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金の穂の物語

 

第1話 麦の国

 

 

 昔々、あるところに小さな国がありました。

 その国には、お百姓さんは少ししかいませんでした。国じゅう見回しても、畑はほんの少ししかありません。

 かといってみんな食べるものも着るものもなく困っている、というわけではありません。よい服を着て、ちゃんとパンもバターも玉子も食べてられている人がほとんどでした。

 それはなぜかというと、その国ではきれいな宝石がとれたからです。いくつもの鉱山でたくさんの宝石が掘り出され、そのままでも、もちろんきれいに磨いて細工した指輪や首飾りも、他の国に飛ぶように売れていきました。宝石が売れたお金で周りの国々から小麦や牛や豚を買い集めて食べているうち、この国の民草は土や生き物に触れることは不潔だとさえ考えるようになっていたのです。

 

 その国の王様の一族は、最高の宝石をふんだんに身に着けて、いつもきらきらとした装いをした美しい方々でした。王様のお一人目のお妃様はお姫様をお産みになるときに亡くなられ、後添いの今のお妃様との間にも一人の王太子様とたくさんのお姫様がおいでです。

 お姫様たちにはそれぞれ年端も行かぬうちに素晴らしい嫁ぎ先が決まり、嫁ぐ日までお父上お母上とお幸せに暮らしていらっしゃいます。

 しかし、ただ一人、先のお妃様が遺された姫君だけがどこへ嫁ぐとも決まっていません。それは、お姫様はすこぶる足弱で、杖がないと歩けないというお体だったせいなのでしょう。しかもお姫様は月足らずでお生まれになったので、王様のお子ではなく一族から疎まれている、という噂が囁かれていたせいかもしれません。

 

 さて、大変なことが起こりました。

 夏の始まりから終わりまで雨が降り続き、収穫のときには麦が腐ってしまうということが二年も続いたのです。そして、多くの国で麦だけでなく、りんご、ぶどうなどなど、満足に収穫できなくなってしまいました。

 そうなると、自分の国のことだけでどこも精いっぱいで、宝石を買ってくれるどころか食べ物を売ってくれる国などありません。あっという間に、飢えの苦しみが始まりました。

 

 ある日、すっかり困ってしまった王様は、一番上の姫君を呼んでこう言いました。

 

「南のほうに、百姓ばかりが集まった国がある。何年か前から下賤の者どもが荒れ地に集まって畑を作っておったが、とうとうこの艱難の年に、麦を売ってやるのと引き換えに一つの国として周りの国々に認めさせおった。まったく人の弱みに付け込んで、卑しいやつらだ」

 

 お姫様は何と返事してよいかわからず、黙って聞いています。

 

「今、多くの国が使者を立てて、そこから小麦を買いつけておる。我が国は随分立ち遅れてしまった……あんな者どもに腰を低くするのは不本意ながら、背に腹は代えられぬ。姫よ、その国へ嫁いでくれぬか。そしてこの国を飢えから救ってくれ」

 

 お姫様はびっくりして石のように固まってしまいました。

 お百姓というのは野卑で奴隷のような人々だと聞いています。王を名乗っていたとしても、結局はそんな人たちの頭領。単なる成り上がり者にすぎません。そんなところへ嫁いでいくなんて、目の前は真っ暗です。

 しかし、継母や弟妹に遠慮しながら人形のように生きてきたお姫様のことです、父王様の決めたことをひっくり返すなんてできません。

 お姫様はやっとの思いで、わたくしが役に立てるのなら喜んで、と答えましたが、そのあと何日も眠れない日々が続きました。

 

 あっという間に、お輿入れの日はやってきました。

 一石二鳥の厄介払いができたお父上お母上、そして弟妹たちまでが、喜びの笑顔で送り出してくれました。

 道中、馬車の周りにはいつでもどこでも一目お姫様を見ようと人が集まって賑やかだったのですが、売られていく羊のような気持ちだったお姫様はずっと馬車の窓には日覆いをつけていました。

 今となっては買うもののいない宝石を持参金に、いくつかの国境を越え、お姫様を乗せた馬車はとうとう野蛮極まりない百姓たちの国へ入りました。すると、この国の兵がたった三人ほど護衛に加わり、馬車について馬を走らせて始めました。その兵の一人が不躾にもこんこんと馬車の窓を叩き、暑いから窓を開けてはどうか、と言ったときなど、お姫様は怖くて震え上がってしまいました。

 とうとうお城に着いて馬車から降りると、そこには、古い貧乏貴族のお屋敷をちょこっと手入れしたくらいの建物が立っていました。周りには生き生きとした木や草がこぼれるように咲き乱れ、オレンジが実をつけています。きれいな色の小鳥が梢で歌っているその下には、色とりどりの鶏が我が物顔に歩き回り、色とりどりの肌をした人々がにこにこしてお姫様を見つめていました。黒檀の色、テラコッタの色、はちみつ色、そしてお姫様と同じ牛乳のような色の肌の人がひしめき合っています。

 お姫様は大きな目をぱちくりさせました。お姫様は肌の色の違う人をこんなに大勢、しかもこんなに近くで見たのは初めてだったのです。

 

「はははは、驚いたか」

 

 面白そうに笑う声がすぐ近くで聞こえて、お姫様は声の主を見ました。

 すぐ隣に、あの無礼だった護衛の者がいます。周りの人々よりも頭ひとつ背が高く、堂々とした体格に精悍な顔立ちで、肌は赤銅色でした。

 

「ようこそ、我が家へ」

 

 芝居がかった風にそう言うと、お人形のように固まってしまったお姫様を支えて、というより抱えてお城の中へ入っていきます。その中を、連れてきた侍女と宝石を捧げた従者が慌てて追いかけます。あの兵士は王様だったのです。

 周りの人々はやんややんやと囃し立て、歌を歌ったり踊り出したり、王様への礼を欠いた大騒ぎです。一度王様がまた出てきて

 

「やかましい!」

 

と怒鳴ると、さらに笑い声が起こるという始末でした。

 

 お姫様は何が何だかわからないうちに長旅の労いの言葉をもらったあと、マホガニー色の肌をした侍女へ引き渡され、質素だけれど溢れんばかりにきれいな花で飾られた部屋へ案内されました。

 侍女は、洗濯婦のような見かけによらずしっかりと品の良い立ち居振る舞いで、怯えているお姫様に言いました。

 

「今日はこちらでお休みいただきます。私たちをお呼びの時はこの呼び鈴を鳴らしてくださいませ。私がお姫様付きの侍女ですので、お困りの時には何でもお申し付けください」

 

 お姫様はおずおずと訊ねました。

 

「わたくしが連れてきた侍女たちはどこにいるのですか」

 

 侍女は気の毒そうな顔をしました。

 

「宝石を我が王へお納めになったあと、おつきの方々はお茶も召し上がらずにお帰りになりました」

 

「えっ」

 

「……姫様の御父君が、姫様お引き渡しの後は侍女たちに帰ってくるようにとおっしゃったと伺っております」

 

 それを聞いて、お姫様は倒れそうになりました。侍女たちは育ちのいい家の出です。父王は娘である自分より貴族の娘である侍女たちに心を配ったのです。お姫様は、父君に疎まれているのは薄々感じてはいたのですが、憎まれてすらいたのだとはっきり知りました。

 侍女は、お姫様を支えて長椅子に座らせ手を握ってくれました。お姫様は肌の色の違う人に触れられるのは初めてで本当は嫌でした。でも、その手はとてもやさしく温かで、少しだけ心がほぐれてきました。侍女は、いい匂いのするお茶とオレンジを焼き込んだお菓子を小さなテーブルに調えてこう言いました。

 

「どうぞ、お薬だと思って召し上がってくださいませ。お茶は疲れを癒しますし、オレンジは人の心を慰めてくれるものだと王様が仰っていました」

 

 肌の黒い人がお給仕したお茶とお菓子なんて、と思ったりしたのですが、ほんの一口お茶を飲み、お菓子を齧ると、なんだかすーっと落ち着くのを感じました。

 本当にお薬のようです。

 心が落ち着くと、ぽとぽとと涙が出てきました。

 

「私たちの王様は他の国の王様のようではありませんが、とてもやさしい方です。どうぞ、これからのお身の上、ご心配はなさいませんように」

 

 夜になると、食欲がないと言って食事の席に来なかったお姫様のために、なんと王様が手ずから質素な食事を運んできました。

 部屋に男の人がやってくるなんて生まれて初めてのことで、お姫様は竦み上がり、侍女の方を見ました。侍女は、ご心配なさることはありません、と言うようににっこりして、お姫様の部屋から下がってしまいました。

 

「腹が減ると、人間はろくなことを考えなくなる。少し食っとくといいぞ」

 

 王様はそう言うと、椅子にどっかりと腰かけました。王様の着ている服は継ぎだらけで、その貧相さと言ったらありません。

 お姫様はなけなしの誇りにすがりながら言いました。

 

「輿入れは済んだにせよ、婚礼はまだです。わたくしの部屋へのお立ち入りは許されません」

 

 王様はそのお姫様の裏返った震え声を聞いて、面白そうにお姫様を眺めました。

 

「へえ、誰が許さないんだ?」

 

「か……神様です」

 

 王様は笑い出しました。お姫様はそれが神様への冒涜のように思えました。 

 

「俺は、これからの方針について話しに来ただけだ、とって食ったりはせん。ところで、おまえ、人を好いたことはあるか?」

 

 王様は楽しそうにとんでもないことを言いました。

 お姫様は王家の娘として、望ましい答えを知っています。

 

「いいえ、わたくしは宮殿の奥深くにおりましたので殿方とはお話したこともありません」

 

「あー、それはよくない」

 

 お姫様にとっての望ましい答えは、王様にとっては不正解だったようです。

 

「よくない、のですか?」

 

「やっぱりな、生まれてきた以上、一度は惚れたはれたの色恋沙汰を経験すべきだ」

 

 お姫様は王様が言っている意味がわかりませんでした。

 

「でもわたくしは、足が生まれつき弱くて色恋なんて無理で……」

 

「色恋が無理な娘をどういう了見で俺に押しつけたんだ、お前の父ちゃんは」

 

 お姫様はもう言い返せませんでした。王様は続けます。

 

「まあ、それはいい。とりあえず、婚礼はなしだ。ここで暮らして、適当に好きな男でも見つけて、所帯持って幸せになるといい」

 

「わたくしはあなたに嫁ぐ身なのです。わたくしの国へ麦を売っていただかないといけないので、あなたの妻にならなければならないのです」

 

「それとこれとは、俺は切り離して考えたい質でな。おまえのことは別として、おまえの国に売る分くらいはあるから気にするな」

 

「ではなぜ、わたくしとの婚姻の申し出をお受けになったのですか」

 

 いつの間にか、お姫様は震えながらも王様としっかり受け答えをしています。

 

「縁談があってから、おまえのことをうちの連中と一緒に調べてみたんだ。そしたら不遇も不遇、なんだこりゃと思ってな。みんな『可哀そうなお姫様を幸せにする』ってんで盛り上がっちまってな。さっきうちの連中見たろ? お前の気の毒っぷりに、もうお祭り騒ぎなんだ」

 

 今度はお姫様がなんだそりゃと思う番です。

 

「わたくしはわたくしを可哀そうだと思ったことはありません」

 

「でも俺と子作りなんて嫌だろう」

 

「はい」

 

 お姫様はうっかり返事してしまい、真っ青になって慌てて口を押えました。王様はまた大笑いです。

 

「そう、そんな風に言いたいことは言っていいんだ。とにかく、俺は、気の毒なお姫さんに、好きでもなんでもない男に嫁いで一生添い遂げろなんて言わん。外道が過ぎる」

 

 とんでもないことを冗談のようにさらりと言われて、お姫様は青い目をぱちぱちさせました。

 

「じゃあ、これから忙しいぞ。ゆっくり休んどけ」

 

 呆気にとられているお姫様の顔を見てまた笑ったあと、王様はさっさと部屋を出ていきました。

 初めて尽くしの一日の終わりで、お姫様はしばらくぼんやりしていました。

 男の人とこんなに間近で口を利いたのも。

 あんなふうにおまえ呼ばわりし、大きく口を開けて笑う人を見たのも。

 そしてあからさまに憐れまれたのも。

 みんなみんな初めてです。

 でもその無礼も憐みも、とても不快なようでいて、心の中でよく思い返せばなぜかそこまでいやな感じではありませんでした。

 暖かい国とはいえ、夜は少し肌寒いようです。お姫様は王様が運んできたスープの器に手を当てて、しみじみと温かく感じました。そして、つい全部食べてしまいました。

第2話 ものごとのはじまり

 翌朝、お姫様は着替えの時に金や銀、宝石で飾られていない質素な服を支度されてまたまた驚いてしまいました。侍女たちが着ているのと大して変わらない、とても地味な服です。

 

「わたくしの服はどこですか」

 

 侍女はにっこりと答えました。

 

「お輿入れにお持ちになった服は着ないようにとの王様のお言いつけです」

 

 何と意地悪なことを、と思いながら、お姫様は木綿の質素な服に着替えました。鏡の中の自分は、まるで市場の物売り娘です。

 侍女は杖を王女様に手渡しました。

 

「お食事の支度ができております。食堂へお越しくださいませ」

 

 お姫様は不承不承に杖を突いて歩きだしました。そして、気づきました。

 体が軽いのです。

 杖を突いて歩いてもふらふらよろよろだったのが噓のように足さばきも杖さばきも楽なのです。

 侍女は言いました。

 

「毎日お召しになっていてお気づきにならなかったのでしょうが、姫様のお持ちになったお召し物は鎧と同じくらい重くて、温かくも涼しくもなかったのです」

 

 本当は、お姫様は、この平民の服の着心地と軽さには悪くない心持ちでいたのですが、由緒正しい王家の娘として、それを認めてしまってはいけない気もします。だから、少しツンとして言ってみました。

 

「鎧と同じように重いのなら、きっと鎧のように、わたくしの体も、王女としての尊厳も守ってくれていたはずです。この服では危ないではありませんか」

 

「戦場いくさばでもないところで鎧をつけているなんて、縛られて暮らしているも同じですわ。お困りのとき、ご自身で立ち上がることがお出来になる方がよろしいかと」

 

 それを聞いてお姫様は、王様の意地悪な言いつけと侍女の説得があったからこの服で我慢してあげるのだ、と自分に言い訳し、少し安心しました。

 

 朝食の席に王様はいませんでした。とっくに野良へ出て仕事をしているというのです。

 王様が、です。

 一番偉い人のはずなのに、です。

 お姫様はお給仕の者に何度も聞き返してしまいました。

 お昼近くになって野良着姿の王様が帰ってきました。王様は、貧相な身なりのお姫様を見て臆面もなく言いました。

 

「うん、よく似合っている。可愛らしいぞ」

 

「そうでしょうか」

 

「ごてごてした服着てたおまえは、木偶でく人形みたいだったからな」

 

「そう……なのでしょうか」

 

 そこへ侍女が進み出て、さっそく王様に尋ねました。

 

「靴の泥は落としましたか」

 

 王様に対する態度というより、やんちゃ坊主を注意する教師のような口調です。

 

「今日はちゃんと落としたぞ」

 

 王様はちょっと得意そうです。でも、靴以外は泥だらけでした。

 侍女はお姫様に囁きました。

 

「王様はいつも泥靴でうろうろなさるので、もし見かけたら姫様もしっかり王様をお叱り下さいませね」

 

「わたくしが?」

 

「はい。それが姫様のお役目の一つです」

 

「あーあ、口やかましいのが増えるのか」

 

「えっ、わたくしはそんな……」

 

「ちゃんとやってくだされば私も姫様も口やかましくは申しませんよ」

 

 王様は、やれやれといった顔です。王様は、お姫様にお城の中と庭を見て回ってどこに何があるかを覚えるようにと言い残して、また出掛けてしまいました。そこで、お姫様はこつこつと杖を突いて、侍女の案内でいろんなところを見て回りました。故郷ではお城の奥でひっそり暮らし、お輿入れの道中もずっと馬車に乗っていてほとんど歩いていなかったお姫様は、ちょっと歩いただけでへとへとです。

 この国へやってきて、二日目と三日目はこんな調子でした。

 

 四日目の朝食後、お城の中も庭も覚えてしまったお姫様は特にすることはありません。それで、手持ち無沙汰にしていると、朝の仕事に一段落をつけて戻ってきた王様と鉢合わせしてしまいました。王様は、なぜか草のきれっぱしが入った小さな籠を持っていて、お姫様に渡しました。そして、きょとんとしているお姫様に見せたいものがあると言いました。

 お姫様が王様についていくと、やさしい目をしたロバが一頭、回廊の柱に繋がれていました。その脇には粗末な鞍が置いてあります。

 訝しんでいるお姫様に、王様は籠の中の草はアザミの芽で、ロバの好物なのだと教えました。このぼさぼさしたけだものに与えろというのです。

 ロバは食べたそうにじっと見ています。

 お姫様は籠のまま食べさせようとしましたが、王様は手から食べさせろと言います。手を嚙みちぎられたらどうしようと思うととても怖かったのですが、王様は有無を言わせぬ顔つきです。お姫様はどきどきしながら、言われたようにアザミの芽を一つ摘み、そっとロバの前に出しました。この毛むくじゃらのけだものは噛みつくこともなく、むしゃむしゃと食べてしまいましたが、そのとき大きな舌がお姫様の手に触れ、よだれで濡れました。しかし、お姫様は汚いと思う余裕もなくぼーっとしています。この怖いけだものが、自分の手からものを食べ、喜んでいることが信じられなかったのです。そして、もっと欲しい、とこちらへ首を伸ばしてくるロバを見ると、じわっとうれしくなりました。

 お姫様はほんの子どものように、笑顔で王様を振り向きました。王様はしたり顔でうんうんと頷きます。

 籠のアザミをすべてあげてしまうと、今度は王様は、ロバにブラシをかけるように言いました。

 触ると嫌がるところ、強めにごしごしやると喜ぶところなどを教えてもらって、おっかなびっくりですが何とかお姫様はブラシをかけ終えました。ロバは喜んでお姫様の胸に頭を擦り付け、お姫様は悲鳴を上げて転んでしまいました。王様はもう立っていられないくらい笑って、それからお姫様を助け起こしました。

 

「こいつはお前が気に入ったそうだ。もっと撫でてくれ、だとよ」

 

 お姫様は感じたことのない気持ちでした。

 ロバが怖いのと、ちょっぴり可愛いのと。

 王様にすごく笑われたのと、この人を笑わせるのは案外悪い気はしないのと。

 王様はロバの背中に鞍を置き、お姫様の杖を脇に括りつけました。

 

「じゃあ、乗れ。行くぞ」

 

 おろおろしているお姫様を、王様は人形のように軽々と持ち上げ、ぽんと鞍の上に座らせました。お姫様は恐ろしさで固まり、ロバは訳知り顔でとことこと歩き始めます。馬車しか知らない身にとっては思った以上の揺れで、お姫様は慌てて鞍の前橋ぜんきょうに掴まりました。

 王様は手綱をとって歩いています。

 お城を出て、貧しくも活気に溢れた街を通ると多くの人に馴れ馴れしく声をかけられます。王様は快活に返事し、お姫様は内心びくびくしながら会釈しました。そして、小さな声でお姫様は王様に尋ねました。

 

「あの、一つ伺いたいのですが」

 

「いくつでもいいぞ」

 

「街の人々はなぜ、礼儀を知らないのでしょう。言葉遣いや態度が、王様に対して不敬ではありませんか」

 

「ああ、俺は王と言うより、一平民から担ぎ出された世話係みたいなもんだからな。あんなもんでいいんだ。国なんて最初は烏合の衆から始まってるし、お偉い王族だってもとを辿ればその辺の人だろ?」

 

 そう言われればそうなのです。

 お姫様はそんなことを考えたことがありませんでした。王様は続けます。

 

「うちは別に国にならなくてもよかったんだ。まともに統治してくれる国があればそっちへ組み込まれてもよかった。その方がはるかに楽だったと思う」

 

「では、なぜそうなさらなかったのですか」

 

「他の国に組み込まれると楽だってのは、政まつりごとを机上で考えるときの話でな。実際はそううまくはいかん。よく考えろ、この辺りに、俺たちみたいな肌の色の人間を、まともに扱う国があるか? 同じ人間として対等に見てくれるか?」

 

 ロバを引いている王様の顔は見えませんでしたが、お姫様ははっとしました。お姫様自身が、肌の色の違う人を貶めてきた側の人間であるということに気づいてしまったのです。道端の人々は二人が何を話しているか気づかずに賑やかに挨拶してきます。お姫様は苦しい気持ちになって俯きました。王様はいちいち手を振って人々に答礼しながら、話を続けました。

 

「俺たちは、戦やら圧政やら、いろんな理不尽から逃げてきた人間の集まりでな。出身とか肌の色とかは気にしないんだ。肩を寄せあって荒れ地を開拓して、やっとうまく行き始めたとこだ。そんで、この場所を奪われたり逃げ出したりしなくていいように立ち回ってたら、国になっちまったってわけだ。ははは、こんな前途多難なとこに連れてこられて、おまえも大変だな」

 

 王様は固い話を和らげようとしたのか、それともお姫様がしゅんとしてしまったせいか、最後はおどけた口調になりました。

 お姫様が静かになってしまったので、今度は王様が質問する番です。今までどんな暮らしをしていたのか、何が好きで何が嫌い、何ができて何ができないのかを尋ねられ、お姫様は正直に答えました。王様は何でもうんうんと聞いています。他愛もない自分のことを興味をもって聞いてくれるなんて、父君母君にもなかったことです。お姫様は、ロバの背にいることが怖くなくなっていました。

 雑然とした街を抜け、しばらく歩いていくと、一面の麦畑に出ました。本当に見渡す限り、穂が出始めた青い麦です。

 風が吹くと麦が揺れて、畑全体がビロードのように光ります。緑の輝きに風の軌跡がはっきり見えます。

 

「きれい」

 

 お姫様は見とれてしまいました。

 これほどまでに美しいものは見たことがない気がします。

 

「俺もそう思う」

 

 王様もロバも立ち止まって、お姫様に感嘆する時間を作ってあげています。

 

 また少し行くと、百姓のおかみさんたちが木陰で一休みして、お昼を食べていました。

 

「さて、ここで降りるぞ」

 

 王様はお姫様をロバから降ろすと、おかみさんたちに言いました。

 

「おい、このお姫さんに手伝わせてやってくれ」

 

「えっ」

 

 あまりにもいきなりでお姫様は持ってきた杖をぎゅっと掴みました。

 

「あの、わたくしは足が悪いのでお手伝いはちょっと……」

 

 おかみさんたちは、その言葉も聞かず、わいわいとお姫様を取り囲みました。

 

「あらかわいらしい! お人形さんみたい!」

「遠い国から来たばかりで大変ねえ、ちゃんと食べてる?」

「ねえ、うちのパン食べてみてよ」

「じゃあ、うちの蜂蜜をつかうといいわ」

 

 お姫様は早速座らされました。肌の黒いおかみさんの白い掌からパンをもらい、麦わら色のおかみさんからは茹で玉子をもらい、といった調子でおろおろとしているお姫様に、王様は言いました。

 

「何か言うことがあるんじゃないのか」

 

「えっ」

 

「人に何かをしてもらったら何て言うんだ?」

 

「ありがとうございます……」

 

「俺に言うな、そこの親切なご婦人がたに言え」

 

 お姫様は、おかみさんたちにお礼を言いました。おかみさんたちは、お姫様ににこにこして見せ、王様には、お姫様にはもっと優しい言い方をしろと食って掛かりました。王様はわかったわかったと適当にいなし、お姫様にあのロバは夕方の鐘が鳴れば自分で城に戻ってくるから乗って帰ってくるように、と言うと、すたすたとどこかへ行ってしまいました。わたくしには無理です、とお姫様は叫びたかったのですが、王女は叫び声なんか上げないものなので、泣きそうな顔をしただけでした。

 杖をついていてもできる仕事なら、とおかみさんたちが任せてくれたのは、麦畑の縁に植わっていたすももの木から、熟れた実をもぐことでした。

 お姫様は何度か転んで、体ですももを二つほど潰してしまいましたが、頑張って手が届くところはみんなもいで、籠に入れました。幹にしっかり掴まれば、踏み台に乗るのもそこまで怖くないということもわかって、お姫様がぐっと手を伸ばすと、おかみさんたちは大仰に声援を送りました。

 

「皆さんの方がなんでも上手にできるのに、なぜわたくしを褒めるのですか」

 

 そう言うと、おかみさんたちはこう返事しました。

 

「初めてやってみたことを褒められたら、もっと頑張ろうって思えるでしょ? あたしたちも、あたしたちのだんなも、姫様をあたしたちに預けたあの王様もみんなそれは同じ。そうやって何でもうまくなっていくのよ」

 

 その日の夕方、踏み台の使い方がうまくなったお姫様は、ロバの背に何とか乗れました。途中まではおかみさんたちと連れだって、そして街に入るとお姫様は一人です。でもそんなに怖くはありませんでした。ロバはとても落ち着いていて頼もしく感じましたし、門のところで、王様が檻に入れられたライオンのようにうろうろしているのが見えたからです。深窓の姫君に無茶をさせたという気持ちがあったのかもしれません。

 

「ただいま戻りました」

 

 お姫様はロバから降ろしてもらって帰りの挨拶をしました。

 

「お疲れさん。畑仕事はどうだった」

 

「楽しかったです。みんなによくしてもらいました。明日は、わたくしもなにかおいしいものを持って行ってふるまいたいのですけど、よろしいでしょうか」

 

「よろしいよろしい。厨房の連中と相談しとけ」

 

 王様はロバの鞍に結わえられた麻袋に入った十個ほどのすももとお姫様の服についたくだものの汁とに気づきました。

 

「おまえ、えらくいい匂いがするな」

 

 お姫様は王様が自分のすぐ近くでそう言ったので、ほっぺたが少し熱くなるような気がしました。

​​第3話 砦

 そんなこんなで日々は過ぎていき、青かった麦が黄金色に変わりました。

 丘のうえから見下ろせば、そこは一面金色に埋まっています。陽の光を浴びて輝く麦畑のみごとなこと!

 ともすると、ほんものの黄金より美しいかもしれません。お姫様は、いつも黙って、敬虔な気持ちで風に波打つ金色の輝きを眺めていました。

 

 ここのところ、お姫様は少しずつ血色もよくなり、元気になってきました。

 仕事仲間になったおかみさんや娘っこたちからいろいろ教えてもらって、百姓仕事にも少しずつ慣れてきました。お姫様は刺繍や飾り縫い、自分の国でみんながやっている髪の編み方を教え、娘っこたちは若い娘の間で流行っている帯の結び方を教えて、みんなでちょっぴりおしゃれになって、たまに町の小間物屋に繰り出したりもします。

 こうしてお姫様は、人と触れ合う喜びを知りました。今まで誰にも顧みられたことがなかったのでうれしさもひとしおです。世間知らずのせいでよくとんちんかんなことを言ったりしたりしますが、それでみんなが面白がるとお姫様にはそれがまた新鮮で楽しくなってしまいます。

 

 出歩くようになると杖をだんだん邪魔っけに思うようになってきました。何よりびっくりしたのは、つい自分の部屋に杖を置きっぱなしにしたら、それでその日一日、特に問題なく暮らせてしまったことでした。杖を突かなくてもお姫様は歩けるようになってきたのです。少しふらついたりよろけたりはしますが、何歩かおきに、何かにちょっと掴まって姿勢を立て直せば問題はありません。その「何歩かおき」というのも、日を追うごとに歩数が増えてきているのです。

 可愛いロバにも乗り降りできるようになり、世話だって一生懸命やっています。

 

 麦が金色に染まり始めたころから、王様は野良に出なくなりました。時々、村々を回って麦の貯蔵の様子を確認しに行ったりはしますが、帰ってくるとまた難しい顔をして考え込んでいます。鋭い目をした老若男女がとっかえひっかえやってきては王様と、それからなぜか奥付きのあの侍女に何かこそこそと話し、その後手紙のようなものを渡し渡されています。それは麦の刈り入れが終わって、収穫高がだいたい決まったころまで続きました。

 

「王様はどうなさったのですか」

 

 お姫様が尋ねると、侍女は答えました。

 

「十日後、王様は多くの国々のお偉い方々と一堂に会し、小麦をどこへどのように売るかを決めるので、そのご準備をなさっているのですわ。どの国も選りすぐりの賢い方が遣わされるので、どのような手を使われるか予測するのは大変なのです。嘘もつかれますし」

 

「嘘を?」

 

「はい。国を守るためという大義がおありなので、皆様それはそれは壮大な嘘をつかれます」

 

「あの……私の生まれ育った国も嘘を?」

 

「国とはそういうものですから」

 

「では王様も?」

 

「おそらくは」

 

 みんな嘘をつくのが当然という事実に、お姫様はきっと困った顔をしてしまっていたのでしょう。侍女は、まるで教師のような口調です。

 

「もし私が隣国か、そこそこ近い国の王でしたら、こんなに穀物がたくさんとれている国は喉から手が出るほど欲しいですわ。今のうちに兵を出して征服し、自分の国の一部にしてしまいます。この国にはまだ兵力らしい兵力はありませんもの」

 

 それはそうです。政(まつりごと)に関することは何の教育も受けなかったお姫様ですら、もし自分がこの近くの国の王だったら、他の国と一緒になって攻め、小麦も領土も取り上げて、ここにいる人たちを奴隷扱いするだろうと思えるのですから

 

「ただ、もしどの国もそう考えている、ということが幸運なのです。そういう国々がお互いににらみ合って動きにくくなっているからこそ、綱渡りのような危うさでこの国は一つの国になれたのですわ。これからも綱渡りをやっていかないとこの国はすぐに消えてなくなります。そのときにはきっと私たちも無事ではいられないでしょう」

 

 お姫様は自分の顔が青ざめてくるのがわかりました。侍女はいつものようににこっとしました。

 

「そうならないように王様も私も頑張っておりますから、お信じ下さいませな」

 

 そのとき、王様が向こうの回廊を渡っているのが見えました。

 いつも以上に髪はわしゃわしゃで大あくびしています。服は相変わらずのぼろぼろで、さらに青いインクの染みだらけです。何か書きものをしていたようです。

 これまで野良に出ていた日々は活き活きしていたのに、なんだか赤銅色の肌まで少し褪せて見えます。王様は厨房の方へ行ったかと思うと、コップを手に、のそのそと戻っていきます。召使たちを呼んで持ってこさせればいいのに、お茶か何かを自分で取りに行ったようです。

 お姫様は王様がいなくなった後、侍女に言いました。

 

「その話し合いのときには王様はどんな服を着ているのですか」

 

 ご覧になりますか、と言われ、がらんとした衣装室へついていったところ、そこで見せられたのは、ぽつんとかかった式典服でした。ななんだかぱっとしない生地とかたちで、サッシュもリボンも、ピンでとめる勲章も今のところはないということです。

 でも、お姫様が残念に思ったのはそこではありません。

 この服がどこかから買ってきた、つまらないお仕着せに見えたからでした。

 衣類の流儀は国によって違います。

 王様や国のみんなが着ている粗末なシャツは、お姫様が知る限りの国々の服とは裁ち方も襟ぐりの形も裾も違います。ここでは婚礼などとても大事な儀式のときは、男の人は新しいシャツに長い上着を羽織ってきれいな色の飾り帯をつけ、女の人も新しい服を下ろして、その上から見事な織り模様の布をふんわりと巻き、さらにその上から飾り帯を何本かつけて長く垂らします。

 お姫様は最初、ここの人々が着ている衣類が、儀式の服にいたってもいかにも未開の地の人らしく粗野に見えたのですが、いつの間にかそれがしっくりきて、この人たちにはこれが一番似合って素敵だと思うようになったのです。

 

 王様はお姫様が見てきた男の人の中では一番体つきが立派です。

 こんなお仕着せより、この国なりの服のほうが見栄えがするはずなのです。

 

「今日からわたくしも野良には出ません」

 

 気がつけばお姫様は侍女に宣言していました。

 このころにはお姫様は自由に何をしてもよいことになっていたので、特に言う必要もないのですが、言わずにいられなかったのです。

 

「お願いです。腕のいいお針子を今すぐ十人ほど呼んでください」

 

 そしてすぐにお針子が集められました。お姫様はそのお針子たちを連れ、王様と同じように部屋に閉じこもって何かを始めました。

 何日か経つと、いろんな国章をつけた立派な馬車が何台もやってきました。いろんな国の名だたる賢臣たちが降りたって、これから数日お城に逗留するのです。しかし、お姫様はちょっと挨拶をしただけでそれ以上彼らと顔も合わせず、ずっと部屋に籠っていました。

 澄ました顔こそしていますが、彼らは王様が旅の疲れを労いもてなしたときもどこかしら馬鹿にした顔をするわ、この城のお客用の部屋に泊まって大威張りするわ、世話係の侍女たちの肌の色に文句をつけるわで、当然、召使たちには蠅や蚊のように嫌われていました。しかし、お姫様はそんな話に耳を傾ける余裕はありませんでした。

 

 話し合いの当日、たくさん勲章や金のモールやサッシュをつけた偉そうな人々が、大広間の大きな大きなテーブルについていました。今日はここで話し合いです。席に置かれた文書には丁寧な図や数字、文章が書き綴られていて、一様に皆目を皿のようにして読み、ひそひそと話しています。

 そこへ王様がやっと現れました。

 おざなりに立ち上がって王様を迎えた人々は驚きました。

 昨年の王様ははどこの馭者の着古しかと思われるような礼服姿だったので、そこから先ず蔑むつもりでいたのですが、今年は全く違う服装です。

 真っ白いシャツにも、その上の黒の上着にも艶のある白い糸で刺繍がされています。それは麦と、畔に育つ草花を紋のように描き、この国に古くから伝わる模様と組み合わせたものです。飾り帯は、金糸銀糸が織り込まれ小さな宝石が縫い付けられています。そこに去年は失笑をかった古ぼけた剣が吊るされていますが、こうして見ると古色豊かな名剣に見えてくるのが不思議でした。

 服地に芯をできるだけ入れずに作っているので体の動きに沿い、はっとするほど美しい儀礼服で、王様によく似合ってした。

 にやっとして開口一番、王様は言いました。

 

「待たせて大変失礼した。ではさっそく議題に入ろう」

 

 様々な国の使者は口々に要求と交渉条件の提示を始めました。

 その話し合いの最中、お姫様とお姫様付きの侍女はカーテンの陰に作られた小さな控えの間で、じっとみんなの話を聴き、薄い布地から覗いていました。

 お姫様はいくつかの国の言葉や詩歌、お裁縫やおしゃれ、そしてこの国においてはあまり役に立っていない礼儀作法についてはしっかり知っていました。でも政まつりごとのことはさっぱりで、みんなが何を言っているかさっぱりわかりませんでした。それで、恥を忍んで教えてもらおうと侍女を見、彼女の顔がいつもと違い、なんだか恐ろしいほど真剣な表情を浮かべているのに気が付きました。ときどき溜息を吐いたり唇を噛んだりしています。お姫様がここにいるのも忘れたようです。

 お姫様の訝し気な眼差しに気づいたのか、侍女が慌てていつものにこやかさを取り戻しました。

 

「申し訳ございません。多くの人の命がここにかかっているのでつい聴き入ってしまいました」

 

 それから食事や短い休憩を挟んで、話し合いは何時間も続きました。

 お姫様は厨房を、侍女はお給仕を手伝って中座しながらも、ずっと聴き続けました。ほとんど王様は喋らず、他の国の言い分を聴き続けています。お姫様はわからないなりに一生懸命わかろうとしていましたが、ついうつらうつらしてしまいました。

 

「嵌った!」

 

 侍女が独り言ち、お姫様は目を覚ましました。

 

「え? 何が起こったのですか」

 

 侍女はしてやったり、といった様子でとてもうれしそうです。

 

「今、王様が仕組んでいた筋書きに、全員が嵌りました。ここからは早いので、よく聴いておかれるとよいでしょう」

 

 侍女の言う通り、そこからは王様の独壇場です。

 過不足なくすべての国の言い分を纏めます。

 その論点を組み木のように噛み合わせ、鑢やすりをかけてなめらかに丸めていきます。

 嘘を嘘だと論あげつらわず面目を失わせないよう上手にいなし、国に帰って報告するときにちょっとだけいい気分になれるような譲歩もします。

 

 全体から見ると圧倒的に得をするのはこの国になるようになっています。かといってそれをひっくり返そうとするとどこかに大きな理不尽が出て諍いが起こるようになっているので……そしてちょっぴり手土産もないわけではないので、誰も何も言えません。

 こうやって王様はかっちりとすべての国の損得を組み上げ、そこで約定を交わしました。

 やっぱりお姫様にはよくわからなかったのですが、王様がとても賢い人で、この国にとって唯一の砦の役割をしているのだというのはわかりました。そして、腑抜けたようにぼんやりして、しばらく立てませんでした。

 それは、度を越えて素晴らしいものを前にしたときに言う、魂が抜けてしまう、という例えそのままでした。

 

 さて、よその国の使者たちを慇懃無礼に労ってお帰りいただいた日の夜、国中がてんやわんや、大変な慌ただしさでした。

 設えが一気に変わり、そこかしこに花が飾られます。
 まるで、お輿入れのときのようです。

「何が始まるのですか」

 

 お姫様が尋ねると、奥付きの侍女は晴れ晴れと答えました。

 

「これはこれは! 私としたことが申し上げておりませんでした。国を挙げての収穫祭の準備ですわ。収穫のお祭りは、姫様のお国でもなさるでしょう? 私たちの国では王様があいつらを追い返した翌日にお祭りをやるということにしておりますので」

 

 

「ではもしうまくいかなかったら?」

 

「そのときはお祭りどころではないでしょう。だからお祭りができるのは、私たちの頑張りが報われたしるしです」

 

 侍女はうっとりと幸せそうです。

 ふと、お姫様は前々から思っていたことを尋ねてみました。

 

「あなたは、本当は何者なのですか」

 

「私は姫様付きの侍女ですわ」

 

「あなたは、ただの侍女ではない気がします。なんだか、いろんなことを知り過ぎているような」

 

「この城は召使の数もとても少なくて、一人一人が多くのことをこなしているのです。王様が農夫や灌漑掘りをしているのと同じですわ」

 

 侍女は今までに見たことのない風にやっと笑いました。少し誰かに似ています。

 

「姫様が王妃になられましたら、お話する日も来るかもしれません」

 

第4話 刺繍

 今、空には爪の痕のような細い月が出ています。

 王様はどうしてもの仕事だけささっと終わらせてから着替え、庭の隅に花壇の修復用に積みあげられたレンガに腰かけて一息ついていました。

 ところどころに吊るされたランプに照らされた庭は、すばらしくいい匂いがします。オレンジの花が満開なのです。

 オレンジには、実にも花の香りにも、心を安らげ苦しみを和らげる効き目があるといいます。それを何度も大きく吸い込みながら、大きく息を吐きます。

 さすがに疲れたようで、噴水の音に混じってここまで届く召使たちのわいわいがやがやを聞きながら、一段高くなった植え込みの縁に寄りかかって王様はぼんやりしていました。

 

 王様はもともと流れ者の家に育ちました。

 ほんの赤ん坊の頃からいろんな国を回りました。

 でも流れたくて流れていたわけではありません。おじいさんやおばあさん、お父さんやお母さんが必死になって荒れ地に家や畑を作って、うまく行くようになったら偉そうな人たちにとりあげられてしまうことが何度もありました。お役人が踏みつぶした人形に幼かった妹は泣き出し、うるさい、と家族の目の前で殺されてしまいました。

 一族で更に彷徨ううち、この誰も手をつけなかったところへ来たのです。

 荒れに荒れた半ば砂漠のような土地で、一族で多くの種麦をだめにしながら少しずつ少しずつ畑を増やし、同じように行く場所を失くした人々と一緒に働いて、ここまで来たのです。

 ある日、少しばかり弁が立った少年が小麦を奪おうとしてくる連中を適当に言いくるめて追い返したことから、何かと頼られ矢面に立つようになりました。その少年が今では長じて王様です。この飢饉に乗じて、麦を剣にも盾にも使って国を誕生させたら、すぐに「王様」の位へつけられてしまいました。

 

 この国の将来を思うと、王様はどうすればいいのかわからなくなってしまいます。

 今年も首尾よくことが運びましたが、ずっと天候不順が続くわけもなくこれからどの国でも元通り小麦や大麦は獲れるようになるでしょう。もう売らなくてよいのならそっとしておいてくれればよいのですが、どの国も麦がたくさんとれる豊かな土地は欲しいのです。強い態度に出るための切り札がなくなっているので、話し合いだけで国を守ることは難しくなります。

 そうなれば、やはり強力な守りが必要なのです。

 まだ手薄ながら軍隊は作りました。もちろんこれから兵を増やして軍馬や武器や防具も揃え、もっともっと安心できるような備えをする手はずも整えています。他の国で兵隊や役人にひどい目に合わされて育ったからこそ、そうしなければ奪われてしまうのはよく知っています。

 しかし、おくびにも出しませんが、人の血の流れることが大嫌いな王様は、とても情けない気分にもなるのでした。

 

 少し歩調の不確かな足音が近づいてきましたが、王様はまだまだ考えごとをしていて気づく様子もありません。

 おずおずと声がかかりました。

 

「あの、……ご機嫌麗しゅう?」

 

 お姫様が立っています。

 

「ああ、何とか。おまえのご機嫌のほうは」

 

「ようございます」

 

「それはよかった」

 

「今日はお疲れさまでした」

 

「ああ、おまえもお疲れさんだな。……ここ、座るか?」

 

 王様は自分が座っている隣にある、もう一つの積みレンガを指し示しました。お姫様はごくわずかに立礼をして、そこに腰かけました。

 

「今日はありがとうな。ありゃすごかった」

 

「お気に召しましたか」

 

「召さんわけがないだろう。おかげでイカした気分だった」

 

 朝、話し合いが行われる大広間に王様が身支度を整えて入ろうとしたときのことでした。最後の一針が縫いあがったばかりの服を抱えて、お姫様が転びそうになりながら駆けてきました。そして、これに着替えてほしいと、目の下にくまを作った顔で真剣に言うのです。あの見事な刺繍がされた衣装は、お姫様がこの数日間、たくさん経験を積んだお針子たちと相談し、手分けして四苦八苦しながら作ったものでした。

 作りもかたちも真新しい礼服を身に着けた王様はすっかり感心してしまい、すべてうまくいく、という気がしたのでした。

 

「おまえ、やるときゃやるんだな」

 

「わたくしの侍女が、服を鎧に例えておりました。でしたら、あなたにもあなたの戦場に相応しい鎧が必要だと思ったのです」

 

 どのくらい時間がかかったのか、どういう工夫をしたのか、そもそもなぜ自分に服を誂えようと思ったのか王様が問い、お姫様がおとなしやかに答えます。でも、頑張りを認めてもらえたうれしさは隠しきれていませんでした。

 少し言葉が途切れてから、お姫様は思い切ったように言いました。

 

「もう脱いでしまったのですね」

 

「汚したくないからな。大事にさせてもらう」

 

「あの服の、シャツだけはわたくしが全部縫ったのです。刺繍も、結び飾りも、全部です」

 

「うん、針目が細かくて手が込んでたな。晴れ着として、死ぬまで大切にしよう」

 

 お姫様は王様の言葉を遮りました。

 

「いいえ、普段に着てほしいのです」

 

「あれは野良着にはもったいないんじゃないか」

 

「汚れたり、破れたりしたら、何枚でも縫います」

 

「そしたらありがたみがなくなっちまうだろ」

 

「ありがたみ?」

 

「俺は貧乏性だからな。いいことはたまにあるくらいがちょうどいい」

 

 王様は権謀術数にまみれた駆け引きができる人なのですが、深窓の姫君の女心については今一つ思いが至らないようでした。

 そんな人でなかったら、お輿入れしてきたばかりの娘っこから服を取り上げたり、ロバにのっけたり、農婦の中に放り込んだりはしないでしょう。

 お姫様は、つい言い返してしまいました。

 

「いいことがたくさんあってもよいではありませんか。わたくしは、ここへきてからたくさんよいことがありました」

 

「それで、俺にシャツを縫ってやろうって?」

 

「縫ってやろうではなく、着ていただきたいのです」

 

「おまえ、意外と頑固だな」

 

 王様は苦笑しました。

 

「ここに来たときゃ、俺たち見てビビりまくってたくせに、こんなにいろいろ言うようになるとは」

 

「あのときは、これまで近くで見たことがなかったので、驚いただけです」

 

「俺もお前を見て驚いたんだぞ。肖像画はもらってたけど、実物もこんなに人形みたいだとは思ってなかったんでな」

 

「それは、可愛いということですか」

 

 言ってしまってからはっと口を押さえるお姫様を見て、王様は一瞬、寂しくなりました。

 多分、このお姫様は可愛らしいお人形に囲まれて暮らしてきたのでしょう。

 王様の死んでしまった妹のものや、この国の子どもが大事にしているものとは比べ物にならないほど、上等で立派な人形に。

 

「それもある。でも、俺が思ったのは、自分の意思がなさそうだし、カチンコチンで壊れそうだし、人形みたいなやつだなと」

 

 お姫様は随分な見当違いをしてしまったことに気づいて真っ赤になっていました。

 でも弱いランプの光では多分見えていないでしょう。

 恥ずかしさをごまかすようにお姫様はツンと言います。

 

「そんなわたくしをロバに乗せたり畑へ放り出したりしたのですか」

 

「……ちょっとまずいんじゃないかとは思った。根に持ってんのか」

 

「最初はなんてひどいことをする方だろうと思っておりました。でも今は、ほんとうに感謝しております」

 

 それを聞くと、王様は少し黙ってしまいました。お姫様は王様の気分を害してしまったのかと不安になりました。

 すると王様はもそっと立ち上がり、すぐ戻る、とだけ言って回廊を大股に歩いていき、それからすぐ戻ってきました。

 あの、お姫様が縫ったシャツを着ています。

 王様はお姫様の前に立ってちょっと肩を聳そびやかせました。

 

「ほら、これでいいんだろ」

 

 お姫様も慌ててレンガの山から立ち上がりました。

 

「飾り結びがひとつ裏返っています」

 

 直そうと手を伸ばすと、王様が半歩後ずさりしました。

 

「自分で直すからいい」

 

「いいえ、房のところが変になっているのでわたくしが」

 

 近づいて手を伸ばしたときに、また王様が半歩下がったので、お姫様は転びそうになりました。

 おっと、と言いながら、王様はお姫様の脇に手を入れて支えます。猫の仔を抱き上げるときのようです。

 

「嫁入り前の良家の子女は、亭主以外の男に気安く触るもんじゃないぞ」

 

「あなたも、こうして嫁入り前のわたくしに触っているではありませんか」

 

「俺は良家の子弟じゃないからいいんだ」

 

「生まれた家から捨てられたわたくしも、よいではありませんか」

 

 お姫様は襟の飾り結びを手早く直すと、一息間をおいてから弱々しく言いました。

 

「あなたはお忘れのようですが、わたくしはあなたに嫁ぐためにはるばるここへやってきたのです」

 

「そうだったな」

 

「わたくしは王妃になろうと思います」

 

「は? なんで?」

 

 王様が驚きの声を上げました。何を驚くことがあるのか、お姫様にはわかりませんでした。

 

「ここへ来た日の夜、わたくしが殿方を好きになれば、添わせてくださると仰ったでしょう?」

 

「うん」

 

「わたくしが王妃になると言えば、してくださるのでしょう?」

 

 王様がびっくりして黙っていると、お姫様は棒立ちのまま震え出しました。ここしばらくは泣いていませんでしたが、泣き出しそうになっています。

 

「わたくしではだめでしょうか」

 

「だめじゃないけども、……育ちの違いとか、肌の色のこととか、そういう違いがどれだけ根深いか、おまえ、わかってて言ってんのか」

 

「わかっています」

 

「一時の気の迷いでは済まんぞ」

 

「わかっています」

 

 押し問答が始まります。

 すべてに、わかっている、と答えながらお姫様は、王様が少しだけ怖がりだということに気づきました。

 王様のほうはというと、お姫様の言葉を甚だ疑わしく思っていました。でも、その一方でどこまでこの娘が自身の言葉に責任が持てるか見てみたい気もしましたし、可愛らしくも思いました。何より、畑仕事や政がうまくいっているとは違う幸せな思いが胸に広がりました。

 王様は溜息を吐いた後、近くのオレンジの木から一房の花を折り取り、お姫様の結った髪に挿して飾りました。

 

「後悔しても知らんぞ」

 

「後悔はしません」

 

 その年の収穫祭は、昨年よりずっとずっと気分が浮き立つものでした。

 なぜなら、お祭りの最後の日、王様とお姫様の婚礼が行われたからです。

 王様の衣装は調っていたとしても、これほどいきなりでどうやって支度を間に合わせられたのか、ですって?

 もう、こうなることがわかっていて采配を振るっていた人物がいたからです。

 

「俺、ときどきおまえのことが怖くなるんだが」

 

 王様にそう言われて、奥付きの侍女は何も答えずふふっと笑い、お姫様に向き直りました。

 

「さあ、あれを王様に被せて差し上げてくださいませ」

 

 王様と対になった衣装を身に着けたお姫様は、思いきり背伸びして、王様の頭に麦で編んだ冠を載せました。よろけるお姫様を支えつつ、頭に冠を載せてもらった王様は、屈んだついでにお姫様にキスしました。

 さあ、婚礼の儀式のはじまりです。

 

 それから王様もお姫様も仲良く暮らしました。

 その治世はよその国からも政を学ぶ人がやってくるほどで、みな末永く幸せに暮らしましたとさ。

 めでたしめでたし。


 

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 麦の国と呼ばれたその国は、初代から数えて三代めであっさりと他の国に征服され滅びてしまいました。

 そんな国が存在していたことは、教科書には載っていません。知ろうとし、調べた者だけが存在を知るのです。

 そんな昔に、肌の色も、性別も、出自も、一切のタブーを取り払おうとした国があったことは驚嘆に値します。

 様々な面における人権意識が進んだ現代においても、まだ難しい問題が山積みなのに、です。

 

 今日、王妃が初代の王のために縫ったシャツはこの博物館で見ることができます。

 遺っている日記や手紙によると全部で三十二枚あったらしいのですが、現存するのは十三枚。

 そのうち半数以上は他の遠い国の博物館に収蔵されています。

 

 シャツはガラスケースの中のトルソーにつけて展示されています。

 経年に黄ばんだ麻のシャツはなんと雄弁なことか。

 施された刺繡の針目が、このシャツを縫った女性は、夫である男性を心から愛していたのだと語ります。

 さらに、未だに人類は、自分で思っているほど上等な存在になれていないということも。


 

      ――了

 

 

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