照葉樹林
Syou You Ju Rin
EYAMA, Makomo's Personal Portfolio of
original drawings and novels
※ボイスブック・声劇用脚本になっています。ナレーション部分は主人公が読み上げてください。
Ⅰ. ここはどこ?
僕「なんだろうここは……?」
色んな花が咲いている。
四季の野の花が混在し一斉に、狂い咲きしている。
よく見かける路傍の草花なのに、どこか、作り物めいた美しさだった。
その中に一本通る小道を僕は歩いている。
そしてこの風景全てに奇妙な既視感があった。
蜜蜂の羽音、鳥の声、どこかから聞こえるせせらぎの音。
僕「僕は……いつも通り、学校へ行こうとしてたのに……駅までの途中にこんな自然だらけっぽいとこ、無かったはずなのに」
僕「スマホの地図はっと……」(ゴソゴソ
僕「あれ? 今朝充電したのに電池切れ?! マジで?!」
僕は2年前に交通事故で生死の境を彷徨った。
奇跡的にどこも損なわず後遺症もないが、2か月に一度の経過観察の通院は続いている。
それに、小さなころから頑張ってきたピアノ。
全日本学生ピアノコンクールの本選が迫っていて、会場までの移動と調整のために数日学校を休むことになっている。
だからもう義務教育ではないとはいえ、出席日数はできる限りキープしたかった。
それで僕はイライラして、スマホにしばらく当たった。
僕「まさか壊れた? マジであり得ない! 学校にも家にも連絡もできないじゃないか!」
僕「とりあえず、人に道聞こう……絶対ここ学校の近くのはずだから、変な顔されるだろうな」
僕「誰もいない……通勤通学の時間なのに」
僕「あれ? この道、林に入っていくけどヤバくないか……」
引き返そうと振り向くと、何かひどく嫌な、固いものを壊す音がした。通ってきた道で工事でもしているのだろうか。じゃあ前に進んで迂回しよう。だから、てくてく、てくてく。
僕「林の中に入っちゃったよ……林っていっても、中は明るくて歩きやすいんだな」
僕「自然に触れたせいかな、なんだかすごく頭がクリアですっきりしてる。目も耳も、すごくしゃきっと見えてるし聞こえてる。気分がいいな」
僕「あれ? 家がある!」
僕「変なやつと思われそうだけどちょっとここの人に道聞こう」
ファンシーな、童話に出て来そうなログハウスだった。
他には建物らしい建物はない。
用心しいしい門から入る。
鄙びた草花が甘く薫る前庭アプローチに敷き詰められた砂利じゃりは妙に粒が揃って丸く、レリーフのような模様がある。そして色とりどりで宝石のような美しい色をしていた。踏むと靴の裏でやや軟質に砕ける感覚がある。
珍しく思いながら足元の赤い小石を一粒手に取り顔に近づけてみる。
僕「なんかこれ、あれに似てる……」
躊躇ためらいつつ、舐めてみた。
僕「やっぱり! これ、いちご飴だ!! 」
それは、色も形も香りも、さらに味までイチゴのドロップだった。
僕「よく見ると、草も花も、砂糖菓子と飴細工だ……じゃあもしかしてこの家も?」
僕「うわ! マジか!!」
僕「木だと思ったのに、壁やドアも、木や石や漆喰にものすごくそっくりのビスケットやチョコレートだ!」
僕「すごいなあ、お伽噺の世界だ……」
僕「もしかして、小規模テーマパークみたいなやつに迷い込んだのかな? まだ開園の時間じゃないから人がいないのかもしれない……係員の人だったらいるかな?」
僕「すみませーん! あのー! 誰かいませんかー!!」
僕は、このお菓子でできた小さな家がひょっとすると受付か、事務所になっていやしないかと思い、ドアをノックしてみた。
木材そっくりのビスケットの一枚板に、ノックの衝撃で罅が入り、小さな屑がパラパラと落ちた。
僕「わっ!! ごめんなさい!!」
僕「ノックしたら危ないな……ドアノブ、ドアノブ……っと」
バタースコッチキャンディのドアノブを捻って入ると、室内はヨーロッパのカントリー風にまとめられていた。
小さな蹴上けあげのある三和土たたきはクラッシュタイル風の固く焼き締めたクッキーで、土足で踏み入るのは躊躇われたが、だからと言って靴を脱いで歩くというのもどうかという気分だ。
僕「すみませーん! どなたかいらっしゃいませんか?」
入ってすぐに居心地の良さそうな居間とキッチンがあった。民芸調の木の丸椅子やキャビネット、素朴なクッションやラグが可愛らしい。
もちろん、まるっと全部、菓子細工でできている。
老婦人「あら、遅かったわね」
小柄な、品のいいおばあさんがキッチン脇の鎧戸よろいどのストレージから現れた。
やはり前時代的な農婦のようなドレスを着て、手には桜桃さくらんぼの砂糖漬けの瓶がある。
これを取りに、ストレージに入っていたのだろう。
そして彼女は、執事風の黒いスーツを着た若い男と貴婦人然とした白い服の女を従えていた。
僕「遅かったって……???」
老婦人「ここのところ、あなたが来るんじゃないかと思ってお茶の支度をしていたのよ」
男が僕を見た。端正な顔立ちだ。
彼は僕に対する悪意とも敵意ともつかぬ一瞥いちべつをくれると、皮肉っぽい口調でおばあさんにこう言った。
男「彼は何も覚えていませんからね、マダム」
僕「(この人の声、なんか迷惑がってるように聞こえるな)」
男「このクソアマが変なことを言い出さなければこんなことにはならなかったのに……」
彼は白い女を睨んだ。
女は細い白い首をつつましやかに傾け、俯いていたが特段畏おそれているようでも悪びれているようでもない。
そのとき、男の背から黒い烏からすの翼が、女の背から白鳥の力強い翼がやや開き、議論でもするように動くのが見えた。
老婦人「汚い言葉は使わないでって言ってるでしょ、レイヴン」
どうもこの男はレイヴンというらしい。
確かに、黒ずくめで、他人を少々見下したような態度の彼に、レイヴン……ワタリガラスという名は似つかわしい気がした。
レイヴン「失礼しました、マダム」
おばあさんは僕に向き直った。
老婦人「さあ、座って? お茶にしましょう」
僕「え? このお菓子でできた椅子に……ですか?」
老婦人「壊れたりしないから大丈夫よ」
彼女は真新しいキッチンクロスを、木製に見えるクラッカーの椅子の上に敷き、僕に座るよう再び勧めた。僕はこわごわ座った。
椅子は素材の割に頑丈で、壊れなかった。
僕「あの、本当にお構いなく……ただ道に迷って、学校への道を伺いたかっただけですから」
老婦人「大丈夫よ、とって食いやしないわ」
居間の隅のキッチンで甲斐甲斐しく茶の支度をしながら、黒服の男の翼が生えた肩が揺れた。
おばあさんの台詞に笑っているようだ。
この男は、どことなく感じが悪い。
白ずくめの女は無言でティーマットやティーコゼをテーブルに並べていた。
老婦人「あら、レイヴン! お客様がおいでなのにいつものお茶葉ちゃっぱなの?」
レイヴン「ええ、いつものが一番おいしいんですよ」
さすがに茶器はちゃんとした陶器のようだ。熱い紅茶にも溶け崩れない。田舎の家で使われているような素朴なもので、部屋のしつらえとよく合っている。
白ずくめの女が小さなティーケーキを山盛りにした皿をテーブルの中央に置き、優しい声で言った。
白ずくめの女「お茶菓子よ。ミルクや蜂蜜は遠慮なく使ってね」
僕「……ありがとうございます」
おっかなびっくり、茶を飲み菓子を食べる。
おばあさんは満足そうにそれを見ていた。
老婦人「おいしい?」
僕「はい、おいしいです」
老婦人「それはよかったわ」
本当はこの珍妙な事態に、味などよくわからない。
羽の生えた男女が僕に向ける視線も、あまり心地よいものではなかった。
しかしおばあさんは上機嫌だった。
老婦人「今日はあなた、一人なの?」
僕「え?」
老婦人「前に来たときは二人だったじゃない」
僕「え?! 僕、ここに来たことがあるんですか?!」
おばあさんはため息をついた。
老婦人「レイヴン、この子本当に覚えてないみたいね。あなたはいい仕事をするわ」
レイヴン「覚えてないのにまたやって来るなんて、本当に困ったものです」
レイヴンは顔を顰めた。
僕「あの、ご迷惑かけてすみません。もう、すぐ帰らせていただきますから」
老婦人「帰るってどうやって?」
おばあさんはにこやかに言った。
老婦人「あなた、帰る道どころか、自分の名前も憶えてないんじゃないかしら?」
僕「……あ」
そこで気がついた。
自分の名前が思い出せない。
まるで記憶障害でも起こしたかのように、そこだけすっぽりと記憶がない。
それはかなりのショックだった。
慌てて足元の鞄からスマホを取りだし、自分の個人情報を読み取ろうとする。
僕「あ」
――そうだった。
なぜか電池が切れていたんだった。
ならば、と学生証や財布の中の診察券やポイントカードを出してみる。
皆、ただの真っ白い紙片、プラスチック片と化していた。
僕「まさか……そんなはずは……」
レイヴン「無駄に足掻いてるね」
カラス男がからかうように言った。
レイヴン「君はなにも覚えていやしないって。前に君がここから帰るとき僕が記憶を消したんだから」
僕「それは、どういう……」
Ⅱ. 二羽の鳥
レイヴン「遅れたけど自己紹介をするよ。僕はレイヴン。そして彼女はスワニルダ」
掌を上に向けてレイヴンが白い女を指し示す。スワニルダは軽く目礼した。
レイヴン「そしてこちらのマダムは、……」
彼は唇を動かし、彼女の名を発音した。
それなのに、なぜだか僕にはその部分だけが何かに邪魔されて聞きとれなかった。
……それは音声のめちゃめちゃな羅列にTVの砂嵐のノイズを混ぜたような、少し不気味な空気の振動だった。
僕「???」
僕の訝しげな顔を見て、レイヴンはもう一度、おばあさんの名を言ってみせる。
やはり聞こえるのはあの不協和音だ。
どの言語でも、固定名詞くらいはある程度わかる。
なのに、なぜかそこだけ、呪われたように聞き取れない。
レイヴンは少し黙った後こう言った。
レイヴン「君も思い出せないなりに、何か自己紹介してごらんよ」
このカラス男の底意地の悪さを感じながら、僕は今の状況を口に出してみた。
僕「えっと……僕の名前は……なんでだろう……思い出せない……住所も、通ってた学校もわからない……」
僕「頭がぼんやりして、なんだかおかしいんです……僕がどこから来て、誰なのか、普通に覚えてるって感じがあるのに、それをはっきり思い浮かべようとすると消えてしまうんです」
老婦人「そうなの……では私が「ここでは何なのか」わかるかしら?」
僕「え?……ここでは何なのかって?」
老婦人「お菓子の家に棲んでいる年寄り女が一体何なのかくらいはわかるでしょう? グリム童話なら思い出せるんじゃない?」
僕「え??? 魔女?」
老婦人「ええ、その通り。ご明察だわ」
魔女?
冗談もいい加減にしてくれ、と言いたいところだ。
しかしこの菓子でできた家の精巧さ。
この黒と白の男女の、CGとは比べ物にならない生気ある翼。
何より、リアリティ番組の隠しカメラがどこかにないか探してみているのだが、怪しいものは何もない。
もし彼女が本当に魔女で、このお菓子の家が本物ならば、ここはあの童話の世界なのではないだろうか……
老婦人「馬鹿馬鹿しいと思っているのね?」
僕「……ちょっと信じられなくて」
老婦人「まあ、信じなくてもいいわ」
そのとき、血の気を感じさせないほど肌も髪も白い女が静かに口を開いた。
スワニルダ「あなたは、2年前、ここへ来たのよ。私があなたを帰してあげたのよ、未だ思い出せないの?」
彼女の白い姿に大きな瞳だけが不調和に黒々と、暗い洞窟のように見える。
老婦人「それは彼が自分で思い出さなければならないことよ。ヒントを出す権限があるのはレイヴンだけ」
レイヴン「僕はヒントを出す気はありません」
カラス男はにべもない。
老魔女はやれやれといった様子で溜め息をついた。
老婦人「ねえ、お客様? あなたを、仮にヘンゼルと呼ぶことにしましょう。グレーテルは連れてこなかったの?」
そうだ、ここがその童話の世界であれば大事なヒロインがいなければならない。そうでなければヘンゼルはここへ監禁されて魔女に食い殺される運命だったはずだ。
でも覚えていないものは覚えていない。
魔女は白と黒の鳥人間たちを交互に見ながら、少し苛立たしげだ。
老婦人「あなたたち、私にも言ってないことがあるわね? 教えてくれたっていいじゃないの」
レイヴンは呟くように言った。
レイヴン「マダム、あなたはここではシンボルでしかないのですよ」
老婦人「私がシンボルでも、この子はまだそうではないわ。少しヒントがあってもいいじゃないの」
レイヴン「……仕方がありませんね」
スワニルダ「そう、仕方がないのよ、レイヴン」
レイヴン「黙れ。どの口がそれを言うか!」
翼をわずかに広げ、彼はスワニルダを鋭く罵った。
そして僕に問いかけた。
レイヴン「思い出してみたまえ、二年前に何があったか」
僕「……二年前?」
レイヴン「よく思い出せ。君の額に残る傷は、何だ?」
思わず額に触れる。
前髪の下にうっすらした皮膚の盛り上がりが筋を描いている。縫合した痕だ。
……そうだ、二年前というと
僕「僕が二年前にここへ来たなんてあり得ません。僕は交通事故でしばらく植物状態で……」
レイヴン「奇跡的に回復したんだろう? 「指の一本も損なわず」に」
僕「どうしてそれを……」
その途端、脳のなかに稲妻のようにイメージが走った。
歪んだ微笑を湛えた、少女の顔。
フラッシュバックは閃光のように、一瞬の鮮やかさを残して消えていき、捉えることを許してくれなかった。
老婦人「奇跡というものは大きな代償を伴うことが多いわ……あなたはなにか大きな代償を払ったのかもしれないわね」
スワニルダがその続きを補足した。慎ましやかに黒い目を伏せながら。
スワニルダ「それか、誰かが代わりに払ってくれたか、なの。あなたはその誰かとの約束を果たしに来たんじゃないかしら?」
僕「……約束?」
レイヴン「トゥオネラ、オルフェウス。この二つの言葉を重ねてみるといい」
僕「お菓子の家にいるものは、魔女。トゥオネラにいるものと言えば……白鳥??」
オルフェウスは、ギリシャ神話に出てくる。
若くして死に別れた妻を生者の世界へ連れ戻すために冥府へ行った竪琴の名手の名だ。
冥府めいふに流れる川は北欧の伝承ではトゥオネラといい、白鳥がいるとされる。僕のように楽器をやっていてクラシックを演奏していれば、シベリウスの「トゥオネラの白鳥」という曲のおかげで常識だ。
そういえば、白鳥はヘンゼルとグレーテルの家への帰路を助け、川を渡してくれた鳥だった。
そして白鳥は古来、東西を問わず死の象徴とされる。
不吉な推論に背筋が硬くなるのを感じたがここでそれを気取られるのが恐ろしい。
最初、ここは死者の世界なのではないかと思った。
自分の死に気づかず彷徨さまよう霊の話はよく聞く。
そんなふうに存外と気づかないものなのかもしれない。
しかし僕は一度ここへ来て、そして生還できた。
だからここは完全な死の世界ではない。
ここは生と死の狭間はざまの世界なのでは?
老婦人「少し、この世界のことを思い出したみたいね?」
レイヴン「いいえ、マダム。彼にとっては新しく得た知識であり、2年前の記憶が戻ってきたわけではありませんよ」
スワニルダ「ヘンゼル、あなたは二年前の約束を果たしに帰ってきたのよ。その約束はあなたが思い出さないと反故ほごになるわ」
レイヴン「チッ」
僕「(えっ? 今レイヴン、舌打ちした?)」
僕「あの……約束って?」
スワニルダ「それはあなたが思い出して」
僕「思い出せないときは?」
スワニルダ「さっきも言ったでしょ? 反故になるわ」
僕「すみません……反故になったら、どうなるんですか?」
スワニルダ「あなたはまた「代償」を払って、レイヴンに記憶を消されて元の世界へ戻るか、「この先の世界」へ行くか決めることになるわ」
「この先の世界」と言ったときのスワニルダの微笑が、得体の知れない闇の中に白く浮かび上がった白鳥を思わせた。
美しいというより、長い首が蛇のようで恐ろしく、僕は思わず身震いした。
彼女ととても仲が悪いらしいレイヴンは、彼女に掴みかからんばかりの形相ぎょうそうで睨みつけている。
魔女がやれやれという顔をした。
老婦人「……ヘンゼル、お茶やお菓子のおかわりはいかが?」
僕「あ、……いえ、もう充分いただきました」
老婦人「だったら、ここを出てあちこち歩いてみなさい。お供に、この鳥たちのどちらかを選んで」
どちらを選んでも、剣呑な気がした。
僕「あの、一人でぶらぶらしますから大丈夫です」
Ⅲ. ヘンゼルとグレーテル
老婦人「ここにはあなたが触れないほうがいいものがそこかしこにあるわ。例えば、そうね、このテーブルの真下にある床のキズをよく見てみて?」
僕「??」
テーブルの真下には、糖衣とういが掛かったチョコレートでできた床に小さな円と星形が組み合わさったような傷があった。
僕はそこを注視した。
すると、そこがぼうっと霞んだように見えた。かと思うと、一本の青黒い腕が生えてきた。
綺麗なマニキュアを塗った爪が剥がれかかり、血のような赤い液体……おそらくイチゴジャムで汚れている。
その肌理きめも関節の動きも本物の人間の腕そのものだ。
その手は虚空でめちゃめちゃに振り回され始めた。
僕「なっ!!!」
魔女は、だんっと力強く床を踏み鳴らした。
それを合図に、手はべたりと床に落ちて徐々に淡くなり、消えた。
もしタイミングが悪ければ、僕は失禁していたに違いない。
老婦人「ふふ、こういうものがそこかしこにあるのよ。案内役がいた方がいいわ。さあ、2人のうちどちらにするの?」
僕「魔女さんじゃだめですか?」
老婦人「私はここから出られないのよ。ずっとここでゲストをお迎えするのが私の役目だから」
僕は白鳥とカラスを見やった。
ここがヘンゼルとグレーテルの世界を踏襲とうしゅうしているならば、僕はきっと白鳥を選ぶべきなんだろう。
スワニルダは優しく、青白く微笑んでいる。
しかし、その眼にはどこか怖ろしい場所へ繋がっているような寒々しさがあった。
彼女を見た後にレイヴンを見た。
やっぱり意地悪そうだ。
なのに一瞬、……ほんの一瞬。
彼の周りに、金環食きんかんしょくのような、温かい金色の輪が見えた。
僕「では、レイヴンさん、お願いします」
老婦人「ふふ、レイヴンを選んだの」
レイヴンは無言で立ち上がると手袋を嵌め、イソップ寓話でカラスが身を飾るために使ったような、種々しゅじゅの羽毛で飾った小ぶりなシルクハットを被って支度を調えた。
老婦人「清浄な常闇とこやみの鳥ではなく、濁った世への再生の鳥を選んだのね……」
レイヴン「お言葉ですがマダム、浄きよめられた常世とこよよりも、醜くとも生きることを多くの人間が選びます。生きているということ自体が、何物にも替え難い宝なのだと僕は信じています」
彼の言っていることはよくわからなかったが、そのときレイヴンが厳おごそかに見えた。
レイヴン「では、行こうか」
僕は老魔女とスワニルダに辞去じきょの挨拶をした。
スワニルダは黙って微笑んでいるだけだったが、魔女は名残なごり惜しげに僕の手を握った。
そして、レイヴンと一緒に家を出た。
朝、家を出て道に迷い、しばらく歩いて奇妙なお茶につき合わされた。
それだけならば、どんなに時間の感覚が狂っていたとしても、せいぜい昼下がりになっている程度だろう。
ところが、もうすっかり辺りは夕暮れに包まれている。
僕「あのー、どっちへ行けばいいんですか?」
レイヴン「適当にぶらぶらしていればいい。何か興味を引くものがあるはずだから」
僕「(素っ気ないなあ)」
僕「そういえはここに来る途中、水の音が聞こえていました。川か何かが近いんですか?」
レイヴン「自分で確かめてみたらいい」
僕「確かこっちの方から、音が……あ、川だ!」
それは、僕が思っていたような牧歌的なせせらぎではなく、岩が水を砕き、白く水の表面に筋を引いている小さな渓流だった。
小さな飛沫のせいか、辺りは冷え冷えとしている。
その流れに沿って少し歩くと、人影が現れた。
僕「(あれ? 何だか見覚えがあるような?)」
肩までの黒い髪が、叩きつけられる水が生む冷えた風に揺れている。
そして、彼女が着ているのは、見覚えがある服だった。
何かのユニフォームのような紺のブレザーとスカート……
はっとした。
これは、僕が通っている高校の女子の制服だ。
僕「(何か思い出しそうな……とても恐ろしいことことを)」
レイヴン「やあ、こんにちは」
彼女はのろのろと顔を上げ、こちらを見た。
???「……こんにちは」
彼女の顔の左半分は恐ろしいほどの黒さだった。
皮膚が黒いのではなく、スワニルダの光のない洞窟のような目に似た、質感のない黒さだった。
暗い、陽炎のようなものがゆらゆらと揺らいで顔ははっきりと見えない。顔から瘴気しょうきが立ち昇っているかのようだ。
僕は心臓が縮み上がる思いだった。
なのに、彼女の顔から眼を離せなかった。
レイヴン「ここで何してるんだい?」
???「……待ってるの……ずっと」
レイヴン「誰を?」
???「ヘンゼル……約束したから」
僕「(ヘンゼル?)」
レイヴン「どんな約束?」
???「わからないけど、すごく大事なことだったと思う……」
僕「レイヴンさん、その娘……知り合いなんですか?」
レイヴン「いや、名前は知らない。君、名前を僕たちに教えてくれないか?」
僕は芝居がかった雰囲気を感じた。
レイヴンはこの子を知っている。それを隠して、この子の口から名乗らせようとしている。
恐らく、僕に聞かせるために。
???「私は……」
彼女は項垂うなだれた。
???「私はグレーテル、だった……と思う」
僕「グレーテル? ヘンゼルとグレーテルの?!」
レイヴン「本当の名前は?」
なぜか、レイヴンの声は真剣だった。
グレーテル「わからない。覚えてないの……」
レイヴン「君たちが自分の名を思い出すことが、約束の鍵になっているんだ。その鍵がないと、記憶を削除した僕にもどうしようもない」
僕はおずおずと訊ねた。
僕「あのさ……君、グレーテルって呼んでいい?」
グレーテル「ええ」
僕「僕も自分の名前が思い出せないんだ」
僕「この人と魔女と、あと白鳥みたいな女の人と一緒にお茶飲んだんだけど、そこでヘンゼルって呼ばれたんだ。君がグレーテルだっていうのと関係あるのかな?」
グレーテル「あなた、ヘンゼルなの?」
訊ねられても、答えられなかった。
僕は仮のヘンゼルだ。
この半分異形いぎょうの彼女にその通りと答えて正解なのかどうかがわからなかった。
グレーテル「そう……そうなの……? あなたがヘンゼル?」
彼女の声が震えた。
グレーテル「そうね……そう言えばその服……その服だった……」
グレーテル「ヘンゼルは音楽室で、昼休みにピアノ弾いてて……何て言う曲か知らないけど、キラキラしてて好きだったな……」
グレーテル「弾いてる人はきっと優しい人なんじゃないかって思ってたんだ」
僕「―――♪♪♪」
グレーテル「!!! その曲……」
僕「ドビュッシーの「水の反映」……二年前、コンクールの自由曲で弾くことになってたんだ。課題曲がベートーベンだから雰囲気を変えて」
グレーテル「……私、音楽準備室でずっと聴いてたんだよ」
僕「何で毎日、昼休みに準備室に隠れてるんだろうって思ってた。友達と弁当とか食べないのかなって」
彼女は、眠ったままで話すような、どこかリアリティのない口調だった。
グレーテル「友達……友達? そんなものいなかった、と思う」
グレーテル「そうだ、私、学校に行きたくなかったんだ」
僕「……」
グレーテル「私、学校でよくものを失くしてたし、見つけた時には汚されたり切られたりしてた。無視されたりとか、机に落書きされたりとか」
僕「誰かに相談した? 先生とか親とか」
グレーテル「先生には気にしすぎだって言われた。だからそうなのかなって……私のこといい子だって思ってる家族には心配かけたくなかったし」
グレーテル「それにこのくらい耐えられるって思ってた……でも、どうしてだかわからないけど、どうしても今日は学校行きたくないって思って」
グレーテル「道路を走ってきた車の前に、ほんとに発作的に飛び出して……ヘンゼルが私を助けようとして」
グレーテル「そうよ、だからここへ二人で来たんだった……ここまで思い出せた」
右の、まだ仄白ほのじろく見えている顔に、泥のようなものが一筋流れた。
その醜さと恐ろしさに、腹の奥がぞくっとした。
僕たちを見守りながら、レイヴンはもどかしげかつ苦々しげだった。
レイヴン「そういうのは後でも構わない。先に名前を思い出しなさい」
僕「そんなにせかされたって! 色んなことを思い出しながらそのうち名前も思い出しますから!
僕が少し声を荒げると、レイヴンが僕の目をひたと見つめた。
レイヴン「この世界は、君がよく知っている何かに似ているはずだ。何に似ているか言ってごらん」
僕「えっと……グリム童話のヘンゼルとグレーテル」
何を今更、という気分だった。
レイヴンは視線を逸らさない。
レイヴン「この世界はもともと何もない、ただの灰色の「狭間の世界」なんだよ」
僕「……何もない? こんな森や、川や、岩や風、お菓子の家まであるのに?」
レイヴン「本当は、ここは生と死の境目、ただの灰色の混沌なんだ」
途端、すうっと背筋から何かが抜けていくような不気味な感じを覚えた。
レイヴン「ここへ来た者は何らかの記憶を投射し、自分だけの世界を作って、自分の人生に夢を見たり言い訳をしながら死へ向かう。この世界を作って、僕やスワニルダにこの姿を与えたのは、君なんだ」
その言葉を聞いた途端、やけに大きく様々な音が聞こえた。
空を渡る鳥の声。
木々を揺らす風の音。
碧の木の葉の擦れるさざめき。
渓流を流れる水の響き。
確かに、ここは僕が幼い頃見た童話絵本の中の、写実的に描かれた風景によく似ている。
レイヴン「でも大きな代償を払って生者の世界へ戻る者もいる。……身体や能力の一部なんかを支払ってね。そういう契約を扱っているのがスワニルダなんだ」
スワニルダという名を言うとき彼は口を歪めた。相当彼女が嫌いなようだ。
レイヴン「でもまれに偶々リンクした他者が代償を払ってくれることもある」
僕「え? それってどういうことですか?」
レイヴン「君は何も失わずにここから帰った。それは、どうしてだと思う?」
レイヴン「思い出せ。君たちの名前が鍵になっている」
レイヴン「君もだ、グレーテル。君たちが名前を思い出せば、約束の時がくるんだ」
グレーテル「……思い出せない。頭に黒い渦があるの……思い出そうとすると余計にそれが頭の中に広がるの」
レイヴンはきっぱりと言った。
レイヴン「それは恨みと呪いだよ」
彼女は呻いた。
彼女の目のあたりからぼたぼたと、黒い泥が噴きだすように滴った。
Ⅳ.失うもの
グレーテル「……ヘンゼルのピアノを聴くの、私の学校での唯一の楽しみだった……でも、ヘンゼルはここから『戻る』ために左腕をスワニルダに渡そうとしてて、私、助けたくなって」
グレーテル「……でもその後で気付いたの。私も本当は戻りたかった!!」
レイヴン「自分で決めたことだ」
グレーテル「そうよ! だからもう、ヘンゼルを助けるって決めた自分を呪うしかないの! 呪う度に、私はもう人間じゃないんだって……」
その時、頭の中に閃光が走った。
???「こうなったのも私のせいだし、もともと死のうとしてたんだもん。私の『戻る』権利をあげる」
引き攣った笑顔で強がった彼女。
魔女は僕らを轢いた、無辜の気の毒なおばあさん。
スワニルダには僕を愛さず男を作って出て行った生母。
レイヴンは、……病苦に耐えかね自ら命を絶った、気難しかったが優しい従兄。
そんな顔を、僕は与えていた。
そして、僕のと彼女の名は、
僕「美弥……久居美弥(ひさいみや)……」
僕「これが彼女の名前だ」
僕「そして僕は、山上幸己(やまがみさいき)」
僕「これで合ってますよね!! レイヴンさん!!」
僕が叫ぶと、美弥はどろどろの顔を歪ませた。
数回、僕が口にした彼女の名を呟く……久しぶりに来た大事な服を、体になじませるように。
驚愕が、ノスタルジックな安堵に変わっていく。
僕「僕は、二年前に目を覚ました時、美弥のことを覚えてなかった……美弥の家族に土下座されても、なんのことかわからなかった」
僕「ごめん」
レイヴン「約束を思い出せたかい?」
レイヴンが静かに言った。
僕は答えた。
僕「美弥の帰るところがあるうちにもう一度ここへきて、美弥が生還を望むなら、今度は僕が彼女の命を請け出すに足るものを差し出すこと。……彼女が守ってくれた僕の腕以外で」
レイヴン「正解だ……」
レイヴンは彼らしからぬ大声を上げた。
レイヴン「全く君たちはどうしてそんな無意味な約束をしちゃったのかなあ!!」
溜め息をつき、悲しげにレイヴンが手袋の嵌った手で額を擦った。
大きな鳥の羽音がした。
すい、と空を滑って、死を運ぶ白い女が女神のように下りてきて僕の隣に優雅に立った。
レイヴンが睨んだ。
レイヴン「聞いていたのか」
スワニルダ「ええ、どこにいても聞こえるわ。それが私の役割だもの」
レイヴン「……チッ」
スワニルダ「さあ、あなたたち、二人で帰るつもりなんでしょう? 何を差し出すの?」
僕はおずおずと申し出た。
僕「あの、片足とかどうでしょう?」
スワニルダ「お話にならないわ。」
僕「じゃあ、それと片目?」
スワニルダ「足りないわ。それは今回あなたがここへ来た再訪分にしかならない。彼女を預かっていたこの二年の利息もあるし」
僕「じゃあ、両目」
スワニルダは黙っている。
僕「顔もどうかな。大してイケメンでもないけど」
スワニルダ「まだまだね」
レイヴン「このクソ白鳥が……」
スワニルダ「あなたは黙ってなさい、レイヴン」
静寂ののち、美弥の細い咽喉から震える声が漏れた。
美弥「私……もう、約束を守ってもらえると思ってなかった」
美弥「もう一度、家族みんなに会えて、あったかい本物の陽を浴びて、生きている世界に置いてもらえるなら、もう私は……」
美弥「私も顔と、目を渡すわ。……どう?」
スワニルダ「……」
僕「あと、僕の腎臓の片方とか……」
その途端、柔らかな風が、プリズムを通したような色彩感のある光と共に僕と美弥を包んだ。
もはや、美弥の顔に渦巻いていた黒いものは剥がれて散り飛び、懐かしい白い顔が現れた。
僕たちは自然に、互いの手をしっかりと握って見つめ合った
今まで見たどんな顔より、美しい、と思った。
スワニルダ「よく目に焼き付けておきなさい。もう二度と見ることのない、あなたたちの顔を」
スワニルダの声にレイヴンの声が悲しげに被さった。
レイヴン「だから僕は君たちがそんな取引をするのに反対したのに……あのとき、君が腕を、彼女が耳を素直に差し出して帰っていたらこんなことにはならなかったのに!」
レイヴン「それになんでわざわざ戻ってきて……ああ!!もう」
レイヴンが言いたかった言葉が、僕らには分かった。
――生還した一人だけでも、何もかも忘れて幸せに暮らせていたらよかったのに
僕は美弥の顔を見た。
美弥も、大きな黒い瞳で僕を見ている。
後悔なんかするもんかと思った。
レイヴン「とにかく、もう仕方がない。時間がないみたいだ! 走って!!」
僕「え? 何で急に?」
スワニルダ「グレーテルのご両親が生命維持装置を切るようだわ。丁度今日がグレーテルの誕生日で、夜の7時が誕生時刻なの。あなたが生まれた日、生まれた時刻を娘を喪った記念日にするおつもりなのね」
スワニルダ「普通は数日で外すのに、二年も命を繋いでくれたご家族に感謝することね」
スワニルダは無表情に言った。
「約束」は「帰るところがあるうちに」果たされなければ。
帰る場所とは即すなわち、彼女の魂が宿る肉体だ。
僕「ああ、今まで僕は何をしてたんだろう! もっと早く来ればよかった」
レイヴン「ぼやいている暇があったら走れ!」
僕「どっちへ?!」
我ながら間抜けな質問だった。
レイヴン「どっちでもいい! どこへ向かってもこの世界の縁へ向かっているから!」
僕「じゃあ……えっと、こっちでいい?」
僕は初めに歩いてきた道を指差した。
レイヴン「どっちに走ろうと構わない! とにかく走れ!」
僕は美弥の手を引っ掴むと走りはじめた。
もう夕暮れの光が消えかけている。
夜が来る。
夜が来たら、美弥が帰る肉体は無くなる。
そしてこの約束は御破算で、僕は親にもらった片目と片足を失っただけで帰れる。
でも、この握った手のぬくもりは永久に失われてしまう。
とにかく、僕たちは走った。
今僕たちは肉体の枷が外れ、幽体だか霊体だかになっているはずなのに、思うようにこの世界の縁へ辿りつけない。
地響きがする。
何かが崩れる不吉な音がする。
振り向く余裕はない。
走りながら横目で見ると、この世界が崩れていた。
僕たちが約束を全て果たし、戻ることが確定したあの地点から、地に足をつけて走っているこの場所、つい踵の後ろまで、大地が砕けていた。
美弥が悲鳴を上げた。
美弥「山上君、道が崩れてる!」
僕「見ちゃ駄目だ! 走れ!」
おそらく、この約束に関わる大きな出来事が現世で起こったのだ。
走れば走っただけ、背後の大地は崩れ、底なしの暗がりへ吸い込まれていく。
美弥の足が、少し縺れはじめた。
美弥「山上君、何だか……苦しくな……って」
僕「頑張れ! 生きたいんだろ?! 戻りたいんだろ?! 二年も僕を待ったんだろ?!」
美弥「はぁ……はぁ……うん……」
Ⅴ. 守り得たもの
僕たちは世界の縁へ向けて、ひたすら走った。
ふと気づくと、真っ黒い大きな烏が僕たちの上を飛んでいた。
烏が飛ぶその尾羽のあたりから後ろは、夜空が広がる。
そのカラスの前方には、未だ残照が残っていた。
空はくっきりと、金の輝きと寂滅の闇、二つの色に染め分けられていた。
まるで瞼で目を閉じていくように、ちかちかとした、真っ黒いパルスのようなものを睫毛のようにふちに纏わりつかせ、夜が光の残る空を閉じていく。
その瞼の開いている隙間に向けて、烏は僕たちを先導しているようだ。
もう言葉を交わす余裕もなく僕たちは急いだ。
大きな烏が、降りて僕たちの方を見た。
もうほとんど閉じられた瞼のほんの少しの隙間がそこにあった。
僕「あそこだ! あそこへ行けば、僕たちは……」
美弥「ごめ……もう、無理」
そう言うと、美弥は僕の手を放した。
荒い息の下、彼女は言った。
美弥「私が帰っても、きっとみんな迷惑するだけだよ……父さんも母さんも、気持ちに区切りがついたから、終わりにしようとしてる。誰ももう悲しまないよ……」
美弥「ごめんね……ごめんね。でも私が帰らなければ、山上君は失くさずに済むものが……」
僕「ここまで来て何だよ! ほんとに無駄足じゃないか!」
こういうシチュエーションでなければ、これはかなり面白いジョークになりそうだった。
美弥は空気を求めて口を開き、苦しげだった。
美弥「ごめんね、本当にごめん。だけど、私もうあそこまで走れない……苦しいの……はぁ……はぁ……息ができないの……」
僕は無言で、彼女の腕を引っ張った。
肩を支え、レイヴンの佇む場所へひたすら走った。
彼女を引きずるのがもどかしくなって、火事場の馬鹿力で肩へ担いだ。
走るという行為。
それはきっと、これで最後なのだ。
今生へ戻れば、僕は右足を失う。
こうして極色彩の世界を見ることもできない。
それでももう、よかった。
スマートさのかけらもなく喘ぎながらよろよろ進む僕たちに、世界の縁からレイヴンが手を差し伸べた。
レイヴン「さあ、こっちだ!」
僕は倒れそうになりながら、やっとの思いで彼の手を掴んだ。
思ったよりもその手は力強かった。
レイヴンは僕たちを引き寄せると、広げた片翼で僕たちを一瞬くるんだ。
僕「!!」
美弥「!!」
次の瞬間、レイヴンは思い切り腰を捻ひねってゴルフのドライバーでも振るように、僕たちを包む翼に遠心力を加えた。
空を切る音。
突然僕たちは、抱き締めあったまま支えるものが何もない、真っ白な光に満ちた虚空こくうへ投げ出されたのを感じた。
僕たちは細く狭く残されていた、狭間の世界の縁から振り飛ばされ、ゆっくり落ちていく。
その隙間から、レイヴンの顔が見えた。
何と世話の焼ける、とでも言いたげの顔つきだったがやっぱり、綺麗な男だった。
僕は思い出した。
――そういえば、カラスは太陽神の御使いだったな
そして僕たちは意識を失った。
三日後。
僕は見覚えのあるICUで目を覚ました。
目を覚ます、と言っても僕の視覚には色も光もない。
目が開いていても閉じていても、僕の知覚に差は全くない。
顔にはひどい裂傷れっしょうがあって縫合され、右足は……なかった。
父と母が悲鳴のような声を上げて僕の名を呼び、泣いていた。
僕は、どうしてだか、住んでいたマンションの踊り場から落ちたらしい。
美弥は、同じ病院で三日前の夜に生命維持装置を外されたのだが、奇跡的に自発呼吸を行いはじめ、一命を取り留めた。
美しかった顔は見る影もなくぼろぼろで、失明していた。
しかし、彼女の外観の美醜びしゅうは僕にはどうでもよかった。
どうせ、見えないのだから。
彼女も、僕の変わってしまった容姿について、そう思っていると言う。
白鳥に渡した僕の右足は、義足を装着することでなんとか杖をついて歩けるようになった。
僕たちは高校を辞め、身体障がい者特別支援学校の高等部へ入学した。
二人で学校からの同じ送迎バスに乗り、通った。
一方で、僕は両親と音楽教室のマネージャーに頭を下げ、ピアノを続けていた。
もちろん、音大受験の夢も捨ててはいない。
何年掛かっても、諦あきらめてはだめな気がした。
美弥「ねえ、幸(さい)ちゃん」
僕「何?」
美弥「私、生きててよかったのかな」
僕「まだそんなこと言う……よかったに決まってるだろ」
美弥は、自分の生還にあたり、あまりにも大きな代償を払ってしまったことにまだ恐怖し、自らを責める。
彼女の恐れや悲しみに寄り添い、何度でも彼女の迷いを宥なだめるのが僕の役目だ。
そのかわりに、僕の夢を応援し、いつでも味方になってくれることが彼女の役割。
もうあの世界について、二人で殊更に話し合うことも、人に語ることもない。
本能的に、それは禁忌のような気がするから。
今、僕は美弥の家に遊びに来ている。
弓は大型鳥類用のケージの扉を開け、優しい声であの名前を呼ぶ。
すると一羽の大きなカラスが待ちかねたようにリビングへぴょんと飛び出てくる。
美弥は手に持っていた100均の玉子蒸しパンを小さくちぎって、カラスに与えた。
カラスは行儀よく食事をした後、大人しく彼女に撫でられている。
三年前、僕たちが「戻ってきて」からしばらく経ったころ、美弥は怪我をした仔ガラスを拾った。怪我が治るまでの世話、というつもりだったが片翼の骨折がうまく接つがなかったので野生に戻せず、今に至る。
最初彼女の両親は気味悪がり厄介払いしたがっていたが、このカラスはとても人懐こくて賢く、次第に一家全員と、それから僕とで可愛がるようになっていた。
美弥「この子ね、この玉子蒸しパン好きなんだ」
懐かしそうに美弥が笑う。
僕は、あのちょっと気障きざなレイヴンが100均の玉子蒸しパンをぱくついている姿を想像し、くすっと笑った。
<終劇>