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シルバーヴァインの空のした

Ⅰ. ゆめのかたち

 この街の名はシルバーヴァインといいます。

 ここでは人の世とは異なる時間が流れ、人に似た、しかし人とは異なる生き物が石畳の上を闊歩しています。

 住人は全て獣でありながら人の姿でもある、いわゆる獣人の姿です。

 それは一度でも人に愛され、人間に憧れたことのある動物たちの夢の姿なのです。

 

 人間は、自分たちの生活をよりよくするために共に暮らす動物を家畜と呼んでいます。彼ら家畜と呼ばれる動物たちは、人間の作った枠に押し込まれて生きながら、人間を愛し、または畏れ、あるいは小ばかにしています。それでもやはり、人間の知恵や能力には敬服し、毛なし猿と揶揄やゆされる姿かたちに憧れたりもするのです。自分がなぜ人間とは違うのか、考えてもわからない頭で必死に考え、悲しくなることもあります。

 この街で、ずっと憧れてきた人間に近い姿を手に入れて、彼らはそれぞれの哀歓を抱いて暮らしているのです。

 

 この街の周囲を薄暗い路地が取り巻いています。町の中心から見てきっかり東西南北に位置する路地の終わりには、キャンドルホルダーのついたスチールのレリーフ看板がかかっています。

 そこに灯された蝋燭は、誰が取り替えているのか絶えることなく小さな炎をゆらゆらさせています。看板に彫られているのは文字で、こう読めます。

 

「ともよ ゆめのかたちの ままにあれ」

 

 その看板の場所が、人間が大きな顔をしてのさばる現世へ通じているのです。現世のどこへ繋がっているのかは誰にもわかりませんが、そこから、人との思い出から抜け出せない動物たちが、世界中からふらふらと入ってくるのでした。

 

 シルバーヴァイン……マタタビという意味を持つ街の名から推し量れる通り、住民の多くは猫です。犬もそこそこ、それ以外の家畜もちらほら。

 人間に保護された後に放されて、でも元の暮らしに再び適応できなかった野生動物や、逃げ出してきたサーカスの動物たちまで。

 

 そして皆、獣人の姿になっても何一つ不思議に思わないのです。何せ夢からできている街なので、それはもう、元からこの姿だったと言わんばかりです。どの獣人もすぐにこの暮らしに溶け込み、仲良くやっています。ゆめのかたちに、という願いとも呪いともつかぬ看板の文句の通り、巨大な象も小さなマウスも人間の大きさとなり、なんの疑問も持たず、時の流れも対等に生きています。

 

 賢いフクロウの学者などは

「これはどういう現象なのだ??」

と不可解さを説くのですが、それを聞いても誰一人動じません。

 あれほど憧れた姿を手に入れて、ささやかながら人間と同じ生活ができているのですから、それがどういう仕組みで起こるのか知ったからと言ってどうだというのでしょう?

Ⅱ. ビビとゾーイ

「こんにちは、いいお天気ですね」

 

 この街の案内所でコンシェルジュを務めるちょっぴりぽよんとした体のサビ猫、ビビが声をかけた途端、街の広場の真ん中にある噴水の縁に腰かけていた女の人―チョコレート色の大きな犬―は顔を上げました。

 シトリン色の瞳が、その女の人の飴色の瞳とぴったり合った瞬間、彼女はちょっぴり驚きました。

 

 その長い、こげ茶の髪の毛は汚らしく縺れて束になり、余り近づくと臭ってきそうです。

 若草物語あたりに出てきそうな古いコットンのドレスを着ているのですがそれも所々かぎざきができて、そこから糸が垂れ下がっています。美しかったであろう手は小さなかすり傷だらけでかすかに血が滲み、剥げちょろけた革のハンドバッグをしっかりと握っています。まさに尾羽打ち枯らした様子でした。

 そんな惨めな状態なのに、その女の人の目は、奇妙な、と言っていいほど明るく、善良さに輝いていました。

 

「あら、こんにちは、つやつやのきれいな猫さん」

 

 汚れっぷりに似合わない優雅さで答えると彼女はにこ、と微笑みました。

 ビビは人の世界にあっても、そしてこの街へ来た後も、毛色のせいかきれいだと言われたことがなく、この犬の言葉をとてもこそばゆく思いました。でも悪い気はしません。彼女はちょっと咳払いしてグレーの制服の襟に手をやった後、自分の職務に忠実であるべくこの犬に訊ねました。

 

「この街は初めてでしょ? 案内しようか?」

 

 彼女はふふ、と笑いました。

 

「ご親切なお申し出はうれしいのですけど、ごめんなさい。私、少し疲れてしまってここでほんのちょっと休みたいのです」

 

「よかったら私のボスのところでお茶でもいかが? ここよりずっとゆっくり休めるよ」

 

「私は犬なのですけど、猫さんは私が怖くありませんの? ご迷惑でしょうに」

 

 ビビはこの、世相に逆らうような出で立ちで放浪中の犬に、行く当てなどどこにもないことを見抜いていました。

 

「大丈夫。どんな動物も関係なく、私たちはあなたを歓迎するよ」

 

 そうしてやってきたのは、この街の役所です。

 ビビが働くこの街の案内所は、役所の生活環境部が設置しているのです。

 

 お茶、とはいえ役場の応接室で粗茶を出す程度のことで茶菓子など何もなく、ビビはお腹を空かせているらしいこの犬に期待させてしまったことを少々心苦しく思いました。しかし、この街にやってくるものみんなに公金で菓子を振舞うわけにはいかないのです。彼女は気の毒に思いましたがどうしようもありません。

 その犬はゾーイ、と名乗り、丁寧に礼を言って温かいカップに口をつけました。

 もともとは目も明かぬうちに捨てられた子犬だったのですが、たまたま裕福な老婦人に拾われで何不自由ない生活をしてきたこと、数か月前飼い主を亡くし、その親族に「こんな大きな犬うちでは飼えない」と引き取りを拒まれ、住み慣れた家も売却されてしまったこと、これからの身の振り方に悩んではいないが困ってはいることを彼女は穏やかに語りました。

 生活環境部長である三毛猫、キャリコはハシバミ色の目を細めて考え込む風でした。

 

「あのね、ゾーイちゃん」

 

ずいぶんと馴れ馴れしい口調です。この街に古くからいて役所で万年課長をやっているキャリコにとっては、この街にいるものもやって来るのものも家族みたいなものなのです。

 

「ゾーイ、とお呼びくださいな。ちゃん付けされるほどの年齢でもありませんもの」

 

 ゾーイはやつれた頬に微笑を浮かべました。

 

「ふふ、私から見るとずいぶん若いわ。でもあなたがそうして欲しいならそうしましょうね」

 

「ありがとうございます」

 

「……この街の外れに、もう20年ほどだれも住んでいない小さな家があるんだけど、そこに住むというのはどうかしら」

 

「あら、賃借料はいかほどですの?」

 

「その家は誰のものでもないのよ」

 

 ゾーイはきょとんとしました。

 

「では、普通はこの街が接収するものではございませんの?」

 

 この犬は小難しいことを言い出しました。飼い主はこの犬をさまざまな法的交渉の場にも連れて行っていたようです。

 キャリコはにこにこしました。

 

「ゾーイ、ここはね、私たちの街なの。細かい決まりごとは忘れてもいいのよ」

 空のカップに目を落とし、犬はその言葉を反芻はんすうしているようでした。

 

「では、私は何のお支払いもなしにその家に住んでよろしいのでしょうか?」

 

「もし持ち主がいるなら家賃を払わなければいけないけれど、そこなら無料よ。ただ、あの家は建物自体はしっかりしてるけれど藁わらぶき屋根で維持する費用と労力がねえ……今は屋根に雑草がぼうぼうだわ。庭ももう荒れ放題なのよね」

 

「自然たっぷりのお家ということですわね」

 

 ゾーイは少なからず興味を持ったようです。

 

「傷んではいるけれど家具もそのままだし、次にあなたが本当に住みたい家を見つけるまでの仮住まいと考えてもいいんじゃないかと思うんだけれど」

 

「素敵。ぜひ拝見したいですわ」

 

「じゃあ、ビビに案内させましょう」

 

 その家は頑丈な作りでしたが、古い上ひどい荒れようでした。

 それでもゾーイはそこがとても気に入りました。

 

 彼女が後生大事ごしょうだいじに握りしめていたハンドバッグの中には宝石があしらわれた首輪が何本も入っていました。

 その宝石の一つ一つが大変高価なものです。

 大事な思い出があるものだけを残して、ゾーイは涙ぐみながら、キラキラするものが大好きなカラスの宝石商に売りました。

 そのお金で、彼女は大工、屋根の葺き替え職人を呼びました。さらに掃除道具や補修道具、ファブリックなどなどを買い込んで、出来るところは自分で塗り、貼り換えました。

 犬として人間の世界にいた頃、使用人たちのしていることや出入りの工務店の人々の仕事を注意深く眺めていたことがこんなに役に立つとは。

 人生、何も無駄になることってありませんわね、と大きな雑種犬は呟きました。

 

 よれよれのドレスを着た女の人がそうやって作業していると、さすがに人目も引きます。

 

「変なかっこの汚い犬だ……」

「あの屋根にぺんぺん草生えた家に住むらしいぞ」

「喋り方も変だぞ」

 

 そういう声が聞こえても、ゾーイは気にしませんでした。

 新参者である自分がどんな風体でどんな行動をとっても、訝しく見えるだろうと思ったのです。

 修繕や掃除で立った埃を追い出すために大きく開け放ったドアや窓から物見高い猫や鳥たちが覗いているのと目が合うと、ゾーイはにこやかに挨拶しました。

「ちょっと変ってはいるがいいひと」という評判へ落ち着くのに、そう時間はかかりませんでした。

 

  ゾーイはほこりまみれのカーテンを洗って繕い、ソファカバーや椅子の座面を蚤のみの市いちで買ったシーチングとステープルで張り替え、家じゅう磨きました。

 キッチンは他の部屋より1ヤードほど下がった造りで、床面ゆかめんの段差に当るところにコンロやオーブンがついていました。冬にはペーチカやオンドルのように料理する時の熱で効率よく部屋を暖められるような仕組みになっていて、暑い季節には熱い空気を通す穴に蓋をし、通風孔のルーバーを開ければよいのです。

 ゾーイは煙突の煤すすや中に溜まっている灰や炭の屑を掻きだして頭から真っ黒になりました。

 

 庭もなかなか素敵なのです。

 たくさん野萵苣(コーンレタス)や蕪が自生し、様々な野の花が咲いています。食べられるものは摘み取ってキッチン行きで、それ以外はほどほどに見栄えよく抜いたり刈り込んだりしました。

 すみれや野菊を見つけると注意深く根元から掘り取って、荒れ放題の小さな花壇や大きな鉢に植え替えました。

 夜は夜で、布の雑貨を縫い綴ります。何不自由ない暮らしで縫い物なんかしなくてもよいのに、田舎暮らしを懐かしみつつ眼鏡をかけて針を持っていた女主人を思い出しながら。

 

 そうして一か月も経つと、近くの子どもが「お化けが出そう」と寄りつかなかった古い家は、昔の農家を髣髴ほうふつとさせる住み心地良さそうな家になりました。家の主も、つやつやした巻き毛と、これもまた蚤の市で買った布と旧式の足踏みミシンで作った新しい服で見違えるように小ざっぱりとしました。

 その変わりようには、久しぶりに街角でゾーイを見かけたビビが面食らって声をひっくり返したほどです。

 

「ゾーイさん?!」

 

「あらビビさんごきげんよう」


 

 ゾーイは立ち止まって足元に大きな蓋付きバスケットを置きました。

 ビビは呆気にとられた顔で彼女を見ています。

 

「どうかなさいまして?」

 

「……ずいぶん、きれいになっちゃって」

 

「お上手ですわね、ビビさん」

 

 その飴色の瞳だけは以前と変わらず明るく輝いています。

 チョコレート色の尾がゆっくりと揺れています。気性のいい犬なので、とても喜んでいるのです。

「これもみなさんのおかげですわ。ちゃんとお食事ができて、お風呂に入れて、ベッドで眠れることに毎日感謝しておりますの」

 

「私たちはごく当たり前のことをしたまでだよ」

 

 ゾーイはほほほ、と笑いました。

 

 「『当たり前のこと』に誰も感謝しない社会なんて、私は寂しいですわ」

 

 この街のコンシェルジュは、ふわりと心が温かくなりました。

 

「公僕にはありがたい言葉だよ……ところで、その籠、重そうだね。買い物帰り?」

 

 ゾーイの尾がより高く揺れ始めました。

 

「最近、ポピさんのお店に私が作ったジャムや小物を委託販売で置いていただけることになりましたの! 今日はその納品ですのよ」

 

 蓋を開けて見せたバスケットの中には、小さな繻子のポーチが5つと、くるみボタンや髪留めがたくさん、それに手書きのラベルが貼られたジャムやマーマレードの小瓶がいくつも詰められていました。

 

「たくさん木苺を取ってきて作りましたの。鼻が利くので、森へ行けば何かしらいいものが見つかりますわ。この間はキノコ狩りの穴場も見つけたんですのよ」

 

 少々鼻を上向けながら、ゾーイは得意げです。

 この、自分で編んだと見えるクロッシェレースの手袋をはめたゾーイの手は、台所や庭仕事に荒れ、森では木イチゴの茂みでつけた小さな傷だらけなのでしょう。

 

「これも森で採れたの?」

 

 セロハンが貼られて中身が見える浅い箱に様々な色のすみれやマロウの花、ミントの葉などが霜のように大きな粒の砂糖を纏って並んでいるのを見つけ、ビビは訊ねました。

 

「これは森と、あとはうちの庭で採れたものですわ。砂糖漬けですの、可愛らしいでしょう?」

 

 すみれの砂糖漬けと言えば、味自体は砂糖の甘みともともと素材の持つ香りだけですが、クリームの柔らかな鳥の子色やチョコのシックな茶色に紫のすみれの砂糖漬けを飾ると、この上なく気品のあるお菓子ができるのです。

 

「レオニさんのお店に持っていきますの。この間もほんの少しですけど持っていきましたら、お断りしましたのにお代を下さって、注文までいただきましたのよ」

 

 ああ、このひとは大丈夫だ、とビビは思いました。

 この犬はおっとりしているようで、自活能力はしっかりあるようです。

 

「あの家、この間前を通ったんだけどすっかり見違えたよ。仮住まいじゃなくて、ずっとあそこに住むんだよね?」

 

「ええ、あんなに頑張ったんですもの。近くにご用のときはぜひお寄りになって? パイやビスケットには自信がありますのよ」

 

「じゃあ、来月チャリティバザーを役所前のロータリーでやるから、そのときにお店を出したらどう? 今出店者募集中なんだ」

 

「まあ! 面白そうですわね」

 

 頭の中でバザーの算段を始めたらしい楽しげなゾーイに、ビビはさらに幸せな気分になりたくてもう一つだけ訊ねました。

 

「この街は、気に入った?」

 

「ええ、もちろん!」


 

   ――ビビとゾーイの章、おしまい

 

Ⅲ. カータの店のミドリとアズール

 白蛇のアズールは自分の勤務する宝石店の、教会で行われるバザーへの出店内容に反対していました。

 

「何でバザーでジュエリー売らなきゃいけないんですか」

 

 度のきつい眼鏡の奥で珊瑚の色をした目を顰め、背にカラスの翼を生やした店主に反論しています。

 

「他の店舗は、ファンネルケーキとかジェラートとか出してるのに、うちだけなんでこんな」

 

 店主のカータはきょとんと目の前にいる若い店員を見て、答えました。

 

「これなら他の店と絶対被らないだろう?」

 

「確かに被らないでしょうけど!」

 

 カータはおしゃべり好きで快活なカラスでした。

 でも、経営者としてどうなのか、アズールには頭が痛いことが多々ありました。

 カータはなかなかの目利きで、デザインも品質もとてもいい品をたくさん仕入れてきます。困ったことに、カータは本当に宝石や貴金属が好きで、手もとに置いて眺めているのが嬉しいだけなのであまり儲けを気にしていません。一日中きらきらやつやつやを眺めて触ってうっとりと過ごしています。

 アズールはここで働き出して二年、まだわからないこともあるのに、いつもお店の儲けを計算し、役所への書類も書きます。カータはこのショップへ作品を納めに来る職人たちやお客さんと楽しく馬鹿話をし、金額や支払い方法などのあまり愉快でない話はアズールが切り出すという役割分担になっていました。

 

 カータは真面目そのもののアズールに少し辟易した口調で言いました。

 

「もしかしてファンネルケーキやりたかったのかい? だったら……」

 

「うちのお隣のテントがファンネルケーキ出すのにどうして僕たちも同じの出さなきゃいけないんですか!」

 

「だろう? だからジュエリーでいいんだよ。仕入れとか食中毒対策とか考えなくていいし」

 

「お祭りに来てる人たちがちょっとしたお小遣いで買える値段じゃないでしょう、これ」

 

「売れなかったら売れなかったで、暇で楽でいいじゃないか。ところでアズール君眉間に皺よってるよ? 客商売なんだしニコニコしようよー」

 

 話が通じません。

 アズールには、これは爬虫類と鳥類という隔たりのせいなんだろうか、と思い悩んだ時期もあったのですが、誰に相談してもカータが極楽とんぼだということが浮き彫りになっただけでした。

 アズール君がいればうちの店は大丈夫だなあ、あははと笑われたときも喜んでいいのか嘆くべきなのかわからなくて、彼は曖昧に笑っただけでした。

 白蛇は金運を運ぶと言われ、アズールが勤務するようになってから確かにこの宝石店は売り上げを伸ばしましたが、これは彼が生まれ持った幸運なのか、それとも彼の従業員としての努力なのかわかりません。

 

「こっちの店は閉めて二人で交代で露店の店番やってさ、休憩のときは他の露店とかぶらぶらすると、この店でじめっと客待ってるより楽しいと思うんだ。終わったら、商工会のみんなとぱーっと打ち上げすることになってるし」

 

「もしかして、もう決定事項なんですか?」

 

「うん、もうチラシ刷っちゃってるよ」

 

「もう決まっちゃってるならそう言って下さい! まだ変更可能なのかと思いました」

 

「アズール君怖い顔ー」

 

 カータはアズールの眼鏡を押し下げて、眉間のしわを指でぐいぐい伸ばそうとします。でもなかなか伸びませんでした。

 

 アズールはつやつやした白い髪、瞳孔を中心にした真っ赤な瞳、男にしては華奢な雰囲気というドラマチックな姿をしています。でも、アルビノで弱視なのでいつも漫画のように分厚い視力矯正用の眼鏡をかけていて、その眼鏡のデザインと同様に、性格も好みも地味なこと極まりありませんでした。

 彼は几帳面で、こうあるべきという規範意識が強すぎるほど強く、そして不満や鬱屈を溜めに溜めこんで爆発するという性格です。しかもストレスの発散が上手い方ではありません。

 酒は好きなのですが、文字通り蟒蛇うわばみで全く酔わないので気持ちが晴れるというようなものでもありません。もちろんしまり屋のアズールはそんな無駄なことはしません。

 暮らしぶりも実に質素で、プライベートではカータさんのお古をだぼだぼと着ています。当然ギャンブルも派手な買い物もしません。

 趣味と言えば、トランジスターラジオでニュースを聞きながらゆっくりとお湯につかることくらいです。

 

 アズールはカータに下げられた眼鏡をぐいっと押し上げました。

 

「……わかりましたよ、もう」

 

 こんな口を利きますが、アズールはカータを尊敬し、感謝しています。

 アズールにはこの街へ来る前の記憶が一切ありません。

 鼻から血を流して気分が悪そうに身体を揺らしている白蛇を前に役所や警察署の連中が困っていると、通りすがりのカータが目敏くアズールのうなじにある鱗に目を留めて「お? 白蛇? 珍しいねえ!」と即決で身元保証人になってくれたのです。仕事を与えて根気強く教え、この店の二階にある自分の住まいの一室、というべきかどうかわからないのですが、とにかく狭くて静かで、アズールには最高に居心地の良い屋根裏に住まわせてくれた恩人なのです。

 この青アズールという名も、カータが付けてくれたものでした。

 アズールの鱗は白、目は赤。

 どうして青という名を付けたのか誰も……アズール本人にもわかりませんでした。

 

 カータは笑いました。

 

「よかったよ、納得してくれて。じゃあ当日よろしく!」

 

 そのとき、よく磨いたガラスのドアがゆっくりと開きました。

 ステンドグラス風の枠と幾何学模様があしらわれてとても素敵なドアなのですが、開閉に力がいるので、力の弱いひとだとどうしてもゆっくりになってしまうのです。

 

「こんにちは」

 

 入ってきたのはモスグリーンの髪の、幼い顔だちの娘でした。一応もう大人なのですが、一昔前のデザインの毛玉のついたカーディガンを着け、何年履いたかわからないような擦り切れたズックを履いた、ぱっとしない小柄な娘です。

 アズールは挨拶を返しました。

 

「こんにちはミドリさん」

 

 このミドリという娘は遠い東洋の国の血を引く蛇で、宝飾品を作っている人間の家の天井で育ったという話です。

 ミドリはもともと拾ったガラスの欠片を磨いて使ったアクセサリーを作っていました。それを雑貨屋に持ち込んで、販売してもらえないかと小さな震える声で頼んでいるのを見かけたカータがスカウトし、歳を取って宝飾品作りを引退した知り合いに口利きして弟子入りさせたのです。

 カータは気まぐれで飄々としていますが、あとさき考えない優しさもあって、そういうひとがら……トリガラというとたいへんなことになってしまいますからね……のおかげでこの宝石店はお客が絶えずに済んでいるのです。ただし、お客さんが来てくれることと、買ってくれることはまた別の話でした。

 そしてミドリは、今ではだいぶ腕をあげて最近少しずつこの店に作ったものを卸しに来ます。

 ビー玉のように丸く磨いたリーズナブルな貴石に金のシンプルな台座をつけて、ぽってりころんとした指輪やペンダントトップ。

 いろんなカラーストーンで作った小さな野の花を綴ったネックレス。

 ミドリが作るアクセサリーはどれも、わたしをあなたのそばに置いて、と呟くような可愛らしさがあります。あまりお金を持っていないひとでも気張らずに買えて、ちょっと遊びに行くときに着けられるような、そういうものをミドリは作るのでした。

 

「カータさん、今度のバザー用のお品、もってきました」

 

 入ってきたミドリは、ガラスケースの上に一つ一つ傷つかないように包んだベビーパールのチャームがたくさん入った箱を置きました。

 

「ああ、もうバザー用の品を……」

 

「はい。先週カータさんにご注文いただいたので」

 

「早々の納品、ありがとうございます」

 

 横目でカータをじろっと見ながら、アズールはミドリに言いました。

 ミドリは訊ねます。

 

「あの、今度のバザー、ここは初出店ですよね」

 

「そうなんだよ。今まで出なかったのがもったいないよ」

 

 カータがここぞとばかりに言いました。

 ミドリが丸い飴色の目を細めました。

 

「楽しみですね」

 

「そりゃあもう!」

 

 教会のバザーは、楽しいお祭りとしてこの街の住人たちに心待ちにされているのです。

 

「ああ、1キャラオーバーのネックレスとか指輪とか、売れたらいいですね」

 

 少々やけっぱちな気分になりながら、アズールは言いました。

 おずおずとミドリが切り出します。

 

「……あの、もし手が足りなかったら、私もお手伝いを……」

 

「いえ、大丈夫ですよ」

 

「あ……そうですよね……差し出がましいことを言ってごめんなさい」

 

 なんでもかんでも、すぐミドリは謝るのです。

 そういうところに、アズールは少しいらいらします。そしてそれを気取られないように口調に気を付けながら、いつもこう言います。

 

「謝るようなことは何もしてないんですから、謝らないでください」


 

 バザー当日、教会前の広場は多くのひとでにぎわっていました。

 石畳の上、古着や不要品のチャリティ販売でそのひとなりの掘り出し物を見つけて、みんなほくほく顔です。

 噴水近くに並んだドーナツや揚げたじゃがいもの屋台には列ができ始めています。

 そんな中、やっぱり宝石店の露店は周りから浮いていました。

 テントに運び込んだガラスケースの中を見ると、みんな「いち、じゅう、ひゃく、せん」と小声で値札の桁を数え、びっくりした顔で去っていきます。

 手ごろな値段だと思われたミドリのパールチャームにさえ、そうなのです。

 

 カータは店先で金物屋のかささぎと話に花を咲かせています。宝石屋と金物屋という仕事の違いはあれど、ふたりとも幼馴染できらきらしたものが大好きなのです。

 アズールは、先ほど冷やかしに来たあらいぐまの脂っこい指紋が付いたガラスケースを磨いていました。いつも着けている制服の黒いスーツも白い手袋も、カータにお祭りなんだからもうちょっとカジュアルな服でいいよと言われましたが、勤務中はこれを着けていないとアズールは落ち着かないのです。

 

 もうそろそろお昼です。

 ぎしっとテントの庇がきしみ、アズールは顔をあげました。

 何か大きなものが庇に乗っかっているのです。支柱ががくがくと揺れています。

 慌ててアズールが表へ出てみると、すずめの子どもたちが三にんも庇にのって遊んでいます。

 まだ辛うじてテントが壊れないのは、小さな子供で、しかもとても軽い鳥類だったからなのでしょう。

 かささぎとのきらきら談義を中断して、カータが叫びました。

「君たち! そこに乗ると危ないから!」

「あ、からすだ!」

「蛇もいる!」

「やっべ!」

 こすずめたちは背中の小さな羽をパタパタさせて、どんどん他のテントへ飛び移って逃げていきます。そしてその先々で叱られています。

 とうとう三軒隣のはす向かいでクランペットを売っていた大きな犬が商品の端切れで彼らをおびき出しました。犬はこすずめたちを捕まえて何ごとか言った後、何という手腕でしょう、キッチンクロスと紐で急ごしらえのエプロンを作って着けさせ、商売を手伝わせ始めました。こすずめたちも楽しそうです。

 役割を与えてもらって大人になった気分なのか、とても一生懸命です。

 

「ゾーイさん、やるねえ」

 

 通路に出てこすずめたちを目で追っていたカータが感心して呟きました。

 

「そうですね」

 

 アズールもしばらくすずめの子の騒がしくて強引な接客ぶりを眺めていましたが、ふと庇が嫌な音を立てるのに気付きました。

 

「カータさん、これちょっと」

 

「あ!」

 

 支柱の筋交いの留め金が外れかけ、ぐらぐらしています。

 直そうと思って手を伸ばした途端、折悪く風が吹きました。

 庇が一瞬煽られ、大きくテントが傾ごうとしました。慌ててカータとアズールはテントの桁や柱に飛びついて支えます。

 そのときです。

 眼鏡の端っこに何かひらひらしたものが走って近づいてきているのが映ったような気がしたときにはもう遅く、アズールはそのひらひらしたものと勢いよくぶつかってしまいました。

 眼鏡が飛んで行ってしまうのと同時に、悲鳴が上がりました。

 

「きゃっ!」

 

 この声には、聞き覚えがあるような気がしました。

 ごつごつの石畳の上に、黄色のワンピースを着けた娘さんが倒れています。

 

「アズール君、ここはいいからお嬢さんを」

 

 カータはテントの筋交いの留め金を何とか掛け直しましたが、歪んでいるので金物屋のカササギが自分の店へ補強用の金具を取りに行ってくれました。その間、カータは留め金を軽く押さえ続けています。軽く、とはいえ手を放すとまたぐにゃっと歪んでしまうのです。

 アズールは横倒しに倒れた娘さんに慌てて跪き、助け起こしました。

 

「すみません! お怪我はありませんか?」

 

 そう言いながら、起き上ったお嬢さんの気配と小さな呻き声にアズールははっとしました。

 

「ミドリさん?」

 

「はい」

 

「ごめんなさい、痛かったでしょう」

 

「いいえ、私こそ」

 

「立てますか?」

 

「はい」

 

 ミドリは少し這うようにして落ちている眼鏡を拾ってから立ち上がりました。何とか割れずに済んでいます。

 アズールは眼鏡を拾ってくれたお礼を言うと、露店の奥の椅子にミドリを座らせました。

 カータも心配そうですが、今彼はテントの骨組みの一部になっているのでその場を離れられません。

 

「ごめんね、ミドリちゃん。痛いとこがあったら遠慮せずに言うんだよ」

 

「大丈夫です」

 

ミドリは、噴水のあたりからこのテントがぐらぐらするのが見えて、走ってきたのだと言い、少し悲しい目をして俯きました。

 

「私、お役に立てなくて……」

 

「いやいや、ミドリちゃんの気持ちだけで嬉しいよ。ああ、今日はすごくお洒落してるね。可愛くてびっくりしたよ」

 

 気分を引き立てるようにカータが言いました。

 ところが、アズールの目には着せ替え人形の衣装のようなかさついててらてらした安っぽさに見えます。

 

「ほら、アズール君、この色、ミドリちゃんによく似合うと思わないかい?」

 

「そうですね」

 

 短く返事したアズールを、カータが不正解者を見る目で睨みました。そっと足先を伸ばして、白蛇の足をつつきます。

 

――もっと言うことがあるだろう、白蛇君!

 

 アズールは何で責められているのかわからず、しばらくカータとミドリを見比べていました。

 ミドリは俯いたままです。

 やっとアズールはあることに気が付いてはっとしました。

 ミドリの視線の先で、ワンピースの裾が大きく破れています。

 

「本当にすみませんでした。服破れちゃって……こんなにお洒落してきているのに」

 

 安っぽい服とは言え、いつも地味を通り越して貧相なミドリが、せっかくのお祭りのためにお洒落してきたのです。自分がうっかりぶつかってこういうことになったのですから、アズールは苦しくなってしまいました。

 

「いえ……縫えば大丈夫なので」

 

 一方で、カータは不満げでした。

 ずっとテントの金具を押さえ続けている退屈さと腕のだるさも不満に拍車をかけています。

 

「あのさ、ミドリちゃん」

 

「はい」

 

「うちの店員が勤務中に人に迷惑かけちゃったら、やっぱり店主としても心苦しいわけよ」

 

「いいえ、お気になさらないでください、本当に」

 

「アズール君、今からミドリちゃんと服買っておいで。もう昼だし、食べ歩きでもしながらさ」

 

「いえ、そんな……」

 

 ミドリは小さくなって遠慮しました。

 

「いやいや、弁償と精神的苦痛の賠償だから。アズール君、行っといで。業務命令だよ」

 

「でも、カータさんをその状況で置いていけないでしょう?」

 

「大丈夫だって。すぐそこにマグ来てるから」

 

 その言葉が終わらないうちに、金物屋のかささぎがテントに入ってきました。

 

「何? 俺の話?」

 

 遅いんだよ、もう、とぶつくさ言うカラスを尻目に、かささぎのマグはさっさと角材とジャッキでテントを支え修理に取り掛かりました。

 

「……ほらね、もう大丈夫だから、ミドリちゃんと行ってきなさい」

 

「はい」

 

「ほら、これ持ってって」

 

 売上金を入れる小さな金庫からお札を取り出すと、カータはアズールのポケットにねじ込みました。

 

「領収証もらって清算すればいいですか」

 

「バザーで領収証が出ると思ってるのかね白蛇君! それは用途を限定した特別手当だよ」


 

 アズールはカータの言うとおり、ミドリを連れて服を売っている露店へ向かいました。ミドリはチャリティの古着市の品でいいと言ったのですが、せっかくなので新しい品を、とアズールが譲らなかったのです。

 ミドリは裾の破れ目が見えないよう、アズールの制服のジャケットを腰に結びつけています。

 婦人服の露店では、とても大きな灰色の猫マリアンヌが、セミオーダーのスカートの裾をまつっていました。でっぷりとしたペルシャブルーのオスなのですが野太い声をファルセットにして、いつも女性のような言葉遣いで話します。

 

「いらっしゃい、ゆっくり見てってね」

 

 吊るし売りの服をざっと見まわしてみたのですが、アズールにはどれを選んだらいいかわかりませんでした。気を取り直すように、ミドリに訊ねます。

 

「あの、どれがいいですか?」

 

「じゃあ、これ、お願いしてもいいでしょうか?」

 

 おずおずとミドリが見せたのは、その露店で一番安いアンサンブルでした。どう見てもお年寄り向けの柄で、売れ残りの値下げの印がついています。

アズールは、もう一度訊いてみました。

 

「本当にこれでいいんですか?」

 

 もう一度頷かれます。

 

「ええ」

 

 アズールはまた何となくいらいらしました。

 

――どうしてこの娘はいつもこんななんだろう!

 

「……さっき、カータさんに黄色が似合うって言われたでしょう?」

 

 そういいながら、白蛇は服のたくさんかかった中から、鳥の子色の服を見つけて引っ張り出します。

 

「はい」

 

「だったら、これはどうですか?」

 

 それは、ダンガリーで出来たクラシックなシャツワンピースでした。

 

 ミドリは、ワンピースを見ると、スローモーションのようにゆっくりと明るい表情を浮かべました。

 早速受け取って、鏡の前で体に当ててみるとよく似合います。でも、値札を見るとミドリはまたしゅんとしました。

 破れてしまったワンピースも本当は古着なのです。こんな値段の服で弁償してもらっては気が引けます。だけど、おしゃれしてきてそれが古着だったとはアズールには言えません。

 マリアンヌが、裾のまつり縫いを終えて伸びをした後、にこにこと声をかけました。

 

「よく似合うわよ、あなたの髪の色にぴったり」

 

「ありがとうございます」

 

「このカーテンの奥で試着ができるわ。着てみなさいな」

 

 そういいながら半ば強引にミドリとワンピースを試着用のスペースへ押し込みました。

 

「はい、これも着けてみてね」

 

 さらにカーテンの隙間から、商品のマクラメのサッシュとヘアバンドを突っ込みます。

 ごそごそとミドリが着替えている間、マリアンヌはアズールに囁きました。

 

「可愛らしいお嬢さんねえ」

 

「はい」

 

「男の子に服を選んでもらえるなんて羨ましいわあ」

 

「……」

 

 アズールは何と言っていいかわからずに、いつものように曖昧ににこにこしました。

 そうこうするうちに試着スペースのカーテンがそうっと開いて、ミドリが出てきました。

 いつもおどおどして、悲しげな子どものようなミドリに、このワンピースは快活さを与えていました。少しエスニックなレンガ色のベルトとヘアバンドがすてきなアクセントになっています。

 

「あらあ、やっぱり可愛いわあ!」

 

 マリアンヌは満面の笑みです。

 ミドリはどぎまぎして顔を真っ赤にしています。

 そしてアズールは自分の見立てが間違っていなかったことにほっとしました。

 そこへマリアンヌが顔を寄せてまた囁きます。

 

「ほら、あの角、古靴売ってるでしょ? わかる?」

 

 指差された先はチャリティの古着や不要品売り場です。離れたものが見えにくいアズールは眼鏡の蔓を指でつまんで目を細めながら、はあ、と生返事します。

 

「あそこにね、新古品の靴が出てたのよ。この服にぴったりな、フリンジがついたやつよ。あれ、サイズもいくつかそろってたから買ってあげなさいな」

 

「でも、ちょっと手持ちが……」

 

「大丈夫よ」

 

 マリアンヌは笑って、ミドリに向き直りました。

 

「ねえ、お嬢さん。あなたの着てきたワンピース、譲ってくれたらお代は半額にしてもいいんだけど、どう?」

 

「え?」

 

「下取りだと思ってくれればいいんだけど、だめかしら?」

 

 アズールは小さな声でミドリに言いました。

 

「嫌なら嫌だって言っていいんですよ」

 

 ミドリはちらっとアズールを見て、少し考えました。

 大きな灰色の猫はミドリの言葉を微笑みながら待っています。

 ミドリは答えました。

 

「下取り……していただいてもいいですか?」

 

「ええ、ええ! 喜んで」

 

 こうして、アズールはどことなく引っ掛かるものを感じながら半額の洋服代を払い、ふたりは婦人服の露店を後にしました。

 その後ろ姿を見ながら、マリアンヌはお客さんが着ていた黄色のワンピースを広げてみました。

 

「今見るとダサいわねえ、縫製もなっちゃいないし……」

 

 それは、昔マリアンヌが一生懸命縫って、そして初めて売れた服でもありました。あの時の喜びがあったから、マリアンヌは今もこの仕事を続けているのです。

 まわりまわって、手元に戻ってきた服を大事そうに撫でて、大きな猫は言いました。

 

「おかえり、また会えてよかったわ」


 

 露店を出た後、大きな猫のアドバイス通り、アズールは靴を買ってミドリに履かせました。

 これでもう頭のてっぺんからつま先までお洒落なお嬢さんです。

 ミドリの表情もずいぶん明るくなっています。足取りも軽そうです。

 反対に、アズールの方が居心地悪そうです。アズールは、自分がこうだと思っていた物事が、そこからはみ出してしまうととことん対応に困ってしまうのです。だからいつもカータに杓子定規と言って笑われるのでした。

 ふたりは蛇のしなやかさで雑踏の中誰にも触れることなくするする歩きます。

 歩きながら、ミドリはきょろきょろしていました。

 小さな子供がやっているレモネードスタンドや、可愛らしいぬいぐるみのくじ引き、ふわふわのわたあめの露店を見ているのです。毎年のバザーで見ているものばかりなのですが、何だか今年は違うのです。何だか色鮮やかに見えるのです。

 アズールはそういうものにあまり興味がありませんが、ミドリが楽しそうに眺めているのは悪くない気分で、でもなんだかこそばゆいのでそっぽを向いています。

 手持無沙汰に腕時計を見て、アズールは言いました。

 

「もうお昼もだいぶ過ぎてますし、食事しませんか?」

 

「はい」

 

「サンドイッチ、一緒にいかがですか?」

 

 手袋を外したプライベートモードの白い掌で、彼はちょうど通りかかったところにあるサンドイッチの屋台を示しました。

 

「はい」

 

 広場のベンチでミドリを待たせ、アズールは少年野球チームが出した屋台でハムエッグと野菜のサンドイッチといちごのイタリアンソーダを2つ買いました。素人恐るべし、サンドイッチの中身のはみ出しやジュースの零れた跡など惨憺たる状態で、細々したことが気になる性質のアズールは目をぱちくりさせました。でも、きらきらした笑顔の野球少年たちにクレームなんて野暮なことはできません。

 こういうこともある、と自分に言い聞かせながらアズールはミドリのもとへ戻り、二つのうち見かけがよい方を渡しました。

 

「あの、おいくらですか? 私、払います」

 

「いえ、これも特別手当の限定使途のうちなので」

 

「お洋服とお靴を買っていただけただけで充分です」

 

 これです。これを聞くと、アズールはまたむっとしてしまうのです。

 ミドリはいつも控えめで、大人しくて、引っ込み思案でした。

 謙虚さという堅い堅い壁で、目の前にいるものの優しさを弾いてしまいます。

 それは、カータのようにうまく物事をいなしてしまうような性格でないアズールには拒絶に等しいのです。

 ミドリの、相手の好意に満ちた申し出を何でも断ってしまう態度は、傲慢と紙一重ではないかとアズールは心のどこかで思ってしまうのでした。

 

「あのですね、ミドリさん」

 

「はい」

 

「あなたは、いつでも何でも断りますが、断られる側の気持ちを考えたことがありますか?」

 

「え?」

 

 仕事以外でこれほど長い時間ミドリとふたりきりになったことがないアズールはとうとう思っていることを言ってしまいました。

 

「僕もカータさんもあなたに親切にしたいと思っているのに、いつだって断るでしょう?」

 

「……だって……あまりご厚意に甘えるとはしたないと思っ……」

 

「はしたなくなんかありませんよ! ミドリさんが嫌だ、迷惑だっていうんならやめますけど」

 

 またミドリがみるみる困った顔つきになります。

 

「いえ、迷惑なんかじゃ……」

 

「じゃあ、人の好意は素直に受けてください」

 

「……」

 

「あなたににこにこしていてほしくて、僕らは親切にしてるんですから」

 

 ミドリが、黙りこみました。

 アズールの言葉を反芻しているようです。

 しばらくして、すん、と鼻をすすります。

 ぼとんぼとんと大きな水の粒が、大きな目から落ちて膝のあたりにしみを作りました。

 

――あっ!

 

 まずい、とアズールは思いました。つい、カータさんの経営者としての姿勢に口出しする調子でお説教を食らわせてしまったのです。

 

「……ごめんなさい、ちょっと僕調子に乗ってしまって」

 

「……いえ」

 

「偉そうなこと言ってしまいました、すみません」

 

「いいえ……」

 

 また少し黙った後、ミドリはハンカチで鼻と目頭を押さえてから一つ大きなため息をついて、言いました。

 

「嬉しいんです」

 

「え?」

 

「私、子どもの頃他人様のご厚意は一度は断るのが礼儀だって……そうしないと誰にも可愛がってもらえないって教わって……ずっとそうしてきたんです」

 

「あ、ああ……」

 

「だから、私に笑っていてほしいとか、好意には素直に甘えていいものだとか……言ってもらえたの初めてなんです」

 

 アズールはその言葉を聞いてしみじみと考え、それからちょっと首をひねりました。

 

「でも、しょっちゅうカータさんがそれっぽいことミドリさんに言ってましたよね」

 

「……え」

 

「ほら、店でもよく」

 

「……そうでしたっけ……」

 

「あーあ、カータさんって普段からふざけてばっかりだから聞き流されちゃったのかな……」

 

 アズールは空を見上げました。

 いいお天気です。もうお昼を過ぎておやつどきが近くなっています。

 

「カータさんは、ほめて伸ばそうと思ってるひとなので……だけど、僕はたくさんの耳触りのいい言葉は、ときどき真意を押し流してしまうんじゃないかと思うんです」

 

 空を見たままそう言って、アズールは首を横に向けてミドリを見ました。

 

「カータさんって、嘘はついてないのにオオカミ少年みたいですよね、カラスだけど」

 

 そう言って、アズールは笑いました。

 ミドリも目元を拭いて、ちょっと笑いました。笑いながら、そう言えばアズールさんが笑うのを見るのは初めてだと思いました。

 

 ミドリはアズールと初めて会ったとき、話し方や表情がどこか冷たいひとだと感じたものでした。

 しかし、アズールの勤務中の誠意溢れる接客や品の良い物腰、商品知識にミドリは努力の跡を見ました。そんなアズールが、ミドリの作ったものをお客さんにお勧めするときの言葉を聞くと、天にも昇る気分でした。

 工房作家や下請け職人との懇親会でも几帳面で真面目で、追加注文を纏めたり、いつの間にか空いたグラスや皿を集めたりして、酔っぱらっていやらしい冗談を言うひとからミドリを庇い、いい頃合いでそっと帰らせてくれました。

 それは、まだ宝飾品職人の世界では駆け出しの自分は、先輩たちからどんな風に絡まれても我慢しなければならないものと思っていたミドリにはびっくりする出来事でした。

 だから、ミドリはアズールのことをとてもいいひとだと思っていましたが、今日はそこへ「実は笑ったりもするひと」という項目が加わりました。

 

 やっとふたりはサンドイッチを食べ始めました

 

「おいしいですか?」

 

 ミドリにアズールが訊ねました。

「おいしいです!」

 

「よかった」


 

「あいつら、帰って来ねえなあ」

 

 宝石を売っている露店で、かささぎのマグがどっかりと椅子に座っています。

 

「まあまあ、想定内だよ」

 

 店主のカータがたっぷりのバターとメイプルシロップのかかったクランペットをぱくついています。店番を口実に、幼馴染のマグにお駄賃を渡して飲み物や食べ物を買いに行かせたのです。

 

「ああいう堅物と大人しすぎて鉄壁の守りの女子って、ふたりで分かり合える時間があれば、いい線行くかもなって」

 

「相変わらず物見高いな」

 

「お前さんもだろ?」

 

 マグはサクランボのジャムとガナッシュのクランペットをカータの前から取り上げて食べ始めました。もぐもぐしながら訊ねます。

 

「そういえばさ、前から聞きたかったんだけどよ」

 

「何だい」

 

「なんでアズールは青アズールなんだ? 普通だったら赤ロートとか白ブランカとかにすんじゃねえか?」

 

 カラスはしてやったりというふうににやっと笑うと、さっそく薀蓄うんちくを並べ始めました。

 

「ミドリは日本語で緑色って意味だけど、日本では緑色のことも青と呼ぶことがあるんだ」

 

「おい、俺はアズールの話をしてるんだぜ」

 

「見かけは全然違うけど彼らはジャパニーズラットスネークという同種なんだ。金運を呼び寄せると信じられていて、特にアズール君みたいなアルビノは神の使いだとか」

 

「だから?」

 

 べたべたになった指をぺろんと舐めながら、鳥類で最も賢いと言われるカラスに生まれついたカータは知識を披露できたことが嬉しくてなりません。

 しかも、自慢の従業員に自分が付けた名前についてのことなのですから、なおさらです。

「彼らは日本語でアオダイショウ……すなわちヘネラル・アズール。すごくカッコいいネーミングだと思わないかい?」



 

      ――ミドリとアズール、の章 おしまい

Ⅳ. モーフィとアーレフ

 黒猫のモーフィはまだ真っ暗な時間に目を覚まし、かんたんな朝食を摂って身支度を整えます。

 そしてカートつきのバイクに乗って花市場に出かけていきます。

 お日様の上端が地平線を擦りはじめるころに、モーフィは荷台に箱づめの切り花や苗のポットをいっぱい積んで帰ってきます。

 店の通路にしまっていたブリキのバケツに水を張り、切り花の延命剤をたらしてから水切りした花を活けて店頭に並べます。

 骨の折れる仕事ですが、モーフィは楽しくてなりません。

 色もかたちもとりどりな花々を並べ終わり、花や観葉植物の苗に水をあげながらモーフィは呟くのでした。

 

――おはよう、妖精さんたち。

 

 こうしてお客さんを迎える準備がほぼ調った店を眺めるたび、まだ若いモーフィはしみじみと嬉しくなります。

 この街は花好きが多く、毎日多くの客がやってきては

「カミツレをたくさん使ってバスケット作って」

「女性に贈るっていうとやっぱりバラの花束かなぁ? 僕はマーガレットの方が彼女に似合うと思うんだけど」

などとそれぞれに選び、悩み、モーフィに相談しては、花を抱えて晴れやかに帰っていきます。

「ありがとうございました。またおいで下さい」

 そのときの幸福感は、何物にも代えられないのです。

 

 モーフィは小さく弱く生まれ、幼い頃からよく寝込んだり吐いたり、毛が抜けてぶつぶつができたりしていました。それがもとで捨てられ、這ほう這ほうの体でこの街で花屋をやっている祖母を頼ってきた猫でした。今は健康に育って、こうして祖母のあとを継いで立派に花屋を切り盛りしています。

 ただちょっと困ったことに、彼女は彼女自身の理想とした姿より育ちすぎました。オス猫と間違われるほどです。服の丈も、靴も、女性用のプレタポルテでは間に合いませんし、似合いません。だからいつも、男物のシャツにズボンで、仕事中はそこへエプロンを着けています。ちゃんと身ぎれいにしているのですが、初めて会うひとが鼻の利かない種族だったりすると、男だと思われてしまいます。

 けれど、モーフィは可愛くてファンシーなものが好きで、フェアリーテールが大好きな夢見る夢猫ちゃんでした。花屋さんをやっている自分が大好きで、お店には花の妖精たちがいると信じて時々話しかけたりしています。

 その一方で、モーフィは花屋のセールストーク以外は他人と何を話していいかわかりません。仕事から離れると、図体ずうたいのわりに臆病な猫なので、ちょっと買い物に行くだけで、花屋で頑張っているときとは別人のように無口になってしまいます。だから常連さん以外の住民には、クールで不愛想なひとだと思われているのでした。

 

 さて、モーフィは開店準備の最後に、少しくたびれだした花を短く水切りしています。張りと美しさを取り戻させて、プチブーケを作るのです。

 そのとき、お客さんが現れました。

 

「おはようございます。いいお天気ですね」

「おはようございます。今日は暑くなりそうですわね」

 

 エクレアのようなチョコレートタンの、大きな雌犬が尻尾を振りました。

 青いストライプのコットンドレスを着け、リボンがついたキャノチエを被っています。

 街を歩いているところを時々見かけていましたが、この犬、ゾーイが客として訪ねてきたのは今日が初めてです。

 

「このゼラニウムの苗、全部頂けますかしら?」

「全部?」

 

 十八株のゼラニウムの苗が並ぶトレーを指差す彼女に、モーフィは琥珀こはく色の目をしばたたきました。

 

「センテッドゼラニウムは結構大きくなりますし、差し芽でどんどん増えますから最初は五株くらいではいかがでしょう?」

 

 商売っ気のない言葉に、ゾーイは微笑みました。

 

「私のお財布の事情としてはそうしたいのですけど、犬は蚊に刺されると命に関わりますの」

 

 センテッドゼラニウムは蚊よけ効果があることで有名です。

 犬という生き物は、この人間に近い姿になっても蚊が媒介ばいかいする寄生虫、フィラリアからは逃れられないようです。

 この陽気だともうすぐ蚊が出ます。確かにこの小さな苗が大きく育って、それを差し芽してそれがまた育って、というのを待つ時間はないでしょう。

 モーフィが十八株分の価格を言うと、ゾーイは買い物用のバスケットから青い革の財布を出し、中を見てみるみる顔を曇らせました。

 

「あら……」

 

 ゼラニウムは簡単に殖やせることもあって、決して高価なものではありません。でも、この犬は今、懐具合ふところぐあいが非常によくないらしいのです。

 そこへのんびりとやってきたのははだか猫の美容師、アーレフでした。

 

「おはよう、モーフィさん。ちょっとトロピカルな感じのやつで適当に作ってもらえないかなぁ」

 

 はだか猫はスフィンクスという品種名を人間につけられていましたが、どんなかっこいい名前で呼ばれたって、はだかははだかです。

 桃のようなうっすらした短い産毛はあるものの、ちゃんとした毛が一本もないので、ニットの帽子をかぶり、帽子でへしゃげた耳の端には輪っかのピアスが光っています。

 彼はこのはだかんぼうの風体がいいと言われて人間に高値で取引されたそうです。ところが彼を買った人間は、彼の柔らかい皮膚にとがったもので絵を描いたりピアス穴を開けたりしました。また大きな絵柄を背中に彫ろうと飼い主が話しているのを聞いて、アーレフは逃げだしたのです。そんなアーレフが、それでもこの街に辿り着き、暮らしているのは、毛がないのに普通に生きられている人間がほんの少し羨ましかったからでした。

 アーレフは、この花屋で自分の店に飾る花をよく買います。一方モーフィのほうは、妖精事典から抜け出してきたような姿をしたこの猫に親しみを覚えていました。

 ここでやっとアーレフは、先客に気づきました。

 

「ああ、ゾーイさんおはよう」

「おはようございます、アーレフさん。お花屋さん、アーレフさんのをお先に作って差し上げて下さいな」

「いやゾーイさんの方が先に来てたんでしょ」

「いえ私はちょっと……アーレフさんお先にどうぞ」

 

 ゾーイは、アーレフの店に時々通っています。

 おしゃれをするために、ではありません。ゾーイは、週に二度、アーレフの店に掃除に行くのです。要するに、アルバイトです。

 

「ああそうだ、今月のバイト代、ゾーイさんの口座に振り込んどいたよ」

 

 ゾーイが驚いた顔をしました。

 

「え? もうお給料日ですの?」

「昨日でしょ」

「あら! では今から銀行へ行きますわ!」

 

 ゾーイの表情がぱっと明るくなりました。

 彼女は色とりどりのアンスリウムをまとめようとしている黒猫に弾んだ声をかけました。

 

「花屋さんは、お名前をモーフィさんっておっしゃるのね?」

「はい」

「モーフィさん、私、また後ほど参りますわ。それまで、この苗は取り置きしていただけませんこと?」

「十八株ですと嵩張かさばりますから、お宅にお届けしましょうか? ええと……閉店後の、夜七時過ぎでもよろしければ」

「願ってもないお申し出ですわ。お代はそのときでもよろしくて?」

「ええ」

「夜の七時でしたら……いいことを思いつきましたわ! 今夜、宝石屋さんのカータさんをお食事に招いてますの。ね、アーレフさんもモーフィさんも、よろしければご一緒にいかが?」

 

 もともとのんきで警戒心の薄いアーレフは、夕食に何を食べるか考えなくてもよくなった、と快諾かいだくし、ゾーイは嬉しそうです。そして彼女はモーフィに視線を移して返事を待っています。

 思わずモーフィは作業台に目を落としました。

 お食事会、ということは黙りこくっていると失礼になります。

 この今日初めて話す犬と、土属性の妖精っぽいおしゃれキャットと、おしゃべりのカラスと何を話せばいいか考えると、弱りに弱ってしまいます。

 モーフィは、断ろう、と思いました。

 

「誘ってくださってありがとうございます……でも私、用事が」

 

 モーフィはそのまま言葉を切ってしまいました。

 モーフィの沈黙を、ゾーイは「困惑」と受け取りました。

 今日初めて話したというのに突然夕食に招待するのは不躾ぶしつけだったかもしれません。

 思い立ったらつい何でもぽんぽんと言ってしまう癖を、ゾーイは反省しました。

 

――断りが言いにくいのですわね。

――こちらが上手に、断りやすくしましょう。

 

「ごめんなさい、お忙しいのでしょう?」

「……いえ」

「今度また、ゆっくりお花のお話をお聞かせくださいな。ではごきげんよ……」

 

ゾーイの言葉はモーフィに遮さえぎられました。

 

「いっ……行きますっ!!!」

 

 言った後で、モーフィはまたおろおろと下を向きました。

 言ってしまった後も尾を引く迷い、一歩踏み出したことの不安と後悔、そして微かな期待。

 モーフィのしっぽが低く揺れます。

 ゾーイはにっこりしました。

 「……お待ちしておりますわね。少しくらい遅れても大丈夫ですから」

 

 銀行に寄ってアルバイト代を受け取り、ゾーイは小走りに家路へ着きました。

 人数と顔ぶれが変わればもてなし方も変わります。

 陽気なカラスひとりを招いていた時は、もてなす側が度々中座しては失礼にあたるので、一度にテーブルに並べられる大皿の取り分けスタイルにしようと思っていました。でも、多人数となればお客さん同士がおしゃべりできるので、もてなす側が中座して熱いもの冷たいものを運んで出せるようになるのです。

 家へ着くと、ゾーイは献立の練り直しをはじめました。

 

 さて、夕方六時になりました。

 宝石店の閉店は一時間後の七時なのですが、店仕舞いは従業員の几帳面な白蛇に任せて、真っ黒なカラスのカータは往来に飛び出しました。

 今夜は犬のゾーイに、夕食の招待を受けています。

 さすがに手ぶらで他人の家で歓待される非礼をやらかすつもりはありません。かといって、店にあるキラキラしたものをプレゼントするというのは、ちょっと重いのです。

 カータが駆け込んだ先は、花屋でした。

 古今東西、女性への手土産は花と相場が決まっています。賢いカラスは、そういうところを弁えているのです。

 

 初めて会った時、ゾーイは砂色の髪が汚れ縺もつれて頬のこけた雌犬で、サファイヤやスピネルがいくつもはめ込まれた首輪を数本持ってきて、買い取るよう頼んできました。カラスは大抵性悪しょうわるというイメージを持たれていて、初対面だと腰が引けるものも多いのですが、ゾーイは全く物怖じしませんでした。

 ジュエリールーペをつけて、宝石を一粒一粒矯ためつ眇すがめつしているカータにゾーイは突然こう言いました。

「私、カラスさんをこんなに間近で拝見するのは初めてですの……黒真珠みたいで、つやつやぴかぴかして素敵ですわ」

「あ、ありがとう……」

 変な犬だなあ、と思いつつ、もともとぴかぴかしたものが大好きな彼は、自分がぴかぴかしていると言われると気分が悪いわけはありません。しまり屋の従業員の視線を背後からビシバシ感じながらも、ゾーイの身の上話も聞いたうえで、カータはほんの少しおまけした金額で首輪を買い取りました。

 それから、街角で会うたび、世間話をする仲になったのでした。

 

 それはさておき、サンダーソニアやマーガレット、ヤグルマギクにまっすぐ伸びた麦を合わせた牧歌ぼっか風な花束を抱え、カータは花屋を出ました。今日は早仕舞いするのでしょう、花屋の猫は落ち着きなく店頭のブリキのバケツを店の奥に並べ直し始めています。

 

「ありがとうございました。またどうぞ」

 

 モーフィは溜め息をつきました。

 夕方の光の中、カラスの影が石畳の上に長く長く伸びています。

 カータは、今夜ゾーイの家でモーフィが同席することを知らない様子でした。自分も招待されていることを話そうとも思ったのですが、どうしても気が引けて言えませんでした。

 まだ、迷っているのです。

 ゾーイの家に電話をかけて、急用が出来たとか、体調が悪くなったとか、そういうだけで迷いはすっぱりと断ち切れます。

 しかし、断ち切れてしまうのは迷いだけではないような気がします。

 ひとと話すことは不安なのです。でも、招かれるのはちょっとうれしかったのです。うれしくなかったら、行きます、なんて言えません。モーフィはくよくよと考え続けましたが時間の流れは何人も待つようなことはしません。出かけないといけない時間が迫ってきます。

 

――そろそろ支度しなきゃ

――そう言えば、手ぶらで伺ったら失礼になるよね?

――カータさんは花束買ってったし

 

 花屋ならば、豪勢な花束や鉢を持っていくことがやっぱり自然です。ところがカータに花束を売った自分がより上等なものを持っていけば彼の面子めんつをつぶしてしまいます。それに花ばかり貰っても、もてなす側は迷惑かもしれません。

 彼女は慌てて、ゾーイに注文されているゼラニウムを作業台に載せました。

 

 ゾーイの家は街の中心部から少し離れたところにありました。

 田舎風の家でとても目立っています。のんびりした街とはいえさすがに麦わらで葺いた屋根の家はここ一軒だけなのです。

 呼び鈴を押します。

 さっとドアを開けた犬に、カラスは挨拶しました。

 

「こんばんは、ゾーイさん。お招きありがとう」

「こちらこそお仕事でお疲れなのに、お運びいただいてありがとうございます」

 

 ゾーイは桜ねず色のドレスに白いエプロンをつけていました。昼間着ていたものよりほんのちょっとドレッシーです。

 

「これ、お招きのお礼に」

「まあ、とってもきれい! 殿方から花束をいただくのは初めてですわ!」

 

 人間の世界で犬として暮らしていれば、一個の存在として花束をもらうことなどほぼなかったでしょう。花束を抱いたゾーイの尻尾が揺れています。

 

「さっそく生いけて、皆さんにもお目にかけましょうね」

「皆さん??」

 

 招かれたのは自分だけだと思っていたカータは小首を傾げました。

 そのとき、彼はニット帽をかぶってコットンセーターを着た毛のない猫が、家の奥から出てくるのを見つけました。

 

「ああ、こんばんはカータさん。僕もゾーイさんからお招きにあずかりまして」

「カータさん、アーレフさんはご存じですわね? いつもお世話になっておりますのよ」

 

 もちろんカータは、この宇宙人的な見た目の美容師を知っています。普段から、商店街の寄り合いではいじりいじられ、おごったりおごられたりしているのです。

 

「ああ、彼にはよくコーヒーおごってるよ」

「えー、この間のアイスクリーム、僕が払いましたよぉ?」

 

 アーレフは笑いながらやり返します。

 この町に来て間もなかった時、アーレフはカータに開口一番「君、もしかして宇宙猫?」と尋ねられました。「宇宙猫じゃなくて、はだか猫です」と答えると、珍しいものを間近に見るとテンションが上がる性質たちのカータは面白がって、その後も店を出すためのいろんな手続きでアーレフを助けてくれたのです。

 

「では、どうぞこちらへ、カータさん」

 

 先に立って歩くゾーイについていくと、そこはバスルームでした。白と青のタイル張りで、バスタブも鏡も、もちろんトイレも曇りなく磨かれています。棚には新しいタオルが積まれ、薄荷はっかやラベンダー、サイプレスなどのオイルの瓶が並んでいました。

 

「どうぞお手を洗ってくださいな」

 

 女主人が「手を洗いませんか」と食事に招いた客にまず勧めるのは、ヨーロッパの一部の家庭に見られる慣習の一つです。失礼に思えるかもしれませんが、まず、食事の前に手を洗い、ともすれば顔も洗い、様々に用足しをしてさっぱりしてもらってからもてなしに入るという、まことに合理的なものです。

 

「どうぞごゆっくり。その後は居間においで下さいね。玄関から入って突き当りですわ」

 

 ゾーイはそう言うと、静かにドアを閉めました。カータは手を洗ってふかふかしたタオルで手を拭きました。

 

 カータが居間へ行くと、ティーテーブルに食事が始まるまでのスナックとしてカナッペが盛られた大きな皿と三つのフルートグラスが出ていて、氷で満たされた小さな桶の中にはアップルシードルの瓶がありました。

 

「ゾーイさんは、今キッチンにいるよ」

「あ、うん」

 

 カータが持ってきた花は出窓に飾られていました。その中のしゅっと伸びた大麦の穂を、鋭い爪の生えた指ではだか猫がみょんみょん揺らしています。

 

「麦って、こうしてみるとなかなかお洒落だねぇ」

「モーフィさんとこで作ってもらったんだ。彼女、ほんとセンスいいよね」

「だよねぇ。そう言えば、今夜モーフィさんも来るってゾーイさん言ってたよ」

 

 アーレフはシードルをグラスに注いで差し出しました。

 カータはグラスを受け取って一気に飲み干すと、オリーブのカナッペをぱくんと口に入れました。

 アーレフも、空中に指を迷わせた後、鮭のパテがのったのを選んでつまみ上げました。

 

「僕ねえ、いっぺん彼女とゆっくり話してみたいんだよねえ」

「ゾーイさんと?」

「いや、モーフィさん」

「へえ」

 

 カータはにやっとしました。

 

「今まで恋バナ一つもなかったアーレフ君がねえ……」

「そういうやつじゃないけどさあ」

「じゃあどういうやつなんだい」

「チョキチョキしたい」

「え?」

「彼女にカットモデル頼みたいんだよ」

「へえ」

 

 またカラスがにやっとするのと同時に玄関の呼び鈴が鳴りました。

 キッチンで忙しそうな女主人に替り、二匹は来客を迎え入れようとしたのですが、ごめんあそばせ、とその横をささっと通り抜けてゾーイがドアを開けました。

 

「ようこそ! 遅くならずにおいで下さってようございましたわ」

 

 ポーチに敷いた棕櫚しゅろのマットの上に、花屋の黒猫が立っていました。一本一本リボンをかけた十八株のゼラニウムを入れたトレーを抱えています。

 

「えっと……こんばんは。あの、今夜は、ありがとうございます。これ……お代は結構です」

「あら、私が注文したのですもの、お支払いはいたしますわ」

「いえ、今日のお招きのお礼に」

 

 自分の手土産の芸のなさに申し訳なさそうなモーフィに引き換え、ゾーイは喜色満面きしょくまんめんです。

 

「まあ! まあまあまあ! 可愛い!リボンをつけてくださったのね!ありがとうございます。大事に育てますわ!どうぞ、中へお入りになって」

「泥が落ちますから……お庭に置いておいたほうが……」

「……少々お待ちになって?」

 

 ゾーイは家の奥から新聞紙を取ってきて、出窓の、カータが持ってきた花を生けた隣に敷きました。

 

「せっかくの素敵な頂き物ですもの、今はこちらに飾りますわね」

 

 青い絵付けのオリエンタルな花瓶の横で、リボンで飾られた苗が泥のついたトレーのまま並んでいるのは少々奇妙な眺めでした。でも、この家の女主人は素晴らしいと絶賛しているので、俯うつむき加減になっていたモーフィも、そういうものかな、と思い始めました。

 ゾーイは今夜の客に華やいだ声をかけました。

 

「さあこれでお客様はお揃いですわ! 皆さん、どうぞ食堂へ……その前にモーフィさんはこちらへ」

 

 チョコレート色の犬は最後にやってきたお客さんをバスルームへ先導しました。

 

「どうぞお手をお洗いになって?」

 

――あ、かわいい

 

 洗面台に飾られたエニシダの花の一枝。

 モーフィはゾーイが立ち去るとそっと、その匂いを嗅いでみました。

 

 食堂のテーブルに、はしりの夏野菜のアスピックが並んでいます。

 鮮やかな赤や黄、オレンジに緑。初夏にぴったりのオードブルです。

 カラスとはだか猫がスプーンでそのゼリー寄せを楽しんでいる中、モーフィは頭の中がマーブリングの水面のようにごちゃごちゃしていました。わかりきっていたことなのですが、よく知らない顔ぶれが集まっている中、やはり無口になってしまいます。

 

――何か話さないと失礼になっちゃう

――天気の話は出たし、ここのおうちもお料理もみんなどんどんほめてたし、出遅れちゃったな

――そうだ、お花の話ならどうかな? それなら私にもできるよ!

 

 そう思って、モーフィはみんなの会話の切れ目に口を開きました。

「あっ……あのっ、洗面所のエニシダ……」

早速声が上ずってしまいます。

「えっと……エニシダって、すごくいい匂いで……」

 モーフィの顔に、三匹と一羽の視線が集まりました。それは、これまで口が重かった彼女に対する、話を聞く姿勢ができているよ、という彼らの善意なのです。

 でも、ここは花屋ではありません。モーフィを守ってくれる妖精さんはいないのです。彼女はすっかり気後れしてしまいました。

 会話が途切れました。

 特に、シルバーヴァインの外では弱い仔猫にとって最も恐ろしかった動物、犬とカラスがじっと見ています。

 スプーンを手にモーフィは下を向きました。

 

――やっぱり、みんなじろじろ見てる。

――変なやつって思われたんだろうな

 

 カタン、という音がしました。

 カラスのカータが真剣な表情で立ち上がったのです。

 

「エニシダ?……エニシダが飾ってあったって?!」

 

 ゾーイがびっくりして答えます。

 

「ええ、飾っておりましたわ。それがどうかいたしまして?」

「庭に植えてる?」

「ええ」

「長年、エニシダをうちに植えたかったんだよ! 曾祖父の遺言でエニシダを植えるように言われたのすっかり忘れてた」

 

 随分変わった遺言をするカラスもいたものです。でもそのひ孫であるカータがそういうのですから、いたのでしょう。

 

「あああ、今の今になるまで思い出さないなんて! ずいぶん先祖不孝をやらかしてたよ!ゾーイさん、ちょっと株分けしてもらえないかな?」

「え、ええ……」

 

 モーフィが小さく言います。

 

「あ、あの……エニシダは株分けが難しいので……今の時期だと挿し木のほうがいいです」

「ナイスアドバイス! じゃあ、ゾーイさん、今、少し枝をもらってもいいかな」

「今……ですの?」

 

会食の招待主はきょとんとしています。

 

「うん、ごめんねえ、あいにくカラスなもんで、鳥頭とりあたまなんだよ。思い出した時にじゃないと忘れてしまうんだ」

 

 カータは自分の頭をとんとんと人差し指でつついて見せました。招かれたお宅でなんて迷惑なことを言うのでしょう。カラスは賢い鳥のはずなのです。

 でもゾーイは鷹揚に笑って立ち上がりました。ゾーイはカータが何か別の意図を持ってそんなことを言っているような気がして、とりあえずこのカラスの目論見に乗ってみることにしたのです。

 

「では少し切ってまいりますわね」

「一緒に行ってもいいかな」

「ええ……でもお花のプロのモーフィさんも、いらっしゃいません?」

「いやいや、モーフィさんはゆっくり食べてる最中だから、あとで育て方教えてもらうだけで十分だよ」

「……そうですわね。少し切るだけですものね」

「本当にわがまま言ってごめん」

 

 ゾーイの後ろについて庭に行こうとしながら、カータはアーレフの肩をポンと叩いてウィンクし、せかせかと食堂を出ていきました。

 

 どたばたとした空気の中、食卓に残っているアーレフは、モーフィに声をかけました。

 

「おなか、空いてないの?」

 

 モーフィの前の皿に盛られたアスピックは、スプーンの一すくいしか減っていません。

 今日一日仕事をしてお腹は空いているはずなのですが、モーフィののどから胸にかけて何か詰まったような感じがしているのです。

 でも、以前からの知り合いで同じ種族のアーレフは、犬やカラス相手よりは随分話しやすく感じて、モーフィは答えました。

 

「いえ、お食事に招かれたことが初めてで……緊張して」

「へえ……緊張とかするの? 意外。お店ではよくしゃべってるのに?」

「あれは仕事だから……花の話ならできるけど……何話していいかわからなくて」

「無理して話さなくても、相槌あいづち打ってるだけでもいいんだよ」

「でも、ちょっとは人と話せるようになれたらいいなって思って」

「じゃあこれから慣れたらいい」

 

 アーレフはこともなげに言うと眉毛のないつるんとした顔を擦りました。

 

「手始めに、今度の水曜、僕の店でカットモデルやってみない?」

「え?」

「水曜は定休日でね、自分でいろいろ勉強してるんだ。メイクとか、ヘアカットとか。前からモーフィさんの髪、切ってみたかったんだよ」

「私、そんなにみっともない髪でしたか……?」

「いやいや、今のボーイッシュな感じも似合ってるよ、すごくいい。でもモーフィさんのなりたい自分ってそんな感じじゃないんじゃないかって思って」

 

 モーフィは目の奥がぐるぐる回るような気がしました。

 以前、男と間違われたくなくて、髪を伸ばしてお花のピンを飾り、フェミニンな服を着て丁寧に化粧をしたことがあります。ところが、鏡が映し出したのはドラッグクイーンまがいの姿で、思い描いたものとは全然違いました。まだ存命だった祖母は「素敵ね」と言ってくれましたが、一瞬ひどく戸惑った顔をしたのをモーフィは見逃しませんでした。

 それがフラッシュバックしてしまったのです。

 

「わ、私、似合うヘアスタイルとか少なくて……」

 

 アーレフはふふっと笑いました。

 

「いやいや、僕ねえ、モーフィさんはすごく変わるんじゃないかと思うんだよ。モデルさんみたいにさ。背が高いのも、全然問題ないっていうか、僕はものすごい長所だと思う」

「……私は、こんなでっかい体は嫌です」

「骨格とか、そういう生まれ持ったものは変えられないけど、僕なら嫌だった自分を好きになる手伝いができると思うんだよ。……それが僕の仕事だしさ。お試しに一回、髪切らせてメイクさせてくれない? いっぺんでいいから」

 

 アーレフのごく薄い青の瞳を、モーフィは一瞬見つめ、すぐ下を向きました。

 

「なんでそんな風に私のことを気にかけてくれるんですか?」

「モーフィさんの店で初めて花を買ったときにね……なんでだかわからないけど、このひと、花と話せてるって気がした。そしたら、本当はこの人もここに並んでる花みたいになりたいんだよって誰かの声が聞こえたんだ」

 

 アーレフがメルヘンなことを言い出しました。

 だけどモーフィは心の奥があったかくなる気がしました。きっとそれは、花の妖精さんのしわざです。

 

「うちの店でも、お客さんと一応話はするんだけど、話さなくても何か、わかるんだよ。このひとはどうなりたいのかって、何か見えないものが教えてくれる、っていうか……いや、実際にそういうものがいるかどうかって言うと微妙だけど……えーと、何言ってるかわかんないよね?」

 

 その言葉は、どうせ相手にはわからないだろう、と理解を期待していない調子でした。でもモーフィにはわかります。アーレフの店にも、髪の切り屑の妖精とか、はさみの妖精とかがいるのかもしれません。

 モーフィが黙っているので、アーレフはだんだん語尾がぼそぼそとしてきました。

 

「ちょっと、変な話だったよね、気持ち悪くてごめん」

「気持ち悪くないです!」

 

 モーフィはいきなり大声を出してしまいました。やっぱり声はひっくり返っています。

 

「わ……私、アーレフさんの言うこと、よくわかります!」

「え? わかる?」

「私も見えないものとよくお話しします!」

 

 アーレフは顔中にしわを寄せてにこにこしました。

 

「へえ、やっぱり?」

「はい」

 

 モーフィはうれしくてたまりませんでした。これまで、こんなことを話せるひとがいるなんて思ってもみませんでしたから。

 アーレフは、普段クールな黒猫が目をキラキラさせているのを見てうんうんとうなずいた後、畳みかけました。

 

「じゃあ、今度の水曜の午後、三時ごろうちの店に来てくれる? 待ってるからさ」

「あっ……はい」

 

 モーフィはうっかりうなずいてしまいました。

 

「でね、きれいになるのも体力気力がいるものなんだ。しっかり食べて。おいしいよ、それ」

 

 はだか猫はモーフィの前の皿を目で示しました。

 

「まだこれからおいしいものが一杯出てくるんだから」

 

モーフィがアスピックを食べ終わったころにぎやかにカータとゾーイが戻ってきました。

カラスの手には、新聞紙に包んだ緑の小枝が握られています。

 

「何の話してたんだい、猫さん方」

「お客さんのニーズをどう掴むかとか、そういう話」

「華がないねえ」

「そんなことより、よかったね、ゾーイさんにエニシダもらえて」

 

 カータは楽しそうに答えました。

 

「うん。やっとひいじいさんの遺言を叶えられるよ」

 

 すっかり話が弾み始めた食卓に、続いてでてきたのは、肌よりほんの少し温かいところまで冷ましたきのこのフラン。

 様々な野菜のグリルのアーリオオーリオ。

 鯛のクリーム煮のパイが今夜のメインです。

 猫舌の二人は、すぐには手を付けず、冷ましています。

「もうそろそろ大丈夫じゃないかな」

と言い、ぱくっと食べたアーレフが、だんだん涙目になります。

 舌からのど、食道、胃までがっつり熱かったようでしっぽまで体を硬直させています。カータは笑い転げ、ゾーイは氷水を勧めました。

 モーフィはだんだん、楽しく過ごし始めていました。

 デザートは、ブリオッシュのサヴァランと、飴で固めたドライオレンジを添えたアイスクリームで、おかわりはいかが、と尋ねたゾーイに全員が学生よろしく挙手しました。よいお食事会の締めくくりになったようです。

 

 食後の紅茶を飲み終わると、深更しんこうとなりました。

 時間を好きに使っている宝石屋と美容師はいいにしても、朝の早い花屋は帰ったほうがよい時間です。

 全員が後片付けの手伝いを申し出ましたが、女主人は「お客様には最後までお客様でいてほしい」と穏やかに断りました。

 玄関のポーチで客と女主人はお互いに礼を言いあい、別れの挨拶をします。

 

「至らないところも多かったと思うのですけれど、またおいでになってね」

「どこが至らないのかさっぱりわからなかったよ。エニシダありがとう」

「おいしかった! いつもその辺で買って食べてたから久しぶりに健康にいいものを食べたって感じ」

 

ワンテンポ遅れて、モーフィはゾーイに話しかけました。

 

「とても楽しかったです……ありがとうございました」

「エニシダをカットして戻ってから、モーフィさんのお食事が進むようになってほっとしましたわ。お口に合わないのかと思って心配でしたの」

 

 それを聞いていたカータはにやっと笑いました。

 

「アーレフ君が宇宙猫ビームを使ったんだ、きっとそうだ」

「だからー、僕は宇宙猫じゃなくてはだか猫だってば」

 

 そうして心尽くしの饗応きょうおうは終わりました。

 

 ゾーイは、空っぽになった家へ入りました。

 隅っこのスツールに座って、来客がさっきまで談笑していた食堂を眺めます。

 静けさの中、彼女は「くーん」と鼻を鳴らしそうになりました。

 ゾーイはさみしさが染みてくるのを振り払うようにキッチンに立ち、山積みになったディナーセットやカトラリーを洗いました。

 

 花屋のモーフィのほうはというと、ベッドに入りながら、今日一日を思い返してどきどきしていました。

 

――やっぱり行ってよかった

――みんな優しかったし、面白かったし、お料理もおいしかった

――今度の水曜日、……うん、水曜日の三時。カレンダーに書いとかなきゃ

 

 彼女は一人照れながら、ブランケットに潜って目を閉じました。

 

――おやすみなさい、妖精さんたち。いつもありがとう。

   

 

           ――モーフィとアーレフ、の章 おしまい

  <続く>

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