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ういこさん

 

 灰色の空の下、こっちへ急ぎ足でやってくるういこさんが見えたとき、安心感で涙が出そうになった。それをぐっと押しとどめながら、私は駅前のエピスリーのベンチから立ちあがって、大きく手を振った。


 

「ういこさーん!」

 

 ういこさんは、急ぎ足でやってくる。

 シルバーのワンレンショートが風に煽られてる。

 タイトスカートから見える脚のラインが相変わらずきれいで、履いているパンプスは、昔から履きつぶしては買い換えているシャネルのバイカラー。

 男仕立てのジャケットの袖をまくって、カジュアルっぽく着ている。八〇年代に流行ったらしいけど、今はディオールやなんかもそういう着方をしたモデルのスチールを街角に飾っている。

 とにかく、ういこさんはかっこいい。

 私の前まで来ると、サングラスを取って胸ポケットに引っ掛けると、ういこさんは少し眉を顰ひそめた。

 

「連絡が遅いのよ」

 

 ういこさんはいつもクールで、単刀直入。特に、会ったときの第一声がきつく聞こえる。

 だけど私は慣れっこだし、異国の空の下、やっと頼りになる人と合流できてうれしかった。私は黒い手袋をはめたういこさんの左手を掴んで、小躍りした。

 

「ういこさんひさしぶりー! 元気だった?」

「元気よ。そんなことより、いきなりすぎるわ。人の迷惑を考えて」

「電話でごめんって言ったじゃーん。ねえ、泊めてくれるんでしょ。ホテル予約してないんだ」

 

 私は努めて明るく、甘えて答えた。自分で自分の空元気が痛々しかった。ふんわかほんわかした父や母の前ではしっかり者の娘でいたいけど、ういこさんには甘えたくなる。

 

「呆れるわね」

 

 ういこさんは、深く深くため息をついた。

 

「ついてらっしゃい。荷物は自分で運びなさいな」

 

 ういこさんの車のトランクにえいやっとスーツケースを押し込み、助手席に乗り込む。昔は、助手席は危ないから、と後部座席に座るよう言われたものだ。でも今日は、ういこさんは何も言わなかった。

 車窓から見える通行人のファッションは、それほど華やかじゃなかった。オーソドックスで、ネイビーブルーとかベージュとかが多い。だけど日本でダサいと言われそうな服でもフランスの皆さんが着るととても映える。

 街角も本当にフランス映画の中みたい。ちょっとくたびれている雰囲気がなおさら本物っぽい。本物だけど。

 黙っていたういこさんは、五回目の信号待ちで車を停めたとき、そっけなく言った。

 

「フランス語も英語もできないくせに、無謀ね」

 

 確かに無謀だった。

 シャルル・ド・ゴール空港でまごまごしていたら、旅慣れた感じの日本人のおじさまおばさまの集団に出会った。その人たちは正規タクシーの乗り場まで私を案内し、運転手さんとの折衝までこなしてカルーナバへ送り出してくれた。パリ近郊だから定額料金対象外で、支払いはチップも入れると150ユーロくらい。高いけど、こんなものだろう。

 カルーナバ駅の前でタクシーを降りて一人になったとたん、私の方を見ながら肌の色や顔立ちについて悪口を言う人たちに気づいた。聞こえないふりをして、駅前のエピスリーでリンゴジュースを買って店の前のベンチで飲みつつ、ビビりながらういこさんを待っていたのだ。

 

「お昼ごはんは食べたの?」

「まだ。美味しいお店教えてもらおうと思って」

「ここら辺にはいい店はないわ」

 

 ういこさんはシニカルに言いながらも、路面駐車で埋まっている道の端、空いたところに車を停めた。そこで降りて、はす向かいにあるぼろっちい店に入っていく。

 

「ここならそんなに悪くないわよ」

 

 そこは外から見た感じ、殺風景で暗くて、空き物件かと思った。全然カフェやレストランっぽくない。でも中に入ると一応営業していて、仏頂面のおばさんが一人カウンターにいた。黒板のメニューは読めないからういこさんに丸投げ。店の奥には大きな窓があって、曇り空の光が当たってる。そこに並べられたテーブルと椅子でくたびれたハンチングを被ったおじさんが遅い昼食中だった。

 私は、チラ見でおじさんの食事を観察した。

 カンパーニュを二切れとバター、平たい大皿をぺらんと覆う白っぽいハムの薄切り、エメンタールっぽいチーズのスライス。皿の端っこには無造作に盛ったクレソンにオリーブの粒。美食の国だというのに、意外とつましい。ドイツのカルテスエッセンみたいに、冷蔵庫から出して切っただけ。

 それにグラス一杯の赤ワイン。フランスでは仕事のお昼休みでもワインを飲む人がいる。フランスの飲酒運転のアルコール基準値は日本のより高めで、ワイン一杯くらいなら運転や仕事には法的に差し支えないんだとか。でも大っぴらに飲酒しているのを見ると、日本人の感覚ではらはらする。

 ういこさんは私の視線を追っておじさんを眺め、もう一度私を見た。

 

「質素だと思ってるでしょ」

「うん」

「派手な店は色々手をかけた料理を出すけど、昔ながらのおひるなんてあんなものよ。この店は注文を受けてから食材をカットしてくれるからまだましな方。私はあの人が食べてるのを頼むけどあなたはどうする?」

「じゃあ、私も」

 

 ういこさんはさらさらと、あのおじさんのと同じものを二人前、それから私のためにグラスワイン、自分用にレモンのペリエを注文した。

 

「ういこさんはワイン飲まないの」

「今は飲まないわ。和江の大事なお嬢さんを預かっているんだもの」

 

 和江というのは私の母。ういこさんは母の大親友で、私の父とも幼馴染。

 ういこさんは初めての子と書いてういこと読む。「はつこ」と読まれることがほとんどで、いちいち訂正するのが大変なんだそうだ。

 ういこさんは大学卒業後、田舎の実家へ戻りUターン就職していた。大学で知り合い、姉妹のように仲が良かった母がういこさんのところへ遊びに来て、そこで隣家りんかの次男坊だった父が母に一目ぼれしたというのが私の両親の馴れ初め。ういこさんがいなかったら私はこの世に生まれていない。

 私が小さかったころ母が体を壊し、入院中も通院中もういこさんが私の世話をしてくれた。だからういこさんは私にとっては第二の母親なのだ。

 母が健康を取り戻すと、ういこさんにどんな心境の変化があったのか、突然フランスに単身移住してしまった。今はカルーナバ近郊に進出する日本の法人や移住してくる日本人の手助けをするコーディネイターとして働いている。

 たまに帰国してくるういこさんと一緒に街を歩いたりすると、とても誇らしい。いつもぽやんとしてすることなすことおばちゃんそのものの母と、フランス語ぺらぺらで垢ぬけたういこさんは本当に対照的で、私はういこさんが本当のお母さんだったらいいのにと真剣に思っていた。それをつい口に出してしまった時、母は泣き出し、ういこさんは本気で怒った。叱られるのはしょっちゅうだったけど、怒られたのはあの一度きりだ。

 

 私が幼稚園児だったころ、子ども相手だからわからないと思ったのか、ういこさんは

「私のほうがさきに和江のことが好きだったのに、好きって言えなかった。今さら未練がましいわよね」

と涙ぐんだことがある。

 それは友人としてのLIKEだと思っていたけど、大人になって考えると、LIKEではなくLOVEだったんだろう。フランスに来てすぐ東洋人の彼女を作って、二か月で別れたっていうし。写真で見たその彼女は、母とちょっと似た人だった。

 

 さて、料理を受け取って、さっそくいただく。パンはごく軽く温めてくれたけど、料理は温度的にはさみしい。全体的にぽそぽそして塩気が薄め。その分バターやチーズ、オリーブピクルスの塩気とバランスが良かった。ハムはしっとりしていて、野菜にかかっているハーブソルトとオリーブオイルがシンプルな味わいでおいしい。ワインは軽くて若い味がした。うん、好み。

 ペリエのスクリュー蓋をぎりっと開けて、ういこさんは少し声を落として尋ねた。

 

「本当は、何があったの」

 

 私は口の中のものを飲み込むまで待ってもらって、その間に気持ちをしゃっきりさせて答えた。

 

「結婚の話、なくなっちゃったの。あいつ、職場の後輩と二股かけてて……子どもができちゃったから後輩と結婚するって」

 

 鼻水が垂れそうになった。

 結婚はなくなったけど、私はその経験を飛び越え、異国を旅するイイ女になったはずなのに。

 慌ててバッグからハンカチを取り出しながら、私はできるだけ深刻に聞こえないように言った。

 

「あんな男に未練なんかないけどさ、気分変えたくて一人旅してるの。慰謝料ももらったし」

「そう」

「だから招待状は捨てといてね……あーあ、式にはういこさんにも来てほしかったなぁ。私のドレス姿、最高に可愛かったんだよ?」


 

 友達や親戚一同、もちろん仕事場のみんなにも結婚式の招待状を渡してた。だから、私のメンツは丸つぶれ。

 笑顔を作るけど、涙はぼろぼろ出る。

 店主のおばさんが、カウンターの奥からういこさんに一言二言声をかけ、ういこさんも短く返した。するとおばさんはカウンターから出てきて、私のお皿の端っこにベージュ色のペーストがたっぷりのっているカナッペを一つ置いた。すかさずういこさんが教えてくれる。

 

「自家製のパテ・ド・フォアですって。サービスよ」

「え? なんで?」

「彼女なんで泣いてるの、って聞かれたから、婚約者に裏切られたんだってって言ったの」

「……言わないでよぅ」

「旅の恥は掻き捨てでしょ?」


 

 私はおばさんにむかって、メルシー、マダムと言った。下手くそなカタカナ発音で、ういこさんは苦笑し、おばさんは「おやおや」とでも言いたげに眉を上げ口をへの字にした。

 パテ・ド・フォアはパセリが効いていて、レバーが嫌いな私でもぺろんと食べられた。これ、瓶詰があったら買いたいな。

 おばさんにセ・シ・ボンと言ったら今度は片頬だけで緩めてくれたが、すぐに仏頂面に戻ってしまった。きっとツンデレな人なんだ。


 

 店を出たあと、ういこさんは言った。

 

「さあ、いい旅にするわよ。つまらない男のことで苦しむ時間は一瞬たりともあってはいけないわ」

「……私、あちこち出かけるよりここで日常を味わって、のんびりしたいんだけど……」

「それもいい旅の一つよ。あそこで花を買って帰りましょう」

 

 食事した店の一区画先にバス停があって、その脇で行商のおばあさんが慎ましく花を売っている。こんなところで売れるのかな。でもその侘しさが映画のワンシーンみたい。

 フランスの街角で花を買うなんて、結婚がうまくいってたらきっとできなかったことだ。

 

「うん、買う!」

 

 私は駆け出した。

 たしかに、凹んでる時間はいらない。千分の一秒だって勿体ないんだ。

 

     ――了

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