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シグルドの物語

 

 

Ⅰ. Dr. アーヴィンの初恋について 

 シグルドは、今日付けで職場を追われる。
 私物、主に学術書やサマリーのファイルを入れたずっしり重い段ボールを抱えて職員用通用口から出ると、雪が降っていた。
 病院内はどの季節も一定温度に保たれているため、一歩外へ出ると縮み上がる寒さだ。
 彼は、もともとある眉間のしわをさらに深くしてドブネズミのような色のNYCの夕空を見上げた。


――こんなの、大したことじゃないぜ
 

 それでもやはり溜め息は出るものだ。
 白い息を吐きながら、病院すぐ近くに借りていた小さなアパートメントへ向かう。
 モッズコートのフードを縁取るフェイクファーの毛先に柔らかな雪が絡め取られ、留まる。


――俺は間違ってない
――だが本当に間違っていなかったと言えるんだろうか?
――でも、あの時は間違っていないと俺は信じたんだ!!!!

 

 吠えたいほどの思いだった。

 

 消化器外科医として働くシグルドは30歳になったばかりだったが、生来真面目かつ手技トレーニングをすることが苦にならない性分で腕はなかなか良かった。
 ある日、彼は院内膵腎移植の小児待機者リストに改竄の形跡を見つけ、何かの間違いだろうと思った。
 その一番上にある名は、病状の重篤さ、待機期間の長さで選ばれたものではない。
 この病院を経営する医療法人グループの、筆頭株主の娘だった。
 リスト編纂の責任者である外科部長に訊ねたが要領を得ず、ただ、これでいいのだ、と言われるばかりだった。
 そのことで院長や理事会に食ってかかっても、
「医者も経営意識を持つべき時代なんだよ。君の感覚は『古い』んだ」
と宥められただけだ。
 シグルドはその場はいったん引き下がった。
 しかし彼は納得したわけでは決してなかった。
 マッチングする臓器の提供があった日、シグルドはそのリストを無視し、ある子どもへ膵臓及び腎臓の移植手術を行った。どの病院も引き受けたがらない、医療保険未加入の納税義務免除家庭の子だった。貧しさに受診が遅れて救急搬送されたプエルトリコ系で、家族は明らかに治療費を払えなかった。
 もちろん、首が飛ぶのは承知の上だ。
 彼の職業と給料を彼自身よりも愛していたのは承知していて、それでも好きだった女に振られるのも覚悟の上だった。
 たまに、アフリカ系とドイツ系の混血(ムラート)として、蔑みとまでは行かないが微妙な目つきで彼を眺める人々がいることも、この患者への肩入れに繋がったのだろう。


「シグ、全く厄介なことをしてくれたね」
 各診療科部長と院長、理事長の居並ぶ中、外科部長が重々しく口を開いた。
「君の膵腎同時移植の腕は確かにすばらしい。だが少々慢心してやしないかね」
「慢心ですか」
「君、医師免許があれば、ここをクビになったとしてもすぐに再就職できると思ってこんな真似をしたんじゃないかね? あの子が助かりさえすれば、自分は医師として間違っていない、医師免許の剥奪はされない、とね」
「……」
「お生憎様だが、医道審議会は近日中に君の医師免許の剥奪審議に入るだろう。もう君を雇う病院はどこにもない」
 シグルドはリノリウムの床を青緑色の瞳でただ見つめていた。
 権力とはこういうものなのか。
 白を黒と言いくるめ、恥じることはないのか。
「まあ、君の新天地を見つけて頑張ってくれたまえ……別の業種でな」
 こういうやり取りがあって、結局本日付で懲戒免職の日を迎えたというわけだ。

 シグルドは今夜こそ普段は苦手で飲まない酒でもかっ喰らって、ついぞとることなかった8時間以上の睡眠を摂ろうと決意しながら、雪が積もり始めた段ボール箱をゆすり上げた。
 足は重いが、急がなければ。
 段ボールが溶けた雪に濡れて強度を失う前に部屋まで辿りつけなければ、底が抜けて大変なことになりそうだ。


 そのとき、ミッドナイトブルーのハイブリッドセダンが静かに、シグルドの隣に止まった。
 運転手がそそくさと降りてきて後部ドアを恭しく開けると、車内からオリエンタルな香料が薫った。
 黒ずくめの男が降りてくる。ロングコートと帽子という胡散臭げな紳士の装いだ。
 背はシグルドとほとんど変わらないがコートの上から出もわかる痩せた体で、長い髪を括り後ろで一まとめに垂らしている。
 彼は無礼を許されたものの無遠慮さで、シグルドの前に立ちふさがった。
――何だこいつ?
 よけて通ろうとすると腕を伸ばし進路を遮られる。
 降り続ける雪を透かして、シグルドはこの不躾な相手を睨みつけた。ふざけた野郎につきあえるような精神的状況ではない。
 相手はふっと鼻で笑い声を立てた。
「シグルド、久しぶりだな」
 彼は革の手袋を嵌めた右手で帽子をとりながら言った。
 その瞳の色、そして顔だち。
「18年ぶりになるな……私を覚えているか?」
 思わずシグルドは持っていた箱を落としてしまった。
 ワイマラナーのような色の髪に雪がさらさらと降りかかっている。
「もしかして、お前、……ユストか?!」
 声が裏返る。
 ユストは穏やかに、成人男性の低い声で答えた。
「もしかして、も何も、君の初恋の相手だとも、シグ」
「生きていたのか!」
「ほどほどにな」


 それはある秋の日、小学校の開校記念日でのんびりと休日の朝を庭先で過ごしていたときだったとシグルドは記憶している。
 モロッコ系米国人の父が、陽気に声をかけてきた。
「おいシグ、今日休みなんだろう? 一緒に行くか?」
 車のリアハッチを開けると、心得たとばかりに4頭の犬が乗りこんでいく。
 シグルドの両親は政府認証の協会に籍を置くアニマルセラピストとして働いていて、5頭のセラピードッグを飼っていた。セラピードッグにもいろんな犬種がいるものだが、アーヴィン夫妻の下にいるのはどれもこれも大きな図体をした生粋の雑種だった。彼らが捨て犬の保護施設に入りびたり、犬の様子を見極めてから譲渡してもらったものだ。
 どの犬も大きな口の端をグイッと引き揚げた笑顔がチャーミングで、おとなしくやさしかった。
「今日はどこ?」
 モロッコ系の父とゲルマン系の母の間に、浅黒い肌とやや暗い金色の髪、孔雀の羽のような明るい青緑の瞳を持って生まれたシグルドは、飼われている犬たちと同じく優しく活発で素直な、変声期真っ最中のローティーンだ。
 父は高度医療で有名なとある病院の名を口にした。
「小児病棟の、医者から許可が出た子どもたちとうちの犬をちょいと遊ばせるんだ」
「へえ、年寄りんとこじゃないんだ」
「ドッグセラピストになりたいんだったら、ちびっ子たちとの触れ合いを見てみるのもいいもんだぞ」
 終末期医療施設や高齢者、障がいをもつ者たちのケアハウスへは今まで数回シグルドも行ったことがある。しかし、この近辺の小児病棟のドッグセラピーは学期中のウィークデイに開催されることが多い。だから子ども相手のセラピーは初めてだ。
 今日は一頭、一番高齢の犬が股関節の手術をするため母が病院へ連れていくことになっていて、アーヴィン家からは犬4頭、ハンドラー1人体制だ。アシスタントも欲しいのだろう。
「うん、行く。服はこれでいいかな」
 息子のよれよれに伸びたTシャツに父は顔を顰めた。
「もちっとましなのに着替えて来い!」
 彼がハッチの窓から中を覗き込むと、犬たちは一斉に尻尾を振って歓迎した。皆、嬉しくてたまらないといった様子で舌を出していた。

 病院へ着くと、まずやることがある。
 清潔に気を遣っていてもやはり、獣は菌やウイルスを運ぶ存在なのだ。再度犬にブラシをかけてから体表をしっかりとタオルで拭き、四肢や局所を丁寧に消毒する。
 それが終わってから、裏口から看護師や協会のコーディネイターに案内されて、ドッグセラピーのために椅子や机を取り払われた広く明るいボランティアルームに素早く入る。動物に対するアレルギーを持つ者や犬を嫌う者、犬との触れ合いを許されるような状況ではないのに触れたがる者たちに姿を見られないためだ。
 今日は他からも小型犬・中型犬が来ており総勢9頭の賑わいだった。とはいえどの犬もきちんと躾が入っており、友好的で静かなものだ。
 ボランティアルームは床から椅子に至るまで、ダークグリーンの不織布に覆われていた。衛生上、セラピー終了後の清掃を容易にし、獣毛の付着が分かるようにしているのだろうが、ここまで清潔にこだわっている施設は初めてだった。
 父は言った。
「子どもには小型犬が人気なんだよなあ。抱けるし膝にのせられるしな」
「うちの犬でかいけど?」
「だからお前がいると助かる。お前みたいな子どもが犬をべたべた触って安全だというのが分かれば、落ち着いて触ってくる」
「俺、子ども?」
 シグルドの背丈はあまり父と変わらない。
 それでも何を嗅ぎ取るのか、子どもは自分と年が近い人間に親近感を抱くものなのだ。
「全然問題なしだ」

 短い打ち合わせが終わると、看護師や付添いの親に手を引かれ、あるいは車いすやストレッチャーに乗って子どもたちはやってきた。
 医師に体調や病状、性格や両親の許諾などで「厳選」された子どもたちだ。ガードルスタンドをがらがらと従え、尿道カテーテルをぶら下げた子もいた。
 彼らは犬を見ると、口々に「犬だ!」「わんわん!」と声をあげた。
 喜んで手を伸ばして触れたがる子もいるにはいたが、それは三人程度だ。皆、健康状態の悪さからペット類を遠ざけられ、犬に触れる機会を持たなかった子がほとんどで、彼らは手を引く母親や看護師、医師に
「わんわん!」
「触っていい? 噛まない?」
「バイキンは大丈夫?」
と訴え、この場にいる顔見知りの子どもと不安げな目配せをした。
 ハンドラーや看護師、親が
「大丈夫だよ、ほら」
と犬を触って見せ、その笑顔に背中を押されて子どもたちもおずおずと手を伸ばす。
 どの犬もその手を頭や背に受け、優しく鼻づらで挨拶する。
 シグも、鼻に挿管した7歳だという女の子に、知人にハンドラーを頼んでいるアーヴィン家の犬、フォーン短毛のマギーを触ってみるよう促してみる。犬はにこやかに尻尾を振りながら、黒くむくんだ小さな人間が触れてくるのを待っている。
 女児は、犬にこわごわ触っていたがみるみる笑顔になり、慣れてくると大きな首に抱きついたり、大きな前肢と握手したりとこの穏やかな動物とのふれあいに喜色満面だ。

 

――いいよなあ、こういうのって
 
 老若男女変わらぬこの屈託のない笑顔。
 シグルドは父や母、可愛がっている飼い犬たちの仕事を誇りにしていた。当然、大人になれば自分も、という思いがある。
 そして12歳の彼は、歳のゆえか少しばかり自分の能力を過信しているところもあった。
 マギーを見ている間、自分が任されていたレトリーバー系の黒犬、ゼノビアがふとドアに注意を向け右に左に首を傾げた後、とことこと歩き出した。

「シグ」
 周囲にいる犬や子どもたちを緊張させないよう、小声で父に呼ばれ、叱責の眼差しを向けられて慌てて彼は立ち上がり、ゼノビアの後を追った。
「ゼノ!」
 ゼノビアは振り返ってシグの顔を見上げ、尻尾をパタパタと振った。
「こっちに来い」
 犬は命令に従おうとしたが、そのときドアの向こうから小さな声がした。
「おいで」
 ゼノビアはその場で声の主とシグの顔を交互に見て困った顔をした。
 普段ならすぐに命令に従うゼノビアがこういう反応をしたのは初めてだ。
 ドアの陰から、血の気のない、蝋で作ったような骨ばった手がこの黒い犬に差し伸べられる。
 そのときドアの陰にいる相手の顔が見えた。
 
 年のころは8歳くらいだろうか、今にも倒れそうで、ひょろひょろしたスプラウトのようだ。ワイマラナーの毛色をもっと濃い青に寄せたような髪を幽鬼のように垂らし、痩せこけて青紫色の目ばかりぎろぎろと光っている。
 なのに、奇妙に気おされる何かがある。
 相手は犬だけを注視して、こちらに一瞥もくれていないのに、だ。
 線の細い、神経質そうな顔だちで少女だか少年だかわからない。
 しかし、細い襟足に掛かった髪や睫毛の影の濃い切れ長の目にシグルドは今まで感じたことのない電気のようなものが背筋にぞくっと走るのを感じた。
 何と声をかけていいか、頭の中は真っ白になっている。
「えっと……あの、」
 立ち尽くしたシグに業を煮やし、すぐさま父が飛んできた。
「何やってるんだお前は!」
 そのとき、廊下の向こうから激しい声が飛んだ。
「いけません! ユスト様!」
 怒号というより、悲鳴だった。
 ユストと呼ばれた子どもははっと身じろぎし手を引っ込めた。
 大柄な看護師がばたばたと走ってくる。
 すぐさま彼女は「ユスト様」を抱え上げた。細い手足がだらんと諦めたように垂れる。
 彼女は犬にしっ!と近寄らないよう威嚇の摩擦音を出し、シグルドと父を睨みつけた。
「お部屋から出てはいけません! さあ戻りましょう」
 それを聞いているのか聞いていないのか、人形のように連れていかれながら、その子供の目はじっとゼノビアに注がれていた。

 帰路の車中、父は黙りこくっていた。
 シグルドもぼんやりと窓の外を見ている。
 
 あの病院は高度医療を行う機関だ。重篤な、あるいは特殊な事情を持つ患者しかいない。
 絶対に対象外の患者と接触させてはならないと厳命されていたのに、何という失態か。

 さらに、父はシグルドには言っていないことがあった。
 あのドアの向こうにいたのはVIPもVIP、あの病院の大株主のさらに上の上の上の、とにかく計り知れないほどの雲上人の一人息子だったという。
 特別フロアの無菌室に普段いるのに、どうにかこうにか抜けだして犬を見に来たようなのだが、これが知れたら、このセラピープログラムに関わった医療関係者一同どころか、院長や理事長に至るまで一斉に首が飛ぶ。
 父は何度目かの溜め息をついた。
 息子も自分の失態がショックなのか、受け答えが今一つ呆けたようになっている。
 それから数日、アーヴィン家は沈鬱の限りを尽くした。

 しかし、二日後、一報が入った。
 あのお坊ちゃんが怒って暴れたというのだ。
 今までせいぜい痛みと苦しみに涙ぐみつつ、ひょっとしたら死んだ方が一瞬で終わっていいのかもしれないという諦念を見せていたおとなしいベルクリードの総領息子が、今回の顛末を知り、突然点滴を引き抜き、ベッドサイドモニターを体当たりでひっくり返して暴れたという。
 彼は
「たまにやりたいことやるとこの始末か」
というようなことを喚き散らして人事不省になったが、目を覚ますとすぐに自分に甘い父親にホットラインで連絡を取り、あざとく父への愛を訴えて今回の件を不問にするという約束を取り付けた。
 この頃からもう、彼は媚を誰に売るべきかわかっていたのだろう。


「で、よかったらまたゼノをあの若いのに連れて来てほしいんだそうだ。24時間いつでもいいからだとさ」
「若いの?」
「シグのことだろうよ」
 協会の渉外担当に事の次第を電話で伝えられ、シグルドの父は安堵でソファにへたり込んだ。
「……しかしあの坊ちゃんは、犬と遊べるようには見えなかったぞ」
「見ているだけでもいいそうだ。子どもは子どもだ、やっぱり寂しいんだろうな」


 その翌日、シグルドは学校から帰るとすぐに新しいシャツを着けてよそ行きの革靴を履き、あの病院へ行った。
 少々しゃちこばって一般人はめったなことでは入れない特別フロアのロビーに通される。
 硬さと柔らかさが程よく調和した、ウォッシャブルとラグジュアリーを両立させるとこうなるという見本のようなソファーに腰かけていると、ひたひたと足音が近づいてきた。
「足労をかけてすまない」
 あのシャルトルブルーの髪、青紫の色の瞳。
 鈍いグリーンの患者衣の中でだぼだぼと細い身体が泳いでいる。
 慌てて立ち上がると、件の子どもは中手骨が浮きだした手を軽く上げて制止した。
「ああ、そのままでいい」
「でも」
「いいから」
 腹に力がこもらない声だった。
「私はユスト・ベルクリードという。君は?」
「シグルド・アーヴィン……です」
「療養中の身だ。非礼ながら握手は控えさせてもらいたい」
「いえ、非礼とかそんなことはないです。先日の俺の方が、本当に不注意で」
 ユストはソファの背もたれを掴んで体を支えながらゆっくりと斜め右前に座った。
 父や協会側、果ては病院のスタッフにまで、ユストに失礼のないよう重々言い聞かせられたシグルドは、何をどう話してよいかわからない。
 無表情にユストは言った。
「ああ、普通に喋っていい。私はただの不用意ながきんちょなんだから」
「不用意……?」
「私が犬を見に行ったばかりに、君や関係者一同には迷惑をかけた。すまなかった」
 年を食った口調で、真っ直ぐ目を見て言われると、シグルドは多大な違和感と少しばかりのこそばゆい気分を覚えた。
「……今日は体調は?」
「ほどほどにいい」
「よかった」
「ところで、今日は犬は?」
 余程犬を楽しみにしていたと見えて、ユストはあたりをぐるりと見回す。
「すまん、今日はまだ無理だとスタッフに言われて」
「じゃああの犬は君の家にいるのか?」
「いや、今日は高齢者施設に行ってる」
「そうか」
 ユストは少なからずがっかりした様子だった。
「これでよければ、見るか?」
 シグルドは持って来ていたタブレットをキャンバスのバッグから取り出し、保護施設から引き取った頃から自宅での最近の様子まで、犬の画像や動画を表示して見せた。もちろんこのバッグもタブレットの中身もざっと検閲・消毒済みだ。
 ユストは非常に興味を持った様子で、犬の名前やその行動の持つ意味など逐一質問し、シグルドは律儀に一つ一つ答えた。
 健康以外何不自由なさそうな相手が自分のテリトリー内のものに興味を持つのは嬉しかったし、奉仕の精神と少しばかりの優越感もくすぐられて悪くない気分だ。
 そうやって、動画を選んではいちいち再生して見せる、というのを三回繰り返すと、ユストはめんどくさそうに言った。
「ここからだと見にくい。隣に座って見せてもらってもいいか」
 ユストがよろめきながら立ち上がろうとするのを、今度はシグルドが制止する番だった。
 彼は立ち上がり、相手への労りと年長者の余裕を見せようとユストの隣に座った。
「失礼するぞ」
「全く失礼ではないぞ」
 隣に座ると、重たげな香りが鼻を掠めた。
 第二次性徴期を迎える前の子どものあっさりした匂いに、何か妙に男っぽいような、子どもに似合わぬ香料の匂いが被さっている。
 妙な顔をしたシグルドにユストは身を引き加減に訊ねた。
「何か臭うか」
「いや、香水か何かつけてるのか?」
「マートルとサイプレスの精油だ。鎮静と痛み止めの効果があるらしい」
 サイプレスは男性用香水によく使われる。
 シグルドには少し抵抗を感じる匂いだった。
 それがまた顔に出ていたのか、ユストはシグルドに言った。
「知ってるか? 人間の腹の中は臭いんだ。人間なんて、血と肉とうんこが詰まった袋だ」
「あ、ああ……」
「精油は嫌いじゃない。イレウスの処置されたときの臭いが染みついて取れない気がするから臭い消しに」
「イレウスって何だ?」
 少し眉根を寄せられ、シグルドはそれ以上聞くのをやめた。
 ユストはしばらく黙って犬の動画を見ていたが、しみじみと言った。
「……いいなあ」
「……」
「私も何か飼いたい。こんな風に私の後をついてきて、腹を見せてじゃれてくるようなのが」
「お前んち金持ちなんだろ? 退院して元気になれば犬でもなんでも飼えるんじゃないのか?」
「……私は、元気になるんだろうか」
 ユストは憂鬱そうに呟いた。
「なるさ!」
「そんな気がしないんだ」
「なるって! そしたらうちに遊びに来いよ。犬見せてやるから」

 ユストに気に入られたその日のうちにシグルドの顔貌と声紋がデジタル登録され、彼はその病院の特別フロアには文字通り「顔パス」となった。
 MTBに跨ってちょこちょこと病院へ通う。
 ユストの体調や治療のタイムテーブルによっては門前払いを喰らうときもあったが、運がよければロビーで話が出来た。待っている間宿題を解いていると、背後からいつの間にか来ていたユストが答えと解法をすらすらと口にすることもあり、舌を巻いた。
 彼はユストと話すうち様々なことを見て、聞いて、知った。
 
 8歳くらいに見えていたが実は10歳で、シグルドの二つ年下であること。
 生まれたころから何度も様々な臓器の手術を受け、二年ほど前の大手術でここのところしばらく死にかけていたこと。
 病衣の襟の開きからちらりと見えた大きく酷い手術痕……サーモンを捌くように大きく切り開かれても、適切な処置さえ受けられれば人間は生きていられるものだということ。
 そして、人が突然完全に意識を失うと、受け身も何も取れずに派手な音を立てて頭を打つような倒れ方をするのだということ。
 更に、駆けつけてきた医師の脇でただ見ているだけの自分の非力さもだ。
 子どもだから仕方ないのだが、自分で自分にそう言い訳するのが辛い。

 住む世界が違うとはわかっているのだが、こうして隣に座って他愛無い話をしているだけで、シグルドは楽しかった。
 時折ただでさえなまっちろい顔をさらに蒼くして部屋へ戻ってしまったり、入院患者によくあるイライラした口調でぷいと席を立つこともあったが、ユストも犬の話や一般的な子どもの世界について聞くのを面白がっている様子だった。

 そんなある月末、ユストが言った。
「もう明日からは来なくていい」
「は?」
「私は来月から自宅療養だ。それに向けてすることがたくさんある」
 シグルドは、驚いてユストを見つめた。
 いつもと変わらない、表情に乏しい白い顔だった。
「退院、ってことか?」
「まあ、そうなる」
「よかったじゃないか! おめでとう」
「いいことなんだろうか」
「いいことに決まってるだろう? 家族と一緒に暮らせて」
「言ったじゃないか、両親はだいたい家にはいないし、きょうだいもいない」
 ユストはいつものロビーのソファーに背中を預け、白い天井を見た。
「うちにはな、ヒステリーくそ女の侍医がいるんだ。小規模な病院くらいの設備ならあるし、入院してるのと大して変わらん」
「すごいな、お前んち」
 感嘆をよそに、ユストは震える溜め息と共に続ける。
「もう、シグから犬の話も聞けないな」
「動画とか画像なら送るぞ」
「そういうのはちょっとやめておこう」
「何で」
「何でもだ。ここはうちもそともセキュリティがしっかりしている。だからここでならこれでよかったんだ」
「お前んち、セキュリティくらいちゃんとしてるんだろ?」
「セキュリティはいいがコンプライアンスがない。家族と犬と、今まで通り幸せに暮らしたいなら、これですっぱりお別れだ」
 シグルドにはユストの言っていることが分からなかった。
 ただ、この小さな体で病に苦しみ、世の中を諦めてしまっているようなユストを見ていると、シグルドは苦しい気持ちになった。

 彼は、すぐ横にある青白い頬につと、キスをした。

 一瞬呆気にとられてこちらに顔を向けたあと、口をへの字にして迷惑そうに病衣の肩にキスされた頬を擦りつけるユストに、彼は言った。
「俺、将来医者になる」
「……」
「そして、お前がまだ病気だったら俺が治してやる。犬を飼えるように」
「ドッグセラピストになるんじゃないのか?」
「医者の方が給料がいいだろ?」
「なんだ、金で選んだのか」
「だいたいお前みたいな金持ちの子とまともにつきあおうとしたら金持ちになるしかないだろうが!」
「バカみたいだな」
 そう言いながら、選ぶ自由があるだけ羨ましい、とユストは思った。
 シグルドはぶすっと答える。
「悪いか」
「変なやつ」
「今日が最後なのにそういう言い方ってないだろ?」
「変なやつを変なやつと言って何が……」
 そう言い終わる前に、今度は薄く白っぽい唇に、温かい少年の唇が一瞬だけ触れた。
「!!!!!!」
 切れ長の目をまん丸くなるほど見開いているユストに、こちらのシグルドも自分のとった行動が一瞬信じられないような、驚いた顔をした。
 そして二人でしばらく黙った後、彼は照れ臭そうに言った。
「俺さあ、ユストとできるだけ一緒にいられたらと思ってるんだ。金とかそんなの関係なしに」
「……」
「俺一生懸命働くし、……結婚とか、真面目に考えたりとか」
 ローティーンの暴走は奇妙な方向へ向かおうとしている。
「……あのな……」
 いつも落ち着き払っているユストがいきなり周囲を見回した。
「今まで黙っていたが、ここはカメラで監視されているんだぞ」
「あ、それはだいたいわかってるっていうか、病院なら……うん」
 常に鷹揚で感情らしい感情を見せたことがなかったユストはそのぼやけた答えを聞くと顔を真っ赤にして怒りだした。
「親に見せられるかもしれないんだぞ!!!」
「……」
「ゲイかって真顔で聞かれて泣かれる!! 最高にうざいんだぞ、うちの親は!!!」
「は?」
「命を大切にしろ、ばかもの!!」
 ユストの怒りよりなにより、シグルドの頭の中で変な音のアラートが鳴り響いた。
「今、ゲイって言ったか?」
「言った」
「もしかしてお前……男だったのか?!」
 ユストはみるみる呆気にとられた顔をした。
「は??? 私は男だぞ? 今まで知らなかったのか?!」
「……うん」
「あり得ん!!! ユストって男の名前だろうが! みんな私のこと話すときHeって言ってただろう!」
「そういうこともあるんじゃないかと思って!! うちの学校にも男名前の女子うじゃうじゃいるしボク女とかオレ女とかいてHeとか呼ばせて喜んでるし」
「見た目で普通分かるだろう?!」
「わからなかった……その、可愛かったから」
「はあ?!」
 一瞬毒気を抜かれたものの再び怒りが込み上げてきたのか、ユストは袖で口をごしごしと擦って叫んだ。
「帰れ!!! 貴様とはもう口を利かん!!! 私はゲイでもオカマでもない!!!!!!」


 薄汚い路地を抜けたところにひっそりと佇む、緑に囲まれ都会の喧騒から切り取られたような料亭。
 マンハッタンにこんなところがあったのか、と思うほどの静けさだが、よく見ると庭園や建物の陰に大きなノイズコントロールスピーカーが隠されている。これで雑音を徹底的に消しているのだった。
「私のファーストキスを奪い結婚を申し込んだ君がちゃんと外科医になっていて私は嬉しい」
 シグルドには大吟醸のもっきり、自分は軟水のデキャンタをオーダーして一口飲んだ後、ユストは快活に喋った。
 雪見障子から見える見事な松に積もる雪を、灯篭の明かりが仄かに照らす。
 床の間にはポンポン咲きの菊や観音竹が飾られ、葦手書きが所々入った大和絵の軸がかかっている。
「腕も随分いいそうじゃないか」
「そうでもないぜ。まだ上には上がいる」
「謙虚でないと医師の世界はやっていけないらしいな、シグ」
 こと仕事において、上へ登れば登るほど才能への嫉妬は性質が悪くなる。ユストはそれをよくわかっているようだ。
「お前、変わったな」
「18年も経てば変って当然だ」
 幼い頃の鷹揚さとどことなくエキセントリックなところはそのままに、鹿爪らしさは随分と社交的な態度に変わっていた。
 顔色はまだまだ青白いがあの頃よりは随分良く見える。
「君はそのけったいな髪型以外はあまり変わってないな」
「床屋で『小洒落た感じにしてくれ』っていったらこれにされた」
 シグルドは刈上げツーブロックの金髪をポニーテールにまとめた頭を撫でた。
「ガラ悪いぞ?」
「ほっといてくれ」
 まったく、ヘアスタイルだけが下町でミュージックプレイヤーを肩に載せて恐喝でもやっていそうな雰囲気だ。
「……お前、昔は女の子みたいだったのにな」
「今はどう見える?」
「随分デカくなったし、もう女とは見間違えない」
 ははは、とユストは笑った。
 あの頃は笑っても腹に力が入らない感じだったのだが。
「この身体はハリボテなんだ、ドクター・アーヴィン」
「……」
「ヨーロッパではな、一定以上の身長が育ちの良さの指標になる」
「ああ、聞いたことがある」
「私は病身で背が伸びるなんて絶望的だったんだが、両親にとっては自分の息子がチビだというのが許せなかったらしい。けったいなものをなんやらかんやら投与されてできたのがこれだ」
 ユストはぽんぽんと胸を叩いて見せた。
「中身はポンコツなのに、ガワはなんとか育っただろう?」
 青絵や赤絵の高価そうな小鉢に様々な料理が少しずつ盛られ、ずらりと並んでいる。
 小さな素焼きの鍋に火が入れられ、煮えてきたところで着物を着た店員が、もうようございます、と二人に勧めた。
「何だ、この肉は?」
「パルヴィフォルミスだそうだ。ほら、この小鉢、これも内臓の湯引きだ。滋養強壮にいいぞ」
「パルヴィフォルミス?」
「日本のすっぽんだ。君は日本かぶれなんだろう?」
 鍋の中の肉は、さすがに亀の原型が分からないように捌かれていた。
 シグルドは目の前の男に訊ねた。
「調べたのか? 俺の所在も職業も、嗜好も知ってるときたか」
「まあな」
「俺がクビになったのも?」
「ああ、大変だったな」
「それがどうしてなのかも知ってるんだな?」
「もちろん。そのせいで女とも別れたんだろう? ははは、あんな浪費女とは別れて正解だったぞ。私生活の方も目も当てられん始末だな」
「……」
「君は本当に女を見る目がない。変な女に引っ掛かったのはこれで4人目だったか? 懲りんやつだ」
 ぐりぐりと真新しい傷を抉られて、シグルドはもじゃもじゃの太い眉を顰め、もともと刻まれていた眉間のしわが深くなった。
「何が目的だ。旧交を温めたいとか、そんなタマには見えんぞ」
「いや本当に旧交を温めたいんだ、シグ」
 ユストは目を細めた。
「私は、ファーストキスの相手が君でよかったとつくづく思ってるんだ」
「は?……どういう意味だ? まさか」
「ああ、安心しろ。昔も今も、私は男を口説く趣味はない」
「じゃあどういう意味だ」
「くっそムカつくホモペデラスティじじいがセカンドだったからだ。あれがファーストだったらと思うと、君の方が数兆倍ましだ」
「……」
「……なぜ黙る」
「……その、なんだ……お粗末様だったな」
「まあ、ファーストが女だったらさらに数京倍よかったが」
 シグルドには、あまり思い出したくない話だった。
 ユストにはさらに嫌な思い出だろうに、ちょっとした笑い話のように話す。
 冗談めかして言っているが、シグルドはこの財力と権力に守られているはずの知人があまり幸せな道を歩いているのではないように思えた。
「そんな与太話をしにきたのか?」
 笑顔のまま、義人(ユスティス) の名を持つ幼馴染は本題を切り出した。
「もうひとつ話がある。私は君に個人的に仕事を斡旋したい。君のような『公正さ』をわかっている優秀な医師が欲しいんだ。そこでなら、君の正しいと思うことをやれるはずだ」
「……」
「もし話を呑むなら、ガルボーのことも、医師免許のことも私が何とかしよう」
「それが今日のお食事会の目的か。話が旨すぎるな」
「失業中のクワック(外科医の蔑称)一人くらい騙くらかしてもたかが知れている。信じられなければこの話は蹴ってもいい」
 小鍋の下で燃えていた炭が白みを帯びてくる。
 ユストは湯気の向こうでげっそりと憔悴した様子の、かつて子どもの世界を垣間見せてくれた男を眺めた。
「とにかく、食え。体力をつけろ」
「……」
「……箸を持ってくれ、シグ」

 車でシグルドのアパートの前まで送った別れ際、ユストはシグルドに訊ねた。
「君は、今は犬を飼っていないらしいな。もう飼わないのか?」
 シグルドは、ユストお抱えの運転手があの重いダンボールを自分の部屋の前に運び、静かに置くのを貧相なアパートのスチールの階段越しに眺めた。
 彼のコートの大きなポケットには、とある島にある病院に関するデータ、そして移住に関する法的手続き書類一式が入った記憶媒体と、誰が作ったのかひどく稚拙な文章の観光・移住勧奨パンフが入っている。
 酒にあまり強くないシグルドは、もっきり一杯で口調も態度もくだけてきていた。
「ああ、仕事柄ちゃんと世話ができんからな。まともに世話が出来んやつは飼う資格がない」
 全くの正論だ。
 ユストは疎らに降りかかる雪の中、楽しそうに言った。
「私は飼っているぞ。かなりの珍種を」
「へえ、品種は何だ?」
「狼だ。黒くてでっかいやつだ」
――犬じゃないじゃないか
 しかし、狼を飼っている人間もちらほら見聞きする。そう驚きもせずシグルドは訊ねた。
「躾が難しいやつだろう? 大丈夫か? トレーナーがついてるのか?」
「確かにちょっと頑固だがトレーニングは完全修了だ。ともすると私が彼に躾けられる」
「彼? オスか」
「ああ、そうだ。彼は最高の親友なんだ。血統のいいメスも見つけて、今花嫁修業中だ」
 ユストは自慢げだった。
「なあ、シグ。キュールに来れば、私の自慢の狼たちを見せてやるぞ」
 肉の薄い白皙の顔に、シグルドは幼かった頃のユストの面影を見た。

 これが2年前、王立病院外科部長、Dr.アーヴィンがこの村へやってきた顛末だった。


              <たぶん続く>

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