そうめん
仕事を辞めた。 次の仕事に就くあてはない。
この島へ、私は船でやってきた。
退職記念旅行というか、破れかぶれの一人旅だ。
軽い船酔いを感じながら、陸へ上がる。
向こうの波止には釣り人 と、上がっては飛び込み、を繰り返している日焼けした子どもたち が見える。
波がたぷたぷと防舷ぼうげんのタイヤを叩く音を聴きながら、旅行かばんを引っ張って民宿まで歩くことにする。
ふと、だしのいい匂いが流れてきた。匂いをたどると、港の脇に 小さな一膳飯屋に行きつく。
さっそく、一息つこうと入ってみる。
お昼どきはとっくに過ぎて、客は私だけだった。
店に入ると、品のいい女性がにっこりと微笑んだ。ここの店主らしい。私より少し年上のようだ。厨房は暑くてたまらないだろうに、野葡萄を染めた夏きものに白いエプロンと襷をつけている。
「いらっしゃい」
店主が麦茶を出してくれた。
茶を飲みながら、何を頼むか考える。宿の夕食を思えば、今重いものを食べるのは気が引ける。私は壁の古ぼけたお品書きの札を見 た。丼物や定食、うどんなどの麺ものが並んでいる。そして、一番 端っこにおあつらえ向きのひと品を見つけた。
「そうめん、お願いします」
しばらくすると古いデザインのガラス鉢の中、氷水に泳がせたそうめんが運ばれてきた。きゅうりの薄切りとプチトマトもぷかぷか浮いている。だしは揃いのガラスの小鉢に張られ、薬味皿にはねぎ と生姜、ミョウガとしそがついていた。ごくごく当たり前のそうめんだ。
さっそく口に運ぶ。
いいそうめんを使っているようで口当たりも味も良い。
茹で加減も、出汁の味も上々。
狭い店内で、独りきりでそうめんを啜る音はよく響いた。カウンターの向こうにいる店主が私に声をかける。
「おいしいでしょ。おそうめんには自信があるの」
「おいしいです」
「よかった。おそうめんを頼む人って少ないのよ。地元の人はみんな自分の家で食べるから」
「たしかに、外食でそうめんって食べたことありませんでした」
店主はにこ、とほほ笑んだ。寂し気な華がふっとこぼれた。
「私、おそうめん好きなの。冷たいのも温かいにゅうめんも。売れないけど、こうやってたまに頼んでくださる人がいると、うれしいわ」
――ああ、そうだ……。
そういう気持ちを、私はすっかり忘れていた。
好きで、楽しんでやれていた仕事が、いつの間にか、数字がすべてになっていた。
数字を追って、人を人と思えなくなっていた……私も、私のまわりの人々も。
遠くから汽笛が聞こえた。 白い入道雲と真っ青な空と海。
かもめが鳴いている。
来てよかった、という思いがじわじわと身に沁みてくる。 オフィスの閉鎖空間が遠い世界のことのように思えてきた。
――何やってたんだろう。
――私は、本当に、何をやってたんだろう。
そうめんを啜りながら、私は涙が出そうになった。
*了*