照葉樹林
Syou You Ju Rin
EYAMA, Makomo's Personal Portfolio of
original drawings and novels
のどかな島は、夏祭りの書き入れ時を迎えていた。
港に停まった漁船の腹を波が叩くたぷたぷという音が響き、蝉時雨せみしぐれが喧かまびすしく降ってくる。
海岸線に山が迫っている小さな島の漁村は、いつもなら閑散としているのだが、今日はいつもと様子が違う。夏祭りに合わせて帰郷した者や観光客が浮かれ歩いている。彼らにとっては島の豊かな自然と暮らしの不便さはレジャーの一環なのだ。
今夜は祭りの三日目、最終日。
これからフィナーレとして海岸で花火大会が開かれる。そんなに豪勢なものではないが、芋の子を洗うような都会での花火大会と違いのんびりと楽しめる。
織は、朝洗濯して乾いた地味な黒い甚平を着けた。
この祭りの三日間、織江はこれを身に着けている。花火大会にもこれを着ていく、と織江が言うと、自分が若いときに来ていた蛍柄の浴衣を今夜こそ着せたがっていた母はとても残念そうだった。しかし織江はあまり可愛らしいものが好きではなく、服も持ち物もスポーティで地味なものばかりだ。
夏の夜七時はまだ明るい。
織江は虫よけのスプレーを手足に振りかけた後、母が余り布で縫ってくれたあずま袋を手に外へ出た。
玄関先まで見送りに出てきた母の手にはご飯粒がついている。さっきまで、織江も一緒に縁日で働く父や叔父たちへの差し入れの握り飯を重箱に慌ただしく詰めていた。
「行ってきます」
「気を付けてね」
一日目、二日目とも友達と縁日をぶらぶらしていたが、特段約束して待ち合わせていたわけでもない。
今日も、誰とも約束はしていない。
本当は、今日はあまり人と会いたくない。
昨晩、縁日からの帰り道のことだ。
クラスで一番仲のいい美奈と歩いていると、いきなり彼女が織江を物陰に引っ張り込んだ。
「どうかした?」
「しっ!! ほら、あれ見て! 貴志じゃない?」
「あ、ほんとだ」
貴志はクラスのムードメイカーで、嫌みのないおどけた性格だった。生徒だけでなく教師まで、彼のおふざけには笑ってしまう。織江は、彼の明るさを好ましく思っていた。
しかし、彼の隣には華やかな牡丹の浴衣を着た娘がいる。
「誰、あの子」
「わかんない」
二人はだんだん近づいてくる。物陰から覗きながら、美奈は早口で囁いた。
「あれ、早智だ! 眼鏡取ったらすごい美人じゃん」
「え? 早智? うそ、めちゃくちゃ可愛い」
学校では眼鏡をかけ大人しい早智が、今日は眼鏡を外し、頬を上気させている。小望月の下、簪のガラスの飾りがきらきらして見えた。
美奈は目敏くあることに気づいた。
「ほら見て、手繋いでる!」
「え……」
観察しているクラスメイト達に気づかず、彼らは掬った金魚のビニール袋を手に楽しそうに通り過ぎて行った。
美奈が興奮して道々ずっとしゃべり続ける横で、織江はずっと生返事で、目も耳も霧の中のような感覚だった。。
それからずっと気分が沈んでいる。
単に好感を抱いていた程度のクラスの男子が、同じくクラスメイトの女子と手をつないでいるのを見たからといって、どうして今日はこんなに食欲がなくなるのか、TVを見たり本を読んだりする気になれないのか。
自覚したときにはもう終わっていた淡い初恋。
これは織江の人生で、初めての経験だった。
しかし、どんなに出かける気になれなくても、狭い島で幼いころから一緒に育ってきた仲間たちのことだ。花火大会では、会場へ行けば誰もが浴衣や甚平、流行りのTシャツやサマードレスでキメてきて、一緒にりんご飴やかき氷を回し食べしてはしゃぐのが毎年の恒例で、出欠でも取っているように、顔を見せないと悪気のない勘繰りが始まる。
どこの家の親もそういう土壌で育ってきているので、病気や怪我でもしていない限り、祭りに行けとせっつくものだ。
――そろそろ出なきゃ……暗くなる前に。
家から会場までは、少し距離がある。海岸線から森の沿道へ入り、向こうの海岸へ出なければならない。
祭りの二日かけてやっと足に馴染んできた草履と、反比例する重い気持ち。
薄明るい空に、円く満ちた月が潤むように光っていた。
森を囲む沿道に街灯がぽつぽつと点りだす。
ふと織江は前方に人影を見つけた。
白いTシャツとだぶついた短いカーゴパンツ、ウエストバッグをつけた人影は、薄明かりに浮き上がって見えた。
――佑人?
それは中学校に一か月前に転校してきた少年で、親が海外出張に行っている間、祖父母の家に預けられているという話だった。
彼、椎名佑人はあまり体が丈夫でないらしく、よく学校を休んでいた。この島へ来たのも、静養を兼ねているとのうわさだ。短期の在学ということで、以前通っていた中学のしゃれた制服を着ていて、それだけで反感を買いがちだというのに、学校へ来ても生っ白い顔でぼーっとして、口を開けばけだるげで都会の話ばかり。当然、同級生たちから好かれてはいない。
夏休みに入ってしばらく、姿を見かけていなかったが、どこへ行くのだろう。
佑人は藪の中の林道へ入り、木々の生命力に満ちた匂いの中、ゆっくりと傾斜を登っていく。
小さな里山ではあるが、足場が悪いところもある。スズメバチやマムシもいる。不慣れな者が夕暮れに一人で、というのは向う見ずにもほどがある。山菜採りで山に入るのは慣れていた織江自身でさえ、夜の林に一人で入ったことはない。
――暗くなるのに何やってんのかな……
織江は月明かりの下、その後を追った。
十五分ほど歩いたころだろうか。
織江は古い小屋の前で立ちすくんでいた。
――こんなところまで入りこんじゃった……
巧みに木々に隠され、蔓に覆われたこの小屋は不気味な静けさを湛えていた。小屋の前には杭が打たれ、錆びた鎖が張られて立ち入り禁止の手書き看板が吊り下げられている。小屋の扉には南京錠が見えた。
織江は思わず、梢の切れ目から月を見た。
まだ残照も明るい。
だが墨を流したような群雲が薄く濃くかかり始めている。
「何してるの?」
背後から声が降った。
宵の鈍い青に染まり始めた中で、声は不機嫌そうだった。
織江がびくりと振り向くと、いつの間にか、錆びた鎖を挟んで小屋を背後にした少年が立っている。夜目にも青白い顔を織江は上目遣いに見上げた。
「えっと、同じクラスの……村井、だったっけ」
「……うん。村井織江。まだ覚えてないの?」
「必要じゃないことは覚えない」
あっさりと佑人は答えた。
遠からず転校することが決まっていて、その上あまり学校に来ない彼には、クラスメートの顔と名前などどうでもいいのだろう。
彼はまた訊たずねた。
「で、何でここにいるの?」
織江は困惑した。山道へ入りこむ佑人を見かけて尾けてきた、などとはやはり言いにくい。
「……ちょっと散歩してただけだよ」
我ながら嘘っぽくて、織江は自分の機転の利かなさにうんざりした。
織江を見ている佑人の瞳が、真っ黒く見える。
おそらく、この答えに何らの真実味も見出さなかったのだろう。
「ここに『立ち入り禁止』の看板があるんだけど?」
「あ……暗かったから……今気付いた」
「ふーん」
「じゃあ、あんたは何なの? あんただって勝手に入ってるじゃない」
「僕は大丈夫」
「え」
「ここ、祖父の小屋なんだ。鍵だって持ってる」
鎖をまたいだのか、カーゴパンツのふくらはぎのあたりには赤錆がうっすらと付着している。佑人は腰につけていたウエストバッグから鍵を取り出し、ついているキーホルダーを指に引っ掛けてくるくる回して見せた。
「で、何か用?」
「……不用心でしょ? 夜、一人で山になんてさ」
「ご心配ありがとう」
佑人はちょっと高飛車で相手をムッとさせるような調子で礼を言った。
「僕は大丈夫だよ。それより自分の心配をしたほうがいい。暗くなると足元が悪くなるし」
「それはあなただって同じでしょ」
「僕はここに何度も来て慣れてる。よそ者だからって、上から目線はやめてくれ」
「上から目線ってあんたのことじゃない! 心配してあげたのに」
心配してあげた、と言われて佑人はちくりと一瞬眉を顰めた。
あれは、教室でぼんやりしていた時のことだ。
他の生徒たちは着替えを済ませてグラウンドに出ている。体育教師が来るまでのひととき、何ごとか笑いあいながらトラックにハードルを並べている。
その日の体育の授業も、佑人は見学予定だった。
――そろそろ行かなきゃ
グラウンドへ向かおうとして立ち上がると、ふと胸郭の中に何かが染みこんできたような強烈な不快感を感じた。
特に珍しい感覚というわけでもない。よくあることだった。
いつも通りやり過ごそうとしたが、その日に限ってめまいがひどく、震える手で取り出した薬のカプセルは指をすり抜けて床へ落ちた。身体が重くなり、つい机の上に伏せてしまう。
「……大丈夫?」
顔をあげると、織江が自分を見下ろしているのに気付いた。その指にはついさっき落としたカプセルが摘まみあげられ、差し出されている。
ガラス越しに光がまともに佑人の顔に当り、目元がびくびくと痙攣した。
「……ちょっとめまいがしただけだよ」
佑人は不快な咳混じりに嘘をついた。
「これ、飲むんでしょ」
「……」
「落としたものも、5秒以内だったら、大丈夫だよ」
じわっと視界が暗くなる。佑人は思わず目を険しくした。織江がその表情にたじろぐ。彼は差し出されたカプセルを受け取ると口に含み、机のフックに吊るしていた水筒の湯冷ましでぐっと飲み込んだ。
「保健室行く? 先生呼ぼうか?」
「いや、大丈夫」
そう言いながら、ジャケットのポケットから校則で持ち込みが禁止されているはずのスマートフォンを取り出し、織江から顔を背けた。力の籠こもらぬ声でぽつりぽつりと通話し、祖父に迎えに来てくれるよう頼んでいる。
通話が終わると、佑人は少し気まずそうに黙った後、織江の方を向いてぼそっと言った。
「ありがとう。授業に行かないと遅れるよ」
「うん……」
「先生に、椎名は帰ったって言っといて」
そうして、準備運動を済ませて整列したクラスメイトたちの注視を浴びながら、グラウンドの端にある校門まで迎えに来た祖父の軽トラックに乗り込み、彼は帰っていった。
このことがあったから、佑人は織江の顔をぎりぎり覚えていた。
「村井、花火見に行くんじゃなかったの?」
「ああ、うん、そうだけど」
「誰か待たせているんだろ? 早く行ったら?」
「待たせてるってわけじゃないけど」
何時に、どこで、という約束はしていない。
毎年恒例のこと、自然発生的に全員集合しているだけだ。
どぎまぎしている織江に、佑人は舌打ちしたい気分になった。
彼女に対してではなく、人とうまく接することができない自分に対して、だ。
他人といると、自分の心に小さなひっかき傷が増える。
もともと佑人は神経が細く、何でもくよくよと思い悩む性質だった。この島への転校に際しても、本当はクラスメイトたちと明るく馬鹿話をし、人好きのするよう振舞おうと思っていた。しかし、島で生まれ育った子たちの話題についていくために彼らの会話にじっと耳を澄ませていると「、自分との接点の無さに気づかされるだけで、どっと疲れてしまう。話そうとしても、我ながら気障な都会の自慢話になってしまう。
そうして夜一人で寝床にいると、ちょっとした日常のあれやこれやが、芋づる式にずるずると思いだされて「自分はダメなやつ」と囁いてくる。
佑人は軽く溜め息をつくとウエストバッグのポケットをごそごそと探った。
「ちょっと手を出して」
不審げに手を出した織江に、彼は口紅ほどの大きさのスティックを渡してきた。
「百均のLEDライト。小さいけど結構明るいから使って」
「え?」
「安物だから返さなくていい。友達が会場にいるんだろ? 早く行くといいよ」
佑人は顔と名前を覚えた初めてのクラスメートに背を向けた。
「これ、私に渡しちゃったら佑人はどうやって帰るの?」
「中にランタン置いてるからそれ使う」
入り口に掛かっていた南京錠をカチンと外すと、勝手を知った体で佑人は真っ暗な小屋へと入っていった。
痩せた佑人が不気味な洞穴に呑み込まれるように見えた。
佑人が姿を消すと、今まで全く気にならなかった虫の音が、一斉に聞こえ始める。
――佑人、あんまり大丈夫な気はしないんだけどな
そう思いながら、かち、と音を立てて織江はLEDライトを点けてみた。
――あ、すごい
安物だと言われながらもそれはかなり明るい。織江は感心してしまった。しゃれて品揃しなぞろえのよい百円均一の店など、この島にはない。
織江は自分が辿ってきた木々に覆われた小道をライトで照らしてみた。
来るときにもわかっていたことだが、道は心配したほど悪くはない。
織江は光の届かない木々の奥へ目を遣り、梢の切れ目に覗く月を確かめるように眺め、歩き出した。
織江の気配を小屋の中からうかがっていた佑人は、やっと一人になれた、と窓際のベンチに腰を下ろした。
昔ここには小規模ながらみかん畑があり、この四畳半程度の小屋はみかん選別・貯留用に使われていた。いわゆるみかん小屋だ。
テイカカズラに覆われた朽ちかけの板壁と、海水で固めた三和土の床。
ぼろぼろにもろくなったプラスチックの選果用コンテナが隅に五つほど積み上げられている。
壁にぽっかり開いた四角い穴は、だいぶ前に窓枠ごと外れた窓の跡だった。
最近まで、そこには直径15センチほどの灌木が数本立ちふさがり眺めを遮っていた。
――これ切って、あと周りをちょっと刈り込んだら、港が見えるな……
佑人は鉈なたとのこぎりを持参し、体力を振り絞って何日かかけて切り倒した。
今は、窓から見える部分はぽっかりと空き、蒼穹と水平線、緑の樹冠、そしてちまちまと人が生活している家々や港が見下ろせる。
アウトドア用の軽いベンチ、小さな収納ボックスの中に納まったLEDランタンやクッション、そして数冊の本も佑人が持ち込んだものだ。ムカデや蛇などに効くという忌避剤は撒いたが、ノネズミやヤモリたちが時々やってくる。佑人はそんな小動物たちに知己のように声をかけ、個体の判別もつかないくせに勝手に名前を付けた。
小さな子どもが大人には秘密で「基地」と称するガラクタを寄せ集めた場所を作るように、彼はその小屋を大切に思い、自分で自分の居心地をよくすることを楽しんでいた。
一方で、祖父母の家はあまり居心地がいいとは言えなかった。離婚して戻ってきた叔母とその子供たちもいて、かわるがわる干渉してくる。自分を預かってくれているのだからむげにもできず、敬意を払いながら距離を置こうとしても、彼らはデリカシーなくパーソナルスペースにずかずかと入り込んでくる。そのうち心を開くだろう、と思っているのだろうが、ホームドラマと現実は違うのだ。
そんなある日、少し体を動かしてみてはどうか、と祖父母に散歩に誘われた。少しなら、と祖父母孝行のつもりでつきあったのだが、山道を歩いてこの小屋を見せられ、風雨に腐った木の扉の隙間から中を覗いたとき、佑人は自分でも不思議なほどわくわくした。幽霊が出そうなこのぼろ小屋が、自分のために誂えられた魔法の場所であるかのように思えた。
ここを使わせてもらえないか、と祖父に頼むと、最初は断られた。ここで倒れられたら、佑人を運び下ろして病院へ運ぶのは大変だ。そもそも、倒れたことすら気付かずに手遅れになったらどうするつもりだ、と言われた。
しかし、何にも興味を示さず虚ろな目をしていた孫が、何かに心を動かしたということが嬉しかったらしく、祖父がこの小屋の鍵をくれた。本当に体調がよいときだけ、スマートフォンを携帯してこまめに連絡をし、必ず家のものに行き先を告げていくことが条件だ。
この二、三日は特に、祭りに行くよう強く勧められ、あの家には居づらかった。今日は花火大会に行くふりをして、佑人はここへやってきた。小屋に行っていることは叔母にメールで書き送ったのでいいだろう。
佑人はランタンの灯りの中、収納ボックスから使いかけの蚊取り線香を取り出して火を点けて線香皿にのせ、少し離れた床へ置いた。
わんわんとうるさかった蚊の羽音が消えていく。
そして、ウエストバッグから小さな水筒と薬の入った紙袋を取り出した。
ざらざらと幾種ものカプセルや錠剤をピルケースの角から口へ入れ、水で胃へ流し込む。味気ないが、これが佑人の本日の夕食だった。もともと食べることに執着がなく、祖父母たちにあれ食えこれ食えとすすめられるのは苦痛だったので、これはこれでいい。
水筒と薬袋を片付け佑人が顔をあげると、外が一段と暗く見えた。つい先ほどまで出ていた月が隠れている。雲の中、月の輪郭が一瞬だけ見えたが、雲は厚みを増し完全に空は夜の暗さになった。
――ああ、予報では雲が出るって言ってたな……
そのとき、小屋の歪んだ扉が地を擦りながら開く音がした。
明るい光がさっと壁を撫でるように照らし、彼の影を大きく映し出した。
佑人は立ち上がり、振り向いた。
まともにライトの光を喰らい、顔をしかめる。
「こっちに向けんな」
扉を開けた少女は静かに、先ほど佑人からもらったライトを足元に向けた。
「……村井?」
「うん」
「まだなんか用? 会場に行くんじゃなかったの」
目の奥にライトの残像をちかちかさせながら、佑人は訊ねた。
「行こうと思った」
「じゃあ何でここに」
「あのさ、前学校ですごく具合悪そうだったでしょ……ちょっと思い出しちゃって、本当に大丈夫かなって」
そう言って、床からの反射光に頤を照らされながら織江は黙った。
「大丈夫だよ」
佑人は素っ気なく言った。
佑人は夜目にも白く浮き出る姿で、織江は闇に溶けそうな黒い甚平姿で、お互い不満そうに見つめ合った。
佑人はしばらく口を尖らせ何か言おうとしていたが、溜め息をつくと、切れ長の目を細め苦笑した。
「まあいいや……ありがとう」
沈黙が破られた。
「佑人はここに何か用があって来たの?」
「ああ、ここで花火を見ようと思って」
「会場で見ないの」
「人ごみが嫌いなんだ」
「都会の花火大会より絶対すっかすかなのに」
言いながら、織江は小屋をぐるりと見回した。
「……ここからの眺めって、そんなにいいの?」
佑人はつと窓に寄り、織江を手招いた。
「見てみる?」
織江は用心しいしい、壁に穿たれた窓に近づく。
佑人はランタンを消した。
織江は外を眺めた。
――あ……
墨のように黒い梢に縁どられ、ぽっかりと切り取られた視界。
暗い林を見下ろし、遠く眼下の海ぎわにに、オレンジ色に輝く帯がある。
それは祭りの屋台が並ぶ通りで、その通りから少し入った路地にも点々と灯が光る。
広場には祭りの櫓が組まれ、鄙びた音楽がここまで聞こえてくる。マイクで囃す声も賑々しい。
その向こうの海岸が花火会場だ。
ここからは、それは一纏まりの遠い遠い世界のように見えた。
美しかったが、何となく寂しい眺めだった。
「きれいだね」
「だろ?」
自分がよいと認めたものが他人に認められるとやはり嬉しいのか、佑人の声が少しだけ弾んだ。
「一人で見たかったの?」
「うん。一人でいると気が楽なんだ」
素直な回答だった。
織江はこの島も、島の人々も、そして学校での暮らしも愛している。だから、この気難しくて扱いづらいクラスメイトが、生まれ育ったこの島の環境には安らぎを見いだせず、こんな打ち捨てられたみかん小屋に寛ぎの場を作っていることに、織江は複雑な気分を抱いた。
「あーあ、この場所も結局、村井に見つかってしまったな」
そう言いながら佑人はランタンをまた点け、パイプのベンチを織江に勧めた。
「いいの? 一人が好きなんでしょ」
「よくなきゃ勧めない」
織江が端の方に腰かけると軽量ベンチはがたんと揺らいだ。
心臓が跳ね上がるほど驚いてそのまま悲鳴を上げかけた織江の左の座面を、慌てる様子もなく佑人は押さえた。
「この椅子はすぐガタつくんだ。僕も何度もひっくり返った」
「どんくさ」
「うん、僕もそう思う」
腰を下ろすと、佑人は骨ばった手を軽く握って膝の上に置き、織江に向き直った。
「この間は、親切にしてもらったのに、いろいろ余裕がなくて、ムカつく態度とってごめん」
「ああ、そんなのいいって」
「……あの、頼みがあってさ」
「何?」
「ここのことは皆には内緒にしてくれないかな」
「……ほんとにここが好きなんだね」
「うん。ここは秘密基地っていうか、魔法の場所なんだよ」
そう言ったあと、佑人は自分の台詞に照れて、ちょっと鼻の辺りをちょいちょいと掻いた。
「ファンタジーなこと言うね」
「いいじゃないか。とにかく、他のやつに見に来られたくないんだ。だからここのことは黙っててよ」
「いいよ。そのかわり、村井って呼ぶのやめてよ」
「何で? 村井は村井だろ?」
「あのねえ、佑人は覚えてないだろうけど、うちのクラスに村井は三人いるの。海田も三人。だからみんな下の名前で呼び合ってんの」
「ああ、それで、僕も佑人って呼ばれてるんだ。初対面から馴れ馴れしいなって思ってたよ」
「馴れ馴れしいとかじゃないんだって。苗字で呼んだり呼ばれたりって調子狂うよ」
「ふーん。で、村井の下の名前ってなんだっけ?」
「さっきも言ったでしょ。織江。布を織るっていう字に、江戸の江」
「おりえ、か。いい名前だね」
そのとき、妙なくぐもった音が鳴った。
「?」
訝っている様子の佑人に、織江は気まずい思いをしながら、足元のあずま袋を拾い、膝の上にのせた。
「……私、夜ご飯まだなんだ」
「ああ、お腹が鳴った音か」
佑人にはデリカシーの欠片もなかった。祖父母譲りなのかもしれない。
「佑人は?」
「僕は食べたよ」
「ここで?」
「うん」
「一人で?」
「うん」
「何か買ってきたの?」
「ううん。サプリメントと薬」
「そんなんじゃお腹が落ち着かなくない?」
織江は、あずま袋からラップに包んだ小ぶりな握り飯を取り出しながら言い、そのあとで、織江は自分が母とそっくりそのままの台詞を言っていることに気づいた。
縁日の屋台でみんなと焼きそばやフレンチドッグを食べるからいらないというのに、母が「あんなのじゃお腹が落ち着かないでしょ」と毎年強引に持たせる。作ってくれたものをむげにもできず、会場に着く前にこっそり食べてしまってから、織江は友人たちと会うのがお決まりだった。
しかし、ここは祭りの会場ではない。
見栄を張りたい相手もいない。
佑人はいるが、クラスの女子たちと一緒にいるより気取らずにいられる気がする。
それでも相手の前で一人で食べる気まずさから、織江はラップの包みを一つ、佑人に差し出した。
「よかったらどうぞ」
佑人は一瞬ためらった。
彼は他人、かつ素人の得体のしれない手作り品に対してはぞっとしないタイプだった。口にするなどもってのほかで、祖母や叔母の料理でさえ、慣れるまで箸をつけるのが苦痛だった。
ましてや、握り飯。人が手で握ったものだ。さらに今は真夏。正直、気味が悪い。
しかし、織江をこの小屋の客として礼儀正しく扱おう、と佑人は考え、声に躊躇を滲ませながら受け取った。
「ありがとう」
そこで鈍い音がもう一度鳴り、織江は思わず腹に手を当てた。
気付かないふりをしながらラップを寛くつろげ、佑人は海苔に包まれた握り飯に鼻を寄せて用心深く匂いを嗅ぎ、小さく齧ってみた。
何か、酸味と塩気が利いた、赤いものが入っている。プラムのようで種はなく、もっと爽やかな果物の香りがした。
「今年漬かったばっかりなんだよ、それ」
しげしげと眺めている佑人に、織江は声をかけた。
「漬かったって?」
「うちの梅干し」
「梅干し?! 梅干しってこんな匂いじゃないだろ?」
「新しいのはこんな匂いがするの! いい匂いでしょ」
「うん。全然違う。びっくりした」
「おいしい?」
「おいしい」
佑人はちょっとした感激を味わっていた。見たこともない他人の握ったおにぎりを、今自分が食べている。
心底うまいと思っている。
それはあり得ないことで、佑人にとっては魔法のようだ。
たぶん、この小屋の魔法だ。
やはりここは不思議な場所なのだ。
「喜んでくれて、よかった」
織江も安堵したように、一つ、ラップを剥がして食べ始めた。
佑人は、小柄で癖っ毛をもっさりさせた織江が握り飯を食べているのを見ているうち、面白い気分になっていった。
給食の時机で食べるのとは全然違う。
遠足気分と言うのが一番近いのだろうが、身体の弱い佑人は遠足に行って友人たちと弁当を食べたことなどない。
織江は袋からごそごそとまた何か取出し水音を微かに立てた。そして、佑人にアウトドア用のコップを手渡した。
「お茶。どうぞ」
「ああ、ありがとう」
水筒なら持って来ていたが、佑人は大人しく受け取った。
「会場でお茶買うと髙いし、混んでるから」
言い訳がましくそう言うと、佑人の使ったコップに茶を汲み、織江も飲んだ。
佑人は慌てた声を上げた。
「それ、僕が使ったコップだよ?」
「うん、知ってるけど」
「大丈夫?」
「何が?」
織江は不思議そうに聞き返した。
「いや……うん、何でもない」
「変なやつ」
佑人一人でおろおろしていた。
織江の方はといえば、自分の家から持ってきたものを二人きりで食べて、ほんの少しこの気難しいクラスメイトとの間の空気が和らいだような気がして、もう一つ握り飯を佑人に勧め、自分もまた一つ開けた。
食べ終わってラップを丸め、織江が仕舞い込んだそのとき、花火大会の開始を告げる雷火が暗い空に散り、爆音を島中に響かせた。
「あ、始まる!」
織江が明るい声を上げた。
その言葉通り、十秒ほどの間ののち、色とりどりの枝垂れ花火が花束のように連なって打ち上げられ始める。
それからは、穏やかな時間だった。
夜空に咲き誇る火細工の花。
消えていく一つ一つの花びら。
遅れて届く轟音。
織江は、夜空に輝く大輪の花々を眺め、時々そっと佑人を盗み見ていた。
そして佑人も、居心地悪そうだった織江が少しずつ夜空に開く花々を眺めているその横顔を時折覗った。
二人とも妙な気分だった。自分のいる場所が揺らぐような、奇妙な感覚だった。でも、決して悪い心地ではない。
花火大会が終盤に近付くと、地を震わせて豪奢な三尺玉がひっきりなしに打ち上げられる。最後には四尺玉が数発、尾を引く光のドームとなって会場一帯の海と空を覆った。
「きれいだね」
「うん」
織江は食い入るように花火を眺めている。
その横で、佑人は寂しい気持ちになってうなだれていた。
花火の終わりを告げる雷火が鳴ったが、花火大会の始まりで聞いたときとは違い、四尺玉の爆音を聞いた後ではなんとも軽い音に感じた。
「そろそろ帰らなきゃ」
佑人は織江の言葉を聞いているのかいないのか、窓の外をまだ見ている。
織江はおずおずと声をかけた。
「まだここにいるつもり?」
「灯りが消えていくのを見たい」
「何で?」
織江の白い顔が不可解そうだった。
佑人が言った。
「授業で平家物語ってやっただろ?」
「うん。よくわかんなかったけど」
「終わりの方で、平氏のサムライが言うんだ……『見るべき程の事は全て見つ』って」
「……意味は?」
「『見るべきものはもうみんな見た』って言う意味だよ」
織江は佑人が、ひどく嫌なことを言おうとしているような気がした。実際、平家物語でこの言葉の後に続くのは、大変不吉なものだ。
実際、佑人は、自分はあまり長くは生きないだろうと推測していた。
彼は、また窓から祭りの終わった会場を眺めながら呟いた。
「人生の最後に、走馬灯みたいに今までの人生のいろんなシーンが甦るって言うだろ? ほんとかな」
「……わかんないよ」
「最後にそうやって見えるものが、幸せで楽しいものばっかりだといいよね」
「ねえ……そういうこと言うのやめてよ」
「だから、僕はこうやって走馬灯の中に仕込む原画を仕入れてるんだ。一生忘れないようにね」
「やめてってば」
祭りの灯が一つ一つ消えていく。
人々の帰路を照らす灯りを残しながら、みるみる光点は減って、祭りの賑々しさもすうっと消えていく。
それは何ともわびしい眺めだった。
彼女はこの場の雰囲気を明るくしたくなった。
「ねえ、そろそろ帰ろうよ」
「そうだね、行こうか」
佑人は立ち上がり、織江はまた椅子からひっくり返りそうになった。
軋む音を立てて椅子を畳んで壁に寄せ蚊取り線香の火を消すと、佑人はLEDランタンを手にした。
そして織江は佑人に渡されたライトを点ける。
二人はそれぞれの灯りを頼りに小屋を出た。佑人が三和土を擦りながら朽ちかけた扉を閉め、かちんと南京錠を掛けた。
夜の山道を用心しいしい、二人は歩いて降りた。
短い命を歌う虫たちの声。
夜の林は生命のざわめく匂いに満ちていた。
「村井、今夜は面白かったよ。ありがとう」
「面白かったの?」
「うん」
「瀬名ちゃんとかもいたらもっと面白かったと思うよ」
「誰それ」
「ほんとに覚えてないんだね。うちのクラスの子。髪が長くて三つ編みにしてる」
「うーん……見たような気もする」
「三つ編みほどいて私服着てると、めっちゃくちゃ可愛いんだから。男子に一番人気なんだ。それにね……」
織江はクラスメイトの愛らしさを躍起になって畳み掛け、それから少し静かになった。
芋虫からさなぎになって空へ飛び立つ蝶のように、女の子は可愛く美しくなるもの、といつから信じ込んでいたのだろうか。
そしていつから、自分がもともと蝶ではない、他の虫なのだと思うようになったのだろうか。
織江にはクラスメイトの女子達が眩しく見えた。
さなぎから殻を脱ぎ掛けたころの、素朴でみずみずしい美しさがそれぞれにあった。
それに引き替え自分はどうだろう。
ちょっと可愛らしい服を母が買ってくれても、それを着て鏡の前に立つと服にあまりの不調和さに思わず目を逸らす。いつかちゃんと可愛い格好をすれば私も可愛くなるのかも、という仄かな希望がすり潰されていく。
だから、可愛いものは嫌いなのだ。
佑人は怪訝そうに言った。
「村井も結構いい線いってると思うよ。今着てるのも似合うけど、浴衣とか着てみたら?」
「甚平の方が動きやすいし……それにあんまり可愛いのとか好きじゃないんだ、似合わないし」
「似合うよ」
「似合わないって!」
「なんでそんなにムキになるんだよ」
「だってさ……」
織江は眉を顰めた。
「私は可愛くないもん。地黒だしニキビあるし」
「そうかなあ」
おっとりと言う佑人の隣でで、織江は立ち止まった。
一緒に足を止めた佑人に、小さな声で話し始めた。
「私たち、小っちゃい頃から一緒でさ、みんなで遊んでたんだ。みんなもう親類みたいなもんだし、すごく楽しかった。そりゃあものすごい田舎だけど、私、ここで生まれてよかったって思ってる」
佑人は黙って聞いている。
「でもね、何だか最近変なんだ……みんなお洒落したり、島の外のことばっかり話して、急にみんな大人みたいになって、可愛くなってさ。でもわたしは磯でタマキビとったりとか、山でツワブキ取ったりとか、そういうのが本気で楽しいの。幼稚でしょ。馬鹿みたいでしょ」
声が震えた。
少し間を置くと、織江は腕にかけているあずま袋から青いストライプのタオルハンカチを出した。
「私がもっと可愛かったら、お洒落とかも楽しかったんだと思う」
織江は目頭と、それから鼻の下にハンカチを当てた。
「私、もっと可愛かったら、好きな人と手がつなげてたかもしれないって……」
「そっか」
佑人は短くそう答え、またしばらく黙った。
しばらく、織江が洟をすする音が響いていた。
頭に何かが触れたのに織江は気づいた。短く切った髪を、佑人がイヌでも撫でるかのような手つきで撫でていた。
「よしよし」
――佑人、思ってたより優しいんだな
織江は立ち止まって、ハンカチに顔を埋めて肩を震わせてた。
佑人はその横でただ立っている。
しばらく泣いてから、気まずさを隠すように撫でられた髪にちょいちょいと手をやる織江に、佑人は何の衒てらいもなく言った。
「僕は、織江とならいい友達になれる気がする」
「え?」
髪をいじる手が止まった。
織江は面食らってぽかんと口を開けていた。
「僕、やなやつだろ? 口を開けば田舎叩きで」
「うん」
「だってそれしか話せることがなかったんだよ。僕は、病院暮らしが長くて、友達がいなかったんだ。本当は友達がいたら楽しいだろうなって思ってた。でもうまくいかなくてさ……この島なら、うまく友達ができるかもって思ってたけど、僕がクラスの子と話せる話題なんかないし、勉強の話したら露骨にこいつ面白くないやつって顔して離れていくし」
「意外。あんた、一人が好きなんじゃなかったの?」
「一人が好きだけど、それを理解して、つきあってくれる友達が欲しかったんだ」
「……それって虫がよくない?」
「わかってるよ。だけどさ、今話聞いてて織江と磯で貝拾ったり、なんか食べられる草だっけ、そういうのとるの楽しそうだなって思えた」
「そう?」
「島で人の話聞いて楽しそうって思ったの初めてなんだよ」
「私、つらい話してたつもりだったんだけど」
「でも、織江はそういうのに喜んでつきあう友達が今ここで出来たんだ。僕にもできた。よかったじゃないか」
佑人は楽しそうに笑った。
「魔法のおかげだ」
「魔法って?」
「頭おかしいと思うだろうけど、あのみかん小屋は、僕にとっちゃ魔法の空間なんだよ」
本気で信じている口調だった。
そして、わけがわからない顔をしている織江に、不意に提案した。
「明日さ、都合のいい時誘いに来てよ、ずっと祖父ちゃんちにいるから」
「え?」
「今度は織江の遊び場に連れて行ってよ」
「ええ?!」
「僕だけ秘密の場所を知られたんじゃ不公平じゃないか。明日いろいろ教えてよ」
「いいけど……友達も連れて来ていい?」
「僕は織江に教えてもらいたいんだけど……ああ、二人だとやっぱり変な噂が立つよね。いいよ、織江におまかせするよ。」
「いや、それはいいんだけど」
言ってしまった後で織江は自分の頬がぶわっという音を立てるほどに紅潮するのを感じた。その答えを聞いて佑人は少しはしゃいだ声を上げた。
「じゃあ、明日! すっぽかさないでよ」
いつしかもう舗装された道路に出ていて、佑人は少し手を振ると左への分岐へ歩いて行った。
織江は手を振り返し、その手を火傷でもしてしまったかのように握りこんでもう片方の手で包んだ。
明るい道へ出て、少し歩いたところで織江は友人に呼びとめられた。
「織江!」
クラスメイトの中でもよく一緒にいる美奈が蝶の浴衣を着て早足で近寄ってくる。
「心配してたんだから!」
「うん、ごめんね」
美奈の言葉に、間髪を入れず素直な謝罪が織江の口を衝いた。
「どこで何してたの?!」
「眺めのいいスポット見つけて、そこから花火見てた」
「えーっ? 私、どっかのおじさんとぶつかって、かき氷こぼされてでベトベトになってたっていうのに!」
それは自分が一緒にいてもいなくても同じことだったはずだ、と織江は思ったが、一応済まなさそうな顔を作った。
美奈は、織江を心配しながらもそれでも友人たちと愉快に過ごしたかをまくし立てていたが、黙って聞いている織江にふと疑問をぶつけた。
「……で、誰と花火見てたの?」
織江は夜空を見上げた。
そこには月輪が光を取り戻し、皓皓と冴えわたっていた。
「……一人だったよ」
そう、一人だった。
一人と一人が、一緒に花火を見ていた。
暗がりで、物言いたげに自分に向けられていた眼差し。
想像したこともなかった思い。
あの小屋は魔法の空間だ、と言い切り、信じたがっている幼さ。
そういうものを一度に思い出して、織江は背筋にこそばゆさを感じた。
それは、どちらかと言えば、自分の居心地を悪くする、危ういもののような気がした。
美奈は納得のいかない顔で、織江を見ている。
「あのさ、美奈」
何かを振り払うように、織江は取り繕つくろった声を出した。
「何?」
「明日、昼過ぎ、時間ある?」
「時間はあるけど」
織江は少し考えてから頬を赤らめてこう言った。
「あ、いや何でもない」
<了>