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水護るもの

 

 古い校舎の図書室はなかなかの蔵書量だった。

 学園内の幼稚舎から大学院までの需要に応えるべく、蔵書は絵本から学術書まで幅広い。

 本を紫外線から守るために引かれた遮光ブラインドの隙間から、黄昏の筋が小さな埃をキラキラさせている。

 

 

 

 今、静寂と書籍の独特の匂いに包まれた書棚の前で、雪絵が分厚い本を開いている。

 黒縁の眼鏡をかけ、いかにも真面目で、内気そうな娘だ。

 彼女はとある選択科目の提出課題に四苦八苦していた。

 その科目の担当教諭は「鬼」と噂されていた。それはかなり的を得ている。やたらと授業態度や提出物の完成度を求められるため好んで選択する生徒は少ない。しかし履修者の大学入試での得点獲得には定評がある。自分の将来像についてまだ何も思い描けないのに漠然と「いい大学に行けば人生安泰」という安心感を求めて、雪絵は受講を決定した。

 そして今日も、彼女はレポートに追われていた。

 

「またレポート? きっつー」

 

 呆れたような声に顔を上げると、彼女の従妹の大きな目が間近にあった。

 

「ああ、佳乃か……そうなの、ほんと大変」

 

 長く黒い前髪をピンで止めている少女は、ややきつめの顔だちでぽんぽんと抛りだすような物言いをする。

 

「滝本の授業とったんだったっけ、自業自得じゃん」

 

「ほっといてよ。佳乃こそ、図書室で読書なんて珍しいね」

 

「読書じゃないよ。勉強」

 

「なおさら珍しい」

 

「金曜に二人組でゼミ形式でレジュメ作って発表させられるんだけど、なんか相手の子がバレエの発表会が近いとかであたしのワンオペになってんの」

 

 あけすけに佳乃はいい、雪絵の前の書棚から数冊本を抜き取った。

 

「さあ、あたしもがんばんなきゃ」

 

「あの、それ……」

 

 雪絵が言いかけたとき。

 

「難しいよ、その本」

 

 不意に本棚が若い男の声で喋った。

 正確に言えば、本棚の隙間から声が届いた。

 驚いて見ると、背面を合わせて置かれた本棚の向こう側に光を遮って人影がある。

 本と棚の狭い隙間からこちらを見ている黒っぽい瞳。

 人影はゆっくりと動き、書架を回ってこちらへやってきた。

 

「誰?」

 

 彼はやたらと長身な少年だった。

 若白髪なのか、ほとんど髪が銀色だった。

 この学園の制服を着ているが、なぜかネクタイを蝶結びにしている。粋がっている様子もないが、何となく胡散臭いやつだと佳乃は思った。

 

「こんにちは。いい勉強日和だね」

 

 鷹揚な語調だ。髙くもなく低くもなく、不思議と大河の流れを想起させる声だった。

 

「久しぶりだね、特進のカワイコちゃん」

 

 佳乃は訝しげに少年の目を見つめた。

 

「あんた、雪絵と知りあいなの?」

 

「ああ、彼女、雪絵っていうんだ。可愛い名前だね」

 

 従妹の袖をくいくいと引っ張り、雪絵が耳打ちした。

 

「ねえ、佳乃……あの人だよ、なんかすごく変わってる図書委員の人って」

 

 小声のつもりだったが近くで本を漁っていた者たちからの非難の視線が一斉に注がれる。やはり聞こえていたらしく、くだんの図書委員はにこっと笑った。

 

「でさあ、その本のことなんだけど、大学院の人たちのリクエストで入れた研究紀要集で高等部のデイリーなレポートにはちょっときついよ」

 

​「きついかどうかは、私が読んで決めるんで」

 

 佳乃はつんと言う。

 雪絵ははらはらした面持ちで彼と佳乃を交互に見ている。

 

「お節介焼いちゃってごめんね。確かに、読んでみて決めるのが一番だよ」

 

 悪びれたところなくそういうと、彼は返却図書を載せたワゴンを押して立ち去った。

 

 彼は、返却された本を書架へ配置し終わると、図書室のカウンター内に収まった。

 除籍が決まった書物を手にとり、黄変したページを繰る。

 まだ海外旅行が珍しかった貧困の世に書かれた仏蘭西への留学記で、出版当時いくつか文芸賞を取った作品だ。

 本は植物の命を刈り取って煮込んで潰して平たく乾燥させたものから作られ、人の思いや記憶を載せて無生物としての命を生きる。

 本が好きな者なら、その第二の命の終わりにちょっとしたメランコリーを覚えるものだ。

 もちろん、今あとがきのページを繰っている彼、御津地宝も若干寂しい気持ちになっていた。

 

――この本、最後に読むのは僕かもしれない

 

 読み終わって窓を見る。西の空に残照の色が見えた。

 グラウンドから、小さくホイッスルの音が聞こえる。

 もうすぐ閉館の時間だった。


 

 五百年の昔、天孫族降臨の地から都へと通じる道の上に流れる大きな河で宝は生を受けた。

 古くから地相学に言う、玄武の丘陵、青竜の河川、白虎の沼沢、朱雀の街道というとある都市の守護のうち、東の守り「青竜」を担う河。

 そこが彼の生まれ育った家だった。

 

 宝の父は、艶やかな鬣を持つ美しい青龍だった。父は、宝の仔龍仲間からも

 

「宝くんのお父さんかっこいいねー! っていうか綺麗だねー!」

 

と言われるほどの美貌だったが、宝は母に似てしまって父ほど美しくはない。

 父は妻子を一心に愛し、身を飾り美しさを誇ることに何の価値も感じない男だった。

 この河を治めるという代々の生業に心血を注ぎ、家族仲も周囲の土地神達との関係もすこぶる良い。

 

 母の方はと言えばもともと人間で、社会の黎明期に人柱としてこの河に投げ込まれた。十人並みの容姿にも関わらず母は父に一目惚れされ、母は龍の血と鱗を呑んで契約を結んで龍女となった。今も父との夫婦仲は呆れるほど良い。奉公人というか奉公魚というべきか、とにかく使用人たちがたくさんいる中でも育児と家事に精を出し、宝には優しい母だった。

 

 宝の一番古い記憶は、水底に建っている宮作りの家の庭で、父と母に見守られながら遊んでいたときのことだ。

 いつも忙しい父と一緒に遊べて、宝ははしゃいでいた。

 ぽてぽてとした幼い掌に川エビをのせて父に見せようとしたとき、川底の清浄な玉砂利に暗く陽を遮る影が映った。

 荒々しく川面を乱す水音が聞こえる。

 驚いて輝く水面を見上げると、赤く水を濁らせながら、自分に姿形が似たものが次々に落ちてきた。

 苦悶の表情を浮かべたまま、白っぽい気泡を纏わりつかせて浮くとも沈むともなく、水面の少し下を漂っている。

 水に混じった赤いものが幼い宝の前に漂ってきて、彼は生理的に受けつけずに噎せた。

 

「父さん、あれ何?」

 

「あれは人間というものだ。人間は人間同士で殺しあう。困ったものだ」

 

 父は苦々しげに言うと、袂を翻してぱんぱんと手を叩いた。

 たちまちにひとの姿をした鯉たちが集まってくる。

 彼らは人鯉で、数百年精進して滝を登れば神性を獲得して龍になるという。

 その「精進」の一つとして、この水龍の邸に奉公している連中だった。

 

「御用でございましょうか?」

 

「あれをなんとかしろ。穢らわしい」

 

「食べてもようございましょうか?」

 

 鯉は何でもよく食べる。

 龍は、穢れを嫌うので死骸を食べることはない。

 だから、鯉たちにとってはいつか龍になる前限定のご馳走だった。

 とは言え、龍になれない個体の方が圧倒的に多いのだが。

 父は顔を背けている母をちらりと見て、言った。

 

「任せるが、ここから離れたところで頼む」

 

 鯉たちは人の姿を解き、黒い体をうねらせて楽しげに死骸へ泳ぎ寄って行った。

 奉公人でない魚たちも集まりはじめていた。

 

 宝のいる世界では、龍は天龍と地龍とに大別され、天竜は天に住み地龍は地上に棲む。

 地龍は水龍、地ノ龍、火龍などと様々な種類があり、様々な自然物を拠り所として守護し治める。稀には人、家系に憑いて暮らすものもいる。

 宝は地龍のうちの水龍の子で、ある河を守る血筋の生まれだった。

 雨を降らせ、風を呼び、波濤を揺らすことはできる。

 しかし、「和」というものが大事だ。

 周囲の山や街、田畑、木々にも神は宿る。

 そして厄介なことに天空にやかましい天龍族がいる。

 だからいつも新月の夜の、酒を持ち寄っての話し合いで天候を決める。

 貉や狐、木霊、ましら、昔は人間であったモノ、そして同族の龍たちに混じっての酒盛りの場に、父はたまに宝を連れていった。

 

「私の息子です。我が家の跡取りですので、どうぞよろしく」

 

 狐や貉は親しみやすく、ちょっと華やかな着物でお洒落をしてくる。

 

「あら、まだ小っちゃいのね、抱っこしていい?」

 

「これ食べなさい。おいしいのよ、馬の糞なんかじゃないから安心して」

 

「あ、あっちのお膳に蒸し栗があるわ、お姉さんが皮剥いてあげようか?」

 

 今になって思えば、あれは際立った美男である父へのおもねりだったのだろう。

 父がどんなに誘っても母がその席に決して出ようとしなかったのは、妻としても元人間としても、あの場の雰囲気が辛かったからかもしれない。

 同類の龍たちは、宝に昔話や武勇伝を語り、龍としての心構えを説く。それは幼い彼に向けて噛み砕かれていてなかなか面白く、宝はその集まりへ行くことが楽しみだった。

 ただ、一度その席で天龍族の老いた紅龍が宝を呼び寄せて頭を撫で、頬や腕をぷにぷにと軽く摘まんで、「何と旨そうな」と言ったことがある。

 それ以来、父は宝をその集まりには連れていかなくなった。

 あとで知ったのだが、天龍族は稀に地龍族の者を捕らえて食うことがある。特に、古い慣習を捨てない年寄り龍は祭壇に盛る馳走として、地龍を食うことがあるという。

 

「父さんも子供のころ狩られて食われそうになったんだぞ」

 

と父は言ってぐずる宝を脅かしたが、父の幼馴染だという地下水脈に棲む黒龍に聞いたところ、

 

「お前の父ちゃんは気色悪い天龍のおっさんに追っかけ回されて、別の意味で食われそうになったんだっつーの」

 

と呵呵大笑された。

 宝にはさっぱり意味が分からなかったので、後日父に、別の意味で食われるとはどういうことか聞くと、父は血相を変えて幼馴染のところへ怒鳴りこんでいった。あの温和な父が、ちょっとした大立ち回りをやらかした、という話だ。

 

 妹が生まれて母が赤ん坊に手が取られるようになると、宝は水の中で人鯉や同類の龍の子と遊ぶだけでなく、陸上でも遊ぶようになった。そして、近隣の土地神の子や目の曇る前の純朴な人間の子供たちと駆け回り、人ならざる者が視えるという村人と世間話をして楽しく過ごした。

 父も母も、宝が人間と触れ合うことについては何も言わず、かえって人の子と遊ぶことを喜んでいた。

 自らの一族を祀る社の境内で縁日でもあると、彼らは人間たちに混じり親子で浴衣を着て飴細工や川魚の串焼き、鄙びた神舞などを楽しんだ。

 

 そうこうしているうちに長い長いときが経った。

 といっても、龍の子が蛟竜に育つ五百年足らずだ。

 川面から降って来るものも、自然に朽ちてなくなるものだけでなく空き缶や食品のパッケージに始まり古タイヤや自転車までとなった。

 父は相変わらず品行方正で、人心の移り変わりを悲しみながらも河を清浄に保つことに腐心していた。

 

「どうだ宝。うちはきれいだろう」

 

 現世の有様を儚んで守護たちがいなくなった数々の河川と違い、ここは確かに美しかった。

 澄んだ水が浅瀬にさらさらと流れる。深みは澄んだ琅玕の色だ。

 少しずつ色味が異なる緑の木々に縁どられ、魚影がすいすいと命を謳歌している。

 

「うん、きれいだね」

 

 しかし人の手により護岸工事が成され、コンクリートで固められた河岸からカワウソの姿は消えカワセミは減ってしまった。

 宝はコンクリート壁の内側に流れが自然と作った石がごろごろした河原に立ち、この河を継ぐ者として父の横で水面を眺めていた。

 水打ち際では母と妹が山から流されてくる水晶の欠片を探している。

 

「今日は大事な話があるんだ」

 

 父はリベラルなものの考え方をする龍で、人の世の潮流に合わせた暮らしぶりをし、口調や出で立ちも変えてきた。かえって、かつて人間であった母の方が古い世を懐かしみ消えゆく様々な風物を惜しんで寂しがっている。

 父は今日もその辺にいる人間と同じようなシャツとズボンという姿だが、何を着てもまるでファッション誌から抜け出てきたようにさまになった。

 天河石の色の髪は艶やかに風に揺れ、流石にほんの少し疲れ窶れたように見えるが、それ以外は昔とさほど変わっていない。

 この歳になっても、宝は父が自慢だった。

 どう考えてもいつか自分が父のようになれるとは思えなかった。

 

「大事な話?」

 

「私はお前に様々なことを教えたが、お前はもっと学んで研鑽を積むべきだ」

 

「うん」

 

「だから、ここへ行くといい」

 

 父が防水型スマートフォンをポケットから出し、とある学園のHPを表示してみせた。

 まったく父はハイカラな龍神だった。

 

「え? 何で?」

 

「お前は多角的なものの考え方を知るべきだ。その上で私たちの守りたいものをどう引き継いでいくか考えるといい」

 

「ここで父さんのやり方見てればそれでよくない?」

 

「私も、若い頃に人の間に入って学んできたんだ。お前もそろそろ頃合いだ」

 

 少々甘ったれたところのある息子は呆気にとられている。父親は微笑んだ。

 

「私たちは物の怪なんだから、精進しないとな」

 

「え? 物の怪なんかじゃないよ? 僕たちは水龍で水神じゃないか」

 

「違う。龍自体がただの謎の生き物なんだ」

 

「……どういうこと?」

 

「宝、神を作り上げるのは人間だ。人心を失えば、八百万の神のほとんどはただそこにいるだけの物の怪と変わらない。もちろん私たちもだ」

 

「……」

 

「私たちは、ただこの河で暮らしてきた。ささやかに地脈水脈の力を見せただけで、人々に愛され信じられ、祈られた。だから私たちはただの爬虫類のキメラではなく神でありえている。だからうちの一族はその祈りにできる限り応える。これが誓願であり約定だ」

 

 父は続けた。

 

「どんな低級なものであったとしても神として祀られた以上、程度の差はあれどそこには定めごとが生まれ、良くも悪くもそこに縛られて窮屈だ。でも私は何の不満も感じたことはない」

 

「……」

 

「人間は寿命が短く、代を重ねるごとに私たちとの約定も忘れていっている。これも仕方がないことだ。でもどんなに人の心は移ろっていってしまっても私は人間が好きだ」

 

 父にこう、面と向かって言われると何となくこそばゆいような反発したいような気になる。宝は口を尖らせた。

 

「……何回も聞いたよ」

 

「何回も教えておきたいんだよ」

 

――僕も、人間、嫌いじゃないよ

 

 父母の下でぶらぶらと気ままに生きてきた宝にも、確かにこの父のこころは伝わっていた。

 父は静かに訊ねた。

 

「宝は本当にこの河を継ぐか?」

 

「うん」

 

「私は人を愛する時点で、この国の自然神たちから見ると既に異端だ。お前は一家そろって変わり者扱いで大丈夫か?」

 

「気にしないよ」

 

 息子は、何故今更当然のことを、と言いたげに答える。

 

「宝、ちゃんと考えて決めるんだ。流域の民たちのために命を捨てられる者しかここは継げんぞ?」

 

「……うん。小っちゃいときからさんざん聞かされたじゃないか。覚悟はできてるよ」

 

 もし、父の言うように命を張って人々を守るときが来ても、従容と受け容れる覚悟は、とうにできている。

 恐らく、血を分けた両親でさえ知らない一途さで。

 

 父は不安だった。

 自分が持ち得なかった銀に輝く鱗をこの息子は持っている。

 金や銀に輝く鱗を持つ龍は強い力を持つと言われるが、この極楽とんぼな息子がそれを発揮したことは一度としてない。

 何かあれば「父さーん」「母さーん」と子ども気分の抜けきらない声を上げる。まだ妹の方が幼いなりにタフな気概を持っていて、兄を「もう大きいくせに! 自分でやれば?」と怒鳴りつける。

 

はあ、と父親はため息をついた。

 

「もし本当にここを継ぐなら、私たちの手を離れてしっかり学んで来い」

 

「学ぶって言ったって、もう水のことはだいたいできるし」

 

「それ以上のことをだ」

 

「だってこの学校めちゃくちゃ遠いよ? うちから通えないよ」

 

「下宿先なら考えてある」

 

「え?」

 

「学園の近くに、私たち一族を祀る支社がある。そこそこ潤っているようだしそこで宮司一家に住まわせてもらえ」

 

「話は通してあるの?」

 

「そこは自分で通せ。ただし正体は悟られるな」

 

「は?」

 

 宝は珍しく大きな声を出した。

 

「何で? そういうの親の役目じゃない?」

 

「私たちはお前を甘やかしすぎてしまって後悔しているんだ。私の息子なら、それなりの才覚を見せろ。自分で自分を売り込め」

 

「ひどいよいきなり! 僕が可愛くないの?」

 

「こんなにデカく育っておいて、可愛いも何もないだろう!」

 

「お兄ちゃんは可愛くないよ」

 

 聞こえたのか、妹が言った。

 

 あれよあれよといううちに、両親は学園への入学手続きを終わらせて、宝を生まれ育った我が家から送りだした。

 

「私たちががいなくても、しっかり頑張るのよ」

 

 悲愴な顔をしている宝を、母がしっかりと抱きしめた。

 

「何かあったら連絡しなさいね」

 

「現段階で既に何かありまくりだよ……」

 

「ほら、私の妻とだらだら抱き合うんじゃない」

 

 父が宝と母の間に割って入った。

 そして、宝の手を掴んだ。

 

「くれぐれも、人間や他の種族に失礼のないようにな。体に気を付けて」

 

 その手にぐっと力が籠った

 

「お前は私と母さんの子だ。龍の子の誇りを忘れず、何が正しく何が正しくないか学んで来い」

 

「うん……」

 

 生返事をしながらも、宝は侘しくてしょうがなかった。

 家族も、坊ちゃん坊ちゃんと傅いて世話を焼いてくれる人鯉たちもいない土地で人間に頼み込んで居候暮らしをするなど、情けなさの極みだ。

 先ほどからため息が何度も出ている。

 

「ここの縛りから離れて暮らせる、ある意味モラトリアムだ。楽しんでこい」

 

 そう力強く言われると、もう返す言葉が出ない。

 

「……行ってきます」

 

 宝はぎっちぎちのスーツケースを引いてとぼとぼと歩きはじめた。

 その姿が見えなくなると、母親は父親の肩にそっと頬を寄せた。

 

「行っちゃったわ……宝」

 

 そして涙をぽろぽろとこぼした。

 

「寂しいものだな」

 

 父もそう呟いた。妹も神妙な面持ちで、両親を見ていた。


 

「というわけで、僕は御津地宝。当面ここで暮らすよ。じゃあ部屋に案内してもらってもいい?」

 

 いきなり言われて宮司の夫婦は顔を見合わせた。

 見た目はハイティーン、十七歳くらいに見える銀髪の少年がいきなりスーツケースを引きずって現れ、「というわけで」と突然言いだしたら困惑するしかない。

 

「あの、そんなこと急に言われても……」

 

「うん、僕も急すぎて困ってるんだ」

 

 初対面だというのにこの少年は敬語も使わずやたらと態度が大きい。

 宮司の妻は訊ねた。

 

「何が急なの?」

 

「なんか人生経験積んで来いって言われて家から叩きだされちゃってね……ここから学校に通うことにしようってことになって」

 

「あのねえ、うちは下宿屋じゃないんだよ。おうちの人と喧嘩したんだったら、ちゃんと話をしに家に帰りなさい」

 

 宮司が諭したが、この少年は全く耳を貸す様子はなく、古いながらも檜造りの社殿内のあちこちを見回していた。

 宮司は説教を続ける。

 

「きっと親御さんも心配してるから、さあ家に戻って」

 

「あ、あれいいね!」

 

 そういうと宝は立ち上がりすたすたとご神体が安置された扉の前に立った。

 丁度、今年度の御開帳日に当りその観音開きの扉は開いている。

 その中には、古代に彫られたと見える龍の木像があり、螺鈿のように光沢のある貝に似たものが張られている。

 

「今日はね、うちの神様の御開帳日だから忙しいんだよ。やらなきゃいけない神事があって」

 

「へえ……何をするの?」

 

「お浄めをするんだよ」

 

「えっと……お浄めって言うと洗うの?」

 

「うん、お神酒でね」

 

「あー無駄無駄」

 

 宝は可笑しそうに笑い出した。

 

「うちの父は酒も飲むけどほんとは苦手なんだ。甘酒の方が好きだよ」

 

「いや、君のお父さんがお酒が苦手っていうのは全然関係ないから」

 

「そうだよね……こんな遠くでこんな像にお酒かけても全然関係ないよね。多分こんなことここでやってるってうちの父知らないし」

 

 会話が完全に噛みあわない。

 ここで、やっと宝は出自は明かすなという父の言葉を思い出した。

 急に居住まいを正すと、宝は宮司に訊ねた。

 

「ここの神様ってうちの……えっと、水神だよね?」

 

 確かにそう伝えられている。

 それは鳥居の脇にある建立に関する説明看板や市の観光案内HPにも書かれていることであり、この少年が知っていたとしても少しも不思議はない。

 一応こいつはここのことは調べてから来たんだな、と思いながら宮司は答えた。

 

「うん、立派な姿の龍神様だよ」

 

「そうなんだよねえ……僕の目から見てもイケメンなんだよね」

 

「い、いけめ……?」

 

 フレンドリーに過ぎる表現に夫妻が面喰っていると、宝は御神体と称する龍神像に張られた光沢のある素材を指差した。

 

「これ父さ……その龍の鱗だよね?」

 

「あ……ああ、そう言い伝えられているよ」

 

――こんなに人間に鱗渡しちゃって……父さん、剥ぐの痛かっただろうな

――僕も、肚くくるか

 

 しばらく黙った後、宝は少し非難する口調で言った。

 

「お酒で洗ったりするから、こんなに白くなっちゃったんだよ」

 

「え?」

 

「ここで祀ってるの、青い龍だよね? もともとこの鱗、綺麗な青だったんだよ」

 

 この神社の古い縁起絵巻は朽ちてぼろぼろになってはいるが、描かれた祭神の姿は確かに青い龍だった。その姿を見たという伝承においても、青いと言われている。

 しかし、そのことは宮司にのみ伝えられていて一般には広く知られていない。

 

「君、何でそれ知ってるの?」

 

「うーん……秘密」

 

 宝は口籠った。

 

「えっと、でも……ほら、ここ」

 

 宝は長い指で像の前足の付け根辺りを指差した。

 そこは貼りつけた鱗が二枚剥げ、年老りて黒っぽくなった木材の下地が裸出している。

 

「直していい? 直したらここに置いてもらえる?」

 

「直してって言っても、龍の鱗なんか手に入らないよ」

 

 そのとき、肉を引きちぎるようなぶちっという不快な音がした。

 像を見ていた夫婦は慌てて振り返った。

 

「え、何の音?」

 

「これ、使えると思う」

 

 宝がハンカチでごそごそと拭いて彼らに見せたのは銀色に輝く貝殻のようなものだった。

 

「え? これ……」

 

「ちょっとどいて」

 

 妙な威厳に気圧され、二人が扉のように左右にご神体の前を開けた。

 宝は白い指でその二枚の鱗を鱗の脱落したところへ嵌め込み二、三回撫でた。

 

「ちょっと、それ触っちゃ駄目だって!」

 

「僕は触っていいんだよ」

 

「祟られるぞ」

 

「僕は大丈夫。それに祟るようなひとじゃない」

 

 こともなげにそう言って、少年はほらね、と腕を広げて見せた。

 宮司夫婦は息を呑んだ。

 あの銀色の貝殻のようなものは寸分違わず欠落箇所へ嵌りこみ、色つやは新しいとはいえ周りの鱗と見事に馴染んでいた。

 

「これ……本物だわ……」

 

「君、これどうやって手に入れたんだ?」

 

 そう言い終わらないうちに、宮司は磨きこまれて黒光りする檜の床の上に鮮やかな赤い液体が2滴、染みを作っているのを見つけた。

 少年の顔を見ると、彼はふっと目を逸らし、左手で握っていたハンカチをポケットにしまった。

 きれいに拭いたつもりだったようだが、左の掌紋に拭き残りの赤いものが見える。

 

「……君、御津地宝と言ったね?」

 

「うん」

 

 みづち、転じてみずちとは大蛇、あるいは蛟竜……若く不完全な龍のことを指す。

 宮司は取って付けたような笑顔を浮かべて少年に訊ねた。

 

「えーと、君、ここにいたいんだったっけ?」

 

「うん、仮寓としてね。学業修了したら家に帰るけど」

 

「君、本当はもっと長い名前があるんじゃない?」

 

「……何のことかなあ??」

 

「本当は何歳なの」

 

「じゅ……じゅうななさいだよ」

 

「本当は?」

 

「ご……いやいやいやいや、じゅうななさいだってば」

 

 確かに、ご、と言いかけた。この少年の姿だと、五でも五十でも五百でも異常だ。

 宮司夫婦は顔を見合わせた。

 

――これは……まさか

 

 ふと宮司はそこにあった御幣を台から取り上げると大きく一振りした。

 

「え? 何? どうしたの?」

 

 御幣を振った扇状の軌跡に、少年の姿が一瞬青白く輝く巨龍の姿で浮かび上がった。

 

「やべっ」

 

「きゃあ」

 

 うっかり夫婦は口走ってしまった。

 

――本物だわ! それにさっきはただの痛い厨二な台詞だと思ったけど龍神様のこと父って……

 

――ここに棲むって言ってるけどどうする?

 

――断ったら、何されるかわからないわよね……

 

 最早、驚きよりも「まずいことになった」という感情しか持てない。

 

「何がヤバいの?」

 

 こそこそ話している二人を宝は怪訝そうに見ている。

 

「いえっ! 何でもありません!」

 

 夫婦は心臓発作でも起こしたような顔をし、お互いの表情を確認し合った。

 もうここはこの少年を居候として受け入れる以外、道がない。

 

「あの……離れでよろしければお部屋を準備できますが」

 

 おそるおそる妻が言うと、宝はぱっと明るい表情を浮かべた。

 身元がばれているとは微塵も思っていない。

 

「よかった! ありがとう」

 

「宝様……お父様にはどうぞ良しなにお伝えくださいませ」

 

 住む場所がやっと確定した安堵で、宝はいきなりの様付けも気にせず答えた。

 

「うん、うちの親は律儀だから僕の大家さんには多分何か送ってくれると思うよ」

 

「ただいまー!」

 

 そこへ明るい子どもの声がした。

 

「何やってんの? っていうかこの人誰?」

 

 黒いランドセル姿の小学生男子がずかずかと社殿に上がってくる。

 宮司が両者を紹介した。

 

「宝様、これはうちの息子で千種(ちぐさ)と申します。どうぞお目をかけくださいますようお願い申し上げます。……千種、このお方は宝様といって、今日からうちの離れにお住まいになる。仲良くしていただきなさい」

 

「へえ……居候ってやつ?」

 

 息子の失礼な物言いに夫妻は縮みあがったが、宝はにこにこした。

 

「うん、居候だよ。よろしくね」


 

 今日にいたるまで、彼は穏やかに一高校生として暮らしている。

 

 ともあれ、学園でも神社の方でもうまくやっている、と宝自身は思っている。

 ただ、一人でいるときよりも、人が多くいる中で誰にも声をかけてもらえないときの方がずっと辛く感じられるように、夜部屋にいるときよりもにぎやかな学校で寂寥を感じるときがある。

 そんなとき宝は、園芸部が手掛ける栽培スペースで植物に親しみ、図書委員としてこうして図書室の管理をしつつ本を読む。

 一冊読み終わるたび、少し世の中の人々の思いに近づけた気がする。図書室でてんでばらばらに読書し学習する生徒や学生たちを眺めて、ひょっとすると自分と同じ思いを抱いているのかもしれないと考えたりもする。

 

「お疲れ様」

 

 少女の声がして、宝は振り向いた。

 そこには、雪絵と佳乃が本を数冊抱えていた。その中に先ほどの大学紀要集は見当たらない。

 

「ああ、帰るの?」

 

「うん、借りる本は機械に通したしもうだいたい何書くか決まったから」

 

「よかったね」

 

「あの本、あたしにはやっぱりちょっと難しかったよ」

 

 佳乃はツンとした態度で言った。宝は笑った。

 

「あれをレポートの引用図書にすると先生たちの受けはいいだろうけど、ゼミ発表とかレポートって一回きりじゃないでしょ? 初回に気張って詰め込み過ぎたら後が尻すぼみになっていくよ。だから、最初は余力を残しておいて、あとからやってくる課題でぶちかます方がいいんじゃないかな」

 

――だって、竜頭蛇尾って言われるのは嫌じゃないか

――龍は毛の先から尻尾まで龍なんだよ

 

 校舎の外で、ふと風が鳴った。

 隣にある教科研究室に吊るされたウィンドベルが鳴っている。

 脈絡もなく訪れた不気味な思いを振り払うように彼女は手を振った。

 

「今度面白い本あったら教えてね! バイバイ」

 

 宝は手を振り返し、少し軽薄な口調で別れの挨拶をした。

 

「じゃあまたね、カワイコちゃんたち」

 

                               

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