top of page

僕たちはベッドの中

 

​

Ⅰ. たんぽぽの根っこのような 

​

「カティとならできた」

 目の前にいる友人の言葉に、サイラスは口と鼻からビールを噴き出した。

 洒落てもいなければ特段に料理がうまいわけでもなく、ただ仕事帰りに立ち寄りやすいというだけのスペイン風バルで、二人は軽く飲んでいた。

 トレバーはビールに汚れた眼鏡をハンカチで拭き、次に顔をぬぐった。

 その神経質そうな所作のわりに、彼の顔は明るかった。

「できたって……あのカティと?あの電算室の?」

「うん」

 あの可愛げのない、たんぽぽの根っこみたいな?と言おうとしたが、友人が陶然とした黒い目で照れたように

「できたんだよ。ほんとに」

と言うので、サイラスは白いワイシャツの上からもありありとわかる筋肉隆々とした肩をすくませた。

 トレバーは店員を呼ぶと布巾を持ってくるよう頼み、待ちきれないのかテーブル備え付けの紙ナプキンで一度はサイラスの口に納まった液体を拭き取り始めた。

「なんでカティと……?? この間揉めてたんじゃないのか」

「ふふっ……この間、一人で残業してたらさ、カティが来たんだ」

 

 夜の10時過ぎ、トレバーはがらんとしたオフィスに一人残っていた。

 理論上の数字と実際に帳票に出力された数字、実際の収支の額がどうしても合わない。

 眼鏡をデスクに置くと、軽く床を蹴ってOAチェアを後ろへ進め、背凭れも折れんばかりにぐっと背を倒し手足を伸ばし、伸びをする。

 目を閉じると奥がちかちかする。しかし、目を開けているときの、眼底にあるひりひりとももやもやともつかぬ不快感よりはずっと楽だった。

 2分ほどそうしていると、軽い足音が近づいてくるのが聞こえた。

 彼は目を開いた。

 そこには、数日前彼が食ってかかった電算室のカティが立っていた。

 食ってかかった、と言うのは彼の認識であり、弱気な愚痴を誘い受けがちに吐いてすごすご帰って行ったというのが事実だったのだが、その時はけんもほろろに彼を追いかえした彼女が、少々ばつ悪げに高級チョコレートの紙箱と、データを再出力した伝票の束を抱えていた。

 

 いつも粗暴で男のような口調、仕事はできるが冷淡で人には一切手を貸さないという評判の彼女が開口一番、すまんかった、と言った。

「トレバーの言う通り、こっちにミスがあったんだ」

 謝りながら、チョコレートの箱を手渡す。

「よかったら食ってくれ」

 カティが担当しているのは、社内でもほぼ一部の人間しかアクセスを許可されない、個人情報と出納情報の管理及び関連付けだった。

 そのリストのうちの一件が、未入金にも拘らずチェック済み状態になっていたのだった。

 そのデータのやりとりは銀行のシステムエンジニアを介してオンラインで行われる作業であり、通常こういうことは起こらない。カティを含め誰しもこんな事態を予測していなかった。

 たまたまその入金に係る業務を所掌していたのがトレバーで、もうかれこれ1週間ほど狂った数字が彼の頭の中をぐるぐると回っていた。

「ここんとこ、ちょっと弄らせてくれ」

 カティは痩せぎすの身体を、椅子に座ったトレバーの膝と彼のデスクの間に割り込ませた。

 慌てて彼は立ち上がりカティに椅子を譲る。

 この椅子でけえな、とカティは少しぼやき、PCの画面に出ていた表の一部を、キーボードを叩いてちょいちょいと手直しすると、黒瞳がちの目をしぱしぱと瞬かせているトレバーに細長い指で訂正箇所とそのソースとなる出力伝票を交互に指し示した。

「ここだ……ほんとにすまんかった。ほら、ここ直しただけでほとんど解決だろ」

「ほんとだ」

「この頃アップデートでおかしくなったとこがあってばたばたしちまって……気づけなくてごめんな」

「……」

「明日、あんたの上司にも私が詫びを入れとくし、始末書も書く」

「……ありがとう」

「悪いのは私だから、礼とか言わなくていいぞ」

 そのとき、きゅるると腹の虫が鳴り、カティは白いシャツの腹に手を当てた。

 その仕草に、ふとトレバーは彼女の胸の膨らみと細い腰を意識した。

「お腹空いてるの?」

「まあな」

 トレバーがチョコレートの箱を開け、差し出すとカティは笑って手に取ろうとはしなかった。

 トレバーがプラリネを詰めた一粒を口に抛りこみ、おいしいよ、ともう一度勧めると彼女も緑のピスタチオがまぶされた一粒を摘まんだ。

 長い指の動きが思いもよらず優雅で扇情的だった。

「疲れた。もう帰ろうぜ」

 口の中のチョコレートを頬の方へ押しやってもごもごと言いながら立ち上がったカティを間近に見て、トレバーは思った。

 

 今まで気づかなかったけど、この人、すごくいい匂いがする。

 香料の匂いじゃない。

 匂いと言っていいのかどうかもわからないけど、うなじや胸元から温かく立ち昇る何かに胸の奥がくすぐったい。

 それに、カティってこんなに美人で優しそうだったかな?

 

 ここ数日の残業疲れで思考が痺れたようになっているところへ、自分の非を素直に認め一気に問題を解決しにやってきた彼女が一瞬女神のように見え、トレバーは彼のわりに非常に大胆な提案をした。

 

「ねえ、一緒にご飯食べて帰ろうよ」

「は?」

「僕もお腹空いてるし」

「お……おう」

 

 カティは少し考えるとさらに大胆な発言をした。

「じゃ、うちで飯食ってくか? すぐ近くだし……外でなんか食うには、ちょっと懐具合がよくねえんだ」

「僕が払うのに」

「迷惑かけたのは私だぞ? 今夜はお前にに払わすわけにゃいかねえよ」

​

​

​

Ⅱ. 奇妙なポテンシャル

​

 カティが住んでいるのは古くて風雨に汚れたデュプレックス(メゾネット)だった。

 飲み屋が軒を連ねる通りからちょっと引っ込んだ路地を抜けたところにあり、外からは近所の店のネオンサインがちかちかと差し込んで酔いどれの声が響いてくる。

 しかし部屋の中は設備や広さなど申し分ない。なかなか良い物件だった……戸外のうるさささえ気にならなければ。

 

 カティらしい殺風景かつ実用一辺倒の部屋で、部屋の主はこの珍客を手早くイエローテールや簡単な茹で野菜のサラダなどでもてなし、彼もなかなかにおいしく食べた。

 その後は消費期限ぎりぎりのゲロルシュタイナーと少し萎びはじめたライムで、カティの部屋にあった様々なスピリッツをハイボールにして飲んだ。

 話題は仕事の愚痴だった。

 

 カティは話してみれば面白い女だった。不思議と話しやすい。

 それに、言葉の端々に、異動したばかりでもたついている真面目一辺倒の自分を理解してくれているのがわかる。

 カティも、トレバーに対しこいつ意外と喋るんだなと思った。

 

「でさぁ、僕、言ったんだよぉ、そんなの僕には無理だって」

「ほうほう」

「で案の定無理でさぁ……僕、女のそういうとこが嫌なんだよおおお」

「だよなあ! 私も女だけどそれわかるぜぇ」

 酒が進むのと正比例して話題も落ちていく。

 落ちるの落ちないの、とうとう下ネタ、しかもシャレにならない実録回想ものに到達してしまっている。

「そうかそれでトレバーはホモになっちまったのかぁ」

「へ?」

 ラグの上に胡坐をかいているカティはだははは、と高笑いしながらばしんとトレバーの肩を叩いた。

「あんたホモだってもっぱらの噂だぞ」

「違う! それは違う!! 男なんかじゃ勃たないよ!」

 目の周りを赤くして、トレバーが何もそこまでと言いたくなるほどに力説する。

「え~? ホモだって聞いたから安心して部屋に招いてやったんだぞぉ?」

「何だよぉそれぇぇぇぇ」

「でも片っ端から女振ってんだろぉ? みんな知ってるぞぉ?」

「何で知ってるの?!」

「あんたに振られた女どもがあんたのことホモだって言って回ってんぞぉだははははは」

「あははははは」

 酔った勢いで一緒に笑っていたトレバーは、次のカティの台詞に凍りついた。

 

「ホモじゃなかったらインポかもっていう噂もあるんだぞぉだっはははは超ウケるよな!」

 

 事実でない噂は笑える。

 事実は笑えない。

 

 トラウマを鷲掴みされた顔で、撚りが解けてしまっている安物のラグに目を落としたトレバーに、カティは怪訝な顔をした。

「あれ? どうしたトレバー? ウケねえか?」

「……あ、ああ、うん……」

「……あ? ……まさか、ほんとに? まじか?!トレバー、こんなでかい図体でインポなのか?!」

 トレバーの強張った顔に、カティはびっくりした。

 

――男なんかじゃ勃たない、と言ったが女でも勃たねえのかこいつ!

 

 カティの驚いている様子に、トレバーは慌てて目を逸らし立ち上がりかけた。

「……僕、そろそろ帰る」

 触れてはいけない話題に触れてしまった動揺に酔いも加わってカティはとんでもないことを言い始める。

「あ、あのな……別にセックスとかできなくても全然……ほら、男でも女でもダメだったら、人間相手は諦めて人形ってのも」

 今まで幾度となく慰められたことはあるが女性からこういう切り口で来られたのは初めてだ。

「僕もう帰るうううううっ!!!」

 背筋こそ冷えたが酔いは最高潮に達している。ソファの脚に足の小指を強かぶつけ、転ぶように再び座り込んだ彼にカティがごそごそと這い寄ってきた。

「トレバーっほらっこれ!!」

 カティが部屋の隅に転がるクッションの下にあったタブレットを取り出し、とあるラブドール制作会社のHPを見せてくる。

「ほら、これとかいいんじゃね? 割とお買い得だし汚しても取り外して洗えるそうだし」

 

……何?

 何この人?

 僕に何をさせたいの?!

 

「ヒトでダメなら人形だ!人形でダメならえっと……動物?!」

 次はアダルトサイトを瞬時に表示して「ベスティアリティ(獣姦)」のページを開く。

「う~ん……これって虐待じゃねえのか?? これは私的にアウトだ……いっそここはスカトロ趣味いってみっか」

 

 なななななななに言ってんのこの人!

 何でこんなサイトがんがん開いてんの?!

 

「いや、そんなことするぐらいならもうずっと一人でいいから!」

「あ、一人でだったらできるのか……」

「……え……あ……もうやだあああ帰るううう!」

「帰ってもいいけどさ、一つだけ聞かせてくれ」

「何だよおおおおぉぉ!!! もおおおおおお!!」

「トレバーが一人でするときの『おかず』って何だ?」

 アルコールに上気しにじり寄ってきたカティの胸が膝に当たる。

よく見ると襟の隙間から、滑らかな胸元に谷間の始まりが覗いている。

「そりゃ……女の子だけど」

「歳は? ロリペドか? 老女か? 欠損趣味か? ネクロフィリア? それとも二次元趣味か?」

 どうしてそういう方向に持っていくんだこの人は……

「だいたい僕と同じ年齢くらいの地味な娘……」

 カティは彼から身を離した。

「何だ普通だな」

「普通で悪い?!」

「性癖が普通じゃねえから普通の女には勃たないのかと」

「僕はノーマル! とってもノーマルだよ! ただちょっと……」

「ちょっと……?」

 素面であればこんなに突っ込んだ「ツッコめない話」はしないのであるが、疲れとここ数日の不摂生の祟る身体に染みこんだアルコールで理性を飛ばしている二人は、わけのわからないまま抜き差しならぬ話題に踏み込んでいた。

 

「僕さぁ……まだ小学生の時、すっごく仲良かった近所の友達がいてさぁ、暗くてぼーっとしてる僕がいじめられなかったのは彼のおかげだったんだよ」

「うんうん」

「友達の母親もすごく優しくてさぁ」

「うんうん」

「で、友達のうちに遊びに行ったら友達は留守で、友達の母親が『あがっていけ』って……そしたら僕の服を脱がし始めて」

「おおおおおお!! エロ漫画みてえだな!」

 思わず身を乗り出し、生唾を呑みこむカティに、憂鬱そうにトレバーは言った。

「でさぁ……無理矢理された。すっごく嫌だったし、帰ってきた友達にも見られてさぁ……もうほんっと、最悪で、僕も友達も引っ越しする羽目になったよ」

 その時の羞恥、恐怖、罪悪感が一気に彼の性的な部分に相当なダメージを与えたのだろう。

 自分が「能動的」であった事実がないと男性の場合は性交はできない。その自己嫌悪がまたひどく彼を傷つけ続けていた。

 自分では忘れた、割り切ったと思っていてもこのような傷は人生に影響を与え続けることも珍しくはない。

「コットンフィールドさん、一つ聞いていいですか」

「いやです」

 トレバーが即答したにもかかわらず、カティは質問した。

「その時はできたんですか」

「できた……」

「おお! じゃあ何とか童貞じゃねえんだ! よかったな!!」

「何がよかったんだよ!」

「いやいやご謙遜なさらずともコットンフィールドさん」

「謙遜なんかしてないよ!」

 

 で、なぜそうなったのかは定かではないが。

 

「!!!!!!!!!!」

 無性に暑く重苦しい感覚に目を覚ますと温かく柔らかいものに自分がびったりとくっついていることをカティは知る。

 ぼんやりとみているうち、その温かいものには毛穴があり肌理があり、分厚い胸筋のかたちに割れて弾力があるのに気付く。

 慌てて起きあがってみると、自分をしっかり抱えているのは職場の隣のフロアの陰気でふにゃふにゃと曖昧に笑っている主任の男だった。

 しかも、すっぱだかで寝息を立てている。

 なお悪いことにカティも然り、一糸纏わぬ姿だった。

 がんがんと脈打つように痛む頭で昨晩の記憶をなぞっていく。

 

「このカティ様が男にしてやるぜ~~~!!」

と言った……ような気がしなくもない。

「できた~!! できたよカティ~!」

とかなんとか喚かれ、鼻水をべとべとと垂らされそれをげらげら笑ったような記憶もおぼろげにだが、ある。

 

 二日酔いで割れそうな頭に手をやり、わしゃわしゃと髪を掻き回しながらバスルームへ向かおうとすると、身体の奥からぬるっと何かが流れ出る感覚があり一瞬頭の奥が真っ白になった。

 恐る恐る、内股に手をやると、指先を濡らしたのは毎月見慣れた暗赤色の血液ではなく、自分に由来するものではないどろりと濁った大量の粘液だった。

 どうも自分はインポテンシャルだという男と面白がって寝て、溜りに溜まったポテンシャルをインされてしまったらしい。

 

――とにかく、とにかくだ!

――一刻も早くシャワーだ!

――それから、ビデ! ビデ! ビデ! ビデ!

 

「カティ……」

 背後から男の呻き声がし、カティはぎくりとした。

「どこ行くんだよぉぉぉ」

 甘えた声が気持ち悪く、つい不機嫌に低い声で答える。

「シャワー浴びんだよ」

 トレバーは腹這いになってカティの後姿を寝惚けた目で追い、しなやかな脚の内股から踝まで艶やかに濡れて光っているのを見てはねおきた。

「待って」

 起き出す気配にカティはちらっと目だけで振り向いたがその途端、どたばた走り寄ってきた大男に抱き竦められた。

「待ってってば!」

 そのままずるずるとベッドに引き戻され、両膝を掴まれてぐいっと開かれる。

「何すんだ! やめろよ!」

 慌てて肝心の場所を隠すカティの手には頓着せず、トレバーは顔を近寄せた。

 大きな鼻孔で熱心に匂いを嗅ぐ。

 雌の匂いに混じって、雄が分泌するアルカリ性の体液の強い匂い。

「やめろ!!! 警察呼ぶぞ!」

「ねえカティ」

「何だよ!」

「僕、できたんだね? 君と、ちゃんとできたんだよね?」

「あんま覚えてねえけど……状況的にはそうなんだろうな」

「夢じゃなかった……」

 大きな黒い目に涙を浮かべられ、カティは困惑した。

 女はとりあえず性的にどういう状態であっても、それなりに健康であればどんなに不本意であってもできる。それがいいことか悪いことかはともかくとして。

 ところが男はいくら健康でも、あれがああいう状態にならなければ、ノーマルな性交はできない。

 他の女と何度ベッドインして、プロアマ問わず様々なテクニシャン達にどんな愛撫をされてもしゅんとしていた自分が、なぜかカティとならできたというのが、彼には不思議でならない。

「もう一回、してみてもいい?」

 カティの細い手を導いて、触らせながら彼は目を潤ませていた。

 

 朝の雑踏を、カティは蟹股気味に歩いていた。その後ろにぴったりとトレバーがついてくる。

 朝食を摂る時間も与えられず発情期の犬のようにやみくもに番われ、カティは腰痛と眩暈と寝不足とで憔悴していた。

 一方、同じく寝不足で「夜のスポーツ」に興じまくっていたはずのトレバーはふわふわと浮つき、つやつやと幸せそうだ。

 不公平だ、とカティは思った。

 DON’T WALKの信号表示に並んで立ち止まる。

「離れろよ」

「なんで」

「会社の連中に見られたくねえから」

「見られてなんかまずい事でもあるの? 他に男がいるの?」

「いねえよ! ゲスい勘繰りされたくねえだろうが」

「うふふ」

「きめえ」

 信号の表示がWALKに変わり、二人は職場の社屋へ向かって歩きはじめる。

「あのな、一回やったからって自分の女扱いすんじゃねえぞ」

「一回じゃないよ」

「……言い間違えた。一晩やったからって……」

「ひどい」

 電算室の中までついてきた彼に、カティは顔を顰めた。

「できるってのがわかったんだからもういいだろ? あっちへ行け!」

「ねえ、次いつ会ってくれる?」

「仕事場でしょっちゅう会ってるだろうが」

「そうじゃなくてプライベートで」

 カティの眉根が更に寄り、機嫌が悪くなったのが如実にわかる。

「私は別にあんたが好きで寝たんじゃねえ! 酔った勢いってのと……その、インポってやつがちょっと面白そうだったからだ。次はねえよ」

「……ひどいよカティ」

「あんたを好いて言い寄ってくる女はいっぱいいただろ? やりたきゃその中から適当に見繕え!」

「僕はカティがいい」

 ああ、こいつ初めてまともに女が抱けて、偽親の姿を刷り込まれたガチョウの雛みてえになってやがる!

 トレバーがみるみる悲しげな顔になるのを見て、カティは怒鳴った。

「ここは私のオフィスだ! 出て行け! 鬱陶しい! 風俗にでも行け!」

​

​

​

 Ⅲ. そんなこと知るか

​

 その三日後、カティが部屋の鍵をちゃらちゃらと鳴らし鼻歌交じりに帰宅すると、部屋の前に巨大な赤い薔薇の花束を抱えてトレバーが縮こまって座っていた。

「うわっ」

 思わず驚愕の叫びをあげたカティに、先日見せた悲しげな表情を再び浮かべて彼は言った。

「おかえり」

「何であんたここにいんだよ」

「カティ待ってた」

 トレバーは抱きかかえた花束に頬を寄せながら言った。

「中に入れてもらってもいい?」

「嫌だ」

 今にも犬のようにクンクンと情けない鼻声を出しそうな彼を無視して、カティはさっさと鍵を開け、するっと部屋に入ると素早くドアを閉めて錠をおろした。

 トレバーは覇気なく、再びそこへしゃがみこんだ。このデュプレックスの別室の住人が幾度か通りかかり、胡乱な目つきで彼を見る。

 時折、ドアスコープの向こうにカティの気配がしていたが、とうとう一時間ほど経ってから扉は開いた。

 諦めたような、それでいて苛々した声が彼を招き入れる。

「……ほれ、入れ」

 トレバーはカティの顔をじっと見つめ、再びカティの部屋へ足を踏み入れた。

「おい、さっきから後生大事に抱えてるそいつは何だよ」

 廊下を塞ぐほどの大きな花束を顎で指し示す。

「何って……バラの花束」

「それは見りゃわかる」

「……君にプレゼント」

 陳腐にもほどがある、とカティは思った。

「そうか。豪勢なこった」

 礼も言わず恬淡と受け取ると、あっさりした様子でセロファンやリボンを外す。

 ストレージからバケツを出し、水を汲むとずぼっと活けた。

「花瓶とか無いんで」

「あの、それ花屋で花言葉とか聞いて選んできたんだけど」

「花にも花言葉にも興味ねえから」

 すぐさま切り捨てられて、トレバーは黙り込んだ。

 少し非難がましい目つきで見つめるトレバーに、カティが言う。

「で、これ渡しに来ただけならもういいだろ? 帰れ」

「……」

「まだ何か用か」

 トレバーがぎゅっと拳を握りしめた。

「話を聞いてもらおうと思って」

「他のやつに話せよ。私はあんたの友達でも何でもねえぞ」

「……」

 沈黙が続く。

 トレバーは大きな図体でうなだれ、すん、と鼻をすすった。

 黒い瞳が眼鏡の奥で涙ぐんでいる。

 何かひどく面倒なことに片足突っ込んでいるのを感じ、カティはさっさと話を終わらせようと思った。

「ああ、ああ、わかったわかった! さっさと話せ! で、話し終わったらとっとと帰れ」

 ソファにトレバーを座らせてカティはラグに座り、クッションを抱えた。

 うるうるとした目で彼はカティのきつい三白眼を見つめると、すぐにまた自分の手元に視線を落とす。

「だめだったんだ」

「は?」

「あれから二回、キャットハウス(売春店)に行ってみた。でもやっぱりだめで……何にもできなかった」

「うっわきっしょ」

 つい口から出てしまった言葉に、ちょっと気の毒だったかな、とカティは思い返す。

 風俗に行けと怒鳴ったのは自分だったのだから。

「いや、あの、ほら……そういう時ってのもあるんじゃね? 少なくともこの間はできたじゃねえか」

「……」

「何事もいきなり連チャンってのはよくねえのかもしれねえぞ? まあ、ゆっくりまったりと慣れていってだな……」

 言いながらカティは実にあほらしい気分になる。

 

――何言ってんだ私は……

 

馬鹿馬鹿しい気分ではありつつもカティのそれなりに真摯な慰めの言葉を、トレバーは遮った。

「ねえ、もう一回させて」

「は?」

「今、『慣れていって』って言ったよね。慣れさせて」

「それは言葉のアヤってもんだ」

「どうでもいいよそんなの」

 彼がポケットから避妊具の小さな箱をいくつも取りだすのを見てカティは絶句した。

「ねえ、責任とってよ」

「何の責任だよ!」

「僕の下半身の」

 トレバーのズボンの前部分を見て、カティは目を逸らした。

「できなかったっての、嘘だろ」

「嘘じゃないよ、ここに電話して訊いてみてもいいよ」

 風俗店のカードを取り出して見せるトレバーにカティはげんなりする。

 

 で。

 こうなる。

 

「ああああああもうなんでなんだよおおおおおお!!!」

 枕に顔を埋め、カティが喚く。

「できるじゃねえか普通によおおおお!この嘘つきサオ師が!」

「嘘じゃないってば」

 さっきまで涙目だった男は、水を得た魚のように活き活きとし話し方もべちゃべちゃと甘えた調子になっている。

「もう一回していい?」

「嫌だ!」

 拒否してもあまり意味はなかった。

「嫌だっつってるじゃねえかよ!」

 この歳で「僕、性に目覚めちゃった」と全身で訴えてくるこの気色悪さは如何ともしがたい。

 抗っても大きな手足でひょいと押さえ込まれいなされてしまう。

 そして非常に悪い意味で全力投球だ。力加減だとか余裕と言うものが全くない。

 体中いろんなところが弄られすぎてひりひりする。

「なあ、もう自信はついたろ? こういうのはよそでカワイコちゃんとやれよ」

「やだ」

 カティはまるで幼稚園児のお守りをしている老婆のような気分だった。

 相手は聞きわけがなく、自分は体力がもたない。

 

 それから数回、何とも愉しそうに体を結び付けてきた後、トレバーはぼろ人形のようにぐったりとしているカティの身体を引き寄せ、抱き枕よろしく全身で抱えた。

「カティ」

「何だ……もうしねえぞ……したらほんとにぶっとばすぞ」

「ふふっ……君って最高だよ」

 ぱくんと耳たぶを口に入れて甘噛みされながらカティは悪態じみた正論を吐く。

「他の女がどんな具合か知らねえくせに最高もくそもあるかってんだ」

 自分は男に好かれるような要素もなく床上手と言うわけでもない、とカティはわかっている。

 もごもごと噛んでいた耳から口を離すとトレバーが囁いた。

「どうせ他の女とはできないんだから、やっぱり君がぶっちぎりで最高だよ」

「慣れりゃ他の女ともできるって! そしたら私は大した女じゃねえってすぐわかる」

「……君って優しいし謙虚だよねぇ」

 まったく、何でこの男は私とならできるんだろう?

 乳房をやわやわと揉む男の手を払いのけながらカティは溜め息をついた。

 この性的モラトリアムを一気に埋めようとじたばたしている大男はそれを「充足」の表現と理解したらしく自分も溜め息をついた。

 実に馬鹿っぽい。

「ねえ、赤い薔薇の花言葉って知ってる?」

 それくらい常識だったが、カティは面倒くさくてたまらないので知らぬふりを決め込んだ。

「知らねえよ」

「後で調べてみてよ」

「ふ~ん……」

 心底興味なさそうに答えるカティの顎をしっかりと捉えるとトレバーはその狼狽えている唇に唇を押し当て、舌でカティの歯列を抉じ開けて上顎をねっとりと舐めだした。

 まさか口の中に、身がくねるほどにくすぐったい場所があるとは……

「んんっ」

軽く鼻から高い声を出してしまい、カティは自分の口内を舐めまわしているものを慌てて舌で押し出そうとする。

 その薄く柔らかな舌をトレバーは抜けるほどに強く吸った。

 

 

​

Ⅳ. それぞれのプラン

​

「ってわけなんだよ」

 ちょっと前まで、どうせ抱けないんだからエログラビアだけ残して女はみんな絶滅しても構わない、と破れかぶれに言っていた男は、3杯目のジョッキを空ける。

「ほんと、カティ最高。まじで女神」

 男言葉で口汚く、酒に酔えば交際してもいない男と寝るあばずれが女神か…

 いろいろと突っ込みどころがありすぎて困る。

 しかし、今までの萎たれっぷりからすればとりあえず一人とでもできれば御の字だ。

 この数日でこの友人は暗くしょぼくれていた顔つきまで明るく変わったし、まあ良い方向へ進んでいるのだろう、とサイラスは思った。

「よかったな」

 子どもの頃からの友人の言葉に、トレバーは脳が何かに侵されている受け答えをした。

「うん、すっごくよかった」

 

――僕を笑う女も、僕を哀れむ女も大嫌いだ。

 特に、偽善っぽくいやらしげに笑いながら、打ちひしがれている男を性的に救済する自分という妄想に酔った女なんか吐き気を覚える。

 あの消し去ってしまいたい記憶と重なって、死ねばいいとすら思う。

 

 なのにカティなら、笑っても哀れんでもいい。

 それを想像するだけでもあっさり興奮する。

 性的に救済?

 はい、喜んで!

 

「でさあ、僕カティに結婚申し込んじゃおうかなって」

「は?」

 サイラスは素っ頓狂な声を上げた。

「結婚って?! お前、結婚って?!」

 トレバーはナチュラルに頷く。

「だってさぁ、結婚って法的にそのパートナーに貞操を求める権利があるっていう保証契約だし、これでよその男とつきあうなって堂々と言えるし」

「お前それ、何かずれてるぞ」

「どこが?」

 真顔で尋ねられるとサイラスは答えに詰まる。

 彼は空のジョッキの中で、ビールの泡がガラスの壁を伝ってそこへゆっくりと流れ落ちていくのに目を遣った。

「……俺が言いたいのはな、お前はちょっと舞い上がりすぎてないかってことだ。カティとそういう仲になってまだちょっとかしか経ってないだろう?」

「うん」

「結婚とかそういう重大なことはもっとお互いよく知りあってからにしたほうがいいんじゃないか?」

「そんなのわかってるよ」

 下半身だけで結婚相手を選ぶと痛い目に遭うのは常識だ。それくらいはわかる。

 さらにサイラスが言い難そうに言う。

「カティはああいうやつだし……ちょっと交友関係もなぁ……」

 サイラスがかなり婉曲に言っていることも重々承知している。もともとトレバーが彼女とこういう仲になったのも、彼女のユルさに起因しているのだから。

 それでも、カティが男関係に放縦なのではないかということを考えるとつらい。他の男にまともに勝てる気がしない。

 トレバーはちくっと眉根を寄せ、口を尖らせた。

「……サイラスには僕の気持ちはわからないよ」

「…ただ俺はお前を心配して、」

「君はいいよね、誰にだって節操なく勃つし」

 俺は普通だと言いかけて、サイラスは何とかその台詞を寸止めした。

「僕には、選ぶも何もカティしかいないんだよ?もし彼女が他に好きな男を見つけて、僕とはもう寝ないって言いだしたらどうすればいいんだ」

 

 そのころ。

「ちょっとあんた、こぼさないでよ。これから客が来るんだからね」

 壁紙、ファブリックとも全て紫と黒で統一され、ラインストーンやビーズで飾った雑貨に溢れた、パウダリーな香りが漂う部屋。

 その中にどう繕っても鼻につく淫靡な匂い。

 どう見ても「お商売」系ゴシック趣味の部屋で、カティは友人のライラに近況をぼやいていた。

 ライラが出してきた色とりどりのミックスフレーバー・ポップコーンをカティは大雑把に掴み、ざらざらと口に入れる。

「こんなちっちぇえもん、一つ一つ食ってられっかよ」

 薄いキャンディの層でコーティングされた白くかさかさしたものをぼりぼりと噛み砕きながらカティが言う。

 濃い菫色のランジェリーに、肌をより白く艶やかに透かしながらライラは話を本題に戻した。

「で、あんた、そいつのセフレやってんだ。うっちゃっときゃいいのにさ」

「だってトラウマインポ野郎を食っちまったのは私だし……泣いて責任取れって言われてよぉ。うちに押しかけてくるわ、職場で手ぇ振ってくるわ、メールボム食らわされるわ……」

 言いながら、カティは腰を擦った。

「……あいつ何もかもがでかくて、力加減がなってねえ。私、腰傷めて湿布貼ってんだぞ?」

「ババくさっ」

憮然とするカティに、ライラは開けっぴろげに訊く。

「……で、イイの?」

「それがなぁ、とにかくがっついててイマイチなんだよ」

「そういうオスそのものって感じのって、嫌いじゃないなぁ」

「実際やってみろ、余裕がなくてうんざりするから」

「そんな男もたくさん相手にしてきたけど? そういうの、可愛いじゃん」

 ライラは趣味と実益を兼ねて、明るく楽しく男達の天国で天使を演じている。その翳りのない潔さ、男あしらいの巧さをカティは高く評価していた。

 とりあえず、用件を切り出さねば。

「ライラ、頼みがあるんだけどさ」

「何?」

 友人に「ビジネス」の話をするのに気後れを感じているのか、少々カティの歯切れが悪くなる。

「あいつ、他の女ともやれて自信がつきゃ練習台の私から離れるんじゃねえかと思うんだ。だからちょっと協力してほしいんだ……金なら私がちゃんと出すから」

 

 なし崩しに面倒を見る羽目になっているが、何かが違うという思いがずっとぐるぐると渦巻いている。

 トレバーが嫌いなわけではない。でかい図体で見下ろしているくせにうるうるとした眼差しでせがまれると、つい仏心が出てしまう。

 近所の不幸な子どもにお菓子を与えるおばあちゃんのような気持ちだ。

 その博愛精神に対してあまり多くを求められても困るし、こんなに一気に懐かれ付き纏われると気味が悪くて逃げたくなる。

 

「思ったんだけどさ、責任取るっていうのは、最終的にはあいつが『やりてえときにやりてえ相手とやれるようになる』ように面倒見るってことだろ」

「……めんどくさいこと考えるもんだね。もうさ、あんたがしたいときだけやらせて、あとはほっとけばいいじゃん」

「ほっときてえよ! でもあいつ部屋の前で何時間でも待ってるんだぞ?!仕事してたらいつの間にか後ろにぼーっと立ってたりすんだぞ?!」

 予約客が来るまであと一時間を切った。

 部屋の隅からバニティボックスを出し、パウダーを柔らかいブラシで鼻筋にはたきつけながら、ライラは言った。

「あんたさあ、自分の汁が付いた男を私に押し付けんだからちょっと色つけなよね。出張料金とかあるし」

「じゃあ、1割増しで」

「もう一声」

「2割……?」

 ライラはコケティッシュな流し目で、カティを見た。

「まあ友人割引ってことにして2割増しでいいよ」

「それ、全っ然割り引いてねえよ」


 

 Ⅴ. 石鹸の匂い

​

――このところ、カティが冷たい。

――いつも冷たいがさらに冷たい。避けられているような気がする。

 

 トレバーは今日もデスクでキーボードを叩いては、決済情報を整理し下請けへの通知文書を作り、次期契約の準備に勤しむ。

 仕事に没頭している間はいい。

 終業時間が近づくと、眉間にしわが寄ってくる。

 同僚たちが次々と席を立ち、めいめいに帰路につく。しかしトレバーは椅子に深く腰を下ろしてPCのディスプレイをぼんやりと眺めていた。

 

――僕、何かしたのかな

――まさか他の男ができたんじゃ……

 

「トレバー、残業すんのか」

 

 からかうような調子を帯びた低い女の声が、耳のすぐ近く柔らかく発せられる。

 不意を打たれたトレバーが慌ててぐるりと椅子ごと声のほうを向くと、彼の肩越しにPC画面を覗いていたカティの髪に鷲鼻の先が掠った。

 メンソールの香りに混じって、目のすぐ下、息のかかりそうな距離にあるグレーのカットソーの胸元から、今すぐ捕まえて胸いっぱいに吸い込みたくなる匂いがする。

 離れ難い思いで身を軽く引き、黒い瞳が探るように鳶色の瞳を見上げた。

「何か用?」

 ここ数日の避けられっぷりに、表情も口調も硬くなる。

「疲れた顔してんな。今夜、うちに来るか?」

 カティがにっと笑う。

「いきなり言われても」

 幼稚な意固地さを自覚しながら彼はふいっとカティから顔を背けた。

「何か用事でもあんのか?」

 カティの手がするんと彼の肩を撫でた。

「特にないけど」

 素っ気なく言う。

 胸が締め上げられるように息苦しい。

「……機嫌直せって。飯作るから、食いに来い」

 あっさりとした命令口調。

 トレバーの目元と口元が一瞬緩み、すぐに顔を顰めて不機嫌な表情を作って見せる。

「……君さあ、僕を避けてただろ」

「ああ、えっとな……」

 カットソーの腰を少し捲り、カティは肌に貼っているメンソールの香りの正体をほんの少し見せ、すぐにまた布を被せた。

「腰痛めてたんだよ」

「!」

 トレバーはやっと思い当たる。

 先日、ことの真っ最中、カティの腰に体重をかけると「ぎゃっ」と悲鳴を上げられた。

 あれは性的感覚によるものではなく整形外科的な苦痛の叫びだったのだ、と彼は初めて気がつく。

「……ごめん」

「あれからカイロプラクティックとか通ってたんだからな?」

「そうならそうって言ってよ……善処するよ」

「私みたいなごついのでさえこんなんだから、他のカワイコちゃんはあんたとやるとヘルニアになるぞ?」

 トレバーは大きな温かい掌をじんわりとカティの腰に当てる。彼女がじっとしているのがわかるとおもむろに撫で始めた。

「………僕のこと嫌いになったのかと思った」

「嫌いじゃねえが、好きでも……わっ」

 いつもきょときょとうじうじしているわりにしっかり筋肉のついた長い腕が腰に回され、ひょいとカティはトレバーの膝の上に乗せられた。

 OAチェアが二人の体重に軋む。

 カティは尻の下で何かが硬く張りつめてくるのを感じて、そっと辺りを見回した。

 声を潜めて、軽く詰る。

「おい、誰かに見られたらどうすんだ」

「……僕は別に構わないよ」

 彼は眼鏡を外してデスクに置き、カティの肩口に顔を押し当て匂いを嗅いでいる。

「私の服で顔の脂拭くなよ」

「……」

「この続きは、私の部屋にしようや。さあ、帰るぞ」

 その「帰る」という言葉に、トレバーはふわっと笑顔を浮かべる。

 カティは何となく、トレバーを正視できなかった。

 

 久しぶりのカティの部屋。

 彼女が手早く作った料理を気持ちよく平らげ、ここ数日誰にも聞いてもらえなかったよしなしごとをぺらぺらぺらぺらとトレバーが喋る。

 職場でぽつんとしていることの多い彼は話し相手がいる時間がとても楽しいらしい。

 酒も入り、トレバーはとろんとした目でカティを見つめた。

「カティ」

「何だ」

「大事な話があるんだけど」

「おう」

「……ベッドで話してもいい?」

「あ、ああ……いいぞ。終わったらな」

「ふふっ」

「気持ち悪い」

 彼は一人でもじもじと照れはじめ、横にいるカティに甘えて凭れかかった。

 予測していなかった大男の攻撃にカティは倒れ、側頭部と肩を床に強か打ちつける。毛足の長いラグを敷いていなかったら脳震盪を起こしていたかもしれない。

「っ……」

 ほっそりとした手がまだ本調子でない腰をのろのろと擦る。

「おい……あんたにはほんのおふざけだろうけど、私にはなぁ……」

「あっ……ご、ごめっ……!!!」

 慌てるトレバーを、横倒しになったままカティは見上げた。

「なぁトレバー」

「ん?」

「私な、ずっと考えてたんだ。私のあんたに対する責任って何なんだろうって」

「んんん?」

「あんた、私に責任とれって言っただろ?」

「うん」

「性豪とまではいかなくても、やっぱりやりてえ女と自由にやれるようになるってのが目標だろ?」

「んんんんん?」

 大男が理解の覚束ない顔つきで犬のように小首を傾げる。

「いいねぇ、それ」

 彼女は彼が将来において気に入るであろう複数の女を言ったつもりだったのだが、トレバーは複数形の「s」を聞き落した。

 彼が「やりてえ女」単数形に誰を当て嵌めているか、カティは全く気づかない。

 彼女の言葉は、完全に曲解された。

「とにかく、あんたは私を練習台にして入門編は済んだんだから、今日はいよいよ次のステップだ」

 トレバーは、暫し何か考えている様子だったが、「次のステップ」という表現を聞くと何か変な物質が脳内にダダ漏れしてきたようだった。

​ セフレからの昇格を勝手に確信し、彼はにこっと笑うとカティの上に身を伏せてきた。

「カティかぁぁぁわいいいぃぃぃぃぃ!もおおおおぉぉぉ!大好きいぃぃぃぃ!」

「耳元で喚くな!」

 彼は何やら非常に乗り気のようだ。

 できなかったことをできるようにしていくにはチャレンジが必要だ。

 この勢いで頑張ってもらわなければ。

 とにかくこうしてはいられない。本日は特別講師を招いている。

 性急にカットソーに手を差し入れ、ブラジャーのホックを外すトレバーにカティはじたばたともがきながら喚いた。

「トレバー! トレバーって! 聞け! シャワー浴びてこい!」

「浴びないとだめ?」

「当ったり前だ! べとべとだろうが」

 汗っかきの自覚はあるらしく、トレバーは素直にシャワーを浴びにバスルームへと向かった。

 

「ううう……」

 シャワーの水音を聞きながら腰を庇ってようよう身を起こすと同時に、ストレージの扉が開いた。

「面白いわ、あんたたち。今度ステージに立ってみなよマジで」

「何のステージだよ」

「コント込みの白黒ショー。あんたらいいカラダしてるし多分当たるよ」

「ぶっ飛ばすぞ」

 ライラはにやっと含みのある笑みを浮かべた。

 裸身に、カティがいつも寝間着代わりにしているTシャツ一枚という出で立ちだ。カティがいつも使う安い石鹸の匂いを漂わせている。でかい鼻でしつこく匂いを嗅ぐ癖のあるトレバーも、慣れたこの匂いなら落ち着きを感じるに違いない……というのがそれを指示したカティの狙いだった。

 ライラはバスルームの方を軽く親指で指す。

「まあまあいい男じゃない。あれでもうちょっとしゃんとしてれば女食いまくりじゃね?」

「じゃああんたがあいつをしゃんとさせろよ」

「ベストを尽くすよ」

 カティがどことなくそわそわと念を押す。

「優しくしてやってくれよ? あいつああ見えて繊細なんだから」

「わかってるって。あんたこそ段取り間違えんじゃないよ」

 

 シャワーを終えて、トレバーはタオルを腰に巻きつけてリビングへ戻った。拭く間も惜しかったのか水滴が皮膚の上を流れ落ちる。

「カティ??」

 そこに彼女の姿はない。

 勝手知ったるカティの部屋の冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを飲むと、トレバーはせかせかと階上のベッドルームへ向かった。

 

 扉を開けてみると、サイドテーブルの灯りの中、カティが落ち着かなげにベッドの端に座っている。彼の姿を認めて慌てて立ち上がるが、また座る。

「どうしたの?」

「何でもねえよ」

 そう言いながらも口元の表情が硬い。

「何かカティ、変だね」

「変じゃねえって」

 蓮っ葉な口を利くがそれと裏腹な妙に硬い反応。

 しかしそれを気にする余裕はトレバーには無くなりつつあった。

 カティの腰を労わっているつもりなのか、彼はカティの身体をゆっくりと支えながらベッドに倒して抱きついた。

 もちろん、そこは既に臨戦態勢だった。腰に巻いているタオル越しにカティの身体に擦り付ける。

 迫ってくる顔を押しのけてキスを拒み、カティは彼に言った。

「おい、ゴムつけろ」

「え? 今? 全然触ってもらってないのに?」

 不満そうに言う彼に、カティは居丈高になった。

「次に進みてえんならつべこべ言うな。今すぐ、突っ込む支度しろ!」

 

 この避妊具を装着するところというものは誰がやっても本当に間が抜けている。

 女にとって、見て見ぬふりをすべき男特有の事象の最たるものだ。

 もそもそと作業を終えたトレバーはカティに向き直り、至近距離で頭部を撃ちぬかれたような衝撃を受けた。

 

 カティはベッドから忽然と消えていた。

 代わりに見知らぬ女がいる。

 

 プラチナブロンドを緩く巻いた、色白で長い睫毛のいかにも男好きのする女がトレバーを間近に見上げていた。

「初めまして。ライラって言います。よろしく」

 少し離れたところで声がする。

「トレバー、紹介するわ。そいつ、私の友人でライラ・ドリスってんだ。美人だろ?」

 カティはジャケットを羽織りながら、ドアノブに手を掛けていた。

 トレバーの顔色がみるみる変わる。

 恐慌状態でブランケットで大きな身体を隠し、心臓のあたりで拳を握り締める。

「なっ……何これ?!!どういうこと?!!」

「あんたさぁ、他の女じゃ勃たないっつったろ? 勃つとこまで面倒見りゃ後は絶対、誰にでも自由自在に突っ込める」

「……何? ……何言ってんだよ!!! ねえ!!!」

「他の女とやりゃ、絶対あんたは一皮剥ける! 自信持って楽しめ、な? いいもん持ってんだからさ、大船に乗った気でやれ」

「ちょ……何それえええええ?!」

 立ち上がろうとするトレバーと反比例してしょぼくれようとする部分を素早く掴むとライラが慌ただしく声をかける。

「やばいカティ! さっさとやんないと萎えちゃう!」

「触るなああああああ!! 助けてカティいぃぃぃ!」

「すまんライラ! トレバー、いいか、あんたはできるやつだ。絶対できる! 信じろ! ここが踏ん張りどころだぞ!!」

「冗談だよね? ……リアリティTVかなんかだよね? そうだよね?」

 普通、全世界の電波に乗るそちらの方が許せないはずなのだが、世界でただ一人自分が男として振舞える相手からの突然の仕打ちに、彼は目下大混乱中だった。

 もちろんカティに、違う、と一蹴される。

「というわけで、映画観てくるわ。3時間で戻る」

「……待って! カティ!! 待ってえええええええ!!」

 叫ぶトレバーを一顧だにせず、カティはそのままドアを開けて出て行く。

「ライラ、延長が必要だったら、連絡しろよ」

 無慈悲にドアが閉まった。

 間髪を入れず始まるライラの手の動きにトレバーが乙女の悲鳴を上げた。

「いやああああああああああああやめてええええええええ」

 ライラの掌中で逃げられなくなっているのだろうか、メゾネットのエントランスでもう一度、カティは泣き声を聞いた。

「カティ助けてえええええうわあああああああああああ」

 

 自分だけに懐き、自分を信じきっている飼い犬を初めて他人に預けるときの後ろめたさを感じつつ、カティは駅前の小さな映画館へ急いだ。

 

――これで練習台から卒業するんだトレバー!

――あんたはできる男だ!!

――きっと輝かしいセックスライフが待っている!

――がんばれ! 激しくがんばれ! 応援するぞ!

 

――しかし何だろうかこの後ろ髪の引かれっぷりは。

 

 カティは、自分がしていることに絶対的な自信があった。

 これで、彼もそこいらの男と同じように、元気に種をばらまいて屈託なく猥談に混ざって興じるようになり、容姿も心根も申し分ないステディでも作って、楽しく暮らすだろう。

 何しろトレバーは、カティの前ではEDの片鱗すら見せなかったのだから、彼女の認識が甘くなるのも無理からぬことではあった。

 そうして彼女は彼の将来を上から目線で考えてやった結果、彼を深く深く傷つけようとしていた。

​

 

Ⅵ. 確かめたいこと

​

 前から見たいと思っていた、非常に悪趣味な超弩級キワモノ映画が終わったのは、それから二時間後だった。

 ある意味カティの好みにぴったり合っていたはずの映画だったが、今一つ楽しめなかった。

 スタッフロールを映し出す銀幕に背を向け、シアターを出る。

 そういえばトレバーにこれ一緒に見ようって誘われてたっけ……あいつこういうの好きじゃなさそうなんだけどな。

 思い出すと疲れを感じ、彼女は映画館の前のファストフード店に立ち寄って時間を潰すことにした。

 普段は飲まない甘いチェリーココアと持ち帰り用のドーナツを二箱オーダーし、椅子に落ち着く。スマートフォンをポケットから出して、胸をざわつかせながらマナーモードを解除して画面を見る。

 ライラからのメッセージが1件あるだけだったが、それを目にした途端、切れの長い三白眼が一気に見開かれて四白眼になり、カティはココアにはほとんど口をつけず、店を飛び出した。

 

――早く帰ってきて。けがさせられた。血が出てる。

 

 電話をしてもライラは出ない。

 トレバーも出ない。

 

 身から音を立てて血の気が引く、とはこのことを言うのだろう。

 歩ける距離をタクシーに乗り、大慌てで帰宅する。

 事と場合によってはすぐに警察とレスキューを呼べるよう、キーパッドを表示させたスマートフォンを握り、カティはエントランスの階段を一跳びで上った。

「ライラ! ライラ!」

 カティが叫びながら転がるようにリビングへ駆けこむと、ライラは自分の服に着替え、ソファーでくつろぎつつケーブルTVの通販番組を観ていた。冷蔵庫に入れていたヨーグルトにグラノーラを入れて食べてながら。

 首だけで振り向き、ライラが言う。

「ああ、お帰り。小腹がすいたから、これ、もらったよ」

「お帰りってあんた……けがは?」

「ほら」

 肘のあたりの小さな内出血と手当ての必要すらない擦り傷を見せられ、カティはその場にへたり込んだ。

「痛かったよ。あのでっかいのに突き飛ばされてさぁ」

 カティが呻く。

「何だよ……その程度かよ」

「その程度って何? 私はシミ一つない艶肌が売りなんだからね。そんじょそこらの女と違うクオリティで商売成り立ってんだよ!」

「……ごめん」

 その場に座り込んだまま、疲労感を味わっているカティに、スプーンを唇に当てたままライラは言った。

「あ~あ、もう嫌んなるよ」

「は?」

「あいつ、ずーっとベッドルームに鍵かけてカティ~カティ~って泣いてんの」

「は? ……じゃあ……」

「できなかったよ、な~んにも。あんたが消えたらすぐ萎えてた。何したってだめ」

 子どもの不始末に縮こまる親の風情でカティが謝る。なぜ謝らなければならないのかよくわからなかったが、そうするのが自然な気がした。

「ごめん」

「私もプロの意地ってあるじゃん? とにかく何かしようと思って、前立腺マッサージしようとしたんだけど」

「ライラ……」

「そしたらさ、このざまだよ。部屋から引きずり出されちゃった」

「ごめん」

 商売女は容器の底に残ったヨーグルトをスプーンで引っ掻き集め、最後の一口を舐めとった。

「私ら、下手打っちゃったね」

「……」

「あいつができりゃ、『終わりよければすべてよし』で問題なかったろうさ。でも失敗しちゃったらマジで洒落になんないよ」

 カティは言い訳をぼそぼそと呟いた。

「絶対いけると思ったんだ」

「根拠は?」

「あ~……勘っていうか……」

「……あんたの勘で、あいつはプライドずたぼろで、私は商売道具に傷入れられたってわけ?」

「こういうことになるとは思わなかったし」

「あ~あ……カワイコちゃんも気の毒にねぇ……」

「私カワイくねえけど?」

「何言ってんの。違うよ」

 このそばかす女は彼のことを何もかも後回しにし、帰ってくるなりライラにばかり気を遣った。

 あの男にも今の会話は聞こえていただろう。

 彼女はゆるく巻いた髪を耳にかけ、バッグを肩に立ち上がった。

「さ、あんたはあのカワイコちゃんのフォローに精を出しな。私、帰るわ」

「ごめん」

「あんまり小手先でごちゃごちゃしないほうがいいよ。なるようにしかなんないんだから」

「……おう」

 謝り通しのカティが差し出したドーナツの箱を受け取ると、ライラは最後にこう言ってあでやかに笑った。

「あいつさ、多分あんたを練習台だとは思ってないよ」


 

 ライラを見送ると、カティはリビングのTVの電源を落とし、耳を澄ませた。

 カティは静かに階段を上がりベッドルームのドアをノックした。

 返事はない。

「トレバー、入るぞ」

 鍵が掛かっていたが緊急解錠用の溝に爪を差し込んで捻り、難なくベッドルームに入って灯りを点けると、ベッドの上に妙なものが丸まっているのが目に入る。

 頭の先までぎっちりとブランケットを巻きつけているが丈が足りずに足先が出て、まるで野菜がはみだしたカット前のミートローフのようだ。それが横倒しにぎゅっと丸まっている。

 部屋を叩き出されて回収できなかったと思しき、ライラの『お道具』がいくつか床に落ちていた。

「トレバー、ごめん」

 ベッドの端に腰かけ、できるだけの誠意を込めてカティは謝った。

 ほんの少し覗く黒い髪に手を伸ばすと、ミートローフはごろんと動いて触れさせようとしなかった。

「ごめんって」

 ベッドに上がり、身体をぴったり寄せると彼は身を捩って避ける。

「ごめん、ほんと、ごめん」

 謝り続けるカティにトレバーが裏返った声で叫ぶ

「触るな!」

 カティは彼の言う通り、彼の身体から離れた。

 非常に気詰まりな空気の中、身を離したまま二人は黙りこくった。

 大音量で趣味の悪い音楽を鳴らした車が窓の外を通る。

 近くにある駐車場から響くカーセキュリティアラームの誤報音がたまらなく耳障りだった。

 今まで気になったことなどなかったのに。

 

 沈黙を破ったのはカティだった。

「私は、たまたまトレバーとこうやって寝るようになって、正直困ってたんだ」

 トレバーの頭が少し動く。話は聞いているらしい。

「あんた、たまたま酔った勢いで私とセックスできたっていうそれだけでべたべた纏わりついてきただろ。私がどんな女かも知らないくせに」

「……」

「だいたい私とつきあう男ってのはな、み~んななぜか身体目当てなんだ。やれれば何でもいいっていう男ばっかりなんだよ」

「……」

「他の女とできる機会があれば、私と寝てた男はみんなそっちにいっちまう。どうせそういう男しか私なんぞに声かけねえんだよ。私ブスだし、性格もこんなだしさ」

「……」

「だからもうステディは要らん。トレバーにも、馴染みきっちまう前に早く他の女のとこに行ってほしいんだよ。だから手っ取り早くライラに頼んで荒療治してみようかってなっちまった」

 話しながら、目を細めて嬉しそうに笑うトレバーの顔が思い出されてちくちく胸が痛む。

 結局は自己都合だった。純粋に自分の機能回復を喜んでいたこの男を傷つけて構わない理由にはならない、とカティは思った。

 あばずれの分際で、自分の浅慮が情けない。

「ごめん。許せねえだろ。顔も見たくねえよな」

「……」

「それが当然だ」

 そう言うと、これ以上最悪な相手と同じ空間で同じ空気を吸う嫌悪感を味わわせないようカティは寝室を出ようとした。

 許すの許さないのというのはお子ちゃまじみていて正直どうでもいい。

 ただ、再起不能という最悪の事態になっていたらと思うとどうすればいいのかわからない。

 どうすればいいのかわからないので、とりあえずこの場から離れたい。

 

 トレバーはブランケットからそっと顔を出した。

 自分に背を向けて部屋を出ようとするカティを見、小さく呼ぶ。

「……カティ」

 ミートローフはごそごそと起きあがる。カティはびくりと振り向いた。

 ブランケットの縁から覗いたトレバーの胸板にはライラの口紅がついている。

 浅黒い頬に、涙が乾いて白っぽく粉を吹いていた。

「……帰るんなら、ジャケット、リビングに掛けといたぞ」

 もう最終の地下鉄はとっくに出てしまったが、タクシーなら駅前にいる。

 背を向けるカティにトレバーは言った。

 

「こっちに来て」

 

 カティが固唾を呑み、詰られることも、ともすれば殴られるであろうことも覚悟した上の緊張の面持ちでゆっくり近づく。

 ベッドの少し手前で立ち止まった彼女にトレバーは手を伸ばして引き寄せ、その腹に顔を埋める。

 彼は二、三回カティの匂いを大きく吸い込んだ後、喉を痙攣させ掠れた声で子どものようにしゃくりあげ始めた。

「嫌だった……すっごく嫌だった」

 カティは彼の頭を撫でた。

「うんうん、ごめんなあ」

「ひどいよ」

「うん」

「カティのばか」

「私もそう思う」

 彼はひとしきり泣きじゃくり、カティもその間彼の頭や頬や肩を優しく撫で続けた。

「僕にはカティしかいないんだから」

「わかった」

 外でアラームの誤報音は3台分に増えさらに喧しく鳴り響いていたが、今はもうさほど気にならなかった。

 

 ひとしきり泣いて詰って少し落ち着くと、トレバーは俯いたまま震え声で弱々しく懇願した。

「確かめさせて。僕がまた、だめになってないか……」

 彼は怯えた表情を浮かべてカティを見、すぐにまた俯いた。

「……怖いんだよ……これでまた、君ともできなくなってたらどうしようって」

 その恐怖と誰かに縋りたい気持ち、今腕の中にある優しさと柔らかさを留めておきたい欲求が、自分を惨めに傷つけ虚仮にした相手への憎悪と忌避感情を彼の中で凌駕していた。

「怖いんだ……」

 

 できないということがどれだけ辛いのかカティには皆目見当もつかない。

 他の本能的行動とは違い、生命を維持するために必要不可欠なものではないのだから。

 しかし、同性どもがそれなりにパートナーを得て楽しく過ごしているのを遠目に見、鬱屈していた彼の胸に蟠るものを思えば、自分のやったことを顧みると凹まざるを得ない。

 無神経にもほどがあった。最初に思いやって然るべきだった。

 

――私は、精神と体は別物だと思っているのに、こいつは直結している。

――ただ「生殖する」という生物学的な見地から見れば、私の認識のほうがはるかに優れているのは疑いようがない。

――でも、どっちがより無垢で愛すべき存在と言えるのか。

 

「怖いことなんかねえよ」

 

 トレバーはその夜、彼の膝もとにカティが初めて自ら蹲るのを見、その唇や舌、両の乳房の感触をそこに知る。

 そして彼は、彼女だけを峻別した自分の本能に改めて絶対の信頼を置いた。

 

 自分の上、トロットのテンポからだんだん速くなりギャロップで駆ける騎手のように揺れるカティの細い腰、その後ろにある小ぶりで円やかな肉に手を添える。張りのある乳房が、一瞬遅れに慣性の法則に従って弾む。

やっぱり、彼女は最高だった。

 

「……僕のこと好き?」

 目の周りを紅く染めたカティが浅い呼吸の下、ふと笑って見せた。

「まあ……こういうこと……してやれる程度にはな」

 その答えを聞くと、一気に堪えきれなくなる。

 彼は思わず、責めたてられる女のように喘ぎ声をあげ、カティの名を呼びながらぐっと身を痙攣させた。

 

 そんな彼を見下ろしながら、カティはちょっと、引いた。

​

​

Ⅶ. こういうときどうすれば 

​

 大人しげな黒髪の大男が先ほどから数冊の本を手に一人、逡巡していた。

『女が離れられなくなる夜のスゴ技』

『女性に聞いた!セックスの本音』

 こういう本はネットで読めばいいのだが、手汗をかきやすく滑りやすい彼は強固なアナログブック派だった。そしていつも行く顔馴染の書店より、こんなメガブックストアの方がいい。これはと思う本を手に取って眺め、レジに並び、金を払って店を出る、そういう流れに誰も注意を払わない。

 そうわかっていても、トレバーはなかなかレジへ行けなかった。

 なにしろ、数週間前まで性的how to本とそれを読む連中に対して火炎放射器の使用が認められればどんなにいいかと本気で思っていたし、欲しい本があるコーナーへの途中にこの手の書籍が置かれていれば、わざわざ遠回りするくらいだったのだから。

 それほどの負の感情を抱いていた自分が、今そういうコーナーに立ち、そういう本を手にとっている。

 意を決してレジに向かおうとしたとき、トレバーの半歩先を、まさに生き急いでいるとしか言いようのないスピードで小学生と思しき男児が走り抜ける。

「おっと!!」

 彼は慌てて立ち止まり、すんでのところで小さな猛獣との衝突を回避した。

 しかし、彼の背後に続いてレジに並ぼうとしていた男はそうもいかなかった。緩衝する動作も取れずに目の前の広い背中に、彼は正面からどん、とぶつかってしまう。

 二人ともつんのめり、購入しようと抱えていた本をどさどさと取り落とした。

「あっ!すみません!」

「こちらこそ!」

 相手はトレバーほどではないが面長で、人の良さそうな顔をした男だった。

 少し年下に見えるが、着崩したトラッドスタイルに革のデイバッグを背負い、物腰も穏やかで育ちがよさそうだ。暗くなってきたというのに色の入った眼鏡をかけ、杖を右手に携えていた。頬のそばかすが印象的だ。

 トレバーは相手が右足に障がいを抱えていること、ずれてしまった眼鏡の奥の片目は瞼が少し引き連れ、焦点が合っていないことに気づき、激しく動揺した。

「本当にすみません! お怪我は?!」

「大丈夫です。あなたこそ痛くなかったですか? 僕がぼーっとしちゃってて……すみません」

 慌ててトレバーが本を拾い集めると、彼もゆっくりと屈む。

 

――『ネオダーウィニズムと社会福祉』

――『権力の本質 50の実例による考察』

――『近代戦争史と欧州の頭脳流出』

 

 彼が選んでいたのは、どれもこれも知的な書籍ばかりだった。

 それにひきかえ……とトレバーは恥ずかしさに顔を赤らめ、俯いてしまう。

 お互い本を拾い、自分のものでないものは相手に渡して二人は立ち上がった。

「ありがとう」

 彼はにっこりと嫌味なく微笑んだが、トレバーの羞恥心がどうしてもそこに蔑みの影を見てしまう。

「ごめんなさい」

もう一度謝り、トレバーは書籍をすべて元の棚に戻すと逃げるように立ち去った。

 

 書店での、傍目からは実にどうでもいい出来事を忘れようと努めながら、トレバーは高層化に抗う薄汚れた集合住宅群の近隣公園のベンチにぽつんと座っていた。ここはカティのデュプレックスが見える。

 最近、部屋の前で待つのが常態化し、とうとうこの建物の端部屋に住んでいるという大家の老人から

「若いもんはええのう……ま、頑張れ」

とクッキーを渡されているところをカティに見つかって、部屋に引っ張り込まれたあと鬼の形相で怒鳴られた。

「いい加減にしろ! しまいにゃぶっ飛ばすぞ!」

「ごめん、……大家さんにこれ返してきたほうがいい?」

「あんたは馬鹿か!!」

「……次は『お菓子はいりません』ってちゃんと言えばいい?」

「そういう問題じゃねえだろ!」

「…………じゃあ、はんぶんこ……する? そういう問題?」

 パッケージをばりっと破りながら恐る恐る訊く彼に、カティは頭を抱える。

「ああああもうこいつぶん殴りてええええ!!」

 そういうこともあり、彼女は扉の前で待つのを快く思わない様子なので

「鍵、もらえないかな」

と勇を鼓して何度か要求してみたが、カティはふんっと鼻を鳴らして軽く睨むだけで取り合ってくれない。

 ここは会社からカティのデュプレックスまでの動線上だ。

 だから最近はこうやって待っている。

 

 黄昏の光が消え街灯や路面店の灯りが道を照らしだしたころ、やっと背の高い女がゆったりと歩いてくるのが見えた。

 残業続きの待ち人に、立ち上がって歩み寄ろうとした彼は面食らった。

 

 カティは立ち止まり振り向いた。

 背後から男に声を掛けられたのだ。

 その男というのがちょっと嫌な相手だった。先ほどブックストアでトレバーにぶつかった男だ。

 杖を突き右足を引きずりながらカティに話しかけながら近寄ってくる。

 道でも尋ねているのだろうか?

 次の瞬間、あの無愛想なカティが、公衆の面前でその男に駆けより手を広げて抱き締めた。男も杖を持った手をカティの背に回す。

 抱擁を解いて、何事か話しながら二人は並んでゆっくりと歩きだした。彼女は男の持っていた書店名入りの紙袋をいかにも自然な動作で受け取り、持ち運ぶ。

 そして二人が公園へ近づくと、慌ててトレバーはアザレアの植え込みに隠れた。

 案の定カティは公園の入り口、車止めの辺りに立って園内へ視線を走らせ、誰かを探すようだった。誰もいないことを確認すると安心したようにポケットからスマートフォンを出し、また歩きはじめながらちょこちょこと画面を弄る。

 トレバーの携帯電話がメッセージの着信を控えめに告げた。

 もちろんカティからだ。

 

――用があるから今日は無理

 

 すぐそこに相手がいるとも知らずにカティはしれっとしたものだ。

 スマートフォンをしまうなり、カティは男に何か言い、笑顔を見せた。

 見たことのない気遣いと優しさの籠る表情に、トレバーの胃がぎりっと痙攣を始める。

 男もちょっと困ったような顔で笑い、そのまま二人で通り過ぎていく。

 トレバーは今見たものが信じられず、立ち竦んでいた。

 目の前がぐるぐると回り始め、今立っている足の下で大地がひどくぐらつくように感じた。

 

 会社帰りに、プールで軽く2マイルほど泳いだサイラスは、ロッカーで携帯電話がちかちかと点灯しているのに気付いた。トレバーからだ。画面は彼からの着信とメッセージの表示で埋め尽くされている。

 電話に出るなり、トレバーの悲鳴のような声が耳をつんざいた。

「サイラス! 何で電話に出ないんだよおおおおお!!!!」

「ああ、今プールにいてな……何の用だ」

「カティが部屋に男連れ込んでる! ねえ、踏み込んだ方がいい?! どうしよう!」

「は?」

「道でカティが男に声かけられて、いちゃいちゃしながら部屋に入ってったんだよ……ねえ、こういうときはみんなどうするの?どうするんだよ!」

 完全にトレバーは取り乱している。早口で、おろおろと喋る。

「僕には踏み込んでいいのかどうかわからないよ! ねえどうしよう! 早く決めなきゃ」

 決められないから、カティの部屋の前から30回もストーカーまがいに俺の携帯に電話をかけてきたというわけか。


 

「おい、とにかく落ち着け」

「教えろよ!」

 電話の向こうで涙ぐんでいる彼が気の毒ではあったが、サイラスは適当にあしらおうと思った。痴話喧嘩はほうっておくに限る。

 トレバーは錯乱した様子で喋り続ける。

「今頃、二人で何してるかって思うとじっとしてられないよ! ねえ、やっぱり踏み込んだ方がいいよね? 挿れちゃう前に!」

 縋るように訊かれるが、サイラスは「いやもう遅いんじゃないのか」と言いたい気持ちを抑えるのに必死だった。

「お前だってキャットハウスにも最近行ってただろうが。お互い様じゃないか」

「あれはカティが行けって言ったから!! もう絶対行かないよあんなとこ!」

「だいたいなぁ、踏み込んで何をするつもりだ? そいつに自己紹介でもしに行くのか?」

「この際自己紹介でも何でもいいよ!」

 トレバーが涙声で喚く。

「……結婚を考えてる相手が今、男とやろうとしてるんだよ! 平気でいられるわけないだろ?!」

「じゃあ答えは出てるじゃないか。いちいち俺に訊くな。切るぞ」

 先日の「僕にはカティしかいない」という言葉を思い出し、サイラスは溜め息をついた。

​

 

​

Ⅷ. 傷だらけの昔話

​

 カティの部屋のダイニングで、男は様々に他愛ない近況を報告する。

 最近、彼の住まいのすぐ近くでリンゴを積んだトラックが横転する事故があり、道じゅうリンゴまみれだったことや、最近イベントの仮装用にかなり不気味なデザインの義眼をオーダーし、試しに大家の息子に見せたら泣かれたこと、今日ここへ来る途中、土産物を選んでいて高速バスに乗り遅れてしまったこと、そして本屋であった出来事を話した。

「で、レジの近くで本ぶちまけちゃったんだけど、その人が買おうとしてた本がみんな助平な実用書でさ、真面目で気の弱そうなビジネスマンって感じだったからびっくりした」

 鱈のフライを気持ちよく平らげながら、彼……マーティンは愉快そうに続ける。

「やっぱり恥ずかしくなったんだろうね、その人結局一冊も買わずに店から出てっちゃったんだ。ちょっと気の毒な気がしたよ」

「指差して笑いたくなるな、そいつ」

 頬杖をついて、彼が食事をする様子を眺めながら、カティが目を細める。

「カティは最近変わったことは?」

「ん……まあ特にねえな」

 しらじらしい答えにマーティンはふふっと笑った。

「今度の人はすごく大きい人なんだね」

「は?!」

「バスルームに男物のソックスがかたっぽ落ちてたけど?」

「……私のだよ」

「どえらくでかかったけど? それに彼、甘党なんだろ?」

「!」

 マーティンはキッチンの棚に並ぶ生クリームの未開封スプレー缶を親指で指した。

「あれ、カティが買ったの? 彼が持ち込んだの?」

「……私が食うんだよ」

 カティは口調も表情も平然としているがオークル色の首筋、耳朶に至るまで柔らかい赤さに染まっている。

「ふ~ん」

 マーティンは隻眼ではあるが、こういうところに目端が利く。ここへ来るたびに、男の痕跡を目ざとく見つけて苦笑する。

 カティは椅子から立つと、そそくさとキッチンで皿洗い機に汚れた皿やコップをセットし始めた。

 カティは、マーティンには自分のそういった部分をあまり知られたくなかった。

 

 シャワーを浴び、寝間着代わりのTシャツを着てマーティンがリビングへ戻ると、カティがソファーにワッフル織のシーツを掛け、ブランケットを用意していた。

「ありがとう」

 背凭れと肘掛を倒し、真っ平らになったソファの上にマーティンは座った。

「今日来たのは、大事な話があるからなんだ」

 立っているカティの鳶色の目を、丸い黒い瞳が見上げた。

「僕、今月末、ロスバノスに引っ越す」

「はあ?!」

「就職が決まった。来月から来てくれって話になってる。職員寮もあるし、条件もなかなかいいんだ」

「そもそもロスバノスってどこなんだよ」

「カリフォルニアだよ。忘れたの?」

 大学時代の友人から、勤務先の私立高校の障がい者雇用枠に空きができたから申し込んでみないか、という話があったというのはマーティンから電話で聞かされていたが、その後梨の礫だったためカティはその話題には触れないようにしていた。

「決まったら決まったって、先に電話しろよ!」

「決まったのが先週なんだよ。いろいろ忙しくてさ」

「今夜来るのだって、電話一本でもくれてりゃ、今夜はもっと豪華なもん食わしてやったのによぉ!!」

「びっくりする顔が見たかったし、カティの作った普通のご飯が食べたかったんだ。おいしかったよ、ほんとに」

 言いながら、マーティンは背負ってきたデイバッグを開け、ごそごそと小さな封書を出し、カティに渡す。

「それに、これもずっと気になってた」

 カティは、封筒に細長い指を突っ込むと、一枚の書類を取り出した。

 それはマーティン名義の銀行口座のステイトメント(利用明細)を印字したものだ。預金残額が0になっている。

「どうしたんだ、これ……何に使ったんだ?!」

「この口座潰して、残高全部カティの口座に振り込んどいた」

「は?!」

 マーティンは今夜の寝床である、少しぐらついたソファの上に寝転がった。

「ああ、肩の荷が下りた! すっきりしたよ」

 カティが顔を歪めた。

「……何でこんなことするんだ」

「僕はもう大人だし、仕事も見つかったし、何でもできるよ。いつまで僕の面倒を見るつもり?」

「だからって突っ返さなくったっていいだろ!」

 カティはくどくどとマーティンを責めだし、彼はそれを聞き流しながら頭の下で手を組んだ。

「カティ、僕がステイトメントチェックしてどんな気持ちになってたかわかるかい? どんどん増えていってるのを見て、喜んでるとでも思ってた?」

「……」

「カティは子どもの頃は毎月僕にお小遣いを分けてくれて、学生の時はバイト代分けてくれて、働き出したら給料分けてくれて、それで償おうって思ってたんだろうけど」

 カティがマーティンの言葉を遮る。

「そんな気になんかなってねえよ! こんなはした金でおまえの目と、足が買い戻せるわけねえだろうが!」

 マーティンは天井を見上げた。

「7歳の子どもの事故の責任を、9歳の子どもが背負おうなんて馬鹿げてるって何度言えばわかるんだ。一生償うって、無茶にもほどがあるよ」

 事故の後、彼は周囲の愛情や配慮をこれまで以上に一身に集めた。そして彼女はいつも一人、温かい人々の輪から離れて過ごしていた。

 そんな日々も、彼女は精一杯マーティンに優しく在ってくれた。

 マーティンは、大きく息を吸い、低く穏やかな声で言った。

「もう、本当に終わりにしたい」

 ソファの近くにしゃがみ、まだ何か言いたげなカティの髪にマーティンはほんのちょっと触れ、すぐに手を引っ込めた。

 まるで触れた指に傷でも負ったかのように、きゅっと掌に握り込む。

「僕はずっとずっと苦しかった。馬鹿なクソガキが道路に飛び出したせいで、一生カティは自分を責めるんだって思うと悲しかった。僕自身が、もうそういうのを全部終わらせたいんだよ」

 

――違う。

――私は、自分を責めていない。

――車にはねられて、倒れているおまえを見て、私がまず何を考えたと思う?

 

……どうすればおまえから目を離した私が叱られずに済むか、そればっかり考えていたんだ。

 

――なぜ、早々に家を出たと思う?

 

……おまえと、私がおまえを一生世話すべきだと強制する親から逃げたかったからだ。

……金を払って済むのならそっちの方がよかったんだ。

 

 負い目を引きずりつづけている姉は少しばかり声を沈ませた。

「……引っ越すんだろ? しばらくは物要りだぞ」

「僕がバイトしてたの知ってるだろう? 少しだけど貯金もあるんだ」

「……」

「どうしても困ったときは、また相談するから貸してよ。でも借りたらちゃんと返す」

 にこっと彼は微笑んで見せた。

「僕はね、もう哀れみも施しも欲しくもない。身を削った施しは要らない段階に来てるんだよ、カティ」

 カティがついっと立ち上がり、箱から二枚ティッシュを引っぱり出してリビングを出る。扉の向こうで派手に洟をかむ音が聞こえた。

 この弟が、彼女にとって弱みの一つだった。

 リビングに戻ってきたとき、寝支度を調えた彼女は枕ともう一枚のブランケットを抱えていた。

「私もここで寝る……カリフォルニアに行ったら、そうそう会えねえだろ?」

 

 ソファの下、ラグの上に寝床を作ってカティは横になる。

 灯りを消してぽつりぽつりと今回の旅程や思い出話をしているうち、疲れが出たのだろう、マーティンはことんと寝入ってしまった。

 カティはそっと起きあがった。

 ブラインドを閉めていてもちかちかと、隣にあるビルの電飾が目障りだ。

 その赤や緑に明滅する光にぼんやりと見えるマーティンの寝顔に、カティは見入っていた。

​

​

​

Ⅸ. え? え? え?

​

 そのとき。

 

 玄関のドアチャイムが鳴らされ、カティは心臓が止まるほどに驚いた。

この古い集合住宅にはインターホンはない。しかしこんな深夜にやってくるのは当然厄介者だ。玄関へ出たら最後、おそらく大変な目に遭う。

 そのままやり過ごそうとしたが、チャイムは5秒おきに、そしてとうとう絶え間なく鳴らされ始めた。

 マーティンが五月蠅そうに、首を竦めてブランケットを被る。

「カティ……何……? 誰?」

「ああ、大丈夫だ、すぐ静かになる。おまえは寝てろ」

 暗がりの中小さな脚立を出して、ストレージの扉の上についている分電盤でチャイムの電源を落とそうとするが、いくつかあるブレーカーのレバーに舌打ちする。どれがどこの電源のだか、覚えてなどいない。

 仕方ねえ。全部落とすか。どうせ30分かそこらだ。

 

 ところが、いささかお人好しな性格のマーティンが寝ぼけ眼で起きあがり、灯りをつけた。

 義足を装着し立ち上がりながらカティに声をかける。

「僕が出るよ。夜遅いから物騒だし」

「えっ……ちょっ……!! 待て!!」

 彼は玄関に向かって歩いて行き、田舎育ち丸出しに誰何の声を上げた。

「は~いどちら様ですか~」

 そんな彼についカティは叫んでしまった。

「馬鹿! 黙ってろ!」

 そうしてあっと自分の口を押さえる。

 マーティンの声に一瞬収まったチャイム攻撃が再度始まった。今度は乱暴なノック交じりだ。古いスチールのドアが叩かれる響きは、神経を逆撫でするにもほどがあった。

 

――ああ、もう!!

 

 カティはドアスコープを覗くと、呻き声をあげた。

 そこには、バスルームの靴下の主が立っている。まだビジネススーツのままだ。

 彼女はマーティンにリビングへ戻るよう言い、彼の姿を見送ってからチェーンをかけてドアを開けた。

「何の用だ」

 顔を強張らせたトレバーが低い声を出した。

「話があるんだ」

「私にはない」

 カティはトレバーを睨みつけた。

「今夜は無理って言っといたよな?」

「……」

「今度話は聞く。帰れ」

 ところが彼は引き下がらない。

「カティ、さっき男連れ込んでたよね?」

 見られていたらしいということに慄然としながら、カティは視線に込めた力を緩めない。

「あれは弟だ!」

「じゃあ会わせて」

「あんたには関係ねえだろ! とっとと失せろ」

 それだけ言うと、カティはドアを閉めようとした。

 閉まらない。

 見ると、革靴を履いた大きな甲高の足がドアの隙間から差し込まれている。

 大きな手がドアチェーンを掴んだ。力任せに引きちぎりにかかっている。古い固定金具がぎしぎしと嫌な音を立て、緩み始めている。

 カティは初めて、眼鏡越しの「ついさっきまで泣いてました」と雄弁すぎるほどに物語るどんよりとした目をヤバいと思った。

 焦って、勢いをつけつつ渾身の力でドアを何度も閉めようとする。骨も折れよとばかりに足に叩きつけられるドアを、無断侵入してきたトレバーの片膝が押さえる。

 力では叶わない。

 カティはとうとう彼に譲歩した。

「わかった! わかったから!! 話なら外で聞く!」

「中に入れて」

「それはだめだって」

 その言葉に、トレバーの手にひとしお力が籠り、チェーンを掴んだ手がぐっと痙攣するように震えた。

 前からぐらぐらしていたチェーンの固定金具が捻じ曲がり、とうとう金属のドア枠から外れた。

 

 次の瞬間、カティは大男の脇に抱えられ、リビングまで引き摺られていた。


 

 リビングには男の姿はなかった。

……隠れたか……

 カティは胸を撫で下ろした。

 一方、人間が二人寝ていた痕跡を見てトレバーは眩暈がした。その目をカティに向け、情事の形跡を探す。

――嫌な目つきでじろじろ見んなよ……

 襟の伸びきったTシャツにと短パン姿のカティは、寒い、と独りごちて自分のぬくもりが残るブランケットを肩にかけ、言った。

「話があるならさっさと言え」

「君の弟とやらはどこ?」

 その言い回しに、カティは彼が自分の言葉をまったく信用していないのを知った。

「どこでもいいだろ」

 トレバーはソファーの上のシーツの皺を凝視した後辺りを見回し、激しい嫉妬の籠る声で言った。

「君は弟と寝るのか」

「何だよその言い方!」

「じゃあなんで隠れるんだ」

「夜中にドア壊して踏み込まれりゃ誰だって隠れるだろうが」

「弟はそんなにいいのかよ!」

 自分のことは何と言われても笑い飛ばせた。自分はあばずれなのだから、そういうものだと普通に思えた。

 だが身内を侮辱するような物言いを彼女は許せなかった。

「弟のことを汚らしく言うな! 私のことはどうでもいいけど、私の身内を貶すのは許さん!」

「……」

「だいたいあんたは何様のつもりだ! ただのセフレだろ? 私にとっちゃセフレどころかボランティア対象だ。つけあがってんじゃねえぞ」

 とうとう、激昂した彼女の口から、トレバーが恐れていた言葉が飛び出した。

「あんたとはもう金輪際寝ねえ! 帰れ!」

 

 そのとき、キッチンの方で何かぶしゅっと二回音がした。それなりに気兼ねし気配を消していたのだろう、意外と大きな音を立ててしまい「わっ」という驚愕の声も上がる。

 二人はびくりとし、申し合わせたかのように黙り込んだ。

 しばらくするとごそっごそっと足を引きずる音と共に、手にマグカップの乗ったトレイを持ってマーティンが現れた。こぼさないように多大な努力を払いながら、彼は二人に近寄り、カティが寝るスペースを作るためにTVの方へ少し寄せていたローテーブルにトレイを置く。

「どうぞ」

 柔らかく湯気を立てているのはノンカフェインのコーヒーだった。三つのカップのうち一つには、こんもりとホイップクリームがのせられている。さっきの音は、クリームのスプレー缶のものだった。

「初めまして。マーティン・カボットって言います。姉がお世話になってます」

「……どうも……トレバー・コットンフィールドです。カティさんと同じ会社に勤めてます……」

「書店でお会いしましたね」

「……はい」

 覚えられてた……

 トレバーはさっきまでの勢いを雲散霧消させて人見知りモードに突入し、カティは毒気を抜かれてぶすっと黙っている。

 再度マーティンに勧められて、トレバーはクリームてんこ盛りのカップに口をつけた。もちろんこんな状況で味など分からない。

「カティ、あの靴下コットンフィールドさんのだよね? やっぱり大きい人だなあ」

「……」

 マーティンに言われ、カティは無性に苛々した。

 座ったままローテーブルの下、無言でトレバーに蹴りを入れる。

 振動で、テーブルの天板の下で何が行われているかマーティンは悟った。

「やめなよカティ……あ、コットンフィールドさん、夜ご飯食べました?」

「……いえ」

「カティ、冷凍庫のラザニア、コットンフィールドさんに出していいかな?」

「……こんなやつ、飢え死にしてゴミ捨て場にでも転がってりゃいいんだ」

「そういうこと言わない」

「こいつはな! 私とおまえが……とにかくこいつはなぁ!」

 連続でがしがしと蹴りを入れるカティに、ひたすらトレバーは身を縮めている。

「カティ、人様を蹴っちゃだめだって!」

 

――何これ。

――本当に姉弟だ。

――カティが怒って当然だ。

 

「カティ、ひどいこと言ってごめん。本当にごめん」

「……ほらカティ、コットンフィールドさんが謝ってるよ」

 カティはとうとう踏みつけるように蹴りはじめた。座位ケンカキックだ。

「ごめんなさい、こんな姉で」

「いえ、僕が悪いので」

「そうだあんたがみんな悪いんだよ」

 マーティンは、大きな体でちんまりとラグに座っているトレバーを眺める。

 やはり、悪い人間には見えなかった。

「……僕の右目、義眼だし右脚は義足なんだけど、書店で気づきましたよね?」

「……はい」

 マーティンは笑った。眉尻が下がり、少し困ったようなニュアンスが生まれる。

「僕が7歳の時、道の向こうにいたカティに駆け寄ろうとして車にはねられたんです。ほんとに馬鹿ですよね」

 トレバーはこの突然始まった話に何と言えばいいのかわからなかった。とりあえず曖昧に頷く。

「だからかなぁ、カティは楽しくやってるところを僕に見つかると、しまったって顔をするんですよ。僕の前ではいつも、幸せでいちゃだめだと思うらしくて」

「うるせえぞマーティン」

「……とにかく僕にはいい姉ですよ、カティは。僕はもうみーんな忘れて、幸せになってもらいたいと思ってるんですけどね」

「ちょっと黙ってろ!」

「カティこそ黙って。君を見てると、弟としていろいろ心配だよ」

「……」

 トレバーの借りてきた猫を地で行くような雰囲気に、マーティンは一押し加えてみた。

「ところで、僕はカティとお付き合いしている男性と直に会うのって初めてなんでちょっと舞い上がってるんですが」

「はあ」

「不躾を承知で伺いますが、コットンフィールドさんは将来的にカティとどうしたいとお思いですか」

 まさに小舅の台詞だった。

 先ほどの、カティがセフレだなんだとぎゃんぎゃんと喚いていた声が聞こえていなかったはずはない。

 カティは渋面を作り、トレバーはあ、とも、う、ともつかぬ音声を短く発したまま口籠ってしまった。

「あ、あの……仲良くしてもらえたらと……」

「トレバー滅多なこと言うとぶっ飛ばす」

 カティの脅し文句にトレバーは怯えたが、マーティンは完全に無視して彼に語りかけた。

「たったそれだけ? 僕を間男だと思ってチェーン壊して飛び込んできた情熱はどこへ?」

「え」

 トレバーは呆気にとられ、助け舟を求めるようにカティを見る。

 カティは嫌な予感がした。

 ヤバい。

 小さい頃からこいつはこうだ。

 ふにゃふにゃしたどっちつかずの態度を見ると白黒つけたいたちだ。

――いったい誰に似たんだ……

 

「コットンフィールドさんもといトレバー! この際言っちゃいたいことを言うんだ」

「え?」

「ほら! カティとはどうしたいんだ!」

「え? ……ええ?」

トレバーの煮え切らない態度が、マーティンのどこかしらに火をつけている。大延焼中だ。

トレバーだけではなく、カティも脇の下に嫌な汗を感じ始めた。

限りない熱意を込めてマーティンが檄を飛ばす。

「さあ、高みを目指したくないのかトレバー! この女に認められたくないのか!」

「姉に向かってこの女って何だよ!」

「……け……」

「カモン!トレバー!カモン!!」

「何がカモンだ!トレバー、マーティンは今ちょっと」

「カティ、静かに! よく聞けよ! トレバーの気持ちを! 考えるな! 感じるんだ!!」

「マーティン、おまえ何言ってるかわかってんのか?!」

「わかってるって! さあトレバー、君らは次のステージに進むべきだ!」

 

先日の姉を数段レベルアップさせたような弟の鬼気迫る激励の弾幕に、訳も分からずトレバーはここ数週間の懸案事項を言葉にした……正確には、させられた。

「結婚したいと思ってます……」

「よぉしトレバーよく言った! カティ聞いたかい?! すごくイカしてるよトレバー!」

「全っ然イカしてねえよ!!」

途端にローテーブルは凄まじい音を立てて叩かれ、コーヒーが飛び散った。

「誰があんたなんかとぉぉぉぉ!!!」

カティがぶるぶる震えながら仁王立ちになっている。

「きもいんだよあんたはよぉぉぉ!!!!」

「僕だって言わされたっていうか……」

「はあああぁぁぁ?!」

「やめて! 痛い! やめてって!!」

マーティンは一人、慈愛に満ちた大天使のような笑顔を浮かべて姉とそのボランティア対象を眺めている。

「よし、じゃあトレバー行こうか」

「えっ」

「今夜は飲み明かすよ! 明日は休日でしょ?」

「えっ」

「じゃあカティ、あとよろしく」

「なっ……」

「僕、トレバーと男同士の話をしたいから。ちょっと出てくる」

「えっ」

チックでも起こしたように「え?」「え?」と繰り返しながらトレバーはマーティンに腕を捉えられて出て行った。

一人ぽつんとリビングに残されたカティは、ラグのコーヒーの染みを拭き取り、マグカップを片付けながら思った。

 

……何やってんだ、私は。

​

​

​

Ⅹ. 閉じられる本

​

 二日後、日曜日の早朝。

 夜空が白々と染まり始めた空の下、バスターミナルまでの荷物持ちにトレバーを指名し、まだ人気のない街をマーティンは杖を突いて歩いていた。彼は楽しげに話をしながら駅の隣のターミナルへ向かう。その隣でトレバーは時折質問を返しながら神妙に聞き、カティは不可解な面持ちでその後ろを歩いていた。

 

――荷物なんかそんなにねえじゃねえかよ…

――馴れ合ってんじゃねえぞクソが…

 

 オレンジ色の朝日を浴びて、バスが目の前に停まる。

 マーティンはカティとハグを交わした後、バスのステップを上がる一瞬前、トレバーと握手した。

「楽しかったよ」

「僕も」

「カティをよろしく」

「あ、はい」

 そう言うと、彼は首を曲げてトレバーの後ろにいるカティを見た。

 一瞬、姉と弟の視線が絡みあう。

「……じゃあ、さようなら!」

 彼は明るい笑顔を浮かべ車窓で手を振った。

 穏やかで紳士的、そしてちょっとはた迷惑な熱いパッションを秘めたマーティンは行ってしまった。

 

 バスが出発した後の、人影がまばらになった乗降口に二人は暫し佇んでいた。

 路上を走る車の音が、少しずつ増えてくる。

 いつもよりやや遅い、日曜日の都市の目覚めだ。

 トレバーはちらりとカティを見、彼女はその彼の目を見上げた。

「……何だよ」

「こうやって人を見送るのって、何だか寂しくなるね。当分会えないんだろう?」

 カティはどこか力のない声を上げて笑った。立体バスターミナルのコンクリート壁に、その声は虚ろに響く。

「薄情なことに、私はすっきりしてるぜ」

「……そっか」

 不自然な沈黙が流れる。

 マーティンが「またね」ではなく「さようなら」と言ったのを何度も思い返しながら、カティは、小さく鼻を鳴らし、自分の身体を抱くように腕を巻きつけた。

「寒い?」

 彼は薄着のカティに自分が着ていたニットパーカーを着せかけ、そのまま肩を抱いた。

 カティは、いつになく彼の手を払い除けなかった。

 マーティンとは少し色調の違う黒い目、黒い髪。

 弟のものより少し大きな手。

 男の匂いと、肌の温かさ。

 カティはつと、トレバーに軽く肩をぶつけてみた。大きな体はびくともしない。

「……朝飯まだなんだろ?」

「うん」

「うちに来るか?」

 

 そのころ、マーティンは青みを増していく朝の空を背景に聳える高層ビル群を、ハイウェイの高架橋から遠く見つめていた。

 朝食に、とカティが持たせてくれたスモークサーモンのベーグルサンドとステンレスボトルのロータスティを窓際の小さなスペースに置き、彼は溜め息をつきながらシートの背凭れに身を預けた。

 

 彼に「言いたいことは自分の口ではっきり言え」と言いながら、自分のことを語らないかっこよさというものを教えてくれたのはカティだ。

 彼の不具を笑う複数の上級生たちに、果敢に戦いを挑む姿は、彼にとってはまさにミネルヴァの雄姿だった。

 許してはならないものがあり、そこを守ることを放棄すれば徹底的に蹂躙されるということ、さらに人間を陥落させるには弱みを握ってつつき回しながら、味方のふりをすることが一番だという余計なことも、彼女は身を以てマーティンに叩き込んだ。

 

 そして忘れもしないある夏の昼下り。

 ハイスクールの寮の改築で、夏休み中住処を叩き出されたカティは一週間だけ実家に帰ってきていた。

 部屋着のキャミソールワンピース姿でしなやかな四肢を抛りだし、リビングの床に眠り込んでいたカティの頬と、唇の感触と、汗の匂い。

 それは禁忌の温もりであり、匂いだった。

 

 マーティンは、カティのことを姉として、一人の人間として敬愛していた。

 それと同じだけ、血の繋がりさえなければと願ってもいた。

 ずっと離れて暮らしていたところへ不意に家族として接する日々が到来すると、姉弟という関係が女と男というものに摩り替りそうな瞬間が度々訪れる。

 自分の右目と右脚を盾に求めれば、容易く与えられかねない危うさがそこにあった。

 今でも、軽くハグされるだけで心臓は跳ねる。

 

 選択の余地なく生まれた時から与えられ、成長、そして自立とともに希薄になっていく一つの関係。

 自分で選びとり、作り上げ、心身ともに最も近しく触れ合うことを許される一つの関係。

 その領域が重なることは僕たちにはあり得ない。

 今までも、これからも。

 

 だから早く、本当の意味で誰かのものになって欲しい。

 そうすればきっと、この燻る思いも消える。

 一つのうら寂しい物語の本を、そっと閉じるように。

 

 彼は心の中で、強く優しく、そして慕わしい姉の幻影に向かって呟いた。

 

――さようなら 


 

 美しい秋晴れの日曜日、カーテンで光を遮った薄暗い部屋のベッドの中で、トレバーはカティの柔らかい首筋に吸いつき舌を這わせながら言った。

「マーティンは、僕が羨ましいんだって」

 熱い息が首をくすぐる。

「どうしてだろうね」

 

……何で今、それを言う?

 

「カティは、どうしてだかわかる?」

 言いながら、両の腕にそれぞれ女の脚を抱える。

 体内を圧し拡げられる感覚に眉根を寄せながら、カティは目を瞑った。

 瞼を閉じていても、じっと見つめられているのがわかる。

 

 一体あいつは、この男に何を言ったのだろう?

 

「目を開けて」

 カティは目を開けない。

 彼女の手入れのずさんな頬を撫で、ゆっくりと動きはじめながら、少し切ない気分で彼は言った。

「ねえ、僕を見て」

​

​

​

XI. 迷い犬とアイスクリーム

​

 雨が降っている。

 ビジネスマンの傘はそう華やかでもなく、濁った暗色の小さな屋根を、皆それぞれにカタツムリのように担いでいる。

 その人の流れの中、カティは大股に家路を急いでいた。

 高層ビルが立ち並ぶ街の目抜き通りから3本ほど東側の通りに入ると、市街化の波に頑固に抗うごみごみした低層集合住宅の区画があり、そこにカティのデュプレックスがある。

 静かで落ち着きがあるわけでも、治安的に安心感があるわけでもまったくなかったが、会社に近く内装や間取りもそこそこで、彼女にとってはどこよりも落ち着ける場所のはずだった。

 ところが案の定、弟と会い何を焚きつけられたのかフィアンセ気取りの大男が今日も部屋の前にいる。

 会社から地下鉄で一駅離れた自分の部屋より、中に入ることにさえ成功すれば食欲と性欲がそれなりに満たしてもらえるここの方が居心地がよくなったらしく、彼は会社帰りにしょっちゅう寄るようになってしまった。

 晴れている日は、近くの公園でじっとりと座って待っているが、雨の日は「濡れるから」と部屋の前で哀れっぽく佇んでいる。

 カティはこの、これ見よがしに待っている態度がたまらなく不快だった。かといって鍵を渡す気など毛頭ない。渡せば、この男はその日にでも自分の部屋の賃貸契約を解除し、なし崩しに転がり込んでくるのが目に見えている。

 カティの姿を雨粒に濡れた眼鏡越しに認めたトレバーは、尻尾を千切れんばかりに振る犬の風情で笑顔を浮かべた。

「カティ、お帰り! 寒かったあ!!」

 カティは溜息をついた。

 

 大量に茹でたリングイネに、作って冷凍しておいたボロネーゼソースを温めてどぼんとかける。

 オーブンでハーブソルトをまぶしておいた鶏と根菜類を焼き、皿に盛りつけてオリーブオイルをかける。

 そして、自分の横でレタスやロケット、ルッコラ、ダンデライオンを雑にサラダボウルに盛りつけている大男を横目で見る。

 カティはいちいち褒めてほしそうなトレバーに気付かないふりをした。

「……できたぞ、さっさと座れ」

 カティは夕食の完成を宣言した。

 市のリサイクルセンターで手に入れた栗の木の古いダイニングチェアに、トレバーがいそいそと腰かける。

 今日あったことを楽しそうに話しながら彼は料理を皿の上から見る見るうちに消し去っていく。ゆっくり行儀よく食べているように見えて、実はかなりペースが早い。

 恵まれた体格ってのは高燃費なんだな、とカティは今さらのように思う。

 買っておいたと思った食材が瞬く間になくなっていく。缶や瓶ものなど重量のある荷物持ちをさせようと買い物に連れていけば、カートに「これも!」とマシュマロやモラセスたっぷりのバタースコッチプディング、ワックス紙に包まれた熱々のファンネルケーキなどカティがあまり食べないようなものをぶち込んでくる。

 食費が馬鹿にならないと叱責すると、彼は新しく銀行口座を作り、月給の一部の自動振込み手続きまで済ましてそのカードを電算室にいるカティに渡してきた。

「自由に使って。自分の名義に書き換えてもいいよ」

 カティは呆気にとられ、それを感激の表情と理解したトレバーは満足そうに続ける。

「この口座のクレジットカードで一括で買っといたから、シェービングフォームとクリーム&ミントのアイスクリーム、今夜あたり届くよ」

「はあ?」

「あ、甘さはあっさりだから君もきっと気に入るよ! じゃああとで」

 カードを手に、微妙な気分になる。

 今までの男たちは不機嫌に現金を渡してくるか、そのままとんずらするだけだった。

 嫌な顔もせず自分の食い扶持を負担してくれるのはいいのだが、カティは外堀を埋められていくばかりか自分がぬかるみにはまり込んでにっちもさっちもいかなくなっているのを感じた。

 

 昨日の午後だってこういうことがあった。

「カティ~!旦那さんがさっきこれみんなで食べてって持ってきました!

いい人ですね~!!」

 システム会社からの派遣されているジョリーが、カティに最近駅前にできて長蛇の列を作っているクリームパフ店の紙箱を見せた。

 たまにこういうことをするため、電算室の連中はトレバー歓迎ムードになっている。

「旦那じゃねえって何度言えばいいんだ! あんたらさぁ、部外者は叩き出せよ!!」

「だってあの人一応社内の人だから部外者じゃないですしお菓子持ってきてくれる人追い返せるわけないじゃないですかぁ」

「食いもんに釣られんなよ!!!」

 下のはどうか知らないが、電算室は上のお口がゆるゆるがばがばな連中が揃っていた。

「それにあの人、最近告ってきた女の子に『カティとつきあってるから』って断ったらしいですよ? 知ってました?」

「げっ!!!」

「カティの旦那さんってみんな呼んでますけど、あの人ほんとの名前、なんて言うんでしょうね?」

「……コットンフィールド主任だ」

「コットンフィールド(綿畑)さんですかぁ……じゃあ次からそう呼ぶようにしますね」

「ところであいつを私の旦那だとか呼び始めたのはどこのどいつか知ってるか?」

「私ですけど? ……あ、いたっ!カティやめてください!! 痛いですって!!」

「これは東洋医学で『手三里』とかいうポイントだ。健康になりやがれ」

「痛い痛い痛い痛いです!!!」

 あの男は、いい大学を出て鳴り物入りで入社した連中の一人だったが、大人しすぎて個性らしい個性のないイエスマンだったため、今ではそのことを誰も思い出しもしない。

 しかし本気を出すとそれなりの仕事ぶりを見せるようだ。トレバーが斜め上へ足場を確実に組んでいるのを感じとり、カティは頭を抱えた。

 

 カティの思いには頓着なくトレバーは食事を終えて立ち上がると、ミントフレーバーのミルクアイスのバレルを冷凍庫から出し、大きなスプーンでがしがしと削り取ったものをカフェオレボウル二つに盛る。

「僕これ好きなんだ」

 ぺろっと自分の分を食べ終わると、カティの口元を陶然と見つめる。

 カティがアイスクリームを口に運び、飲み込む。薄い唇の端を白く溶けたとろみのあるものが汚し、桃色の舌が現れてそれを舐めとる。

 何やら鼻息が荒くなってくるトレバーに彼女は眉をしかめた。

「いいよな、トレバーは」

「え?」

「会社近くに住んでて泊めてくれて、飯食わせてくれて、話聞いてくれて、ベッドで優しくよしよししてくれる私みたいなのがいて羨ましい」

 詰る口調だった。

「羨ましい?」

「考えてもみろ、私にはそんな便利なやつはいねえんだぞ?」

 カティの皮肉に彼は慌てて立ち上がり、とってつけたように空いた皿を皿洗い機へ並べ始める。

「……あ、あのね……いつも感謝してるよ」

「当然だ」

「結婚したら共働きになるんだし、僕の分担を決めてくれたらちゃんとやるよ」

「結婚はしねえっつったろ」

「だってもう生活費のプール口座も渡してるしマーティンに『カティをよろしく』って言われてるし」

 カティの弟マーティンは、先日ここへ遊びに来たついでにトレバーに「血縁者公認」という凶器を授けてしまっていた。

「あんたと結婚なんざ真っ平だ」

「え? 責任取ってくれるって言ったよね? 一生面倒見てくれるってことだよね?」

「鍵すら渡してねえってとこに、必要以上の関わりたくなさを推し量れ」

 キッチンカウンターに軽く腰を預けてトレバーは口を尖らせた。

「いいよ。ドアのところでいつまでだって待つから」

 最近、カティがとうとう管理会社から「不審な大男が玄関先にいて、気味悪がっている入居者が苦情を申し立てている」と注意を受けたのをトレバーも知っている。

 もちろん、その上で言っている。

「やめてくれよ……もうほんと止めてくれマジで迷惑だから」

 住環境の劣悪化を防ぎとめたいカティが、「やめろ」ではなく「やめてくれ」と言ったことにトレバーは機嫌をよくした。

「やめさせたかったら鍵ちょうだい。僕、ここに住む」

「…………」

「僕が早く帰れた日は晩御飯作ったり掃除したりして待ってるから。僕、役に立つよ。そしたら君も僕を羨ましく思わなくてよくなる」

「…………」

「僕は浮気もしないし、身持ちの固い配偶者がいるって点では君が羨ましくすらあるよ」

「浮気はできない、の間違いだろインポ野郎」

 言わずもがなの指摘をしながら、同じ勤務先のセカンドチェリーボーイに酔った勢いで手を付けた自分にカティはアッパーカットを喰らわせたくなった。ちなみに先日ドアチェーンを壊されたときは、こんな男を性的に食ってしまった自分にバックドロップをキメたかった。

 自分で自分を殴る蹴るはできないので、シンクに空いたカフェオレボウルを持っていくついでにとりあえずトレバーに一発蹴りを入れる。

 トレバーはその脚を捉え、膝の下に手を入れ高く抱えて太腿の間に身を割り込ませた。タンゴでも踊ってるような姿勢だ。

「僕はこんなにカティのこと好きなのになぁ」

 辛うじて床についている片足のつま先で後ろへ跳び退ろうとしても無駄だった。

 股に押し付けられている部分が生暖かく膨らんできている。

 全く、男のそこというものは毎度毎度ご苦労なものだ。

「じゃあ聞くが、勃たねえままだったら私を好いたか?正直に言え」

「……どうでもいいだろそんなの」

 トレバーはちょっと後ろ暗い顔をした。

「ほらな。あんたは私じゃなくて、私の身体が好きなんだよ。そこんとこ履き違えんな」

「だから何? 身体から好きになって何が悪いんだよ」

「やれたのが私じゃなくて他の女だったら、トレバーは今頃そっちで結婚してくれっつってたんだぜ。私になんか洟も引っ掛けねえで」

 アヒルの雛の刷り込み並みに、抱ければその誰かを好きになっていただろうと彼も思う。

 でもその誰かが、他でもなく目の前にいる女なのだから、そんなパラレルな仮定の話をされても困るし、そもそも無意味だ。

 そういうことを言いだすと、世の中すべてのカップルの関係が怪しくなる。

「何が言いたいのさ」

「なぁ、たまに寝るだけでいいじゃねえか。身体が好きなだけで結婚するとか言いだすと後悔するぞ」

「もう身体だけじゃないって! 僕は普通に君のこと愛してるよ」

 何でこの男はこういうことを臆面もなく言えるんだろう。聞いてるこっちが恥ずかしい。

 カティは耳元が熱くなってくるのを感じて明後日の方向を向いた。

「臭えこと言ってんじゃねえぞ」

「だってほんとだもん」

 トレバーがごそごそと強く体を押し付けてくる。

「カティだってさ、なんだかんだ言って面倒見てくれるの、僕が好きだからだって言ってたよね?」

 複雑な表情でカティが言う。

「……だからそれは迷い犬にえさやるみたいな感じで……」

 それが迷い犬にとってはどれだけ救いとなったか。

 まさに女神の顕現と言って語弊はない。多少のことがあっても信仰は揺らがない。

「カティってほんとに優しいねぇ」

「……ほんと、よしときゃよかった」

「よさなくてよかったよ」

 トレバーはこの「女神様」の頭に頬ずりし、向い合せに抱きかかえてベッドルームへ向かった。

 カティはあれだけ減らず口を叩きながら、落ちないよう男の首に腕を回す。いっぺんトレバーの腕の中で考えなしに蹴りを入れて床に落ち捻挫したことがあるからだった。

 

 ベッドに倒れ込んで、まだ「シャワーが」だの「歯磨きが」だの「灯り消せや」だのぶつぶつ言っているカティを押さえつけ、服を剥ぎ取ろうとすると体の下で慌てた声が上がる。

「待て待て待て待て! 自分で脱ぐ!! ボタン千切れる!」

 トレバーはボタンを外していく細長い指の動きをもどかしく見つめながら、金属音を立ててベルトを外し自分も脱いでいった。

XII. 泣けばなんとかなる 

​

 腹具合で言えば八分目。

 カティが無反応になってくるまで身を繋げたあと、トレバーは例によって彼女を抱き枕代わりにし、自分と彼女の綯交ぜになった匂い……生々しくあくどい、しかし彼にとっては達成感そのものの匂いをしみじみと嗅いでいた。

 大きな手は乳房をふにふにと揉み続けている。ストレスリリーサーとして使っているのだろう。

 カティは疲れた声で制止する。

「乳が垂れるから止めろ」

 すると今度は尻の肉をむにむにつまみ始めた。とにかく何か触っていたいらしい。

「カティ、今度キャットガーター口で外す練習していい?」

「……いいって言うと思ってんのか」

「だって本番でもたついたらやだし。僕ねぇ、サイラスにガーターあげようと思うんだ」

 トレバーは結婚披露宴でよく行われる下卑た慣習をすっかりやるつもりになっている。

「こうやってちゃんとやらしてやってんだから結婚なんかしなくてもいいじゃねえか」

 カティは鬱陶しそうに言う。

「結婚してもしなくてもやるこた同じだろ。この話やめようぜ」

「どうせ同じなんだから籍入れとこうよ」

 会話は平行線だった。

「結婚してなんかいいことあんのかよ」

「ある。法に基づいて君に他の男と寝るなって要求できる」

「……ふ~ん」

「それにそろそろ妊娠したっていいからゴムコーティングされてない君としたい。こんなの誰が着けたいと思ってるんだよ」

 身勝手なことを言いながら使用済みのゴムをずるんと外し、ダストボックスへ抛ったがうまく入らず床に落ちる。

 後で掃除するのはもちろんカティだ。

 彼女は内側も外側も体液でねとついているそれから目を逸らした。

「そして君は僕を捨てにくくなる! 何て素晴らしいんだろう! 書類一通出すだけで!」

 結局はそこに行きつく。

 彼はとにかく捨てられたくない、見放さないで欲しい、その一心だった。

「私には何もメリットねえな……私の自由が無くなっちまう」

「でも生活費は折半になるし保険だって家族割引で安くなるし」

「その程度か……私のプライベートはそんなにお安くねえぞ」

 カティが呟き、欠伸する。

 

 どれだけ彼女が彼にとって稀少な、離し難い存在になっているのか。

 それをどうすれば余すところなく伝えられるか。

 トレバーはもどかしく思う。

「カティ、僕はね」

 彼女のそばかすが散る頬や柔らかい薄い瞼にそっとキスして、トレバーは頤でカティの頭までしっかり抱え込んだ。

 ぽつりぽつりと、小さな声で話し始める。

 

「今でも、昔友達の母親にレイプされた夢を見るんだ。下半身裸の僕をモップで殴ってきた友達の顔や、何されたか泣きながら話した時の両親の顔も出てくる」

 

 あの後、自分の学校での立場、子供同士のコミュニティは完全に壊れ、両親は訴訟を起こして賠償金をせしめた。そしてその金を足掛かりに遠方へ引っ越した。

 彼だけでなく父も母も、これで逃げ出せたと一時は思った。

 

「引っ越した後もみんな僕を見ているような気がした。ませたエロガキって顔に書かれてるみたいに……僕はそういうの晩熟な方だったのに」

 

 そうやって登校拒否もした。転校も繰り返した。

 人の視線に過敏になって強迫性障害を発症し、何人ものカウンセラーの元に通った。

 周りの大人たちの言うように、時が経って大人になったらきっと何とかなると思い続けるうち、確かにいい友人もでき勉学やスポーツに打ち込む一見普通の生活を送れるようになり、自分の思う「普通」に自分が近づいているという安堵を踏み台に強迫性障害は軽減していった。

 しかし若年性EDは如何にもならなかった。そのことを知ると誰もが、学業成績優秀で体格に恵まれた彼を例えようのない嫌な目つきで眺め、薄っぺらく彼を慰め励まし、友好的に振舞いながら陰で笑いものにする。

 その笑い声に耳を塞ぎ自分の声で打ち消そうとする。

 そうやって夜半に自分の喚き声で目を覚まし、びっしょりと寝汗をかいているのに気付く。

 

「だけど、カティと一緒にいるようになってから嫌な夢は見なくなってきて、かわりにカティが僕に背を向けてどこかへ行っちゃう夢を見るようになった」

 

 訥々と潤んだ声で話すトレバーの腕の中、カティは目を閉じ身じろぎもしない。

「……つまんなかったよね、ごめんねこんな話して」

 ベッドのヘッドボードに埋め込まれた小さな灯りの下、シャワーも歯磨きもそっちのけでカティは寝入ってしまっているようだ。

「こんな話、君にはどうでもいいんだよね。だけどね」

 トレバーはこの温かい女の肩から腕を撫で、その力の抜けている手を握った。

「僕には君しかいない。僕は、安心してここにいてもいいって……僕を捨てないっていう約束がほしいんだよ」

 そのままひとしきりぐすぐすと泣き、カティの頭に顔を擦りつけて涙を拭く。

「どうすればカティと一生一緒にいられるかなぁ」

 突然眠っていると思っていたカティがかっと目を開け、不機嫌そうに起き上った。

「……さっきから耳元でごっちゃごちゃうるせえんだよ」

 そう言いながらベッドのサイドボードの抽斗を開ける。手を突っ込んでひとしきりガチャガチャと掻き回したあと、彼女は何かを摘み出した。

 

「というわけで!」

 トレバーは得意そうにキーケースの中から銀色の金属片を一つ引っぱり出し、サイラスの鼻先で小さく振って見せた。

「僕はカティの部屋の鍵をもらいました!僕の部屋のほうも解約しました!」

「おぉ……よかったな」

「ありがとう!」

 いつものスパニッシュバルのいつもの席。

 すこぶる晴れやかなトレバーがうきうきと喋っている。

「これで泣いた甲斐があったなぁ」

「……え? カティの前で泣いてんのかお前?!」

「だって泣くとカティ言うこと聞いてくれるんだもん」

「…………」

「でもね泣いて言うこと聞かせると、その後すっごく機嫌悪くなるんだよ。あれ多分、流されちゃった自分に怒ってるんだと思う。可愛いよねぇ……」

 うっとりと話すトレバーの顔を見ながら、サイラスは女の好みについてこの友人とは全く相容れないものを感じていた。

「可愛い……か?」

「うん可愛いよ。この間も生理中だからって断られたんだけど、言いがかりつけて泣いて抱きついたら」

 彼にも言いがかりだという自覚はあったらしい。

「さんざん暴れた後に大人しくなって『一回だけだぞ』って……」

「それ、俗にいうレ……」

「レ?」

「……いや……忘れてくれ」

 最初、サイラスには純真なトレバーがあまり身持ちがよくないという評判のカティに誑かされたように見えていたが、どうも最近リビドーの暴走に任せて無体を働いているのはトレバーの方ではないかという気もしている。

「そんで、根元まで真っ赤っかになっちゃってさぁ……あははは」

 タバスコを振ったホット・ブラッディ・ブルを前に、非常に聞きたくない話題だ。一方的な猥談が楽しくてたまらない様子のトレバーの前に、サイラスはコースターごと、大ぶりな耐熱グラスを押しやった。

「……これ、お前が飲め」

 

「今夜はカティ遅くなるって言ってたし、ちょっとだけ寄ってく?」

 サイラスと並んで駅方面へ歩いていたトレバーが言った。

「この間、メドウ社のプロテイン安売りしてたからサイラスにって1カートン買っといたんだ。カティが邪魔だってうるさいし、持って帰ってよ」

 ちょっとエキセントリックなトレバーと昔から友人づきあいがつづけられるのは、時たま見せるこういう細かい心遣いのせいだ。筋肉美の伝道師を自認するサイラスはプロテインの話が出れば何事もやぶさかでない。

「じゃあ少しだけな」

 意気揚々と新たな住まいへ道案内するトレバーについていくと、古く煤けたデュプレックスに到着した。

「こう見えて中はわりと広くてきれいなんだよ」

 そう言いながら鍵を開けたトレバーの目に、リビングの灯りが廊下に漏れているのが映った。

「あれ? もしかしてカティ帰ってきてるかも」

 耳に飛び込んできた音声に、男達は少々不安を覚えた。

「なんか……歌ってないか?」

「うん……歌ってるね……」

 大男二人は何やら首の後ろをぞわぞわさせながら、部屋の主の行状を確認しにリビングへ向かった。

 先に部屋へ入ろうとしたトレバーが立ち止まる。

「どうした?」

 固まっている友人の肩越しに室内を覗き込み、サイラスも同様に硬直した。

​

​

​

XIII. それって楽しい?

​

 大きな液晶TVには古い官能映画のお色気むんむんな曲が流れスタッフロールが映しだされている。HDDレコーダーのランプが点いているので録画しておいたものなのだろう。

 その曲に合わせカティがくねくねと踊りながら楽しそうに勝手な歌詞をつけて歌っている。

 

「人妻~オゥイェア~♪ フェロモン~♪ はだかで~♪ エプロン~♪」

 

 間奏部分は更にひどい。

 

「オゥイエ~ス♪ イエ~ス♪ オォウオゥイエ~ス♪ アイムカミ~ン♪」

 

 もう聞くに堪えない。しかし体が動かない。

 

 曲が終わるとカティはリモコンを手にし、スタッフロールの頭に戻って再び歌いだす。

 彼女は歌って踊るためにこの映画を、というよりこのスタッフロールだけを観ているのだということが容易に察することができた。

 

 歌詞はともかく、歌は無駄にうまい。

 まあ、百歩譲ってこのへんてこりんな踊りもいい。

 だが問題はその恰好だった。

 

 ハンガリーの伝統的な入浴時のコスチューム。

 かつ一部の成人男性向け雑誌のグラビアを飾るアレ。

 胸当て部分の横から乳房の膨らみが見える。

 背後の、腰に結んだ紐の部分から左右に分かれた布地から、二つの肉の隆起がちらちらする。

 

 二度目のリモコン操作の静寂に、硬直がやっと解けてきたトレバーが小さく呼んだ。

「カティ……?」

 その途端、盗み食いを見つかった猫のように、カティがびくんと跳び上がった。

 何かの間違いであってくれという願いをもろ出しに、ホラー映画のワンシーンのようにゆっくりと振り返る。

 そうやって、素っ裸の上にぺろんとエプロンを一枚身に纏っているカティはトレバーと、その後ろにいるサイラスとも目が合った。

 一瞬、そばかす塗れの頬がぎくりと強張って青ざめ、次にぱああああっと紅潮した。

 

「ぎゃああああああああああああああ!!!!!!!!」

 

 叫び声とともにリモコン、ティッシュの箱、ペン、新聞、雑誌、スマートフォンなどなどそこにあった雑貨が殺意を込めて投げつけられる。

 クッションが顔にヒットしてトレバーの眼鏡がずれ落ち、サイラスの耳のすぐ横を鋏が空を切って飛んでいった。

「トレバー、俺帰るわ」

 サイラスは慌てて友人に背を向けるとすたこらと逃げ出した。

 ドアを閉め、外に出るとほっとする。

 秋の夜空が、都会の灯りで濁って見え、そこに半月が青白く光っていた。

 サイラスは駅へ向かって歩き出した。

――トレバー、墓には花くらい手向けてやるからな。

 

 TVの画面は一瞬ノイズを映し出した後、暗くなった。

 狂乱の発作が治まり、カティが唇を噛んで俯きぺたんと床に座っている。

 ソファーの上に、直前まで着ていたと思しき寝間着と下着が無造作に置かれていた。

 奇妙な雰囲気のまま、長い長い沈黙が流れていく。

「あの……何してたの」

 とうとう、言葉を選んでトレバーが訊ねた。

「見ての通りだよ」

 投げやりにカティが答える。まだ顔は真っ赤だ。

「…………何あれ」

「…………笑いたきゃ笑えよ」

 傷ついているのをひた隠すような擦れた態度でカティが言った。

「笑っていいの」

「……おぅ」

「ん~……でもあんまりウケるって感じじゃな……」

「何だと?」

 やにわにカティが顔を上げて鋭く睨み、トレバーは慌てて言い直した。

「いや、あのね、ウケるって感じじゃなくて、セクシーなサプライズだったなぁって」

 またカティはうなだれた。

「トレバー、無理すんな」

「……無理じゃないけど」

「私は、こんな女なんだよ。こういうのが大好きな馬鹿女なんだよ」

「…………知らなかった」

「軽蔑してんだろ……してるって言えよ」

「いや別に」

「生きる価値もない腐れアマだと思ったろ?」

「……何もそこまで」

「……いいんだ。誰だってそう思うよな……」

 

――何だろう。

――僕とカティのこの温度差。

――こういうとき、普通どうするんだろう。

――っていうか、これ普通にどうにかできる状況なの?

 

「見られたくなかった……誰にも見られたくなかった……親にも見られたことねえのに」

 カティは裸エプロンのまま傍らのソファーに身を投げ出した。すっかり悲劇の様相だ。

「だろうね」

 またちかりと睨まれてトレバーが黙る。

「あああだから鍵なんか渡したくなかったのによぉ……サイラスまで連れてきやがって……」

 肩甲骨の隆起や脊椎の滑らかな窪みに鳶色の髪がかかり、Sクラスブランドの香水の広告によくある裸婦写真のようにスタイリッシュな後ろ姿ではあったが、生活感あふれるエプロンがシュールさを添えている。

「ごめん。でもカティ今日遅くなるって言ってたじゃないか」

「飲み会が流れたんだよ。トレバーも飲んでくるっつったから……あああもう最悪だぜ」

「ごめん」

 

 仕事ができてクールで高飛車で、人を馬鹿にしきっているカティが、無防備にへんてこな踊りと歌に夢中になっていた。

 そしてそれを目撃されてひどく凹んでいる。

 イイ。

 すごくイイ。

 その凹みを埋めるのは僕の役目だ。

 

「えっと……カティ、それって楽しいの」

 ギルティな面持ちでカティが小さく答える。

「……楽しい」

「恥ずかしいとか虚しいとか、ないの?」

 そう訊ねられ、カティは悲しい目をした。

「……いいじゃねえか。こんなのを心底楽しいって思える人間もここにいるんだからよ」

「でも見られたら恥ずかしいんだ」

「…………」

「セックスより恥ずかしい?」

 カティは無言で頷いた。トレバーには全く理解できない。

「歌ったりするの、この曲だけ?」

「……いや……他にもいくつか」

「いつも裸エプロンなの?」

「猫耳とか……着ぐるみとか……脱ぎながらとか……」

「面白い趣味だね」

 トレバーはそのままの意味で言ったつもりだったが、カティはその言葉に画鋲を踏んだような顔をした。

「さてと」

 仕事帰りのスーツ姿でトレバーは立ち上がった。

「僕、着替えてくるね」

 

 のそのそと男が退場すると、カティはラグの上にごろんと寝転がった。

 天井を見上げていると、ちょっと涙が出た。

 

――ああ……

――見られちまった……

――私のサンクチュアリももうおしまいだ……

――鍵渡した時点で、わかってたのに……

――服、着よ……

 

「お待たせ!」

 パンツの脚ぐりに片足を突っ込もうとしていたカティは体温を間近に感じて振り向き、唖然とした。

 

「似合う?」

 

 そこにはカティと同じく、全裸にエプロンをつけたトレバーがいた。

 カティのエプロンの丈は彼の身体に全然足りずかなりヤバい。

 あれの先っちょが見えそうでヤバい。

 後ろ姿は完全に犯罪レベルだ。

 

「あの……コットンフィールドさん……それはどういう……」

「どうもこうもないよカティとお揃いだよ」

 意味が全く分からずに、パンツを足首に引っ掛けたまま口を開けて、トレバーを見ているカティを、トレバーはひしっと抱き締めた。

「カティだけに恥ずかしい思いはさせない!」

「はい?」

 浅黒い頬も赤く染まり、肩は笑いに揺れている。

 彼はリモコンで先ほどのスタッフロールの再生ボタンを押した。

「ほら踊るよ!」

 

 狼狽えて尻込みするカティにうろ覚えながらトレバーが歌ってみせ、とうとう彼女も「そこ違う」と突っ込んで小さく歌いだす。

 二人で恥ずかしがりながらへっぽこなステップを踏む。

 3回踊ると「かなりいい線いってる」とカティに言われ、すっかりトレバーもその気になってきた。

 

 この精神の解放感、そして局所の開放感。理性の声を無視して全力で馬鹿をやっている爽快感とほんのちょっとの背徳感。

 青臭いプロムなんかよりよほど楽しい。

 

「カティ、これからは僕も混ぜてよ」

「あ~あ……教えたくなかったぜ」

「君の裸エプロンはなかなかイカしてるけど、僕のは変態丸出しだねぇ」

「ちょろんちょろん見えてるしな」

「え? 見えてた? ぎり大丈夫だと思ったのに」

「トレバー、ちょっと大きくなってねえか」

「あ、ほんとだ」

 半勃ちの自分自身にトレバーが笑い出し、カティもつい笑い出す。

「あはははははははははははは」

「はははははははははははは」

 二人で身をよじり涙が出るほどに笑う。

 裸にエプロン一枚着けただけの姿で。

「ははははははは……はぁ」

「ははは………………は……」

 大笑いの後、再び沈黙が流れたが二人はそこにちょっとこそばゆいような居心地の良さを見出していた。

 

「ねえカティ」

「何だ」

「僕ね、何で君とならできたのかわかった気がする」

「ほう」

「最初、カティの優しさに縋りたいだけかと思ってた。でも優しい女なら他にもいたから説明がつかなかった」

「そうなのか」

「でも、僕らには共通点があるだろ?」

「…………」

「僕らは不運な出来事を背負って育ってるんだ」

 

 僕はめそめそ逃げ回り、いつか息苦しさが消え去る日が来ることを願いながら育った。

 そうしてやっと見つけた相手にどこまでなら許してもらえるか泣いて試す日々。

 

 君は全てを背負おうと小さな肩肘を張り、愛されることを諦めながら今に至る。

 いつも斜に構えて、一人きりでいるときに馬鹿をやるのが無上の喜び。

 

 甘ったれと意地っ張り、足して二で割ったらきっとちょうどいい。

 

「たぶんね、僕は一緒に子供時代をやり直せる人を無意識に探してたんじゃないかと思う」

 トレバーはまた笑い、腕を伸ばしてそばかすだらけの頬から顎にかけて大きな手で包んだ。

「こんな僕でよかったら婿にしてくれませんか」

 

 この男に泣いたり拗ねたりしながら頼まれることはあっても、こんな笑顔でものを頼まれるのは珍しい。

 その笑顔がゆっくりと真摯な表情に変わる。

 カティの鳶色の瞳を熱意を込めて覗き込む眼差し。

 黒い瞳の奥には男の無知と愚直さと微かな恐れ、女の持ち得ないあどけなさがあった。

 

「可哀そうな子」と言われると余計につっぱった。

 愛されなくても大丈夫な子と思われる方がよかった。

 そんなあの頃を「一緒に」「やり直す」?

 馬鹿馬鹿しい。

 阿呆臭くて涙が出てくるぞクソが。

 見てるこっちが辱められてる気分になるくらい馬鹿で甘ったれで内弁慶のくせに。

 あそこが擦り切れるほど絶倫で、腰が痛くてつき合いきれねえ。

 

 でも、こいつがもう少し漢気とか男女間の常識とかそういうものを身につけさえすれば。

 まぁ、見た目だけは悪くねえしこき使うにはいいかもしれねえな。

 

 カティが口を開いた。

「……さっきのこと、誰にも言うなよ?」

「もちろん」

「サイラスに口止めしろよ」

「わかってるよ」

「それから、その……生理中は嫌だ」

「すみませんでした」

「私の気持ちももっと考えろ」

「はい」

「だったら、結婚してやってもいいぞ」

 カティは言った後でちょっとまずい、という顔をした。

 とんでもない痴態を曝してしまった後の安堵という吊り橋効果が、トレバーにとって非常にいい仕事をしている。

「カティ!!」

 彼は喜色満面で、躾の悪い発情期の犬のようにカティのエプロンの裾を捲り上げ乗りかかった。

 

 2か月の後、カティの姓はカボットからコットンフィールドに変わった。

 ごく内輪のパーティで、サイラスは特に欲しくもなかった青いリボン付きキャットガーターをにやけくさったトレバーに渡された。

「落ち着くところに落ち着いて、よかったんじゃないですか」

 ジョリーはワイルドに骨付きのラム肉を咬み千切りながら、ひどく疲れた様子のカティに言った。

「さすがカティとナントカ主任のパーティですねぇ、ここの料理すっごくおいしいです!」

「あ、ああ……どんどん食ってけ」

「結婚パーティの料理がおいしかったら、そのカップルは別れないっていうじゃないですか~きっとお二人、死ぬまで離婚しませんよ」

 料理の味だけでそこまで断言できるのがすごい。

「…………そりゃおめでてえな」

 白い大きな蘭を髪に留めつけIラインのドレスに身を包んだカティは他人事のように言うと、大口を開けて欠伸し居眠りを始めた。

 

 新郎に女心というものを理解させるのには、まだまだ前途多難だった。

​

​

​

XIV. 迷惑な客

​

 今、サイラスの部屋でトレバーは汗まみれの釈然としない表情で、フルスクワット400回目に突入している。Yシャツにスーツのズボン姿なのが妙にシュールだ。

「まだまだだトレバー!俺はいつもこれで全てを超越している!」

 サイラスも汗だくだった。

「スクワットなんかで何でもかんでも超越できるわけないだろぉぉぉ?!」

「俺にはできてる!トレバー、お前にもできるはずだ」

 身体を動かすことで確かに憤懣は落ち着いてきた。

 だがすべてを超越する悟りの境地にはまだまだ遠かった。

 

 事の起こりは昨日の夜に遡る。

 

 地下鉄のドアとホームの間隙にキャリーバッグをひょいと持ち上げ、トレバーは職場と自宅の最寄駅に降り立った。

 航空機からバス、地下鉄と乗継ぎ、やっと足元が不動の大地になったことに安らぎを覚えながら、出発時に見た「故障中」の貼り紙がまだエレベーターの扉に貼られたままなのを見て溜息をつき、バッグの取っ手に手をかけて地上への長い階段を上り始める。

 前泊含め13日間のセントルイス支社への出張はとにかく「疲れた」の一言だった。サイラスのスポクラ通いにしょっちゅうつき合い体力的には申し分ないはずの彼だったが、庶務系業務ばかりこなしてきて出張に慣れない上、出張先は苦手なタイプの人間が揃っていた。特に、ポーランド系ユダヤ美女にはひどく冷たく扱われた。

 彼はとにかく早く彼の甘えを呆れ顔で、または青筋を立てて目を吊り上げ、あるいはげらげら笑いながらもそれなりに向き合い、許してくれる妻の待つ家へ帰りたかった。

 やっと地上へ出て、クリスマス前の賑やかな電飾の街に小雪がちらつき、うっすらと積もり始めているのを知る。都市部の排熱にも負けず、気温は氷点下に近づきつつあった。

 トレバーは肩を竦め、機内で嵩張って仕方なかったミリタリーコートのフードを被った。

 今年も、本当はいつもと同じように寒い。

 それを彼は13日前まですっかり忘れていた。

 

「ただいま!」

 ごとごととキャリーバッグと自分の身体を、小さな麦藁のクリスマスリースで飾ったスチールのドアに押し込んで、トレバーは部屋の奥へ向かい声をかけた。

 寒さにかじかんでいた身体がふわっと暖かい空気に包まれるのを感じ彼の表情が和らぐ。

「おぅ、おかえり」

 アヒルが一面にプリントされた暖かそうなだぶだぶのパジャマを着、ムートンのスリッパを履いて骨ばった長身の女が姿を現した。

 トレバーはコート掛けに上衣を掛けながら、ハリウッド女優を見つめるような眼差しを彼女に向けた。

「ただいまあああぁぁ疲れたぁぁぁ!」

「あ、ああ、そうだろうな。お疲れさん。飯は?」

「空港で食べてきた」

 やけに悠長に近づいたカティは一週間ぶりに会った夫を見上げ、どこか後ろめたげに視線を泳がせた。身に合ってない男物の襟ぐりから鎖骨が覗き、触れたい欲求を煽る。

「なんで僕のパジャマ着てるの?」

「…ちょっと事情があってな」

 新婚の妻に対しロマンチックというかセクシャルというか、とにかくスクールボーイのような幻想を抱きすぎているトレバーはその理由を様々に都合よく推測した。

 そこに、汚してしまって洗い替えがなかった、などのまともな理由が入り込む隙はない。

「寂しかった?」

「いや別に?」

「あれ?シャンプー変えた?」

「……まあな」

 眼鏡を外してポケットに入れ、トレバーは彼女の細い身体を自分の身体と壁で押しつぶすように挟み込むと少し開いた唇に喰いつくようにキスをした。

 舌を捻じ込んで何となく逃げ腰のカティの舌を弄る。

 くたびれたスーツから疲労した男の匂いを立ち昇らせてつつも、会ったら最初にキスしようと思っていたのだろう、トレバーの唇はミントタブレットの味がしトレバーはカティにお馴染のノンカフェインコーヒーの風味を感じた。

 土産は後で御開帳して、先に軽く夜のスポーツを嗜もうと思ったところへふと、彼の鼓膜は不吉な空気の振動を拾った。

「カティ?」

 軽い足音に細い女の声。

 驚いたトレバーが顔を上げ、妻のパジャマに突っ込んで背骨の窪みを撫で上げてようとしていた手を光の速さで引っこ抜く。

 同時にカティはトレバーを突き飛ばし、彼はシューズボックスに強か腰を打ち付けた。

「何冷てえ手でべたべた触ってんだよ!」

 

 そこにいたのは秘書室に所属する美女だった。

 古き良き時代の銀幕女優風にくるくる巻いた亜麻色の髪と、大きく澄んだ青い目。

 不思議と人の目を捉えるオーラに淑やかな物腰。

 穏やかなのにいつもどこか寂しげで、ミステリアス。

 この国では「秘書」という職はあまり社会的地位が高いとは言えない。厚化粧で香水臭く、尻軽でエグゼクティブな男を見ると目の色を変える連中というのが社会通念なのだが、このクレアは生来の美形に加え、CEOの娘で誰にでも親切で清楚、誰の誘いにも靡かない清らかさで男性社員に絶大な人気を誇っていた。

 あのナルシスト臭いサイラスでさえ彼女のファンで、クレアの前では好青年ぶってデレデレするのだ。

 面食らっているトレバーにクレアが慎ましげに挨拶した。

「お帰りなさい。あの……お邪魔してごめんなさい」

 邪魔だってわかってるんなら帰れよ、と言いたいのを堪えトレバーはもう一度眼鏡をかけ短く挨拶を返した。

「いらっしゃい」

 彼はこの娘が苦手だった。

 今は異動して別セクションにいるが、以前所属した部署は秘書室と同じフロアだったため仕事中にクレアの姿は嫌でも目に入った。

 その気の利いた思いやりとやらには演技臭さを感じていたし、愁いを帯びた表情に手を差し伸べる男どもをカマトトぶってやり過ごした後に、侮蔑に満ちた冷ややかな笑みを浮かべるのを偶然見てしまってからはもう駄目だ。見かけるだけで不快になる手合いの人間だった。

 そんな人物が今、カティが着ているグレーの男物と色柄違いの、アヒルの雛がプリントされた卵色のパジャマをぶかぶかといやらしく、肩からずり落ちそうに身につけている。

 カティがトレバーにこの状況を説明する。

「トレバー、こいつ親と喧嘩して家飛び出して来ちまったっつうから面倒見てんだ。なぁ、しばらくこのままここで泊めてやっていいだろ?」

 カティがわざわざ彼のパジャマを着ていたのは、何のことはない、クレアに自分のパジャマを貸したからだということを彼は瞬時に理解した。

 気分は下降線を描き出し、反比例していつもは下がり加減の眉尻が上がる。

 二人であれやこれや言いながら選んだ、色柄こそ違っているがお揃いの寝間着。

 薄くそばかすの散らばる肌を温かく柔らかく包むマイクロファイバー。

 それをこの、たまたま生まれと頭部の造形がよかっただけで誰にでも愛されているムカつく女が着ている。

 トレバーには許しがたい個人領域への侵略だった。

 彼は彼なりの言葉で、クレアにここから出ていってほしい旨をがっつりと伝えた。

「あ、ああ、そうなんだ…でも親御さんきっと心配してるよ?大丈夫?」

 カティはクレアにすいっと寄り、華奢な肩を恋人然と抱き寄せた。

「クレアだってもうちゃんとした大人だ。大丈夫に決まってるだろ」

 ちゃんとした大人が親と喧嘩して、他人様の新婚家庭に堂々と厄介になる……のだろうか?

 カティに肩を抱かれたままクレアが上目遣いで、トレバーを見た。

「迷惑ですよね……ごめんなさい。わたしそろそろおいとました方が……」

 出たよ必殺技、と彼は思った。

 この、このまま帰したら後悔しそうな儚さ。そこにトレバーは計算しつくされたいやらしさを感じ少々苛立った。

 しかし、そうだ君はさっさと帰れ!と言えるほどの胆力もない。

「そうだね、ちゃんと帰って親御さんと話し合って……」

 愛妻カティはトレバーの言葉を全く聞いていない。

「何言ってんだクレア。全っ然迷惑なんかじゃねえよ。なぁトレバー」

「……」

「ねえカティ、わたしやっぱりホテルに泊まるわ」

「いいって! なぁトレバー、しばらくここに置いてやってもいいだろ?」

「え……?」

「どうせもうすぐクリスマス休暇じゃねえか。三人で楽しくやろうぜ」

 その言葉に、トレバーはカティの正気を疑った。

 あんなに楽しみにしていた休暇が、いつも通り職場のデスクで仕事をしていた方がましな日々に摩り替ろうとしている。

「あの……サンフアン行きはどうすんのさ」

「クレアも連れて行く。一人分ぐらいチケット何とかなるだろ? アパートメント広いし」

「無理無理無理無理!! キャンセル待ちしかないって!」

「クレアが連れてけねえなら私も行かねえ。キャンセルだ」

「えっ?!」

 休暇中は暖かいビーチでのんびりしようとPCのモニター前でああだこうだとやりあいながらやっととれた宿泊と航空券の予約をそのように無碍に扱われ、トレバーは開いた口が塞がらない。

 一方、カティは目を細めコイル状にぐるぐるびよんびよんしているクレアの髪をいじって遊んでいる。

「ほ~らトレバー、こんなに可愛いんだぜ?!クレアと休暇じゅう一緒に過ごせるなんて、あんた幸せ者だぞ? なんか不満があんのかよ」

 不満なら大いにあった。

 その一端を挙げるならこの媚びまくったクレアの声。

「やめてよカティ、旦那さんの前でぇ……」

 

 一悶着の後、クレアはコットンフィールド家に滞在することとなった。

 夫婦二人で飾り付けたクリスマスツリーの脇、クレアはリビングのソファで羽毛のキルトにくるまって眠っている……

……ように見えて、彼女はこのデュプレックスの総ての物音に鋭く耳を欹てていた。

 

 カティ、あなたはきっと覚えていない。

 入社したての頃、同期の女子みんなで飲みに行ったとき、わたしに何て言ったか。

 思い出して。

 ねえ、思い出してよ。

​

​

​

XV. 何この子怖い

​

 トレバーは、ランドリールームで出張帰りの汚れ物を乱暴にバスケットに押し込み、換えの下着やタオル、そして独身だった頃に使っていた毛玉だらけのパイルニット地のパジャマを棚から出した。

 肌寒いシャワーユニットで身体を洗おうとして、いつも二人が使っている安い石鹸やシャンプーの横に、それはもう高級だということが一目でわかるボディケア用品を発見し、暗い気持ちになる。

 

 やっとベッドルームでカティと二人きりになれたトレバーはドアが閉まっていることを用心深く確かめた後、妻を問い詰めるべく口を開こうとした。

 しかしその一瞬先に鋭く詰め寄ったのはカティだった。

「おい、クレアに対する態度、ありゃ何だトレバーよ」

「はぁ?」

「あんな健気なカワイコちゃんにとる態度じゃねえだろうが! あんたホスピタリティってもんが足りねえんだよ!」

「……カティ……僕出張帰りで疲れてるんだけど? ホスピタリティが欲しいのはこっちだよ!」

「疲れてようが何だろうが女には優しくしろよ! あんた男だろ?!」

「その言い方嫌い。男だからってなんで理不尽な扱いに堪えないとだめなんだよ!」

「小っちぇえこと言ってんじゃねえよインドリコテリウムみてえな図体しやがって! だいたいなぁ、クレアにベッドぐらい譲れよ気が利かねえな」

「何で譲んなきゃいけないんだよ! ここ僕んちだしこれ僕のベッドだし! あのソファ寝たら足が出ちゃうよ」

「あんたの足のことなんか知ったこっちゃねえよ」

「それに僕がベッド譲ったら、君はどうするの?! ここでクレアと寝るの?!」

「当然だろ! 昨日も一昨日もここでクレアと一緒に寝てたぞ」

「え」

「クレアはなぁ、あんたと違って柔らかくて軽くていい匂いで……」

「君たちレズっ気でもあるのか?! え?!」

 カティの口調が突然、少し歯切れ悪くなった。

「クレアが泣くから、ただちょっと抱っこして寝てただけで……カティカティってくっついてくりゃ可哀想だってなるだろ……」

 やにわにトレバーはベッドの下の抽斗を開き、洗濯済みのシーツとキルトカバーを引っぱり出し、強張った表情で今ベッドにかかっているものを乱暴に引き剥がし黙々と交換し始めた。

「シーツ換えたぞ?」

「じゃあこれは何だよ」

 トレバーが金髪の長い髪を摘み上げた。

「それはさっきまでちょっとだけじゃれて……」

「この浮気女!」

「浮気?!! 一緒に寝るのとか女子は普通だぞ? おっぱい触ったりとか……」

 女子はそうかもしれない。

 特に早々に家を出て女子寮暮らしの長かった彼女にとっては。

 しかし、そのシチュエーションをトレバー自身が男子とじゃれていると想定してシミュレーションすると、生理的に無理だ。

 剥がしたシーツに、鳶色の髪と長い金髪が幾筋か貼りついているのが見える。彼はそれを足でぐしゃっと部屋の隅へ押しやった。

 作業を終えると聞こえよがしに溜息を一つつき、彼はベッドに入って洞窟の入り口のように自分の身体の横にキルトを持ち上げた。

「僕疲れてるんだからね! もう! カティの馬鹿! 寝る!」

 そして洞窟の入り口にあるカティの枕をぱんぱんと大きな掌で叩いて、突っ立っているカティを見上げた。

「ほら、おいでってば!!」

 何か割り切れないような顔をしながら、彼の大柄な女神はもそもそと彼の横に体を横たえる。

 早速覆いかぶさろうとする夫に、カティは短く言った。

「今日、生理初日」

「え」

 瞬時に力の抜けたトレバーの腕の中、カティはくるりと背を向けた。

「あの……カティ……僕がどれだけ君に会うの楽しみにしてたかわかってるよね?」

「知るか」

「……こっち向いて」

「嫌だ」

「……匂いとか汚れとか全っ然気にならないからさぁ、一回だけいい?」

 肩を掴んで仰向けにしようとするトレバーの手を邪険に払い除けると、カティは枕元のティッシュボックスをひっ掴み、身を捻って彼の頭をぱこんと叩いた。

「嫌だっつっただろうが! これ使って一人でしこってろこのクズ」

「何だよこの仕打ち! 僕すっごく楽しみにしてたのに! クレア引き摺りこんで乳繰り合っといて僕には触らせもしないって!」

 仕返しのつもりか、トレバーがカティの後ろからセクシーさのかけらも感じられない下着に手を入れ、夜用の分厚く馬鹿でかいナプキンを引っ張りはじめた。

 ところで、この世にはしていいことと悪い事がある。

「やめんかこの馬鹿!!!!!!!!!!!」

 跳ね起きたカティから手加減なしの平手打ちを喰らい、トレバーは頬を押さえて半泣きになった。

「僕って本当に、愛されてないよね……」

 そのままキルトに潜り込んでいき半泣きが本泣きに移行しそうな様子を見て、カティが舌打ちする。

「ああ、わかったわかった! 手ぐらいなら貸してやる!」

「……手より口がいい」

 

 カティの歯は、特徴的で見るからに鋭い。多分こういう状態で噛まれればひとたまりもなく大出血する。

 しかし彼女は噛まない。唇の縁を少し内側に丸め、歯の先端を覆うように遣っている。

 疲れるらしく、時々ぴたっと動きを止めて鼻孔で荒く息をする。その呼気が下腹に当たり、それからまた鳶色の頭が動き出す。

 トレバーはそのカティの髪を撫で、そのうちに憑かれたように頭を掴んでその動きを自ら助ける。カティの苦しげな表情が何とも言えない。喉の奥が苦しげに大きく痙攣し、締まる。

 間もなく、彼は身体を数回震わせて低く呻いた。

 カティがいつか自分に別れを告げる、そんな日が来るとすればそれはきっと「男」のせいだろう、と彼は自分の性格所業そっちのけで信じていた。

 しかし、ひょっとすると、警戒対象外だと思っていた「女」も恐れるべき存在なのではないか?

 もしそうなら、「女」って本当に最低な生きものだ。もちろん男も嫌だけど。

 トレバーがそんなことをぼんやり考えている間、カティは彼の下腹部に顔を押し付けられたまま、禁欲期間により半固形化した体液でいっぱいの口を開けるわけにもいかず、がっちり自分をホールドしている長く重い脚の間でティッシュを求めて激しくもがいていた。

 

「この鳥の餌みたいなの、何」

 朝食の席に着くなり、トレバーは自分の前のスープボウルを見てこう尋ねた。

「ミューズリー。知ってるくせに訊くな」

 カティがフライパンから中身を皿に移しながら答える。

「知ってるよ……だけど僕これ嫌いだって言ったのに」

「いいじゃねえか! クレアの好物なんだから!!」

 彼の向かいにはプラチナブロンドがちんまりと小さなスプーンで牛乳に浸したもっさもさのミューズリーを口に運んでいる。

「僕のだけトーストにしてくれたらよかったのに」

 カティがベイクドトマトとベーコンエッグの乗った皿を三つ、栗の木のテーブルに置く。

「黙って食え。食いもんにぐだぐだ言う男ってみっともねえよなぁクレア」

 かちりとクレアがスプーンを置いた。悲しげな目つきでちらりとトレバーを見、スープボウルに視線を落とす。

「ごめんなさい……。わたしが食べたいって言ったばっかりに……あなたがこれ苦手だって知らなかったの」

「いや、あの」

「……わたしのせいで嫌な気持ちになったでしょ……わたしが悪いの」

 そうだ君さえ転がりこまなければ万事うまく行ってたんだ……カティの生理周期以外は。

 だが口から出てくるのはこんな言葉だった。

「こっちこそごめんね。誰にでも食べ物の好みってあるし……その……大丈夫だから」

「そうだぞクレア。がっつり食え」

「そうなの……? じゃあ、いただきます」

 限りない皮肉を込め直して彼も言う。

「どうぞ遠慮なく」

 クレアは光あふれる微笑みを浮かべた。

「ありがとうトレバー」

 我慢して麦のふすまやらなんやらがごちゃごちゃと配合された難消化性のミューズリーを完食し、トレバーは朝っぱらから気分が悪くなってしまった。

 さらに間の悪い事に、今日はカティは少し早めに出社する。電算室長と一緒に金融システム関連企業のお偉いさんと会うことになっているらしい。

 慌てて髭を剃りながら、よく知りもしない女と二人にしないで欲しいと訴えても、既に出社準備を調え小股の切れ上がったパンツスーツ姿のカティは「トレバー自意識過剰」と一笑に付す。

 玄関先で見るからにおろおろしているトレバーの胸にごく軽く拳を当て、クレアの額にゆっくりとキスしてカティは出ていった。

「行ってらっしゃい!」

「じゃあな! あとで一緒に昼飯食おうぜクレア!」

「うん!」

 彼女がドアを開けた途端、冷たい一陣の風が部屋の奥まで吹き通り、クレアが小鳥のようにふるふると震える。

 閉まるドアの音が消えた。

「今朝も寒いわね、トレバー」

 そう言いながらなけなしの胸を寄せて上げるように自分の身体を抱き、隣に突っ立っているトレバーを見上げた。

「そうだね」

 わざと気づかないふりをしているのに執拗に見つめてくる。

 彼はその視線を薄気味悪く思った。

「カティが羨ましいわ」

「?」

「トレバーみたいな素敵なひとと暮らせて……」

「はい?」

 いつの間にか、クレアはトレバーに触れそうなほど間合いを詰めていた。

 彼は一歩離れる。

 女は首を傾げて、少し切なげに笑った。

「……さあ、わたしたちもそろそろ出社の支度しなくちゃ」

「あ、ああ、うん」

 

 薄く積もった雪はケーキのアイシングのような半ば透けた白さで凍りつき、路面を覆っていた。タイヤチェーンを着けたバスがけたたましく走るのが聞こえる。

 身支度を終え、出社すべくクレアを先に外に出してトレバーが施錠していると、少し離れたところで衣を裂くような悲鳴が上がった。

「きゃあああああっ!」

 見ると、凍結したコンクリートのアプローチでクレアが転び、蹲っている。

「いったあああああい!!」

「大丈夫?!」

 どんくさ、と思いながら彼は長い身体を折りたたんで、フレアたっぷりぺプラムひらっひらのカシミアコートを着けたクレアの側にしゃがむ。

「くじいた? どこか痛い?」

「ちょっと足首が……」

 柔らかいスエードのロングブーツの上から、クレアがそっと足首に触れた。

「仕事に行ける? 病院に送ってくよ」

「ん……大丈夫……ちゃんと歩けるわ。今日大事な打ち合わせがあるし、この程度で休めないわ」

「でも……じゃあタクシー拾おう。ね、そうしよう!!」

 薄桃色の革手袋を嵌めた右手がそっとトレバーのコートの袖口を捉え、大きなガラス玉のような青い瞳が間近に彼の目を覗き込んだ。

「ねえ、会社まで肩を貸してくれたらうれしいな」

 白い息を吐きながら、クレアが頬を赤らめて小さく言い、妙な間の後俯いた。

「ごめんなさい、嫌だよね……誤解されちゃうわよね……でもあなたと一緒に歩きたいの」

「ぅわ?」

 WhatとWhyの間でトレバーの口が止まる。

「わたしは誤解なんかされても怖くない……だけどあなたは……困るわよね」

 クレアは、両手で彼の腕に縋ってきた。

 冬の朝だというのに彼はじっとりと冷や汗が噴き出るのを感じた。

「わたしがどうしてカティの部屋に来たかわかる?」

「カティが君に同情して誘ったから……」

「あなたに会えると思ったからよ」

「ひっ」

 トレバーの口から変な声が漏れた。肩に頬を寄せ畳み掛けるようにクレアが言う。

「トレバー、わたしはあなたに会いたかったのよ」

「……」

「そうよね……カティには本当に悪いと思ってるの。だけど、もう……止まらないの」

 

――ちょっと待ってきもいったらありゃしないよっていうかカティ助けて!

 

「でででででも僕はカティ一筋で」

「そうよね……カティとっても優しいし、素敵だもの……やっぱりわたしなんか」

 ぽたんと大きな水滴がコンクリートに落ちた。

「ダメだってわかってても……わたし……わたし……ほんのちょっとだけでもあなたのそばにいられればって……」

 

――怖いよカティぃぃぃぃ!!!

――どうして助けてほしいときにいつもいないんだ!!!!

 

「こっ……ここにいて! タクシー拾ってくるから!」

 トレバーは動転し、足を負傷したクレアを凍てつくコンクリートの上に放置したまま、つるつる滑る路面に身体をぐらつかせながら大通りへ小走りに急いだ。

​

​

XVI. 藁の羊

​

「ねぇサイラス、ひどいと思わない?」

 自分に会いたかったというクレアの台詞だけを端折って、トレバーは友人に不満と不安をぶちまけ、同意を求めた。

「タクシー降りたら、社屋までお姫様抱っこ要求したんだよ! 厚かましいにもほどがあるよあいつ!」

「俺にはご褒美にしか思えんがなぁ」

「僕は新婚さんなの!! カティ以外の女は汚らわしいの! ああもうあんなの抱っこしたなんて不潔不潔ううう!!!」

「お前って本当にわからん」

 生暖かいカップをトレバーに渡して、サイラスが合成材フローリングの床にどかりと座った。カップの中にはタンパク質が変性しないギリギリの温度、風呂水程度に温めた濃いプロテインドリンクがたぷたぷと入っている。

「今日は冷えるからな。温めてやったぞ」

 温めたせいでくせのある臭いが香料の匂いを押しのけ、湯気と共に立ち昇る。

「なんで温めるのさ! 臭くて飲めないよ!」

「そうか。じゃあ冷めてから飲め」

 サイラスは迷彩タンクトップにトレーニングパンツという出で立ちで鉄アレイを軽々と弄んでいる。チャレンジしてみれば鉄アレイでジャグリングくらいできそうだ。

「だけど彼女頑張り屋だな。今日、びっこ引きながら普通に踵の高い靴で歩いてた」

 クレアは甘ったるいデザインのプラットフォームシューズをロッカーに何足か置いていて、とっかえひっかえ履いているのだが、足を痛めていれば到底履けない代物だったし、それ以前に痛くてロングブーツなど脱げないだろう。

「はあ?!単なる馬鹿だろ?!そんなの芝居だよ」

 タオルで汗を拭きながら、サイラスが言う。

「芝居でも何でも、今日はお前とクレアの話題でうちのフロアは葬式状態だったんだぞこの色男が」

「僕自身が葬式状態だよ!」

「そのうち何人か、カティにご注進に行ってたようだったが」

「そいつらマジで死ねばいいのに」

 サイラスは死魚の目つきのトレバーにぬるくてまずいプロテインを再度勧めた。

「それ飲むと、身も心もすっきりするぞ。俺はいつも悩み事があるとそいつをジョッキで一気に……」

 サイラスは味覚音痴だというのは確かだった。

「僕、このバニラのどろどろ無理」

「チョコもバナナもストロベリーも切らしてるんだ。贅沢言うな」

「でも無理。臭いよ」

「じゃあ俺が飲もう」

 一気に飲み干すサイラスの唇の端から一条、どろどろした白いプロテインドリンクがこぼれ、それを手の甲でダイナミックに拭う。

 トレバーはゲテモノを見る目つきでそれを見た。

 サイラスは法悦に至るには足りなかったらしく部屋の片隅へと近寄った。

「サイラス、僕おうちに帰りたいよ~」

 サイラスはルームランナーの設定を弄っている。ここは、これを置くために一階の賃貸物件を探しまくって見つけた部屋なのだ。確かに二階以上の部屋でこれを使用すると階下の住人は心穏やかに生活できないだろう。

「帰ればいいだろ」

 筋肉崇拝主義の金髪マッチョはどかどかと走り出した。

「でも帰るのが怖いんだよ~」

「じゃあ、文句ばっかり言ってないで、トレーニングで恐怖を乗り越えろ!」

「え~?」

 

 夕食を済ませてのんびりとリビングでくつろぎながら、クレアが言った。

「トレバー、今日は遅いのね」

「ああ、出張でルーチンワークが溜まってただろうしな」

 カティはクリスマスツリーにぶら下がった素朴な麦藁細工の小さな動物やファーザークリスマスに触れた。

 カティとトレバーが二人で、近所の公園のクリスマスマーケットに行って買ったという素朴で……というには少し拙ないオーナメントだ。

 カティはクレアに見えない枝の陰で藁の馬2頭を交尾のかたちに組み合わせて遊び始めた。

 

 トレバーが出張に行く二日前、彼らは仕事帰りにクリスマスマーケットをぶらついていた。二十年前にドイツ系コミュニティが始めたちっぽけなマーケットもアットホームな雰囲気はそのままにほんの少し大きくなり、この地域の冬の風物詩になっている。

 元々、カティもトレバーもクリスマスツリーをはじめその手の飾りを一切持っていなかった。そんなものを買う金があれば、カティは障がいを背負った弟に送金していたし、トレバーも機能不全な家庭で育ち、クリスマスツリーを見ると何か強迫観念じみたものを覚えていた。

 なのに恐るべし新婚パワー。

 彼らは気の迷いそのままに、クリスマス飾り一式を買いにのこのことやってきたのだ。

 グリューワインをいくつかの店舗で飲み比べ、ピカンナッツのケーキやオーナメント用ステンドグラスクッキー、クリスマス仕様のものすごい緑と赤のキャンディケインを手当たり次第に買うトレバーをカティは制止しようとしてやめた。

 

――すっげえ楽しそうだな、こいつ。

 

 クリスマスマーケットの目玉は当然クリスマス飾りだ。

 手が込んだミラー細工やエナメル手描きのボール。

 金色の小さな松ぼっくりを抱えた小さな手縫いのクマや万聖節の聖人。

 白い本物の羽毛を背負った天使の人形。

 

 きらびやかに賑わっている露店から離れたところに人がほとんど立ち止まらない店があった。

 位置決めの籤運が悪かったとしか言いようのない、客の動線上から外れた位置に小ぢんまりと、東洋系の老人が口下手に藁細工の少し歪んだ動物を売っている。

 いくつかは売れたようだが、とにかく地味で他の露店のように飛ぶように売れているわけではなかった。

 ぶらぶらと歩いて二人はその露店に立ち止まった。カティが藁の羊を手に取る。その角、その体格は人に飼われふわふわと優しい羊ではなく、山岳に住み戦う野性の羊のものだ。

 二人はじっと藁細工を眺め、売り手の老人を見た。表面が割れてぽろぽろと剥げている合皮の手袋をつけ、右手を左手で擦っている。古いウールのコートの破れ目には丁寧な針目でつぎが当たっていた。

 売り物を並べている折り畳みテーブルの端から、ぴょこんと小さな男の子が顔を出した。

「メリークリスマス!」

「メリークリスマス、ジェントルマン」

 恭しく言ったトレバーに彼は頬を上気させた。ジェントルマンと呼ばれたことがうれしかったらしい。早速売込みが始まる。

「あのねこれおじいちゃんが作ったんだよ」

「へえ、上手だねえ」

「病気になる前はもっとうまかったんだって」

「リハビリで作ったものでして……昔はもっとうまく作れたもんですよ」

 ちらりと目を上げて、力なく老人が呟いた。やっと二人は、この老人に少々言語障害があるらしいことに気づいた。

 そして、昔の指の動きを思いながら懸命に藁を編む彼の姿を想像する。

「おじいちゃんのわらの動物は、セカイイチなんだよ! 買ってソンはないよ!」

 老人の孫はくりくりした目で洟をすすり、子どもらしい毛糸のミトンを着けた手でテーブルを指し示す。彼は優秀なセールスマンだった。

 全くサイズが合っていない彼のジャケットの袖が汚らしく黒ずみ、どこもかしこも擦り切れて糸が垂れ下がっているのをカティは注視し、一瞬少女のような目でトレバーを見た。

 カティはこの手のシチュエーションに全く弱い。

 彼は彼で、そこにいる連中みんなに「これ僕の嫁!優しくてマジ聖女!」と見せびらかして回りたい欲求にとらわれる。

 無邪気なセールスマンの勝ちだった。二人とも実にちょろい。

「これ、全部ください」

 老人は呆れ顔になった。

「他の店のはあんなに綺麗なのに、うちのをそんなにたくさん買うなんて」

 彼は行き交う人々がこの動物たちを買う目的をよく知っていた。欲しくて買うのではなく、施しのつもりなのだ。ひょっとすると、買った後すぐにゴミ箱行きなのかもしれない。

「僕らはこれが欲しいんです。うちのツリーにぴったりだよねえカティ」

 カティが軽く口を引き結んで頷く。照れているときの表情だ。

 彼がカティの前で駄々っ子と化すように、最近カティも少しずつ与えてもらえなかった温かみに手を伸ばし、汲んでもらえなかった思いをおずおずと態度に表す。その瞬間、彼女は内面の葛藤が伺える実に複雑な、そばかすだらけの頬にキスしたくなるような顔をする。自分がどんな表情をしているか、カティ自身も知らないのだろう。

「ありがとうございます」

「ありがとうかっこいいお兄さん!!」

「君の動物たちが買えてうれしいよ」

 トレバーが藁細工を受け取っている間にカティは屈み、小声の早口でちびっ子セールスマンに尋ねた。

「おいちび、アレルギーとかあるか?チョコとか卵とか、バターとか食えるか?」

「うん、大好きだよ!」

 トレバーの様子を伺いながら、買い込んだ菓子の中から大きなチョコの塊がごろごろ入ったクッキーを素早く抜き出して、ちびっ子セールスマンのポケットにそそくさと捻じ込む。

 しかし小さなポケットにはうまく収まらずはみ出してしまう。

 トレバーに見えないように自分の身体の陰に幼い販売員を隠し、カティはまた早口で言った。

「これな、爺さんと一緒に食え」

「ありがとう美人のお姉さん!メリークリスマス!!」

「声がでかい!」

 カティは唇に指を当てて黙るよう合図しながら一瞬破顔し、すぐにまた口の端を引き結ぶ。藁の匂いのする紙包みを手に、それをトレバーは面白そうに眺めていた。

 そういうO.ヘンリー的な経緯でこの部屋にやってきた藁の動物で、小さなモミの木は飾られていた。

 

 今の状態が不自然に思えてならない。

 一人でない自分。

 誰かを支えにしようとする自分。

 それを何となく、認めたくない。

 一体何で結婚なんかしちまってるんだろう。

 今の暮らしは悪くない。

 でも今までそうだったように、そう遠くないうちに壊れるときがくる。

 だから、今の自分も、この暮らしもにせものだと思っとくくらいでちょうどいい。

 

――そう。

――にせもの…だよなぁ…

 

 藁の編み目を撫でているカティに、クレアはそっとしなだれかかった。

「ねえカティ」

「ん?」

「トレバーって、もてるんですってね?」

「ああ、そうだってな」

 カティはクレアの頭にそっと顎をのせた。

「もし、トレバーが浮気とかしたらどうする」

「あいつは多分浮気なんかしねえよ」

「真面目に考えて。本当に浮気したら?」

「ん~~~~」

 少し考えてカティは言った。

「あいつが本当に浮気できたら、それは浮気じゃなくて本気だ」

「…………」

「そしたら私は身を引くしかねえな。私とあいつが結婚したのはあいつに選択の余地がなかっただけだし」

「……どういうこと?」

 カティは笑って首を振り答えなかったが、自分に話しかけるように言った。

「だけど、次にあいつが誰かに惚れたら、私は喜んでやるべきなんだと思う」

 それこそが当初彼女の思い描いたトレバーへの「責任の取り方」だった。

 クレアはカティの顎の下、目を細めた。

 満足した猫のような表情とは裏腹な沈んだ悲しげな声で彼女は小さく話しかけた。

「……わたしカティを傷つけたくなくて黙ってたんだけど」

「?」

「トレバーが何だか、わたしを……」

「トレバーがどうした?」

「ううん、なんでもないわ。多分気のせいよ」

「変なやつだな。気のせいでもいいから言ってみろよ」

「ほんとに何でもないわ!忘れて?ね?」

 

 クレアは、不安さを一抹匂わせた、不自然に明るく吹っ切った声で打ち消す。

 この芝居がかった言い回しに、却って何か引っかかるものをカティは感じた。

XVII. トウモロコシ色のヨークシャーテリア 

​

 時計は1時を回っている。

 サイラスの部屋でスクワット1000回以上に加えエアロバイクで隣の州までエア走破したあと、地下鉄に乗ってトレバーは帰宅した。

 

 静かに錠を回し、藪を伝う夜行性動物の足取りで部屋へ入ってきたトレバーは少し開いたドアからリビングを覗いた。

 細く差し込む廊下からの灯りに、背凭れと肘掛を倒してフラットになったソファの上の金髪がつやつやと光る。

 そしてこの部屋の元々の主、痩せぎすのそばかす女が「招かれざる客」を抱きしめ、金髪にそばかすだらけの鼻を突っ込んで前後不覚に寝入っている。

 女性客に対しどんなに失礼なことかはわかっていたが、彼はリビングへのそのそと入って行きソファの横でしばらく二人の寝顔を見つめていた。

 カティは柔和な表情を浮かべている。この表情は14日前まで彼の腕の中にあった。

 カティはただのシスターフッドのように言っているが彼は不快でたまらない。それを狭量だと責められてもどうしようもない。

 そして自分はクレアにどう接すればいいのか。

 カティに言うべきか言わざるべきか。言うにしても何と言えばいいのか。

 今の気分を例えるならば、心身が砕けそうなほどに疲れて這いずってやっとたどり着いた温かい寝床に、トウモロコシ色のヨークシャーテリアが糞をしていたような気分、というのが一番近いだろうか。

 彼がそっと二人に背を向けたとき、小さな声が上がった。

「………トレバー」

 ぎくりと振り向くと、眠ったままクレアが苦しげに眉根を寄せ、寝返りを打った。

 肉体的にも精神的にも疲労しているところへそんな寝言を聞き、張り倒されたような衝撃で頭の中がわやくちゃになる。

 彼はしおしおとリビングを後にし階上のベッドルームへ行った。

 クレアは細目を開けて、トレバーの悄然とした後姿を眺めた後、ふと笑みを浮かべてもう一度寝返りを打ち、カティの腕を自分の身体に巻きつけ、温かい胸に顔を埋めた。

 

 そしてまだ日も昇らぬ冬の朝が来た。

「わたしね、料理も少しはできるの! 明日、朝ご飯はわたしが作るわ! カティはゆっくり寝ててよ」

 昨晩そう言ったクレアはすっきりした気分で目を覚ました……はずだった。

 夜中、肝っ玉の小さいでかぶつが変質者のように寝顔を見に来たのであほらしい寝言を呟いてみせると逃げて行った。

 暗がりの逆光でもよくわかる、胃痛でも起こしたみたいなあの顔は……実際起こしていたのかもしれないが……夜半に目覚めてぼやけた目にもなかなかに愉快だった。

 なのに今、クレアの心中の言葉で表現するところの「優しく気高く美しい」カティが隣にいない。先に起きて身支度でもしているのかとも思ったが、部屋中しんと静まり返って物音一つしない。

 

――まさか……まさか!!

 

 薄明るくなってきた青灰色の空気の中、小さな白い足がスリッパも履かず冷たい階段を音を忍ばせて上がっていく。

 ベッドルームのドアノブを華奢な手が握り、じわりじわりと捻った。鍵はかかっていない。

 昨晩のトレバーよろしく、クレアは細く開けたドアの隙間からベッドルームを覗き見た。

 そこにはダークな髪色の頭が二つ、寄り添っている。クレアの眼が険しくなった。

 

――バカにして!!!

 

 深夜に帰宅したトレバーはくよくよと思い悩みながらも疲れから熟睡してしまい、あの後トイレに起き出したカティが寝惚けて隣に潜り込んできたのさえ知らない。

 しかし大事なものが手元に戻った感覚はあるらしく、例のごとくカティの身体をがっしりと抱き、下半身を摺り寄せて長く重い脚をのせていた。

カティがもぞもぞと動く。それに呼応するように、トレバーの呼吸が一瞬乱れ、ぐいぐいと頬を寄せる。

 クレアはベッドに乗り込んで二人を引き剥がしたくなる衝動を何とか押さえ込んだ。

 

――いいわ、じゃあわたしが不幸のどん底のその下のずんどこに叩き落としてやるわよ!

――見てなさい!

 

 携帯のアラーム機能が作動し不快な音を立てている。

 トレバーが目も開けずにアラーム音を停止させるべく手を動かすと、何か温かいものに触った。

 鳶色の髪とそばかすが点々としたうなじが目に入る。

……やっぱり、なんだかんだ言っても僕の奥さんなんだよねぇ。

 寝不足にも拘らずトレバーは非常に甘ったるい気分になる。

 生理期間とは眠いものらしく、カティはいつもより若干寝汚い。微かに 血の匂いの混じるキルトの中の温かい空気をトレバーは何度も嗅いでは「僕はエッチな人間です」と言わんばかりのうっとりした表情を浮かべ、彼女に腰を擦りつけた。もっとも性欲旺盛な10代をすっ飛ばして今の今になって性生活を楽しんでいるのだから無理もない、と言えばそうかもしれない。

 昨晩生理初日だったということは、手を触れずとも湿潤であるということは一度強引に経験済みだ。

 ちらりと様子を伺う。カティは起きる様子がない。

 そっとカティの下着ごとパジャマのズボンを下ろそうとしたとき。

「そろそろ起きて! 朝ごはんできてるよ~!」

 階下から鈴を振るような細く澄んだ声がした。

 カティはぼんやりと目を開ける。その前には彼女の夫がいる。

「……おう……トレバー、おはよう」

「うん」

「昨日は遅かったな……お疲れさん」

 もごもごと呟き、また長い睫毛に縁取られた瞼が閉じかける。

 階下からの声は続く。

「クランペット焼いたの! 食べてみて!」

 彼には敵襲を知らせる金管楽器の音色に聞こえた。

​

 部屋でくつろいでいるときはもちろん、買い物に行っても、食事に出かけても、今までの彼の位置にはクレアが居座り、得意そうなカティがクレアの美貌を二度見する男どもを睥睨している。その後ろを、荷物を持たされ自分の存在意義を問いながらのっそりトレバーはついていく。

 そんな中でも一番嫌なのはカティの目を盗んで、クレアが意味ありげに見つめてきたり寄り添って来たりすることだ。

 彼をちらちらと見つめながらアイスクリームやバナナを奇妙な舌づかいで食べて見せたときやテーブルの下で手を握ってきたときには汗が顎から滴り落ち、カティに発熱を疑われた。

 一事が万事この調子だ。実際この生活が続けば長生きはできない気がしている。

 彼は幾度となく、クレアを家に帰すようカティに泣きつき、クレアにも帰るよう懇願したのだが効果はない。

「わたしここにいたいの。一瞬でも長く、好きな人と一緒にいたいと思うのって当然でしょう?」

 そう言いながら彼の手を取り、そっと白い頬に押し当てられたとき彼は総毛立った。

 カティはカティでトレバーに触れられるのを一切避けるようになった。気付けば少し離れたところで腕組みをし、奇妙な目つきでトレバーを凝視している。

 そして、夜、トレバーが引きとめ自分と一緒に寝るよう頼み込んだにも関わらずカティは「この狭さ最高」などとわけのわからないことを言ってストレージにキルトやクッションを持ち込み鍵をかけて寝るようになった。

 今もカティはクレアのちびっこい尻をヒットアンドアウェイで触り、クレアがきゃんきゃん吠えるのを楽しんでいる。

「やっぱ野郎のケツより女子のケツはやわっこくていいなぁ!」

「やだ!トレバーが見てるでしょ?!」

 彼は黙って、洗って乾かした靴下を組にしながら、床にひっくりかえって泣いて駄々をこねる子供の気分を味わい尽くしていた。

 ささやかな腹いせに、アドヴェントカレンダーのチョコレートを全部開けて食べてしまったがカティは気付きすらしない。

 

 10日目になっても帰る様子のないクレアに、トレバーは胃痛を起こした。

 それだけではない。

 ストレージで寝ようとするカティを捕まえ、強引にベッドルームに連れて行ったときに恐ろしいことが発覚した。

 

……とうとうカティにも勃たなくなってしまった。

 

 やっと叶った動物的本能の充足が、数か月で終息してしまったことになる。

 突然の恐怖に竦み上がり思考停止した彼の下からカティはあっさり抜け出してストレージへ行ってしまったのでおそらく気付かれてはいない。

 トレバーはその夜、カティの寝ていた辺りに顔を埋め、目から「赤い玉」が出るほど泣いた。

 彼は誰にも、もちろんカティにもそのことを言わなかった。あれほどはしゃいで、大騒ぎしておいて言えるわけがなかった。

​

​

​

XVIII. 胃が痛いんだ

​

「あいつ帰らせて!お願いだから!!」

 クレアがボスと外出している日を見計らって昼食時間に待ち合わせ、久しぶりに二人だけで入った狭いダイナー。

 小さな椅子に大きな身体を乗っけて、トレバーは泣かんばかりに肩を震わせている。

「僕、胃が痛くて食欲もないし……寝つきも悪くなってさ」

 健啖家の彼にしては大変珍しいことに、死体の肌色をしたバナナブルーベリースムージーだけが彼の前にあった。

 確かにここ数日、夫の顔色が悪いようにはカティも思っていた。

「あんたほんとに神経細いなぁ」

 そう言うカティの前にあるのもクレジットカードほどの大きさのホットビスケット一つとミントティだけだった。

 お互い、じっと相手の顔を見つめあった。目元も頬も、張りを失ってやつれている。その瞳の中に、疲れた顔をした自分が見つめ返してくる。

 トレバーは何だかすっかり悲しくなってしまった。

 それもこれもクレアのせいで、彼女を招き入れ可愛がっているカティのせいでもある。

「あの部屋は君だけじゃなくて僕の部屋でもあるんだからね! もうあいつ嫌だ!」

「まあ落ち着け」

 異様なほどのカティの落ち着きように反比例して彼は不安になっていく。

「クレアのせいで僕の体調はボロボロだよ! 君だってなんか変だよ物置なんかで寝ちゃって!」

「……」

「僕と一緒に寝てよ! カティがいないと怖い夢見ちゃうよ!」

 言ったあとで、数日前に自分の身に持ち上がったことというか持ち上がらなくなってしまったことというか、それをカティにいつかは告げなければならない恐怖に改めて背筋が凍った。

 もうどうしていいのかわからない。

 彼は卓上の紙ナプキンを何枚も使って洟をかんだ。

「じゃああんた、クレアと一緒に寝たらどうだ。夢見だってきっといいぞ」

 奇妙な冷静さでカティが言った。

「はぁぁ?」

「クレアにはいろいろ聞いた……」

 トレバーの手がぐっと力がこもり、爪が白くなった。

「あのアマが何て?!」

 カティは答えをはぐらかすように、柔らかいビスケットを指先で割り、身を乗り出してきたトレバーの口元に蜂蜜が滴るそれを、ほれ、と持っていった。食欲はなかったが、彼はぱくんと口に入れ二、三回噛んで飲み込んだ。

「……なぁ、トレバー、クレアっていい娘だと思うだろ?」

「全っ然思わない」

「こないだ中華食いに行ったとき、テーブルの下で手ぇ繋いでたじゃねえか」

 血色が悪かったトレバーは更に青ざめ、浅黒い頬が鉛色になる。

「あっあれは……クレアが強引に! すぐ振り払ったよ」

「いいんだぜ別に。クレアを嫌うふりとかしなくたって」

「は?! クレアとは何でもないって! わかってるだろ?! 僕はあいつが大嫌いで」

「クレアにはトレバーのいいところを毎日ずっと教えてやった。きっとうまくいくぞあんたら。もうちょっと押してみろ。押すっつっても私にやったようなのはだめだぞ。もっと紳士的にな」

「ちょっと! 僕の話ちゃんと聞いてる?!」

「これでも私は退きどきは弁えてるつもりだ」

「話を聞け!!!!」

 眼鏡の奥で、目の縁に盛り上がるほどに涙を溜めてトレバーは喚いた。もう食事どころではない愁嘆場だ。

 カウンターの客が二、三人、聞き耳を立てている様子でちらちらとこちらを見ている。

「トレバーと暮らすの結構楽しかった。だいぶダメなやつだったけど、あんた可愛げあったし。だけどなんか違うっていうか」

「そういうこと言わないで! 僕ら結婚してまだ一か月じゃないか!」

 カティはぞっとするほど優しい目をしていた。

 骨ばった手が伸びてきて、ぎゅっと握りしめている大きな手に置かれた。

 カティの手は心臓に響くほどに冷たかった。

「気の迷いで結婚はしたがな、ずっと何か間違ってるって気がしてた。あんたが可愛かったり、面白かったり、優しかったりすると怖かった」

「言ってる意味がわからないよ! 僕がもっともっとひねくれて、意地悪かったらよかったってこと?!」

 わからねえだろうな、と彼女は思った。

 

 他者と共にあること、そこに慣れ、素の心を曝すことの恐ろしさ。

 一緒にいる時間が長く、穏やかであればあるほど、壊れたときの惨めさが増幅されていくのを感じる。

 壊れる予兆があれば、ぐずぐずと泥沼に踏み込まず自分の手で壊したい。

 傷付く自分などいない。いつだって、笑っていられる自分でいたい。

 

「あんたさあ、私しかやれる相手がいねえから結婚しただけで、好きだっつったのも自分でそう思いこもうと努力してただけだろ? 今やっと自分で本当はどんな女が好きなのかわかったってとこなんじゃねえのか? クレアは可愛いし気立てもいいしな。やれるってだけが取り柄のブスとは大違いだ」

 やれるという取り柄も消失してしまっていることも知らず説くカティにトレバーは気絶しそうな気分になった。

「そういう話はやめて!」

 気絶したい。そうすればきっと目が覚めたらきっと隣にはカティがいて「あん……トレバー朝っぱらからもう……」的状況になっているはずだ、という白昼夢すら脳内にフラッシュする。

 しかし物理的ダメージも持病もない中気絶するのは至難の業だ。

 とりあえず現実を直視すべく、彼はカティを詰った。

「何勝手にものわかりのいい自分に酔ってんの?!! カティの馬鹿!!」

 いつも冷静で他人を見下すような態度のくせに、裸踊りをしたり突然独り芝居が始まったりしてカタルシスしている妻は、トレバーが何度おかしいと指摘し矯正しようとしても周囲の人間が幸せになるためには自分は幸せでいてはいけないという思い込みが捨てきれない。

「馬鹿はトレバーだろ」

「君がねぇ!! あのクソビッチを家に入れなきゃ僕らこんなことにはならなかったんだよ!!」

「クレアはビッチじゃねえ!!」

 もう自分でもわけがわからなくなっている彼は、言えばクレアを可愛がっているカティに誤解されさらに軽蔑されるのではないかとくよくよ悩んでいたことをつい叫んでしまった。

「十分ビッチだよこの上なくビッチだよあんな悪質ビッチ見たことないよ! 気持ち悪いんだよ君にいい顔しながら僕にも色目使って!!!!!」

 ランチを摂っていたビジネスマンたちが一斉にトレバーとカティを見た。

 トレバーの言葉に、カティが怪訝そうに呟いた。

「クレアからはトレバーがアプローチかけてるように聞いてるんだけどな???」

「はあああああああああ?!嘘だろおおぉぉあのクソアマあああぁぁ!!!」

「クソアマ言うな。クレア、トレバーに見つめられてるとか手を握られたどうしようとか言ってたぞ?」

「僕よりあのアホロートル信じるっての?! いい加減目を覚ませこのブッチ」

「ブッチじゃねえって」

「あいつは僕らを嵌めに来たんだよ絶対!! 僕はこんなに清らかなのに!」

 客の誰かが「……きよらか」と呟くのが聞こえた。

 カティが声の聞こえた方へ「殺すぞ」と言わんばかりのガンを飛ばす。

 こっちを見ていた客は一斉に自分の前の皿に向き直った。

「じゃあ何で今まで黙ってたんだトレバー。あわよくばって思ってたってのもあるんだろ?」

「ずっとずっと聞いてほしかったよ! でも君いつもいつもクレアといるし……言うのが怖かったし……」

「怖い?」

「君、僕がクレアについてなんか言うとめちゃくちゃ怒るし、言うと絶対変な風に誤解するだろ?! だからクレアには穏便に出ていってほしかったんだよ!! 大体あわよくばなんて思ってたらクレアに帰れとか言わないよ!」

「本妻のところに愛人が来たら普通の男は泡食って帰らせようとするもんだろ?」

「変なドラマの見すぎ!!」

「……」

 目を赤くして身体を壊すまで耐えた気弱な男の顔をカティはじっと見つめた。

「……ちょっと最初から話を聞かせろ」

 トレバーの手首のカフスを捲りそこにある腕時計の文字盤を見て、彼女は言った。

「ただし、3分で」

 

 その日、クレアはいつものようにカティの腕に手を絡め、白い息を吐きながら「家路」を辿った。

 カティがトレバーを避けるようになったのをクレアは喜んでいた。もちろんおくびにも出さず、自分のせいだと心を痛めるふりをしながら。

 そうしてうまい具合に壊れ始めている様子に、独りウェディングドレス姿の自分なぞ思い浮かべてみたりしている。

「ねえ、今度ドレスをお店にオーダーしたいの。つき合ってくれない?」

「ああ、いいぞ」

「カティのも一緒に作ろうよ」

 あどけなくクレアが言い、とんとんとリボン飾りのついたブーツを鳴らして雪を落とす。

 足の方はすっかり治ってしまっているらしい。

「何で?」

 カティもコートをばさばさと払っている。

 二人はぴったり寄り添って温まっている部屋へ入った。

「ただいまトレバー」

「おかえりカティ」

 キッチンでは先に帰宅していたトレバーがエプロン姿で火の通りを見ようとじゃが芋を突っついていたが、カティを見ると抱きついて少し屈み、軽くキスをした。

 

――あれ?

 

 急によりを戻したように彼らがキスをしたのを見てクレアは思わず不機嫌な表情を浮かべた。傷から膿が滲みだしているのを目の前に突き付けられるような生理的嫌悪感を覚えている。

 冗談めかしてカティが言った。

「今日は寒いな。今日はトレバーんとこで寝よう」

「……ほんと?」

「あんたはあったけえからなぁ」

 トレバーが照れたように笑い、もう一度カティにキスをした。

 小さな声で彼が「楽しみだよ」と言うのを聞き、クレアはキッチンボードの上のナイフをちらっと見て歯を食いしばった。

 青い双眸の視線の行方を二人は見ていた。

 

……ほら、始めるぞ

……うん

 

 ふと、トレバーがつまらないことを言い出す。

「あ、カティ……マシュマロがないんだけど」

「またマヨネーズで和えんのか」

「うん」

 カティは演技抜きで渋い顔をした。

 トレバーはマシュマロとフルーツをマヨネーズとホイップクリームで和えたものが好きで度々作るのだが、彼女は前から気持ち悪く思っている。

「そこの右の抽斗にねえか?」

「なかったよ。買いに行こうと思ったけど今手が離せないんだ。頼んでいい?」

「じゃあちょっと買ってくるわ。いろんな色の入ったやつだろ」

「いや今日はストロベリージャムが入ったやつがいい」

「おえっ」

 そう言いながらもコートを着ながら出て行こうとするカティに、クレアが追い縋り小さく言った。

「わたしも行く」

「寒いからあったかくして待ってろ。30分くらいで戻る」

「いや……トレバーと二人にしないで」

 不安そうにクレアが言う。

 その切なげな、幼さの残る顔をカティはじっと見つめた。

 この表情。

 これにかまけて、自分は他のことが見えなくなりかけていたのだ。

 しかしまだ「信じたい」という気持ちもある。

 カティは黙ってクレアの頭を撫でてにっと笑って見せ、出て行った。

 可憐にわななきながらカティを見送り終わった途端、クレアの可愛らしい作りの顔から表情が一切消える。

 もちろんクレアにはカティと一緒に買い物に行く気などない。

 彼女は、カティにはトレバーから好意を寄せられて迷惑していることを匂わせておき、トレバーにはその気にさせるようやんわりと、ときには露骨にアピールして「とあるシチュエーション」へ持ち込もうと躍起だった。

 トレバーと二人になる不安は訴えておいた。カティに罪悪感を持たせるには絶好のチャンスだ、とクレアは踏んだ。

 

 その頃、トレバーはキッチンで、カティが朝レモンとハーブに漬けておいた鱈をオーブンに突っ込んでミトンを外しながら一息ついていた。

 本当はマシュマロなんかどうでもよかった。

 カティを女性として知ってから、多分彼は幸せだった。

 だが、試練というべきなのか何なのか、今まで味わったことのない死にたくなるような思いをさせられてきたことも確かだ。

 彼は複雑な気分で犬のように小さく鼻を鳴らした。

 そのとき。

「ねえトレバー」

 背後からの声に、彼は振り向きしゃちこばって答えた。

「何?」

「今朝ソファにファンデーションの染みをつけちゃったの。さっきまで忘れてて」

「だから?」

 声が硬い。警戒心に満ち溢れているトレバーと対照的にクレアはあでやかな微笑を浮かべている。

「申し訳ないんだけど、シーツを交換してもらえないかしら」

 トレバーは唇をへの字に結んだあと、言った。

「じゃあシーツ剥がしといて。すぐ持ってくるから」

「ありがとう」

​

​

XIX. まことに、かくあれかし

​

 フランネルのシーツを持ってトレバーがリビングに入ると、キルトは畳んでラグの上に置かれていた。

 そこに染みがついたというシーツはなく、ランドリールームの方でかたことと音がする。クレアが片付けてくれているらしい。

 はぁぁ……

 深く深く溜息をつくと、トレバーは高価なシャンプーの匂いが染み付いたソファーにばさっとシーツを広げた。ちょっと端を引っ張って皺を伸ばし、位置を調整する。

 端の始末くらい、クレアにさせよう。

 そう思ってソファに屈んでいた体を起こそうとしたとき。

 どん、と衝撃が彼の身体に加わった。

「わっ」

 人一人分の重みが彼をソファに押し付ける。

「なっ……」

 彼の上には服を脱ぎ、なぜかピンク色のランジェリー姿のクレアが跨っていた。

「どいて!何ふざけてんだよ」

「ふざけてなんかいないわよ」

 クレアは欲情というには程遠い、怒りの籠った刺々しい声で言う。

「ねえ、わたしって可愛いと思わない?」

「思わないよ!」

 言いながら、背に乗ったクレアを振り落とす。

 どさっとラグに落ちた彼女が大きな瞳で睨みつけてくる。

「失礼ね! わたしに恥をかかす気?」

 言葉も終わらぬうちにこの体のどこから、という力でトレバーはソファに突き倒された。眼鏡が飛んだ。

 再度跳び乗ってきたクレアは嘲笑を浮かべていた。小さな手が電光石火の素早さで局所に伸びる。

「嫌いとか言ったって、ここはそうじゃないって言ってる……わ……ん?」

 ズボン越しにえげつなく触れられ、トレバーは慌ててクレアをかなり乱暴に突き飛ばした。

 クレアは床で脇腹を打ち、顔を顰めながら起きあがる。

「……トレバー……」

「…………」

「…………」

「…………」

 トレバーは慌ててリビングを出ようとしたが、素早くクレアが立ち塞がった。

「どけよ!」

「…………あなたもしかしてイン」

「黙れ痴女!!」

「……そう言えばそんな噂……聞いたことがあるわ」

 ひどく惨めな気分で、彼は反論した。

「なんで大っ嫌いな女に触られておっ勃てなきゃいけないんだよ馬鹿じゃないの?!」

 クレアを押しのけようとする手にクレアはしがみついて貧弱な乳房をぐいぐい押し当ててくる。

「だってそんなふにゃっふにゃの男今まで一人もいなかったわ! 最軟記録よ!! わたしに乗られて勃たない男は男じゃないわよ! ほらどうよわたしのおっぱい!」

 大変にクソビッチな台詞をいただいてしまう。

 もう一度、彼は呻くように抗弁した。

「僕はカティじゃないとだめなんだよ」

 それはもう、「まことに、かくあれかし 」という祈りの結句を付け足したいほどの思いだった。

「生意気よ! インポのくせに!!」

 また体当たりを喰らう。リミッターの外れた人間というのは恐ろしい。これほどの体格差があっても、伍することが難しい。

「カティの名前を呼ばないで! 汚らわしいわね!」

 クレアは自分の薄い下着に手をかけ一気に引き裂いた。

 白い肌理細やかな皮膚が露わになる。

「少しはやる気になった?! このふにゃ○ん野郎」

 裂くときにサロンで美しく整えた爪で胸元が傷つき、紅色の筋が走っているのが何とも言えずいやらしかった。

 さらに冷や汗びっしょりでじたばたと部屋の隅へ退避する大男に飛びかかると、ベルトの金具をまるでマジックのように一瞬で外す。それは手練れの技だった。

 彼は吐き気と眩暈を覚えた。

「離せ!」

「はっなしませ~~~ん」

ズボンにぶら下がって無理矢理下ろそうとするクレアと必死に引っ張り上げようとするトレバーの負荷に、とうとうズボンの縫い目が音を立てて裂ける。

「もう40分経ってるわ、そろそろねトレバー」

「何が!」

「あなたの大事な大事なカティが帰ってくるのが、よ」

「君は何が目的なんだ!」

 

 そのとき、玄関のスチールドアが勢いよく開かれる音が聞こえた。

「ただいま~マシュマロ買ってきたぞ~あと桃缶も安くなってたぞ~」

 のんびりしたカティの声をかき消して、クレアが腹式呼吸の魂切るような悲鳴を上げた。

「きゃああああああああああああああやめてえええええええええええ!!」

「!」

「いやああああああああやめてええいやああああああああ!!」

「!!!」

「助けてえええカティいいいいい!!」

 叫ぶクレアと面食らうトレバーのいるリビングへ当然のごとくカティが駆け込んでくる。

「どうしたクレア?!」

 涙と洟を垂らして身も世もなく泣き喚きながら、クレアはカティに飛びついた。

「わああああああああああん! トレバーがぁぁぁ」

 外気で冷えきったカティの身体に半裸を擦りつけながら、クレアが泣きながら訴える。

「トレバーが襲いかかってきてぇぇぇ!!! 怖かったあああん!!」

 余りの展開に着衣の乱れきったトレバーはまた白昼夢に逃避しそうになったが、なけなしの勇を鼓し自助努力をすることにした。

「僕何にもしてないよ! クレアに襲われたのは僕の方だって!」

「怖いよおおおおおおおおカティいいいぃぃ」

「カティ! こいつやっぱり頭おかしいよ!!」

「う……っ……ひぐっ……ト……トレバーが着替え中入ってきて無理矢理わたしを……うっ……うっ」

「嘘を吐くな!!!」

「カティとは別れるからとか言って押し倒して、下着破られて…うっ…うわあああん」

「黙れクソアマ」

「怖いよおおおおおわたし嘘なんかついてないよおおおおおうわあああん」

「トレバークソアマはやめろって」

カティがクレアをぎゅっと抱きしめた。

「そうか、怖かったか」

「……うん……」

「…もう大丈夫だ」

 嘘泣きも堂に入ったものだ。泣き出してしまえば気持ちも昂ぶり、本当に泣いているのとそう変わらなくなる。

 こうやって、吐いた嘘だって、しばらくすれば本当になるのだ。

 しかし次の瞬間、クレアは身を強ばらせた。

 トレバーの手元で、機械的なクレアの声がした。

『わたしに乗られて勃たない男は男じゃないわよ! ほらどうよわたしのおっぱい! 』

 彼の手に握られているのは会議記録用のICレコーダーだ。

「トレバー、録れたか」

 トレバーはぐったりと疲れた様子で面長な顔を擦った。

「うん、何とかね」

 彼は部屋の隅に飛んだ眼鏡を探しだし、のろのろと拾った。

 カティはクレアを優しく撫でた。

「なあクレア。私はあんたをすっげえ可愛がってたつもりだったんだが……」

「……カティ……違うの……それはトレバーが作ったにせものの」

「とりあえず服着ろ。風邪ひくぞ」

 あくまでも優しい口調だったがカティはひどく寂しい目をしていた。

 

 クレアは、やっと服を着てぶすくれてソファに座っていた。

 トレバーを誘惑して手を出させ、レイプされたとカティに泣きついてとりあえず二人の仲を壊してしまおうと思っていたのだがカティの思惑やトレバーが食いついて来なかったことが想定外で、さらにクリスマス休暇目前で焦ったこと、本日二人が久しぶりに閨を共にすると聞き逆上したのが敗因だった。

 目の前にはひと通り音声データを聞き終わったカティとトレバーが並んでお説教顔だ。

「クレア、トレバーが好きならどうしてそう言わねえんだ」

「……」

「言ってくれれば譲ったのに」

「カティやめて。僕はモノじゃないから」

「トレバーだって、あんたみたいな美人の金持ち嬢ちゃんとくっつけば今より幸せになれるはずなんだ」

「カティ! やめろって!」

「結婚してまだ1か月だから、お互いダメージも少ねえし」

 カティは強烈なネガティヴモードに突入している。

 一人で裸踊りで自分の世界に入り込みトランス出来る精神構造は、裏を返せば自己陶酔や思い込みの深刻さを示す。

 クレアの化けの皮をはいだのはいい。だがちっともトレバーの望む方向へは話が転がらない。それどころか悪化しつつある。

「カティ、僕のこと捨てる気?!」

「あんたらには普通に幸せになって欲しい。ついては、クレア、こいつ譲るからもう嘘ついたりとか人の気持ちにつけ込むとか、そういうのやめてくれ。な? 何でも正直に言ってくれよ」

「……」

 クレアがぎりっとカティを睨んだ。

 カティの横でトレバーが悲鳴を上げる。

「嫌だ! やめて! 捨てないで!」

 底鳴りのするような低い声でクレアが言った。

「うるさいわね」

「……」

「何が『捨てないで』よ」

「うるさいのは君だろ! 君さえいなきゃ僕らはこんなことにはならなかったんだよ!」

 トレバーは言わずもがなのことを言う。

「言っとくけどねぇ、僕はクレアなんか大っ嫌いだからね! 近くに寄るだけでさぶいぼがでるよ!」

「やめろトレバー……クレアがこんなにあんたを好いてるんだぞ」

 カティの言葉に、クレアがとうとう我慢ならないと言った様子で喚き出した。

「はああ? 何言ってんの?! わたしがいっぺんでもトレバーを好きだとか言った?」

「え?」

「だいたいカティ、あなた、わたしに断りもなしになんでこんなのと結婚してセックスなんかしてるのよ。悪趣味極まりないったらもう」

「え?」

「そのくせ毎日毎日わたしとトレバーをくっつけようとしちゃってさ。気持ち悪いったらありゃしない。自己犠牲に酔っちゃってさ。ほんと、何なの」

「え?」

「トレバーもさ、空気読んでよ。わたしあなたのことはすっごくきもいって思ってるから。死んでくれたらすっきりするだろうなっていつも思ってるわよ」

「はい?」

 毒を吐きつづけるクレアに、カティが恐る恐る尋ねた。

「あの……あんたトレバーが好きなんじゃねぇの?」

「ばっかじゃないの?!」

 小さく華奢な足がローテーブルをがんっと蹴った。

 トレバーだけでなくカティまでが一瞬慄く。

 

「わたしが好きなのはカティよ!!!!!!」

 

「ひゃい?」

 カティの声が裏返り、トレバーは仰け反った。

「あなた、わたしと結婚したいって言ったじゃない!! 覚えてないの?!」

 吊り上がった青い目に睨まれ、カティはひたすら思いだそうと脳内の記憶を引っ掻き回す。

 やはり、そんな記憶はない。

「私そんなこと言った?」

「言ったわよ!入社してすぐ、同期の女子だけで飲みに行ったじゃない!」

「ああ、そう言えば」

「わたしが仕事のこと覚えられなくて泣いてたじゃない!」

「そ……んな気もします」

「そしたら、あなた、わたしを抱きしめて『結婚しよう』って言ったの!!」

「……そう……でしたっけ……か?」

 ここは同性婚が認められている州だ。いくら女同士とはいえ洒落にならない。

 カティの額から、トレバーに負けずとも劣らぬ汗が噴き出してくる。

 

――やべえ…やべえわ…全然覚えてねえ…

――やたらこいつがころころついてきて甘えてきたのはそういうことだったのか!

 

「わたしね、その日からずっとあなたと結婚するんだって思ってた! 男もみんな整理した! あなたが仕事してるの見て今までの誰よりもかすてきだって思ってた! 結婚式場のパンフとか、ドレスのカタログとかずっと見てた! あなたにご飯誘われた日はいつも勝負下着だった! あなたが求めれば、わたしがお父さんに言って昇進だって独立だって思いのままだった!」

「……」

「ずっとずっと待ってたわ! なのにあなたはこんなのと!!」

 クレアは嗚咽に震えながらトレバーを指差し、今度は正真正銘の悲痛の涙を幾筋も流し始めた。

「だからわたしはここにきたのよ! カティがこいつに愛想尽かすように!」

​

​

​

XV. 応えよう

​

 先ほどとは打って変わり本物の感情に泣き崩れているクレアにカティの心臓は縮み上がった。

 助け舟は来ないものかとトレバーを見ると、彼もカティの無責任さに明らかに引いている。

 そういえば、彼も酔っぱらったカティにベッドに引きずり込まれたクチだった。

 カティはおどおどと謝罪を口にした。

「あ……あの……ごめん……あれほんと冗談でっていうか、覚えてねえんだ」

「カティ!!!」

 トレバーがどうも絆されてしまったらしい。

「ごめんねクレア。僕も酔っぱらったカティにいろいろされてこういうことになっちゃってさ……」

 何か私、すっげぇ悪者みたいになってねえか? とカティは思ったが実際そうだった。

「知らなかったこととはいえ無神経だった。本当にごめん。カティもほら、謝って!」

「酔っぱらってました。すみませんでした」

 クレアの泣き声が大きくなった。

「許さない! 許さないんだから!」

「うん許せないよね。わかるよ。カティさぁ、謝って済む事じゃないでしょお?! 誠意を込めて謝ってよ!」

 

――何?

――何でクレア側に行っちゃったんだトレバー?

――スクールガールのノリだぞ?!

 

 何だか置いてけぼりになっているカティをよそに、トレバーは大きな手で小さな痙攣する背中を擦った。

 クレアが弱々しく言う。

「ね……トレバー、カティ譲って……お願いよ」

「本当に気の毒だけど、カティはあげられないよ」

 今度はカティがモノ扱いでソープオペラが進行中だった。

「僕、本当にカティを愛しちゃってるんだ」

「わたしも……愛してるわよ……」

「ごめんね。だけどカティがいないと僕はだめなんだ」

 トレバーまで涙ぐんでいる。カティはとりあえずじわりじわりと移動を開始した。

「どうして……カティはあなたみたいなのを」

「たぶん、僕が惨めったらしくて泣き虫でどうしようもないやつだったから」

 そうだった。

 わたしがカティに抱きしめられて結婚を申し込まれたのも、わたしがつらくてつらくて愚痴りながら泣いてたときだった。

――弱くてどうしようもないひとをみると、ほっておけないのよね…

「……カティは……優しいもんね」

「うん」

「……わたし……まだ……カティを諦められそうにないの」

「無理しなくていいよ」

 背中の手の温かさにクレアは少し、ほんの少しだけこの男に対する見方を改めた。

 そして心の痛みを何とかなだめながら、千々に乱れていた自分の思いをこうまとめた。

 

 カティもトレバーも、正直許せない。

 こんなに虚仮にされてもカティのことは諦めきれない。

 だけど、トレバーとなら、もう少ししたらお友達にくらいならなれるかもしれない。

 同じひとを愛した勝者と、敗者として。

 

 クレアは震える喉で深呼吸した。

「トレバー、あなた羨ましいわ」

 この台詞をトレバーに聞かせたのはマーティンに続き二人目だった。

 

 一方、ここにいるのはまずい、とカティの野性の勘はずっと赤ランプ点灯中だった。

 今夜はジョリーのところへ避難しよう。うん、それがいい。

 っていうか、クリスマス休暇中ずっとジョリーんとこでおさんどんさせてもらおう。

 美しい八割がたの和解の光景を背にこっそりカティはコートを小脇に出ていこうとしたのだが、トレバーが素早く見咎める。

「カティ!! どこ行くの!!」

「あっあの~……私ちょっと会社に忘れ物しちまって……」

「……何を忘れたって?」

 涙目の二人にじっと睨まれ、カティは立ち竦んだ。

「えっと……ほら、あれだ。うんあれだよあれ」

「……逃げようとしてない?」

「……いえ」

「じゃあここに座って。話があります」

「……」

「座って!」

「……」

 立ち尽くしているカティに向かってクレアが涙声で叫んだ。

「座れぇぇぇ!!」

「……はい」

 今度はカティへのお説教タイムが始まった。

 

 こうして、クレアは豪奢な邸宅へ戻って行き、彼女に踊らされていた日々は終わりを迎えた。

 カティはトレバー不在時の禁酒を言い渡され、いつまで守れるかはわからないが、少なくともこの三日間は守っている。

 サンフアン行きの荷づくりも終わり、二人でささやかながらクリスマスの食卓も囲んだ。

 クリスマスソングが古びたラジオから静かに流れる中、ほとんど全部が交尾体勢に組み合わされてしまっている藁編みの動物たちが飾られたツリーの脇で、トレバーは強張った顔でカティに自分の身に起こってしまったことを告げた。

 カティは特に動じた様子もなかった。

 自分を見捨てないよう懇願するトレバーを、カティは笑って窘めた。

「下半身に振り回されるあんたって、コントみてぇで可笑しいぞ?」

「男には大問題なんだよ」

 

 その日の夜。大人になっている彼らにはファーザークリスマスはもう来ない。

 ベッドで肌を寄せ合ってはいるがやはり彼は本体・分身共にしょんぼりしていた。

 しかしカティは楽しそうだった。手を添え、柔らかく弾力があるそれをぷるんぷるんと振り回しながらカティは笑う。

「あっははは……できねえトレバーって新鮮」

「新鮮って……」

「もっちぐっされ~もっちぐっされ~」

「やめて」

 下がり眉で悲しい顔をするトレバーの首をカティは抱きかかえ、髪を撫でた。

「よ~しカティ様があんたをおもちゃにしてやる。目ぇ瞑ってろ」

 言われるがままに大きな目を瞑る男をカティはなかなか愛らしく思った。

 カティはトレバーの大きな耳朶を自分の鳩尾に押し当てた。

「なぁトレバー、楽しかったことを思い出せ」

「昔の? 最近の?」

「いつのでもいい。とにかく楽しいことだけ思い出せ」

 頬に乳房の柔らかさ、鼻腔に肌の匂い、耳に心臓の鼓動。

 言われるままに、彼は様々なことを思い出す。

 暖かい風が心臓の周りに巻き起こり、全身へ広がっていくような幸福感に包まれる。

「不思議だ」

 目を閉じたまま、彼は微笑した。

「君と会う前の楽しかったことって、あんまり思い出せない」

「認知症始まってんぞ」

「かもね」

 トレバーは小さく呟いた。

「ずっとこうしていたいな」

「そうか」

「死ぬまで一緒にいてよ」

「そうして欲しいならそうしてやろう」

 尊大に言った後、カティは喉の奥で柔らかく笑った。

 万感の思いを込めて、彼は腕の中の妻を祝福した。

「カティの上に、いつも幸せがありますように」

「トレバーにもな」

 そうやって、彼は微笑んだまま静かに寝息をたてはじめた。

 カティは、重い大きな頭を胸に抱え、腕がだんだん痺れてくるのを感じながらずっと黒い髪を撫でていた。

 

 彼女はお説教タイムにトレバーが叫ぶように言った言葉を思い出す。

 

――愛だとか、幸福だとか、そんなものを信じてないくせに変に采配を振るおうとするから君はだめなんだ!

――君を必要とする人間に、自分自身の気持ちで応えなよ!

 

 そう。それならば気が楽だ。

 この男がそんなに私を必要としているなら――

 

 だったら、出来うる限り応えよう、と彼女は思った。

 

 思ったのだが。

 

 朝、カティは身の奥に何かが侵入してくる痛みで目を覚ました。

「あ、カティおはよう! メリークリスマス!」

「トレバー……痛っ……メ……メリークリスマ……痛えっ!!」

 喜色満面のトレバーが全く自分本位に腰を振っていた。

「……あんまり可愛い寝顔だったからつい」

「できねえんじゃなかったのかよ」

「君の寝顔見てたらねぇ! 何か今ならできそうかな~って」

「い……てぇ……」

 準備段階も何もなく不意打ちを食らっているカティは歯を食いしばって呻いた。

「痛い? ごめんね?」

「う……ううう……」

「あはは~カティ可愛いねぇ」

 顔を歪めているカティに、トレバーはねっとりと舌を使ったキスをした。

「カティのお口は上も下も僕のもの~!」

 カティに変なドラマの見すぎを窘めるくせに、彼は明らかに変な本の読みすぎだった。

 独りよがりにがんがん揺すぶり、カティの身体がずり上がってヘッドボードにぶつかりそうになると腰を掴んで下の方へ体勢をリセットし、またひたすら腰を遣う。

 カティは自分の上の厚い胸板をぼかすか殴ったがあまり効いている様子はなかった。しまいには手首を捕まえられてしまう。

 そしてトレバーは浅い呼吸をしつつも甘ったれた声でよくまあ喋る喋る。

「でね、なんか今なら大丈夫かな~って僕の勘なんだけど! ゴムつけてないけどいいよね? ね?」

「ねえっ久しぶりだけどどう? なんか変わった?」

「なんかちょっと狭いね? しばらくしないとこうなっちゃうの?」

「口もいいけどやっぱどうしても歯が触ったりするときがあってさぁ……やっぱここに挿れるようにできてるんだよねぇ?」

「気持ちいい? ねえ気持ちいいの?!」

「しばらくご無沙汰だったからひょっとしたら『抜かず三回』ってできるかも! やってみていい?」

「ね、中でいい? 中でいいよね? ね?」

「あ、出ちゃうでちゃううううううっ出ちゃ……あっああぅっ」

「はぁ……カティ最高……愛してる……」

「よしじゃあ『抜かず三回』やるよ!」

 そこにはムードも何も存在しなかった。

 自分がロマンチックな気分の時には、カティがあけすけなことを言うと怒りだすくせに。

 

 なんでこんなやつに、とひどく悔しい思いをしながら、カティは抑えようのない感覚に深い森に囀る山鳩のような濡れた声を上げ始めた。



 

   おしまい

​

​

  • X

© 2019 by Kaya/EYAMA, Makomo Proudly created with Wix.com
Unauthorized copying and replication of the contents of this site,
text and images are strictly prohibited.

Right Click Protect/このサイトでは右クリックは無効です
bottom of page