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​藤花二題

1. 藤の花薫る頃

​​

 五月の空の下、今年も藤棚には紫の花房が煙るように咲きにおっている。
 そこへマルハナバチが群がって蜜を集めている。
 自らが帰る巣のために、無心に。

 この家にもとうとう買い手がついた。
 最早この家の主ではなくなった彼は思い出していた。

 二年前のあの日、この藤棚の下を通って、彼の妻は終末医療センターから一時帰宅した。
 彼女の前で、彼は自分の学習成果を披露していた。

 

「これ全部、あなたが作ったの?」

 

「うん。だいぶうまくなっただろ?」

 

 彼は努めて陽気に振舞った。
 ベッドの上にカウンターワゴンで食卓をあつらえ、そこに彼女が好きだった料理を所狭しと並べている。
 二人は、焦げていたり生煮えだったり、味が濃すぎたり薄すぎたりという料理を二人で作り、苦笑しながら一緒に食べた日々を思い出した。
 彼女は心の底から感嘆の言葉を呟いた。

 

「すごいわ」

 

「がんばったよ」

 

「ほんとね」

 

 彼はいても立ってもいられない様子で落ち着きがなかった。
 彼女は、もうほとんどものを食べることができなかった。彼はそれを知っていて、それでもこの並んだ皿の数々に精一杯の思いを籠めた。

 骨の上に青白い皮膚が張り付いているような手に箸を持ち、彼女はほんの一かけら、鯛の煮つけを口に運んだ。

 

「おいしい?」

 

 心配そうに尋ねる彼のまえで、箸先を咥えたまま彼女はじっとしていた。
 少し怒ったような表情で黙りこくっている。
 血の気のない唇に、赤い塗り箸が鮮やかだった。

 娘とその夫のために茶を淹れてきた彼女の母親は、結婚して三年も経たぬ若い夫婦の会話を聞いて、障子の陰で丸盆を手にしたまま立ち竦んでいる。

 窓から、蜂の羽音が聞こえる。藤の花が薫る。
 紫の花がらが風に吹かれて枕元へと落ちた。
 おし黙ったままの彼女に、彼はなす術もなくおろおろと謝り続けた。

 

「おいしくなかった? ごめんね? ごめんね?」

 

 今なら彼にもわかる。彼女は泣き出さないように必死にこらえていたのだ。

 

――僕は一生、この花を見るとあの日のことを思いだすよ。

 

 彼は彼女の姿を克明に思い出しながら、目に零れそうなほどの涙を溜めて垂れさがる藤の花を見上げていた。

 勤勉な虫たちが、ハミングし続けていた。
 

​          <了>

​2.藤の香り

 

 

「藤ももう終わりかな」

「ですね。あの匂い、好きなんで残念です」

 

 それは春も深まった夜だった。

 

 外は何もかも押し流す勢いの雨で、春雷が轟く。

 光と音の間隙と響き具合で、雷は近いことが感じられる。

 窓の外で盛りを過ぎつつあった藤棚の花房はどれも、雨水を地面まで届く透明な棒のように垂らしている。

 

 もう皆帰宅し、残っているのは彼ら二人だった。

 彼も早く仕事を切り上げ、同僚たちと同様帰ればよかったのだ。しかし今となってはもう遅い。スマホが公共交通機関は現在動いていないことを告げている。

 ロッカーから毛布を出してきた彼を見て、彼にとっては直属の、そのまた直属の上司が訊ねた。

 

「泊るの?」

「はい。課長はどうされますか? 徒歩あるきですよね?」

「様子を見て帰れる時に帰るよ」

「家が近いって、こういうときいいですね」

「ほんとにいいよ。うち来る?」

 

 あっさり言われて彼もあっさりと答えた。

 

「僕ここで寝るの慣れてるんで」

「そっか」

「ミスの穴埋め作業よくやってるんで」

「そうだったね」

 

 仕事場に泊まり込むのはそれほど珍しいことではない。

 オフィスの片隅にパーテーションで区切られたスペースがある。そこは応接室代わりに使われていて、オフィス用の応接セットが置かれている。その合皮張りのソファは、こういう事態になると社員の簡易ベッド扱いだ。

 彼は毛布を広げて寝支度を調えはじめた。

 上司の上司は腰に手を当てて窓の外を見ている。間欠的な稲妻に照らされるその姿は、何とも男前おとこまえだった。

 

 そのとき遠くで生木を裂くような音がし、その途端、灯りがすべて消えた。

 停電だった。

 近くの変電器にでも落雷したのかもしれない。

 

 彼はスマホの弱い光を頼りに、近くの壁に留めつけられていた懐中電灯を外した。しゃれたデザインの、置き型ランプとしても使えるタイプだ。

 ローテーブルの上に、LEDの灯りがほの白く点る。

 

「停電かあ……何年振りだろう」

 

 彼がつぶやく。

 

「そうだね」

 

 彼は、存外近くで聞こえる柔らかい声に驚いた。

 そしていつの間にか一人がけのソファのほうに彼女が座って、彼を見つめているのに気が付いた。

 課長という肩書を持つ彼女は、いかにもナチュラルにひじ掛けに斜めに身をもたせかけている。

 彼は驚いて少し身を引き、間をとった。

 

「どうしたんですか」

「明るいとこに来ちゃ変?」

「課長のデスクにもこれありましたよね? とって来ましょうか?」

「いや、これでいい」

 

 そう言いながら、彼女は眼鏡を外し、ポケットからセーム皮がわを引っ張り出して拭いた。拭き終ると白いシャツの胸もとに引っ掛ける。

 その指の動きを、彼は何となく見ていた。

 

 彼女は、ごつごつした体つきでいつも男物の服を着ていた。化粧っ気もなく無造作に髪を束ね、じじくさいデザインの眼鏡をかけて、現場にもよく出るし力仕事も率先してよくこなす。なかなかの論客でもあって、安心感の持てる仕事仲間だった。

 本当に女なのかと揶揄されたり、または本気で尋ねられたりすると、誰彼構わず「見るか?」とバックルやシャツのボタンに手をかけるような性分でスキンシップにも動じない。

 だからこの会社で彼女を女性扱いするものはいなかったし、彼女もそう望んでいる、と皆思っていた。 

 

 雨の音が剣呑に響く。

 彼女は黙っている。

 そのまま十分以上はたっぷりと、彼らは向き合って座っていた。

 

 やっと、彼女が静かに言った。

 

「行ってしまったみたいだね、雷」

「はい」

「こうしてると、夜の大雨もなかなかいいもんだ」

「…………」

 

 今、暗闇に翳る瞳が、物言いたげに彼をじっと見ている。

 彼はこのまま黙っているのはまずい気がした。

 

「……あの、……ちょっと雨脚、弱くなってきた気がしませんか?」

「そうかな」

「もうすぐ、停電も復旧されますよ」

「そうかもしれないね」

「課長、もう少し待ったら家に帰れそうですね」

 

 彼がなぜ殊更ことさらに喋ろうとするかわかっているように、彼女は少し気弱に目を伏せ、静かに言った。

 

「……ちょっと黙って」

 

 その制止に彼は従わない。

 彼はまるっきり気後きおくれし、とにかく喋りつづけなければならない気がしていた。

 

 彼は気づいてしまったのだ。

 

 彼女がなかなかの美形であること。

 

 貧乳貧乳とからかわれながらも白いシャツの胸はつつましやかに膨らんでいること。

 

 頼れる上司だと思っていたが本当は少ししか年が違わないこと。

 

 そして、気取られるかどうかまるで賭けるように、あえかな甘い藤の香りを彼女が纏っていることに。



 

                   <了>

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