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虹とトライフル

 

 六華(ゆき)はベッドサイドの箱から二枚ティッシュを掴み出し、大量の鼻水をかんだ。
 
「あ~、そろそろ熱が下がりそうな感じがするんだけど」

 

 膿の色の混じる鼻水に苦笑しながら、ティッシュを丸めてダストボックスへぽいと投げ入れる。
 目元の桜色。そして何度も洟をかんで、赤くなった鼻。
 どう見ても解熱直前の、一番体力を消耗している時期の風邪っぴきだった。

 

「で、繋(つなぐ)、元気?」

 

 結婚を視野にいれた同棲中の繋は、二週間前、何の前触れもなく新居へ戻らなくなってしまった。六華か、六華と親しい連中からの連絡だと思われれば電話にも出ない。


「まあ普通って感じ。早く出てってくんないかなー、兄貴。すんげー迷惑なんだけど」

 

 理佳(りか)は、見舞いに持ってきたプリンを一つ、ベッドの六華に渡した。
 もう一つのパッケージをぺりりと開けて蓋のフィルムを舐めながら心底迷惑そうな口調で答える。
  離婚してそれぞれ別の家庭を構えた両親のところにはさすがに行けず、繋の行き先は妹の理佳のところしかない。
 理佳にすれば、兄は邪魔者だ。最近できたばかりの彼氏との逢瀬も、兄がいるといろいろと不都合極まりない。
 六華は食欲のわかない胃にプリンを一匙一匙流し込みながら提案してみた。

 

「繋から家賃とったら?」

 

「家賃くれたって願い下げ。あいつほんと鬱陶しいんだよー。はやく六華っちのとこに帰れって言ってもだんまりだしさ」

 繋はあまり自分の感情をあれこれ説明せずにおとなしく他人の意見に従うタイプだった。
 対照的に、妹の理佳はしゃきしゃきとした明るい娘で、六華とも物おじせず喋った。だからこうやって、風邪を引いて一人で寝込んでいれば見舞いに来るし、兄の情報を流しに来てくれる。

 

「……結婚する気はないって気はないって、今からでもそう言ってくれればいいのに」

 

「言ってくれればって……」

 

「いつになっても本音言ってくれないのは地味に悲しいんだよ」

 

 熱のある者特有のとろんとした目つきで、六華は掛布団の皺を眺めていた。

 

「しかたないよね……私ばっかりが押してばっかりでさ……強引で申し訳ないなってちょっと思ってたし」

 

「申し訳なくないって! こんくらい押さないとあいつほっといたら死ぬまで結婚できないよ! なに|六華っちまで弱気になってんの? もう式の案内状も出しちゃってるのに」

 

 理佳は兄嫁候補の寝ている布団を軽く叩いた。
 六華はこんな体調を押して髪を梳き、さすがにメイクまではしていないが眉毛を整えている。
 婚約者がいつ帰ってきても可愛く見られたいのだろう。
 生活の端々にあるオンナオンナしたところが繋に窮屈さを感じさせているとは六華は気付かない。
 理佳も、どう見ても高嶺の花である六華に歩み寄れない兄が理解できなかった。
 
「…………ほんと、うちの兄貴があんなやつで、ごめんね」

 

「理佳ちゃんは謝ることないよ」

 

「ほんとにあいつのどこがいいんだか」

 

 六華は、叔父の紹介で繋と知り合った。彼は叔父の部下だった。
 初めて叔父に繋を紹介された日のことだ。
 六華は約束の時刻に5分ほど早く、叔父から指定された喫茶店へやってきた。ドアに手をかけようとして、彼女は道端でぼんやり空を見ているくたびれたスーツ姿の男に目を留めた。

 

――何見てるんだろう、この人

 

 何となく視線を追ってみると、ビルの隙間の狭い空に、消えかけた虹があった。

 その一瞬、六華は雑踏のざわめきが消えたように思った。

 

――虹見るのって何年振りかな

 

 空に一刷毛塗られた弧形には誰も気付いていない。
 その男と自分だけが気付いて、この光の魔法を眺めている。
 六華は小さな幸福を共有した彼に温かな親しみを覚えた。
 
 ややあって、虹は消えていき、向こうに叔父の姿が見えた。夢から醒めたように六華は自分の置かれた状況を思いだし、男を少し名残惜しく眺めた後喫茶店に入った。
 遅れてごめん、と言いながら叔父がまるで連行するように腕を掴んで連れてきたのは、その虹の男だった。
 六華は開口一番、浮き立つ口調でこう言った。

 

「虹、きれいでしたね」

 

 それが、独りで空を眺めていたつもりの繋にあまりいい印象を与えなかったことにも気づかずに。

 とりあえず、六華は今目の前にいる理佳の質問に答えた。

「どこって考えるとわかんないんだけど、ただ、繋と一緒にぼけぇっとしてると、なんかいいんだよね……落ち着くんだよ」

 

 特に何を語らうというわけでも、するというわけでもなく、空間と時間を分かち合っているだけののんびりさ。
 今まで味わったことのない、なのに懐かしい香りのする、不思議な依存性のある心地よさ。
 しかしそれは六華が一方的に感じていたものであって、気の弱い繋にはその沈黙が苦痛だったのかもしれない。

 六華は暑さを覚え、夜着の上に羽織っていたパーカーを脱いだ。

 

「薬、飲んだ?」

 

「うん、さっきね」

 

「もう寝た方がいいよ。見送らなくていいから」

 

「うん、ごめんね」

「じゃあ、おやすみ。お大事にね」

 

「うん、またね」

 

 理佳は帰って行った。
 自分を置いて親しい相手が出て行ったあとは寂しい余韻があるものだ。
 寝具に、六華は顔が半ば隠れるまで潜り込んだ。
 熱感を持った鼻腔が、空気を通すたびにひりつき、生クリームたっぷりのプリンが胃にもたれている。
 頸動脈を冷やしていたアイスパックももうとっくの昔に溶けて、首元でぬるくぐにゃぐにゃしている。

 

――あーあ
――なんかいろいろ、もうだめだな

 

 もう、何をする気力も起きない。六華はぬるいアイスパックをおざなりに首の横に置いた。

 

――なんか、聞き分けのいい女みたいなこと言っちゃってさ
――馬鹿だな、私

――繋のとこに乗り込んで、泣きわめいて、暴れたいな

 

 六華がうとうととしていると、ふと首から圧迫感が消えた。
 目を動かすのも大儀だ。薄く瞼を開けるとペンシルストライプのシャツの袖を肘までまくり上げた腕が目に入った。
 その大きな手が、人肌に温まりきったアイスパックを掴んでいる。さっきまで六華の首に巻きつけてあったものだ。
 狭い視野に、ベッドの隅にごく僅かに腰を預けて座っている男が見えた。
 レースカーテンを透かした光が彼を薄く照らしている。
 男は落ち着かない様子で溜息をついた。何やらパッケージを足元の袋から取り出してひとしきり読んで、そこから取り出したカンファーの匂いがする冷却パックをハンカチに包んで六華の首の脇に置いた。
 繋は小さく低く言った。

 

「起きてる?」

 

「…………」

 

 返事をすると、この場にふわりとかかった靄のような雰囲気が消えてしまうような気がして、六華は黙っていた。
 しばしの沈黙の後、繋は少し荒れた、長い指の六華の額に触れた。
 熱の籠る肌に、その手は快かった。
 繋の手はそのまま、触れるか触れないかの幽けさで頭を撫でる。
 病熱を溜めこんだ体中の血が、静かに流れ出すような感覚が心地よい。
 温かい波が寄せては返すように何度も撫でる手に、これは夢かもしれないな、と六華は思った。

 

「……早く良くなって」

 

 小さく優しく言われ、これが夢だということが六華の中で確定した。
 いつも繋が自分へ向けて発する大人しげな言葉は、どこか情の薄さを感じさせた。
 でも今は、何となく温かい。

 しばらく撫でた後、繋は立ち上がり、足元の紙袋を掴んだ。
 寝室から出ようとするその背に、ふわふわと現実感を持たないまま六華は声をかけてみた。

 

「ありがとう」

 

 繋はびくっと振り向き、六華がぼんやりとこっちを見つめているのに気が付いた。
 まずいところを見つかった、とでもいうように繋は口をへの字にし、指を拳に握りこむ。

 

「……起きてたんだ」

 

「起きてないよ、多分」

 

「……え?」

 

「……夢だよきっと」

 

「夢……?」

 

「繋は絶対自分から私に触ったり撫でたりしないもん」

 

「……そうだね」


 夢だったら、言いたいことを言ってしまおうと思った。
 夢の中なら風邪だって伝染しない。小心なくせに頑固なこの婚約者も、怯えたり気味悪がったりしないに違いない。

 

――何しろ、この繋は私の妄想なんだから。

 

「ねえ、ここに座って」

 

 腕を布団の中から抜き出して、掌でぽんぽんとベッドの縁を叩いて見せると、繋は素直にやって来てもう一度そこへ座った。
 普段の彼なら、しり込みし、眉間に皺をちくっと寄せるはずだ。
 やはり、夢の中はいいものだ。

 

「おかえり」

 

「…………」

 

 繋は、ただいまとは言わず、ひどく居心地悪そうな顔をした。

 

「元気だった?」

 

「うん」

 

「私は元気じゃないよ」

 

「風邪だってね。理佳から聞いたよ」

「ついさっき理佳ちゃんがお見舞いに来てくれたよ」

 

「そうなんだ」

 

 繋が出ていく前の、少しぎこちなかった穏やかな日々を思いだし、六華は重たい瞼を閉じてゆっくり微笑した。

 

「繋が帰ってきてくれてよかった」

 

 ところが繋は小さく、言い訳するように言った。

 

「いや、……僕もう帰るから」

 

 自分の夢の中のはずなのに、そう自分に都合よくは運ばない。
 それはきっと、自分でもうまくいくわけがないとどこかで思っていたからだろう。
 彼が「帰る」という言葉を、ここ以外の場所に使うのが彼女にはつらかった。
 黙っているこの一瞬一瞬に、ふわふわとこの場を柔らかく包んでいた優しい靄が剥げ落ちていく。

 

「ねえ、一つ聞いていい?」

 

「…………」

 

「結婚したくないって思ってるんでしょ?」


 繋は目を伏せた。
 
――やっぱりね

 

 六華は浅く溜息をついた。

 

「それならそれで、はっきり言えばいいのに」

 

「どうしても、六華と一生一緒にいるとか、家族になるっていうイメージが持てないんだ……」

 

「……そう」

 

「ごめん、具合の悪いときに」

 

「謝らなくていいよ」

 

 六華は、何でもないことだとでも言うように、小さく笑った。

 

「ふふっ、なるようにしかならないよね、こういうことってさ」

 

「ごめん」

 

「あーあ、私は繋のこと大好きなのに。残念だな」

 

 熱に浮かされた力のない声で茶化す。
 沈鬱な面持ちで繋は謝った。

 

「ごめん」

 

「こうやってお見舞いに来てもらうと、期待しちゃうじゃない」

 

「……ごめん」

 

 布団の上の男の手に、六華はそっと触れた。
 その熱さに、繋は怯んだ。

 

「こっちこそごめんね。繋、無理してたよね」

 

 言いながら、六華はこのまま死にたくなっていた。

 

――どうして私って、こういうかっこつけちゃうんだろう

 

 いつもウィットに富んだ会話で繋に劣等感をチクチクと植えつけて来る六華が、白昼夢を見ているような目にみるみる涙を溜める。
 それが零れるのを見たくなくて、繋はおびえた表情で顔を背けた。

 

「御見舞いにプリン買ってきた。冷蔵庫に入れとくから、あとで食べて」

 

 繋はそっと、重なった六華の手の下から自分の手を抜き取った。

 

「……じゃあ」

 

 繋は再度立ち上がり、今度こそ小さな寝室のドアを開け、出て行った。
 閉めたドアの向こうから立て続けに洟をかむ音が聞こえたが、六華がベッドから出て追って来ようとする気配はなかった。

 

 繋は静かなリビングをキッチンへ向かって横切った。
 窓の外、遠くで誰かが笑っているのが聞こえる。
 楽しそうで結構だ、と繋は思った。

 キッチンの端にある冷蔵庫を開けると冷気がひんやりと流れ出してくる。
 そこへ買ってきたプリンを詰め込もうとして、繋の手が止まった。
 そこにはどう見ても自分が買ってきたものよりも高価そうな、高級洋菓子店のシールが貼られたプリンが二つ並んでいる。先ほど六華を見舞いに来たという妹が買ってきたものかもしれない。
 この推測が正しければ、六華に兄妹そろってどれだけプリンが好きなのかと思われたに違いない。
 とりあえずそのプリンの脇に、自分が持ってきたアルミカップのプリンを置き、ふと彼は冷蔵庫の中身を眺めた。

 

――これは……

 

 そこには保存容器がぎっしり詰まっている。
 サーモンマリネやローストビーフが透けて見える。
 丸く揚げた小さなボールは、きっとコロッケに違いない。
 他にもいろいろ、食べきれないくらい保存されている。
 ここを出る前、冷蔵庫の中身はこんな状態ではなかった。

 六華はあまり作り置きをしない主義だったはずだ。
 
 しかし今となってはどうでもいいことだった。彼は小さな扉を静かに閉めた。

 ところがその一瞬、保存容器の奥に、何かが見えた気がした。

 それが妙に見覚えのあるようで、どこか引っ掛かる。
 それは自分にとってあまり良くないようなことにも思えたが、何かが「見ておけ」と胸の奥で囁く。
 しばらく冷蔵庫の白い扉を見つめ、逡巡の後、もう一度繋はそこを開けてみた。

 彼はパズルでもやるように保存容器の置き場をあちこち替えて、冷蔵庫の奥にあったものを目の前に引っ張りだした。

 それは大きなガラスの蓋付きキャセロールだった。
 シンプルなデザインで、よく六華がレンジ蒸しなどを作るときに使っていたものだ。
 その中には大きなトライフルが冷えている。
 上から、白いフレッシュクリームの層、様々なベリーがたくさん入った真紅のリキュールジュレの層、バニラの粒がちりばめられたカスタードの層、シェリーを染みこませたジェノワーズの層。
 
――あ

 

 やっと彼は思い出した。
 これは繋が少し前に「こういうのを子どもの頃食べた」とチラシの裏に落書きしたものだ。
 あのとき、繋の手もとを覗きこんで六華が言った。

 

「おいしそう! トライフルだね」

 

「……トライフルって言うんだ、これ」

 

「うん。ロンドンの、えーっとねえ……名前は忘れたんだけどどっかのデパートで売ってるやつに似てるよ」

 

 六華はさらっとそういうことを口にする。繋はそのたび、心におろし金を当てられたような感じを覚える。その傷口に、レコード針でも置いたら、きっとスピーカーは「こんな女とうまくいきっこない」と歌いだすに違いない。
 遊び慣れて旅慣れて、自分に金をかけて上質なものを知っている女には萎縮してしまう。
 飲みたくもないビールを飲まされて、アルコールに弱い繋はいつになく饒舌だった。

 

「子どもの頃、家族でたまに行ってたレストランのデザートだよ。小さなグラスで出てくるんだけど、一度でいいから丼一杯くらい食べてみたいと思ってた」

 

昔、まだ家族とは強いつながりで結ばれたものであり離ればなれになるなどとは思っても見なかった頃の話だ。ロンドンのデパートがどうとかは関係がない。

 

「ふーん……今度一緒に行こうよ」

 

「その店、もうないんだ」

 

「んー……」

 

 喋りすぎた、と繋は思った。六華にはこのノスタルジーがきっとわからないだろう。
 ふと六華は掌を上に向けて彼に差し出した。

 

「そのメモ、もらっていい?」

 

 そのとき六華に渡した落書きがどうなったか繋は気にも留めなかった。
 それが、こういうことになっていたとは。


 誰かが食べた形跡はなく、少し傷み始めているようだ。
 ビニール袋に入った派手なHAPPY BIRTHDAYのロゴキャンドルが、キャセロールの蓋の上に可愛らしいヒヨコ柄のマスキングテープで貼りつけられていた。

 

――そういえば、僕の誕生日、先週だったな……

 

 そのとき、繋の中で何かがぱきんと音を立てた。
 パズルのピースが、イメージの狭い間隙にきれいに嵌ったような気がした。

 

 何の変哲もない冷蔵庫の前で、彼は膝をついた。
 暗くなり始めたキッチンで、庫内照明が祈りの祠の燈明のように彼の顔を照らした。


 暗い部屋で、六華は汗まみれで目を覚ました。
 自然解熱に伴う発汗のようだ。
 寒気はするが、意識は先ほどとうって変わってしゃっきりしている。
 カーテンの隙間から、暗い空に無数に輝く星が見えた。

 シャワーを浴びて着替えたいがまずは熱を測ろう。
 枕元に置いていた体温計を手にとろうと体を起こすと、ベッドの端に大きな、真黒い影が佇んでいるのに気付いた。
 手にとった体温計が、かたんと床の上に落ちた。

 

「え? 繋?」

 

「気分は?」

 

 繋はナイトテーブルの小さな灯りを点け、体温計を拾うと、幾分体調が回復したように見える六華に渡した。

 

「……あ、ああ……だいぶいいみたい」

 

 また夢のやり直しだろうか。
 さっき見た、にせものの夢にはまったく寂しい気持ちにさせられた。
 繋は黙って六華を見ている。
 六華の脇の下で体温計が鳴った。

 

「何度?」

 

「36.8度。やっと熱が下がったよ」

 

 六華は汗に濡れたうなじのあたりの髪を掻き上げた。

 

「ああ、もう汗びっしょり」

 

「大丈夫?」

 

「うん。私、丈夫だし」

 

 六華は、ベッドから抜け出すと、衣類を入れたキャビネットの前にしゃがみ込み、着替えを用意し始めた。

 

「ねえ、さっきさあ」

 

「うん」

 

「繋にこっぴどくフラれたような気がするんだけど、何でまだここにいるの」

 

「いや、うん……」

 

 繋はもぞもぞと言葉を探している。

 

「六華、一つ訊いてもいい?」

「いいよ。二つでも三つでも」

 

「冷蔵庫に入ってるトライフル、食べてもいい?」

 

「見たんだ」

 

「うん」

 

「繋の描いたのそっくりにできてるでしょ?」

 

「うん。びっくりした」

 

「おかずもいっぱい作ってたんだよ」

 

「うん、それも食べる」

 

「でももう一週間くらい経つから、傷んでるかもしれないし、やめといたら?」

 

「せっかく作ったのに」

 

「見てもらえただけで、もういいんだ」

 

 繋はいつものようにちょっと困ったような顔をし、六華は寂しい目でにこっとしてみせた。

 

「質問は終り?」

 

「いやもうちょっと」

 

「じゃあどうぞ」

 

 六華がやつれた笑顔で促す。
 繋は尻すぼみな口調で、以前にも幾度となく訊いたことをまたぶつけてきた。

 

「……六華は僕のどこがいいの?」

 

 六華はあっさりと言った。

 

「言ったでしょ。よくわかんないけどこの人は私にぴったりなんだって感じるって」

 

 繋の目を、和やかに六華の目が見つめた。

「だけど、好きだから同じだけ相手も好いてくれる、なんて世の中都合よくできてないよね。繋は、繋の好きなようにしたらいいよ」

 

「……好きなように……」

 

「うん。嫌なこと我慢してると、身体に悪いよ」

 

――嫌だ、私何言ってんの? 馬鹿じゃないの?
――好いてよ!
――私を好きになってよ!! 

 

 そんな自分の中の騒がしさを飲み下し、ぽんと六華は繋の肩を叩いた。

 

「もうすっきりしようよ、ね? 辰叔父さんには私が悪かったように言っとくから。案内状のことも……」

 

 その途端、六華は小さく悲鳴を上げた。

 

――あ。

 

 背中に固い壁が当たった。
 腰と壁、首と壁の狭い隙間に力強い腕がしっかりと回されていた。
 六華の身体は、壁と繋の身体にぴったりと挟まれている。
 うなじに男の息がかかり、唇の柔らかさと歯の固さが耳朶にそっと触れた。

「あの……繋、……私まだ風邪の菌撒き散らしてると思う」

 

「……うん」

 

「風邪伝染っちゃうよ」

 

「うん」

 

「一昨日から風呂入ってないし汗臭いし」

 

「いいから、ちょっと聞いて」

 

 ぐいっと甘えるように、繋は六華の頭に頬ずりした。
 一息置くと彼は低く、唸るように言った。

 

「僕はものすごく優柔不断で、自信がなくて、人がこわいんだ」

 

「うん、知ってる」

 

「一生懸命、人前でも平気な自分っていうのを装ってる」

 

「わかってる」

 

 何でもわかっているという六華が、繋はもどかしかった。

 

「もうどうしたらいいかわからないんだよ」

 

 六華は自分を抱き締めている繋の顔を見ようとしたが、頬を寄せられてうなじと側頭部しか見えない。
 

「こんな僕が結婚して誰かとずっといるなんて無理だよ。特に六華みたいな、いろんな人とつきあったことがあって、誰にでも好かれるタイプとは」

 

 悲しげな声だった。

 

「絶対愛想つかされる。絶対嫌いになるよ。もう目に見えてる」

 

「絶対って言葉、使わないで」

 

「……だって……」

 

 泣き虫毛虫なことを言い綴っているくせにその腕は緩まなかった。
 辛うじて隙間を見つけ、六華は腕を上へ伸ばし、男の短い髪を撫でた。

 

「大丈夫。そういうのひっくるめて好きっていう女もここにいるんだよ」

 

 六華は頭の重みを繋の胸に預けた。

 

「繋、初めてだよね。本当のこと言ってくれたの」

 

「うん」

 

「私のこと好き? ほんとのこと言って」

 

「……」

 

「怒らないし、泣かないから」

 

「こわい……」

 

「こわいの?」

 

「大好きだからこわいんだよ」

 

 半泣きで、怖い、怖いと繰り返す男と、病み上がりの女はしばらくただ黙ってお互いを抱き締めていた。


 三日後、六華はリビングのこたつでみかんを剥いていた。
 その向かいでは、繋が体調を崩し上瞼が半分しか上がらない状態でのびている。
 彼はマスクを下ろしずびずびと洟をかんだ。

「ねえ……ベッドで寝てたら?」

「鼻が詰まって眠れないんだ」

 

 風邪で傷んだ声帯でそう言いながら、繋は鼻腔にスプレータイプの点鼻薬を注す。
 その繋の顔を六華は楽しそうに頬杖をついて見ていた。
 繋はまたマスクで口鼻を覆いながら訊ねた。

 

「何見てるの」

 

「しゅってやるとき、繋がいちいちビクッてするのが面白い」

 

「だって感覚器の中で何かがぶしゅって出てきたらびくってするもんじゃない?」

 

「ああ、するね。声出ちゃうときもあるね」

 

「六華ってほんとに下ネタ好きだよね」

 

「あなたもね」

 

「僕は……そんな……」


 詰りかけて、繋が大きなくしゃみをした。
 さらにもう一回、と身体をわななかせたが空振りに終わり、生理的緊張が解けた安堵なのか照れ隠しなのか、うーと犬のように小さく唸る。
 可愛いなあと六華は思った。

 

「ああ、そうだ。今度の週末、時間ある?」

 

「土曜日のドレス合わせが終われば、予定はないよ」

 

「あのさ、僕が子どもの頃家族で行ってたレストランって、オーナーが高齢で店畳んじゃってたんだけど」

 

「ああ、トライフルの店ね」

 

「うん。調べてみたら、そこの息子さんが店の名前を継いで、別のところでやってるらしいんだ。ここから高速使って二時間くらいのとこで」

 

「じゃあ昔のメニューもやってるの?」

 

「うん、復刻してるって」

 

 子どもだった頃、両親と小さな妹と一緒にはしゃいで歩いた道。
 幼い目には街路樹がはるか高く聳え、店の前の花壇で陽を浴びて慎ましく咲く花が豪奢に見えた。
 ドアを開けた途端に身体を包む、色んなソースやバターや、コーヒーの匂い。
 華やかさはないが小ざっぱりとした店での、温かい語らいと笑い声。
 そんな思い出を傷つけることになるかもしれないという小さな不安を押し殺し、繋は六華に言った。

 

「一緒に行こうよ」

 

 美化され過ぎた記憶が傷ついてがっかりしたとしても、それはそれでいい。
 六華と一緒に思い出を覗きに行けば、繋は自分自身の新しい道を素直に歩み始められそうな気がしていた。

 

「うん、世界で一番おいしいトライフル、食べに行こう!」

 

「世界で一番じゃないよ……思い出補正がだいぶ入ってるだろうし」

 

「興ざめなこと言わないの、もう!」

 

 こうやって何かにつけ自分が傷つかないよう身構える繋を、六華は明るく引っ張っていく。
 それに身を任せていれば、きっとみんなうまくいくのだ。

 

「それにさ、昔通り美味しかったとしても」

 

 ちょっと言葉を切り、照れを隠すように繋はほんの少し目を伏せて六華の前にあるみかんを一つ手に取ると、剥きはじめた。

 

「今はもう世界で二番目だよ」

 

   

 

         <了>
 

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