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月下の呟き

 

 この街には仕事でよく来る。

 そのたびに、この古いホテルに泊まる。常宿も常宿、第二の我が家だ。予約は入れたことがないが、空き部屋がなかったことはない。ホテルマンたちにももう常連扱いで、特に頼んだりはしないのだがいつも同じ部屋を支度してくれる。

 

 仕事が終わって、部屋へ戻る。

 今日も疲れた。

 明日も疲れるだろう。

 明後日あさっても明々後日しあさっても疲れるんだろう。

 

 特に今夜は体が重い。

 昼下がりに、学生の頃秘かに思いを寄せていた女性を見かけた。小さな子どもを連れた男と幸せそうに連れだって歩いていた。女の子は彼女をお母さん、そして男をお父さんと呼び、しきりにその辺りでちぎったたんぽぽの花を見せようとしていた。彼女のお腹は誇らしげに膨らんでいて、男は子どもの世話を焼き彼女を労わっている。その光景はまさに微笑ましく幸せな家族そのものだった。

 彼女のことは思い続けていたわけでも、ずっと探していたわけでもなく、今日見かけるまで完全に忘れていた。彼女が幸せな家庭を築いていることを喜ばしく思っているのだが、夜が更けるにつれ、どうにも気が滅入って仕方がない。人生における辛酸のスパイスは中国山椒のように、その場ではなんともなくとも徐々に効いてくるようだ。

 

 とにかく、今は部屋の灯りも点けずにぼんやりしている。

 いつもの部屋なのに空気が重い。

 外の空気が吸いたくなって、カーテンを押しやり窓を開けてみた。

 ホテルの窓のご多聞に漏れず、ほんの少ししか開かない。

 そこから、硝子を透過せず生々しさすらある晩夏の月の光が差し込む。

 月の光が細長く照らす壁には、柔らかいタッチの油彩画が飾られている。 有明の星の下、水辺で思い思いのポーズをとった裸体の男女が描かれた、気品のある絵だ。

 額の横、壁に留め付けた名刺くらいの白い札に『ひたすら生きていれば』と書かれている。これが画題だろうか。

 そう、生物として真摯に生きていれば体の内にとある思いが湧き上がる。

 

 ゆっくりと絵に近寄る。

 手を伸ばし、絵に触れる。

 裸の男女に、乾いた油絵の具が盛り上がっている。

 私は四つん這いの人物に目を留め、その尻をそっと撫で、凹凸を指の腹で味わいながら呟いた。

 

「ああ……素人なら誰でもいい、ヤらしてくんねえかなぁ……」

 

               ――了

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