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薔薇の木の物語

 昔々、ある国に崩れかけた古い塔がありました。

 王様の住む城を塀が取り巻き、その周りにある街をもう一重の塀で囲んで、固く守ったその外、貧しい農民たちが住んでいる村にその塔は立っています。

 昼なお薄暗く、鳥も声を潜めるような気味の悪い塔です。大げさな鉄柵に風が当たる音はまるで女の人の悲鳴のようです。ぼろぼろでぐらぐらで、もちろん誰も寄り付きません。

 

 その塔の近くに、一人の女の子が住んでいました。両親はとうに死に、可愛がってくれたお祖母さんも最近亡くなって女の子は独りぼっちです。糸紡ぎをしたり、村人たちの畑仕事を手伝ったりして暮らしています。

 女の子は塔をあまり怖いとは思っていません。こっそり忍び込んで遊んでいます。

 女の子のお気に入りは、塔のてっぺんに開いた窓の真下に干からびていた棘だらけの木でした。辛うじて芽がついているのを見つけて、まるでお人形におもちゃの食事を与えるのと同じような気持で水をあげ、木の枝や藁の屑で地面を覆い、根を守りました。

 枯れかけていた木は数日のうちに芽を綻ばせました。みるみる葉を広げ枝を伸ばし、ひと月も経つと臙脂色の小さな蕾をつけました。

 その木は、薔薇だったのです。

 

 薔薇の木に蕾がついた頃から、その庭に痩せこけて青ざめた顔をした女の人が現れるようになりました。

 重そうな、たくさんひだや縁飾りや刺繍の付いたドレスを着て、真っ青な顔に血で塗ったような暗い赤の唇が不気味です。

 はじめて現れたときは、いつの間にか近くにいました。女の子はとても怖くて逃げだそうとしたのですが、女の人はその手を取り、薔薇の世話でいつもどこかしら傷ついている指を撫でてにっこりしました。

 だから怖くなくなって、女の子はまた薔薇の世話をするようになり、女の人はただそのそばに佇むようになりました。

 最初の薔薇の花が開いたとき、女の人は初めて言葉を口にしました。

 

「お願いがあるのだけど、聞いてもらえないかしら」

 

 女の子はびっくりして持っていた柄杓ひしゃくを取り落としてしまいましたが、女の人の目が優しそうなのを見てこくこくと頷きました。

 

「この花を嗅いでみて、どんな匂いがするか、教えてちょうだい」

 

「あなたは誰」

 

「わたしは薔薇の木よ」

 

 女の子が、指差された花の匂いを嗅ぐと、薔薇のいい香りに混じって、鎌を研いでいるときのような、刃物の匂いがしました。

 それを正直に言うと、そのように感じる娘を探していたのだと、女の人は嬉しそうに言いました。

 

 それから、薔薇の木は、女の子にいろんなことを教えました。読み書き、歌、ダンス、礼儀作法、身の飾り方、世の中や人の心の仕組みなどなど。

 女の子は薔薇の木とのひとときが大好きでした。まるでお母さんと一緒にいるような気持ちになれたのです。

 幾年も経つうち薔薇の木は枝を伸ばして大きくなりました。まるで人を飲み込む大波のようにうねり、黒く見えるほどに深い血の色の花がたくさん咲きました。そして花が一つ咲くたびに、薔薇の木だと名乗る女の人は少しずつ血色よく、美しくなりました。

 女の子も、薔薇の木以外の誰にも目を留められないまま優しく賢い娘に育ち、恋や結婚を考えてもよい年齢になりました。

 

 ある日、街にお触れが出ました。

 若い王様が、お后を探すために舞踏会を開くというのです。

 周りの国々の姫や貴族の令嬢だけでなく、街じゅうの娘たちが、お招よばれしているのです。

 その話は、壁の外の村まで伝わってきました。

 娘がその話をすると、薔薇の木は嬉しそうににっこりしました。

 

「おまえは、この舞踏会に行くのよ」

 

「無理よ。私は街の娘じゃないもの。それに、王様はきれいな娘を漁りたいだけで、本当はお隣の国のお姫様がお后様に決まってるって聞いたわ」

 

「そんなことは気にしなくていいわ」

 

 舞踏会の日、娘は薔薇の木の言いつけどおり、塔へ行きました。

 薔薇の木は美しい繻子しゅすのドレスをどこかから出してきて娘に着せ、刺繍のある靴を履かせました。

 そして、ふんだんに自分の花を摘みとって、娘のドレスや髪に飾りつけました。

 娘は、王侯貴族や豪商の娘たちが金銀宝石を身につけてくる中、田舎娘の自分は絶対に場違いだろう、と思うと、嫌でたまりませんでした。おまけにこの薔薇は、娘にはちょっと腥く感じられるのです。

 

「ねえ、私、どうしても行かなきゃだめなの?」

 

「ええ」

 

 薔薇の木はすげなく答え、身支度を終えた娘をしっかりと抱きしめました。

 

「さあいいわ、行きましょう」

 

 二、三回、頭の上で風が鳴った後に薔薇の木が腕をほどくと、不思議なことにそこはもう王様のお城の大広間で、舞踏会が始まっていました。びっくりして立ちすくむ娘に、わたしが教えてきたことを忘れずに、と言うなり、薔薇の木は消えてしまいました。

 目に入るものすべて、目が眩むように美しく、豪奢ごうしゃできらきらしています。当代きっての音楽家たちが緩やかに舞曲を奏で、高貴な姫君たちの到着を告げる従者たちの声が聞こえます。

 しばらくして周囲を見回せるだけの余裕が出ると、娘は一つのことに気が付きました。

 王族の人々は皆、顔がそっくりなのです。

 それはこの国の王族だけではなく、隣や、その隣の国々の王族の人々もでした。いろんな国々の王族との結婚が昔から頻繁に行われていたので、血がつながっているのですから似ていてもおかしくはありません。皆それぞれ美しい方々なのですが、娘は、すこし気味悪く思いました。 

 薔薇の木は、舞踏会に行けとは言いましたが、そこで何かをしろとは言いませんでしたから、娘は帰ることにし、踵を返しました。

 そのときです。

 どん、と誰かにぶつかって転んでしまいました。

 それは、こともあろうか、きれいなお嬢さんに囲まれて上機嫌の王様でした。

 

「申し訳ございません! お許しくださいませ」

 

 王様は畏れ多くて縮こまってしまっている娘を助け起こすと、その顔を見て胸騒ぎを覚えました。

 美しい娘たちなんて、これまでたくさん見てきたのですが、この娘は美しいというのとは違いました。かといって醜くもないのです。しかし、見ているだけで清らかで魂が吸い込まれるような、柔らかな風に包まれているような気持ちになるのです。どのお嬢さんも競うように高価な香水をつけていますが、この娘からはすべてを洗い流すような、甘く気高い薔薇の香りがします。

 王様は急に頭がくらくらしてきました。

 自分がすごくバカバカしいことに囲まれて暮らしているような気がしてきました。

 自分が王様でもなんでもなく、ただの人になってしまったような、心許ないけれど何かから解き放たれたような気がしました。

 王様は、少し怖くなり、この薔薇の香りのせいだろうと思いました。怖くなったのと同じだけ心惹かれながらも、娘に舞踏会を楽しんでいくように言った後、王様は他の姫君たちのもとへいそいそと逃げて行きました。

 娘は死刑になるかもしれないと震えていましたが、王様が思ったよりもあっさりと向こうへ行ってくれたのでほっとして、大広間の出口へ向かいました。

 しかし、娘のつけている薔薇の残り香はいつまでも大広間へ漂い、拡がり、多くの人々の何かを呼び覚ましました。

 

 噴水の見事な庭を少し眺めてから、娘が門へ向かおうとすると、急に後ろから誰かが腕をつかみました。

 娘は青ざめました。

 それは、あの王様だったのです。

 娘は震え上がりました。

 王様は少し様子がおかしいのです。

 何かに酔ったように、目の焦点が合わず、何かぶつぶつ言っています。

 ついさっきまで、立派そうな王様だったのに、どうしたことでしょう。

 王様は娘を引きずるように大広間に連れ戻すと、みんなの前でこう言いました。

 

「余はこの娘を后とする」

 

 娘はびっくりのし通しです。

 こんなことが許されるわけはありません。

 戦争を避け、国が豊かになるためには、他国の王族をお后にすることが必要なのです。

 絶対に王様を諫める声が出るはずだと娘は思いました。

 ところが、王様を諫めるどころか、万雷のような拍手と万歳の声が起こりました。しかもその声を最初に上げ始めたのは、この国の王様とよく似た顔をした、すべての国の王族たちなのです。

 娘は、そこにいる人たちが、王様のように目の光を失い、人形のようになっているのを見ました。

 

「陛下、私は下賎の身、お后様になるわけにはまいりません! 皆様、私はただの田舎娘で、お后様になるなどとんでもございません!」

 

 娘は何度も言ったのですが、誰の耳にも入りません。

 あれよあれよといううちに、娘は城から帰してもらえなくなってしまいました。

 

 王様はなぜ自分があの舞踏会でこの娘を選んだのかわかりませんでしたが、娘と話すうち、生まれて初めてただ一人の人間としてこの娘を愛するようになりました。

 周りの人々もなぜ我がことのように喜ばしく感じたのか不思議でした。しかし、なぜだかそれが最良のことに思えて、皆それぞれ、神の思し召しだと思うことにしました。

 しかし、それで収まらないのは娘のほうです。毎日王様に愛の言葉を囁かれ、降るように首飾りや髪飾りを贈られます。花嫁衣装を縫われ、着々と結婚式の準備は進んでいきます。

 とうとう娘は言いました。

 

「陛下、どうか一度、私を帰してくださいませ」

 

「では、余も一緒に行こう」

 

 王様は、娘が自分の王位にも宝石にも心を動かされていないことを知っていたので、娘に逃げられるのが怖かったのでした。

 王様と兵士に守られながら娘が向かったのは、あの塔の、薔薇の木のもとでした。

 娘が来たのに気づくと、薔薇の木はにっこりしました。

 

「お帰り、わたしの娘よ」

 

 薔薇の木は、一番最初にあったときのように、痩せ衰え、やつれていました。娘は、つい泣き出してしまいました。

 

「お后になるのね。おめでとう」

 

「おめでたくなんかないわ、私にお后様が勤まるわけないじゃない」

 

「いいえ、どんな姫君よりあなたがお后になるべきだわ」

 

「私がお后様になっても、国としていいことなんか一つもないわ。なぜ私を舞踏会へ行かせたの」

 

「わたしはね、国になんか興味はないのよ」

 

 王様は、娘が傷んだ薔薇の木に話しかけているのを見て驚きました。薔薇の木の、女の人としての姿は見えていません。

 

「王を連れてきてくれてありがとう」

 

 そう娘に言うと、薔薇の木は王様の前へ進み出て、少し悲しそうに微笑みました。

 

「ずいぶん大きくなったわね」

 

 薔薇の木は王様の頬に触れ、頭を撫で、抱きしめて頬にキスしました。

 王様は何が起こっているのか全く気付いていないようで、ただぽかんとしています。

 娘は薔薇の木に訊ねました。

 

「あなた、王様と知り合いなの?」

 

「知り合いではないわ。ただ、わたしはこの子と、この子の子孫の幸せを誰よりも願っているというだけ」

 

「だったらなぜ、私みたいな貧乏人をお后様にさせようとしているの」

 

「それはね、あなたがお后になって、この子の子どもを産めばわかるわ」

 

 薔薇の木はそういうと、今度は娘を抱きしめました。

 

「この子には、あなたでないとだめなの。さあ、私の祝福を受け取ってちょうだい」

 

 薔薇の木はみるみる煙のように薄くなって消え、枝も幹もぼろぼろに朽ちて、一陣の風に吹き散らされて跡形もなくなりました。

 娘は、それを見て気を失い、倒れてしまいました。

 

 娘がお城に担ぎ込まれて看病され目を覚ました時には、もう薔薇の木のことを覚えてはいませんでした。あれほど長い間、手入れをし、母のように慕った薔薇の木のことをまったく忘れてしまったのです。

 それから、王様に素直に心を開き、誰からも認められて、お后様となりました。

 そしてお后様は、王様とすこぶる仲が良く、三人の王子、二人の王女をもうけました。どの子も、身も心も輝くばかりに健康で、その子供たちの子、つまり孫たちもみな元気な良い子たちでした。

 他の国の王族たちは、相変わらず王族たちの間で結婚を繰り返していましたが、生まれた子は早く亡くなったり、誰にも見せられない姿で生まれ幽閉されたまま一生を終えたり、体や心が歪な王や女王による目も当てられない治世で国がめちゃくちゃになったりで、それから二十年も経たないうちに血筋は絶えました。

 

 今日も、子供たちがお城の芝生でころころと遊んでいるのを、締め切られ存在を忘れられた部屋から小さな肖像画が見つめています。

 その肖像画に描かれているのは薔薇のように美しく聡明そうな女性で、王様の母君でありながら、血筋上は大叔母にあたる方だということです。王様が生まれるとすぐに亡くなったと伝えられていますが、子どもを産んだ後に発狂し、そんな后を恥じた父王にどこかへ閉じ込められて殺された、という話もあったとか、なかったとか。

 

              <了>

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