ひかれる
ある日の午後、彼女はやってきた。
名前も知らないその人に、私はひと目で惹かれてしまった。
私は交通事故に遭って入院中だった。足が折れているわ、腱が剥離しているわ、まことについていない。
車はすぐに走り去ってしまい、まだ捕まってはいない。無論、運転していた人間の顔なんか見ているはずもない。
ここは2人用の病室で、今のところは隣のベッドは空だ。これまで私はいつでも一人だったし、ここでも一人なのだ。
面会時間には周りの病室から患者と見舞客のやり取りが賑やかに聞こえる。
恋人同士のイチャコラや、親や奥さん、小さな子どもの声。
彼らが持ち込んだリンゴのウサギが駆け、丹精込めた手作りの牡丹餅が花開き、好きだった雑誌が世界を伝える。
その中でこの部屋だけ、切り取ったように静かで、白けていた。
その白い空間へ、彼女は決然とした表情を浮かべて入ってきた。
知らない顔だ。
特段美人でもないのだが、とても誠実そうで、優しそうで、やつれている。
彼女は花束と、高級果物の詰め合わせと白い封筒を私に渡すなり、呆気にとられる私のベッドの脇の床に土下座した。
「逃げてしまってすみませんでした。どうか、示談にしていただけませんでしょうか。これが今お支払いできるぎりぎりの額で……こんな金額で許していただけるなんて思っていません。でも、うちは母子家庭で……子どもは、まだ三歳なんです……私が働けなくなったらうちの子は……」
私は、彼女に今惹かれただけでなく、五日前に轢かれてもいたらしい。
彼女ははらはらと涙を流している。我が子への愛と良心の呵責にさいなまれた五日間だったのだろう、目の下には黒いくまがあった。
出会ったばかりで、さらに私は被害者、この人は加害者。それなのに、この人には心を預けられる気がした。下世話な話だが、病院での禁欲生活が関係しているのかもしれない。
私は言ってみた。
「示談に条件をつけたいんですが、いいですか?」
「……」
「私は天涯孤独で、お見舞いに来てくれる人もいないんです。他の人の家族や友人がお見舞いに来てるのを見ると、なんだか世界から取り残されてるみたいな気分になるんですよ」
サイドテーブルのボールペンをとって、連絡先を書いて渡した。
「こうして病室にいると人の声が聴きたくてたまらなくなるんです。だから、お子さんを連れて時々お見舞いに来てください」
――完