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あなたのように
なりたかった

 それは確か、入社して数か月の初夏のあたり。

 扇子から始まったと記憶しています。

 上司たちの飲み会があるとかで定時で帰れた日でした。

 私は同期の友人たちとカフェでお茶を飲んでいました。その日は暑くて、冷房の利いた室内の席は埋まってしまい、テラス席しか空いていませんでした。

 ジンジャーエールやアイスティを前に他愛無くお喋りしていたのですが、やっぱり暑くて、私はバッグからお気に入りの扇子を出してパタパタと首元を扇ぎました。

 そのときです。

 同期の一人、達ちゃんが言ったのです。

 

「いいよね、その扇子」

 

 彼女とは旧知の仲です。小学校から中学までは一緒だったのですが、何の偶然か入社式で再会し、同僚付き合いが始まったのです。

 達ちゃんは幼馴染ではありますが、幼い頃知り合ったというだけで、気心が知れているかというとそうでもありません。悪い子ではないけれど、ちょっと得体の知れないところがある子だなと私は思っていました。

 私は何の気なしに答えました。

 

「いいでしょ。お祖母ちゃんの京都土産なんだ」

 

 そして、彼女をふざけて扇いでやりました。

 

「へえ、いいね」

「骨もしっかりしてるし、軽いし、ほら、この柄もおしゃれでしょ」

 

 薄い紗の扇面には様々な吉祥文様が描かれていて、あまりその辺では見かけないデザインです。

 

「ちょっと見せてもらってもいい?」

「いいよ」

 

 達ちゃんは扇子を開いたり閉じたり、扇いでみたりしてからぽつりと言いました。

 

「いいなあ、欲しいなあ」

 

 私はあげないよーとふざけて答え、扇子を返してもらいました。

 その三日後、また数人と仕事帰りに社屋ビルのロビーの自販機前でお茶を飲んだのですが、達ちゃんが扇子を取り出してパタパタやり始めました。

 私はびっくりしました。それは、私の扇子とそっくりだったのです。

 

「どう、いいでしょ」

 

 達ちゃんがニコッと笑いました。

 

「この間、天ちゃんが持ってるの見ていいなーって思って、ずいぶん探したんだよ」

「そうなんだ」

「これでお揃いだね」

 

 よくよく見ると、少し柄が違い、骨も安っぽいようです。親骨の塗りも、たぶん漆ではなくラッカーです。

 私は言いました。

 

「うん、いいの見つけたね。ちょっと違うけど」

 

 すると、彼女が私の目を真っ直ぐ見つめてきました。なぜだか、ひどく怒っているような目で、……いいえ、怒っているというような外へ向かう感情ではなく、暗いものがとぐろを巻くような、とても不気味な感じでした。でもそれはたった一瞬で、すぐにいつもの、みんなに好かれて人懐こい達ちゃんに戻っていて、私の勘違いだったのかもしれない、とそのときは思いました。

 それがきっかけで、私は達ちゃんの持ち物が気になるようになりました。

 それで、やっと気づいたのです。キーホルダーやポーチ、スマホケースにつけたデコパーツなど細々したものがいつのまにか彼女に真似されていました。

 

 季節は秋になりました。

 私は近所で開催されたハンドメイドマルシェに行き、黒いリボンと巻き薔薇のついたバレッタを買いました。私の顔立ちによく似合い、手持ちの服や小物ともぴったりです。何より、一点もの、世界に一つだけの私のものというのが気に入りました。

 さっそく髪につけて職場へいくと、同僚たちが口々にほめそやします。私はいい気分だったのですが、あの達ちゃんがバレッタに触れながら「いいな……欲しいな」と言ったときに、あの扇子に始まる小物のことを思い出して嫌な気持ちになりました。でもこれは一点ものなのできっと大丈夫だと思いました。

 ところが三日後、達ちゃんは黒いリボンと薔薇のバレッタをつけてきました。

 私がつけていたものとそっくりなものを、です。でもよく見ると、やっぱり布の質感や、薔薇の巻き方がなんとなく違います。

 

「どう、可愛いでしょう? 天ちゃんが持ってるの見て、欲しくなっちゃって母さんに作ってもらったんだー」 

 

 にこにこしながら達ちゃんが言いました。でも、なんだかその目は笑っていない気がするのです。

 

「そうなんだ……すごいね」

「天ちゃん、持ってるものみんなおしゃれなんだもん。欲しくなっちゃう」

 

 達ちゃんは屈託なく続けますが、私には無邪気には聞こえなくなってきました。

 

「そうでもないよ」

 

 私は苦々しい気持ちになりながら、その場を後にしました。

 そんな日々を送るうち、バッグ、ネックレス、腕時計などわかりやすいものがどんどん彼女にコピーされヘアスタイルまで同じにされました。

 

 それから、嫌だったのは靴。

 私はずっと前から欲しかったチョコブラウンのブーティを買い、シューフィッターに調整してもらってうきうきしていました。

 歩くたびに飾りのフリンジが揺れて、それはもう、すれ違う人の目を奪うかっこよさです。この靴で晩秋の石畳を闊歩していると、いい女に近づいた気分になれました。達ちゃんには通勤用の靴も真似されていたので、おニューのブーティは職場へは履いていかないようにしていました。用心して休日にその靴を下ろしたのに、その数日後には、彼女はほとんど同じものを職場へ履いてきました。そして私に声をかけて見せてくるのです。達ちゃんは大きな瞳がくりくりして可愛らしい顔立ちなのですが、私には彼女が邪念いっぱいに見えて仕方ありません。

 

 周囲に相談しても、幼馴染で仲がいいからお揃いにしてるんでしょ、天ちゃんは達ちゃんのファッションリーダーってことでいいんじゃない、と流されてしまい、私のもやもやとした思いをわかってくれる人はいません。私はイライラし通しでした。

 

 私はもはや、職場へお気に入りはつけて行きません。

 誰もが買えて誰もが着ているような、ごくごくカジュアルで想像力の足りないファストファッションで通勤していました。これなら真似されてもイライラしないだろうと思ったのです。

 友人たちからは「服の好み変わった?」と言われましたが、金欠でプチプラコーデを極めようかと思って、と笑い話にしました。コーデどころか、地味なパーカーにパンツかスカート、スニーカーとだらっとしたキャンバス地のバッグで、色違いを着回しているだけです。職場には制服があり、通勤中の服装の規定は緩やかです。だから、こんな服装で通勤しているのも五、六人はいます。そして、達ちゃんも、その中に仲間入りしました。誰もが着ているごく当たり前のカジュアルウェアなら、とは思っていても、真似されたとなるとやっぱり心穏やかではありません。その自分のとげとげした気持ちをなだめながら、私は通勤していました。

 

 極力達ちゃんと顔を合わせるのを避け、毎日ストレスを感じて過ごすうち、私は取引先の社員さんと仲良くなり、おつきあいすることになりました。

 彼は痩せて手足もひょろ長く、レンズの大きな度の強い眼鏡をかけていて、トンボそっくりです。仕事はできるのに、ちょっと気弱なところもあって、そのギャップが素敵です。一緒にいるとほっとする優しい人でした。

 

 その日、彼との週末のデートを心のよりどころにしつつ、私は残業していました。

 デスクで明日の会議の資料ページを作っていると、声がしました。

 

「あ、天ちゃん、残業なんだー」

 

 甘ったるい声。ふわっとフルーティバニラのコロンが香ります。

 私がちょっと前までつけていたコロンの匂いに似ています。そのコロンは母が若い頃に買って一度も使わないまま私にくれたもので、もう製造されていません。もちろん、コロンの名前もメーカーも人に教えたことはありません。どうやって似た匂いのものを探し出したか考えたくもありません。あのコロンは、とても好きだったのです。私は腹立たしくてなりませんでした。

 

「避けられてんのかと思っちゃうじゃない」

 

 そうだよ、と言えたら気持ちいいだろうなと思いながら私は答えました。

 

「あ、うん。ここんとこ忙しくて」

「最近天ちゃんとゆっくり話せなくてさびしいなあ。また飲みに行こうよ」

「しばらく無理だと思うよ」

「そっかあ。ねえ、何飲んでんの」

 

 彼女は私のデスクに置かれたテイクアウト用コップを指差しました。蓋の飲み口がちょっとだけピンク色に汚れています。コップの中身について、私が渋々答える前に、達ちゃんはさらっとこう言いました。

 

「一階のカフェのストロベリーチョコレートラテじゃない? 期間限定のやつ」

「わかってるんなら聞かなくてもいいでしょ」

 

 本当は私が飲んだのは「ストロベリーチョコレートソイラテ」だったので、完全に見破られたわけではありません。私はラテでなくソイラテを選んで本当によかったと思いました。本当にくだらないことですが、そう思わないとやっていられない気分でした。

 

「私まだ飲んでないんだよね、いいなあ。買ってこようっと」

 

 彼女が一階のカフェに行っている間に、残務は持ち帰ることとして私はばたばたと帰り支度をしていました。しかし間に合わず、彼女は手にテイクアウトのコップを持って戻ってきました。戻ってこなくていいのに。

 彼女は隣のデスクからキャスター付きの椅子を借りて私の横にどすんと腰を落ち着けます。彼女は、コップにちょっと口をつけて上唇についた泡をちょっといやらしく舐めました。

 

「天ちゃん、最近きれいになったよね」

「そうかな」

「彼氏できたんじゃない?」

「え?」

「私、見ちゃったんだー。天ちゃんが男の人と手を繋いで歩いてるの」

「見間違いじゃない?」

「痩せて背が高い、眼鏡かけた人と手つないで歩いてたじゃん、仲良さそうに。ほら、UFOキャッチャーででっかいチョコレート取ってもらってたでしょ。それからカフェで、ザッハトルテと、ポットでキーマン頼んでたよね」

「え?!」

「ほら、やっぱり彼氏できてたんだ」

 

 気持ち悪いです。私は自分のまわりがぐにゃぐにゃに歪んでいくような感じを覚えました。

 

「なんでそんな細かいとこまで見てるの? 私の後を尾けたの?」

「羨ましくて、どんなデートするのかなーって見てただけだよ」

「気持ち悪っ……それってストーカーじゃない」

 

 つい言葉が尖りますが、達ちゃんはまったく気にしていません。馬耳東風とはこのことでしょう。

 

「あーあ、私も彼氏欲しいなあ」

「自分で作れば?!」

「できるかなあ」

「できるかじゃなくて、作ればって言ってんの!」

「うーん、でもねえ」

 

 彼女は、また、にやっとした笑顔を浮かべました。あの、もう見たくもない表情です。

 

「天ちゃん、美人だし。私と全然違うじゃん。鼻が高くて、彫りが深くてさ。いいなあ」

 

 確かに私は鼻筋が通ってちょっと日本人離れした顔立ちだと言われます。家族そろって鼻が高いので、小学校の時のクラスメイトから「てんぐさん一家」といじられたこともあって、鼻のことは貶されるのも褒められるのもあまり好きではありません。相手が褒めているつもりであっても、本当に触れられたくないのです。

 

「ほっといてよ!」

「褒めてるんだよ?」

「私は鼻の話されるのが嫌なの!」

「えー、すごくきれいなのに」

 

 鼻のことをまだまだ言い募ってくるので、私はその場を去りました。そして駅のホームで電車を待っている間、彼に、達ちゃんに気を付けるようにメッセージを送っておきました。 

 彼の存在を知った彼女に「欲しいな」と言われてしまった以上、私か彼か、それとも二人ともがきっと嫌な目に遭う、と思ったのです。彼にはこれまでも彼女にまつわる愚痴をこぼしていましたが、話半分で聴いているような感じで私は不安でした。

 

 達ちゃんとはそれから二週間ほど顔を合わせませんでした。年休を取っているという噂です。私は彼女と顔を合わせなくて済む日々にほっとしつつ、嵐の前の静けさのような不気味さも感じていました。

 

 その私の勘は、休み明けの達ちゃんの顔を見て的中したと言わざるを得ませんでした。

 彼女の顔の中央にある二つの穴が開いた突起が、誰から見てもわかるくらいに隆起していたのです。過剰なほどくっきりとしたギリシャ鼻が、ちょっとぽちゃっとして大きな瞳が印象的だった顔に鎮座しています。前のちんまりした鼻のほうがどれだけ可愛らしかったことか。これには同僚たちも唖然としていましたが、大金を掛けてこの鼻を得たのであろう彼女に、誰も何も言えませんでした。

 言葉も出ない私に、達ちゃんは言いました。

 

「どう? 私きれいになったと思わない?」

「あ、……えっと……そうだね」

「なんか反応薄くなーい?」

「まだ見慣れなくて……今仕事中だしさ、達ちゃんも自分のとこに戻りなよ」

 

 私は明後日の方を向いていました。目を合わすのが怖いのです。その場にいる者みな、彼女と目が合いそうになるとさっと目を逸らします。

 静まり返っているフロアで、彼女の得意げな声が響きます。

 

「これねえ、天ちゃんの写真持って行って、こんな風にしてくださいって言ったんだよー?」

「……やめて」

 

 私は震える声で、小さく抗議しました。

 聞こえなかったのか、彼女は続けます。

 

「この鼻、ほんとに美人って感じで、私にぴったりだよね」

「やめてって言ってるでしょ!」

 

 とうとう私は叫びました。

 彼女は怪訝そうに小首を傾げます。

 

「どうしたの? 大声出しちゃって」

「私の真似するの、やめてって言ってんの!」

「いいなって思ったものを自分も持ちたいって思うのってだめなの? 心狭―い」

「どうとでも思っていいよ! 私は嫌なの!」

 

 達ちゃんは声を上げて笑いながら言いました。

 

「天ちゃんって、もしかしていいものは全部ひとり占めしたいタイプ?」

「何言ってんの?」

「前さ、天ちゃん、私の目が大きいってほめてくれたことがあるでしょ? 羨ましいと思ったら自分だって目大きくしたらいいじゃん。私は心広いからさ」

 

 もう彼女には、何を言ってもダメだと思いました。私はつい、デスクに置いてあったカッターへ目を遣りました。ただ、追い払いたいという一心で。

 ここで、係長が私と彼女の間に割って入りました。いつの間にか誰かが呼んでいたのでしょう、達ちゃんの部署の係長と課長も来ています。勝手に持ち場を離れたことを叱られながら、彼女はどこかへ連れていかれました。

 その時、彼女は私を振り向いてこう叫びました。

 

「天ちゃん! 私、天ちゃんのことが羨ましくて、天ちゃんみたいになりたいのに、なんでわかんないの?」

 

 私はぞっとしました。

 周りのひとたちもみんな、固まっていました。

 それから、彼女は会社に来ませんでした。病休扱いにされているとのことです。私はその間上司や人事の担当者に今まで彼女にされたことを話すように言われ、つぶさに伝えました。

 三日後に彼女には来月一日付で異動の辞令が出ました。関連会社の小さな支所へです。そこは飛行機と電車を乗り継いでも何時間もかかるところなので、私はほっとしました。

 会社の早急な対応に、心から感謝です。

 

 ところが、一難去ってまた一難。

 私は、あれからなんだか疲れてしまって、気力が出ない日々を送っていました。同僚たちも、今更彼女の異常さを話題にして慰めてきます。本当にうんざりです。悪意がないのはわかっているので、時間が経って私の気持ちが落ち着けば、また以前のように接することができるのでしょうが。

 ネガティブなことしか考えられなくなっている私に、彼はよく付き合ってくれました。根気よく話を聞き、落ち着ける場所へ連れ出して、少しずつ人と接する楽しさを思い出させてくれました。本当に、私にはもったいないいい人です。

 

 その日は日曜日で、私は彼と映画を見に行く約束をして、現地で待ち合わせをしていました。ぶらぶらと歩いて、近道の狭い路地を抜けようとしたところで、前を歩く彼の姿が見えました。私が声をかけて手を振ると、彼も振り返してくれます。小走りに近寄ろうとして、私は後ろからバイクの爆音が凄い速さで近づいてくるのに気が付きました。こんな狭い道を、本当に迷惑です。私は避けようとしたのですが雨水溝の蓋にヒールをひっかけて転んでしまいました。バイクは急ブレーキをかけましたが間に合いません。

 ぶつかる、と思ったそのとき。

 私の体は一瞬宙に浮きました。薄曇りの空が、不思議なくらいきれいに見えたのをはっきり覚えています。それから、地面に叩きつけられ、地面と私の体が擦れるのを感じ、「思ったほど痛くないな」と他人事のように思いました。

 手足も、なんとか動きます。

 バイクのエンジン音、タイヤが細かな砂利を踏む音が聞こえます。

 私は体を起こしてみました。

 私の2メートルくらい後ろで、脱げたパンプスがヒールをグレーチングの穴に嵌りこませたまま、中敷きを間抜けに空へ向けていました。

 そして、そこから10メートルほど離れたところに人が倒れていました。

 彼でした。

 名前を呼んでも、反応がありません。

 額が切れ、鼻からも血が流れていました。

 彼は私を突き飛ばして、自分はまともにバイクにぶつかって吹っ飛ばされてしまったそうです。バイクの男は、彼が動かなくなり私が起き上がろうとするのを見て、倒れたバイクを起こすと一目散に逃げてしまいました。でも、それは後から警察に聞いた話で、動転しきっていた私は救助に集まってきた人たちには目もくれず彼に這い寄り、縋りついて気絶していました。

 

 私は軽い擦り傷と打撲程度でしたが、彼は数々の緊急検査に回されました。

 彼のCT検査中、遠い街から駆け付けてこられた彼のご両親に、私は暗い病院の廊下で土下座しました。土下座というより、申し訳なさにへたりこんでしまって立てなかったというのが本当です。彼のご両親は優しい方々で、私に温かい言葉をかけて助け起こしてくれましたが、私はそれがつらくてなりません。

 彼は命には別条がなく意識も無事戻りました。しかし、頭がい骨骨折と脳内出血を起こし、右半身に軽い麻痺が出ています。

 主治医の先生によると、症状は軽いし彼も若いので、完全にとはいかないまでもリハビリすれば元に近い状態には戻るだろうとのことでしたが、私は罪悪感とショックで食事も入浴もできず、心療内科から診断書をもらって休職しました。そして、彼の病室へ来ては泣き、かえって彼に慰められる日々を過ごしました。言語野に脳出血の影響を受けて、彼の言葉は少し聞き取りにくくなってしまったというのに。

 

「天ちゃんのヒーローになれて俺はうれしいんだから、もう泣くのはやめなよ」

「だって……だって……私と付き合ってなかったらこんなことにはならなかったのに」

「もし、轢かれそうだったのが天ちゃんじゃなくてその辺の人でも俺はああしてたと思うし、そんなことは考えなくていいよ」

 

 毎日やって来てめそめそする私のことは、彼は本当はうっとうしかったのかもしれません。でも根気よく、彼は針が飛んだレコードのように同じことを言って泣く私を慰めてくれました。

 

 そんなある日、彼は、病院の窓から見えるビジネス街を見ながら言いました。

 

「そろそろ復職を考えたら? 仕事場でもみんな天ちゃんを待ってるんじゃない?」

「……だって私、あなたに付き添いたいし」

「でもさ、もし俺が働けなかったら養わなきゃいけないだろ?」

「うん」

 

 彼はちょっと黙って、私を見て片側が若干麻痺した顔に渋い表情を浮かべました。

 

「あー、失敗した」

「え、何か失敗したの」

「うん。情けない」

「え?」

「言いたかったのは、俺を養えとか、そういうことじゃないんだ」

「でもみんな私のせいだもん」

「こんな状況で言うことじゃなかったな」

「気にしないで! 私が養うよ! 全力で!」

「いや、リハビリでだいぶ良くなるっていうしさ、養うとかじゃなくて、二人で頑張っていけたらなって……あー、意味わかってる?」

「わかってるよ。私、頑張って償うから」

「ごめん、ちょっと仕切り直していい?」

 

 彼は、回らない舌をもどかしそうにしながら、ベッドの上で言いました。

 

「結婚してくれませんか」

「……」

 

 息をのんでいる私に、彼は続けました。

 

「罪悪感とか償おうとかそういうのはナシで、自分の意思で返事してよ」

 

 そして、ちょっと俯きました。

 

「俺、リハビリ頑張って、負担掛けないように努力するから」

 

 彼は、こんな体で私に捨てられるのが怖かったのでしょう、涙ぐんでいました。

 もちろん、答えはYES以外ありえませんでした。

 

 それから一年。

 バイクで逃げた男は捕まり、賠償金も払われました。

 退院後も彼は取引先の会社に勤務し続けています。心配していた体の機能障がいも随分回復しました。

 私も職場に復帰し、しっかり働いています。

 結婚の話も、双方の家族や職場の人たちにとても喜ばれ、祝福されています。

 一週間後の結婚式を控え、私は、彼と支えあって頑張ろうという意気込みと幸せでいっぱいでした。

 

 そこへ、不意に、あるニュースが舞い込んできました。

 達ちゃんが交通事故で亡くなったというのです。

 

 達ちゃんは出向先で、取引先の人とお付き合いを始めたそうなのですが、その人の目の前で、走ってきた大型バイクの前に転んで見せたそうです。

「笑って手を振りながら、芝居がかった動きで走ってきたバイクの前に倒れた」と達ちゃんの恋人は言っていたという噂です。目撃していた人が多くいたので、交通事故ではありますが、自殺として扱われるのでしょう。

 葬儀に行った同僚によると、達ちゃんの家族は皆、なぜか顔や頭など、ひどい火傷の痕や黄色い内出血の痕、髪を束で引っこ抜かれた痕がたくさんあって、どこか娘の死を喜んでいるように見えたそうです。

 

 私はさっそく彼にこの話をしました。

 

「人の死を喜んではいけないっていうのはわかっているけど、私本当にほっとしてる」

「うん」

「軽蔑する?」

 

 彼はちょっと暗い顔をして言いました。

 

「いや……軽蔑しない。俺も同じ気持ちだから」

「え?」

「天ちゃんが不安定だったし、俺も忘れたかったから言わなかったけどさ……俺、実は入院中に天ちゃんの友達だっていう女性に会ったことがあるんだ。天ちゃんにそっくりだった。鼻だけじゃなくて、ほんとにコピーみたいになってた」

「うそ」

「最初、天ちゃんのふりして馴れ馴れしくしてきた。口調もそっくりで本当に気持ち悪かった。でも表情とかがロボットみたいで整形っぽかったし、声も体つきも違ったし、すぐ天ちゃんが話してたやつだって思ったよ。誰だって尋ねたら、悪びれずに『あーあ、ばれちゃった』だってさ。それから、天ちゃんの親友ですって自己紹介された」

「親友じゃない!」

「わかってるって」

「それから、達ちゃんは何て?」

「思い出したくもないんだけど、天ちゃんとはどういう風につきあってるのかしつこく聞かれた。セックスはどういう風にしてるのかとか、根掘り葉掘り」

「……答えたの?」

「答えるわけないよ。だけどね、事故のことを聞かれたときは、正直に細かく答えた」

「……」

 

 私は一つの事実に突き当たりました。

 彼女は死ぬつもりは全くなかったのです。

 おそらく、彼女の中では、私と同じように恋人に救われて幸せいっぱいの大団円、という筋書きだったのです。

 私たちは黙り込み、しばらくしてから彼が言いました。

 

「罪悪感を一生背負う彼女の恋人やバイクの人が、すごく気の毒だ」

「うん、本当に」

 

 これが、どういう道筋をたどって、私の幸せを壊そうとする人が一人減ったのか、という話です。私も彼も、この話は墓場まで持っていきます。

 

 婚礼の日、私は鶴が羽ばたく綸子の白無垢を着け、鏡を見ました。

 きっと彼女が生きてきたら、私のウェディングプランも、衣装も、会場もすべて真似され、私の一生に一度の思い出の日はめちゃめちゃに穢されていたのでしょう。


 

               ――了

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