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いろくず   に え ど の  
鱗の贄殿

 

 それは、蒼く光る鱗であった。

 地は真っ黒いのだが、蒼鉛結晶の色に可視光を弾いていた。

 

 それを見たのは、合宿三日目の昼下がり、フィールドワークの成果について話し合っていたときのことだ。

 そこは、大学同窓会が所有する山荘で、今は大学職員と在学生、卒業後の同窓生が安く利用できる保養所になっている。大学の敷地内にある同窓会館の事務室に予約を入れ、使用料を払って当日鍵を借りれば利用できた。昭和期の寂れた駅前旅館のような造りで生活感があり、そこかしこが手垢じみていたが、一応浴場は檜造りだった。交通の便はもちろん悪い。高速道路のインターから降り、数年前の豪雨での損傷がおざなりに補修されたV字谷の山道を二時間走ってやっと辿り着ける。周りにコンビニどころか人家もなく不便の極みだが、安さは魅力で、こうしてサークルやゼミの合宿にも使われている。

 

 僕はこの山荘を利用するのは四度目だった。サークルで二回、ゼミで二回。その度に僕は他の場所を推したがいつも無視された。

 正直、ここは苦手だ。

 僕は幼いころ癇の強い子どもだったらしく、長じた今も、人よりほんの少しだけ嗅覚や聴覚が過敏な傾向がある。

 昨年、初めて山荘に来たとき、部屋も浴場も、とにかくどこにいても落ち着かなかった。なにかに見られているようなぞわっとする感覚がある。なぜか、その感覚がどことなく官能的な甘さを伴う。そんなことは初めてで、また薄気味悪い。

 何度来ても、この感じは変わらない。僕を除いたメンバー八名はなんともなさそうで、僕の方も説明しようがないので黙っている。

 

 その日は曇っていた。今にも降ってきそうな、湿った空気が生暖かかった。

 食堂にフィールドワークの成果を持ち寄り、ミーティングで各自卒論の方向性にすり合わせていく。疲れと曇り空の陰鬱さで、古い電灯が暗く見えた。

 一通り終わると、先生はゼミのみんなに紅茶を淹れ、ドイツのクッキーアソートを振舞った。昔懐かしのドレンチェリーが載っていてなかなかうまい。

 世間話をするうち、お調子者の女子が先生に訊ねた。

 

「先生って、おいくつなんですか」

 

 それは、その場にいる全員が以前から聞いてみたかった質問だった。

 先生はせいぜい三十代半ばにしか見えなかった。それも、先生の出で立ち、物腰や言葉からそう感じるだけで、僕たちと同じような服を着て黙ってじっとしていれば、学生と見分けがつかない。いつも柔和な先生が、年長と思(おぼ)しき教官たちを抑えて准教授の職位にあるのは、僕たち学生には腑に落ちなかった。

 

「五十だよ。もう、知命の齢だね」

 

 僕たちは驚いた。

 五十なら准教授も頷ける。しかし、この外見の若々しさには度肝を抜かれた。

 

「先生めちゃくちゃ若く見えますね」

「アンチエイジングとかやってるんですか」

 

 女の子たちが口々に尋ねる。

 

「何もしてないよ。独身で好き勝手に生きてるから、少し若く見えるのかも知れない。観相学では、異様なくらい若く見える人間は、他力本願のわがまま者という見立てになるらしいからね」

 

 女の子たちが、若いままでいられるのならわがままに生きようか、と笑い合う。彼女たちの高い声はよく響く。男がいるところでしか出さない声だ。

 

「ひょっとすると、これの呪いかもしれない。旧友にもらったお守りなんだ」

 

 そういいながら、先生は首にかかった銀色の鎖を手繰り、ガラスのロケットを引っ張り出した。

 ロケットの中には蒼い金属光沢のあるものが見えた。花びらのような形をしている。

 

「え、それ、何ですか……貝?」

「ネイルチップっぽいですよね」

「コガネムシの翅とか?」

 

 見つめる僕たちの前で、ロケットはゆっくりと揺れている。僕はふっと思い浮かんだままを口にした。

 

「鱗……ですよね」

「鱗?」

 

 先生は、訝し気に僕を見た。

 

「どうしてそう思ったんだい?」

「なんとなくです」

「……よくわかったね。正確に言えば皮膚だけど」

 

 先生は目を伏せ、ロケットを首から外して手に握り、窓際へ行って外を眺めた。

 

 そのとき、背筋に生暖かい水が垂らされたような嫌な感じがした。

 もともとこの山荘に居心地の良くないものを感じているのだが、足が攣(つ)る前になんとなく予感できるように、なにか格段にまずい事が起こる気がしている。

 僕は思わず、みんなの表情を見まわした。みんなのほほんとしている。徐々に何かが起こりそうな気配が濃くなる。

 先生は窓を背に向き直り、僕を見ていた。

 

「ちょっと、若い頃の話をしてもいいかな」

 

 さっきの女の子が横から訊ねる。

 

「もしかして、恋バナですか」

「うーん、恋バナといえば、恋バナかもしれない。同性愛の要素もあるかもしれないよ」

 

 恋愛の話で、しかも同性愛らしいと聞くと、その場が一気に盛り上がった。

 

「かもしれないってどういうことですか」

「さあ。よくわからないんだ。私自身も本当にあったことかどうか信じがたいくらいだから、君たちには作り話だと思われるかもしれない。聞きたいかい」

 

 みんな一斉に聞きたいと言う。

 僕は聞きたくない。喉の奥がきゅっと締まる。

 先生が、柔和な目をさらに細めて語り始めた。

 

「私が院に入った年、同窓生が旅館を畳んだんだ。それがこの山荘だよ。同窓会が買い取って、ほぼ居抜きで保養所として利用することになって、時給五百円に二泊三日の寝泊りと食事つきで片付け人員を募集していた。レジャー気分ですぐ申し込んだよ。希望者は院も学部もぜんぶ合同で、作業監督についてきた同窓会の事務員も入れて八人だった。片付けっていっても、大した作業量じゃなかったし、空いた時間は散歩したり、廃棄するガラクタから欲しいものをより分けたりして楽しかったよ。そしてね、私は集められた中の一人に目を奪われたんだ」

 

 風に木々が鳴り、古い木枠に嵌った窓ガラスをカタカタと揺らす。

 昔の恋を語る先生は、やはり五十歳には見えなかった。

 

「最初、顔も体つきも、男性か女性かわからなかった。寝間着みたいな服を着ていてね、今思えば手纒たまきと足結あゆいがない上古期の衣きぬと褌はかまだね。徐々にどうも男性らしいと気づいたけど、性別を超越した感じで、肌なんか、精製された蝋みたいに白くて透明感があった。光のない、静かな目なのに、視線に高踏的な艶めかしさがあってね、動きもなめらかで水が流れるようで、でも媚びたいやらしさはなくて……そりゃあもう、玲瓏れいろうという言葉がぴったりなひとだったよ」

 

 先生は掌をゆっくり開き、握り込んでいたロケットを指先で撫でた。

 

「髪がすごく長かったよ。うなじのところで下げ鬟みずらみたいにくるっとやって、余ったのを長く垂らしてたんだけど、それでも腰まであったからね。しなやかで蒼い艶があって、この鱗と同じ色だった」

 

 僕は、全身の毛穴が開くような感覚に陥った。

 この話は聞いてはいけない。なぜだかそう思った。

 

「あの、お話し中すみません、そういう恋バナみたいなのは苦手なので……」

 

 話を遮ろうとする僕をみんなが面白くなさそうに睨む。先生は無視して続けた。

 

「行きのバスの中にはいなかったから、現地に直接来た学生なんだろうと思ってたんだけど、食事の場にも来ないんだ。誰も彼の名前を知らなくてね、事務員に聞いても、そんな奴いないって言われた。でも、いるんだよ。作業しているときに数えると確かに九人いるんだ。私たちがわいわいやってるところから離れて、割れたガラスを拾ってたり、庭の倒木を片付けたりして、最初は真面目だったな。気づけば私はいつも彼を目で追ってた。話しかけて、名前や学部を聞き出そうとしても、無言でするっといなくなってしまう。その身のこなしがまたきれいなんだ」

 

 低く、重く、耳鳴りが始まった。

 重苦しい雑音の中でも、先生の声は明瞭に鼓膜に届く。

 

「でもね、二泊三日の初日の夜、だいたいみんなが寝静まったころ、のどが渇いたんで、いま私たちがいるこの食堂にペットボトルのお茶を取りに行ったら、見ちゃったんだよね」

 

 先生は溜息を吐(つ)いた。

 

「彼と事務員が抱き合って、キスしてた。もうね、すごく濃厚なやつ。最近結婚して、さんざん新婚アピールしてたくせに浮気相手をこんなとこに連れてきていちゃついてるんだから、そりゃ聞いても知らないっていうわけだって思った。でね、彼があの男とキスしながらちらっとこっちを見たんだ。ぞくっとしたよ。下世話な話をすると、あの一瞥で私は完全に性的な興奮状態になってた。私は泡食って自分の寝床に戻って寝たんだけど、なかなか寝付けなかったよ」

 

 苦笑い交じりに話は続く。

 

「その翌日から、彼が作業の合間に物陰で何人かの学生と逢引きと言うか、こう、かなり扇情的な接触をしてるのを見かけた。男も女も、次から次へ、とっかえひっかえだったよ。でも残念なことに、私にはお呼びがかからなかった。気持ち悪いことをしてるっていう自覚はあったけど、隠れてずっと見てた。すごくいらいらしたよ。風紀の乱れに憤るなんていう道徳的なものじゃなくて、あれは本当に嫉妬だった。性的放縦は大嫌いなのに、彼が誰かに肌をまさぐられているのを見ては、いつ自分の番が来るのかじりじりしながら待ってた。どうして自分の番が来るなんて思っていたのか、本当に今思うと愚かだよ。そして彼も、私の気持ちを多分知ってて、ピーピングする私に必ず一瞥をくれる。それだけで、胸が灼かれるような感じがして、焦がれるってこういうことかって思い知ったよ」

 

 教育者の、いや、常識ある大人が他人に話す内容から逸脱していた。しかし、否応なしに好奇心は惹きつけられる。皆、静まり返って、先生の話を聞き続けている。時折固唾をのむ音が聞こえる。

 僕は、額にじんわりと汗がにじみ出てくるのを感じた。

 

「私以外はしれっとしたものだったね。ちょっと彼のことを尋ねてみても、みんな私を変な目で見るだけだった。そんな奴はいない、私の方がおかしいっていうんだ。状況が変わらないまま、二泊三日の片付けバイトも終わって、帰りのバスに乗って周りを見回すと、案の定彼は乗っていない。山荘前に立って、なんの感慨もない表情で、バスに乗った私たちを見送ってた。バスが動き出したとき、彼がこっちに背を向けて山荘の中へゆっくり戻っていくのが見えた。心臓をこう、ガリっと爪でひっかいたような気がしてね……私は、忘れ物をしたと嘘をついてバスを停めてもらい、事務員から鍵を引ったくって、彼の後を追ったよ。彼は鍵がなくても開けて入っていった。それを不思議にも思わずにさ」

 

 この話を最後まで聞いてはいけない。戻れなくなる。結末で何かが待っている。

 

「山荘に飛び込んで、探したよ。名前も知らなくて呼べないし、なんだか声を立てるのが憚られたから、ただ黙って走り回った。やけに自分の足音がうるさかったなあ。そして、やっと見つけた。食堂……今いるこの食堂の真ん中に彼は立っていた。また私をちらっと見て、興味なさそうにまた目を伏せる。近づいても動かない。顎を掴んでキスしても眉一つ動かさなかった。他の連中とは、いろいろとやらかしていたくせにさ。私は無性に彼をどうにかしてやりたくなった。支配欲というか、性欲というか、なんだかとにかく倒錯的な衝動だったよ。彼の髪の結い目を掴んで引き倒しても、暴れもなにもしないものだから、もうめちゃめちゃにしてやりたくなって……そこからなにも覚えていないんだ。私がなかなかバスに戻らないのを心配した事務員が、私が倒れているのを見つけて、バスに乗せて病院に連れていってくれたらしい。だけど、病院で気がつくと、私はこの鱗を握りしめていたんだ……」

 

 先生は微笑んだ。

 

「私が意識を取り戻した三日後、あの事務員が亡くなった。心不全だったそうだ。それからぱらぱらと不規則に、程度を問わず彼と肌を合わせた人間が死んでいった。みんな自然死だったよ。彼に触れなかった人間は今も元気に暮らしている。だから、彼に触れて、今も生きているのは私一人なんだ。普通、怖がったり気味悪がったりするんだろうけどね、私は違うよ。また彼に会いたい。彼のことを思うと、意馬心猿という言葉がぴったりで、年甲斐もなくまだ恋い焦がれているんだ」

 

 先生は、食堂の真ん中に近づくと、ガラスのロケットを開き、中にあった鱗をそっと床に置いた。

 

「蛇の鱗は、一枚一枚分離して独立した組織になっている魚の鱗とは違って、皮膚が硬化し、凹凸になっただけのものだ。全て繋がった皮膚だから鱗が剥がれるというのは大怪我だ。痛かったろう……」

 

 そのとき、床に置かれた鱗がちりちりと動き出した。おそらく肉と接していた、引きちぎれた部分から熾火おきびのような燐光がちかちかと明滅する。そこから染み出るように陽炎が立つ。

 

 僕は揺らぐ空気の向こうにいる先生を見た。

 そこには、とろんとした目をして呆けた微笑を浮かべた男がいた。

 もう先生は、僕らのことはどうでもいいのだ、と悟らずにはいられないような笑顔だった。

 

 僕と先生の間で揺らめいている陽炎はだんだん高く、舞うように渦巻いて上へと伸びる。そのただ中に一本の揺らめく長い紐のようなものが現れた。見る間にそれは肉の質感を増し、色彩が備わって人のかたちになる。

 抜けるほどに白い肌、重くなめらかに流れる髪、虚ろな眼差し……幻は濃く、立体感を増していく。

 それは陽炎の渦の中にゆらりと立っていた。先生がふらふらと近寄っていく。

 

「会いたかった」

 

 そう呟き、躊躇も臆面もなく先生は現れたものと唇を重ねる。

 一瞬ののち、先生はどうと枯れた立ち木のように倒れた。

 みんな悲鳴を上げる。息はある、119番、という引き攣った声が飛び交う。誰にも彼が見えていないのだ。

 

 僕は、寝るのに使う和室へ逃げこんだ。何かがふりきれてしまったのか、それとも単に怯懦きょうだの極みでパニックになったのか、そのどちらでもあると思う。

 正直に言って、あそこにいる連中よりまだ布団の方が僕を守ってくれそうだった。 

 畳んで積んだ布団に倒れこみ、胎児のように体を丸めてぎゅっと目を瞑る。

 

 僕にできることは怖がることだけだ。あれは人間がどうこうできるやつじゃない。

 

 どのくらい経ったのかわからないが、不意にとろりと何かが垂れてきて頬に触れた。目を開けると、青黒いなめらかなものが暗幕のように目の前で揺れる。

 いつの間にか僕の真上に彼が屈んでいた。顔を背けても見てしまう。人形のように表情のない、しかし美しい顔だった。硬直している僕に、彼はそっと顔をもたげ、何か囁いてくる。しゅしゅしゅ、という空気音だけで、何を言っているかさっぱりわからなかった。だが、耳のあたりからぞくりと震えが腹の底へ伝わる。恐れよりも、甘い慄きだった。不思議と害意は伝わってこない。彼はずっと声のない囁きを続けている。何かよほど訴えたいのだろう。しかしわからないものはわからない。

 なんとなくその唇にキスをすると、細長いしなやかな舌が奥へと滑り込んできた。唾液で顎まで濡れるキスをしながら、彼は僕の体に腕を回し、ゆっくりと快く締め付ける。彼がどのような存在であるか、そして数々の人間が、ことにあの先生が情欲に任せて彼をどう扱ったか、それを意識に上らせた途端、僕は身の内にいる愚かな獣が狂わんばかりに猛るのを感じた。

 彼は冷たくてなめらかで、ゆるゆると動いた。そして意外にも従順で、一言も発しないまま僕を見つめていた。先生は彼に向けた感情を火に焦がされるようなと例えていたが、僕は何物をも壊していく濁流のように感じた。

 

 そこからしばらく僕の記憶はない。

 

 どうやって帰ったのか。先生を皮切りに、なぜあのゼミの数人が帰宅後ぱらぱらと死んでいったのか。一ヶ月間、呆けたようになって病院にいた僕には何もわからない。先生が記憶が消えたと語ったのと同じだ。

 あのとき先生は何らかの儀式をするつもりで合宿を企画し、実行したのかもしれない。生涯ただ一人焦がれた相手に会うために。

 そして、先生の務めた役割は、きっと僕に継承されてしまった。

 

  * * * * * * *

 

 そこまで話すと、従兄はどこか浮世離れした様子でにこっと笑った。

 

「僕もそろそろ五十歳だ。たぶん彼の手駒として一生を終わる。まあ、それでも本望だよ。彼が僕のものになることは絶対にないんだろうけど、僕は彼のものだ。彼以上に美しいひとは見たことがないし、彼以上に素晴らしかった相手もいない」

 

 何が素晴らしかったのか、私はあえて聞かなかった。

 

「愛した相手が望むなら、万難ばんなんを排して叶えてやるのが甲斐性ってもんだ。支度はできた。後継ぎも目星をつけてる」

 

 私は、従兄に誘われて幼馴染たちと山歩きにやってきて、総勢八名でこの山荘に泊まっている。今夜が二泊目だ。

 従兄が肌身離さずつけているガラスのペンダントにはあるものが封入されている。

 

 それは、蒼く光る鱗であった。


 

              <了>

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