【実録】謎の酵母でパンを焼く
この世に酵母は何種もあって、そのへんにうじゃうじゃしている。
その中で最も味がよくてコストパフォーマンスに優れたものが純粋培養されてビールを作ったりパンを作るときに利用される。
ビール酵母やイーストと呼ばれるものがそれ。
いわば、酵母菌のサラブレッド。
だけどサラブレッドじゃなくても、駄馬だって楽しく走れる。
素人でもそのへんの酵母を培養してパンが焼ける。
さあ、おぼつかない手元でやってみよう。
天然酵母を捕まえるのはとても簡単。
オイルコーティングされていないレーズン、痛みかけのリンゴ、柔らかくなった柿やなんかにいっぱいいる。だからいろいろ捕まえてみた。
比較的ましだったのは柿と庭で実った茱萸の実にいたやつ。無臭でくせがなく扱いやすい。
手軽なのはリンゴにいた酵母。培養に失敗しにくくちょっとリンゴの匂いがする。
一番ふっくら膨らんだけど吐くほどまずかったのは山で拾ったどんぐりにいたやつ。焼いているときからものすごい異臭がしていた。腐葉土の臭い。土食ってるみたい。
松葉にも質のいい酵母がいるみたいだけど、ヤニが染み出ている松を見るとちょっと使う気にはなれない。オイルコーティングなしのレーズンも、値段が高いので割愛。
我が家では主に一番簡便な傷みかけのリンゴを使っていた。
清潔なビンに市販のジュース程度に甘くした砂糖水を入れる。
ザクザクに切ったリンゴをその砂糖水につけ、虫は入れないけど空気は通る程度にゆるく蓋をする。
これで支度はおしまい。
20~24℃が好適で、あまり暑くない季節なら常温で放置するといい。
数日たつと、だんだんリンゴが茶色くスカスカになって、細かな泡が出てくる。これは酵母が増殖し、糖を食べて炭酸ガスとアルコールに分解し始めているしるし。
この液体を強力粉と砂糖と塩、お好みで油脂を混ぜたものに混ぜてこね、一次発酵させる。
これがとても気の長い話で、うちの酵母がのんびり屋なのか、全然膨らまない。うちでは膨らむまで24時間かかった。冬だと36時間。明らかに時間をかけすぎ。やはり酵母菌の量や温度、こね具合などいろんな状況に左右されるんだろう。待てない人は普通のイーストで作ったほうが絶対いい。
一次発酵が終わったら、生地をグーで殴ってガスを抜き、丸めてロールパンの形にするなり、食パンの型に入れるなり、具を入れるなり、バターの層を仕込むなりする。それから二次発酵に一晩掛けてオーブンで焼く。
あんな生ごみの汁みたいなものを入れただけで普通に膨れてパンになる。感動の一瞬だ。
オーブンから出して匂いを嗅ぐと、ちょっと酸っぱい匂いがする。
食べるとすこしプレーンヨーグルトっぽい酸味がある。
端的に言えばまずい。
天然酵母の培養液と言ったって、酵母を捕まえるのに使った果実や植物の葉は他の雑菌やあまり有用でない酵母もくっつけているのだから、しょせんなんだかわからない菌や酵母がうじゃうじゃした謎の汁。
さらに、パンの一次発酵に時間をかけてしまったから、お呼びでないものも殖える殖える。結果として酢酸菌や乳酸菌が酸を生成してしまい酸っぱくなる。
天然酵母パンを極めし戦士たちによると、上手にあの謎汁の発酵状況を見極め、過剰発酵させなければあまり酸っぱくはならずおいしくできるとのこと。
そんなのできるか! こちとらテキトー人間だ。もともとパン焼くのが好きでもない、ただ実験してみたかっただけの身。求道精神なんてあるわけない。
しかし、この酸味のあるパンは、程度こそあれ、これはこれでいいものなんだそうな。
その辺の天然酵母で作るこういう酸味のあるパンは一般にサワードゥブレッドと呼ばれる。体には非常にいいらしい。
腸の中でいらん発酵をして悪玉菌を増やしてしまいがちな小麦グルテンを、天然酵母は事前に発酵させてしまうので健全な腸内環境を保つのに役立つ。グルテンはうどんのコシやパンのもっちり感を出す植物性タンパク質。それが分解されているからサワードゥブレッドは口当たりがぼそぼそするわけだ。効能のあるものはたいていまずい、という古よりの言い伝えを具現化している。
マウスを使った実験によると腸内環境の良し悪しがストレス耐性や精神の安定、寿命にまで関係しているという結果が出ている。
ストレスによる諸症状に悩む患者に小麦製品断ちを指示をする医療従事者もいるほどグルテンはよろしくないらしいので、サワードゥブレッドは試す価値があるかもしれない。病気になって医薬品を服用し続けるのに比べたら、未病のうちにサワードゥブレッドを食べたほうがずっと楽だと思う。
もちろんその他にもいいことはある。
小麦粉に含まれるフィチン酸というミネラルの吸収阻害成分を天然酵母がぶっ壊す。
過剰発酵のときに、怪しい菌の群れが、がっつりと生地の中のブドウ糖を食べあげてしまうので、血糖値の上昇が一般的なパンに比べると緩やかで、血糖値をコントロールすることが必要な人には好都合だそうな。
酸味のおかげか保存性が高く、わりと長持ちする。
ざっと挙げるとこんなところか。たしかに、謎の雑菌入り汁で作ったわりに、食べて腹を壊したりなどは一切なかったし、そんなパンを面白がって焼き続けられる程度には気力体力が湧いていた。
サワードゥは試してみたいけど、雑菌汁でパンを焼くなんて、と思う紳士淑女向けに、天然酵母の中でも扱いが簡単でそこそこおいしいのが焼ける酵母叢を培養し、イーストみたいに気軽に使えるようにしたドライタイプのものも市販されている。
それを使ってご近所様が焼いてくれたパンを食べたことがあるが……正直に言って、味も食感もほとんど変わらなかった。
結局、天然酵母パンは、自家製も他家製も、スーパーなどでお目にかかる天然酵母使用を謳ったふんわりもちもちのおいしいパンとは似ても似つかなかった。私はその理由を大ロット製造の天然酵母パンはほとんどイーストを使ってほんの少し天然酵母を添加してからだろうと邪推していたが、残念なことに当たっていた。
業務っぽいスーパーの人気商品である天然酵母パンの場合、使用する酵母中96.3%は普通のイースト、天然酵母は4.7%で、それもあのイタリアのご馳走パンであるパネトーネの元種だという。
そらぁおいしくもなるわ!
それはともかく、サワードゥブレッドの比較的イケると思った食べ方も一応書いておく。
マヨネーズやオーロラソースたっぷりで、レモンスライス、玉葱やレタス、ピクルス、ケイパー、スモークサーモンやパストラミをこれでもかというくらい挟んで食べるとうまい。パンがうまいのではなく、具がうまいんだけれども。
あんこを挟むのもいい。あんこの重さと豆の風味があのぼそぼその食感をなだめすかしてくれて、かるかん饅頭風の口当たりになる。でも間違えないで欲しい、かるかん饅頭の方が山芋や米の香りがしてしっとりし、はるかにうまい。一緒にしてはいけない。
血糖値への効能は無視してメイプルシロップや蜂蜜をじゃぶじゃぶ使えばフレンチトーストも悪くなかった気がする。
生地に使う小麦粉の2/3を薄力粉にし、肉あんや野菜あんを入れて蒸して中華まんにしても結構いけた。
でも、これらの食べ方は、ぱぱっと食べようというときにできるものではない。普段はぼそぼその食感を補うため、薄めにスライスしてカリカリに焼くというテクニックで凌いだ。
最終的に、我が家では、体にいいのはわかっていても、簡便さとおいしさのレベルが低いと常食は辛い、という結論に至った。家族にもうパンは焼かないで欲しいと懇願され、おいしくないパンを焼く実験の日々は終わって我が家の食卓は平穏を取り戻した。
そんなある日、私は家族で某北欧家具&雑貨の巨大チェーン店に行った。
昼食は店内の北欧料理のレストランでとることにした。カフェテリア方式だったのでトレイを持って並んで、スウェーデン風肉団子やスープ、それからいくつかの小さなパンを買ってテーブルについた。
パンを口にした途端、家族の顔が険しくなった。
そのパンは見事に、我が家のサワードゥブレッドと同じ味と口当たりだったからだ。
私は、この味この口当たりでも、金をとって他人様ひとさまに提供できるのだということに感動していた。
私の焼いていたパンは、まずいにもかかわらず金を取れるポテンシャルを秘めていたのだ。
さて最後に、このエッセイを読んで天然酵母の培養を始めようと思った諸兄ならびに諸姉の面々にお願いがある。
何が起こっても当方は責任を取れないので、まともな情報を収集し自己責任での判断ののちに謎酵母汁の沼へ飛び込んでいってほしい。工夫次第、心配り次第でおいしいものが作れる可能性はある。
天然酵母の培養法やパンのレシピの本は買わなくても図書館にもあるはずだし、ネット上にもたくさんハウトゥが転がっている。
くれぐれも御身大切に、そしてグッドラック!
――了