あなたにワルツを
ここは、海岸通りにある小さなダイニングカフェ。
漆喰で塗られた店内の壁には、小さめのアートポスターが飾られているんだけど、実は、みんな使用済みのカレンダーをフレームに入れただけなのよ。テーブルも椅子も、60年代あたりの中古品で……うーん、かっこよく言えばビンテージっていうのかしら。その伝でんで言えば、ティンサインやライト、テーブルウェアもレトロなビンテージ品よ。オーナーが少ない資金をやりくりして、何とか揃えたものばかりなの。
え? 私?
そうね、自己紹介がまだだったわ。私は店の隅っこにある、ぼろぼろのアップライトピアノ。作られてから80年くらいかしら、歳は忘れたわ。たまに弾いてみるお客さんもいたけど、ここしばらくは忘れられているってところ。
その日は、薄く曇った、少し寒い日だった。
昼下がりで客も引けた頃のことよ。
「あのう、ちょっといいですか」
二人連れのお客さんのうち、黒真珠のネックレスをつけた若い女性が、コーヒーを運んできたオーナーに声をかけたの。
お葬式帰りなのか、黒ずくめで抹香の匂いがする人たちだった。
「どうかなさいましたか」
「あそこにあるピアノを弾いてもいいでしょうか」
オーナーは、塗装の剥げたおんぼろの私を見て、それから返事したの。
「調律、3年くらいしてないんですよ。それでもよければ」
「ありがとうございます……ね、父さん、弾いてもいいって」
娘さんに言われて、背筋のピンと伸びた、厳つい顔立ちの男性が無言で立ち上がったの。目つきが鋭くて、厳しそうで、頑固さが服を着て歩いている感じの人だった。強面こわもてってこういう人のことを言うのね。
彼は鍵盤の蓋を開き、分厚いフェルトのカバーを畳んで私の屋根に置いたわ。
それから、両手で互いの掌や指を軽く揉んで、深呼吸して。
黙ったまま、鍵盤に指先で圧をかける。
古くて軽いアメリカンビンテージピアノの音。これが私の音よ。
彼が選んだのは、意外にも甘い恋のワルツだった。かなり有名な曲。
弾き手に不似合いな愛らしい曲が、時折詰まりながらも流れていく。
ペダル少なめに私の音が響く中、か細い歌声も聞こえていたわ。
娘さんの、少し鼻にかかった声だった。
そして、あまり長くはない曲が終わった。
オーナーが控えめに拍手しても、お父さんはピアノ椅子の上にじっと座ったまま顔を向けもしなかった。
だから、娘さんが、とりなすように話しだしたの。
「弾かせてくださって、ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ素敵な曲を聴かせていただいてありがとうございました。サティの『ジュ・トゥ・ヴ』ですね」
「ええ」
「いい曲ですよね」
「ええ、本当に」
娘さんが呟くように答えたわ。
「この曲、母が大好きで……よく弾き語りしてたんです」
「そうなんですね」
「でも……母が……自分の病院代に充てようって、一時帰宅のときに勝手にピアノを売ってしまって」
娘さんはポケットから白いハンカチを出し、目元にあてた。
「……父が、こっそり練習してたのに……退院したら聴かせたいって」
あの曲は、この人たちにはきっと、家族の団欒の象徴だったのね。
お父さんは、私の前に座ったまま肩を震わせ、膝にぼとぼと涙を落としてた。
テーブルのコーヒーはもう冷めてる。
オーナーが、サービスでお替りを淹れ始めたみたい。いい香り。
キジバトが近くで歌ってる。もうすぐ雨になるんだよって。
――完