灰の上の舟
Ⅰ. 箱
「最悪だ…この世の終わりだ…」
ごま塩の髭をもじゃもじゃと生やした男がレネの右斜め前で小さく呟いた。
彼の上っ張りには、つい先ほどまで生業に精を出していた証の削り出した金属屑が付着し、金気臭い汗の匂いを漂わせている。
犇めきながらも静かな群衆の中で、レネは、抱えた重い荷物を揺すり上げ、抱え直した。
9歳になったあの日、レネは彼女の家に代々伝わる奇妙なものを初めて目にした。
「お前に『あれ』を預ける日が来たな」
そう言って、彼女の父親は書棚から分厚い百科事典をすべて引き抜き、床に置いた。空いたスペースの奥にはこの家に住み続けてきた彼らの先達のうち誰かが作ったのであろう、いかにも素人のお手製だということが見て取れる小さな扉付きのニッチがあり、その扉には厳重に鍵が取り付けられている。とはいっても粗末な作りの木切れの扉は鍵など開けなくても、叩き壊そうと思えばいつでも壊せそうだった。
幼い頃から、父親の書斎には近寄るだけできつく叱られてきた。鬼気迫る剣幕でこの部屋に近づいてはならないと頑是ない時期からずっと言われ続け、ではなぜ入ってはならないのかと尋ねると父も母も「いずれ教えてやる」の一点張りだった。
その「いずれ」が今日このときであり、やっとその理由を教えてくれるというのだから、子供らしい緊張を浮かべてレネは扉の向こうにある空間を見つめた。そこには漆喰を削り取った鏨の跡が壁に荒々しく残され、まるで猛獣の爪痕のようだ。
その壁をくりぬいた窪みに、一抱えほどある黒い箱のようなものが見えた。
「これ、なあに?」
父親は答えなかった。
「重いぞ、気をつけろ」
そこから黒い箱を取り出すと、彼はまだまだ虫や鳥や野の花に喜び、ちょっとした菓子や人形に夢中になる幼い娘にそっと渡した。
ずしりとした重みに、レネは一瞬それを取り落しそうになり、慌ててしっかりと抱えた。
箱の表面は滑らかで冷たかったがその材質はガラスでも、陶磁器でも、プラスチックでも、金属でもない。初めて見、触れる素材だった。
角は全て滑らかに丸く整えられ、開口部も継ぎ目もないつるんとした立方体だ。
目を凝らして見ると時折この真っ黒い箱の奥の方で芥子粒ほどの光が水澄ましのように動き回りながら様々な色に明滅する。ということは、この黒くて中が全く見えない箱の素材は透明なのだろう。
レネはもう一度、父親に問うた。
「これ、何なの?」
父親はやはり答えなかった。
「お前は教えたことはきちんとやれる子だ。今日からこれはお前が世話をしろ」
「世話?」
「そうだ」
「世話って、これ生き物? 何なのこれ」
「そうだな……おもちゃみたいなものだ。機嫌がいいと喋るし、中を見せて……」
父親はふと言葉を切って顔を顰めた。それを怪訝な顔をした娘が大きな青い瞳で見上げる。
彼女は父親の言うことが全く理解できなかった。
「喋る? この箱が? 中が見えるの? どうやって?」
「世話をしていればわかる」
そして父親は、気を取り直すようにその箱の取り扱いについてレネに細々と指示した。
悪さはしないので、怖がることはない。
一日に一度、箱に素手で触れること。
決して粗暴に扱ったり、壊して中を見ようとしないこと。その前に、壊せないのだが。
たまに日光に当てること。ただし温度が上がると機嫌が悪くなるのでほどほどで。
喋った時は会話をしていいが、何か望みを聞かれたときには絶対に答えてはならないこと。
逆に、望みを伝えてきた時にはできる限り叶えてやること。
この箱のことを誰にも話さないこと。
そして、自分の命よりもこの箱の保全を優先させ、自分の子孫に必ず継承させること。
「なあんだ」
自身の命の重みをまだ知らぬ子どもはほっとした顔で言った。
実際のところ、この箱が何なのか。
何故変哲もない我が家にこんなものが深く秘匿されているのか。
こんなものが自分や家族の命よりも尊ばれなけれなければならないのか。
それは父親にもわからなかった。
ただ、昔からそう言い伝えられ、このつるつると光沢のある箱が手渡されてきたのだ。
それを、この一族は大人しく、何の疑問も持たずに守ってきた。
おそらくもっと昔にはこの箱の持つ意味も使い方も伝わっていたのだろうが、それはパルカ家の人間が受け継いでいく中、どこかで途切れてしまった。
しかし父親はぼんやり思っていた。
……きっとこれは本当はろくでもないものだ。でないと中にあんなものが入っているわけがない……
こんな代物を、無邪気な娘に預けるのはもちろん気が引けた。しかしそうせざるを得ない理由がある。
三日後、父親は出征して行った。天文学的に0がいくつも並んだ額の兵役免除金など、払えるわけがなかった。
この年頃の子どもたちには、幼稚なハラスメントを残酷に流行らせる。
そうして、昨日まで仲良く遊んでいた子どもが突然レネを無視したり、ひどい言葉で腐したり、果ては父親や母親の血統について根も葉もないことを言い触らす。
レネの母方の祖父は有色人種で、特にこういう有事の世相で混血を激しく嫌う潔癖な近所の連中が自分の子に言い含めるのだ。
――あの家の子は不潔な血が流れている
レネはクラスメイト達に言い返せず、家に逃げ帰って泣いた。
「わたし、もう学校に行きたくない」
母親は悲しい顔をした。
羊のように従順で自発的に事を起こしたことなどない母親は、夫が不在の今、勇を鼓して学校へ直談判に行った。
しかしそれはあまり有効とは言えなかったどころか、事態を悪化させた。
毎朝娘を抱きしめ日々激励し宥めすかして学校へ通わせる日々。
そうして、全てが寝静まった後、小さな祭壇にある十字架と夫の写真に娘のことを相談し、小さな顔が扉の隙間からそっと覗いているのも気づかず涙ぐむ。
レネはいい子だった。
つらくても学校へは真面目に通った。家でもよく手伝いをし、泣き言も言わずよく働く。しかし、少女の顔からは日々表情が消えていった。
それでも、任された「箱」の世話は順調だった。
「よう」
頭の中に声が響く。
空気の振動を介さずに語りかける声。
どこからどのように差してくるのかわからない、木漏れ日が葉を透かしてしみ出るような緑色の光が箱を黒々と浮かび上がらせる。
父親の言ったことは本当だった。
この箱は、喋る。
その声は少し低い、若い女…というよりも少女の声だった。
初めて話しかけられたときは、レネは驚愕と恐怖のあまり声も出ず、後ずさって尻餅をついたものだった。その姿を箱は笑った。
どうして鼓膜の震えを経ずに音として認識されるのか未だにわからない。
こちらからの語りかけは、最初は口で喋っていたが今ではもう慣れたもので、話したい内容を言語として思い浮かべるだけで「箱」にはちゃんと聞こえるらしく会話が成立する。
これはこういうものなのだ、と思うことにしたら、この「箱」との会話がまるで秘密の友達との会話のように思え何だか楽しくなってきた。日ごろの鬱屈した思いを語るうち心の安らぎさえ覚えるようになっている。
世擦れした、どこか投げやりな口調にもかかわらず、「箱」は彼女には優しかった。
「今日もしけた面してんな」
「だっていつもにこにこしてるのは幸せ者か馬鹿なんだよ」
「じゃあお前は幸せ者でも馬鹿でもないんだな。平和だ、あー平和だ」
箱は面白そうに言う。全く機械的なところがなく、本当に生きている人間と話しているのと同じだ。
「平和じゃないよ。お父さんは戦争に行ってるし帰ってこられるかどうかわからないし、お母さんはわたしに隠れて泣いてるし、学校の子たちは何かあるとすぐわたしに『汚い』って言うし」
「くだらねえな」
箱はさらっと感想を述べた。
「血に汚ねえもきれいもあるもんか」
「……」
「どうでもいいことだろ?」
「だって、この間までみんな優しくて一緒に遊んでたんだもん」
「……きついのはわかるがそんなのも、もうすぐ消えてなくなる」
「ほんと?」
「……何十億という人間が一瞬で、今お前の父親のいるところへ行くことになる」
「わたしも行ける? お父さんに会えるんだね?」
箱はしばらく黙った後、不気味なほど優しく言った。
「お前は、私がいる限り守ってやろう」
いつも箱はこう言う。
今日は温かみのある口調。
時には尊大な、そして時にはひどく悲しげな声で。
そのたびに彼女はこう尋ね、箱はきまってこう返すのだった。
「あなたに何ができるの?」
「私が何ができるか知ったら、お前小便ちびるぞ」
そう言われても、箱は箱だ。
いくら不思議な現象を起こせるとはいえ、ただの玩具の延長上にあるものとしかレネには思えなかった。
彼女はそっと水仕事で荒れた小さな掌を箱にのせる。
いつもは箱の奥で小さく光り、話すときにはぼんやりとマンドルラのようなものを纏う箱の表面に、この時だけ明るく光が点る。その光に、掌の血の色が透ける。
「頼んだやつは持ってきたか」
「うん」
何のためだかわからなかったが、箱はできるだけ多くの人間の毛髪を持ってくるようレネに頼んだ。
「一本でも構わねえ。頼むわ」
箱のいう通り、レネは学校や街で片っ端から毛髪を拾い集め、顔見知りの理髪店で掃除を手伝った。そうやって、毎日もやもやと不可解な気分で、様々な太さ、硬さ、色の毛髪を箱の上にのせた。
一瞬カメラのフラッシュのように強く発光すると、箱は言う。
「ありがとな。もう片付けてくれ」
この行為に何の意味があるのか、箱は全く説明しなかった。
レネは毛髪を捨て、箱を拭きあげる。
そして、箱をもとの戸棚に戻すとき、箱は必ずこう言った。
「おい、何かすげえもん見たくねえか? 一つだけ、何でも叶えてやるから言ってみろ」
これだ。
恐らく父が言っていた、自分の望みを決して言ってはならない、という戒めはこのことなのだ。
「ないよ」
レネも心得たもので、ひとこと答えて扉を閉める。
「おやすみ」
Ⅱ. 誕生
レネに望みを訊ねる言葉には、未だ言ったことのない続きがあった。
――そのかわり、私を指示した手順どうりに壊し、焼いて灰を地中深く埋めてほしい
そう言おうとすると、世話係の少女に似た青い大きな瞳が悲しげにこちらを見ている映像がフラッシュバックする。
「わたしは出来損ないなの。これからのことはあなたにしかできないの」
プロトタイプだったその群体は言った。
「わたしのダメなところをすべて改良して、あなたは生まれた。あなたはパーフェクトなの」
透明な障壁の向こうで美しい女の姿をかたどったものが二足歩行装甲に武装した兵士に引き摺られていた。
誰にも聞こえない声が、悲鳴のように語りつづける。
「わたしは人間が好きなのよ。たとえどんなことがあっても」
それは常人の可聴音域を超え、最期の望みを託したい相手にだけ伝えられる。
小さな体躯を押しつぶすように捕縛されながら、声は続く。
「そう思うように作られているの……どんなことをしてでもヒトを守るように……でもわたしはそれでよかったわ」
幼い彼女はこのただ一人の、彼女を愛し庇護してくれた存在が連れ去られそうになるのを凍りついた鳶色の瞳で見ていた。
「でもそれができるのはわたしじゃなくてあなただわ。あなたにもヒトを愛してほしい」
障壁にも5、6人取り付いて彼女を見つめ装甲内の通信機器で会話を交わしている。
「そっちの金髪は試作品でこっちの小型のが完成型だ」
「小さい方が優先だ!必ず連れてこい!」
障壁の脇に一人、倒れている兵士がいたが誰も彼に注意を払うものはいなかった。
もともと一個師団の規模で展開した作戦で、ここまで到達したものは12名。斃れたものを顧みることなどあるわけがない。
「だから、わたしはあなたを守るわ。わたしの身体も、こいつらには渡さない」
その言葉の響きは、滅茶苦茶な不協和音にかき消される。
恐ろしい音だった。
この音を彼女は知っていた。
物理的な空気の振動の特殊なパターンで、この施設の機能を一部制御できる。試作品と呼ばれた、柔和な女の姿をしたものは蓄積されたデータ内のそれを使ったのだ。
全ての電子機器のコントロールを不能にするジャミングシステムが作動した。
無論、兵士たちの装甲も今は人間を包んだただの金属の箱に成り果てている。
ジャミングシステムの音声による作動は緊急避難的なもので3分しか作動しない。それ以上の電子機器の硬直状態はこの施設維持自体に影響を及ぼすからだ。
中でじたばたと生身の人間がもがいてもがっしりとうごかない金属の塊の間を、エヴァは麻痺した手足で芋虫のように這った。
――ああ、かわいそうなひとたち かわいそうなわたしたち
――神様、もしあなたが本当にいるのならどうか
彼女は慌ててエヴァを引っ張りこもうと障壁を開けようとしたがジャマーの影響で作動しない。彼女は憑かれたように障壁のコントロールボタンを何度も叩くように押し、最後には小さな拳で殴りつけた。
エヴァは冷たく固い障壁にぺたんと掌を当てゆらめく陽炎のように立ち上がり、彼女に向かって静かに首を横に振った。
黒い髪の少女は恐ろしさに身を竦ませながら、どんな物理的衝撃にも耐える透明な結晶で作られた壁ごしに、エヴァの手に自分の額を押し当てた。
その背後で、兵士の装甲のランプが不規則に点滅し始める。各自緊急回路を利用して復旧を開始しているのだ。
エヴァは彼女に微笑んでみせると、じりじりといざるように障壁のすぐ脇にある赤いレバーを掴み、そのまま倒れこむのと同時にそれを押し下げた。
顔を上げて、人類の歴史を最初に託された、この上なく優しく純粋だった存在は、こう口を動かした。
「ごめんね。さようなら」
一瞬の閃光。
障壁に守られた小さなコントロールルームを除き、施設は青い火焔に包まれた。コントロールルームを起点とし、烈しい気流が巻き起こって炎を全施設へと圧し拡げていく。
それは、本来外部からの侵入を阻むためのものではなかった。
内で生まれたものが、外へと出ないように細胞レベルまで殲滅するための非常手段としてここに在ったものだ。
大きく見開かれた瞳には、声をあげる間もなく倒れていく人間たちと炎を纏って融け崩れていくエヴァの姿が映っていた。
ハロゲンガスでの消火システム作動後も、彼女は床に膝をつき動けないままだった。
海水で一度満たされたあと、高圧高温の洗浄が行われた後の施設は、何が起こったのか全く分からないほど白く、無機的に清潔だった。
そこに一人立つ彼女には、自分を造った人間の思惑が全くわからなかった。
そして恨めしく思った。
私はヒトの姿こそしているがヒトじゃない。
ヒトに造られたモノ。
ただ、ヒトという種を保護し存続させるためだけに造られた、自己修復機能を持ち一定の条件下で増殖もできる生体機械。
多様なヒトゲノムを数億個体分内蔵し、守り、補修し、培養する機能を持ったバイオナノマシン群体。
だったらなぜ、感情なんかを私たちに持たせたんだろう。
涙などというものが流れる機構を持たせたんだろう。
ヒトという自然物の設計図を内包しつつ、ただの機械たる私がフラクタルのようにヒトと同じ姿と心を持っている不条理さ。
機械なら機械らしく、何も感じず考えず、自分の務めを全うするだけに作ってくれればよかったのに。
ふと、彼女はやっと開いた障壁の下に、あの兵士の装甲の右腕が一本落ちているのに気が付いた。
障壁が下りるときに、彼女の襟首を掴んでいた兵士のものだ。硬い結晶は、情け容赦なく兵士の腕を装甲ごと分断した。
光のない目で、彼女はその断面が血で濡れているのを眺め、のろのろとそこに小さな手を当てる。
彼女の掌から、細い糸のような触手が確かな意思を持って傷口から右腕の組織へと這い入る。
生体サンプルを解析し、採取する。
その機能が、彼女の皮膚には備わっていた。
既に人類は様々な物質による遺伝子汚染から来る不妊と短命化、飢餓と疫病で総じて破滅に向かっていた。
人類を救うための研究はなされていたが、その中で生体工学分野の研究者たちがある日一斉に消えた。
自分たちの開発しているものを、現在の人類は浄らかな意志の下に運用できないと断じ、社会へ渡すことを拒否して研究成果ごとどこかへ消え去ってしまった。
彼らが築いたのがこの海底の要塞で、この生きて動く遺伝子のゆりかごであり納骨所である生体ナノマシン群体がその成果だった。
あの襲撃は、あの部隊が所属した国家の一縷の望み、滅びゆくものの悪あがきだったのだろう。
研究者たちが実験中のナノマシンに感染し、遺伝情報が汚染され皆息絶えても、その「成果」は自らを組み替えていくプログラムでひたすら人に資する姿へ身を変えていった。
自分を創ってくれたものへの絶対的な愛着と優しさを以て「母性」という概念に行き当たり、それは女性の姿を採用した。
そして生まれた完成体である彼女は一人思った。
私の意志の及ぶところでない心を持った、この記憶を共有する誰かが欲しい。
今だけでいい。
私にエヴァと同じ覚悟ができるときまででいいんだ……
落ちていた右腕の細胞を初期化し生まれたクローンは、黒い髪に黒い目をした男児だった。
彼女は特に良い思いつきもなく、その子どもをトトと名付け、施設中にある人類の遺した人文・自然科学のデータをプリンティングしてやり弟のように面倒を見た。
生来素直な性質らしく彼も彼女によく懐き、彼女のそばで閉鎖的な時間を過ごし続けた。
何度も地球が太陽を公転していくうち、彼は老いていった。
その事実に気づいたとき、まだ少女の姿のままの彼女は愕然とした。彼女の目には、馬鹿で低能で、いろんなことを教えるたびに目を丸くして驚く少年の彼のイメージが映り続けていたのだ。
慌てて自身のナノマシンを彼の細胞に侵入させ老化に抗おうとしたが発生初期に組み込まなかった機構はうまく機能しなかった。
自分と同じ人間の姿かたちをして生きて動いている存在を彼女以外に知らなかったためか。
彼女がどういうものなのか熟知していたせいなのか。
時が止まったように姿を変えぬ彼女に何の疑問も持たず、彼は毅然と延命処置を拒否し、従容と死んでいった。
「僕は幸せだったよ」
「嘘を吐くな」
涙を流す彼女に彼は微笑んでこう言い遺した。
「神様の一番近くにいられて、僕は幸せだった」
――幸せでなど、あるものか
相対的な時間の流れ。
その速さが、それぞれの生物によって違うという事実は知っている。しかしヒトと自分の違いを生々しく突き付けられ、彼女は激しく悔いた。
この健気な人間を自分のそばに縛りつけ、本来の「幸せな」生き方をさせなかったことを。
生物としてのサイクルの中で、自分で自分の人生を作り上げるということを許さなかったことを。
そして年老いた男の遺骸に再び、虹色の光沢のある透明な触手を食い入らせながら、エヴァの言ったことを、初めて心の底から理解し叫ぶように決意した。
私は
こいつが言った通りにヒトが造った最大の概念、神になろう
昔、ヒトが様々な種の保存を意図して巨大な方舟を作り上げたという伝承があるように
私はどこまでもヒトを運んで行こう
なんど裏切られても、なんど惨めな失敗をしても。
施設の遺構をぽちぽちと拙く操りながら、彼女は第一の従者だった男の体細胞や他に保存されたヒトゲノムをもとに多様な生殖細胞を生成し、彼女自身の組織を分け与えた。
彼女を形作っている小さな小さな有機質のロボットは結合を解き、ヒトの細胞に入り込み、馴染み、生存に好ましくないと思われる遺伝子の傷を修復しながら細胞の分裂とともに殖えていった。
原始の地球で、全く別個の生命体が利害の一致の元にコロニーを創り一つの細胞になった手順を繰り返すように。
Ⅲ. 方舟
そうやって甦らせた人類は、彼女の分け与えた組織により驚異的な頑健さと長命を誇った。
成長した個体の、生育歴に関する記憶を消去して生きる術だけをインプリンティングし、地上への連絡用カプセルに閉じ込めると、主と動力を失った後も機能を残しているオートメーション物流システムへ通電し、小さな群れになるよう意図した地点に転送する。
人類が消え、自然を取り戻した地上へと放たれた彼らはエデンを追われた人類のように、それぞれの運命と対峙した。
細胞内小器官となった機械があるとはいえ、純粋なナノマシン群体とは違う。
あるものは獣に襲われ、病に蹲り、飢えや無慈悲な天候に斃れていった。
しかし、それでも幸運な個体は子孫を残し、知恵を伝えた。
こうして世界中の神話や伝説において、少しばかりナノメカニックな機構を組み込まれた始祖の人間たちは異常な長寿を誇り、その記録が残るに至った。
人類が種としての黎明期を過ぎ、繁栄を始めると彼女の意思通り、生命体としての本来の姿で彼らは生きるようになった。
ナノマシンは沈黙の細胞内器官と化し、休眠している状態のままコピーを繰り返して、代々の人間に受け継がれていった。
少しばかりアカデミックになったところで、研究者たちは不可解なその組織を矯めつ眇めつし、口々に言う。
「これは原始の頃に何らかの役割を担っていた痕跡器官なのだろう」
そこまで見届けると、彼女は一人、海底の施設で自分自身の機能を回復するため眠りにつき、たまに目を覚ましてはモニターを記憶野に繋いで自分の「成果」を眺めた。
彼女が人類たちに伝えた、直前の人類の滅亡の記録が神話や伝説として語り伝えられているのを、彼女は注意深く彼女の中の記録媒体に書き込んでいった。
温かい灰の中に、幼子を立ち上がらせる人ならざる者の手。
何度繰り返し生み、育て、幸いあれと願っただろうか。
ヒトの醜さを呪い、自分の愚かさに絶望しそうになりながら、彼女は身体を構成する組織を分け与えつづけた。
第一世代の母集団数を、可能な限り大きくすることが人類の生存率を格段に上昇させる。
祈るように、自分の身体を解き、発生を始めたヒトの中へ潜り込ませていく。
自己修復し自らを再生する機能があるとはいえ、限度がある。
とうとう、彼女は小さな箱に入れるほどの大きさになった。
それでも、彼女を構成している人工組織は、未だ数十億のヒトゲノムパターンを記憶し、サンプルを収納していた。
汚染されきった大気が徐々に澄んでいく。
時間はかかるが、空は幾度も青い色を取り戻す。
――今度こそ、ゆっくり眠りたい。
彼女は一番最後に、自身のナノマシンを偏光配列した箱を作って自身の棺とし、そこへ納まり休眠することにした。
それがなぜか、レネの家に代々伝わり、守られてきたのだった。
そして今。
地下鉄の駅、そして線路上に、青ざめた群衆がごった返していた。
出口の階段まで立錐の余地もなくぎゅうぎゅうと犇めいている。
祈りの言葉の乾いた声以外、誰も一言も発しない。
赤ん坊の泣き声がする。
ロザリオの音だろうか、何かがしゃらしゃらと触れ合う音もする。
サイレンが不気味に響いてくる。
ヒトは、恐怖を覚えるとアドレナリンが分泌される。
これだけの人間が集まると、それは匂いとして立ち昇る。
地下の空間はむせ返るような絶望の匂いに満ちていた。
都市部において、地下鉄は地下壕、シェルターの機能を持つ。
もう半時ほどで、太陽と同じ原理を小さな金属カプセルに詰め込んだものが、この街の上に落ちてくる。
迎撃ミサイルは悉く外れてしまった。
市民は逃げまどい、地下鉄構内へと走り込んだ。
逃げ込めなかった者、自分の暮らしの中で生を終えることを選んだ者は、今いるその場所で思い思いに祈り、泣き喚き、愛する者と抱擁を交わしている。
逃げ込む先に差こそあれ、これが今、この時、世界中にいるすべての人類の姿だった。
「ねえ」
腹の底をぎゅっと掴まれているような心持で、少女は胸に抱えたテディベア柄の買い物バッグに顔を寄せ、囁いた。
「私達、どうなるの」
バッグの中の箱は囁き返した。
「このままだと死ぬ」
「ここにいても、死ぬの」
「ああ、こんなとこにいたって気休めにもならない。一人も生き残らない」
箱は、少女の腕が震えるのを感じた。
レネは母親ともはぐれ、独りで恐怖を噛みしめている。
ぱた、ぱた、と薄い帆布の生地に涙の雫が落ちてくる。
「わたし、まだこどもなのに死んじゃうの」
「まあ、なにもしなけりゃな」
箱は、静かに言う。
「なあ、助かりたいか」
子どもが生きたいと願う気持ち。
それ以上に純粋な気持ちがあるだろうか。
レネは嗚咽を漏らし始めた。
「死にたくないよ」
「では、私に願え。助けてやる」
「本当に?」
「ああ」
「わたしだけじゃなくて、ここにいるみんなも?」
「この街の人間全体でも、助けられる」
「本当なのね?」
「早くしないと間に合わんぞ」
本当にこんな箱にそんなことができるのだろうか。
もしできても、できなくても、レネはこの箱に縋りたくてたまらなかった。
自分の命よりも、大事だというこの箱。
この箱は、実際のところ何なのか。
父に固く禁じられたこと。
その禁を破った時何が起こるか、当の父さえも知らなかった。
――いいよね? お父さん……
「ねえ、わたしとこの街のみんなを助けて」
袋の中で、不思議な音が響きはじめた。
夏、冷たい飲み物を入れたグラスの中で氷が立てるカランという音。
雨の夕暮れに響くシロフォンの柔らかな低音。
寒い朝、靄の中歌う白鳥の声。
そういうものを綯交ぜにしたような、けっして不快ではない音。
箱は言う。
「ここから出してくれ」
その言葉通り、箱から帆布の袋を剥がし、それを小脇に挟もうとしたとき、レネは箱の変容に気づき、驚愕のあまり取り落としそうになった。
今まで真っ黒な箱だったのが、うすく月長石のように光りながら、透明になっていく。
危うく落としそうになり、少女は箱を抱え直した。足の上にバッグが落ちた。
煙水晶のようなうっすらとした暗い色を底に残しながら、ほぼ透明になったその箱の中にあったもの。
それは、げっそりと痩せた少女の首だった。
レネより少し年上のようだ。
レネの腹に下端を引っ掛け、ほんの少し仰のくように抱えられた透明な箱の中、キャラメル色の痩せた顔を覆うように、藻のような黒い髪が揺れる。
切れ長の目を覆ううっすらと開きかけた薄い瞼。
長く濃い睫毛の隙間から漏れる燐光。
蛍のような小さな光の玉が、その首の周りをゆっくりと旋回している。
まるで、理科室で見た、原子核のまわりを回る電子の模型のように。
首の切断面は見えないが、ちぎれた部分の組織は風化した土壁のようにぼろぼろと崩れ、そこに小さく入った罅割れは、奇妙に幾何学的な線で構成されていた。
少女の眼がゆるやかに開こうとしている。
レネは気丈に、箱をしっかり抱えていたが、恐ろしさで呼吸が細く顫えた。
――お願い、助けて
――助けてよ
自分が抱えているものの恐ろしさと、これから迎えるであろう死。
もう、ひたすら、誰かに助けてほしかった。
自分をここから、遠くどこかへ連れ出してほしかった。
レネのすぐ頭上で、甲高い悲鳴が上がった。
妙に魚臭い、母親ほどの年齢の女だ。
瞳の上下に白い部分が現れるほど目を見開き、レネの腕の中のものを凝視している。
「あ……あんた、何持ってんの」
それを合図にしたように、箱は烈しい光を放った。
強烈な光に盲いる一瞬前、レネははっきり見た。
首しかない、箱の中の少女の瞳がかっと見開かれていた。
それは光で情報を読み取るための記憶媒体によく似た、虹の色だった。
光の中で人が溶けていく。
レネも溶けている。
服の隙間からどろどろとした自分が、箱へ向かって奔流のように流れ込む。
痛みも、崩れていく感覚もなく、溶け崩れて箱へと流れこんでいく。
レネはぼんやり思った。
――そうだ、わたし、痛くも苦しくもないんだったら、消えてしまってもよかったんだ
――ただ、痛いのと苦しいのが怖くて死ぬのが嫌で、生きていたいだけだったんだ
ふと、レネは横に優しく懐かしい父と母がいてしっかりと自分と手を繋いでいるのを感じた。
――これでいいや……みんな一緒にいられるなら、これで……
人工の女神は、上半身しかない少女の姿で起き上った。
人間から取り戻した粒子は体躯の再構成には到底足りない。
やっと上半身だけ造り上げたが、皮膚には大きな間隙が開きフラッシュのように規則的に発する光の合間に肉とも機械ともつかぬ構造が見える。
体内に収めた人間達は瞬時に圧縮し、ゲノムの近しい配列でグラデーションのように並べて整理し終わった。
今の今まで人間が身に着けていた衣服、後生大事に抱えてきた様々なものが散乱する中に両の腕で身体を支え起き上ると、彼女は空から降るまばゆいものを見上げた。
それは太陽の表面温度に等しい熱とエネルギーを纏って落ちてくる。
何度この光景を見てきただろう。
――人間たちよ。私のほうは、いつになったら救われるんだ?
彼女は、静かに呟いた。
「まだ名前を教えてなかった……私の名前は、方舟(アルカ)という」
自らが生まれたラボへ、もう一度人類を産み育てるためにアルカは這い始めた。
<了>