく笑った。

「でも……とにかく金も知識も人材もないし、それこそ夢物語だって」

「…………」

「だから、この国を手っ取り早く何とかしようと思ったら、強くて金持ちの国に私が嫁いでうまく立ち回るしかないんだよね……こんな嫁き遅れの不細工な貧乏女を嫁に欲しがる馬鹿はいないけど」

「僕は、君をお嫁さんにできる男は幸せだと思うよ」

 カエルは頬のあたりを前足で照れたように擦り、再び真面目な調子で続ける。

「でも君が身を削ってこの国が潤うようにしたって、血の繋がらないお父さんはそれを活かせないと思う。だから王を退位させて君がこの国の女王になって、君の好きなようにしたらいい」

 ヴィルジニはまじまじとカエルを見た。カエルも見つめ返した、が二秒と持たずヴィルジニは目を逸らした。

――気持ち悪い。あんまり見ていると夢に出てきそうだ。

「……お前、面白いなあ。人間だったら、いい話し相手になったんだろうけど」

「………………」

「ごめん、私はカエルが大嫌いなんだ」

「…………」

カエルは少々わびしげに床に視線を落とした後べたんべたんと跳ね、三段跳びの要領でヴィルジニの腕の中に飛びこんだ。

「さあ、一緒にお風呂に入る約束だ。連れて行って」

「ひぎいいいぃぃぃぃ!!!!」

 

 バスタブの傍ら、盥に張った水の中でカエルは器用に4本の足を動かして体を擦っている。それはなかなかユーモラスな光景だった。

 バスタブからヴィルジニが気味悪そうにそれを見下ろしている。

「カエルが体洗うの初めて見た」

「だって今夜は君と初めてベッドを共にするし」

「その言い方はやめて」

 カエルは体を洗い終えたのか、ヴィルジニが身を沈めているバスタブのほうへ向き直り、伸び上がった。

「……ねえ」

「何」

「ここ視点が低くて、ヴィルジニの首から上しか見えない」

「だから何」

「ヴィルジニの身体が見たい」

 カエルにとって人間の身体が興味をそそるものだとは思えないのだが、このカエルは熱心にヴィルジニの顔を見上げている。

「え?」

「君は僕の裸を見放題なのに僕は君の身体を見ていない」

 カエルはバスタブに飛びつきよじ登ろうとし始めた。

 やっと上端に手を掛けたところで、上からヴィルジニが湯をかけた。

「熱っ!!!!」

 湯はぬるかったが、普段常温の水に棲むカエルはひとたまりもない。手足をばたつかせながら落ち、白い腹を見せひっくり返った。

「う……」

「いい気味だエロガエル。お前なんかに見られてたまるかって」

 この両生類は人間の裸が好きなのらしい。まったく汚らわしい。

 ヴィルジニは呼び鈴をけたたましく鳴らした。

「誰か!このカエル捨ててきて!」

「捨てたら呪うからね……オスガエルに抱きつかれてひいひい言いながらぷるぷるゼリー産むがいい。オタマジャクシにママって呼ばれろこの嫁き遅れ!」

 オタマジャクシ……

 ヴィルジニはついあるものを思い出してしまい、湯の中でぶるっと震えた。

 最近、領内を散歩中沼で真黒な塊が蠢いているのを見た。小さな尾の生えた黒い生き物がぎっちりとボール状に群れをなし、犇めく。

 あれはオタマジャクシだと農民の子が教えてくれた途端、ヴィルジニは貧血を起こしそうになったものだ。

 呼び鈴に応じドアを開けて入ってこようとする侍女に、ヴィルジニは慌てて声をかけた。

「ごめん、何でもない! 下がってて」

 ひっくり返っているカエルにタオルを被せ、ヴィルジニは急いで体を拭き、夜着に身を包んだ。

 カエルはタオルの隙間から、浴室の鏡に映っているヴィルジニの姿をじっと見つめていた。

​王女様にはどうしようもない

「何これ」

 籠とタオルでぞんざいに作られた小さな寝床がクイーンズベッドの横に置かれている。

「お前はここで寝るの!」

 

 朝目が覚める。

カエルが、顔にのっている。

破れた皮膚から白っぽい肉を覗かせ、身体の下でカエルが潰れて死んでいる。

夜着の中に侵入して、肌の上をカエルが這い回っている。

 

 どれを思い描いても、発狂しそうだった。同衾などとんでもない。

「風呂は僕が火傷するから盥で我慢したけど、これは譲らない。一緒にベッドで寝るって約束じゃないか!」

「嫌だ!」

「呪うよ」

「何か言うと呪う呪うって言うのやめてよ!」

 ヴィルジニは金切声を上げ、カエルは喉を膨らませた。

「でも、約束は約束だよ。守ってよ」

「勘弁して……頼むから」

 カエルはヴィルジニの足元でそっと前足を伸ばし、着こなれて柔らかい夜着の裾に触れようとした。

「そんなに僕が嫌い?」

 ヴィルジニは慌ててカエルから離れた。

「私はカエルが大嫌いだって言ったでしょ?!」

「……僕が他の生き物だったらベッドに入れてくれた?」

「猫や犬ならやぶさかじゃないよ」

「……人間だったら?」

「叩き出す。嫁入り道具は守らないとね……って、何やってんのうわああああああ!!!!」

 カエルが、一跳びしたかと思うと夜着の裾をぱっくりと口に入れていた。

 慌てて吐き出しながらカエルが言う。

「ごめん……目の前で揺れるものはつい……えっと、人間だったら、どうするんだっけ?」

「人間じゃないくせに訊いても無駄でしょ!」

 

 結局、今夜は許してやる、と偉そうに言い捨ててカエルはタオルの中へ潜り込んだ。

「明日の朝は、半熟の茹で卵が食べたいな」

「うるさいよ」

「……ヴィルジニは固ゆでと半熟、どっちがいい?」

「どうでもいいよそんなの」

「君、バターはつけるほう?僕はつけてほしいんだけど」

「さっさと寝たらどうなのさ」

 ヴィルジニはカエルから離れてベッドの端ぎりぎりに身を置き、カエルが寝こんだら、従僕にこのタオルごと城から遠く離れたところへ捨てに行かせようと思っていた。

「灯り消してよ……僕は暗くないと眠れないんだよ」

 ヴィルジニはカエルを無視した。

 何度も灯りを消すよう催促しながら、カエルの声が眠たげに低くなる。

 透明な瞬膜を閉じ、眼球が半分眼窩に沈んだ状態でカエルは静かになった。

 静かなカエルは、死骸のようだ。

 それはそれで気味が悪かった。

 

 このカエルはカエルのくせにやたらと人間臭い。

 人間になりたくて、人語を習得したのだろうか?

 ずっと人間の生活に憧れていたのだろうか?

 カエルになんか生まれたくなかったと思ってるなら、そこは共感できる。

 私だってカエルに生まれたくない。

 

 そのようなことを考えるうち、従僕を呼ぶことも忘れヴィルジニもすっかり寝入ってしまった。

 彼女も当然のごとく、精神的に疲れ切っていた。

 

…………。

 

 苦しい。

 呼吸が苦しい。

 何か、水音……粘液が空気を含んで掻き回されているような音がする。

 胃の上あたりで何かがもにょもにょと動いている。

 げこ、と鳴き声がした。

 

「!!」

 ヴィルジニは目を覚ました。

 一つだけ残しておいたランプの灯りで彼女は胸の上を見、仰天した。

 

 カエルが、彼女の乳房の間に顔をのせ、腕を大きく広げて小さな手でヴィルジニの夜着を握りしめていた。

 すぴー、すぴーと鼻孔で息をし、げこ……げこ……と小さく鳴きながら カエルはしきりと後ろ足でヴィルジニの腹を掻くように動いている。

 その辺りの夜着が濡れて、ぐちゅぐちゅと粘った音を立てている。

 明らかに水ではない、ねばねばとした何かだった。

 

「ひっ!!!!!」

 恐怖の極みで情けない声を一瞬上げた後は喉に何かが詰まったように悲鳴が出て来ない。

 息を呑む音と身体の緊張を感じ、カエルが顔を上げた。

「ごめん……目が覚めちゃったね」

 ゲコゲコ音がほとんどを占め、さらに聞き取りにくくなった声でカエルが謝る。

 そして後ろ足をしつこく動かしながらもうほとんど人語とは言えない声を上ずらせた。

「……その……僕のことは嫌いじゃないんだよね?……カエルだっていうことだけが嫌なんだよね?」

 カエルがもう一度、愛おしそうにヴィルジニの胸に顔を埋めた。

「僕、ヴィルジニが大好きだ。だから」

 その時カエルは自分が熱い手で掴み上げられるのを感じた。

 カエルの後ろ脚に白い泡がまとわりついているのを見て、ヴィルジニはおぞましさに総毛立ち、その醜悪な生き物を思うさま壁に叩きつけた。

 

 視界に映るものが目まぐるしく動く、と言うよりそれを感じる間もカエルには無かった。

 そのままカエルは体液を撒き散らして潰れ、一瞬壁に貼りついた後その重みでずるっと剥がれて、床へ落ちた。

 

――殺っちゃった……

――どうしよう……

 

 もうこんな部屋では寝られない。

 とにかく今は、手を磨き砂とたわしで洗いたい。風呂にもう一度入って着替えたい。

 

 そして、死んだカエルを少し哀れにも思った。

 

――お前が悪いんだから!

――でも、ごめん……

 

 カエルを掴んでしまった手を体から離して宙に浮かせながら、ふらつく足で部屋を出ようとしたとき。

 

 突然部屋中が真昼よりも明るくなった。

 

 稲妻を目のあたりにしているような、強く白い光。

 調度が総て部屋の隅に吸いつくように吹き寄せられ、カーテンが引き千切れるほどに荒れ狂う熱風。

 

 それは、カエルが潰れて死んでいる辺りから発せられている。

 

 ヴィルジニはへなへなと座り込んだ。

 私は呪われてしまったんだろうか。

 光の中、潰れたカエルに巻きつくように、虚空から人間の肉体が形作られるのが見える。

 脳、骨格、神経の束、血管、五臓六腑、腱、赤と白の細い筋繊維が一つのものを構成していく。

 最後になめらかな肌ですべてが包まれ、髪や眉、体毛、爪が生える。

 光と風が徐々に弱まっていき、夜の静寂が戻ったころには一人の若い男がカエルの姿勢で蹲っていた。

 

 男はランプの弱い光の中、しげしげと己が手を見つめた。

 もうそこには粘膜も水掻きもなく、乾いた皮膚に指紋があり、爪が生えている。

「戻った……」

 無表情な面長の顔に、信じられない、と言ったような喜びの表情がゆるゆると浮かんだ。

 そろそろと立ち上がった男は、やたらと背が高かった。

 鏡の前に行き、男は黒い髪、顔、胸……と体中に触れてみている。

「戻った! 戻ったよ! ヴィルジニ!!」

「……」

 ヴィルジニは震え上がった。

 カエルが人間に見える。

 人間は同属だ。

 カエルが同属に見える、即ち私はカエルになってしまったのだろうか……?

――どうしよう!

「たすけ……助けて……」

 尻を床につけたまま、ヴィルジニはじりじりと後ろへ退がった。

「嫌だ……!!! 助けて! 呪わないで!」

「え??」

 半泣きのヴィルジニに、カエルだった男は言った。

「呪ったりしないよ。僕の呪いが解けたんだ! カエルから、人間に戻れたんだよ!!」

「へ?」

「妹の結婚にずっと反対してたら、とうとう妹がマジギレして僕を呪ってきてさ、カエルにされちゃったんだ。実の兄に対してひどいよねぇ」

 兄妹喧嘩?!

「可愛がってた実の妹が『本当の姫君がメシ・フロ・ネルに応じた後に僕を殺す』っていう解呪プロシージャを大笑いしながら決めたときは死にたかったよ……」

 どうもこの男は、溺愛していたという実の妹に相当嫌われていたらしい。

「……へ?」

 ヴィルジニは話が呑み込めそうで呑み込めなかった。

「君が王の娘じゃないって知った時は、君じゃ駄目かもって思ったよ。でもよくわかった。本当の姫君って言うのは、血統じゃないんだ」

 カエルだった男は床にへたばっているヴィルジニの傍らに膝をつくと嬉しそうに抱きついた。

 壁に埋め込まれた姿見に、男の尻が間抜けに映っている。

 男の全裸とは、何とも締まらないものだ。

「ヴィルジニがいなかったら、僕は一生カエルの姿でいなきゃいけなかったよ!」

 ヴィルジニは恐る恐る尋ねた。

「あの……呪うって言ってたやつは……」

「僕は魔法とか呪力とか、そんなの持ってない普通の人間だよ」

 何のことはない、ヴィルジニはカエル男のはったりに踊らされていたのだった。

 自分がカエルになったのではなく、これからカエルにされることもないということまで理解して全身から安堵の汗が噴き出す。

 とりあえず、ヴィルジニは祝福の言葉を述べてみた。

「…………えっと……よかったね……おめでとう……?」

「ありがとう!!!!!!」

「…………どういたしまして?」

 男はもう躁状態で、ヴィルジニをしっかりと裸の胸に抱いて人形のように左右に揺すりながら、うきうきしている。

「ああ!! 僕が今どれだけ嬉しいかわかるかなぁ!!」

「……わかった……わかったから…………ちょっと…………離して」

 ところが、男はヴィルジニを離さない。そのままヴィルジニをベッドへ運ぶと性急にのしかかる。

「……カ……カエル?!」

 ついさっきまでぬめぬめべとべとしたカエルだった男が、自分に対し何をしようとしているかヴィルジニははっきりと理解し、いちどきに血が凍った。

 

 さっきの続きだ!!!!!!!!!!!

 

 間近に見る男の瞳は青黒く、あのカエルの皮膚の色そのものだ。

 耳元に荒い息がかかった。

「僕はもうカエルじゃない。僕の名前はウィル……」

 

 名乗ろうとするその顔を、爪を立てて思い切り引っ掻く。

 男が一瞬ひるみ、その隙にヴィルジニはがくがくする手足で這いだそうとしたが、すぐさま後ろから男の大きな手がヴィルジニの頭をぐっと掴み、ベッドに顔を押し付けられた。

 頭を押さえられ、うつ伏せのまま手足をばたつかせるヴィルジニは、まさにカエルのようだった。

 暴れるうち、夜着がまくれ上がり太腿まで露わになる。

 そこへ身を割り入れながら、男は熱に浮かされたように囁いた。

「……大丈夫……大丈夫だから。ね?」

 何が「ね?」だ?!何が大丈夫なんだ?!

「や……め…………」

 

――重い……苦しい!!!苦しい!!息が出来ない!!!!痛い!!!

 

 カエルの習性そのままにぎりぎりと抱き潰されながら、哺乳類方式で身体の奥が裂かれていく。

 犬猫でも雌の意思は尊重されるというのに、この遠慮のなさは。

 意識が遠のく中でヴィルジニは思った。

 

――カエルのままでいてくれた方が、まだましだったな

 

 目を半眼のままに大人しくなったヴィルジニの身体を、自分の身の下で人形のように自由に屈曲させて、男は人間であることの喜びを全身で味わっていた。

 カエルでいたころは、人間の皮膚は熱くて痛くて、布越しにしか触れられなかった。もちろん、その状態でも布を通して体温が伝わってくるとつらかった。

 でも今は直に触れられる。心地よい柔らかさと温かさだ。

 腕の中にいる女は心映え優しく健やかに美しい。

 

 自分がカエルになり森に捨てられてやっと反対する者が消え、大嫌いな男と最愛の妹が幸せいっぱいに結婚してしまったこと。

 飢えに耐え兼ねて初めて口にしたコオロギがひどく美味に思え、泣きながら飲み込んだこと。

 秋の満月の夜、大きな体に興奮したオスガエル達に大群で抱きつかれ、泡だらけになって這う這うの体で逃げだしたこと。

 文字通り身の凍る寒さの中、辛うじて腐葉土の下に潜り込んでなんとか冬を越したこと。

 この重い身体を引きずって解呪の協力者を探す日々の中で、幾度となく馬車に轢かれ、牛に踏まれ、狐や鷲に喰われ、夏の強烈な陽光に干上がり、「呪うぞ」が通じない子どもたちに捕まって嬲り殺されたこと。

 そして「もうここで死んでもいい、むしろ死にたい」と思っても数時間で体が再生してしまうこと。

 

 でもこうしていると、すべて忘れられる。人間に戻った実感が身体の奥底から際限なく湧いてくる。

「……ヴィルジニ、ありがとう……本当に」

 彼はヴィルジニの身体のそこかしこにキスしながら言ったが、彼女は人事不省だった。

 

 朝、ヴィルジニが目を覚ますと男の姿はなく、もちろんカエルも消えていた。

 調度はすべて元のところにあり、何事もなかったかのように見える。

 風に引きちぎられていたカーテンも平和に元の場所に垂れ下がる。

「おはようございます」

 ヴィルジニを起こしに来た侍女がそれを開けて古ぼけた金糸のタッセルで窓の脇に留めつけた。

 外は雨だった。

「…………」

 ヴィルジニはひどい怠さを感じながら身体の上に掛かった絹布団を押しのけ起き上ろうとした。

 そして両脚の間、彼女が「嫁入り道具」と呼んでいたものが存在していたところがぴりぴりと引き攣れるように痛むのに気付いた。

 寝乱れた夜着にもシーツにも、そして枕にまで血の染みが点々とできている。どうも自分は、ベッドじゅうを引きずり回されていたらしい。

 呼吸のたびに肋らのあたりが軽く痛むのはひびでも入っているのだろうか。

 今まで知らなかった生々しい臭いが寝具にも自分の身体にも染みこんでいる。

 ヴィルジニは慌ててもう一度掛布を引き被り侍女の目からこの『事件』を隠しつつ、至ってドライに心情を呟いた。

「やべえ」

 それは、自分自身をこの国の未来のために使う一つの道具としか見なしていないヴィルジニの正直な気持ちの吐露だった。

 

 その悪夢の夜から三か月ほど経ったある日。

 朝からがちゃがちゃという武具防具の触れ合う金属音がひっきりなしに聞こえていた。

 城全体が何だか物々しい雰囲気だ。

 何事が起きてもいつもわざと蚊帳の外に置かれるヴィルジニもさすがに気がつく。

 窓際に座り外を眺めると、見たこともない紋章旗を掲げた異国の騎兵隊が城中へ進軍するのが見えた。

 その人数は、一個旅団規模と言える。

 訓練の行き届いたその動きと煌めく鎧に、王女はひどく不安を覚えた。

 

 しばらくすると父王がヴィルジニを執政の間に呼び付け、告げた。

「わが娘ヴィルジニよ。いきなりで驚くだろうが、お前を妻にしたいという申し出があった」

 父は芝居がかった口調で、豊かさで知られ無慈悲極まりない軍を抱えるとして懼れられる国の名を口にした。

「そこの次男坊が、この国に婿入りしたいそうだ。名前は……え~とウィル……ウィルバーとか何とか……」

 ごくありふれた名だった。

 でも、名前なんぞどうでもいい。

 とにかく、選り好みできる立場にないのは重々承知している。

 願ってもない縁談だ、と言ってもいい。

 しかしあまりにも急だ。

 父王は続ける。

「その男、ここから二度と出ていかない、この国でお前を女王にして王配になりたい、とはっきり言っているぞ。もう城内で返事を待っている」

 あの仰々しい軍隊は、その男が率いてきたものだったのだろう。

 幼稚で図々しいこと極まりない。

 父王の隣で、王弟……次期国王になるはずだった男がへらへらと笑い、涎を垂らしていた。

 ヴィルジニは低く訊ねた。

「……そいつの持参金は」

 父の侍従に渡された羊皮紙の目録を見てヴィルジニは目を丸くした。

 夥しい金、銀、様々な宝飾品に軍馬、兵士、そしてなぜか小さな村ができるほどの人数の陶工たち。

 とある国の磁器製造工場となっている要塞を襲撃・拉致でもしない限り、得られないはずの職人たちだ。

 

 ヴィルジニはうーん、と唸った。

 自分のような不細工でトウの立った女を妻にして、こんなしょぼい国に、これだけのものを齎してくれるなら、悪くはない。

 ただ、私は……

 ヴィルジニは唇を噛んだ。

 

 国によっては、初夜を過ごしたそのベッドのシーツを王族一同の前で拡げ、その血の染みを王家同士の盟約の印として尊ぶ。

 初夜の営みを国家間の約定の締結儀式として、親族や高官の前で行うこともまだ根強く行われている。

 ただの見知らぬ者同士の目媾いが国と国を繋ぐ意味を持ち、処女性が強く要求されていた。

 

……黙ってればわからない……かな……

「血が出ないときは、一通り終わって観衆が出て行き相手が寝入ったあとにひよこの首を切りその血をシーツにこすり付けるとよい」とも聞くが……。

 

 父王は、この自分にまったく似ていない庶民的な顔だちの娘が複雑な表情を浮かべているのを見て、その上を行く難しい顔つきで言った。

「ヴィルジニ……その男はお前を知ってると言っているんだが……」

「は?」

「その……男女の仲として……知っている、とか……」

「??!!!?!!!!」

「で、お前にどうしても会いたいそうだ。今、城の中庭にいるぞ」

 

 ヴィルジニは、中庭に張りだした閲兵用のバルコニーへ出た。

 小さな城の中庭は、磨かれた甲冑や盾で陽の光を跳ね返す騎兵の隊列で埋め尽くされている。どいつもこいつも惚れ惚れするような偉丈夫の体つきだ。甲冑をつけていてもはっきり分かる。

 騎兵の傍らにいる馬は全て青毛で、艶々と光っている。

 重装兵をのせて騎行するに足る馬体を持つデストリア種を青毛だけ、これだけの頭数集めるということは相当の国力を持つということだった。

 その威圧感に、ヴィルジニは口の中が乾くのを感じた。

 この国の戦力は本当に心許ない。城壁内に入られたらもう丸腰も同然だ。

 この兵たちがいちどきに戦闘を開始したらひとたまりもなくこの城は落ち、王族は揃って民の前で首を刎ねられるのだろう。

 

 その隊列の前で、ひときわ大きな、ふさふさとした蹄毛に流星鼻白の馬に騎乗した男がバルコニーを見上げていた。

 ヴィルジニに気がつくと、彼は振り向いて率いる隊列に高く片手を揚げた。

 面頬を上げた騎兵がヴィルジニに一斉に敬礼する。

 男は、馬から降りると兜をとった。

 高い背に黒い髪、見覚えのある面長な顔。

 ヴィルジニはその時やっと、たなびく紋章旗が総毛立つほど大嫌いな両生類の意匠であることに気がつき、脚が震えた。

 

 暗い青緑色の瞳を持った男は、王女に晴ればれと笑いかけた。



 

      おしまい

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