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薄荷をめぐる思いの丈

一、薄荷

 今日、きものが届いた。

 街着にするつもりの、カジュアルなきものだ。

 

 私の祖母は三味線を教えて暮らしている。その祖母のお弟子さんのお孫さんが和裁をやっているそうで、お付き合い上、何か頼んでみようということになったのだ。

 祖母の人脈はありがたいが、その人は和裁士としてはまだ駆け出しのひよっこだということなので、あまり高価なものを頼んで冒険はしたくなかった。大枚はたいた選り抜きの正絹で大失敗されたら、私の心も財布もしばらく立ち直れない。クレームをつけようにも、祖母のお弟子さんの孫というから、なかなか難しい。

 だから、街着なのだ。

 格安で縫ってもらえるというので、最初はほどほどの期待度だった。

 しかし、かなりお値打ち価格で縫ってもらったというのに桐箱入りで届いたので相手もそれなりに気を遣って大変だったのかもしれない。

 

 さっそくたとう紙の紐をほどいて開けてみる。

 眩しいほどの白地へ、匂い立つように鮮やかな草の葉。

 一瞬、胸が高鳴った。

 

 これは実は洋服生地で、涼しげな綿ローンプリントだ。ボタニカルアートのような精密なミントの葉や芽が、地の色を埋め尽くすようにプリントされている。ところどころに葉脈の機械刺繍が入って生地の薄さを支えているので、綿紅梅よりほんの少ししっかりしている。

 探して探してやっと見つけた、私にとっては奇跡の生地だ。

 

 ほどほどにしか考えていなかったオーダーメイド案件だったが、生地探しをしてみると俄然気持ちがのってきた。

 和服、しかも夏の着物に仕立てるのに相応しい厚み、涼しさ、軽さ、なにより価格という点をクリアできる生地はそうそうない。

 麻のドロンワーク、汕頭なら最高だが懐具合にマッチしない。

 もっと廉価な、例えば綿レースもおしゃれだし、ギンガムも可愛い。

 しかし、ちょっととんがったデザイン生地で、でもとんがり過ぎないものが欲しい。イメージとしては、キッチュな感じで、でも品もあって、コーディネイトによっては軽いパーティにも着ていけそうな感じ。

 さらに、できれば家でざぶざぶ洗えるもの。そのためだったら、少しくらいあて布アイロンが面倒くさくてもいい。

 

 そういうことを思い描きながら、小売りから卸売りまで、ずいぶん生地屋さんを回った。母や妹の「もうその辺でいいじゃない」「早く帰ろう」の大合唱も、ものともしなかった。通販なんかじゃダメで、触って風合いを確かめないと納得できない。

 そして、私が辿り着いたのは、灯台下暗しというべきか、近所にある手芸用品の量販店だった。何度もチェックに来たはずなのに、気が付かなかった。先日、急に降り出した雨の中、雨宿りがてら冷やかしに入ったときに、うずたかく積まれた在庫品の上にちょんとこの布のロールがのっかっていた。耳にはFabriqué en Franceファブリケ・アン・フランスの文字。もうだいぶ売れていて、ぎりぎり一着分程度の用尺が残っている。何という幸運だろう。

 店長の名札を付けた優しそうなおばあさんは、ろくに測らず、かなりおまけした金額をレジに打った。ありがとうございます、と喜色満面の私に、店長さんはゆっくり言った。

 

「13年前まで、ここは舶来の反物の店だったんですよ。これはその時の在庫で、棚卸の時に倉庫の奥で見つけてね、ちょっと出してみたんですよ」

 

「じゃあ古いんですね、この布」

 

 焼けも色褪せもなかったし、少しも古くは見えないが、繊維がもろくなっていたら……。私は布を入れた風呂敷の結び目を思わず握りしめた。

 

「まあ、古いけれど、ずっとしまい込んで紫外線にも埃にも触れてないから、しっかりしてます。お役に立つと思いますよ」

 

「きものに仕立てたりするのは、どうでしょう?」

 

 私が意気込んで見えたのか、おばあさんはにこにこした。

 

「いいですねえ、おきもの作られるんですか。今の人は洋服地で着物を作るなんて珍しがるけれど、昔は珍しいことではなかったし、素敵なのが出来上がるでしょうね」

 

 そうやって、薄荷のプリント生地を買った私は、それを水通ししてから折り目の歪みを直した。洋服地なの、と渋る祖母に鼻息荒く布を渡し、祖母はお弟子さんに渡し、お弟子さんは和裁士のお孫さんに渡し、三週間と少し経って、この布は着物に生まれ変わって、逆順のリレーで私の元へ帰ってきたのだ。しかも、かなりお値打ち価格で縫ってもらったのに桐箱入りだ。

 

 早速細かくチェックしてみる。

 生まれて初めてオーダーメイドできものを頼んだのだから気分は高揚こうようしっぱなしで、わくわくしながら広げた。

 柄のせいか、心なしか薄荷の匂いがする気がする。

 目を皿にして、控えめな光沢のある薄い生地を見つめる。縫い目の手抜きや攣つれがないか調べ、体にもあててみる。

 型が注文通りにキマっていて、裄ゆきも丈も寸法ぴったり。縫い目も細かく美しかった。

 和裁士さん側としては、江戸小紋や結城紬など名だたる布を正統派に仕立てたかったのかもしれないが、丁寧に仕上げてくれている。ミシンで仕立てた着物は、塗った部分に圧が掛かっているのか、薄くボリュームダウンして見える。フラットにすっきりとして、そういう風合いを好む人もいるのだが、私は断然手縫い派だった。手縫いで仕立てた着物は、同じ生地であってもどこかふっくらと鷹揚な雰囲気があって、なんともよいものなのだ。

 あぁだのうぅだの呻きながらうっとりときものを撫でまわしている私を、妹が呆れたように見ている。

 

「それ、普通の街着でしょ、大うそつきで着るやつ」

 

「うん」

 

 うそつきというのは、きものの下に着る長襦袢の一種で、半襟や袖の部分が取り外しができるようになっている簡易版のことだ。取り外せる場所が多ければ多いほど「嘘が多い」ということで大うそつきと呼ばれる。このきものの下に着ようと思っているのはセパレートの大うそつきの上側とステテコ。少しでも簡略で暑くないほうがいいし、後ろには居敷あてもついているから大丈夫だろう。

 

「こんだけ上手かったら、色無地とかお召しとか仕立ててもらえばよかったね」

 

「だって相手はまだ独り立ちしたばっかりだって聞いたからさ」

 

「私も何か仕立ててもらおうかな」

 

 妹は目鼻立ちがくっきりした美人なので、姉妹で歩くと私は引き立て役になる。私がやることをすぐ真似して私以上に見栄えがよい。

 いいんじゃない、と適当に答えながら、私は胸がちくっとした。

 

「あれ? この箱、まだなんか入ってるよ」

 

「え?」

 

「ほら、たとう紙の下に」

 

 妹の言うとおり、たとう紙の下に小さく、紙の端が見えた。

 たとう紙をめくると、きれいな浅葱色の和紙封筒があった。

 すうっと、緑色の香りがする。

 封筒の中からは、サービスと思しきハンカチと、流麗な毛筆で……とまではいかず、プリンターで印字されたカードが現れた。内容はよくある販売者としての感謝の言葉だ。メンテナンスにも応じるとのことで、和裁士さんの名前と連絡先が載っていた。これまでは人づてだったので、直に連絡できるのはありがたい。

 

「あー、和裁士さん、糸井薫さんっていうんだ」

 

 名前のとおり、ほっそりとしてきれいな人なんだろう、と思った。

 

「あれ? このハンカチ、見覚えがある」

 

 私が小学生の時に愛用していたハンカチと同じものだ。

 縁に緑の葉の刺繍があるダブルガーゼのハンカチ。

 ガーゼって赤ちゃんみたい、と笑う子もいたが、私は風合いも彩りも気に入っていた。思えば子供のころから、白と緑の組み合わせには弱かったのだ。お気に入りだったのに、どこで失くしてしまったんだろう。

 和裁士さんがおまけにしてくれるものにしては安っぽいような気もチラリとしたが、それよりは今もこうしてどこかでこのハンカチが販売されていることを知り、懐かしさが勝って、私はうれしかった。

 ハンカチを広げると、中から薄緑の文香が現れた。文香というのは、きれいな和紙にお香をほんの少し包んで手紙を香らせる昔ながらの品だ。土産物屋やお香屋さんで時々見かける。

 これが、薄荷の匂いの元だった。薄荷の香りは揮発しやすいが、なんとかまだ涼しさを香らせている。

 ずいぶん気遣いの細やかな和裁士さんだ。

 

 また何かきものを頼むなら、絶対糸井さんに、と私は決めた。

二、相席の客

 さて、きものの世界では、季節をちょっと先取りするくらいがかっこいいとされる。

 四君子あたりは王道なので季節を問わずに着られるが、少し個性のある風物は少し早めに着て、盛りに差し掛かるとスパッと次の花鳥風月のものを纏うのが粋ということになっている。睡蓮や百合の柄は、五月ごろ、現実の植物の蕾がつくかつかないかあたりで着るのが最高におしゃれだ。二月の立春のころに春蘭のきものの人を見ると、まだ目覚めきっていない春をそっと連れてきているように見える。その、風雅ふうがなことといったら!

 

 我が薄荷の着物は、というと、初夏あたりがいいのではないかと思う。

 あの緑色の匂いが、五月の薫風くんぷうに似合う気がする。

 清涼感があるから、じめじめした六月もいいかもしれない。

 着てもせいぜい、七月の初めまでだろう。

 今は八月。立秋が早々に来てしまい、月にちなむ意匠や秋の七草あたりが席巻する。

 でも私は今年着たい。

 来年の春の盛りまで待つなんて到底できない。

 きものにうるさい人、俗にきものポリスと呼ばれる怖い熟女の皆さんはこういうことに目くじらを立ててごちゃごちゃ言ったりする。

 あの人たちは大人しそうなきもの初心者を見ると、干渉したくてたまらなくなるのかはたまた親切心か、ひたすらあら探しする。そこら辺の強気なギャルファッションには一言も言わないくせに。そういう人たちがきもの文化を衰退させるのだ、と私は思う。

 ともあれ、言いたきゃ言え。

 結局、私は薄荷のきものを着ることにした。

 今年も社会人落語サークルの寄席で、祖母のお弟子さんが出囃子を弾き、演目の合間に祖母が仲良しの小唄のお師匠さんたちと何曲かやらせてもらうことになっている。芸事の発表会は秋に行われることが多いが、この寄席は仲良し同士のお楽しみ会のようなものだ。

 会場はサークルメンバーの経営する大きなお蕎麦屋さんを貸し切りにしただけ。何もかもゆるくて、飲食もOK、演目の最中にずるずるっとそばを啜る音を立てる客をアマチュア噺家さんが高座こうざから冷やかし、仕込みかと思うくらいに愉快な掛け合いが始まったりするアットホームさ。

 落語好きはお金持ちが多いから顔を売ってらっしゃい、との母の命令で、私と妹はここ二、三年ずっと客席を温めに行っている。周りはお年を召した方が多く、惚れたはれたという現象が起こりそうもないのだが、私は毎年楽しみにしていた。愉快なお話を聞きながらのお蕎麦もおいしいし、その後に食べる蜜豆も、葛粉を合わせた寒天がふるふるっと柔らかくて絶品なのだ。

 

 その日、私は満を持して、コーディネートした。

 テーマは、チョコミントとか、ミントタブレットとか。

 まず、あの薄荷の着物。

 半襟はミントブルーの綿レースをカットして作った。

 帯は、これも自慢の一品、半幅でこげ茶に浅葱の縞を織り出した博多帯。

 摺りガラス風のリーフビーズで根付ねつけと簪かんざしを拵えて、それからこげ茶のアタバッグにもチャームにしてぶら下げた。

 袂に入れる匂い袋も、会場が食べ物屋さんなので控えめに、ミントティと薄荷オイルを使って作った。

 見よ。この小物の自作率。

 どれだけ私がおニューのきもののデビュタントに力を入れていたかわかるだろう。

 妹の方はシックな黒薔薇柄に市松の帯。華やかな彼女には洋花ようばな柄やモダン柄がよく似合う。

 あまり隣に立ちたくない。

 でも、今日の私は浮かれている。

 卑小な劣等感など気にする暇はない。

 誰にというわけでもなく、自分自身に向けて、こんなにキメッキメなのだから。 

 

 会場には早めに着いた。

 UV透過率を犠牲にした薄荷色の麻の日傘を畳んで、店に入る。

 店といっても昔、幕末明治あたりに大きな商いをしていたお宅で、大きいのなんの。広い広いお座敷から襖を取り払ってお蕎麦屋さんにしたというハイスペックリノベーション蕎麦屋なのだ。

 草履を古い靴箱に入れて木札を抜き取る。

 畳敷きの店内にはもうちらほら他の人もいて、めいめい蕎麦を啜っていた。このシチュエーションなので、きもの率が高い。浴衣をいい感じに夏きもの風に着ている人もいる。

 私たちは若輩者なので、高座から遠い、店の入り口に近い四人席に妹と向かい合わせて座った。ハンカチで顔の汗を押さえ、扇子でパタパタ煽ぎながら、お蕎麦屋さんの献立を見る。

 妹は即決で天ざると、食後にクリームあんみつ。

 私はざると、茄子のしぎ焼き、それから寒ざらし入りの蜜豆。

 腰のあるそばをずるずるやっていると、ふと隣に人の気配がした。

 

「お食事中すみません、こちらの席、よろしいですか」

 

 和服姿の男性が膝行の姿勢で相席を願い出ている。私と同年代くらいだろうか。こういうイベントなので、相席はいつものことだ。目が合うと彼は会釈し、私も何の気なく答礼した。

 

「どうぞ」

 

 しかし、彼の動きに沿う生地の感じと透け方に衝撃を受けて、私は彼のきものを凝視してしまった。

 生成りの着流しに、黒っぽい帯とポケットポーチタイプの小さなサコッシュ。

 最初、麻かと思った。

 でも、繊維の絡み具合やシャリ感が違う。

 

「芭蕉布……」

 

 思わず、その言葉が口から出た。

 男性は穏やかに答えた。

 

「ええ、よくご存じですね」

 

 ご存じも何も、夏きもの好きなら、憧れに憧れる最高級生地だ。もう作り手も原料も激減し、消えかかっている伝統工芸品だ。

 これまで、博物館や老舗呉服店で指をくわえて眺めているだけだったそれが、メンズの着流しで目の前にある。

 ちょっと触ってみたかったが、見ず知らずの人にそんなことは言えない。

 彼は私の隣に座ると、献立表を手に取った。そして、私の前にある蕎麦と茄子のしぎ焼きに一瞬視線を走らせ、また献立の文字を追う。まあ、ごく普通の振舞だった。

 その時、私の向かいに座っていた妹から手帖が渡された。渡しながら、栞紐のところをちょんちょんと引っ張って見せたのは、そこを開いて読め、ということなのだろう。

 店員さんにざる蕎麦としぎ焼きを注文している男性を尻目に手帖を開くと、そこにはこうあった。

 

――隣の人、超イケメンじゃん。 モデルみたい!

 

 びっくりして、私は隣の男性の顔を盗み見た。

 私は彼については、目が二つ、鼻と口が一つずつ、程度の認識しかしていない。要するに、芭蕉布のことで頭がいっぱいだったのだ。

 なるほど。

 妹の言うとおりだ。

 イケメンという俗っぽい表現より、若干浮世離れした感じのきれいな人だった。

 長めツーブロックの黒髪を後ろで束ねているところなど、柄が悪くなりがちなのに、極東アジアの伝統のスタイルと言ってもいいくらい落ち着いて品よく見える。

 まあ、芭蕉布を着こなす男なら和風オタクのオシャンティなんだろうし、そういう風に見えるパーソナリティを持っているんだろう。和風オタクという点では同じかもしれないが、私のようなストレイ・キモナーには無縁だ。

 早速、妹の手帖に、そうだね、と書いて返し、私はまた蕎麦を啜りだした。

 花より団子、他人の容姿の品定めよりお蕎麦。

 やがて男性の前にも、私のと同じものが並んだ。私の頼んだものが相当おいしそうに見えたらしい。

 彼もずるずるやりだす。

 見目よい人がやると何でもさまになるものだな、と思いながら、私たち姉妹はそばもサイドディッシュも食べ終えた。

 同じテーブルの方でご一緒にどうぞ、と店員さんが蕎麦湯の入った湯筒を持ってきた。

 ここぞとばかりに妹が湯筒を捧げ持つ。

 

「蕎麦湯、いかがですか」

 

「ああ、お願い」

 

 私が蕎麦猪口を出すと、妹はあからさまに、姉ちゃんに言ったんじゃないよ、という顔をした。

 最後の一口を食べ終えた男性も、つゆの残る器を妹の前に置いた。

 

「ありがとうございます、いただきます」

 

 その時、私は彼がきれいな手をしている割に爪がぼろぼろで、特に親指の爪が荒れて傷だらけになっているのを見た。きっと、指先や爪を使う仕事をしている人なのだろう。

 二番太鼓が鳴って、今年の幹事さんが開会の挨拶を始めた時に、蜜豆とクリームあんみつがやってきた。それをまたじっと見るなり、彼は運び終えて去ろうとする店員さんを呼び止めて、また私と同じものを注文した。

 

「すみません、おいしそうだったので」

 

 少し気まずそうに彼が話しかけてきた。

 

「ええ、ここの店の甘味、おいしいですよ」

 

 我ながら、何とも芸のない答えだった。妹が割って入る。

 

「甘いものがお好きなんですか」

 

「ときどき食べたくなる程度です。今日は食べたい気分で」

 

「あんみつもおすすめです。甘すぎなくて上品で」

 

「では、今度オーダーしてみますね」

 

 彼はにっこりした。気品という文字が空間に印字されているのが見えそうだった。

 妹は目に見えて浮かれ出し、そんなことは非常にどうでもいい気分の私は、スプーンを持つ手を伸ばして、妹のクリームあんみつにたっぷり絞られたソフトクリームを飾りのミントごと一さじ山盛りにかっさらって、口に入れた。

 もう、行儀が悪いんだからと妹はぶつくさ言い、彼は目を細めて私を見た。

 

「薄荷、召し上がるんですね」

 

「ええ、好きなので」

 

「じゃあ、薄荷飴とかも」

 

「よく持ち歩いてます」

 

「そうですか……おきものも薄荷ですね」

 

 彼はミントを薄荷と呼ぶ。

 私はちょっとうれしくなった。

 フランスの布なのでミント柄ではあるのだが、私は薄荷という呼び名にある、子どものころ見た青空のような懐かしさが好きなのだ。

 ところが妹ときたらデリカシーがない。

 

「うちの姉、湿布してるみたいな匂いがするでしょう? もう、匂い袋まで薄荷なんですよ」

 

 そこ突いちゃうんだ、というようなことをずけずけ言ってしまうあたり、さすが私の妹、似たもの同士だ。そして、自分の方へ話を持っていく。

 

「あ、ごきょうだいなんですね」

 

「ええ、あんまり似てませんけど」

 

「秋薔薇もすごくおしゃれですね、華があって」

 

「うふふ、母の若い頃のきものなんです」

 

 そこで出囃子が始まり、ビールケースを逆さにして板を渡し、毛氈を敷いて作った高座に前座の噺家さんが登場した。

 『子ほめ』を現代アレンジして、お受験やママ友のしがらみを匂わせた知的な雰囲気で、笑うというより、そのセンスに皆引き込まれる。

 次々にアマチュア噺家さんが上がる。

 アマチュアと言えども、ちゃんとプロの講師を招いて指導してもらっている方々でとてもうまい。人生の円熟期に持ちえた趣味をオープンに楽しんでいる感じがよい。

 このサークルでは人情噺が好まれていてほろりとさせられるのだが、毎年ぶっ飛んだ創作艶噺をやる人がいて、文字通りのイロモノだ。女性客に聞かせるのがきついあたりになってくるとヤジがガンガン飛び、そこで強制終了になってしまう。そこもまた毎年の様式美で、ヤジはお仕込み。でも、大トリにも匹敵するほどの人気を誇る。内輪受けだって楽しいものは楽しいのだ。

 私たちは笑い、ほろりとし、固唾を呑んで寄席を楽しんでいたが、相席の客はあまりリラックスしていないようだった。ときどき高座のほうから視線を移し、私の方をちらちら見ている。まるで、お葬式に慣れていない人が他人の焼香の作法を見て真似ようとしているような感じだ。イロモノのあたりになると、辛そうに下を向いてしまった。

 いい大人の男が、艶噺が恥ずかしかったのか、それとも飛び交うヤジを真に受けて居心地が悪かったのか。

 

 トリの前、仲入りの十五分に、妹はトイレに立った。

 私はそっと、彼に聞いてみた。

 

「さっきの、ヤジで途中でやめちゃったやつ、可笑しかったですね」

 

「おかしいですよね……ああいうのはちょっとよくないと思います」

 

 やっぱり、わかってなかった。

 おかしいというのも、面白おかしいのではなく、常軌を逸する意味でのおかしさだと思っている。

 

「あれ、毎年恒例の仕込み芸なんですよ。喧嘩芸人みたいな感じで」

 

「あっ、……ああ、それで皆さん笑ってたんですね」

 

 彼はほっとしたように呟いた。彼の目には下ネタをやった演者に暴力的なヤジが飛び、売り言葉に買い言葉の応酬をげらげら笑う非常識な人間の群れに見えていたんだろう。

 

「ああいう芸風で、あの方、すごく人気なんですよ。毎年盛り上がっちゃって」

 

「よかった……」

 

 大人しそうなその台詞に、一瞬、何かを思い出しそうになった。

 なんだろうか、この感じは。

 その感じを追おうとしていると、相手がじっとこちらを見ているのに気づいた。会話の最中に急に黙りこくる非礼をはたらいてしまった私は、とってつけたように訊ねた。

 

「あ、今日は、どなたかのお招きで来られたんですか」

 

 このお楽しみ寄席に来るのは演者たちの近しい親類縁者か友人、またはほかの落語サークルメンバーで、ぶらっと立ち寄る一見さんは稀だ。私たちだって、出演者の孫なのだし。

 

「はい、親類が裏方におりまして」

 

 そう言いながら彼は帯につけているサコッシュから小さな白いものを取り出した。

 

「よかったら、どうぞ」

 

 昔から愛されているいろんな味の飴が詰め合わされている缶。

 その中の、薄荷の飴玉だった。

 今は個包装になっているのだなあとしみじみしながら受け取った。。

 

「ありがとうございます。子どものころ、よく薄荷ばっかり食べてました」

 

「……」

 

「妹とか友達とかと分け合うと、みんな薄荷を嫌がるんですよね」

 

「ああ、確かに」

 

「だから、これだけ残っちゃうんです。で、私が薄荷を食べる係になって、いやいや食べてたんですけど、今はもうメントールが入ってない飴には物足りなくなってしまって」

 

「そうだったんですね」

 

 そこへ妹が帰ってきた。トイレがずいぶん混んでいたとぶつくさ文句を言っている。

 きものを着たひとは用を足すためにめくりあげた裾回りなどをきれいに直さないといけないし、着崩れチェックなどを始めるのでトイレが長いのだ。きものでの外出を戦場への出撃と例えるなら、トイレは野戦病院だ。文句を言ってもしょうがない。

 相席の客は、妹にも飴を渡した。そっちは赤い、苺の味。

 妹はとても嬉しそうだ。

 惚れたな、と思った。だが今の彼氏とケジメをつけてからにしてほしい。

三、泥だらけの里芋

 トリの演目が始まった。

 さすがこのサークルの代表さんだ。落ち着きと安心感がある。

 昨年もこの人がトリで、怪談噺を演じて暑い夏を涼しく締めてくれた。クライマックスへの盛り上げがすごくうまい人だ。

 でも、さっき、怪談をやっていた若手さんがいた。今年はどうするんだろう。

 聞いていると、現代もので縁日の夜店を老夫婦が回る話だった。その人の創作らしい。

 オレンジ色の明かりの中、くじを引き、イカ焼きやりんご飴で口元をべたべたにしながら老いた夫婦がはしゃぎ、ひととき若い日に戻ってデートを楽しむ。そんな光景を切り取ったような可愛らしい噺だった。

 落とそうとするでもなく、軽いくすぐりを挟んで淡々と語っているだけなのだが、幻燈が緩急をつけてくるくる回っているような美しさと、不思議に迫ってくる哀切さががあり、いい噺だった。

 最後、代表さんはしばらく言葉を切った。

 皆静まり返っている。 

 

「お越しの皆様、こういう抹香まっこうくさいこと言っちゃあ、噺家の真似事やってる端くれの端くれとしても失格なんですがね……どうか、家族や、仲間や……そういう大事な人と一緒にいられることがどんなに尊いか、思いを馳せればいろんなものが見えてくるもの。皆様もどうか大事な人たちとお幸せな時間をお過ごしになるよう、心から願うところでございます。ありがとうございました」

 

 みんなハンカチで目頭を押さえていた。

 どういうことだか訝っていると、妹が私に向かってテーブルに身を乗り出した。

 

「そういえばね、トイレで誰か話してたんだけど」

 

 ハンカチを握りしめて小声で妹が言う。

 

「代表さん、去年の秋に奥さんを亡くされたんだって」

 

 プロでこそないが、落語の演じ手として、笑いに来ている客の前で辛気臭い私わたくしごとを語るのは、という気持ちと、一度妻に聞かせたかったという気持ちのせめぎ合いがあの締めの言葉になったのだろう。

 そう思うと、私もちょっとハンカチを出さずにはいられなくなった。

 妹はマスカラが溶けるのを恐れて、あかんべえをするように下瞼を引き下げ、目の中にハンカチの端を入れて水分を吸わせていた。人前でそれはないだろう、と思ったが彼女にとってはパンダ目になることのほうがあり得ないらしい。

 隣のイケメンはというと、ものすごい勢いで洟をかんでいた。涙もろい性質たちなのか。早速、見なかったことにする。

 

 はね太鼓が鳴る。

 賑やかにお仲間とお客さん方の交流が始まる。

 ここから先は、花もご祝儀も持ってこない一介の客である私たちには少々居心地が悪い。

 私たちは楽しいひとときと涼しい冷房とに後ろ髪をひかれつつ、店を出た。

 妹はこの後彼氏と何か約束があるらしく、道路向かいの停留所にちょうど停まっていたバスに駆け込んでいった。さっきまで相席の客に愛想を振りまいていたのに、忙しい愛され女子だ。

 私も日傘を差して、駅へ向かって歩き出す。すると、いつの間にかあの芭蕉布男が寄り添うように私の右側を歩いていた。まるで妹がいなくなるのを見計らったようなタイミングだ。

 

「駅方面ですか」

 

「はい、電車に乗って帰るので」

 

 素っ気なく答えても、彼は気にしない様子だった。

 

「落語を生で聴くなんて初めてだったんですけど、面白かったですね」

 

「迫力が違いますよね。あのサークル、十月の市民芸能祭にも出演する予定だったし、見に行くといいと思いますよ」

 

「十月かあ、いいですね。その時にもやっぱりおきもので来られますか」

 

 彼がデートの約束でも取り付けるような雰囲気で訊ねてくる。誘ったと思われたのだろうか。こっち見んな、と思った。

 

「いや、私は行くかどうかわかりません」

 

「……そうですか」

 

 しばらく、彼は私の右側を黙って歩いていた。私は居心地が悪くてたまらない。

 行き交う人々が振り返って着物姿の私たちを見るが、すぐに芭蕉布男のほうが視線を集めてしまう。

 彼は考えあぐねたように口を開いた。困った口調だった。

 

「……すみません、僕はあんまり話すのが得意じゃなくてあれなんですけど」

 

「はい」

 

 彼は立ち止って、まっすぐ私の方を向き、私の目を見た。

 

「僕のこと本当に、全然覚えてないんですね」

 

「はい?」

 

「名前もあのハンカチも、薄荷飴も、こうやって見せても、何一つ思い出さないんですね」

 

 彼はひどく残念そうだったが、私は何が何だかわからない。

 

「え、どういうことでしょう」

 

「あー、えっと、どこから話すのがいいかな」

 

 彼は弱ったように額に手を当て、おもむろにその手を降ろすと姿勢を正した。

 

「ご挨拶が遅れてすみません。その薄荷のおきものを縫わせていただいた糸井薫です。ご用命ありがとうございました」

 

「えっ……あの、和裁士の? え?」

 

「はい。こうやってきれいに着こなしていらっしゃるのを見ると、和裁士冥利に尽きます。まだまだ精進しますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします」

 

 いきなりの真面目腐ったビジネストークに私も善良なカスタマーとして応えた。

 

「いや、あ、こちらこそありがとうございます。とっても素敵に仕立ててくださって、うれしいです、大事にします」

 

 少し声が裏返った。恥ずかしい思いをしながら、私は弁解した。

 

「あの、すごく驚いてしまってすみません……お名前から、あの、女性の方だとばかり思っていて……」

 

「ええ、よく間違えられるんですよね。子どものときなんか、女みたいで気持ち悪いって言われましたし」

 

 その時だ。

 何かもやっとしたものの中に突っ込んだ手が、手繰り寄せるべきロープの端っこに触れたような感覚があった。

 それをぐっと掴んでみる。

 私の右肩に人の重みの記憶が蘇ってきた。


 

 小学校の、そうだ、あれは五年生のころ。

 秋の遠足で、近くの里山にある自然公園へ行ったときの話だ。

 仲のいい友達が二人とも風邪をひいて欠席し、とてもつまらない遠足だった。

 お弁当を食べた後の自由時間もすることがなく、私はぶらぶら園内を歩いていた。

 すると、泣き声が聞こえた気がした。

 その声の方へ行ってみると、二メートルほどの崖があった。枯葉や草に覆われた崖の縁で、一か所、土の肌が見えている。その下に、クラスメイトの男子が一人、泥まみれになってうずくまっていた。気が弱く、いつもなよなよめそめそしている子だ。話しかけても目が合うのは一瞬で、すぐ下を向いて小声でぼそぼそしゃべるだけ。ちょっとやんちゃな連中から、正論を振り回したきわどいいじりをされることもしばしばで、正論だから誰も庇えず、ただ彼は泣くだけだった。

 ちょっと離れた斜面から回り込んで駆け寄ると、もう涙と鼻水に泥がこびりついて汚いどころではないご面相だった。

 なんでこんなとこに一人で来たのかと訊ねると、彼は黙っていた。誰かに落とされたのかと半ば怒りながら私が言うと、彼は、誰もいないところに行きたかった、としゃくりあげながら答えた。

 立てるかどうか聞くと、立てないという。

 ズボンのポケットからガーゼのハンカチを出して、顔と手を拭いて、と渡した。パーカーの大きめポケットで薄荷飴を入れた小さな缶がカラカラ鳴っているのに気づいて、食べるとすっきりするから、と一粒食べさせた。そうやって、手を引っ張って無理やり立たせ、私はしり込みする彼に肩を貸した。

 彼はぐずぐずと鼻を鳴らしながら、右足を引きずって歩いた。

 私は泣き止まない彼に少し苛立ちながら励ました。

 

「かおるくん、もうちょっとで先生たちがいる場所だから! 頑張ろう? ね!」

 

――あっ……

 

 女のような名前。

 ガーゼのハンカチ。

 薄荷の飴。

 

「もしかして、あなた、あの……かおるくん?」

 

「もしかしなくても、あのかおるくんです」

 

「え……あの、暗くてぼっちですぐ泣いてて、丸坊主で鼻水垂らしてて、えっと、泥だらけの里芋みたいだったかおるくん?!」

 

 和裁士「糸井薫」氏は苦笑いした。

 

「そこまで言わなくてもいいと思うけど、そのかおるくんですよ」

 

「かおるくん」はあの後、すぐに両親が離婚して転校してしまい、貸してあげたハンカチは戻ってこなかった。

 家も学校も、落ち着ける場所なんかなかったに違いない。誰もいないところに行きたかったという彼の言葉は今思えば重くて苦しみに満ちたものだったろう。でも当時、そんなことを感じ取れるほど賢くなかった私は、次の学校ではいじめられないといいね、と思って、あとは忘れてしまっていた。

 

 その彼が成長して、大人になって、目の前にいる。

 変われば変わるものだ。

 

「あら……まあ……ずいぶん大きくなりましたねえ」

 

 親類のおばちゃんのような台詞が口を衝いて出た。

 

「それはお互い様でしょう」

 

「だって相対的に見たら、私は糸井さんより小さくなってるでしょう」

 

「ああ、あのころはどの女子も僕より大きかったですよね。クラスで一番ちびだったし」

 

「大きくなっただけじゃなくて、すごく変わりましたね」

 

「どう変わりました」

 

「優男になりました」

 

 糸井氏は声をたてて笑った。

 

「氷切沢(ひきりさわ)さんの言葉のセンスって、昔から独特ですよね」

 

「変ですか」

 

「いえ、うれしいです。ありがとうございます。氷切沢さんもすっかり大人になられて」

 

「生きていさえすれば、誰でも大人にはなりますから」

 

 言い方がシニカルだったせいか、糸井氏は困った顔をした。こういう物言いのせいで私はいつも損をする。でもそれでいい。もの言わぬは腹ふくるるわざなり、なのだ。

 

「そういう意味じゃなくて、魅力的だって言いたかったんですよ」

 

「あははは、お上手ですね」

 

「いいえ、上手じゃないですよ。ずいぶん修業したんですが」

 

「修行ですか」

 

「あの後、いろいろと……もっと人と話せるようになりたいと思って」

 

「かおるくん」は転校してから、人と話すためのスキルを磨いた。

 その手の本を読んでシミュレーションし、地元の大学の児童心理学科が夏休みに開催する、子どものための話し方教室にも通ったという。

 カウンセリングにもかかり、ぐにゃぐにゃな自分をしゃんとさせた。

 

 駅へゆっくり歩きながら、糸井氏はかいつまんでそういうことを話した。

 その努力をクラスメイトだった時にやっていたら、友達になれていたかもしれないが、環境変化という大きな力がないと「かおるくん」は前を向けなかったのだろう。

 

「とっても頑張ったんですね」

 

「はい、頑張りました。でも、高校の途中あたりで急に、虚しくなって……これは本当の自分じゃないなって思ったんですよね」

 

「えっ」

 

「人と遊んだり喋ったりするのも、仕事みたいな義務感でやってましたから。自然体でいられる方法を考えたら、引き籠り一択で」

 

「えっ」

 

「引き籠っていてもできる仕事を探して、和裁士になりました。和裁技能士一級もとりましたよ」

 

「……なんか……起伏が激しいですね」

 

「いえ、僕はもともと、きものっていいなと思ってたんですよ。祖母が半襟とか帯揚げ帯締めとか選ぶの見てると面白かったし」

 

「あ、そのおばあ様がうちの祖母のところに三味線を弾きにいらしてるんですね」

 

「そうなんです」

 

「すごい偶然ですね」

 

「偶然じゃなくて、運命だと思います……」

 

 その言葉が尻すぼみだったので、私は糸井氏の顔を見た。

 彼は俯いた。

 

「あの、……その薄荷のおきもののご注文をいただいたときに……氷切沢葉子様からのオーダーを祖母が持ってきて……その、びっくりして、ですね」

 

「はあ」

 

「すごくうれしかったんですよ。苗字がまだ変わってないなって」

 

 糸井氏は今や耳まで真っ赤になっている。私は呆気に取られている。

 

「全身全霊で縫わせていただきましたよ、本当に」

 

「ありがとうございます」

 

「メッセージに連絡先を書いたし、ハンカチもレプリカを作って入れといたし、絶対連絡が来るはずって思ってたのになぁ」

 

「作った? あのガーゼのハンカチを?」

 

「ええ、もう一針一針、気合を入れて縫いましたよ」

 

 元クラスメートの気安さでつい私は口走ってしまった。

 

「買えば早いのに」

 

「……でも縫いたかったんですよ」

 

 彼は頬を紅潮させたままだ。私はやばいやつと歩いているのかもしれない。

 

「私が貸したほうは、今も持ってるんですか」

 

「ありますよ。あれは僕の宝物です」

 

 ほら、なんだかやばい。

 

 やっと、烏雀間(かすま)駅に着いた。

 駅の前にある赤いポストの前で、それでは、と離れ気味にお辞儀をする私に糸井氏はくっついてきた。

 

「あの、よかったら、お茶でもいかがでしょう」

 

「いいえ、さっき蜜豆食べましたから」

 

「ではお食事は」

 

「まだ四時前ですよ」

 

 また困った顔をして、彼は額に手を当てた。これがこの人の癖らしい。

 

「あの……僕の仕事場がすぐ近くなんですけど、見ていきませんか」

 

「え」

 

「今、大人向けの、薄さと軽さを追求した兵児帯へこおびを考えていまして、ちょっとだけ見ていただけたらなと……試作品はポリレーヨンの楊柳なんですけど」

 

 どうしてこうも、ぐっと刺さることを言ってくるのだろう、さすが和裁士。

 私が兵児帯を欲しがっているのを見透かされたような気がした。

 口が勝手に、答えてしまう。

 

「行きます」

 

四、クロアゲハ

 糸井氏の言う「近くにある仕事場」は、確かに近かった。

 駅の裏に回り、寂れた商店街を通る。

 幽霊か、暴漢でも出てきそうな錆の浮いたシャッター街。

 芭蕉布男もとい糸井氏が歩くと、シャッター街でもまるで祇園あたりの小路のように見える。

 

「ここ、もうすぐ取り壊されるんですよ」

 

「あ、区画整理されるんでしたっけ」

 

「こういう街並み、好きなんですけどね。狭くて、救急車も消防車も入れないから仕方ないんですよ」

 

 廃業した魚屋さんの角から左へ入って二本目の路地に、古い平屋アパートがあった。

 そこの一階角部屋のドアに鍵を差し込みながら、糸井氏は言った。

 

「古いでしょう。その分家賃が安くて助かってます」

 

「なんか、昔の長屋みたいですね」

 

 さっきの落語に長屋のネタがありましたね、と糸井氏は笑った。

 ぼっち気質だというのに、さっきからよく笑顔を見せる。

 私はと言えば、今更自分の軽率さを反省し始めていた。兵児帯見たさに、一応昔のクラスメイトとはいえよく知らない男性のテリトリーに単独でやって来てしまった。

 

「看板は出してらっしゃらないんですか?」

 

「看板は、今のところネットだけで揚げてます。寸法なんかも全部お客様に入力してもらって、ネットと宅配のやり取りだけで納品まで行けるので」

 

「じゃあ、絵羽ものは」

 

「よほどのことがない限り、一からは請けませんね。サイズ直しとか、仮絵羽までいったお品ならOKなんですけど」

 

 扉を開けて、部屋の主は私を中へ誘(いざな)った。

 一息分、躊躇する。

 扉を押さえて、私が入るのを待っている腕を見る。

 正確に言えば、その腕を覆っている芭蕉布を見る。

 この透け感、いいなあ。

 

「芭蕉布、お好きですか」

 

「はい、憧れてます」

 

「触ります?」

 

「わぁ、いいんですか」

 

うかうかと私は糸井氏の袖に触れてしゃりしゃりと感触を楽しみつつ、そのまま仕事場へ足を踏み入れてしまった。

 

――ここが、「かおるくん」第二形態の引き籠り場所かぁ……

 

 中は、昭和の映画に出てくるボロアパートそのものだったが、すっきりと片付いていた。

 六畳一間で畳や床はしっかりしていて、洋裁をやる人が使うような巨大な作業台が部屋の中央にあり、この空間の主役となっている。

 ベッドやソファは置かれていない。純然たる作業場としての部屋のようだ。

 白い長襦袢を着せてあるメンズとレディスのボディスタンドが壁際に立ち、和服用の桐箱がたくさん積まれたきもの箪笥だんすがある。棚の下に並べてある不織布の書類ボックスの縁へりには、様々な反物たんもの。

 作業台脇に足踏みミシン。足で踏板を踏んで動力にする、前時代の遺物だ。しかし、電動ミシンより稼働音が静かなので、こういう安普請のアパートなどでちまちまとやっている仕立て屋には重宝されている、という話を聞いたことがある。値引きや無茶な納期要求があったオーダーは、相手と交渉の上、彼はこれで一部縫っているという。

 壁ではエアコンが冷気を吐き出し、納期などを書き込んだシンプルなカレンダーが掛かっている。写真も花も、飾るものは何もない。

 部屋の隅の充電ステーションで、全自動掃除機が眠っていた。

 

「住んでるのは祖母の家なんですけど、祖母がインコ5羽飼ってるんですよ。お客様がアレルギーをお持ちだったらと思うと反物広げられなくて、ここを借りました」

 

「すごく整理整頓なさってますね」

 

「氷切沢さんから受注いただいてから、僕、ここをものすごい勢いで片づけたんですよ」

 

「はあ」

 

「いつ来られてもいいようにって。でも、納品後も全然連絡がないし、こうして会いに行っても、僕のこと思い出しもしなかったし」

 

 ちょっと恨みがましい口調が、「かおるくん」第一形態っぽい。

 この人は本当に「かおるくん」なのだ。

 

「会いにって? 今日のあの寄席に?」

 

「はい」

 

「お祖母さんが三味線弾かれるからではなく?」

 

「それも3パーセントくらいはありますけど」

 

「純粋に落語聞きたいっていうのは?」

 

「ゼロです。今まで落語に触れたことありませんでしたし……でも、面白かったです」

 

 とにかくどうぞ、と作業台の椅子を勧められ、私は座った。紬の端切れで作ったティーマットが前に敷かれる。

 

「麦茶でもいいですか」

 

「あ、お構いなく……すぐ失礼しますので」

 

 狭い台所から、糸井氏が氷が浮かんだ濃い目の麦茶を運んでくる。

 

「どうぞ」

 

「ありがとうございます」

 

 アダルトビデオのように睡眠薬が入っていたりしないか、と一瞬思ったが、それはないだろう。私と糸井氏が寄席で一緒にいたのを見ている人がいるし、糸井氏のお祖母さんにも累が及ぶ。

 そもそも、私はあまり男好きするタイプではない。おそらくAVのような展開はない。

 それよりは、農薬だとか青酸のほうが心配だ。

 つらかった小学校生活を引きずって恨みに恨んで、何もかも放り出して復讐しようとしていたら……

 

 しかし、糸井氏はそういう、いわゆる無敵の人には見えない。

 とりあえず、私は喉が渇いている。

 芭蕉布を着る人に悪い人はいない。たぶん。

 私は、麦茶を一気に飲み干した。

 異味も異臭もなく、おいしかった。

 糸井氏は麦茶ポットを持ってきて、間髪を入れずにおかわりを注いでくれた。

 三杯目が注がれたとき、私はここへの訪問目的を切り出した。

 

「あの、そろそろあれを見せていただいてもいいでしょうか……この後、用事があるので」

 

「え……」

 

「兵児帯を作ってらっしゃるとか」

 

「ああ、あれですね。ちょっと待ってください」

 

 彼はさっそく女性のボディスタンドを抱えて私の前に出し、箪笥から紺の絽のきものを着せた。そこへ、作業台の大きな抽斗ひきだしからひらひらした黒い布を取り出し、メッシュの帯板を包んでボディに巻き付ける。

 ポリレーヨンのごく薄い楊柳。薄くて軽そうで、涼やかだった。長めなので、帯結びで遊べそうだ。

 

「あ、黒……」

 

「クロアゲハみたいできれいでしょう?」

 

 私は虫が嫌いなので、他のたとえが欲しかった。例えば、黒でめきんとか。

 しかし「かおるくん」には羽化して飛び立つクロアゲハのほうがイメージに合ったのだろう。

 

「大人の兵児帯って、おしゃれだし便利ですよね。私も一本持ってますけど生地が麻でしっかりしてるんです。こういう透けるのも欲しいな」

 

 よく見ると二重仕立てで、結ぶ部分だけ二重の部分が縫い付けられずに分かれている。要するに二本あるはずの帯の端が、四本ある仕立てになっていた。これで帯結びでひらひらがふんだんに作れる。

 きゅっとシンプルに二重リボン結びした後、彼は座っている私の横に立って、私からどう見えているかを確認するように少し屈んだ。

 

「柔らかくて薄い生地の兵児帯って軽くて涼しそうなんですけど、だんだん撚れて着崩れしますよね。それに帯板の凹凸が出るとえげつない感じがしますし」

 

「わかりますっ!」

 

 つい大声を出してしまった。

 そうなのだ、ゆるふわ兵児帯はそこが問題だった。兵児帯用の帯板は表面に響かないよう薄いメッシュでできているので、ともすると帯板込みで、ぐしゃっと撚れ皺が入ってしまう。

 その点、ちょっとしっかりした兵児帯は帯板が見えにくくてとても楽だ。

 私の激しい同意に、糸井氏は得意そうだった。

 

「それで、薄くて軽い布芯を前と脇の部分に巻く部分だけ入れてみました。もうやってる人いるかもしれませんけど」

 

「あ、私、今のとこ見たことありません。売ってほしいです、ほんとに」

 

 糸井氏はボディの帯を解くと、新聞紙を芯にくるくると巻きつけ、和菓子店の紙袋に入れた。

 

「お礼に差し上げますよ」

 

「え、何の」

 

「僕を生まれ変わらせてくれたお礼です」

 

「きもの一枚オーダーしただけでそんな」

 

「いいえ、あの小学校の、遠足のときの」

 

 私は首を傾げた。

 

「生まれ変わる要素、ありましたっけ」

 

「あのとき、僕、死のうと思ってたんですよ。学校にも親にも、とにかく僕の周り全部への当てつけに」

 

 何と言えばいいかわからなかった。

 私の反応を観察するような沈黙の後、彼は明るく言った。

 

「でも、ちょっとケガしただけですごく痛くて、一人で泣きわめいてしまって……死にたいくせに、本当にポンコツですよね」

 

 彼が固い固い意志の持ち主だったら、もしかするとここには今いなかったのかもしれないのだから、ポンコツでよかったのだ。

 小学五年生が、人知れず死のうと思う。そんな状況を作り出した残酷なコミュニティに私もいた。

 申し訳なく、恥ずかしくなった。

 大人になって、俯瞰的に見なければわからなかった気持ちだった。

 

「ごめんなさい……あの、あのときは本当に……」

 

 ところが、糸井氏は爽やかな口調のまま、謝ろうとする私を遮った。

 

「もうどうしようかと思ってたら氷切沢さんが見つけてくれて、肩貸してくれてね……生きてるのもいいなって思ったんです」

 

「……」

 

「女の子の脇腹にぴったりくっついたことなんかなかったんで、あったかいし、いい匂いするし……生まれて初めて自分が男だっていうの、実感しました。ずーっとくっついていたいなって思いましたよ」

 

「はあ」

 

 ハイキングコースを歩いて、汗臭かったはずなのだが。

 語る糸井氏の目がちょっととろんとしている。色男だろうが優男だろうが、ちょっと気持ち悪い。

 もしかするとそのとき「かおるくん」の下半身は……。

 そんなことを思ってちょっと自分の思い出が汚れてしまった気がしたし、そういうことを考えてしまった自分にがっかりもした。

 私が何とも言えない顔をしているのに気が付いたのか、彼ははっとしたように居住まいを正した。

 

「いや、その、ですね……それがきっかけで、僕は他人とポジティブなコミュニケーションをとれる人間になろうと思ったんですよ。一念発起して、だいぶ社会適応できました」

 

 彼の目を見ていると、しんみりしたいい話なのか、単なるちびっ子のスケベ心が暴走しただけの話なのかよくわからなくなってしまった。

 とにかく、第二形態になれてよかったね。

 しかし、ここでいらんことを言ってしまうのが私流だ。

 

「でも、引き籠り一択になっちゃったんですよね?」

 

「あ、はい。頑張ることにちょっと疲れてしまって」

 

「今、頑張ってますか」

 

「仕事は頑張ってます」

 

「そうじゃなくて、私と今喋ってて、気遣いとか、気疲れとかしてませんか」

 

「そういうのは感じませんけど、後でどっと来るかもしれません。今、ハイテンションになってるので」

 

「ハイテンション……」

 

「これでも僕はすごくハイですよ」

 

 目の周りを仄かに赤くしたまま、糸井氏はゆっくりと瞬きをした。

 

「今日、氷切沢さんとまた会えて、きれいになって、でも前みたいに僕に構ってくれて……僕は、言いたかったことをほとんど全部言えて、……これでハイにならないほうがおかしいですよ」

 

 私をきれいと言うなんて、糸井氏はだいぶ目が悪いのだろう。

 言いたかったことを全部言えたなら重畳、長居は無用だ。

 ここで私は帰ることにした。

 

 駅まで糸井氏はついてきた。送ってくれた、というより、もっそりとついてきた、と言うほうが正しい。そんな彼を、やはり多くの老若男女が振り返って二度見する。

 改札のセンサーにプリペイドカードをかざそうとすると、彼はこう言った。

 

「次、いつ会えますか」

 

 悪く言えば、もの欲しそうに。

 好意的に言えば、名残惜しそうに。

 

「LINEとかやってますか」

 

「いいえ」

 

「あ、じゃあ、メールします」

 

「絶対ですよ、待ってますから」

 

 電車の到着アナウンスが流れる。

 私は雑に会釈すると、糸井氏に背を向けて軽く駆け出した。

 

 電車は空いていた。

 私は、夕日の当たらない席を選んで、浅く座った。

 車窓から、駅周りの景色が少し違って見える。

 膝に乗せた兵児帯の紙袋を見ながら私は複雑な気持ちになっていた。

 腕はいいのだが、またきものを誂えるとき、糸井氏に頼むだろうか。

 何も知らなければ、普通にまたオーダーしただろうに、なんとなく躊躇いを感じた。

 

 とにかく、疲れた。今日は本当に盛りだくさんの一日だった。

 第二形態に変貌した昔のクラスメイトに一方的に思い出話をされて、迷惑なような、ちょっと気持ち悪いような……でも面白くないわけではなかったのだ、たしかに。

 私はため息をついて目を閉じた。

 そして二駅寝過ごした。

五、アイス談義

 結局、糸井氏にメールを送ったのは三週間後だった。

 

 もう九月中旬、暑さは残るが朝夕は涼しくなっている。

 私の職場では、第二四半期の決算へ向けて、関係各所とのスケジュール調整で残業が続いた。

 毎日乗る帰りの電車にはくたびれた老若男女が虚ろな目をしている。私もその一人で、無難なシャツとスカートを着け、暗い車窓に暗い顔をして映っている。

 

――ああ、きもの着たいな……

 

 禁断症状だ。

 別に出かけなくてもいい、着ているだけでハッピーになれる。カルタ結びや貝の口で平たく帯をまとめれば、ごろ寝もできる。

 きものは大人のコスプレ、という言葉がある。着ていると自分の中に違う自分が生まれ、周りに世界が構築されるのは巷のコスプレと同じなのだが、いいトシをしていても大丈夫、周囲から「文化の継承者」として敬意を払われるという点で、きものは果てしなく大人にやさしい。

 しかしきものの話ができる相手と言うのはうちの家族の女子しかいない。たまには血縁外の同志とも話したいのだが、友人たちは二分以上きものの話が続くと嫌な顔をするので、あいつらは同志ではない。

 

「次の停車駅は烏雀間、烏雀間です」

 

 その車内アナウンスを聞いて、混んだ車内、すみませんとぼそぼそ言いながら人をかき分けて私はドアの前へ行った。

 ドアが開く。

 夜気が顔に当たるのを感じるなり、私は途中下車してしまった。

 蛾が群がった灯の下、降りた客がめいめい改札へ向かう。

 私は色褪せたベンチに座ってメールを打った。

 

――お久しぶりです。

――先日はありがとうございました。

――あの帯めちゃめちゃいいです。妹にもすごくうらやましがられました。

――今、烏雀間駅にいます。突然で申し訳ありませんが、もしお時間があったら、帯のお礼に、今からどこかでお食事でもいかがですか。

 

 もう仕事場にはいないかもしれない。

 夜の八時過ぎに夕食につきあえと言うのも遅すぎる。

 送信後にそう気づいた。

 

――夕食がおすみでしたら、またの機会を設けますので、遠慮なく断っちゃってください

 

そう追記メールしようとしたら返信がきた。さっきの送信から20秒も経ってないのではないだろうか。

 

――行きます。店は決まってますか?

 

 駅前に牛丼のチェーン店が見えたので、そこでどうかと提案すると、糸井氏は難色を示した。仕事場のすぐ近くにいい店があるのでそこへ案内したいと言い出す。私は身も心もよれよれなので近くで手軽に済ませたいのだが、帰りに仕事場へ寄って好きなはぎれを持ち帰っていい、と言われて俄然行く気になった。

 きもの好きで、はぎれという言葉を聞いてときめかない人間はいないのではないだろうか。私は半襟や帯揚げ、帯締めをよく自作するので、ひとたまりもない。

 きもの好きの急所を野蛮にぶっ刺してくるところは、さすが和裁士だ。

 

 きっかり10分後に糸井氏はやってきた。

 慌てて髭を剃ってきたのか、少し顎のあたりに剃刀傷があり、薄く血が出ている。

 上がった息を少し整えて、彼は会釈した。

 

「こんばんは、お誘いありがとうございます」

 

「夜分やぶんにお呼び立てしてすみません」

 

「いえ、時間ならありますので」

 

 とりあえず二人で鹿爪しかつめらしく挨拶する。

 今日はさすがに芭蕉布ではない。

 しじら織の作務衣にボディバッグ。

 骨格が程よく浮き出したきれいな裸足が焼杉の下駄の鼻緒にとおっているさまは、女性のうなじと同じくらい好い。

 それにひきかえ、私のパンプスを履いた足のむくみっぷりときたら、ひどいものだ。

 

「お帰りはいつもこのくらいの時間なんですか」

 

「いいえ、いつもはもうちょっと早いんですけど、ここのところ残業が続いていまして」

 

「忙しいんですね」

 

「時期によりますよ」

 

「じゃあ、行きましょうか」

 

 糸井氏は進行方向へ体を斜にして掌を上に進行方向を示し、エスコートの体をとった。かおるくん第二形態はこういうボディランゲージが自然にできるようになっている。

 私が育てたわけではないが、えらいねえ、と思った。

 さっそく、並んで歩く。

 

「お食事、まだだったんですか」

 

「はい、ちょっとサイト巡りしてまして」

 

「糸井さんって、どんなサイトを見るんですか」

 

「今日はコスプレ用ハンドメイドのサイトですね」

 

「コスプレ?」

 

「先日、七五三の七歳きものを三歳用に仕立て直して、出たはぎれで和洋折衷のミニハットは作れないかっていう相談が来たので、どういうものか調べてみようと思って。そう難しくないので、作れそうです」

 

「へえ……」

 

「小さい子は草履で神社の境内歩くの大変ですからね。和洋折衷で大正浪漫っぽくコーディネートして、おしゃれなブーツを履かせる親御さんが増えてきてるんですよ」

 

「勉強することがたくさんあるんですね」

 

「どのお仕事もそういうものでしょう?」

 

 糸井氏おすすめのお店は、彼の仕事場の目と鼻の先にあった。まだ氷旗がはためいている小さな店だ。

 古い店に見えるのに、よく見ると新しい建材に焼きや削り、ウォッシュで古びた感じを出している。古さをファッションとして楽しんでいる人の店だ。

 かまわぬ、の手ぬぐいで作った暖簾。内照式のスタンド看板には「たいこや」とある。

 店内に入ると、昭和歌謡が流れてきた。昭和歌謡といっても、戦中戦後あたりのクラシックなタイプだ。

 

「いらっしゃい」

 

 私たちより少し年下に見える男性が迎えてくれた。

 厨房には年配の男性と女性、客はカウンターに年配の男性が三人。

 店内に置かれた大きな水槽には地味な和金が二匹、真ん丸に太って泳いでいた。

 壁にずらりと掛けられているのは、洒落た和てぬぐいを額装した縦長のフレーム。

 モミジやサンマ、栗、稲穂などの秋の風物の柄だった。

 計算されたレトロ感と、わざと少し的を外した和風の匂い。こういうのは嫌いじゃない、というか好きだ。

 

 私は席について、メニュー表を見た。

 載っているのは丼物が中心で、単品とお酒も少し。

 

「あ、ここ丼屋さんなんですね」

 

 ちょうどお冷を運んできた店員さんがにこやかに答えた。

 

「そうなんですよ。うち、たいこやって言うんですけどね、なんで太鼓を屋号にしたかわかります?」

 

「いいえ」

 

「太鼓って、叩くとどんってなるでしょ? だから、丼物の店にたいこやって名前、いいと思いませんか」

 

「へえ」

 

 僕が小学生のころ両親がこの店を開いたんですけどね、と彼は厨房の男女を視線で示し、続けた。

 

「僕がこの店の名前決めたんですよ」 

 

 それが、このたいこや若旦那の自慢なのだろう。

 人通りの少ない裏通りという立地だが、厨房も接客担当も表情が明るいので店の雰囲気がよくなっている。

 糸井氏はたぶんこのトークを経験済みなのだろう、聞きに徹している。

 私はイワシのソースかつ丼のセットを頼み、また彼は私と同じものを頼んだ。

 

「自分の好きなものを頼んだらいいのに」

 

「だって氷切沢さんがどんな味のものを食べるのか、気になって」

 

「糸井さんが私と別のものを頼んでおいしそうだったら、今度頼もうって予習できるのに」

 

「そのメニューまだ食べたことなかったんで僕も食べたいです」

 

「この間の寄席のお蕎麦のときも、私の真似しましたよね」

 

「氷切沢さんの食のセンスがいいからですよ」

 

 糸井氏のクオリア共有欲求と、このもやもやの落としどころを探すのが面倒だったので、私はそれ以上何も言わなかった。

 料理が来るまでの間、席を立って手ぬぐいの額を見る。

 全部で7枚が飾られていた。

 小菊を散らしたものや紅葉とシカの意匠も素敵だったが、クマが七輪でサンマを焼いている柄のが一番気に入った。焼けるのを待ってパタパタと扇で炭を仰ぐクマがユーモラスで可愛いのだ。

 驚いたことに、飾られているもののいくつかは百円ショップの品だという。明日百均を回ってみなければ。

 半月盆に載って出てきた丼は、イワシがしっかり大きくておいしかった。ソースがウスターなのもポイントが高い。今度、妹や母も連れてきたい。

 糸井氏も満足した様子だった。

 食べ終わってからお会計をしようとすると、糸井氏はさっと私とレジの間に割って入った。私がさらにレジの前に出ようとすると、彼がレジ台に手を置いて割り込めないようにする。

 

「ここは僕が連れてきたお店ですから」

 

「え、でも私が誘ったんですし、帯もいただいたし……」

 

 私がもぞもぞ財布を出しているうちに、彼はさっさとナントカPayで払ってしまった。

 かおるくんのくせにコード決済か。

 私が帯のお礼にと言って誘ったのに、なんで払ってしまうのだかおるくん。

 舌打ちまではしないがちょっと悔しい気分になった。

 店を出ると、雲が黒く浮かぶ中に、少しだけ欠けた月が暈を被っていた。

 

 店を出てものの二分で糸井氏の仕事部屋へ着いた。

 前に来たときと違うのは、作業台の上にノートパソコンが開きっぱなしになっていて、首のリブ編みが伸び切ったTシャツが押入れの前に落ちていたことくらいだ。

 糸井氏が慌てて脱ぎ散らかした服を片付けだす。

 

「慌てて支度したので、つい散らかしっぱなしにしてしまって」

 

「そういう普通の服も着るんですね」

 

「ええ、まあ一応……現代人ですので」

 

 彼はバツが悪そうだった。

 

「誰もこのご時世、365日二十四時間ずっと和装の人がいるなんて思ってませんよ」

 

「氷切沢さんはおきものが好きなので、洋服も着るって言ったらがっかりされるかと思いました」

 

「それくらいでがっかりなんかしませんよ。私だって今日は普通の服ですし」

 

 私がそう言いながら自分のシャツの胸元の生地をくいっとつまんで見せると、彼は安心したように軽くため息をついた。自分でイメージを作って演じないと落ち着かない性質なのかもしれない。

 またあの椅子を勧められて座ると、糸井氏は台所の小さな冷蔵庫から何か出してきた。

 

「これ、お好きじゃないかと思って」

 

 スーパーでよく見る、ちょっとお高めのチョコミントのカップアイスだった。

 

「薄荷のきものをオーダーするくらいですから、大好きです」

 

「よかった」

 

「ありがとうございます」

 

 その悩ましいパッケージは、見る間にうっすらと霜を纏ってくる。

 夕食を摂ってお腹いっぱいなのに、あのメーカーロゴの付いたプラスプーンを差し出され、ありがたく受け取ってしまった。

 蓋を取って、内蓋になっているフィルムをはがす。

 

 

「この間の博多帯、どう見てもチョコミントでしたから、絶対好きなはずと思ってました」

 

「あの帯、一目惚れして買っちゃったんですよね、あの色合い、まさにって感じでしょう?」

 

「メンズのがないか、あの後探しましたよ」

 

「ありました?」

 

「ありませんでした」

 

 一匙、口に含む。疲れを癒す、さわやかな香りが鼻に通る。心地よい甘さと冷たさが私の中で広がる。

 小さな幸せがここにある。

 私が食べだしたのを見届けると、糸井氏も自分のチョコミントを食べ始めた。

 そのスプーンの動きが今一つ、ノリが悪い。

 最初は考え込むように眉間に薄く皺をよせ、中盤からは味覚から精神を逸らすようにストイックな顔つきで食べている。

 瞬く間に至福の時間を終えてしまった私は、訊ねてみた。

 

「もしかして、糸井さん、これ苦手じゃないですか」

 

「……いや、大丈夫です」

 

「歯磨き粉みたいだと思ってません?」

 

「本当に……飴とかガムならいけるんですけど」

 

 すまなそうに言う。もう、苦手だと白状したようなものだ。

 

「苦手なら買わなくてもいいのに」

 

「喜んでもらいかったんですよ」

 

「そうじゃなくて、自分の分くらい好きなの買ったらいいじゃないですか」

 

「だって、ミルク金時食う男ってどう思います?」

 

「あ、私も好きですよ、ミルク金時」

 

「……宇治じゃないんですよ? 大の男がミルクですよ?」

 

 私は糸井氏が何を言っているかさっぱりわからなかった。

 ミルクだったらダメなのか。西部劇の酒場で笑いものになっちゃうからか。

 でも、たしかその映画でミルクを飲んでいたのはどえらいイケメンヒーローで、美女に惚れられていた。

 

「おいしいじゃないですか」

 

「何年か前、女の子たちから、その顔でミルク金時とかあり得ないって言われたんです……」

 

「それで引き籠り一択になったということですか」

 

「まさかそれくらいで。でも、ミルク金時は女子には受けが悪い、と学習しました」 

 

 ギャップ萌えで押していけばあるいは、というのは思いつかなかったらしい。

 この見てくれでまだまだ女子受けを気にしなければならないのか。

 男という生き物の業は果てしなく深い。

 

「人の食べ物を貶す人って、ネタ感覚で言ってるか、単に品性が残念なだけですから真に受けちゃだめですよ」

 

「わかってますけどやっぱり、氷切沢さんにはかっこつけたかったので」

 

 幼い頃を知る人間に長いブランク後会うときは、誰しもそれなりに気取りたくなる。そういうものなのだろう。

 同窓会なんかだとみんな自慢話しかしない。もちろん不幸自慢も含めて。

 

「かっこつける必要はないでしょう、女性には不自由しないお顔立ちですし」

 

「誰がですか」

 

「糸井さんがです」

 

 糸井氏は、カフェでテラスでお茶を飲んでいたり、本屋で雑誌を選んでいたりするだけで絵になる。ただいるだけでおキレイさんの雰囲気をぷんぷんさせて、ランウェイでも歩いていそうだ。さらに、和装で持ち前の美貌が二割増しになっている。まさに鬼に金棒。

 しかし、糸井氏は少し神経質そうな動きで、私がしっかりスプーンでこそげ取ってきれいにしたアイスカップをさらい、自分が食べ終わったべとべとのものと重ねてごみ箱に捨てた。

 

「女性には不自由中です」

 

 そう言うと、さっと台所の流しで手を洗い、部屋の奥の棚から不織布の収納ボックスを降ろして、私の前に置いた。

 

「お好きなだけどうぞ」

​六、残念さんたち

 中にはいろんな色のはぎれが入っていた。

 糸井氏は、余り布ぎれが出たときはきものを納品するときに相手に返すので、ここにあるはぎれは本当に小さい、返送されても困るような本当のはしっ切ればかりだ。しかしそれもまたいいもので、はぎ合せて袋物や匂い袋を作ると可愛らしい。パネルに少しずつ貼って、生地見本帳のようなものを作って部屋に飾るのも洒落ている。

 こうしてはぎれが何種類も発生しているところを見ると、糸井氏はそこそこお仕事はしているらしい。

 フリーランスの和裁士はほとんどフリーターと同義、と聞いたことがあるので、私は彼の受注状況にちょっと安心し、さっそく生地を選び始めた。

 桜ねずの正絹綸子しょうけんりんずは、おそらく長襦袢用の生地だろう。大きめだったのでそれをまずいただく。

 この更紗さらさはミニフレームに入れて飾ろう。

 紅絹もみは飾り襟にしたらいいけれど、もう製造されていないので切ってしまうのはもったいないかもしれない。

 そんなことを考えながら、通勤バッグに常備している縮緬ちりめんの風呂敷を出してぽんぽんとのっけていく。

 糸井氏はいつの間にか私のすぐ右脇に立ち、じっと私の手元を見ていた。

 

「あの、ちょっと訊いてもいいですか」

 

「あ、はい」

 

「こんな風に、男と二人っきりになることに抵抗とかないんですか」

 

 おお、これは芭蕉布だ。この間糸井氏が着ていたもののはぎれらしい。

 和風のリボンバレッタでも作るか。

 そういう妄念に没頭しているときに、実につまらんことを訊いてくるので、とりあえずさくっと答えた。

 

「そりゃあ、ないわけではないですよ」

 

「……じゃあどうして来たんですか」

 

「どうしてって、糸井さんが帯とかはぎれとか見せてくださるからでしょう。誘ってくださったじゃないですか」

 

「いや、そういう意味じゃなくて」

 

 糸井氏は自分が適当にあしらわれているのを気づいている風だ。じわっと真顔になり、ため息と一緒に言葉を吐く。

 

「あのですね、ちょっと気になったんですけど、きもののこととなるとほいほい男についていくのはどうかと思うんです。僕が悪人だったらどうするんですか」

 

 なんだこいつ。

 人に餌を提示して釣っておいて、何を言い出すのか。

 私ははぎれを選ぶペースを上げながら訊き返す。

 

「糸井さんは悪人ですか?」

 

「えっ……」

 

 鼻歌でも歌うように、私は茶化した。

 

「私より糸井さんのほうが身辺に気を付けた方がいいですよ、男性でも性犯罪に巻き込まれる人って多いんですって。変な人を部屋に上げたりしない方がいいですよ」

 

「僕は、氷切沢さんが危ないという話をしてるんです」

 

「基本的には気を付けてますから大丈夫です。糸井さんはかおるくんだし、私のお気に入りを仕立ててくださったしで信頼してますから」

 

 糸井氏は複雑な、さっきチョコミントのアイスを食べていたときのような顔をしている。私は畳みかけた。

 

「ほいほい来ないほうがよかったんですか?」

 

「いえ、来てほしかったですよ。ずっと、メール待ってたんですから」

 

 糸井氏の言うことが支離滅裂だ。歯磨き味のアイスを我慢して食べて、どこか脳の回路がおかしくなったのかもしれない。

 風呂敷の対角四隅をきゅっと結んで、私は引き上げる支度を整えた。

 引き上げどきを見誤らないことが、身を守る術の一つだ。これ見よがしにスマートフォンを確認し、もうこんな時間、と声を上げ、玄関を向き加減に立ち上がる。

 

「今日はいきなり誘ってすみませんでした。私が誘ったのに、糸井さんにご馳走になっちゃって、お土産までいただいてしまって……」

 

「ちょっと待ってください」

 

 締めの口上の真っ最中に、糸井氏が遮った。

 

「もしかして、氷切沢さん、何にも気づいてないんですか」

 

「え? 何に?」

 

「ああ……」

 

 また例の、額に手を当てる仕草が出た。

 丸々二分ほどの大長考の末、かおるくん第二形態はもそっと言った。

 

「僕、この間から氷切沢さんを口説いてたつもりだったんですけど」

 

「……はあ」

 

「氷切沢さん、ものすごく鈍いって言われたことありませんか」

 

「いや、ご好意はなんとなく感じてましたけど。あくまでも古いお友達的な感じで」

 

 糸井氏はいいやつのようだし、きものの話ができるし、腕がいい。付き合いが絶えるのは惜しい。

 しかし、口説かれるのとは少々違う気がする。あまり色恋の相手という感じが持てない。

 彼はちょっと不機嫌そうだった。

 

「そういう風に『オトモダチ』って言葉で濁すの、すごく性質が悪くありませんか」

 

 じっと私の目を見てくる。涼しげな目元が酒にでも酔ったように赤くなってきている。

 もし私の性質が悪いのなら、では糸井氏の女性についての審美眼は何なのだろう。

 私は帰り支度万端に手に持っていた通勤バッグと風呂敷包みを、いったん彼の作業机に置いた。 

 

「糸井さん、ちょっと順を追って説明してもいいですか」

 

「はい」

 

「あなたは老若男女が振り向く美丈夫さん、私は残念さん。……ここまではご理解いただけますか」

 

「理解できるわけないでしょう、何ですかそれ」

 

「わからなかったら、とりあえずそういうものだということにして、最後までお聞き願います」

 

 学校でよくそういうことを言われたなと思いだす。

 特に、数学や理科あたりで法則とか定理とかやったときに、そういう風になってるからそうだと思っとけばいい、それで点は取れるのだから、と。

 思えば、それが私の処世訓なのかもしれない。

 他人とはこういうもの、私はこういう人間。

 

「私、これでも、いい感じになった男性も何人かいたんです。でも、そのたびに肩透かし喰らわされてきたわけですよ……ブサイクが勘違いしてんじゃねえよ、とか、きものきて色気出してキモいとか陰で言われてたりね。高校大学社会人、ずっとそういうことばっかりで、嫌気がさしました」

 

 え、と一言発したきり、糸井氏は目を見開き加減にして黙っている。

 

「ひどいのになると、うちの妹目当てに私に近づいてきてたりね。糸井さんも、うちの妹見たでしょ? 姉から見てもめちゃくちゃ可愛いんで、まあ当然そうなるよねって感じです」

 

 今や反論の声はない。

 私の独演会である。

 演題は『不幸自慢』で、私はかなり気持ちよくしゃべっていた。

 

「惚れたはれたの勘違いほど見苦しいものはないでしょう? 私、これ以上自分がみっともなくなるの、嫌なんです。だから、色恋沙汰には石橋を叩いて叩いて叩いて叩いて、それから渡ることにしたんです」

 

 私の弁舌がなめらかになればなるほど、糸井氏はもやもやと考えている顔つきになる。

 

「そんな中で、いきなり、昔のクラスメイトに偶然再会したら、その辺のアイドルとか俳優とかどころじゃない、国外追放レベルのイケメンになっていて即口説かれるって、どこの欲求不満のレディコミですかって話ですよ、まったく」

 

 そこでひとしきり、糸井氏と私の顔面と骨格の格差についてぶちかましたあと、私は一息ついた。

 

「ここまで、よろしいですか? ついてきてますか?」

 

「だいたいは把握しました」

 

「大したこと言ってないんで、だいたいで結構ですよ。私は鈍いくらいがちょうどいいという理由につきましては以上です。ご清聴ありがとうございました」

 

 これでよし。

 何の解決にもなっていないが、煙には巻いた。

 これで、次に会うときも、ややこしいことは抜きで楽しく会話できる気がする。

 ところが。

 

「僕にも話をさせてください」

 

 糸井氏が挙手した。挙手している人を見ると、誰しもどうぞと言ってしまうものだ。

 彼は最終弁論でもするかのように語りだした。

 

「氷切沢さん、男性を選ぶ際に大事なのは、性格を除いて、ルックスと経済力、どっちだと思いますか」

 

「あ……経済力、ですかね」

 

「ですよね。だいたいアンケートで男性を選ぶのに重視するのはぶっちぎり一位が性格、それから三位に大差をつけて二位は経済力、そして三位がルックスなんです」

 

 彼はきりっと凛々しく言い放った

 

「いいですか、よく聞いてください。僕の年収はだいたい120万です」

 

 私は鼻白み、彼の顔をぽかんと見つめた。

 

「あなたは僕の見てくれがどうとかこうとか言っていましたが、じゃあ僕のこの収入額はどう思いますか」

 

 どう思うかと言われても、私の四分の一ですね、とは言えない。

 

「あ……ああ、フリーランスでやってらっしゃるし、最初はそれぐらいじゃないでしょうか」

 

「この年収じゃ、ルックスで相殺どころか、さらにマイナスですよね。性格だって、あんまり褒められたものじゃありません。八割がた引き籠り生活だし、初恋の女子の消息に触れただけで鼻血出すくらいにはキモい性格してますよ」

 

なるほど。

キモい。

 

「糸井さん……思い出を美化しすぎてませんか」

 

「いいえ、実物のほうがずっとエロくて優しくて、僕より稼いでそうでした。この間氷切沢さんが帰った後、氷切沢さんが座ったその椅子に小一時間抱き着いてました」

 

 糸井氏が、この間私が座り、今日もついさっきまで私が座っていた椅子を指差す。

 女には不自由しなさそうなこの顔で、この椅子にハグをかましているのを想像すると実にシュールだ。ハグだけで済んでなかったらどうしよう。いや別にどうでもいいけども。相手は糸井氏の椅子だし。

 こういう話を聞いたら、普通の女子は多分逃げ帰る。いや、糸井氏のこの顔でやれば萌えるんだろうか。

 ギャップ萌えは理解できるが、奥が深すぎてわからないレベルだ。

 

「えっと、私を口説いているのは金と体目的ということですか」

 

「そういうことを言ってるんじゃありません」

 

「何が仰りたいのか全然わかりません……」

 

「僕のルックスのアドバンテージがもしあったとしても、より社会的に重要度が高い要素を加味して僕という人間を判断した場合、かなり不良品だってことを言いたいんです。顔なんて皮一枚の問題だし、年取って肉が弛んで皺が寄ったら、みんな同じですからね」

 

 私はつい、思ったことを正直に言ってしまった。

 

「それ、口説こうとしていた相手に言って、何かいいことがあるんですか」

 

 本当につきあいたい相手になら、普通なら自分の長所を売り込みたいだろうに。

 かおるくん第二形態は、悲しそうだった。

 

「ありませんよ。ただ、氷切沢さんがあんまり自分を卑下するから」

 

「いや、あれは事実なので」

 

「事実じゃないって!」

 

――いいひとだなぁ、かおるくん。

――それに、けっこう残念さんなんだなぁ。

 

 しみじみそう思った。

 私は残念なところのある人にしか親しみを持てない。

 

 かおるくんは、優しい人に育ったのだろう。

 その優しさは、傷ついた相手を引き上げるようなものではなくて、動けなくなっているその場所へ下りていくようなものなのだろう。

 寄席でも、糸井氏は他人のことに心を痛めていた。

 そんな彼に変な自己憐憫にまみれた熱弁をふるってしまったことが、恥ずかしくなった。

 

「糸井さん」

 

「はい」

 

「私が自分をこき下ろすのは、これ以上傷つかないように自分で予防線を張ろうとしているからなんです。そういうのって、自己愛に満ちてて気持ち悪いですよね」

 

 私は斜に俯いていた。

 正直に、ふざけずに自分のことを話すと、相手の顔が見られなくなる。

 

「私は傷つくことがすごく嫌で、怖くて、シニカルに構えてしまう人間なんです。それがもう染みついてしまって、見かけだけじゃなくて、性格も可愛くないんですよ。さっき、私か喋ったの見て、わかったでしょう」

 

「……」

 

 笑って見せようとして、顔が強張るのを感じた。

 本当のことを言うのは、私にとってはなかなかきついことのようだ。

 

「それにね、料理も掃除も、全然できませんよ。そんな女でもまだ口説きたいですか」

 

「甲斐性なしでもよければ、口説かせてください」

 

 糸井氏は侘し気な眼差しを私に向けた。 

 

「僕の見かけが気に入って近寄ってくる人って、僕の人間性とか、僕が本当にしたいこととか、そういうのを一切無視して、自分の勝手な役割とかを押し付けてくるようなタイプばっかりでした……でも、氷切沢さんは僕がちんちくりんだったころから優しかったし、僕がどうであってもこの人なら大丈夫な気がしました」

 

「大人になってまだ二回しか会ってないのに?」

 

「回数の問題じゃありません。フィーリングの問題です」

 

「怪しいなあ」

 

「僕は氷切沢さんを悲しませて屁理屈女にならざるを得なくした他の人とは違いますから」

 

 彼はいたって真剣だったが、私は笑った。

 

「屁理屈女かぁ」

 

 確かにそうだ。

 今、このときも、頭の中でぐりぐりとロジックをこね回している。

 それは、自分の心が動くのを感じて、不安になっているから。

 こんな風に言ってくれた人は今までいなかったから。

 

 私はすぐ近くに立っている彼の手を見た。美しい手だが、指先の皮が厚く、爪は針でできた傷だらけ。

 その左の手を、私は右の手で取り、両の掌たなごころで包んだ。

 

「本当に、大人になってしまったんですね……私も、かおるくんも」

 

「子どもの頃より、僕は今が楽しいです」

 

「そんな感じがします。これから、ちょっとずつ、お互いを知っていきましょう」

 

「え、それは」

 

「お付き合いしましょうということです」

 

 糸井氏の、くっきりと美しい目がぱちぱちと何度も瞬いた。

 

「いいんですか……いいんですか、本当に?」

 

 信じられないように数回、糸井氏はそう呟いた。

 

「私の方こそ、私でいいのか訊きたいです」

 

「いいに決まってますよ!」

 

 彼は声を張り、左手を包んでいる私の両手に右手を添えてきゅっと力を込めた。

 その力のかけ方が、快かった。

 

「これから氷切沢さんじゃなくて、葉子さんって呼んでもいいですか」

 

 かおるくんは目を細めて、実に典雅ににっこりした。

 

 自分のものにできそうだと思った途端、「まあ、いいんじゃない」が「ものすごくいい」に変わる、と恋多き妹が言っていたのが、なんとなくわかる気がした。

 

 その夜、私たちは今更襲ってきた気恥ずかしさに会話を途切れさせながら、駅まで歩いた。

 私はかおるくんとお手手を繋いだ仲にはなったが、異性として好きになってはいないし、彼もそこはラジカルに推し進めようとはしていないので、特に何も起こらないまま私は家へ、彼は彼の暮らすお祖母さんの家へ帰った。

 ただ、駅で別れるときに

 

「今度布団買って、仕事場にも泊まれるようにしますから」

 

と、やたらと熱意を込めて言ってきたのが可笑しいような、困るような、複雑な気分だった。

​七、一科一属一種

 それからは、とりあえず他愛無いメールのやりとりが始まった。

 やはり暇なのか、それとも手縫い作業の小休止か、彼はおはようだのおやすみだの、食べたもの縫ったものの写真だのをしげしげと送ってくる。私は筆まめなほうではないので、一日一回返事をするかしないかというところだ。ここで返事をしろとうるさければ、疎ましく思うものだが、彼は割り切っているらしく、時間があるときに返信をもらえば十分だと言っている。私もメルマガ程度の気持ちで読んでいる。

 どうも彼は、裁縫だけではなく料理の腕もいいようだ。品性卑しい私は彼が送ってきた手料理画像のシズル感に、お料理サイトの画像盗用かと疑ってしまった。それを冗談めかして言うと、次に会ったときかおるくんは、タンドリーチキン薄荷ソースのバゲットサンドを作ってきて私の度肝を抜いた。これにはシャッポを脱ぐしかない。いい主夫になれますね、と感嘆すると、

 

「年収120万の男をもらってくれる人っていますかね。扶養控除の範囲内ですし」

 

と言いながらきゅるんとした目つきをしてきた。誘い受けが鼻についたので

 

「かおるくんならもらってくれる人いるでしょ、その辺に」

 

と返すと、しばらく表情を硬くしていたが

 

「僕、頑張りますから……」

 

と、深刻そうに言い出した。一応つきあっているはずの私になぜ、その辺の貰い手探しを頑張ると大真面目に表明するのかよくわからなかったが、まあ頑張ってください、と返事してみた。

 すると、糸井氏はやにわに私の手を固く握ってきた。

 和裁士の指の力で握り込まれたらさすがに痛いので文句を言った。

 その時、私はいたって無頓着だったのだが、糸井氏は、私の言う「その辺」を「自分の身辺」と解釈し、私に誘い受けされたと判断したことがのちに判明した。

 文殊の知恵は、二人でいても生まれないし、かえってはた迷惑な方角へ進んでいくこともある。

 

 糸井氏とお出かけをするときは、ほとんどきものを着て行った。

 公園を歩いたり、イベントの露店をうろうろしたり、生地屋さんめぐりをしたり、作務衣で里山ハイキングなどなど、とても清らかなものだ。映画を見るときはオンデマンドや有料動画配信サイトの旧作を彼の仕事場のパソコンで見る。飲むときも缶のアルコール飲料を一本飲んで終わり。宅飲みならぬ、仕事場飲みだ。

 そういう一対一の清貧なおデートは、私の人生にはないものだったので、楽しくてこそばゆい。それに、ただでさえきもの姿は人目を引いて面白い。糸井氏を凝視した後、急にきょろきょろし始める人たちもいる。撮影か何かだと思ってしまい、カメラを探しているのだろう。

 糸井氏が目立つと、私はふふん、とうれしくなる。

 

――かおるくんは儂が育てた……

 

と、葉巻を指に都市を見下ろす老獪なフィクサーの気分だ。

 冬の街歩きに、寒がりの糸井氏がきものの上にインバネスを着てブーツを履いてきた日には、気分はステージママそのものだった。

 

 ところが、会う回数が重なると、一つの問題が出来した。

 今のところはただメールをしあったり一緒に出掛けたりする「友達づきあい」だけで、恋だの愛だのの雰囲気ではないと私は思っているのだが、彼はそーっと、初めて小動物に触れる犬のようにボディタッチをしてくる。

 それが不思議と、気に障る。私はその手をぺちんとやる。

 どきどき、とも、きゅん、ともしない。

 ぺちん、なのだ。

 

 その理由を考えてみたところ、一つの答えが私の中にガシャポンコロリと出てきた。

 

 私は彼を男として見ていない。

 趣味友達のノリから前へ全く進めない。

 男だとは認識しているが、私の人間関係の分類を図鑑に例えれば、オトコ科でもオンナ科でもなく「かおるくん」という1科1属1種がある感じなのだ。

 彼が友達の範疇から片足踏み込んで来ようとするたびに、私の中で、まるでペットが勝手にテーブルに上がり、私のお膳に口をつけようとしているような、ルール違反への非難感情が湧き上がってくる。あくまでも、愛のある範囲で。

 ところが、それは私の勝手な線引きであって、そんなもの与り知らぬ彼は困った顔をする。

 先日も肩に手を回されたので、私が

 

「そういうのはだめです」

 

とぱしっと手をやったら、彼はぼそぼそこう言った。

 

「僕たちはもう大人なんですよ? いまどきの高校生でもこんなに清くありませんよ」

 

 それから、私は恋愛向きでない性格であるということを直視せざるを得なくなった。

 糸井氏はちょっとズレた人で、でも真剣に私の屁理屈に向き合おうとしてくれる。意見の相違があっても、角を立てないよう考えて言葉選びをする。

 私はそこが怖い。

 もし、つきあいが長くなって私に飽きても、この人は私との関係を良好に保つ努力をし続けてくれるのだろうか。

 今はつきあい始めのあばたもえくぼな期間で、許容のボーダーが緩くなっているだけだ。

 その舞い上がり期間が過ぎたら、私はこの人とどうやって一緒にいればいいのかわからない。だから、関係を維持できないだろうというビジョンしか持てない。

 思い返せば、これまで好きになりかけてきたどの男とも、惚れたはれたの期間が過ぎ去ったらどうなるのか想像がつかなかった。

 なのに、一緒にいる楽しさと困惑とを天秤に掛けると、圧倒的に前者の方に傾く。だから私は彼と会っている。

 一方、彼の天秤には、人生を救ってくれた女神が付き合ってくれているという膨大なありがたさと、細々した不満少々とが天秤の皿に入っていて、量るまでもないらしい。なお、女神と言ったのは彼で、決して私が話を盛っているわけではない。

 女神は神様なのでお触りはタブーではないかと訊ねたら、バチが当たるなら当たればいいんですむしろ当ててくださいよ、とこれも訳の分からないことを言う。

 

 ある夜、私が仕事から戻り、寝支度を整えてベッドに入ろうとしていると、妹が部屋のドアをノックして入ってきた。

 両手には和服用の桐箱を捧げ持っている。

 

「見て見て、きもの作ったの! すごくかわいいんだよ」

 

「へえ……どんなの」

 

 妹は床に箱を置き、マッサージ座椅子に座った。

 得意そうに箱を開け、たとう紙の紐をほどく。

 出てきたのはネルの単衣だった。ウールの紬などは冬物であっても普通は単衣で仕立てるので、その伝でんだろう。ネルは少し重くて厚いが丈夫で、ノスタルジックなあどけなさとやさしさがある。薄地ほど縫い目が響かないので、ミシン仕立てだと早くて安くてそこそこ仕上がりもいいのだが、このきものにはふんわりとした手縫いの風合いがあった。

 ちょっとうらやましい、私も欲しい。

 

「ミシン縫いじゃないんだ」

 

「うん」

 

 色柄は、鳥の子の地に、葡萄(えび)色の一円玉ほどの輪郭がぼやけたポルカドット。そう、これはまるであれだ。あれ。えーと。

 

「ラムレーズンっぽいね」

 

「そう! このあいだ葉ちゃん、ミントのやつ作ったでしょ。だから私もこういうカジュアルなのが欲しくなって糸井さんに頼んだの」

 

 あの日、帰宅後に相席の客の麗しさをしつこく語る妹に、あの人が実は和裁士の糸井さんで、寄席がはねて妹と別れた後に自己紹介とお礼のご挨拶があったこと、それから小学生の頃の同級生で、ネットオーダーで比較的リーズナブルにオーダーができることを教えると、彼女はネズミのおもちゃを見る猫のような顔で虚空を見つめ、にっと笑った。

 あのとき糸井氏に持った興味を、今も忘れたわけではなかったのだ。

 

「糸井さんに? ネットオーダーで?」

 

「ふつうに電話かけて会いに行ったよ」

 

「え」

 

「葉ちゃん、糸井さんのお礼状持ってたでしょ、あの番号にかけて、氷切沢ですって言ったら普通にオーダー請けてくれたよ」

 

「……それって、私の机の引き出しに入れてなかった?」

 

「状差しの中に入れっぱなしだったじゃん」

 

 きもの箪笥は家族共用で、悉皆屋さんや購入した店のカードやメモが箪笥の横に引っ掛けた鎌倉彫の状差しに入れてある。

 そこに私は、あの薄荷のきものと一緒に桐箱に入っていた糸井氏のお礼状を入れっぱなしにしていたらしい。

 

「梵天花で待ち合わせてオーダーして、受け取りもそこだった。ケーキセット、二回も奢ってもらっちゃった」

 

 妹はうちの近くにある、ちょっと洒落た和風喫茶の名前を挙げた。

 壁際の座敷は間仕切りと透かし格子戸で個室のようになっていて、商談やしんみりした話にも向いている。

 

「糸井さん、ネットオーダーしか請けないって言ってたけど」

 

 人と会うことを避けたいがために、オンラインでしか顧客と連絡を取らない主義のかおるくんが。

 私が好意を持った男が妹に目移りする寂しさを愚痴ったら、自分はそんな連中とは違うと断言したかおるくんが。

 妹と会って、妹のオーダーを請けて、私に黙っていた。

 恋人ではない私が非難できる筋合いではないけれど、少々ショックだった。

 

「でも、あっちが打合せしたいって言ってきたんだよ?」

 

「そうなんだ」

 

「やっぱり、サシで会うとほんとにいい男だったよぉ……運命感じちゃった」

 

 妹は陶然とした面持ちで語りだす。私は胸がチクチクした。

 

「糸井さんの周りだけね、空気が違うの。ほんと、いい匂いがした」

 

「嗅いだの」

 

「うん、ミントっぽい匂い」

 

 私は、彼が無香とハーバルミント、二種の防虫剤を使い分けているのを思い出し、小さく笑ってしまった。

 何笑ってるの、と訊かれて、それ防虫剤の匂いだよ、と答えると、妹は私を軽く睨んだ。

 

「葉ちゃん、なんでそんなこと知ってるの?」

 

「きものの防虫が大変だって話をしたら、糸井さんがそう言ってたから」

 

「ふーん……」

 

 妹はマッサージ座椅子をリクライニングして背中を預け、スイッチを入れた。ということは、十五分間は話につきあわされるのだ。

 モミ玉の振動に妹の声が揺れる。

 

「……私ね、糸井さんにつきあってくださいって言ったんだ」

 

 いつもながら、感心してしまう。この物怖じしない人懐こさは私が持たないものだ。おそらく、私が母の胎内に忘れ物をして、それを妹が全部持って生まれたのだろう。一般的に見るとビッチだが。

 

「ユウトくんは? 別れたの?」

 

 ユウトくんというのは妹の一歳年上の彼氏だ。

どこかの社長の息子で、妹にべた惚れだという。彼のことを妹は自慢しまくって、うちに連れてきたこともある。礼儀正しい堅実そうな男子だった。

 

「別れてはないよ。いざという時の保険で」

 

 妹はぶすっと言う。

 ああ、かおるくんの年収を知ったら、この夢多き女子大生は何と答えるだろうか。

 

「でさぁ、糸井さん、なんて言ったと思う? 妹としてならぜひおつきあい願います、だってさ。妹ってどういうことよ」

 

「妹萌えとかするタイプなんじゃない?」

 

 適当に答えると、妹はしばらく黙ってしまった。

 首筋と肩のほぐしが終わって、モミ玉が胃の真裏の背骨沿いへに動いていったあたりで、妹が私をじっと見た。見えないものまで見透かそうとするような目だった。

 

「ねえ、葉ちゃん、私に何か言うことがあるんじゃない?」

 

「別にないけど」

 

「糸井さんとつきあってるんじゃないの?」

 

「誰がそんなこと言ったのよ」

 

「糸井さんだよ。すっごく真剣な顔して、葉子さんとつきあってますって」

 

「あああ……あいつ何言ってんの……あの、つきあうっていうか……まだ友達っていうか……遊び仲間だよ」

 

「葉ちゃんが糸井さんとつきあってるって知ってたらさ、私だって糸井さんにコクんなかったよ! 恥、かかせないでよね! ああ、もう、この私が当て馬みたいになっちゃってさ……不覚だったわぁ……」

 

 マッサージ座椅子の上でガタガタと体を揺らしながら、妹は大げさに両手を虚空に持ち上げて顔を覆った。

 

「それ、私のせいなの?」

 

「当たり前じゃない! 私ね、姉の男を取りたいとかは思わないわけよ! 実の姉と間接キスとか、姉妹丼とかキショくて死にそう!」

 

 こういう物言いをする妹に、私は血脈を感じる。うちの一族の女性は、しゃなりしゃなりとしていながら結構口汚いのだ。

 

「いや、まだそういうことはしてないから大丈夫。手ならつないだけど」

 

「はあ?」

 

 妹は顔にのせていた両手を降ろし、嘘吐きを見るような目を私に向けた。

 

「ほんとだって。なんかあの人相手だとそんな気にならなくて」

 

「嘘でしょ? 結婚を前提におつきあいしてるって言ってたよ」

 

 私は、げっ、と変な声を上げてしまった。

 

「何それ? そんなの聞いてない」

 

「葉ちゃんが糸井さんとつきあってるの、家では誰にも言ってないって教えたら、寂しそうな顔してたよ。プロポーズもしたのにって」

 

「されてない!」

 

 私の中で、もしかしてあれか、という疑念が湧き上がってくる。

 でもあれは普通プロポーズとは呼ばないし、私は一般論として返事しただけで、「私が」とはひとことも言っていない。

 

「でも糸井さん、大真面目に言ってたもん。愛されてるよね」

 

「ほんとにまだ友達って感じなんだって……困るよ」

 

 妹はため息をついた。十五分が経って、マッサージ座椅子は小さくピッと鳴って静止した。

 

「いいなあ、葉ちゃん。いいガッコ行って、いい会社入って人生順風満帆で、いい男に好かれてさ。私なんか、顔以外とりえないから、ちょっとでもいい条件の男をつかまえないと人生終わっちゃうんだから」

 

「いい男……って、顔だけ見ていい男って決めつけたらだめだよ。和裁士ってそんなに儲からないんだよ? ユウトくんこそいい男じゃないの。よそ見しないでもっと大事にしたら?」

 

「葉ちゃんの収入があれば、男に経済力なんか求めなくてもいいもんね」

 

 やさぐれた調子で妹は言い、座椅子から降りて、ラムレーズンと自ら銘打ったきものを抱えて出て行った。

 私は、おやすみ、としか言えなかった。

八、メドゥサは薄荷の香り

 翌日、私は日帰り出張で直帰が許されていた。

 ばたばたと案件を片付けて、いつもよりずいぶん早く帰りの電車に乗る。

 相変わらず車内は混んでいる。

 会社員の帰宅ラッシュに巻き込まれないよう、早めに家路を辿る子ども連れやお年寄り、学生の群れ。

 乗っている人が違えば、車内に漂う匂いも違うものだな、と思う。

 冬の駆け足な夕陽の中、窓の景色が、商業ビルの群れからごちゃごちゃした古い住宅街へ移り変わっていく。

 烏雀間駅で私は降りた。プラットホームで、大きく真っ白なため息をついた。

 

 糸井氏の仕事場には灯が点いている。今日も部屋にはいるらしい。

 最近、一緒に住んでいるお祖母さんの家に、叔母さんが思春期の子供をぞろぞろ連れて戻ってきて、同居を始めたそうだ。それで居づらくなって、仕事場の滞在時間が長くなったと彼はぼやいていた。

 フリーランスだと高額な仕立ての注文が相次ぐことなどめったになく、収入が上向くのはなかなか厳しい。オーダーが入っていないときは、彼は仕事場で適当な反物や服地を小紋や街着、帯や和装小物に仕立てている。そうやって作り溜めた一点物を、自分のサイトと某有名手芸作品販売サイトで掛け持ち出品し、収入の足しにしている。有名販売サイトから自分のショップサイトへ誘導して、いい集客にもなるので一石二鳥だ。糸井氏はミニマルに生きることを望みつつ、それなりに頑張っていた。

 

 安普請のぺらぺらなドアの向こうで、しゅんしゅんと足踏みミシンの音がする。

 お手頃価格のものを縫っているのだろう。

 古いチャイムを鳴らす。

 ミシンの音がやみ、おもむろに歩いてくる足音がする。

 ドアスコープの奥が暗くなり、チェーンを外す音がした。

 それから、防犯的にとてもお粗末なノブが立てる開錠の音。

 その間、私は何を言うべきか、少し考えている。

 彼がドアを開けた。ドアの隙間から差し込んだ夕陽が、帯のように彼の顔半分を照らして、虹彩が明るく見えた。

 いつでも来ていいとは言われていたが、本当にアポイントメントなしで来たのは初めてだ。糸井氏は驚いた様子で、しかしにこやかに私を招き入れた。

 

「こんにちは」 

 

「あ、こんば……こんにちは」

 

 挨拶がぶつかる。

 仕事帰りにここへ寄るときはいつも夜だから、ドアを開ける彼の顔を見るなり、まだ早いというのについこんばんはと言いそうになった。

 初っ端からもたついている。

 

「お仕事中お邪魔してすみません」

 

「いえ、一段落したところです」

 

 今日の糸井氏は市販廉価品の作務衣を着ている。デニムにフリースの裏がついていて暖かく、仕事場で着けているのをよく見かける。

 作業台脇の足踏みミシンの台に、バーズアイのツイードがのっている。訊くより早く、彼はウォッシャブルツイードでメンズの単衣を縫っていたところだと説明した。

 

「女ものは作らないんですか」

 

「女性のは、もう少し薄手のツイードがいいと思います。おはしょりが浮いてしまいますから」

 

 ミシンにセットされている厚物用の針の太さを眺めながら、たしかに、と納得する。

 私の後ろへ糸井氏が回った。軽く肩に手をかけ、私のコートの生地を少し持ち上げる。

 

「葉子さん、コート掛けときましょうか」

 

「いえ、すぐ帰るので、脱がなくても大丈夫です」

 

 私は一歩前に出て、彼の手から抜け出た。

 そして、ぐるっと振り返って、すげない台詞に面食らっている糸井氏をちょっと睨んだ。

 

「糸井さん、今日はお話があってきました」

 

「……何でしょう」

 

 彼は怒られることを覚悟している犬のような表情をじんわりと浮かべた。こうして見ると、きれいな顔に小学生のころの面影が出てくる。

 もう少し柔らかい口調にしてあげてもよかったな、と思った。

 

「妹に会いましたね。実花に聞きました」

 

 一瞬、彼の目が泳いだ。

 

「あ……はい」

 

「どうして黙ってたんですか」

 

「ご家族であっても、お客様のご依頼について話すわけにはいかないので……」

 

「いつもなら、お祖母様経由とか、ネットのやり取りとかでオーダーを請けるんでしょう? なんで私に黙って、妹と会ってるんですか」

 

「あの、それはやきもちというやつですか」

 

「……」

 

「それだったら大丈夫です、僕は葉子さん一筋なので……」

 

 自分の顔が渋くなっていくのがわかる。

 かおるくんにも論点を外したのがわかったらしく、ちょっと声のトーンが落ちた。

 

「秘密にしてたわけじゃありません、ただ……」

 

「ただ?」

 

「葉子さんのこと、いろいろ聞きたかったので……自分の彼女について、もっと知りたいと思うのって普通じゃないですか」

 

 彼女、ねえ。

 少し胸が痛んだが、その程度の痛みを気にしていたら負けだ。

 

「だったら、妹に訊かないで、私に訊いてください」

 

 納得のいかなさそうな顔を俯けて、糸井氏はごめんなさいと謝った。

 しかし、私の言いたいことは終わっていない。

 

「糸井さん、プロポーズしたとか結婚が前提のおつきあいとか、ありもしないことを妹に言ったでしょう? すごく迷惑なんですけど」

 

 すると、彼は顔を上げ、心外そうに反論を始めた。

 

「ありもしないことじゃないでしょう」

 

「私はプロポーズされた覚えはありませんけど」

 

「僕をもらってくれって言ったじゃありませんか。僕の手料理を褒めてくれたときに」

 

 ああ、やっぱりあれだ。あの時だ。指向性が違えば、こうも意味が変わってしまうのか。

 

「あれはどう考えてもプロポーズじゃないし、私は糸井さんをもらうなんてひとことも言ってません」

 

「またそんな屁理屈を」

 

 美化した思い出を燃料にフィーリングで突っ走って、キスすらしたこともない女と結婚するつもりになっている糸井氏に言われたくない。

 10人いたら10人とも、私の言うことをわかってくれるはずだ。たまにかおるくんのような個体がいるかもしれないので、9.8人くらいになるかもしれないが。

 

「私の何がわかってて、結婚がどうとかこうとか言うんですか。私が屁理屈女なら、あなたは思い込み激しすぎ男でしょ?」

 

 彼はしばらく黙って、また額に手を当てて何か考えていた。頭がいいのか悪いのか、よくわからない人だ。

 駅の方から電車の音が聞こえてくる。

 ちょっと頭を冷やしたのか、彼は私を真っ直ぐに見た。

 

「確かに、いきなり結婚を持ち出すのは、ちょっと順序がおかしかったかもしれません」

 

「ちょっとどころじゃありません」

 

「でも、葉子さんとのことを真剣に考えてるからこそ、いろいろ知りたくて妹さんに伺おうと思ったんです」

 

「だから私に訊いてくださいって」

 

「じゃあ訊きますが、そもそも、僕とのおつきあいって、葉子さんの中ではどういうことになってるんですか」

 

「どういうことって……」

 

「だって、順序を踏もうにも踏ませてくれないじゃないですか。僕たちつきあってるのに、いいトシして手を握るくらいしかさせてくれないってどうなんですか」

 

 目から視線を逸らさず、きりっと訊ねられる。

 ちょっと弱った。適当にごまかせなくなってしまう。

 

「僕のことを何だと思ってるんですか」

 

 これは、いつか言わなければと思っていたことを伝えるチャンスかもしれない。

 私は、この期に及んでもかおるくんを失いたくなかった。男女交際の相手ではなく友人として、だ。彼ほど私を理解しようとしてくれた人間は今までいなかったから。

 それはひどく身勝手なものだとわかっている。長引かせるのは残酷なことだとも思っている。

 だけどきっと、私ならうまく切り抜けられる。

 惚れたはれたの感情を抜いて、楽しくおしゃべりできる関係へ。

 そう変化させるチャンスを、私ならものにできる、たぶん。

 

「糸井さんは、大切なお友達、です」

 

「……お友達」

 

 彼がふっと能面のように感情を消した。温厚だった超弩級美形が、この近距離で表情を消すと少々怖い。

 以前もオトモダチ扱いして不機嫌にさせたことがあるので、ちょっとフォローを入れておくべきだ、と私は判断した。

 

「私の趣味とか、いろいろわかってくれたし、優しいし、大好きなんだけど、……男としては見られないっていうか……」

 

 歯切れの悪いその言葉を、彼は数秒反芻しているようだった。 

 反芻が終わって飲み込んだ彼の目は、奇妙に明るかった。

 

「今なんて言いました」

 

「男としては見られない?」

 

「その前です」

 

「趣味に理解があって、優しい?」

 

「そのすぐ後」

 

「大好き……って、言ったかな……」

 

 そういえば、私からそういうことを言ったことはなかったな、と思った途端、いきなり両肩を掴まれ、次の瞬間、壁みたいなものにぶつかった。

 デニムの作務衣に包まれた、温かく血の通う壁だった。

 視界がみんな、デニムのインディゴブルーに覆われた。

 

「その言葉が聞ければ、今は十分です」

 

 今まではおずおずとした軽いちょっかいだったのだが、こうも大胆になるとは。

 私に好きと言われることが、彼にとっては一つの扉の鍵になったのだろう。

 彼はきゅっと腕に力を籠めた。

 私は生まれて初めて、家族以外の人間に抱きしめられていた。

 驚きと、そこそこの恐怖と、経験したことのない電流のようなものが筋肉の電位をおかしくしたのか、動けない。

 

「僕を男だと思ってないなら、女とでも、それ以外とでも思っていていいですよ」

 

 非常に無理があることをおっしゃる。

 広い胸、しっかりした腕。

 呼吸の響き、心臓の音。

 生身の温かさと、腕に籠る穏やかな力。

 それから、薄荷の匂い。

 防虫剤だけじゃない。この人は、髪も体も、身を薫らせるものはすべて薄荷で揃えている。その中に混じる、ここまで近づかなければ気づかなかった肌の匂い。

 快かった。

 力が抜けそうだった。

 遠足で人知れずけがをして泣いていたあの時のかおるくんは、人の温かさに触れて、こういう気分だったのかもしれない。

 

「いえ、……糸井さんはちゃんと男の人ですよ」

 

 私の口が、訳の分からないことを言い出す。糸井氏は、静かに私の頭に頬ずりした。

 

「わかってるじゃないですか」

 

「いやそれは、生物学的にであって、私の主観的には……ひゃっ」

 

 頬ずりの重みが少しずつ降りてくる。

 着けているスヌードの隙間から、うなじに温かい息がかかり、開き加減の唇が触れた。

 思わず変な声が出て、その自分の声が私をパニックに陥れる。

 怖いような、甘ったるいような感覚に、ぞくっと鳥肌が立った。

 

「……あ、あの、そういうのは……よ、よ、よくないと思います」

 

「どうしてですか」

 

「だって、そ、そういうのは、い、いやらしいじゃないです、か……ね……?」

 

 変な風にどもってしまった。

 自分でも、変なこと言ってるな、と思う。私ったらどんな古い人間なんだろう。

 これまで糸井氏には、すれたことも世知辛いこともたくさん、本当にたくさん喋ってきた。

 恋愛とは遠ざかっているけれど、そこそこ酸いも甘いも噛み分けたはずだし、公私問わず人前に立つこともできるし、仕事においてはそれなりに信任も厚い。だから、かつてひねこびた泣き虫で、今も人と接するのが嫌で和裁士の道を選んだかおるくんをやっぱりどこかしら下に見て、私は海千山千のおねえさんなんだぞ、と無意味に姉貴風を吹かしてきた。

 

 かおるくん第二形態は、これまでそんな虚勢をにこにこしながら聞いていた。

 自分のことを好きとも言わない、常に上から目線の屁理屈女の言うことを、大人しく聞いてくれた。

  

 なのに、なのに。

 全部、耳年増のたわごとだということがばれてしまったではないか。

 どうしてくれるんだ、私の立場はめちゃめちゃになってしまったではないか。 

 頭の中が稼働中の洗濯機のようになっている耳元で、彼が囁いた。

 

「いやらしいと思うからいやらしいんです。僕は自然なことだと思います」

 

 くすぐったさに思わず、首をすくめた。

 でも、笑うようなくすぐったさではない。

 子どものころは友達と囁き声でひそひそ話なんか普通にやっていた。

 なのに、これほどぞわぞわくるものだったなんて。

 今、私は多分めちゃめちゃな表情を浮かべているのに違いない。

 青ざめているのか真っ赤っかなのか、自分でも見当がつかない。

 ひとつ確実にわかることは、私の顔は相当に強張っている。表情を作る筋肉、特に鼻の両脇あたりが筋肉痛になりそうだ。

 だから顔を見られたくなくて、ぐっと彼の胸に顔を押し当てている。化粧が作務衣についてしまうのも構わずに。

 

「あの……葉子さん」

 

「……」

 

 ちょっと咳払いして、糸井氏が言った。

 

「泊って行ってもいいですよ」

 

 ここには布団が一組しかない。

 それはだめだ。やっぱり。

 私は顔を上げた。

 

「いや、それは……」

 

「冗談ですよ」

 

 時すでに遅し。

 顎ががっちり、一日に何時間も運針をこなす指に捕まっている。

 

「葉子さん、愛してます。一生大事にします」

 

「ちょっと……ちょっと待って……」

 

 声に力が入らない。もう目が合わせられない。

 

――ああ、もしかすると……

 

 私が彼を男として見ようとしなかったのは、もし好きになったら恥ずかしくて顔を合わせられないからなのかもしれない。これだけの美形といちゃこらする面映ゆさを思うと、胃に穴が開きそうなのだ。

 せっかくの国宝級美男子に目が向けられないとは、なんともったいないことか。 

 目があったら死ぬ。確実に死ぬ。まるでギリシャ神話のメドゥサだ。メドゥサも女神顔負けの美少女だったというから、あながち変なたとえとは言えないと思う。

 

 私はこの時間が終わったら、……彼の唇が私の唇に重なっているこの時間が終わったら、目を開けるのがこわい。

 もうどんな顔をしていればいいのかわからない。

 

 かおるくんは、いいトシをして目をぎゅっと閉じたまま固まっている私に何度もキスをした。

 そして、半泣きの私に、憎たらしいほどやさしく言った。

 

「いい温泉宿を知ってるんです。今度、一緒に行きましょう」

 

  <了>

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