崩れるチョコを、ソファの上で
うちのリビングには実に不都合なソファがある。
どう不都合なのかというと、まずはデザイン。
それから、大きさ。
さらに、価格。
それは、私が彼女に贈った婚約指輪とほぼ同じ価格だった。
ごく最近買ったにもかかわらずなんとも古臭いデザインだ。
装飾彫りのあるマホガニーの華奢な脚やアームレストにはレトロな典雅さがあり、古臭いと言ってはもったいないという人もいるだろう。
しかし、張ってある生地は八〇年代的サイケというのか色キチガイアーバンというか、油彩の殴り書きのようなぐちゃぐちゃの色彩。なのに、座面や揃いのクッションはロココ調にふんだんなフリルで飾られている。
旧き良きデザインの良さは様々な要素に相殺され、混沌としたイメージを見る者に与える。個性がありすぎて、誰もついてくることができない。
出会いは、休みの日に行った小さな家具工房の合同展示会で訪れた。
インテリアコーディネーターの職に就いている彼女が、あろうことかこのソファに一目ぼれした。
彼女は、座ってみては立ち上がって全体を眺め、さらにぐるぐると周囲を回っては背面や脚、底部の仕上げを入念に調べ、それを数回繰り返すと私を見た。
「ねえ、これ、よくない? 買おうよ」
弾んだ口調だった。
よほど気に入ったのだ。
「え? これ?」
私は驚いた。
彼女が矯めつ眇めつしていたのは単なる好奇心と職業意識からくるものだろうと思っていた。変なの、ダサいよね、と言ってネタにしようとしているのかもしれない。そして、この垢抜けない物体のことは私の人生からきれいさっぱりと忘れられるはずだった。
「それ、ネタで言ってる?」
「ううん」
彼女の声と表情の真剣さに、私は声がひっくり返った。
「本気?」
「うん」
「うちのリビングに合わないと思うよ」
「そんなの、私がちょっと模様替えすればいいだけよ」
「でも……ちょっと、なんか、趣味が悪いっていうか……」
「私とセンスの話をしようってわけ? 私はプロよ?」
そこから彼女が滔々と語りだした。
この選り抜いた古材を彫り、磨き上げた木工部の優美さ。
接着剤を使わず組んだだけでこの耐荷重を生み出した職人技の確かさ。
ファブリックの品質の高さと縫製の緻密さ。
もちろん、この目を見張るほどのダサさも、素晴らしい個性として賞賛された。
私はこうやってなんやかやと言い並べられると困ってしまう。
とうとう私は、抗弁に窮して最後の論拠を口にした。
「でもこれ、俺達には高すぎるよ」
自分の夫に自分が惚れ込んだものを否定されて、このときにはもう彼女は急角度にご機嫌斜めだった。私の意見はその斜面を転がり落ちていく。
「いいじゃない、私が買うんだから!」
そう言われると、もう何も言えなかった。
彼女のほうが私よりずっと稼いでいるのだから。
私の反対を押し切って手に入れたこのソファを、彼女はとても大事にしていた。
一度、私の母が換毛期の愛犬を連れて茶を飲みに来た時など、彼女は始終機嫌が悪く、母と犬が帰った後には無言でガムテープを使ってソファの上の犬の毛をとっていた。
険悪な雰囲気を和らげようと、私は言った。
「あの……母さんのお土産、おいしそうだよ。食べない?」
それはトリュフチョコレートで、母が温泉旅行へ出かけた先で買ってきたものだ。
私はチョコレートが嫌いではない。どちらかと言えば好きなのだが、視界に置かないようにに努力している。
食べると吐き気がして腹を壊す体質なのだ。
だが、私の母は脳の中にはお花畑が咲き乱れ妖精が飛び交っているような人間で、私が目の前で吐こうがトイレで呻いていようが、ショコラのような甘く愛らしいもので体調を崩す人間などこの世にはいないという思い込みを覆さない。
そのパッケージを開けると、ふんだんにまぶされたココアの粉がはらはらと降った。
「やめてよ!」
彼女は怒鳴った。
私は慌ててチョコレートの蓋を閉じ、その雑な動作にまた粉が舞った。
「これいくらすると思ってるの?! きれいに使わせてよ!」
「そんなに怒らなくったって……」
「あなただって、車を土禁にしてるじゃない! 私の気持ちがわからないの?」
「だって使っていれば多少は汚れるもんだろ?」
「私はね! ソファは本当に気に入ったものを買って大事に使いたかったの! 本当に気に入るものがやっと見つかったの! 汚さずに使いたいの! わかる?」
私は喧嘩に弱い。めっぽう弱い。
特に彼女に高い声でキャンキャン吠えられると、戦うよりも謝って終わらせないといけない気分になる。
「わかった。わかったから大声を出さないで」
キッチンでコーヒーを淹れてやると、彼女は私を一睨みして椅子に座り、トリュフを一度に二つ口に入れ、熱いコーヒーを少し啜って口の中で溶かした。
その途端、剣呑だった目がおかしいくらいに和んだ。
彼女は、私の母以上にチョコレートが大好きなのだ。
その大好きなチョコレートを、大好きなソファの上でもぐついたらもっと幸せなのではないかと思ったが、それを言うとどうなるかくらい私にもわかっている。
私は自分用にほうじ茶を淹れた。コーヒーにも、私の胃腸は過剰反応してしまうのだ。
私はやっとこさ彼女の向かいに座った。
「おいしい?」
「うん」
「なんか、高そうな箱だね」
「味も高級な感じ」
そう言われて、一個くらいなら食べてもいいかなと手を伸ばすと、アナフィラキシーが怖くないのか、と彼女に箱を奪われた。
チョコレートが嫌いではない私が誘惑に負けそうになると、彼女はこうやって私の手から奪い取る。そして自分がおいしそうに食べてしまう。
それが私たちの一つの様式美に溢れたコントで、この茶番に楽しく笑いあう。
トリュフの残りがあと一つというときに、ふと彼女が眉をしかめた。
「ねえ、私、お義母さんに感じ悪そうにしてた?」
「ちょっとね」
彼女は私の母や母の犬と、私よりも友好的な関係を築いていた。自分のふくれっ面がそこへどういう影響を与えたか、やっと思いが至った様子だった。
「……今度会うときは、ザッハトルテ買っていこうよ」
ばつが悪そうにそう言うと、彼女は最後のトリュフを口に入れた。
私は笑った。
そして、今、彼女はいない。
このときを逃さず、私はあのソファに座っている。
目の前のローテーブルには、チョコレートが山積みだ。
昨日も今日もろくな食事をしていない。
この胃を、禁じられたセピア色の物体で満たそうという目論見だ。
セロファンで捻られた一口チョコがしこたま詰まったお徳用の包みをばりっと開ける。まずはこれからだ。
小さな包み紙が、ソファの座面に積もっていく。
いい気味だ。
瞬く間に一袋食べつくすと、次はざらざらと小粒のコーヒーチョコを、パチンコ台になった気分で呑み込む。
チョコ三昧も佳境に入ってきた。
さあ、さっくさくのミルフィーユショコラだ。
ほら、個包装を開けるそばからぽろぽろと崩れて座面の細かな凹凸に入り込み、取ろうとするとさらに細かくなって食い入っていく。
ざまあみろだ。
いくらでも怒り狂ってキーキー喚くといい。
クリスピータイプは意外と崩れず拍子抜けしたが、チョココーティングのポテトチップスはいい具合に油じみた屑が袋の底に溜まっており、それを旗よろしく振り回してぶちまける。
この頃には胸やけがし、吐き気が襲ってきていたがそれに屈している場合ではなかった。
仕上げは、あのトリュフチョコだ。ココアパウダーがたっぷりの代物。
箱を開け、立ち上る洋酒の匂いをかいで私は盛大にげっぷをした。
甘ったるいものが胃液とともに上がってきたが、私はかろうじて耐えた。
私は息を荒くして粉を飛び散らせながら、手掴みで握りつぶし、わざと汚らしく食べた。
何とかすべて胃の府に納めると、ソファの上に立ち、トリュフの箱の底をタンバリンよろしく叩く。
茶色の細かい雪が降る。
痛快だった。
私はソファの上でどすんどすんと何度も跳び跳ねた。
ほら、大事なソファがとんでもないことになってるぞ!
いくらでも罵れ。
ああ、殴りたいなら殴ればいいさ。
できるものならやってみろ!
私はひとしきり跳び跳ねて喚いたあと、しばらく黙って肩で息をしていた。
鏡を見るまでもなく、私の顔は蒼白なのがわかる。
脂汗がじわりと顔を濡らしている。
もう、限界だった。
トイレへ駆け込む前に、食道が痙攣して、口内容量を軽く超える中身を私は廊下にぶちまけた。
狭い廊下の短い距離を吐瀉物でマーキングしながら、私は涙と洟水が止まらなかった。
リビングでは、写真立ての中で、あの日のままの彼女が部屋の惨状を眺めながら微笑んでいる。
車を貸すんじゃなかった。
線香の残り香が、残酷だった。
私は便器に突っ伏して、恥も外聞もなく泣いた。
――俺は君がいないとだめなんだ
――叱りに来てくれ
<了>