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ぎにょる

 

 一瞬、春の夜の喧騒が消えた。

 

 夜桜の美しさで有名な公園から一歩出るとそこは駅前通りで、そこから入り込んだ路地裏には怪しげで卑しげな連中がたむろしていた。

 

 彼女は春を売る、いわゆる立ちんぼだった。客を待ちながら、駐禁の標識にだらしなく身を預けている。他にも数人経っている女たちがいて、一様にさもしげに見える。その中でも、彼女の赤い模様が入ったTシャツやタイツはひときわ趣味が悪い。

 感づかれないように眺めていたつもりだったが、彼女は私に気づいた。そして、軽く咳をして、私によろよろと近寄ってきた。

 あまり賢そうには見えないその顔立ちに、私は他人事のようにがっかりした。

 もう一度咳をした口元から真っ赤なものが溢れてくる。血の匂いがする。

 私に縋りつくと、彼女は声も絶え絶えにささやいた。

 

「出ちゃダメじゃない……」

 

 私は、彼女が言葉を発したことに驚いた。

 彼女は、木偶人形ではないのか。

 私の足元に、彼女の身体はゆっくり頽れた。その肉体に、私は吸い込まれ始める。

 そこにあるのは人のかたちをした真空だった。

 私はもう行きたいのに、自由が利かない。

 空の器は、零してしまったものでもう一度充たされたがっている。

 

 雑踏が静まり返った一瞬ののち、いくつかの悲鳴が生々しく聞こえた。

 目の前にあるのは桜の花びらが点々としたアスファルトと人間の足の林。

 その隙間から、少し離れたところで大勢に取り押さえられながら何か喚いている男が見えた。

 その男にはなんとなく見覚えがある……ような、ないような。

 誰かが救急車を呼んだようだ。

 

 私は、どうも、助かってしまうらしい。

        

         ――了

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