チャイナ・ローズ
大叔父のオーランドが死んだ。
散歩中に倒れて農業用水路に落ち、見つかったのは二日後だったという。
生涯独り身だった。
公証役場に預けられていた遺言状には、僕が大叔父の家の相続人に指定されていた。他の親族は、吝嗇家りんしょくかの大叔父が貯め込んでいた株券や口座預金などの動産をもらってほくほくしていたが、僕がもらったのはスウェイルデイルでも西外れのド田舎、幽霊が出そうなおんぼろ一軒家。僕を相続人に指名した理由については、怪異に動じなさそうだから、だそうで、遺言状を読んだ親類一同は気味悪がっていた。
しかし、勤めていたグラスゴーの文具店が潰れて求職中だった僕は、フラット一間の家賃だけで青息吐息だったので、そこに住むことにした。
その家の中は手つかずだった……動産類が保管してあった書斎以外は。
ソファに投げ出されたセーターも、テーブルの上のパン屑もそのまま。
まずは、大掃除だ。
特に大叔父に対する思い入れもないので、老人臭をたっぷり吸いこんだものは処分した。売って現金化できたものもあり、当面はこれで何とかなる。きっちり掃除洗濯すると古いなりにこざっぱりした。
庭のほうは荒れ放題で、接骨木にわとこの生垣から侵入してきた灌木や雑草が茂っている。
その真ん中にぽつんと、小さな薔薇の木がある。人の手が加わっていると思しきものはその薔薇と、申し訳程度に薔薇を守る錆びたアーチだけ。
薔薇と言っても、花屋で売っているような派手なやつではない。
花は濃い紅色で、大きさ、花びらの数や重なりが、その辺の園芸種よりやや控えめだ。秋の終わりで花は散りつつも、まだティーローズ系の典雅な香りがする。
根元の札の文字は、庚申薔薇ロサ・キネンシスと読めた。確か中国の野生種だが、個体差なのか花びらの先には縮れやカールがなく、丸みのある花姿はなすがただった。
掃除も一段落したので、秋の日差しの下、棚の奥にあった景徳鎮の茶器を庭先のテーブルに持ち出し、アウトドア用のコンロで湯を沸かして紅茶を淹れることにした。
青い柳模様のカップに牛乳を足して、総菜屋デリで買ってきたレバーパテのサンドイッチをデイバッグから出していると、ふと手元が暗くなった。
見上げると、エキゾチックな一重の目の輝きにぶつかった。
十歳かそこらの、少女とも少年ともつかぬ子どもが僕を訝し気に眺めている。
僕は狼狽えた。
「誰? 近所の子?」
「私はここに住んでおる。お前こそ誰じゃ」
変な言葉遣いの、子どもの高い声。
顔は極東アジア風だ。おそらく中国系。
結い上げた黒い髪につりあがった黒い目。
派手な紅のアイメイクは歳に不相応なのに、東洋人らしいきめ細かな肌と顔立ちに馴染んでいる。
刺繍がふんだんに入った衣装は中国清代のものに見えた。
髪には薔薇の髪留めを飾り、垂れ下がった簪かんざしが小さく鳴る。
出で立ちは女の子のようだが、そうとは言い切れない不思議な少年らしさもあって、まあ、きれいな子だった。
「ここに住んでるって?」
「そうじゃ。オーランドと一緒に住んでおる。オーランドはどこじゃ?」
そいつは、口調や態度がやけに尊大だ。
「死んだよ」
「死んだとな?! ……ヒトはすぐ土塊(つちくれ)に還ってしまうのう」
そいつは、悲し気な顔をした。
僕は大叔父がよからぬ性癖を持っていたのか、または隠し子ではないのか、と心中穏やかではなかったが、とりあえずカップを置いて、握手を求めてみた。
「僕はマックス。ここを、大叔父のオーランドから相続したんだ」
僕の差し出した手は、我が文化に握手なぞはないとばかりに無視された。
「ソウゾク?」
「もらったんだよ、ここを、亡くなったオーランドさんに」
「はあ……オーランドは、本当におらぬようになったのじゃな……」
こまっしゃくれた呟きとともに、そいつは寂しそうにため息をついた。
大叔父の死を悼むためのひとときを置いてから、今度は僕が訊ねた。
「君、名前は」
「月季(ユエヂィ)という」
「失礼だけど、男の子? 女の子?」
「どっちでもなくどっちでもある」
「え」
「月季は、ヒトのような下賤のものではないので、男でも女でもない」
「ヒトじゃなかったら、何」
月季は小さな薔薇の木を指差した。
「あれじゃ。あれが私じゃ」
「嘘だろ」
普通どんな人間もそう言うと思う。
「嘘ではない。ほれ」
やにわに、月季はコンロに手を翳かざした。
「危ない!」
僕は慌てて、黄桃色の滑らかな手をコンロの炎の上から払いのけた。
「何やってんだ! 火傷するだろ?!」
自称「薔薇の木」は僕のいうことを完全に無視して、したり顔で言った。
「私の木を見てみよ」
振り向くと、樹の一枝が薄く煙を上げている。
生木のみずみずしさに炎を上げこそしなかったが、葉が焦げている。
「本当に……本当に薔薇? え? あの薔薇が? 薔薇の精ってやつ? ええ?」
「バラバラ言うでない、うるさい。こちらは体が焦げたというのに」
「あっ、ああ!! 冷やさないと!」
「私は血肉を持たぬゆえ冷やさずともよい、そんなことより水をくれぬか」
そうか、大叔父が他界してから、しばらく雨は降っていない。
きっとこの東洋の薔薇の精は渇きを訴えに来たのだ。
僕が薔薇の木の根元に水をたっぷり撒いて戻ると、月季は勝手に僕のサンドイッチを食べ終え、カップの中身を優雅に飲み干しているところだった。
腹が立つというより、心配になった。
「そういうの、大丈夫?」
「何がじゃ」
「人間の食べ物とか飲み物は体に悪くないのかなって」
「我らは大抵のものは身の養いにできる。塩のきつーいものとかにあらねばよいのじゃ」
「そうなんだ」
「馳走になった。なかなかよい味であったぞ」
月季はにっと目を細めて笑い、ぴょんと跳ねるように立ち上がった。
中国の老人が竹籠で飼っている、鳴禽のような動きだった。
「お前はここに住むのか?」
「ああ、うん、そのつもりだけど」
「ならば、これからよろしゅう、新しい家主よ」
奇妙な店子は、すたすたとと薔薇の木の元へ行き、ふわっと消えた。
僕は、幽霊ならぬチャイナ・ローズの精がいる家を相続してしまったのだ。
なんだか、僕はわくわくした。
<了>