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花守の足跡

 

 

Ⅰ. 古いピアノと変わり者 

 才能、というものは何かと引き換えであることもある。
 それは健全な精神や健常な肉体であったり、人間としての幸せであったりする。

 その才能の持ち主を掬い上げるための場所がここにある。

 ここ数年、異常気象に起因する食糧難で世界中が食糧の奪い合いに参加していた。
 一触即発で、戦争になってもおかしくないのだが、食い詰めても高楊枝で世界のスーパーパワーは必死にすまし顔を作っていた。
 日本ももちろんそうだった。
 食糧が手に入らなくなれば、他の物資も連動して入手困難になる。
 政府は領海中のレアメタルを引っ提げ、綱渡りの外交で必死に食いつなごうとしていた。

 そんな世相で、様々な理由から刑を受けるべき存在となってしまった者の中から様々な分野のスペシャリストを集めた国立の研究施設NIAが、表沙汰にされないプロジェクトの一つとして設立された。

 突出した才能を持つ者の中には、物理的にも精神的にも他者を傷つけ、チームを崩壊させてしまう圭角の持ち主もいる。
 要するに、通常の研究施設ではうまくやってはいけないが、学才だけはあるという連中をここへ実験的に集めてみたのだ。

 

 全国に数カ所設置された受刑者収容研究施設のうち、ここ中四国支部は医学部門、そして様々な動物、主に家畜などの有用動物に関する動物バイオテクノロジー学部門、主に現在の食糧難対策として期待されている植物学部門の実学3部門が設けられ、行き場を失くした才能の持ち主たちが吹き溜まりのように集められて、一般枠で公募された非受刑者である学者たちと共に研究に邁進していた。

 

 本来、ここは植物学を主眼に設置され広大な研究試験林を擁しているのだが、その森をうろちょろする野生動物の研究にはうってつけで、またお互い実験動物や試料のやり取りがしやすいという理由で、動物学部門の、特に畜産を中心にやる連中が研究室を獲得し、さらにその検査機器を共有するメリットを謳って、臨床医学研究部門が設置されることになった。
 何ともみみっちい話だ。
 それなのに今は医学部門が一番の人数と予算を抱える大所帯となり、次は他の支部には置かれていない動物学部門、そして元々の植物学部門はちんまりと研究棟の端に陣取り、ほとんど温室やフィールドワークに励みつつ、半ば追い出され組のような様相を呈していた。

 

 そんなNIA中四国支部でのある夜のことだ。

 

 深夜の喫煙室で、本日の長い長い勤務を終えての一服。
 ここには数億から数十億円単位の実験用機器が揃ってはいるのだが、さすがにこのご時世同じ機種を数台そろえるわけにもいかず、利用したい研究者が重複してトラブルを招かぬよう事前のリザベーションが必要だ。ところが事務の連中が作ったタイムテーブル一覧表にミスがあり、予定がいろいろと狂ってしまったのだ。
「結城さん、面白いこと聞いたんだけどさ」
 斉藤義明が赤い髪を掻き上げながら言った。
 彼はれっきとした男性ではあったが中性的な外見で、長い赤毛をいつもハーフアップにしてピアスをじゃらじゃらとつけている。医師だというのに金品目的の詐欺罪で刑に服すも、ここでは自由闊達かつマイペースに居心地良く過ごしているようだ。
「今度植物組に新人が来たじゃん?」
「ああ、来たみたいだね」
 紫煙の向こうで疲れた顔の結城常葉がそれがどうしたという顔をする。
 結城は非常に珍しい、男女の性徴を完全に兼ね備えた両性具有者でバイセクシャルだ。白系ロシアの血でも入っているのか生まれつき色素が薄く、目の色も日本人離れした橄欖色で、長く伸ばした髪も灰色がかっている。ドラマティックすぎる容姿は「まるでネタのようだ」と囁かれるほどだ。噂では男女問わずかなりの人数を食いまくっているというが、さもありなんという恵まれた容姿と恬淡とした性格だった。
「そいつ、植物アルカロイドが専門だったって」
「へえ」
「これはグッドニュースじゃないかなって」
「どこが」
 このアンドロギュヌスは心底興味なさそうだ。一方隻腕のトリックスターは自分のアイデアに、猫属を思わせる目を楽しげに細めている。
「ふふふ、結城さん。今貴方の咥えてる煙草も、アルカロイド含有植物だよ」
「だから?」
「そいつきっとここでタバコ試験栽培するよ!その葉っぱで煙草作ってもらおう!いい考えじゃない?」
 煙草というものは純粋に嗜好品である。
 なくても死なない。
 ゆえに、この食糧難の時代、もともと多くはなかった国内でのタバコの作付面積は雀の涙ほどになっている。
 この国難ともいえる状況下で、安い外国産の煙草を輸入するよりもやはり食糧を輸入する方を優先するのが自然で、煙草はほんのわずか、贅沢な嗜好品として出回り、高率のたばこ税がかけられている。
「用途がアカデミックだからたばこ税ただだし、そもそも材料費も研究費から出るからただだし。そいつも研究できて、俺たちも煙草を手に入れられて一石二鳥!」
 そんなにうまくいくものか、と結城は思った。
 その最近赴任したという植物学者については少々扱いにくい気性だと聞いている。
「あれ? 結城さんなんかノリ悪くない?」
 斉藤は活き活きとしている。
 結城は黙って煙草を灰皿の縁でとん、と軽く叩いた。

 その二日後、結城は職員の食堂で夕食を摂った後、娯楽室へぶらぶらと向かった。
 この娯楽室ではいつも数人がビリヤードや卓球、テーブルゲームや映画や音楽鑑賞などに興じているのだが、その日はある球技の国際大会が開催されて日本と欧州の強豪国の対戦試合が衛星中継でTV放送されており、ほとんどの研究員は親しい者同士寄り集まって、部屋で観戦という名の酒盛りをしている。
 居室の隣でゴールのたびに湧き上がる歓声に、研究発表用映像を編集していた彼はうんざりして、息抜きに来たのだ。
 そして、何かあまり快いと表現するのには不適切な音ががらんとした娯楽室に響いているのに気付く。
 部屋の隅にある飴色を帯びた古いアップライトピアノの前で見慣れぬ男がしゃがみこんでいるのを結城は見かけ、眉を顰めた。

 あいつだ!
 
 先日見た電子カルテの記憶と一発で照合完了だった。
 最近やってきたという植物学者。
 見た目はとにかく「地味」。
 黒い短髪、少々面長で育ちの良さそうな顔立ちに銀縁眼鏡の奥の茶色っぽい目。
 見てくれに関してはごく「普通」で、主義主張などなにもない。

 どうも男はピアノ椅子の高さを調節していたらしく、硬く締まっていた調節ねじをぎちぎちと軋ませている。
 やっと納得のいく高さになったらしく、男は立ち上がった。
 立ってみるとかなり上背がある。
 外したメガネをセーターの胸元に引っ掛け、眉間に皺を寄せて鼻をふんふんと鳴らしている。埃を吸い込んでしまったのだろう。
 がたごとと椅子をピアノに寄せ、またほんの少し離して、その男は軽く咳払いすると、5分ほどの曲を諳んじて弾いた。音量に配慮しているのかアタック音が少なく、ペダルをあまり使わずに独特な運指で澄んだ音を響かせている。
 結城はそっとピアノの近くにあったガス圧式椅子に座った。
 よく聞けば、ピアノの音に混じり低い声でぼそぼそと、サーカスが何やらとか空中ブランコがどうとか歌っている。
 弾き終わって音色の余韻が消えると、彼は手をじっと見て握ったり開いたりし始めた。あまり納得のいく出来ではなかったらしい。

「ピアノ弾くんだ」

 結城が言うと、植物学者はびくりと身体を強張らせた。
 ピアノの蓋をそっと閉じ振り返る。
「うるさくしてすみません。人がいるなんて思わなかったもので」
 言いながら、日焼けした頬にみるみる羞恥の色が差してくる。
「謝らなくていい。生演奏が聞けて良かったよ」
「……ありがとうございます。でも随分弾いてないので指が鈍ってしまって」
「さっきのは何て曲?」
「アンドリュー・ロイド・ウェーバーの『Tell Me On A Sunday』です。変わった歌詞でしょう?」
 結城は肩透かしを食らった気持ちになった。
 ここにいるのは照れ笑いを浮かべ、ぼんやりした目をした大人しげな男で、受け答えは当たり障りなくエレガントだった。
 あのご大層な内容のカルテは、何だったのかわからなくなりそうな気分だ。
「僕は先週植物部門に入った乾桂と言います。失礼ですがあなたは?」
「人体部門の結城常葉だよ。よろしく」
「よろしくお願いいたします」
 お願いします、ではなく、お願いいたします、と言ったことに日本語用法にセンシティヴな坊ちゃん育ちであることを結城は嗅ぎ取った。

 そして会話が途切れる。共通の話題が何一つない。
 何より、この男は会話についてかなり受け身のようだ。
 ふと、結城は先日斉藤が言っていたことを思い出し、少しこの男と話してみる気になった。

「君、確か下の名前、桂(かつら)って書いて、けいって読むんだよねえ?」
「ええ、それが何か?」
「君の幼少期のあだ名、当ててみせようか」
「……」
「ヅラ」
「……あなた、ナチュラルに失礼ですね」
 図星だったらしく、乾はちくっと不愉快そうに眉を動かした。そして初めて、まじまじと結城を見た。

 なんだこの人。
 プライベートで話しかけてきたの、この人が初めてだ。
 目的は何だ。
 それに、綺麗な人だけど男だか女だかわからない。

 一方、この銀髪緑眼の医師は、相手に若干の人間らしさを見出した。
「ヅラちゃん、植物部門では何研究してんの」
 ヅラちゃんって何だ、と思いつつ乾は答えた。
「有毒植物について今まで研究していましたが、ここでは食用植物の研究が主みたいですしそっちの方に宗旨替えするかも知れませんね」
「有毒植物って、特にどんな?」
「主にナス科とかヒガンバナ科とか、そう言った類ですね」
「じゃあタバコとか栽培しないの?」
「タバコ?」
 そう鸚鵡返しに呟いた乾の顔を見て、結城は呻き声をあげそうになった。
 乾の表情には、ヒステリックな嫌煙家が煙草の話題に触れた時の、あのあからさまな不快感がありありと表れている。
 それとは裏腹に、口から出てくる言葉は慎ましい。
「タバコは確かにナス科ですがもう研究されつくしてますから、僕の出る幕はありませんよ」
「あ、そうなんだ」
 妙な間。
 結城はもう一度、斉藤のたばこ価格についてのぼやきを思い出す。
 同僚のカラカルを思わせる表情を脳裏に浮かべ、結城はもう少し食い下がってみようと思った。
「ほら、煙草って高いし……国としてもいいドル箱になるんじゃないのかなと」
「電子煙草の方が普及してますからね」
「いや、でも本物の方が好きだっていうやつもいるしさ」
 乾はそれには答えず質問を開始した。
「……あなたは喫煙者ですか」
「うん……まあ」
 心なしか乾の眼が吊り上がったように見え、気まずそうに緑色の瞳が床に向けられる。
 乾は思った。

 そうか。
 だから僕に話しかけてきたんだ。
 男か女かはこの際置いといてこの人はタバコ栽培を期待しているという理解で間違いない。
 疑問氷解だ。

「あなたは今、煙草を持っていますか」
「うん」
「見せてください」
 封を切られたばかりの煙草を渡され、乾は軽く匂いを嗅ぎ細かい文字の表示をじっと見つめた。
 そしておもむろに、秘儀でも伝えるような重々しい口調で彼はこう言った。
「この煙草一箱で、1か月もつようにしましょうか」
「は?」
「この煙草、いただいていいですか?」
「は?」
「この煙草の効力を最大に引き出して、長持ちするものに作り替えますよ。三日後のこの時間にここに持ってきましょう」

 三日後、娯楽室はまたがらんとしていた。今日は日本と、アジアのライバル国との試合でやはり皆TVの前にくぎ付けなのだ。その球技に興味がないものまで、友人たちの部屋に集合してお祭り騒ぎだ。
「タバコは栽培しないけど、煙草をすごいのに作り変えるって」
「へえ」
「一箱で1か月もつようにするって」
 椅子に座っている結城の前、斉藤はテーブルに腰を預けている。
 彼は顎に軽く握った左手をあてた。
「なんか、変なことになりそうな気がする」
 詐欺師として世知辛い世の中を泳ぎ渡ってきた彼は勘が利く。
「変なこと?」
「すっごくもったいないことになるような気がする」
 その言葉が終わらぬうちに、大きな段ボール箱を抱えた乾が現れた。
「何だよあの段ボール」
「煙草が増えた…とか?」
 斉藤と結城が頭上に疑問符を散らしている中、乾は重量感のある音を立ててテーブルに段ボールを置いた。
「こんばんは」
「こんばんはヅラちゃん」
「その呼び方やめてもらえませんか。僕は地毛ですから……あ、そちらの方は」
「あ、これは臨床部門の同僚で」
 その後を引き取って斉藤がにっと笑って左手を差し出す。
「初めまして。俺、斉藤って言うんだ。結城さんの煙草仲間だよ」
「初めまして」
 またあの嫌煙家丸出しの表情を浮かべる、と思いきや乾は眉ひとつ動かさず鷹揚に斉藤の手を握った。
「ではあなたも、え~っと、ゆ……、ゆ…………え~、こちらの方と同じご用が僕におありだったと」
「うんそうだよ」
 こちらの方、と呼ばれた結城は溜め息をついた。

 こいつ、俺の名前覚えてない。
 ゆ、がついたという認識くらいしか持ってない。
 今聞いた「斉藤」と言う名も、速攻で忘れてしまうのだろう

「え~と、お約束通り、タバコ一箱を一か月分に増量してきました。試してみますか?」
 他部署の人間の名前になどまったく興味を持っていない植物学者は、ごそごそと段ボールを開けて見せる。

 箱の中に並んでいたは黄色い液体が入ったペットボトル60本だった。

「普通に喫煙するより、水溶液で摂取した方が効率がいいんですよ。ご存知ですよね」

 絶句している二人に、乾は自分の善行を信じきっている笑顔を向けた。
「1か月分どころか、2か月分できました」
 何て無駄にいい笑顔なんだろう、と結城は思う。
「最後の最後まで成分を抽出して、エタノールとキセドノンで体内での吸収率を極限まであげましたから効率的ですよ。一日一本、5回程度に分けて服用するのがちょうどいいように調整しています」
 斉藤が呻いた。
「ふ、服用って…」
 それは彼らの知る嗜好品に対する表現ではない。
 植物学者が持ってきたのは嗜好品ではなくもはや薬品、いや毒物だった。
 高額なタバコ一箱が何とも不吉なドリンクに姿を変えてしまった。

「これで副流煙も、臭いの問題も完全にクリアしている上、市販のニコチンパッチやキャンデーなんかよりずっと即効性があり安価です。またストローで喉の奥の方に服用すれば、歯に付着するヤニの問題も」
 論文発表でもするような調子で滔々と喋っている乾に、斉藤は言わずもがなの質問をした。
「あのさ、これって何本か一気飲みしたりするとどうなんの?やっぱり死ぬ?」
「ああ、6本一度に摂取したら死ぬかもしれませんね」
「……ちょっとこれ、やばくない?」
 嫌煙家は笑い出した。
「あはははは、毒物がやばいのは当たり前じゃないですか」
「だよね」
 二人の喫煙家もどこが面白いのかさっぱりわからないまま植物学者と一緒に笑った。

 

Ⅱ. Mia florkrono

 もうすぐ日没だ。
 この施設は停電の真っただ中だった。
 外では雪が降りしきり、ヒーティングシステムも停止してしまった暗い室内、携帯タイプの照明が灯っている。
「だから反対したんですよ、僕は」
 革張りの椅子の上、臨床心理学者の鳥居孝典は細長い脚を組み替えた。
「彼はここの正式なメンバーでなく、僕の研究協力者として迎えるべきだって」
 中四国支部の所長、光岡侑子は黙って、目の前にいる男のクラシカルな丸眼鏡の奥の切れ長な目を見返した。彼女の大きな瞳はいつになく曇っていた。
 患者、ではなく「研究協力者」とした鳥居の表現には理由があった。

 彼、というのはここで植物学の研究者として勤務する囚人の乾桂という男を指していた。彼は精神疾患と言うよりも、人格異常者だった。その他にも軽いパニック障害を抱えているがそれは投薬でコントロールできる。しかしこの人格の歪みは如何ともしがたい。
 育ちがよく温厚で大きな身体に似合わず臆病者。一人で部屋に籠っていることが多いが、声をかけられれば大人しく受け答えし誰に対しても紳士的に振舞っている。長身を丸めて小さな植物と向き合っている姿は実直そのものに見える。

 しかし、こう見えて彼は、爆弾持ちだった。

 乾は彼の婚約者を彼の専門分野だった植物アルカロイドを様々に組み合わせた有機毒物で殺害した後、明確な殺意を伴って彼女が入院していた医療機関の医師たちを襲撃しようとしているところを現行犯で逮捕された。
「死刑判決をお願い申し上げます」
 取り調べにも、裁判の罪状認否にも、自身の国選弁護人にも慇懃にこう言ったきり、彼は黙秘を貫き通した。
 被害者が重篤な病で絶えず深刻な疼痛に苦しんでいたこと、ずっと彼が被害者に対しやや常軌を逸したほどに献身的であり、心身ともに支えてきたことから判決は懲役5年だった。だが、その判決を聞くや否や、彼は手錠を付けているにもかかわらずその判決文を読み上げる裁判官の机にひらりと跳び乗ると、その薄くなった頭頂に自分の額を割れよとばかりに叩きつけ、さらに弁護人の居並ぶ席に飛び込むと、稲刈りでもするように二、三人、脚で薙ぎ払った。
「ふざけるな!!たった5年だと?!僕を殺せ!殺せよ!!」
 顔中血塗れで、警備員に引き摺られながらそう叫ぶ彼は、普段の気弱そうな当時26歳の青年とは思えない悪鬼の形相だった。
 こうやって無駄に審議は長引き、拘置所でも傷害騒ぎを起こしたことから彼は懲役14年という数字を叩きだしてしまった。

 その2年後、彼の論文や研究を評価する人物が現れ、乾自身も納得の上で彼の身柄は刑務所からこの中四国支部へと移された。
 そして、護送の日、何故彼が中四国支部への移送を了承したかが露わになった。
 受刑者護送車から中四国支部に降り立った途端、それまで羊のように大人しかった彼が突然付添いの刑務官の心臓神経叢めがけて回し蹴りを喰らわし、唸り声を上げてさらに数人跳ね飛ばして、どこかへ駆けだした。
 彼にとってはどこでもよかったのだ。
 誰かが凶悪な脱走囚として彼を撃ち殺してくれさえすれば。
 彼の望み通り警備員が発砲し、彼は数発被弾して人事不省の状態で中四国支部の中へ担ぎ込まれた。
 幸か不幸か、中四国支部の臨床医学部門には優秀な医師が揃っていた。そして彼はあっさり一命をとりとめてしまった。
 目を覚ましてそれを知った時、乾はのろのろと起き上り、ベッドの脇にあった非常に高価な高機能心電計モニターを蹴倒した。

 他の研究者の目につかぬよう、隔離された殺風景な監視カメラ付き独房。
 彼は拘束衣のまま爛々と目を光らせていた。
 寝食も摂らずに暴れに暴れ、先ほど大勢の警備員に取り押さえられて鎮静剤と栄養剤を打たれている。
 柔らかく体を包みつつ、しかし身体の自由を完全に奪う拘束衣のせいで、点滴は腕につけられず鼠蹊部につけられている。もちろんトイレにも行けずカテーテルを通され、彼がその状態を許し難い屈辱だと思っていることは誰の目からも明白だった。
 部下を従わせるに拘束や強制をよしとしない所長は、乾が唯一「この人の言うことなら何でも聞く」という人物をはるばる九州から平身低頭して呼び寄せた。
 それは、乾の死んだ婚約者の父親だった。
 実際の年齢よりも老けて見えるその男性は、乾を光岡が示すモニターで視認すると、涙を浮かべ光岡に深々と頭を下げた。
 彼はその独房へ入り、義理の息子になろうとしていた男へ静かに声をかけた。
「乾君、君は……」
 哀れな父親は、疼痛コントロールがうまくいかない体質でひたすら苦悶する娘の前に、この若い男と二人、なす術もなく立ち尽くしていた日々を思い出していた。彼は自分が成し得なかったこと、……娘を地獄の苦しみから解放してくれた彼にひたすら感謝していた。そしてその結果、乾が精神的社会的に負ったものに対しひたすら償い、救済したいと願っている。
 父親は乾の前で激しく肩を震わせた。
「私は君を実の息子のように思っているのに」
 そこから先は言葉にならなかった。
 乾の顔は一瞬で青ざめた。その身に無意味に溜められていた力が溶けていく。喉仏と厚い胸板が上下し始める。
「お義父さん、ごめんなさい」
 自分の父親よりも敬愛して已まないこの男性に向かい、乾は掠れる声でそう言うと面長な顔を歪めた。

 その日から狂犬は、若干人見知りがちではあるが、躾の行き届いた使役犬になった。
 乾は全くの紳士となり、穏やかで柔和な男として受け容れられた。
 鳥居の元にしげしげと通ってはパニック障害の治療を受け、カウンセリングでも神妙に質問に答える。
「ここの人たちはちょっと変わってますが、天才と呼べる人ばかりですね。男性も女性も若くてきれいなひとばかりですし、いろいろと気後れします」
「そうかい?」
「中身も外見も全然たいしたことない僕がなんでここに呼ばれたのか、僕は未だにわかりませんよ」
 いかにも好人物だという表情で発されたその言葉。
 ここに収容された囚人学者の中に、やはり温和で明るく見えて猛々しいパーソナリティを持っている者たちもいる。
 ところが人格障害の寛解が始まっておかしくない年齢の乾は何もかもが完全同居、しかもそれを自覚している。
 その原始の海のような混沌を、自分が亡くしたただ一人の相手との幸せだった記憶への執着で統合しているのだ。
 死んだ婚約者を今でも想ってと言えば聞こえはよく、乾自身もその主治医の鳥居も、本来さほどロマンチストな性質ではなかったのでそういう噂が耳に入っても苦笑するだけだった。

 幼少時から、心の飢餓を「それが常態」と捉え諦念と共に育ってきた人間が思いがけず幸福を与えられ、それを再び奪い取られたら、……自分の手で壊さざるを得なくなったらどうなるか。
 それをそのままサンプルにしたような乾を鳥居は嫌いではなかった。
 むしろ可愛く思っていた。……主に実験動物的な意味で。
 だが、この研究所の運営を考えるとなれば話は別だ。
 現にこの雪の降りしきる氷点下2度の夕刻に、乾は彼の才能を惜しみ温かく迎え入れたこの支部から、一番小柄な女性薬学者を連れ出して行方をくらましている。

 

「…彼はあなたの首をすっ飛ばしかねないって言ったでしょう。ここに来るときだって現に傷害事件を起こした。あの時点で契約解消して刑務所に送り返すか、僕のモルモットにするべきだったんですよ」
「……その表現、嫌だわ」
「……過去の話を今しても仕方がありません。彼のプロファイリングも今更必要ないでしょう。どこへ向かったかわかってますしね」
 痩せて頬のこけた精神科医は、話を畳み始めた。彼のような研究至上主義者にはわかりきってしまったことはつまらない。
「時間をもらって悪いのはやまやまなんだけど」
 45歳のわりに若く見える所長は長い髪を掻き上げた。
「彼を捕まえた後のことを、あなたに相談したい……いいえ、指南して欲しいの」
「今ですか」
「そうよ。乾君は、この敷地内で捕まえる。もうすぐここへ戻ってくるから」
 敷地内といっても、植物部門の研究用森林があるため数百ヘクタール単位の広大さだ。鳥居は尋ねた。
「その根拠は」
「根拠がどうというより、捕まえなきゃだめなの。この敷地内でなら私が法律だわ。彼の処遇は私が決められる。でも一歩でも出たらアウト。それは絶対に避けたいわ」
 そのとき、聞こえるか聞こえないかの微かな機械音がし、所長室の照明が灯った。
「やっと電力が復旧したわね」
「そのようですね」
 徐に手を伸ばして内線の集音機を顔に寄せ、光岡は指示を下した。
「全監視カメラの映像を所長室へ回しなさい。フェンスの帯電異常センサー、「高」に設定し直して。衛星の赤外線画像はどうなってるの?」
 小さなスピーカーの奥から、切迫した声が聞こえた。
「Dr.乾の発信機の電波を受信しました!演習林の北西、林床植物試験エリアです!!」
 そこは現在、専門に研究管理する者がおらず、荒れに荒れた広葉樹林の森の中だった。
 赤外線画像では、森に棲むニホンジカやイノシシ、ニホンザルと思しき、体温を持つものの所在が明滅している。鳥居は所長の後ろでそれを見ながら、冬の森にも意外と生き物はいるのだな、と全く関係のないことを考えていたが、ふと一つのごく薄く光る点に目を止めた。それは僅かずつではあるが雪の森の中を進み、このサンクチュアリと一般社会を隔てている壁に向かっている。
 しばらくその動きを見つめた後、骨ばった細い指で鳥居はその点を指し示した。
「たぶん、これが乾君ですよ」
「え?発信機の位置とは随分離れてるけれど?」
「でも、これが乾君です」
「だって発信機は彼の体内に…」
「侍のハラキリってご存知でしょう?」
「……」
「彼は最近腹痛を訴えて腹腔エコー画像撮って、体内の発信機の位置を確認してるはずです。調べてみましょう」
 それが何を意味するか理解した途端、光岡の脳裏には真っ赤な血液のイメージが広がった。

 

 暗視機能のついたゴーグルを付け、乾は独り、深い雪の中を進んでいた。
 一時は大人しくなっていた彼が、こんな行動に出たのはある理由があった。

 先日、花卉部門の農学ジャーナル誌を彼は読んでいた。
 そこで見てしまったのだった。
 彼がプライベートで育種し愛する女の名をつけた、たぐいまれに美しい花を以前の上司が自分の名を関して発表し、園芸種としてのライセンスを取得して得々とコラムを書いているのを。

 まず湧き上がったのは殺意だった。
 早速彼は、歪んだ人格の通りに動き出した。
 ところが、彼が外出するのを見て、ふざけ半分に後を追った人物がいる。
 それが、医学研究チームの中で一番小柄で童顔の野崎弓だった。

 森は静かだった。
 ザクザクと歩む音だけが響いていた。
 乾は靴の中のぬるつきで、自分で切り開いた腹部から血が伝ってきていることを知った。
――だから何だ
 彼は他人事のようにそう思う。
 彼の腹腔内には、発信機が取り付けられていた。
 近年、公安事件関連の犯罪者に埋め込まれることが決定した、少し大きめの白いカプセルだ。
 そのパルスを停止するには、一度体内に取り出し、スイッチを切るしかない。
 彼はそれを自室のトイレでやってのけてしまった。

「ねえ」
 必死に乾についてきた野崎は、10mほど乾に遅れている。
 こんな小娘、雪の中に置き去りにするつもりで乾は歩を速めてきたのだが、出血で相当体力が消耗しているのだろう、デスクで薬のまぜこぜばかりしているもやしのような彼女に食い下がられていた。
 彼にとって、それは自分の計画を大きく狂わせたアクシデントであり、自分の体力が続かなくなってきていることを見せつけられる証左でもあった。
「血が出てるよ! ねえ! 帰ろうよ!」
 静かに平らかな雪の上には、防寒服のどこから滲んだのか薄く血の跡が乱れた足跡の上を彩っている。
 それは暗い森の中でも、雪の白さの上で不気味に赤黒く見えた。

 

 まず電力制御室へ忍び込んで停電を起こす。
 もちろん副電力供給システムまで。
 そして、胎内から取り出しておいた発信機のスイッチを切る。
 電力が復旧する一時間で、壁を越えて、外へ出る。
 発信機は捜査を攪乱するために、スイッチを入れた状態でどこかへ捨てる。

 

 そのために、彼は所内の監視カメラのムーブメントを全てつぶさに調べあげ、無いと思われた死角をひたすら洗い出し、警備員の指紋認証を破るために誰がどこの入室許可登録がされているかを確かめてターゲットを決め、その男の触れたコップから指紋を転写した。
 資材は、研究用に取り揃えたものを使った。

 彼の中では、何もかもに抗って優しかった時間へ戻ろうとする気持ちと、婚約者の名を付けた研究の精髄たる植物を、我が物顔に学術発表し農水省の品種認定まで受けた男への激しい殺意とが綯交ぜになり、寒さと出血で動かなくなろうとする身体を操り人形のようにここまで前進させてきた。
 なのに、研究棟を出ようとしているところで、ちょうど防寒服をつけて雪遊びをしていた野崎がついてきてしまった。
「あれ? 乾君、雪すごいよ? どこに行くの」
「ちょっと仕事が残っていて」
 潔癖なのか、いつもマスクをつけていてその上からネックカバーで鼻のあたりまで覆った彼女は、至って正論を吐いた。
「明日にしたら?」
「明日じゃ駄目なんですよ」
 監視カメラの角度制御は膨大な乱数で制御されていた。
 それが一瞬噛みあい、死角が生まれるタイミングがごくまれに来る。
 警備員の目を逃れて停電を起こすにはそのタイミングこそが好機だった。
 ところが幼さの残る彼女は、ぽんぽんと手袋を叩いて雪を落とすと、こう言った。
「ついていってあげるよ」
 その言葉には、せいぜい何か忘れ物でもしたのだろうという気安さがあった。
「危険ですからついて来ないでください」
 そう言ったのに、彼女はついてきた。
「ひとりで行く方が危険だと思うよ」
 思い切り歩調を速めて振り切るつもりが、出血による体力の衰えを甘く見ていたこと、それからなぜだかわからないが、ついぞ見せない「頑張り」をこの小娘が見せたことによって、雪の中の強行軍はぐだぐだになってしまった。

 防寒服を着けてはいるが、気温は氷点下だ。
 体を動かしていてもどんどん体温は奪われる。
 しかも、野崎はちょっとの間の外出だと思い込んでコートの下にはあまり着こんでいなかった。
「ねえったら」
 とうとう、野崎は雪の中に膝を埋め、前のめりに手をついた
 柔らかな雪に、その手は沈み込む。
「返事ぐらいしてよ! 聞こえてるんでしょ?!」
 叫んでいるつもりでも、声は多孔質の雪に吸い込まれるだけでなく、もう動けなくなっている咽喉からの声量は彼女自身が思っているよりもずっと弱かった。
 彼女はマスクを取った。
「もう、私、歩けないよ」
 乾が立ち止まった。
「もう、あなたも……本当は歩けなくなって……きてる、はず」
 ろれつが回らない。
「だからついてくるなって言ったのに」
 乾は野崎に向き直るとこう言った。
「本当に、邪魔なんですよ!」
 もう、その酷薄な言葉に野崎は反応できなかった。
「僕はまだ動けます。あなたがどうなっても構いやしません」

 

――ひどいなあ……
――心配してあげたのに

 

 そのとき、がばりと何かが野崎の体を覆った。
 それは男の匂いと血の匂いが染みついていたが、もう彼女は嗅覚を感じ取れなくなっていた。
 そして、何か発信音が小さく鳴るのを聞いた。
 それが何なのか、わからないまま野崎は雪の上に倒れ伏した。

 足跡や血が滴った跡は森林の中とはいえ5分もすれば降る雪に完全に隠れる。
 彼が恐れたのは、捜索に警察犬や救助犬を投入されることと、彼が破壊した変電施設の復旧、あるいは副動力機関への切り替えが予想より早くなされることだった。
 それは監視衛星からの画像受信機能の回復と、塀の上部に張り巡らされたフェンスへの1000ボルト低周波放電が再開されるということだった。
 これに触れれば、重篤な熱傷を負って大幅に動きが制限される可能性が高く、体力が消耗している今は死亡することすら考えられる。
 壁にようやくたどり着き、持っていた鉤のついたロープをフェンスへ絡ませるために投げようとしたとき。
 風の音に混じって、小さく複数のスノーモービルと雪上車の音が聞こえた。
 発信機と共に置いてきた少女の方向だ。
 それは即ち、支部の電力供給が再開したということだった。
 ゴーグルを通して、塀を見上げるとちりちりと帯電している火花が見え、塀には肉眼では不可視な、赤外線センサーの赤っぽい光の線が2本、はっきり見えた。
 普段は野生動物や風に吹かれる木の葉などで監視室のアラームが鳴りっぱなしになるためセンサーは切られているという話だったのだが、乾一人のために全てが対脱走者モードに入っている。

 

 彼は溜め息をつこうとして、咳き込んだ。

 もう塀を越えていく体力も時間も、ない。
 荒く息を吐きながら、乾は一度止んだヘリの音が再び響き、近づいてくるのを聞きながら、塀の前の大きなクスノキに凭れながら雪の上に頽れた。

 

 自分自身をここまで追いやって。
 戻る道を潰して。
 それでも目的が遂行できなかった。
 成功の確率が低いとわかっていても、止めるわけにはいかなかった。

 

 花冠ちゃんのために僕が作った花。
 それを盗んだやつは、罰を受けるべきだ。
 そしてその結果、僕が死が訪れるなら願ったり叶ったりじゃないか。

 

 彼は生まれて初めて自分を等身大に受け入れてくれた婚約者に絶対の忠誠を誓い、彼女のそばにいて何もかも……命さえ喜んで投げ出す自分自身を究極の理想としていた。
 それをひたすらこの世に繋ぎ止めたのは、花冠と言う名の、彼女自身の遺言だった。
「私はいなくなるけど、あなたは生きてね。ちゃんとご飯食べて、お仕事頑張って、誰かを好きになって……あなたの子ども、きっと可愛いだろうな」
 全身を震わせ、声を上げて泣く彼の頬に、透き通るほどに色の白いやせ細った手をあてて彼女は浅くゆっくりと息をしながら言った。
「自分で死のうとか思ったらダメよ……私の言うことは何でも聞くって言ったでしょう?命令よ」
「……そんな命令……無理だよ……」
「……無理じゃないわ」
「……花冠ちゃんを死なせて、僕は一人では生きていけないよ」
「お願い……お願いよ」
 この「お願い」が自分の愛した男の中でどんな風に捻じ曲げられ、多くの人間に迷惑をかけていくか知る由もなく彼女は苦しみの多いこの世を去っていった。

 自分で命を絶つことがだめなのなら、誰かに殺してもらえばいい。

 それが、悲しみが社会性や常識を押しつぶしてしまった頭で導き出した結論。
 彼は単純で幼稚で身勝手な寂しがり屋だった。

 

 醜形恐怖か強迫神経症でもあるのか、いつもマスクをかぶり滅菌脱臭剤をいたるところに振り撒いている小柄な薬学者は、暖かい雪上車の中でホットパックで膨れ上がった服の上から毛布にくるまれ、温めた飲料を手にしていた。
「野崎さん大丈夫? 私が誰だかわかる?」
 中四国支部のもう一人の薬学者、市田は彼女に優しく訊ねた。
「市田さん……」
 歯の根も合わぬほどに震えながら、マスクを外している野崎は答えた。
「診たところ、凍傷もたいしたことないし大丈夫ですね。低体温もすぐ直ります」
 よしよし、と市田は痩せて小柄な野崎の頭を撫でた。ニットの下で柔らかそうな胸が呼吸に合わせて温かく動いていた。
 そしてもう一人、運転手や整備士以外で乗っていた者が口を開いた。
「一応聞くけど目に見えないところのケガはないかな?」
 長い銀髪に緑色の瞳をした男とも女ともつかぬ医師、結城が真っ直ぐ野崎を見た。
「?」
 こぼれそうに大きな眼が怪訝そうに見つめ返す。
「こんな雪の中、絶対ないとは思うけど婦人科的な意味で。もしあれだったら、アフターピル持ってきてるから」
「あいつはそういうことは絶対しない!」
 形式的質問だとわかっていても不快な質問に、野崎の口調は少し固くなった。
「うん、しなさそうだよね、中四国支部の男どもは」
 市田は野崎の気持ちをほぐすようにそう言って笑った。可愛らしいサイドテールの黒髪がぴょこんと跳ねる。
「美人揃いなのにもったいないなぁ」
 市田は好奇心に満ちた黒い大きな瞳がチャーミングで「大人可愛い」という言葉がよく似合う女性だった。むっちりとした脚線美と美乳でまさにトランジスタグラマーなのだがLGBTで社会生活に疲れ、この研究所へ志願して入ったという経歴を持っている。
 一方、容姿も性格も人好きのする結城は……便宜上彼と呼ぶ……は不思議と地味な乾と仲がよく、特に何をするというわけでもないが乾の部屋の炬燵で一緒に茶を飲んでいたり、ただ黙って本を読んでいたりという風に、年寄りじみた茶飲み友達のような間柄だった。
 ふと、野崎は一か月ほど前にこの結城が人体部門の彼のデスクに濃緑色の毛糸を二玉置き、編み棒を操っている姿を思い出した。

「何、編んでるの?」
 何気なく訊ねると、彼は眼鏡の奥で目を細めて答えた。
「マフラーだよ」
「へえ……」
「12月24日ね、桂ちゃ…乾君の誕生日だって言うから」
 その誕生日当日、室内でそのマフラーを不格好にぐるぐる巻きにしている乾を見かけ、野崎が少々意地の悪い気持ちで
「何で室内でマフラーしてるの?」
と尋ねると、彼は困ったようにぼそぼそと答えた。
「えっと…なんとなく」
「それ、結城さんが編んだやつでしょ」
「…これを? これ手編みなんですか?」
「編んでるとこ見たもん」
 しげしげと首元の編地に触れてみる彼に、彼女は何ともめんどくさい気持ちになった。
「見てわかんないの?」
「……衣料品のことには疎くて」
 その時の乾のふにゃっとした笑顔を思い浮かべ、彼女は俯いた。
「あのマフラー…」
「何?」
「さっき乾君、結城さんの編んだマフラー巻いてたわ」
「…そうなんだ」
 感情を込めずに短く、結城は答えた。
 その、彼の視線が自分を通り越し何かに注がれているのに気付き、野崎はそれを辿った。
 緑色の瞳は、汚物のようにビニール袋に入れられた、血に濡れてごわごわと固くなった男物の耐寒コートをじっと見つめていた。野崎は結城が自分を非難しているような気がして目を伏せた。

 

 そうだ。こんなの被せてもらわなくたって私、普通に助かってたのに。
 あいつ、ほんとに馬鹿なんだ。


 電力供給が再開し、ここ植物部門の研究室も暖かくなった。室内に置いている植物サンプルを枯死させないために研究所内でもここは比較的湿潤で、暖房が切れていた間にどこもかしこもびっしりと結露していた。
 研究対象が研究対象なので、ここには砂糖や小麦粉、もち米や小豆があり他の部門の甘党を羨ましがらせている。
 自慢の腕時計の文字盤に目をやると、植物部門のムードメーカー、郷田瑞花は思い切り背伸びをした。
「こんな寒い日にご苦労なこった。さっさと帰ってくりゃいいのに」
 数百年前の骨董的価値すらあるストーブが部屋の中央で優しく燃えている。その上には古びて黒っぽくなった大鍋がのっていて、小豆が甘く煮られていた。
 甘く優しい、幸せの匂い。
 この植物部門に一番長く在籍する、といっても35歳の点野槐はステンレスの杓子で鍋を掻き回した。
「そろそろ火から下ろすか。煮詰まりすぎだよ」
「え?あんこにすんじゃないの?」
「ぜんざいにする」
 点野の言葉に郷田が不満を漏らす。
「え~?なんだよぉあんこもちにしようぜ~」
 点野はその抗議を黙殺した。
 彼女の腕や頬にはつる草のような赤痣が浮かび上がっている。これは生まれつきで、このせいで彼女は子どものころから周囲から醜さを嘲笑されてきた。だが、彼女自身は植物に選ばれ、愛された人間ということなのだと胸を張っていた。それでもやはり、他者に対して壁を作るたちはどうしようもなく、冷ややかな目をし、あまり多くを語らない。
 彼女は、姿を消してしまった新参者を気にかけてきた。女性が多い植物部門で居心地が悪そうだった乾にそれとなく声をかけ、精神的な不安定さにも気を配ってやったつもりだった。
 その男が今、自殺行為に等しい行動に出て、まだ戻ってこない。
 その引き金になった出来事を思うと、点野は心が重く沈む。

 

 若い研究者にとって研究成果を上から掻っ攫われることはそう珍しくないのだが、泣き寝入りすることが多い。その度、屈辱や怒りと、保身欲や将来の展望を天秤にかけ後者が勝利する。それでも、相手をどうにかしてしまいたいくらいの怒りや恨みを熾火のように心の中で燃やし続けるものなのだ。
 

 だから、点野には乾の気持ちはよくわかった。あの剽窃論文にあった塩基配列表を見れは並大抵の努力でできるものではないことがすぐに見てとれる。その発想の転換は単純でありながら魔法のようで、「凡庸」と自分を評する彼の言葉を覆して余りあるものだった。
 その花を、一度だけ点野は見たことがあった。
 パニック障害の発作を起こし、中四国支部3階研究員たちの居住スペースの部屋に籠ってしまった彼の元を訪ねた時だ。
 乾が大きな図体を丸めて潜っている炬燵の上に、大きな鉢がのっておりそこからすっきりと伸びた葉と茎の先、水晶細工のような花が咲いていた。
 透明な光を放つような美しさに思わず手を伸ばして触れようとすると、今まで意気消沈そのもので受け答えしていた乾は、地鳴りのするような低い声を出した。
「触っちゃだめです」
 彼の眼がすうっと冷えた。
 その後すぐに情けない調子に戻って非礼な物言いを謝ってはきたのだが、彼はその花の名を頑として教えようとしなかった。

 

 今はわかる。あの花の名は、彼が殺した女性の名だ。

 

 医師ならいざ知らず、研究者というものは薄給だ。
 その中での、精一杯の愛情表現。
 妻になる女性の花嫁姿を飾るために彼が作りあげた、本当の意味で豪奢極まりない植物の命。
 彼女の死によってすべてがめちゃくちゃになった時に、どさくさに紛れてこの花に関するデータの一切合財を盗んだ痴れ者がいたのだ。
 個人的には、点野は乾の怒りも嘆きもよく理解できた。だが、そのために命まで捨てようとしていることは容認できない。
 だから、所長に知る限りの情報を提供し、論文を盗用した男に厳重な警備を付けるよう手配させたことは正しいことだと思っている。
 思ってはいるのだが。
 もやもやするのだ。
 一人の人間が、何もかも捨てて遂行しようとしていることを、自分に邪魔する権利があったのかどうか。
 それは、平たく言えば「やりたいことやって死にたいなら死ね」ということになるのだが、そう思う自分も酷薄で許せなく思え、頭の中が整理できなくなる。
 書類キャビネットの上に置いた鍋敷きに、小豆が煮えた鍋を火から下ろしてのせると点野は大きく溜息をついた。
 同じタイミングで溜息をつく気配を見やると、郷田と目があった。どうしても重くなる空気を振り払うように、郷田は軽い調子で愚痴る。
「あいつがいないといろいろ不便だよ。重いもん運んだり高いとこにあるやつ出し入れしたりとか、か弱い女子のすることじゃないよなあ」
 点野は口角を引き上げて笑顔を作った。
「とにかく、乾が帰ってきたら、みんなでぜんざい食べよう」

 

「おったぞ!」
という叫びが通信機のスピーカーから聞こえ、眩暈がしそうなほどぐらつく映像が雪上車の小さなモニターに映った。
 暗視スコープで発見されたそれは、人型に盛り上がった雪の塊だった。
 スノーモービルで雪上車に先行していた狩野脩一は、風の音に負けぬようヘッドセットにもう一度、誰もが抱くであろう意見を叫んだ。
「もうだめちゃうんかこいつ」
「無駄口叩いてないでさっさと運んで来いよ!」
 結城もマイクに向かっていらいらと叫び返した。
 ビークル類の運転は、囚人たちには現在許可されていない。一般人で運転免許証を所持している市田や狩野、野崎などは運行申請およびその記録さえすれば公務員が公用車を運転する感覚で様々なビークルが利用できる。
 また囚人にもレベルがあり、監視員同乗の上でなら運転が可能とされる者もいたが、今回の騒動の張本人たる乾は何をどうひっくり返しても許可は下りなかった。
 巨大なクスノキの脇にスノーモービルを停め、ざくざくと雪を踏んで警備員たちと狩野が雪の塊に近づいていく。
「狩野先生、下がってください。乾は何するかわからないから慎重に、と指示されてます」
 警備員の一人が銃を構えて緊張した声で言う。
 しかし狩野は、警備員の制止も聞かず乾と思しき雪人形のような盛り上がりに近寄って行った。
 彼は不機嫌の極みだった。
 彼は様々な大学の研究室に所属していたが、どこでも人間関係のトラブルを起こして放逐に近い状態で勤務先を探し、ここへやってきた。
 しかし腕は確かなもので、いつかここを出て華々しく医学界のトップランナーとして迎えられたいという思いはある。そんな中でこの男が脱走して不祥事を起こしていれば、同時期ここへ勤務していたという彼のキャリアにも傷がつく可能性があった。
「おい、乾。生きとるか」
 声をかけながら、スノーブーツを履いた足で雪の塊の表面を雑に払う。
 雪の下から黒い短髪と、薄いダウン入りフリースのインナーと濃緑色のマフラーが表れた。ゴーグルは、もう着けていなかった。
「蹴らないで!」
 ヘッドセットの向こうで野崎が泣きそうな声を上げるのが聞こえた。

 

 悪ふざけ気分で「演習林に行く」という彼について来なければ。
 私の歩調を気にしたりせず、こんな血腥くてきったないコートを脱がず、発信機をOFFにしたまま見捨てて行ってしまえば。
 やりたかったことをやれていたかもしれないのに。
 ううん、その前にこんな姿にはなってなかったはずなのに。

 

 結城は唇を噛むと慌ただしく防寒服に腕を通し雪上車後部ドアから飛び出していった。
 雪が冷たい風と共に吹き込んでくる。
 ドアが閉まると、全ての通信が集約されている所長室から、不意に鳥居が割り込んできた。
「野崎さん、聞こえますか?」
 少女は洟を軽く啜り、応答した。
「はい」
「あなたは乾君がなぜこういう行動をとったか、聞いてますか」
「いいえ」
「彼はね、人を殺しに行こうとしてたんですよ。彼の研究成果を盗んだ品性下劣な男をね」
 普段の彼らしくもなく、自然と表現は辛辣になる。
 鳥居のような研究第一の人生を送っている者にとって、他者の研究を剽窃する者は虫けら以下の存在だった。
「そしてその後彼は死刑だか警官に射殺だか、とにかく死にたかったんです」
 少し間をおいて、ねえ、迷惑な話でしょう?と鳥居は少し笑った。
「だからね、あなたは乾君と、彼が殺そうとした男と……ひょっとしたら、その家族の命も救ったんですよ。お手柄です」
 彼としてはストックホルムシンドロームの傾向が出始めた野崎を励ましたつもりなのだが、野崎はこの話を聞いて鼻を鳴らしながら毛布へ潜ってしまったし、市田は眉根を寄せて羽毛のような雪が枠を足掛かりに視界を覆っていくのを見つめた。
 慌ただしく音声が切り替わった。所長の声だ。鳥居からマイクを奪い取ったらしい。
「とにかく、早く彼を連れて帰ってきて。これからのことは私が何とかするから」

 

「お嬢ちゃんが蹴るなゆうとるぞ、この優男が」
 狩野は優秀な医師で人当たりはよかったが、どこかで他人を常に見下し、己にとっての利用価値で他者をカテゴライズするようなところがあった。冷やかで人と馴れ合おうとしない彼と、人と接するのが嫌いではあるが温和な乾は、同研究所の職員としてあいさつする程度の仲だった。しかし狩野は乾が離れたところから無表情に研究員たちを眺めているのを薄気味悪く思っていた。
 乾の顔の雪を払い、ペンライトを点けて瞳孔を確認しようとした途端、がさりと大きな手が動き、彼は雪の上に引き倒された。
「うわ!」
 狩野は雪上で血に濡れた手袋を嵌めた手で胸倉を掴まれていた。その手は震えている。
 雪まみれの大男は睫毛にまで雪を積もらせ、響きのない囁き声で言った。
「……邪魔するな」
 小刻みに震える息が、細く、長く、暗視ゴーグルで見える。この映像も、音声も全て支部のモニターに転送されている。
 雪上車から降りて徒歩で駆けつけてきた結城は駆け寄ろうとして警備員に腕を掴まれた。
 狩野は身体の上の男に一喝した。
「お前な、わがままも大概にせえ!!」
「……」
 答えはない。
 手を、振り払おうとすればできなくはない。
 しかし、狩野はその手をしたいようにさせた。狩野のゴーグル越しに真っ黒に見える乾の虹彩は、ベル現象を起こして上転し今にも白目を向こうとしている。死者に襲われたら、きっとこういう形相でこんな冷たさなのだろう、と狩野は思った。
 通信機で発砲の許可を請う警備員の声に、結城が抗議するのが聞こえる。
「やめろ!撃つな!」
「結城先生、これは安全なシリコン弾で…」
「あいつ撃ったらぶっ殺すぞ」
 その瞬間、大きな身体が細身の狩野の上に崩れてきた。航空兵風防寒帽を被っている狩野の頭の横、黒髪の頭が柔らかな雪の中にがくりと突っ込まれる。
 ふと、切れ切れに耳に聞こえた言葉。
 狩野は表情をこわばらせた。
「……なんやて? ……今、お前……」
 信じられない面持ちで、狩野はたった今耳元にごくかすかに聞こえた呟きの真意を尋ねようとした。
「……」
 乾の意識は完全に消失していた。今まで意識があったことの方が異常だった。
 狩野は警備員に腕を掴まれて仰のけられた乾の顔を見た。片側の口角が、一瞬自嘲するように上がって見えた。
 無脚ストレッチャーへのせられた乾に付き随って雪上車へ戻ろうとした結城がふと振り返り、ようやっと起きあがって身体の雪を払い、スノーモービルに跨ろうとする狩野に尋ねた。
「桂ちゃんは何か言った?」
「ああ、あいつは…聞き間違いかもしれんが」

 

 みんなが
 いやなやつらだったら
 よかったのに

 

 そう狩野の耳には聞こえた。
 結城は唇を震わせた。

 

 死にたがっている乾はもっと簡単な方法も選べたのだ。

――所員を数名殺して、さらに人質でも取れば。

 

 結城は雪に足を取られながらストレッチャーの後を追って走り出した。
「意味わからへんわ」
 狩野はぽつりと言い、エンジンを起動させた。
 もし、支部のメンバーが乾の言う「嫌なやつら」だったらどうするつもりだったというのだろう。

 

 雪上車の後部、パーティションで区切った救急処置用スペースで気管挿入を行い、心室細動へAEDを使った後強心剤をトリガーのついた注射器で血管に流し込む。血の匂いが紛々とした衣類を切りホットパックで肌という肌を覆いつつ一次及び二次救命措置を行う。もともと少し浅黒かった肌が、鉛のような色に見えた。
 彼が自分で切開したという腹部の傷はおざなりに事務用ステープルで留められており、結城は市田と顔を見合わせた。
 ステープル針を外し、腹腔鏡で内部の損傷を確認するときちんと縫っていく。握り慣れないメスで負傷したらしい右手も縫合した。
 彼が一人脂汗を流して自分の血や脂のぬめりと格闘していた時間が馬鹿馬鹿しく思えるほど、本職の手にかかるとあっけないものだった。
 市田が座席の方へ戻ると、結城は処置中床でずっと踏まれ、蹴散らされていた濃緑色のマフラーを拾った。

――桂ちゃん、なんでいつも何も言ってくれないんだ

 彼はひどく寂しい気分で、ホットパックの隙間から冷たい耳朶にそう囁くと、この大柄な友人の雪に濡れた黒い頭をくしゃっと撫でた。
「これ、洗って返すから」
 支部につくと、有脚キャスター付きストレッチャーに乗せ換えられ、ここへ初めて来た日と同じく人事不省状態で乾は急患入口から担ぎ込まれた。車椅子に乗せられた野崎もその後に続く。
 もう寒さではなく、恐ろしさで震えている野崎は毛布に顔を埋めて半泣きだった。
 薬学者として、人体の解剖に立ち会ったことも、人の死に立ち会ったこともある。
 だが、鬱陶しくおもちゃや植物部門が作出した新品種の試食を渡してきて彼女を子ども扱いし、「あなたは私の父親か」と突っ込むと「お父さんって言うよりおじいちゃん気分ですよ」と笑っていたのを思い出すと動揺は抑えきれない。
「馬鹿…ほんとに馬鹿…どうしようもない馬鹿」
 野崎は呟いた。
「馬鹿って言っちゃだめですよ」
 市田が野崎の肩に手を置いた。
「あなたのそのきれいな指が凍傷で失われるのを、彼は誰よりも心配したんじゃないかな」

 二日後。

 かつて、拘束されたまま血走った目でこの部屋の天井を見上げ、殺意を込めて咆哮し何もかもへの破壊欲を募らせていた狂犬がいた。
 一度は恭順の意を示したものの、建物の見取り図と警備システム網を頭に叩き込み、研究員たちの性格や癖を観察してきた。おとなしい使役犬はいつでも、狂犬に戻るという選択肢を忘れていなかった。
 ところが、犬は立ち止まりかけてしまった。
 生涯を捧げて守るべきだったひとの懐かしい姿も、眼差しも、声も、匂いも、温もりも覚えている。
 忘れるわけがない、と心の中で叫ぶ。
 なのに、その叫びとは逆に、それは薄れていこうとしているのだ。

 この研究所での穏やかな日々。
 一癖どころか七癖も八癖もあって、しかし心優しく一筋芯の通った同僚たち。
 何より、自分をそのまま受け入れてくれた人々。
 胸の奥から湧いてくる小さな泣き声。

 

――死ぬの、怖いよ
――生きていたいよ

 

 そういうものたちがよってたかって、あの短かった幸福の記憶へ上書きをしようとする。
 それは許し難い、というよりも恐ろしくてたまらなかった。
 その恐怖と闘って生きるよりは死んだほうがずっとましだった。

 暗闇の渦をじっと眺めているだけという、例えようもない不安感のあるヴィジョン。
 彼はぼんやりと、自分はきっと死んでも彼女のいる場所ではないところに行くんだ、と思った。
「う…」
 自分の唸り声に、乾は目を開けた。
 夜が訪れていた。カーテンは引かれていない。
 雪はとうに止み、冬の月の冷たい光が、窓枠を黒く、そこに溜まった雪を青く浮かび上がらせている。
 冴え冴えと満ちた月は、先ほどの夢と対照的な美しさだった。

 この自分が横たわっている寝具は医療機関によくある、親しみを感じない匂いと感触だ。首を巡らせると、自分の横には心電計のモニターが波形を描いており、天井の隅には見覚えのある小さな赤い光点を見つけた。監視カメラだった。
 ここは、彼の思う死後の世界とは違った。
 既視感が、彼に事実を突き付けてくる。

 

 僕はまた失敗した。
 僕はやっぱり、何一つやりたいことができないだめなやつなんだ。

 

 腕が、脚が、体全体がひどく重い。
 離人症のような、自分が自分のものでなく、映像でも見ているかのような感覚。
 錯乱状態になるのを防ごうとしているのか、鎮静剤を使われているように感じる。
 乾は自分に繋がれているチューブやコードを束ね、一気に引き抜いた。
 植物部門のフィールドワークで野山を歩き、樹木を伐り、重い土砂を運ぶ、嫌になるほど健やかなはずの自分の身体が思うようにならない。
 ふらつきながらやっと起きあがり、ベッドから出て立ちあがる。
 患者衣を纏った身体を左右に揺らしながら、監視カメラに近寄っていく。
 寝起きのもそついた声で彼は話しかけた。
「鳥居さん、見てますか」
 途端に、スピーカーの向こうでどたばたがしゃんという音がした。
「びっくりしたぁ! 俺、斉藤だけど!」
「鳥居さんはいませんか」
「今トイレ行ってる」
 医学部門のトリックスター、斉藤が不意を喰らった様子で応答した。
「コーヒー、機械にこぼしちゃったからちょっと待って」
 一方的にマイクを切られた。
 乾は左足を軸に自分の身体が円を描いて揺れているのを感じていた。
「おお、乾君、お早う。今からそっちに行くよ」
 ほどなく鳥居の声がスピーカーから響いた。
「誰にも会いたくありません。特にあなたには」
 正直な気持ちを返し、乾は続けた。
「状況の説明をお願いします」
 鳥居は淡々と事実を伝え、乾は半眼にそれを聞いた。
「……そして今、君が目を覚ましたってところだよ。これで君がここから出て行ってから今までの出来事だ」
「……」
「もちろん、近いうちに君には所長から訓戒処分が下りるし、機器類の弁償もしてもらう。だけど、どうも所長は君を元のポストに戻すつもりでいるらしい」
「……甘いですね」
「それは君の立場で言うべき言葉じゃない」
 窘めると、鳥居はさらに続けた。
「……乾君、今所長は論文の剽窃問題に関する訴訟と農水省の品種認可取消について動いている。君は手ぬるいと思うだろうが、相手の研究者生命を断って社会的信用をゼロにするところでもう手打ちにしてほしい」
 乾は2分ほど黙りこくり、呻いた。
「……馬鹿みたいだ」
「ん?」
「僕って、本当に……惨めで……滑稽ですよね」
 鳥居の声のトーンが深く、柔らかくなった。
「滑稽じゃない。僕らは君を笑ったりしない」
 しばし、二人の間に無音の時間が流れた。
「乾君、ベッドの足元の方、見たかい?」
「……いいえ」
「……綺麗なのが咲いてるよ」
 乾が先ほどまで自分が寝ていたベッドを振り向き、眩暈を覚えた。
 月光に白く浮かび上がっているのは、自室に置いていたはずの、高取窯の鉢に植え付けられた「花冠」のオリジナルだった。
「植物組の女の子たちが君の部屋から持ってきて管理してた。エアコンの風が当たらないようにそこに置いたって言ってたよ」
 乾はよろめきながら鉢の脇へ寄ると、へたへたと座り込んだ。
 白い虹のようなふわりと優しい佇まいの花に、彼は凍傷2度の膨れた指でそっと触れた。
「君が起きたって言ったら、彼女たちはきっと安心するだろう」
「………」
「さて、僕は君にたくさんお小言があるけれど、今夜はここまで。ベッドに戻りたまえ、わがまま大王君」

 

 そもそも君が精神的貞操を守っているのは、君の婚約者に対してじゃない。
 君は、花冠さんという一人の人間に対してではなく、自分を理解してくれるひとと一緒にいて幸せだった状態に妄執を抱いているんじゃないのかね?

 

 そう聞いてみたくてたまらなかったが、今はそのタイミングではなかった。
 そのタイミングはひょっとしたら永久に訪れないのかもしれない。

 

 その頃、深夜だというのに所長の光岡は所長室にいた。
 日付がゆっくりと変わる。明日が、今日になる。

 彼女がこの若さで、国家プロジェクトの一翼を担う中四国支部の所長というポストにいる理由。
 それが、この目の前にあるホットラインのホログラム画面にあった。
 確かに科学者として優れた才能を見せてはいるが、それだけで45歳の女性が所長になれるほど研究畑は甘くない。
 上にはもっと経歴を積んだ研究者たちや官僚が詰まっているのだ。
 画面の中で、いかにも好々爺と言った老人が相好を崩す。
「侑子ちゃん、ごめんねえ、党の連中との飲み会が長引いちゃって」
「こちらこそいきなりでごめんなさい大叔父様」
 大叔父様と呼ばれた老人は目を和ませ、酒に紅潮した顔でにこにこしている。
 彼は、現在入閣せず隠居状態なのだが、一言で言えばこの日本国現与党のフィクサーだった。首相でさえ彼の意見を無視できない。
 若い頃は官僚として知見を蓄え、30代で国会議員当選、40代で入閣、という珍しくないコースを歩んだ彼だったが、光岡家の世襲政治家としても傑出して常に人望厚く、最大の派閥を率いていた。古い時代の気概を持ち続けている彼は国民にも人気があり、たまに政治討論番組にも出演している。
 そんな彼は自分自身の子に恵まれず、この才気煥発な従姪孫を自身の孫のように溺愛していた。
 彼女が45歳になった今でもだ。
「で、何だね? 侑子ちゃん、大事な用があるんだって?」
「ええ。侑子、大叔父様にお願いがあるの」
 自分を自分の名で呼ぶと、いかにも子供らしくてわざとらしい甘え方だったが、二人にはこういう会話が楽しいのだ。
「うんうん、侑子ちゃん、何でも言ってごらん?大叔父様ができることは何でもやってあげるよ」
 


 乾が目を覚ました、という知らせが深夜の臨床医学部門と植物部門にもたらされると、多くのものは「ふーん」といった程度の感慨しか抱かなかった。それは彼があまり他者と関わらないようにしていたせいもある。
 その「ふーん」程度だった者には、植物部門の点野や郷田も含まれているのだが、素っ気ないながらも彼女たちは安堵していた。
「ぜんざい、やっと乾に食わせられるな」
 冷蔵庫の密閉容器を開けて、甘く煮た小豆の匂いを確認しながら点野が言う。
「……でも、あいつはこれから訓戒で、しばらくこっちにゃ出て来られないんじゃないかな」
 点野の言葉に、郷田がちょっと残念そうな顔になる。
「じゃあ、これ冷蔵より冷凍したほうがいいってこと?」
「だな」
「冷凍したら味が変っちまうんだよなあ」
 超弩級変人、とロゴの入ったTシャツを着た郷田が親指で自分を指した。
「ドクターストップで食えないってんなら仕方ないけど、食えるんだったら差し入れに持って行ってみるよ!」
「私も行こうかな。あの花そろそろ水切れじゃないかな」
「じゃあ、明日ダメもとで行ってみるか」
 声こそ真面目くさっていたが、点野は微笑んでいた。
「じゃあ一緒に行こうか」


 鳥居は、所長室に呼ばれて監視室を後にした。
 なんとかこぼしたコーヒーによる機器の故障から免れた斉藤はまた一人残され、大した興味もなくモニターに映っている大男を眺めていた。
「お疲れさん」
 日付が変わった今やっと、業務を片付け終わったらしい狩野が顔を出した。
「あいつ、もう起き出しとるんか」
「うん」
「おとなしゅうしとるか」
「うん…だけど変だなぁ」
「何が」
「あいつ、花食ってるよ。ほら」
 ベッドの足元に蹲っている男が、鉢植えの白い花を一輪、また一輪と摘み取って口に入れているのが見えた。
 きちがいのすることは全くわからへん、と狩野は思った。

 

 花弁は、甘苦かった。
 四輪目の花を手に、監視カメラに映らぬようスチールのベッドの脚に額を押し当てたまま、乾はぼろぼろと涙をこぼした。

 

 だれか ぼくを たすけてください

 

 

Ⅲ. 植物学者はスーパー主夫を目指す

 そこは研究所外庭の、壁龕状に建物の壁が窪んだ場所だった。
 もともとはそこにアーバンなデザインの壁泉が設えられ、植物部門や動物部門の研究員たちが屋外で使用した機材や監視員たちの車両を洗浄するという実用面と美観とを兼ね備えていたのだが、研究所の施設建て増しの際、工事用車両装甲車を壁泉の前に駐車したところ、想定外の重量に地下の水道管が破損してその修理作業中建物の半分が断水するという椿事が出来し、結局壁泉は別の位置に移動されてここには武骨なスチールのベンチがおざなりに置かれている。

 

「ふーん」
 きざっぽく髪を軽く掻きあげ、鋭い目つきで狩野は周囲を見回した。

 

――ここ、完全な死角なんや。気付かへんかったな

 

 確かにここの周りは、研究所からはっきりと見える。
 狩野も、自分の居室や臨床医学部門の自分のラボの窓からよくこの辺りは見下ろしている。
 この周囲は丸裸状態なのだが、このベンチに座ってしまうと不思議なことに全ての監視の目が届かない。気付くのは前を通る人間くらいだ。

 

 指定されたとおり建物の北出口から出てここへ来る途中注意深く見てみると、目視だけでなく監視カメラまで死角だらけなのだ。監視カメラは自動でゆっくりと角度を変えランダムに広域を映し出す。ちょうど、その映し出す範囲が外れた時間を、相手は指定してきた。
 相手……温和な顔をしいかにも育ちがよさそうな植物学者は、毎日窓から無表情に何もない物陰を眺めているのは狩野も気づいていたが、それが何を意味しているのかこの時になって狩野は気が付いた。

 

――あれは、監視カメラのランダム動作の規則性とや撮影範囲を確認してたんや

 

 そしてそれを緻密なパズルのように死角の連鎖を組み立て自分の能力をひけらかすかのように、この時間にここへわざわざ彼を呼び出した意図は何なのだろう。
 眉を顰めた狩野に、ベンチに座っていた乾はにこりと微笑んだ。
「こんにちは、狩野さん」
「おう」
「ここへ来るのを誰かに見られたりしてませんか?」
「……おかげさんで」
 狩野は乾から離れて座った。
「一体、何の用や」
「…………」
「仰々しゅうこんなところに呼び出して、何なんや」
 いつもの冷やかな口調で訊ねる狩野に、乾は自分の陰にあった薄茶色の紙袋をベンチの座面に置き、狩野へ向かって大きな手ですっと押し出した。
 まるで往年のスパイ映画で、あたりを憚りながら不穏な品をやり取りするシーンだ。
「どうぞ」
「なんやこれ」
 乾は少し困った顔をして口籠った。
「えっと、それは……見てのお楽しみです」
 紙袋の中には、男性用の弁当箱より一回り大きなセラミック容器が入っていた。
「ここで開けてええんか?」
「いえ、あとでお一人のときに開けてください。ただし、今日中に」
 狩野は当然のように薄気味悪く思った。
 雪の中で意識朦朧状態の乾を、足で蹴ったことが思い出される。
 乾は覚えてないらしいが、見ていた野崎や結城や市田、そして監視員達からそのことを聞いていたとしたら、この人を好くのも恨むのも執拗だと自ら言う男は何を企てるかわからない。
「爆発したりせえへんやろな?」
「まさか」
 軽く笑う乾に、狩野は苦虫を噛み潰した顔でさらに訊ねた。
「なあ、何であてにこういうわけわからんもん渡すんや」
「それは僕が、あなたの願いを叶えることができる唯一のネイティヴだからですよ」
 細めた目の光が妙に剣呑に見え、狩野は長い脚を居心地悪そうに動かした。

――なんや、あての願いって?
――こいつに言うたことあったか?
――で、ネイティヴって何や?

「気持ち悪ぅ……」
 つい口から出たその言葉に乾は苦笑の顔つきに変わる。
「とにかく、その出どころが僕だっていうのは誰にも知られないようにお願いします」
「何でや」
「…………それは…………あの、他の方々にいろいろ言われるとアレですし…………」
 回答になっていないようないるような回答に、狩野は狐につままれたような気になった。
「昼、席を外したりすると時々消えるんですよ……地味にダメージが重なってまして」
「何が消えるんやて?」
「その日その日で違います……ごっそり一式消えてたときもあるんです。ひどいと思いませんか?」
――だから、何がや?
 もやもやと不可解な顔をしている狩野を尻目に、乾はズボンのポケットから古ぼけた懐中時計を出し、しばらく眺めた後そそくさと立ち上がった。
 長身に大きく日が陰った。
「では僕はこれで。今日、オートクレーヴ当番なんですよ」
「おい、中身は何なんやて!」
「だから見てのお楽しみですって」
 大股で立ち去っていくその後ろ姿が、かなりの速さで遠ざかっていく。
「どうせえいうんや、これ……」
 狩野は、クラフト紙の袋をがさりと音を立てて掴んだ。

 

 臨床医学部門は、特殊な手続きを踏んでやってくる一般患者をここで治療し、それなりの入院設備もある。
 一般患者と言っても第三次医療機関でも手の施しようのない患者で、しかもNIRの定める規定に沿った所内立ち入り手続きを踏む余裕があり治験的医療に自らの意思で同意する、現在劇症ではない者という条件での受け入れとなっている。
 そしてスタッフが受刑囚その他の問題児揃いときているため、医療現場には必ずそれなりの知識を持った監視員がついていた。

「狩野先生、お先に失礼します」
「お疲れ様です」
 その夜、たまたま狩野は当直勤務に当たっていた。
 一日の勤務を終えた医師や看護師や検査技師が、デスクで内視鏡トレーニングボックスと格闘している狩野に挨拶し、居住棟、あるいは食堂や浴場のある共用設備棟へと向かっていく。
「おう、お疲れさん」
 彼は目を遣りもせず、しかし声だけは明るく挨拶を返す。
 そしてまたこの箱に向かい、実に繊細な動きで人間の体内に似せた素材のチューブの中に極小のカメラを通していく。カメラに付随した小さな鉗子で小さなゴムの突起を掴む。
 優雅な白鳥は水面下で必死に水を掻いている、というが、熟練の医師が熟練たる所以はこういうところにあるのだ。
 医師が自分の技術と知識に胡坐をかいたとき、それは新しい技術を学んでいる連中への敗北を意味する。

 

 気が付けば、外は暗くなり病棟の消灯時間を過ぎていた。
 看護師たちはナースステーションに詰めており、この部屋にいる者といえば、狩野と、少し離れたデスクで学会発表用の3D画像を編集している赤と黒のオッドアイ、箕郷だけだった。
 彼は彼なりの優しさのつもりで、7人もの高齢者や末期がん患者を安楽死させたシリアルキラーだった。幼児期の事故のせいで、左の目が一般的な日本人の黒い目、右目が瞳も白目の部分も血の色をしている。
 彼は赤い右目が特に幼い患者をびくつかせるという配慮からいつも白い眼帯をつけているのだが、夜間回診も終わり彼は眼帯を外していた。
 右目は弱視ながら視力はあるらしい。彼は眼帯が鬱陶しいといつも周囲にこぼしていた。
 箕郷の立てるカチカチというクリック音が、静かな部屋にやたらと大きく響いた。

 

 ふと、狩野はデスクの片隅に置いた薄茶色の紙包みを見た。
 一人でいるときに開封しろ、と乾は言っていたが中身は一体何なのだろう。
 内面の怜悧さと執念深さを全く感じさせない地味で穏やかな乾の顔を思い出し、狩野はあんなメンヘラ男にあの顔を授けた神というのは本当に何も考えていないのだな、とつくづく思う。
 彼に関する一通りの知識からすると、狩野はこの箱を一人きりで開封するべきではない。かといって誰かと一緒に開けたとき、万が一狩野の進退問題に関わるようなものが出て来たら、という思いが脳裏をよぎる。
 同じ部屋で、こちらを見ていない同僚がいるこの状態、これこそ開封するのに最適な状態ではないか。
 何か不測の事態が生じても、殺人鬼ではあるが正義感の強い常識家である箕郷が、何らかの対応をするはずだ。
 狩野は紙袋から白いセラミックの箱を取り出し、ゆっくりとふたを開けた。

 

 箕郷は目頭をぎゅっと抑えた。
――疲れたな。
 OA椅子から立ち上がると箕郷は軽く伸びをした。
 足腰に優しい低反発クッションを謳った椅子だがさすがにこう長時間同じ姿勢で座っていてはつらい。
 そろそろ空腹が襲ってくる。
 交代で食堂へ行きませんかと狩野に声をかけようと思ったとき、箕郷は甘辛い醤油の匂いを微かに感じた。
 見れば、部屋の端のデスクで、三つ年上の同僚が呆然と何かに目を落としている。
「おや? 狩野さん夕食はお弁当ですか」
「あ、いや……」
 近づいてみると、狩野のデスクの中央にのっているのは根菜や干し椎茸、鶏肉を煮しめたものが入ったセラミックの大ぶりな保存容器だった。
 白い米飯も何もなく、ただそれだけがぎっしり詰まっている。
「おお、筑前煮ですか」
「…………」
「これ、狩野さんが作ったんですか?」
「いや、ちょっと貰いもんで」
「へえ、誰から」
「誰でもええやろ」
 奇妙に歯切れの悪い狩野に、乾と同じ28歳とは思えない重厚な落ち着きのある箕郷は怪訝な目を向けた。
「夕食まだでしょう?食べないんですか」
「……あ、ああ、食う……食うんやが……そや! あんたも一緒にどや?」
「いいんですか? ありがとうございます」
 箕郷はあっさりと承諾し礼を言った。
 そして、箸がありませんね、と言い、部屋を出て行った。
 5分後戻っていた彼の手には箸と、インスタントの味噌汁のパック、そろそろ終業を迎える食堂で急いで購入したと思しき白飯がよそわれた容器とほうれん草とツナのサラダのパックがあった。
「これでだいたい、足りますか?」
「おう」
 セラミックの容器ごとラボの奥にある電子レンジで軽く温めると、椎茸と根菜の香りがふわりと立った。
 皿がないため、新品未使用の膿盆をさっと洗い、取り分ける。
 他の研究員が見たらきっとひどくげんなりした顔をするだろうが、幸い箕郷はそういうことを気にする性質ではなかった。
「いただきます」
 誰が作ってどのように狩野に押し付けてきたか知らない箕郷は至って男っぽく気軽に箸をつける。
 箸を持ったまま、狩野は箕郷を凝視していた。
 箕郷は筑前煮の中から筍を口に抛りこんだ。
「うまいですね、これ。食堂の筑前煮とだいぶ違う」
「……そうか?」
「この干し椎茸とか、今のご時世贅沢品ですからね」
 おずおずと、狩野も乾に渡された料理に手を付けた。
「……うまい」
 空腹だった男二人は、もそもそと業務の話をしながら夕食を摂った。
 確かに、筑前煮はあくを抜きすぎず野菜の香りが残り、柔らかくあるべきものは柔らかく、歯触りが欲しいものはしゃっきりと美味だった。
「ごちそうさまでした」
「うん、ごちそうさんやな」
 まだ複雑な思いが抜けきらない狩野に、顎にまばらに伸びた髭を撫でながらにこにこと箕郷が言った。
「よかったですね、狩野さん。願いが叶って」
「は?」
 願い?
 狩野は驚いた。
 なぜこの男まで自分の願いのことを知っている口ぶりなのだろう?
「何やその願いって」
「狩野さん覚えてないですか?一昨日、娯楽室で旅番組見てたじゃないですか」
「……あ、ああ」
 そう真剣に見ていたわけではなかったため、狩野の記憶からその部分は欠落していた。
「九州の、筑前煮が売りだっていう郷土料理の店紹介してて」
「そうやったな」
「狩野さん言ってたじゃないですか、本場手作りの筑前煮食べたいなぁって。本場のかどうかはわかりませんが一応手作りでしょう、これ」

 やっと狩野は、合点がいった。
 そして取るに足りぬと思われた記憶がフラッシュバックする。

 

 狩野がその番組を見始めた途端、娯楽室に流れていたundercooledが途切れた。
「懐かしいなぁ」
 ふと見ると、部屋の隅でピアノを弾いていた乾が手を止め、少し寂しそうにテレビ画面を眺めていた。

 

 狩野はそれを思い出し、無意識に自分の右足……あの日、乾の上に積もる雪を払いのけた右足に目をやった。
「いや、これ本場の、ネイティヴが作ったやつや」

 

「乾君、ほんとにこういう田舎料理みたいなの、上手だよね」
「狩野さんも、喜んでくれたと思いますか?」
「たぶんね」
 痩せて小さな野崎を見ていると気になってしょうがないらしく、乾はいろんな食品を彼女にお裾分けしていた。まるで近所の世話好きなおばちゃんのように。
 そうやって、筑前煮が入った密閉容器を渡されて、小柄な薬学者は大型犬のようにのんびりと座っている植物学者に素っ気なく答えた。
 普通に話すとなめられる、と思っているのが見え見えで、乾はそこを彼女の愛すべき点の一つだと思っている。
 彼女は若いとはいえTPOはさすがに弁えているので、いちいちプライベートにおける話し方まで口出しする気は乾にはなかった。
「乾君、和食の仕出しでもしたら?」
「僕は材料費払えません」
「だから先払いでお金取ればいいじゃない」
「お嬢さん、僕は仕出し屋じゃなくて一応学者なんですよ」
「でも乾君のお弁当勝手に食べちゃうぐらいのファンがついてるんでしょ?」
 乾は溜め息をついた。
「犯人は大凡わかってますけど、そこで騒ぐのも男の名折れっていうか……とにかく、隠し場所に創意工夫を凝らしますよ」
 乾は「料理ができるらしい」と言われていたが、正月のおせちを一の重から三の重まで自作できるレベルだということまで知られるのはあまり望んでいない。
 昔、たまたま手料理を振舞った同僚に、病身で台所に立てない婚約者のことをあてこすってからかわれたことがあり、非常に不愉快だったのだ。

 

 自室に戻った乾は着換え、備え付けの小さなキッチンに鍋に残っているものを温めて麦飯と菜っ葉の味噌汁というつましい食事を炬燵の上に並べた。
 そして部屋の奥のベッドの横にふわりと盛り上がったシルクのポケットチーフを取り除ける。
 その下からは彼が大事にしている写真が現れた。写真が日に焼けないよう、日中は絹布で保護しているのだ。
 写真のあどけない顔をした女性に微笑みかけると、彼はそれを炬燵の右隣に置いた。
 炬燵に座った後、目の前の皿や茶碗から立ち昇る柔らかく白い湯気越しに、彼は写真をじっと見つめていた。

 いつも彼は、彼女の左隣に在った。
 彼女が少しでも苦しげに見えると、暑苦しがられようが鬱陶しがられようが、いつでも右手を伸ばしてしっかりと支えた。

 プロポーズのとき、彼女は少し泣いてこう言った。
「私ね、こんな体だしキッチンに立ったりお掃除したりはできないわよ?普通の奥さんがやることみんなみんなできないのよ?わかってる?」
 希う目で乾は彼女を見た。
「いいよ。全部僕がやるよ」

 彼には病身の妻の介護に家事に仕事、すべてこなすスーパー主夫を目指した時期があった。
 こんなに料理の腕が上がったのに、それを一番伝えたかった相手にもう伝える術がないことを彼は日々悲しく思っている。
 ことに今日は、彼と彼女がいつか一緒に帰りたいと望んだ郷里に伝わる料理が目の前に並んでいる。
 もう3年経とうかというのに、乾は項垂れ、涙ぐんだ。

 そのとき、部屋のドアに何かがかたん、とぶつかる音がした。
 そして去っていく足音。
 足音の間隔から、おそらく男だと推測できる。
 乾はそっとドアを開けた。その振動でドアに何かがさらにぶつかる。
 ドアノブには、袋が掛けられていた。
 中を見ると、今日狩野に渡した容器が入っていて中で何かが不安定な音を立てている。
 乾は炬燵に戻り、白い容器の蓋を開けた。

 きっちり洗われて清潔なセラミックの中で、宇治茶上喜撰の小さな缶がかたことと動いていた。

 

 

 

Ⅳ. お節介は災いを呼ぶ

 深夜だ。
 NIR中四国支部の居住棟の廊下にはドア越しに、人の声や放送機器の音が小さく響く。夜の静寂に、日中は感知できない程度の音もこうして耳に届いてくる。

 

 乾は消灯済みの廊下をひたひたと歩いていた。
 一日中温室に籠っていたので、汗の臭いと共に夜来香の匂いが髪や服に染みついている。蒸し暑い場所から戻ると、気温差に鳥肌が立った。
 小さくくしゃみをすると、彼は恐怖を覚える。
 パニック障害は一般的に、風邪をひくと増悪し過呼吸を起こしやすくなるのだ。

 呼吸はちゃんとしているのに呼吸できないという錯覚。
 全身の細胞が酸素を求めてパニックに陥る感覚。
 鼻が詰まったりなどするともうだめだ。
 浅く口呼吸をしながらビニール袋よりは閉塞感が少ない紙袋を顔に当て、そのまま冷や汗を流して身体を丸め、動けなくなってしまう。
 助けて、と這い出て行って誰かに縋りつきたい気持ちを、どうせ誰も何もできないという諦念で抑える時間は、本当につらかった。

 

 彼は周りの部屋の者を憚って静かに、しかし足早に自室へ向かっていた。
 ずらっと居室のドアが並ぶ暗い廊下に非常用の足元灯だけが光っている。
 前方の部屋のドアハンドルががちゃりと動くのが目に留まった。
 この部屋の住人は確か臨床医学部門で、看護師の男だったはずだ。
 自分と同じくらいの背格好ながらこの研究所職員のご多聞に漏れずなかなかの美形で、かなりのビッグマウス。
 体つき以外は自分とは大違いだったのを思い出しながら乾は廊下の端に寄り、開いたドアから出てくる人影にぼそりと挨拶した。
「こんばんは」
 通り過ぎようとしながら、ちら、とだけ相手を見て、足が止まった。
 そこにいたのは、乱れた銀色の髪に緑色の瞳の「友人」だった。その背後で、この部屋の正当な住人が着崩れた着衣で見送っている。
 看護師は乾に気づくと、あからさまに冷笑を浮かべた。
「こんばんは、乾さん」

 

…………まずい。

 

 結城は慌てて後ろ手にドアを閉め、乾に一瞥もくれず立ち去った。
 珍しく夜更けに自室の外をうろついている植物学者も、気まずさを覚えて逃げるように歩き去った。

 乾は性的なものも含め人間関係には非常に潔癖だった。潔癖というより怯懦という方が正しいのかもしれない。とにかく、自分の中に踏み込まれたくない。周囲に優しいのも、自分のような男に干渉したがる人間はいないという安心感があるからだ。そしてそれは、彼の「お人形」、野崎に対しても変わらなかった。

 容姿も才能も心根も人並み以下の自覚。
 前科があって人格障害で精神疾患を治療中。
 病的な部分を差し引いたとしてももともと偏執的な性格。
 最悪なことに、彼自身が引き起こした傷害・器物損壊事件に係る損害賠償請求裁判での裁定に基づき莫大な賠償額を背負い、少ない月給の大半をその支払いに回しているため貧乏もいいところだ。研究用の資材や書籍は公費で購入できるが、ここでは食費は自己負担ということになっているためエンゲル係数は90%に近い。
 彼は当然、自分が人間としてあまり関わりたくない部類に入っていることを理解している。自分だってこんなやつとお近づきになるなどお断りだ。

 なのに、結城は不思議と彼に親切だった。それは、おどおどしながら雑踏に座り込んでいる大型犬を見るに見かねて撫でてやっているようなものだろう、と乾は理解している。
 パニック発作の時に壁に叩きつけるせいで傷跡だらけな額にふざけてキスされたときなど、乾は大人しくしてはいたが内心驚愕のあまり卒倒しそうだった。

 

 今では結城は気が向くと部屋に上がりこんできて、論文を書いたり乾から見ると食欲を失くすような手術動画の編集をしたりするようになった。そういう懸案事項がないときは勝手に書棚の本を荒らしたりクッションを抱いて居眠りしたりして23時に叩きだすまでのびのびと過ごしている。

 

 容姿も性格も人好きのする結城。
 地味で暗く人を好こうとも好かれようともしない乾。

 

 彼らが一緒にいるのを見ると多くの研究員は怪訝な顔をする。それほど二人は対照的だった。しかしお互い、相手は自分とはかなり違うタイプの人間だと悟っているため特に衝突することもない。
 だから、結城には夜を一緒に過ごす相手は複数いるという噂を聞いても、乾はそれについてどうこうしようという気は起きなかった。
 ただ、美男美女揃いのこの研究所内で、つきあう相手に事欠かないというこの容姿端麗な両性具有者が、なぜ自分のような退屈な男と友人づきあいをしてくれるのか、余計にわからなくなった。
 説明がつくとしたら、「同情」「憐憫」だ。
 乾にはそれが最も自然に思え、一人で心底納得していた。

 

 大浴場はもう閉められている時間だったので、小浴場で身体を洗って温まり、部屋へ戻って点鼻薬を鼻孔に一滴ずつ流し込む。

 

 そういえばさっき会ったあの人は僕を見るといつもあけすけに嫌な顔をする。
 きっと彼は結城さんのことを大好きなんじゃないかな…………

 

 抗不安薬を白湯で服用しベッドに入りながら乾は思った。

 

 結城さんは綺麗だし性格も優しいし、沢山の人に好かれて好いて当たり前だ。
 彼は確かに僕の友人だと自分から言ってくれるけど、僕は彼にとって大勢の友人の中の一人で、友人と呼べるのがほとんどいない僕にとっての彼とは全然違う。
 彼は僕に同情して構ってくれてるってことを、忘れてはだめだ。
 たまには、何か僕にもできることがあれば……

 

 彼は、枕元に飾った小さな額に手を伸ばし、微笑んでいる女性の写真をガラス越しに武骨な長い指で撫でた。
「花冠ちゃん、おやすみ」
 そして、薬の効果で一気に眠りの底へ沈んでいった。

 

 翌朝かなり早い時間、癖毛でふわふわした髪を顔の左側にかかった分だけ掻き上げながら植物部門のラボラトリーにやってきた吉野は、奥の花卉試験栽培エリアへ繋がるドアの前に立って、手にした鋭い芽切り用の剪定鋏を眺めている乾を発見した。
「お……おはよう……乾さん」
 一気に眠気が覚めた。他の研究員はもちろんだれも来ていない。
 植物組と俗称されるこの部門中、彼の来歴は知れ渡っていた。
 あの雪の中の脱走騒ぎにおいて何を考え、何を望んでいたのかということも。
 朝の目覚め切っていない細い体の中で、ひどく心臓に負担がかかり始める。
「ああ、おはようございます、吉野さん」
 硬質な金属の輝きから目を上げて、乾はにっこりした。
「こんなに早く誰かが来るなんて思いませんでした」

 あのときだってそうだった。
 廊下で会った彼の顔色が尋常でないのを見て
「具合悪いんじゃないですか」
 と尋ねると、彼は
「ああ、今日はちょっと疲れて」
 と答え、こうやって笑った。何となくその後ろ姿を眺めていると、医学部門の小柄な薬学者が悪戯っぽくちょこまかとついていくのが見えた。
 後で知ったのだが、あれは彼が自分で自分の腹を切り開き、巨大ホチキスで傷口を留めた直後だったのだ。
 だから彼女は、乾の笑顔は全く信用ならないことを知っていた。
「あ、あの……乾さん……それ何に使うんですか」
「それって?」
「その鋏です」
「これでやることって言ったらあれしかないでしょう」
 手の鋏を逆手に持ち替えた乾に吉野は思わずたじろいだ。
 ふわっとした口調に苦労知らずと誤解されやすいが、それなりに世の辛酸を舐めてきた彼女は、乾の瞳を真っ直ぐ見た。
「あのね、乾さん、馬鹿な考えはやめましょうよ」
「そうですね……馬鹿な考えかも知れませんね」
乾は目を細めた。
「だけどたまにはこういうのもいいかなって」
「たまにはこういうのも、程度の気持ちで騒ぎを起こそうっていうんですか!」
「騒ぎ、起こりますかねぇ?」
 その背丈と同様に間延びした言葉に吉野は眉根を寄せた。
「起こりますよ! 経験に学んでくださいよ!」
「ちょっと見てみたい気もしますねぇ、その騒ぎ」
 現在のところ植物組の緑一点である乾は楽しそうに笑った。
「乾さん……」
「そうだ、吉野さん、あなたは花言葉に詳しいですか?」
「え?」
「あなたの色彩感覚を見込んで、ぜひ手伝ってもらいたいんですが」
 大男はドアを開け、花卉を専門とする若い研究者を手招きした。

 

 点野は驚いた。
 朝、仕事場に来て目に入ったのは、作業台で真紅と白のバラを贅沢に盛り上げた花束に様々なリボンや不織布をパンチングしたレースをああでもないこうでもないと合わせてみている乾と吉野の姿だった。
「おはよう……何やってんだ」
「おはよう、点野さん」
「おはようございます、てん……点野さん」
「桂、また『てんの』って呼ぼうとしたな?」
「い、いいえ?」
「『しめの』って読むんだって何回言ったらわかるんだっつーの」
「誰もそこまで言ってません!」
 その間に吉野がふんわりとしたオーガンジーの幅広リボンとサテンの細いリボンを手早く選び、組み合わせてきゅっと結ぶ。
「ほら、この色が映えると思いません?」
「あ、ほんとだ……さすが吉野さんですね。ありがとうございます」
 難読人名の話題から解放されてほっとしたように乾は礼を言った。
 そして、壁の時計を見ると、そそくさと立ち上がる。
「じゃあ、僕はちょっと席を外します。すぐ戻りますね」
「きっと喜んでもらえるよ乾さん」
「そう願います!」
 そうして出来上がった大きな花束を抱え、どたばたと乾が出て行った。始業前に、誰かに届けてしまうつもりらしい。
 点野は微笑んで手を振っている吉野に尋ねた。
「何なんだあれは」
「よくわかんないんですけど、贈りたい人がいるんですって」
「は?」
「花言葉とか気にしてるんですよ、乾さん。あの人にもああいう一面があったんですね」
 あまりにも突拍子ない話に点野は言った。
「珍しい…………もうすぐ嵐が来るんじゃないのかねえ」
 閉まったばかりのドアが再び開き郷田が入ってくる。
 挨拶も無しに彼女は言った。
「今、でかいのが花束抱えて廊下走ってったけど、なんだありゃ?」

 

 結城はいつになく機嫌がよかった。
 その日、朝10時から昼食をぶち抜いて6時間を予定していた手術が4時間で終わったのだ。現在のところ容体も安定し手術経過も良好で、患者の親族はモニター越しに涙を流して喜んでいた。
 自分の手腕がこういうかたちでフィードバックされると誰だって気持ちがよい。
 職員食堂のランチタイムは終了していたが、不規則な勤務形態の職員のために売られているサンドイッチを買って晴れた中庭に出る。
 木漏れ日の差すパーゴラの下のベンチで昼食を済ませ、結城は思った。
――よし、今夜はいっちょ自慢しに行くか
 同じ臨床医学部門の医師たちに話したところで所詮同業者、不快に思われるのはわかっている。
 こういうとき彼は、わからないなりに相槌を打ちながら話を聞き感心した様子で
「すごいですねぇ」
と言ってくれる門外漢の友人の部屋を訪ねて行きたくなる。
 訪ねていくと、乾はちょっと戸惑った顔をする。あれはきっと、人嫌いな自分自身に対するポーズのようなものなのだろう。

 

 この間焼いたクレープ、冷凍しといたからあいつの部屋でシュゼットにしてやったら喜ぶかな。
 あいつはガワは大人だけど中身はほんとにお子ちゃまだから。

 

 食べながら口の端にソースつけているところまでリアルに想像できる。
 結城は朝剃った髭がほんの少し伸びてざらついている乾の口元を拭いてやろうとした。
 その瞬間、顔に何かが触れ、結城は跳び上がるほど驚いた。
 集中の糸が切れ、食後なのも手伝ってうたた寝していたらしい。
 パーゴラから垂れ下がる、咲き初めの藤の花房の隙間から差す光を遮って、背の高い男が立っている。
 逆光で顔が見えにくい。
「け……」
「よお」
 その先を言わせたくなかったらしい白衣の男は、どかりと結城の横に腰を下ろした。
「さっきの手術、さすがだったな」
 それは最近、結城が夜足繁く通っている部屋の主だった。赤い線の入った臨床部門のネームタグには看護師のコードが印刷されている。
 そして、彼は大きな花束を小脇に抱えていた。
「ああ、どうも。君らのフォローのおかげでね」
 少し嫌な気分になりながら、結城は短く賛辞に返礼した。
「探してたんだぜ? これを渡そうと思って」
 彼は赤と白のバラの花束を両手に持ち直すと、ふざけた調子で言った。
「どうぞ、受け取ってください、結城先生」
 面食らった様子で花を胸に抱いている遊び相手に、彼は満足した様子だ。
 きょろきょろと周囲を見回し、キスしようと顔を近づけてくる。
 顔を花束でガードすると、結城は不機嫌な声を出した。
「何の真似だ」
「いいじゃねえかキスくらい。俺たちの仲だろ?」
 結城は、俺たち、と一括りにされたことに耐えがたい不快感を感じた。
 日中、夜だけの間柄の相手に会うと、何でこんなやつと、と首をひねりたくなるほど揃いも揃ってクズばかりだ。無意識に彼は、捨てても捨てられても痛痒を感じない相手ばかりを選ぶようになっていた。
「君とはそれだけのつきあいだって言っただろう?日中近寄らないでくれないかな」
「冷たいな」
「君には体以外何のとりえがあるんだ? 無いだろ? ……触るな!」
 伸びてくる手を、結城は払い除けた。
「はっきり言ってくれるねえ。夜はすり寄ってくるくせに」
 怒る様子もなく、男はベンチの背凭れに寄りかかり長い脚をいかにも洒落者っぽく組んだ。
「赤と白のバラの花言葉、知ってるか」
「興味ないね」
「俺もよく知らないんだけどな、『花屋』がいろいろお節介で……」
「話は手短に頼むよ」
 気分の良い春の昼下りを台無しにされた気分で、結城は冷ややかに男の話を断ち切った。
 男は藤の花房に視線を遣った。
「俺さ……意外とあんたのこと気に入ってるんだぜ」
「…………」
「他のやつのところに行くのを見ると嫌な気分になるんだ」
 緑の瞳は、冷たいままだった。
「他の女とも寝てるやつにそんなこと言われてもね」
「そう言うと思った。でもあんたが嫌だったら整理するぜ?」
「嫌じゃない。君らしくて、実にいいよ」
 痛烈な皮肉だった。そしてそれは自分自身にも通じている。
 結城は香り立つバラをしみじみと眺めた。花弁がぼってりと肉厚で、瑞々しい。葉も隅々までぴんと張りがあり、まるでついさっき薔薇の木から切られたばかりのように見える。
 ここは研究施設と言いながらも結局は囚人の収容所だ。刑務所よりずっと縛りがゆるく、申請して認可さえ受ければ外の業者に様々な物品を発注できるとはいえ、新鮮な花は手に入らない。
 しかし業者でさえ、今の日本でこれほど艶やかな状態の花は手に入らないのではないだろうか。いや、そもそもこんな豪奢な作りのバラは見たことがない。
 結城は、ふと立ち上がり中庭から植物部門のラボラトリーの窓を見た。遮光ブラインドが掛けられて、中は見えない。
「そうか……じゃ、これまで通りで続けるか」
 男は背伸びをし、彼なりの告白を突っぱねられたことに露ほども痛みを感じない態度で立ち上がろうとした。
「ちょっと待って。この花は、どこで手に入れたんだ」
「どこだっていいだろ?」
「よくない。それに君は他人にこういうものを贈るようなデリカシーはなかっただろう?」
 花束をベンチに投げ出して、結城も立ち上がった。
「誰の差し金だ。言えよ!」

 

 夕刻、終業間際に、乾は真剣に小さな花束を作っていた。
 朝作っていた花束をミニバラでそのままミニチュアにしたものだ。
 彼の手元を覗き込んだ吉野は感心した。
「ああ、朝のあれを小っちゃくしたやつ! 可愛い!」
「ありがとうございます。吉野さんがいろいろ教えてくれたから、ミニブーケを作ってみようと」
 作業の邪魔だったのか白衣の袖をくるくるとまくりながら、点野も乾の背後から声をかけた。
「へえ……これは誰にあげるんだ?」
「これは、僕の部屋に飾るんです」
 今朝、赤と白のバラの花言葉を彼に教えた吉野は思った。
――ああ、これをお供えする気なんだ、乾さん。

 

 そのとき、ラボの扉がバタンと派手な音を立てて開いた。
「嵐が! 嵐が来るぞ!」
 急を知らせるべく走ってきたのは郷田だった。
「え? 嵐?」
「いい天気じゃないですか?」
「朝、嵐来るかもって確かに言ったけどあれは所謂慣用表現で……」
 ぺたぺたと草履で駆けこんできた郷田は後ろで一つに括ったゴムからほつれた髪を幾条も乱しながら、乾の胸ぐらを掴んだ。
「おいお前、何やらかした?!」
「え? 何も?」
「何悠長に座ってんだ、嵐が来るって言ったろ?! さっさと逃げろ」
「?」
「あああもう逃げてる時間はねえ、隠れろ」
「どこに」
「机の下にでも潜ってな!」
 わけのわからない顔のまま、大男は椅子から引きずりおろされて、机の下に押し込まれる。
 その途端、静かにドアをノックする音がした。
 その場にいる者全員が固唾をのむ中、返事を待たずにすっとドアが開いた。
「あ……結城さん……?!」
「やあ、植物組のお嬢さん方。お邪魔しますね」
 そこには激しい怒りの空気を纏ったにこやかな結城が立っていた。手には例の花束が握られている。
「あ、その花……」
 結城は微笑んではいるが何かひどく機嫌を損ねている風だ。
「私は、この花束の製作者にちょっとクレームがあって来たんですが」
 聞こえてくる声に、乾は思わず身じろぎし、スチールの机の引き出し部分に頭をぶつけた。
――結城さん怒ってる! なんか怒ってるよ! なんで?!
 ゴン、という音を隠すように吉野は言った。
「あの、それ、私も作ったんです」
「いや、私がクレームをつけたいのは大柄な男性で眼鏡をかけててちょっと非常識な方なんです」
 明らかに乾のことだった。
「……クレームなら私が伺います」
 ふふふ、と結城は唇を歪めて笑った。
「いるんでしょう、彼」
「あの、クレームの内容を……何か不都合があったら私が謝りますから」
 勇を鼓す吉野の台詞に結城の目が吊り上がった。
 彼はつかつかと乾のデスクの前に歩み寄ると、思い切り裏板を蹴った。
「女に庇われて逃げ隠れすんのかこらぁ!!!!!!!!」
 中四国支部アダルト層の綺麗処がドスの利いた声で怒鳴り、スチール板を蹴りつけるのを、皆呆然と見つめている。
「足先が見えてんぞこらぁ!!そこにいるんだろうが!!!!!!」
「…………」
 出てこようとしない乾に業を煮やし、とうとう結城は机の表側に回ってきた。
「結城さん落ち着いて! ここは穏便に!」
「話しあえばわかるから! 暴力はよくないっすよ」
 行く手を阻もうとする点野と郷田に、結城はまた優しげな微笑を浮かべた。
「あのですね、私はあなた方の同僚の男性にかなり下衆な遣り口で辱めを受けました。彼には報いがあって当然ではないでしょうか?」
 辱め、という言葉に女性陣は表情をこわばらせた。
「あの、うちの乾が結城さんを辱めた、と」
「ええ、それはもう手ひどく」
「……最後までやっちゃったってことですか」
「ご想像にお任せします」
 光の速さで彼女たちは引いている。
 机の下に押し込まれていた乾は我慢ならなくなった。

「嘘だ!!!! 僕は男に興味はない!!!」

 椅子を突き倒して机の下から這い出てきた男の前に、結城は無言で仁王立ちになった。
 火を噴きそうな緑の瞳にぶつかって彼の視線はドーヴァー海峡で新記録が出せそうなほど泳ぎまくっている。
 たまにちらっと結城を見て、またしおしおと視線を外す様子は悪戯を見つかった犬そのものだった。
 誰も言葉を発さない時間が2分を過ぎようかという頃、結城は乾に声をかけた。
「乾先生、私がどうしてここに来たかわかりますか」
「……わかりません」
 蚊の鳴くような声で大男は答えた。
「じゃあ、私が来た理由もわからないのになんで隠れてたんですか」
「隠れろって郷田さんが」
「人のせいにするな!」
 結城はバンと横にある脇机を蹴った。
 乾はびくんと身を縮めた。
「乾先生、あなたは今日、ひっじょ~に迷惑なことをやってくれましたね」
「ごめんなさい」
「何が迷惑だかわかってないくせに謝るのはやめてください乾先生」
「…………はい」
「とにかく、私はこの上なく不愉快でした。何であんなことをするのか説明してください」
 敬語怖い。先生呼ばわり怖い。
「僕は、ダメ人間ですから」
「だから?」
「子どもの頃から友人と呼べる人もいなくて、…………結城さんが親しくしてくれるので舞い上がっちゃったんだ……と思います……」
「それで?」
「あの……昨晩たまたまあの人と結城さんが一緒にいるとこ見ちゃって…………いいんですかみんなの前でこんな話」
「続けて」
「あの人は多分、結城さんのことほんとに好きなんじゃないかなって思ったし、結城さんも彼のこと嫌いじゃないんだろうなって思ったからほんのちょっとだけ……」
 既に植物組女子も興味津々で聞き入っている。
「二人で幸せな気持ちになってもらえたらいいなって思って……」
 そう言った途端、フルスイングで薔薇の花束が乾の側頭部にヒットした。
「余計なお世話ぶっこいてんじゃないよ!!!!」
 柔らかな白の花びらに混じって、真紅の花弁が血液のように飛び散る。
 銀縁のメガネがどこかへ飛んで行った。
「何で怒るんですか?」
「人の気持ちも空気も読めないくせに、しゃしゃりでるんじゃないよ全く!!」
 もちろん一発では済まない。
 何度も何度も大きな花束で殴られ、腕で顔を庇って体を丸めながら、乾は棘をカットしておいて本当によかったと思った。
「俺はねえ! あいつのことなんか大っ嫌いなの!!」
「じゃあなんでおつきあいしてるんですか」
 乾にとって、そこが結城に関する最も不可解な部分だった。
「うるさい!!!!!!!」


――あいつはただの代用品で……
 表現しようのない思いがスパークする。

「あああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」
 結城が逆上して喚き始めた。
 花束が叩きつけられるスピードが上がる。
 赤と白の花弁が、はらはらと床に散り敷いていた。
 殴られながら乾は
「そう言えばこの人は、温厚に見えるけど人を殺して服役中だったんだ」
とぼんやり思った。

「やめろ!」
「やめてください!」

 呆然自失状態から覚め、悲鳴のような声がいちどきに上がった。
「乾さんはともかく、花が……私が大事に育てた花が!!!!」
 それは、結城を除いたその場にいるもの総てが丹精込めてきた生ける宝石だった。
 結城の手が止まった。
「人命を扱ってるあなたにとってはただの花かも知れないけれど、私たちには可愛い子たちなんです」
「まだ蕾もたくさんついてる。どうか邪険に扱わないで。花は悪くない。悪いのはこいつだ」
 点野の白く柔らかい手に指差され、乾はほんのちょっとだけ口を尖らせた。

――あ~、どうせ僕はこんな扱いですよね~

 

「結城さん、あの……」
 吉野がおずおずと結城に声をかける。
「その花束作ってるとき、乾さんすごく楽しそうでした。大事な人の手に渡るからって」
「…………」
 郷田が吉野の言葉を引き取ってさらに続ける。
「だから、もういっそ、嫌なやつの手を経たのは忘れちまって、桂からもらったってことにしちゃえば丸く納まるんじゃないすか?」
「はい?」
 結城はぽかんとした。その横で全ての元凶、乾が抗議の声を上げる。
「何言ってるんですか?! 僕が野郎に花を贈るなんてありえないでしょう!!」
「乾さんは黙っててください!」
 さっきは庇ってくれた吉野にまで、彼はとうとう見放された。
「あなたは大事な人に花を贈った! それでいいじゃないですか!!」
「何ですかそのだめだめ論理! 僕の目的はそこじゃないんですって!」
 結城は、ついさっきまでハリセンのように振り回していた花束を見た。
 開き切っていた数輪は花弁を散らせて丸坊主になっていたが、鮮度がよいためか、咲き初めのものや蕾は無事だった。
「そっか……そうだね……」
 赤と白のバラの花言葉は……
 結城は花束をそっと抱き締めた。
「結城さん納得しないで! 何でエニグマな植物組女子論法に乗っかっちゃってるんですか」
 まだ抗弁しようとする乾を、結城はぐっと睨みつけた。
「桂ちゃん、俺のことど変態だとか夜の帝王だとかいろいろ言ってくれたよね」
「……はい」
「……俺のこと気持ち悪いと思ってんだろう?」
「え?」
「正直に言えよ。怒らないから」
「……気持ち悪くはないですよ……でも」
 ここで黙っていればいいものを、いとも正直に乾は言ってしまった。
「謎の生物だと思っています」
 彼は単に、自分のような人間と友人づきあいをしてくれる稀有で物好きな、かつ男として扱ってはいるがたまに妙な色香を感じて困惑することもあり、どう扱っていいのかよくわからない存在という認識を端的に言っただけなのだが、言葉の選び方がひどく悪かった。
 皆は、この男は馬鹿なのだと改めて感じ、謎の生物は、馬鹿に胸が触れ合わんばかりにぐっと近寄った。
 剣呑なオーラに後ずさろうとする乾の頬を細長い指がぐっと掴み、思い切り捻り上げる。
「いひゃっ!!!!! いひゃいでふ!!!」(痛っ!痛いです!)
「乾先生はお体ばかりお育ちあそばしてもののおっしゃい方がおなりになってませんね」
「らって、おほらないっていったやらいでふかああああ!」(だって、怒らないっていったじゃないですかああああ!)
 再びにこやかになった結城は、植物組の面々を振り返った。
「皆さん、乾先生をお借りしてもよろしいですか」
 まだ頬を捻り上げられている乾は涙目だったが、誰も彼の身を顧みることはなかった。
「あ~桂はもう帰るとこだったよな?お疲れさん」
「乾さん、ミニブーケ、お部屋の前に届けときますね。後顧の憂いなく行ってらっしゃい」
「明日の業務に差し支えない程度なら煮て食おうが焼いて食おうがご自由に」

 そのまま、ドナドナの歌さながらに乾は結城に引っぱられていった。
 廊下を歩く者が皆、大男のネクタイを犬の手綱のようにひっぱりながら凄味のある笑顔を浮かべている彼には道を空けた。
 謎の生物に引っ張られていきながら乾は、善意のサプライズのつもりが何でこんなに怒られなければならないのか今一つ理解できなかった。
 その後どうなったのかは誰も知らない。

 

「なあ、吉野。花言葉に詳しいんだろ?」
 やっと静かになったラボで、郷田は、クローンの人参を齧りながら訊ねた。
「詳しいってほどでもないですよ」
「桂にも花言葉ってあるんだよな」
「ああ、ありますね。素敵なのが」
「へえ、どんな」
「『不変』ですって」
「『不変』かぁ……あいつあんなに変わってるのにな」
 点野も溜息交じりに言う。
「頭の中を変えた方がいいぞ、あれは」
 郷田は実にいい音で人参を噛み砕いている。
「ああそうそう、そんなことより、あの花束の花言葉って何だ? 赤白の薔薇」
 吉野は花が咲くように笑った。
「いろんな花言葉があるんですけど、総合するとですね」

 

――いつもあなたと一緒にいたい

Ⅴ. ちょっとした散歩

 真っ暗な空間の上に覗く青い空は小さな円で、緑色の草と、腐った木切れで縁取られている。
 ここは古井戸の底。
 水は涸れ、腐葉土の匂いがする。
 右足首がずきずき痛み、見る間に恐ろしいほど腫れてきた。

 

――俺って、何やってんだ

 結城は溜め息をついた。

 事の発端は乾の「ちょっとした散歩」という言葉を信じたことだった。

 

 本日は日曜日。

 この研究所においても名目上は休日なのだが、生き物相手の研究者、特に医学者たちは一日丸々自分の好きに使うことはほぼ不可能だった。
 刑務所の中で朽ちていく囚人の能力を活かす場、かつ研究を主眼に行う施設という性質からここは救急指定医療機関にはなれないため、時間に余裕が持てそうに思われる。
 しかしNIR中四国支部の臨床医学部門に付随する医療施設は、対外的に発表はされないものの特別法において「第三次医療機関に準ずる」と明記されている。さらにここに集められているのはそれなりに実績を上げた者ばかりだ。ペーペーの研修医や新人が流動的に配属される玉石混淆の様相を呈する一般の「教育機能を持つ医療機関」ではなく、技術水準が非常に高い。
 要するに、日本全国から第三次医療機関からの推薦状を手挟んで、重篤な患者や他の医療機関では対応できない症例の患者が集まってくるということであり、それだけにややこしいことが多い。

 だから休日は貴重なのだ。

 結城は夜中の緊急手術明けに朝の回診を済ませ、患者の容体が安定しドクターコールの心配もなさそうだというのを確認すると、あとは今日の日直担当に任せることにして仮眠を取り、昼過ぎに起き出してぶらぶらと廊下を歩いていた。
 そこで彼はポケットをぱんぱんに膨らませた作業服、作業靴、首にタオル、度入りの防護用ゴーグルを装備した黒い短髪の植物学者と遭遇してしまった。
 結城は、すいっと大男に近づいた。
「おはよう桂ちゃん」
「こんにちは。もうおはようって時間じゃないですよ」
「細かいこと言うなよ。今から作業?」
「ええ、散歩がてら」
「一人で?」
「そうですよ」
 必要以上のことは答えず、そのまますれ違おうとする乾に、結城は声をかけた。
「作業って何?」
「育苗場の近くの古井戸に蓋を乗せに行くんです。歩いてすぐですよ」
「古井戸?」
「ええ。随分昔、集落があったみたいで」
「俺、手伝おうか?」
「すぐ終わりますから」
 ゴーグルの奥で温和しげな眼が少し困惑の色を見せた。
「ただ蓋を乗っけるだけで面白くもなんともありませんよ?」
「面白いかどうかは俺が決めることだろ?」
 乾は少し面倒くさそうな顔をした。
「結城さん、藪に入れるような服持ってるんですか?持ってないでしょう?」
 結城は身体の線の出るユニセックスなデザインの黒いカットソーと細身のパンツを身に着けていた。流行も何もない地味な服を穴が開いても下手くそに繕って着ている乾と違って、結城はシンプルでシックなそれなりの品を好んで着る。NIRの服装についての内部規定は実に緩い。
「これじゃ駄目?」
「駄目ですよ。汚れても破れても構わないような、明るめの色の長袖と長ズボンと運動用の靴でないと」
「わかった。2分で支度するからここで待ってろ」
「え?」
 医師だとて力仕事はする。なめられたものだ。
 白いワーカージャケットと洗いざらしたジーンズを身に着け、スニーカーを履く。タオルと冷蔵庫の中のミネラルウォータのボトルを引っ掴んで、1分50秒で戻ってみると、乾はもう出口へ向かって歩き出そうとしていた。
「待てよ!まだ2分経ってないだろ?」
「早かったですね」
 この優しげな笑顔をいつも作っている友人は、たまにひどく薄情だった。
「そんなに俺連れて行くの嫌なのか」
「ええ、気乗りしません」
 都合のいい時にはあれやこれや話しかけて来るくせに、と結城は思った。

 梅雨の晴れ間の空の下、丈高く夏草の様相を帯びてきた茂みを「こっちが近道です」と言いながら、乾は大股に歩く。
 至って普通に歩を進めているが、彼は1辺が150cmほどの正方形エキスパンドメタルシートにロープをかけ、クッションバンドをつけて背負っていた。その重さは30kg近い。
「桂ちゃん、ちょっと代わろうか?」
 そう言うと乾は笑った。
「たぶんあなたには無理ですよ」
 結城は自分の身体能力にそれなりの自信があった。
 医師だって体力勝負だ。特に外科医は、数時間にわたる手術でずっと立ちっぱなしのまま集中力を途切れさせないことが要求される。

 しかし、今「植物組」と「病院組」の体力の相違を結城は噛みしめていた。
 しかもこのエクストリーム競技のような道程を共にしているのは、自分で開腹手術を行った後止血もろくにせず、雪の中徒歩でこの研究所敷地の縁へと行き、すんでのところで塀を突破するところだった化物だ。
「桂ちゃん、……歩いてすぐって言ったよね」
「ええ、すぐですよ」
「もう随分歩いてるんだけど」
 随分も随分だ。蒸し暑い6月の空の下、結構な早足だ。
「結城さんのペースだとあと30分くらいです」
「え」
「もしかしてちょっと疲れてます?」
「もしかしなくても疲れてるよ。俺夜中の緊急手術明けなんだから」
 こういうことを言えばこの後投げつけられる言葉はわかりきっている。
「だからやめときゃよかったのに」
 案の定、乾は渋い顔をした。
「だって散歩がてらとか言うから!こんなエクストリーミーだとは思わなかったよ!」
「僕には普通の散歩なんですよ!」
 そう言いつつも、乾はペースを落とし結城の右に並んだ。
「休みますか?」
「うん」
 結城は倒れ込みたいのを理性で押さえて道の脇の岩に腰かけ、乾は立ったまま腰に引っ掛けていたステンレスボトルを外すと一口飲んだ。
「座らないのかい」
「いっぺん座ると立ち上がるのが大変ですから」
 乾は背中の、網状に加工した金属板を首を動かして示した。
「さあ、もう行きましょう」
 休憩開始からまだ2分程度しか経っていない。しかし、30kgを背負ったままの友人を思えば仕方がない。結城は勘弁して欲しいと思いながら立ち上がった。

 

 歩きながら、乾は自分の横を歩く結城を盗み見た。
 先日の、この人気者の友人の恋路にちょっとした「花」を添えてやろうした自分の行動は、非常に迷惑だったという。
 結城の怒りの理由は「セフレとの仲に首を突っ込んだこと」らしいのだが、そのセフレについては「大嫌い」だという。
 その場をやり過ごすために平謝りしたが、正直わけがわからない。
 善意の方向が明後日を向いていたからといって全く悪気はなく、むしろ善行であると信じてやった行動なのだから、いつものようにちょっとシニカルに笑って流してくれればいいのに、あんなにきりきり怒られて殴られるとは。
 おかしいのは、嫌いだという相手とステディに肌を重ねて平然としているこの謎の生物のほうだ。
 解せない。
 だが蒸し返すのも何なので黙っている。

 

 気紛れに近づいてきた結城をどう扱っていいのかわからず「謎の生物」というカテゴリーに押し込んで当たり障りなく接しているうち、いつのまにやら彼は友人という枠にすとんと収まった。
 死ぬほど好きだった人間を手にかけてしまった後、もともとあった人嫌いの傾向に拍車がかかり、彼は一人でいたがるようになったのだが、その棘だらけの垣根をどうやって突破したのか、いつのまにか謎の生物は鼻歌でも歌うような気軽さで自分の沢山ある散歩道のうちの一本を、彼の心の庭に敷いてしまった。
 乾はこの人好きのする彼が自分のようなダメ人間に近づいてきた理由を「憐憫」だと片付けていたが、それならそれでよいと思っているうち徐々に、その「憐憫」に対し甘えに似た感情を持ち始めてしまっている。
 甘えとはいっても、他の人間には言わない我が儘を言ったり、愚痴を零したり、八つ当たりをしてみたり、という普通に見られることだ。

 それでも、あとで一人になった時に悔恨を感じる。
 他人とのなれ合いを激しく嫌っていた自分が腐っていくようで、知らず知らず溜息をついてしまい、スモーキーな緑色の瞳が上目遣いに睨んだ。
「何だよ」
「いえ、何も」

 

 午後三時を回った頃、やっとヒノキ科の育苗場へ着いた。
 育苗場と言っても、林の開けた場所に畑を作って苗を植え、マルチングしただけというローテクな眺めだった。
 ひょろりとした苗木が、列をなして植えつけられている。
「ここは翌檜の育苗場なんです。T県の委託事業で、材質改良を頼まれてるんですよ」
 この品種改良委託事業は点野が中心に関わっている。彼女たちは乾ほど派手な立ち回りをすることもなく真摯に研究に取り組んでいるため、この育苗場へは警備員付きで車両の利用ができる。もちろん乾も彼女たちが一緒のときだけ車に乗せてもらえるのだが本日は日曜日、業務めいた内容とはいえプライベートの単独行動だ。だからどうしても徒歩になる。
 結城は畑の脇に横倒しになった枯れ木に座り込んでペットボトルの水を飲んだ。
「あ゛ぁーーーーー疲れたーーーー」
「結城さんおっさん臭い」
 そう言う一つ年下の大男は、おっさん臭いどころか爺臭い。
 やっと、背中のエキスパンドメタルを下ろした乾は肩をぐるぐると回している。
 さすがに暑いらしく、乾は作業服の上衣の前を開け首回りをタオルで拭くと、下に着ている首回りが伸びたTシャツの胸元を軽くつまみ上げ、胸元に風を入れた。
Tシャツの、汗を吸った部分の色が濃く見える。
「何見てるんですか?」
 座ったまま結城がぼんやりとした眼差しを向けて来るのに乾は気づいた。
「…………」
「結城さん?」
「……あ、何?」
 屋外作業に慣れきってしまっている植物学者は、気遣わしげに銀色の長い髪に縁取られた顔を覗き込んだ。
「調子悪いんですか? 水分足りてます?」
「大丈夫だよ。ちょっとぼーっとしてただけで」
「それ脱水じゃないですか」
「いや違うって」
「水じゃ駄目です。僕のボトルのはORSですから、こっち飲んでください。僕が口つけてしまってて申し訳ないですけど」
「あ、ありがとう……」
「涼しくして休んでるんですよ? 僕はちょっとやることがありますから」
 念を押すように乾は言うと、苗が植えつけられた畝に入っていった。

 

 ここは当然のように雑草が生える。そこにいろいろと好ましくないものが潜んでいることがある。
 研究者というより農夫な気分になりながら、ポケットからヘビ忌避剤のパックを取り出してビニールを破り、彼はペレット状の中身を几帳面な手つきで育苗場に撒いていった。
 乾にとってはヘビは怖くないどころか人間よりずっと愛らしい生き物に思える。しかし、明日ここで計測作業予定の植物組のお嬢さん方がマムシに咬まれでもしたら大ごとだ。
 20分ほどかけて撒き終り、腰を伸ばして辺りを見回す。
 ここでやっと、彼は結城の姿が消えていることに気が付いた。
 結城が座っていた横に置いていたエキスパンドメタルシートがなくなっており、引きずった形跡がある。
 乾はついぞ出すことのない大声を上げた。
「結城さん! どこですか!」

 

 乾が薬剤を撒いている間、結城は周囲を眺めまわすうち、西側に15mほど離れて地に突き刺した数本の竹杭に、黄と黒のトラロープが円陣を描いて張られた地点があることに気付いた。
――ああ、これが例の井戸ってやつか。
 この距離なら、この金属板を運べる。
 もう井戸枠はない。
 引き摺ってこの板を乗っけるだけでいいのなら、難しくはなさそうだ。
 手伝う、と言ってついてきた以上、何かしなければ。
 彼は立ち上がると疲労困憊の身体に気合を入れ、金属板をぐっと持ち上げて引き摺った。
 乾が見たら「何やってるんですか!」と飛んできそうなものだが、彼は一心に苗木の周りに何か撒いている。
 何とか近くまで引き摺って、トラロープを外し邪魔な竹の杭を引き抜いたところで、ずるり、と足が地につかなくなった。
 草が、井戸の縁を覆い隠していたのだ。
 体が宙に浮き、腹の底から鳩尾にかけて血の退いていくような感覚の直後、激しい衝撃を感じ、右足に激痛が走った。

 

 そして現在に至る。
 何とも情けない気分で、結城は片膝を抱えて丸い青空を見上げていた。

 さらさらと葉擦れの音が柔らかく聞こえる。
 土の壁が音の尖りを丸めているのだろう。
 やっと結城がいなくなったことに気づいたらしく、乾の呼ぶ声が聞こえた。
 医師としてではなく、もちろんベッドの中でもなく、一人の人間としてこれほど真剣に自分の名前が呼ばれたのはいつ以来だろう、とふと思う。
 自分の名前も、こうして呼ばれるとなかなかいいものだ。
 しみじみと耳の奥の余韻を味わっていると、ただでさえ暗い古井戸の底がさらに翳った。
 見上げると5mほど上、逆光で真黒い人影が覗きこんでいる。
「結城さん!」
「あ、見つかった」
 大男は怒鳴った。
「見つかった、じゃないですよ! 返事くらいしてください!」
「うん、ごめん」
「何やってるんですか、もう! ケガはしてませんか?」
「ちょっと右足首捻挫したよ」
「手は?」
「登ってみようとして、ちょっと擦り剥いたけど」
 井戸の底の壁面は礫の層になっていた。手を当てるとぽろぽろと小石が崩れて落ちる。
 これでは怪我をしていなくても登るのは難しい。
「馬鹿!」
 井戸に響く大声が耳をつんざく。
「怒鳴らなくても聞こえるよ!」
「外科医は手が命でしょう! もう何もしないでください!」
 言葉が終わらぬうちに、丸い井戸の縁から人影は引っ込んだ。
 30秒も経たず、トラロープがするすると降りてくる。ロープの端には結んで輪が作られていた。
 少し離れたところから、乾の声が届いた。
「その輪っかに、ケガしてない足を引っ掛けて、ロープにしっかり掴まって! いいですか?!」
「わかった」
 ロープの輪に、左足を掛けロープを掴む。
「引っ張りますよ」
「いいよ」
 ずっ、と身体が持ち上がった。
 揺れるロープ。
 井戸の壁面がじゃりりと身を擦る。
 井戸の底から礫の層や砂の層、きめ細かな赤土や黒っぽい腐葉土の層の重なりがゆっくりと目の前を通り過ぎていく。
 頭上が徐々に明るくなる。
 とうとう目の前には陽光溢れる地上の世界が開け、上衣を脱いでロープを軍手を嵌めた手で引く汗だくの乾の姿があった。
 彼は結城の顔を見るなり叫んだ。
「手を離すな!」
 その叫びの前に、結城は片手をロープから離し、井戸の縁に手をかけてしまっている。
 途端、ぐらりとバランスが崩れた。
 体重が分散したことによって、足のロープが井戸の中心側へ移動したのだ。
 落ち着いて対処すれば何ということもないのだが、結城よりむしろ乾の方が慌てた。
 不意にロープに伝わる力が消失し、結城の身体がもう一度井戸の底へ落下しかける。
 そのとき、結城は脇にぐっと大きな手が差し入れられるのを感じた。
「わっ」
 労わりだとか配慮だとか、そういうものを微塵も感じさせない力で一気に引っ張り上げられる。
 馬鹿力で投げ上げるような勢いの反動で、乾は土埃と枯葉に塗れた結城を抱えたまま後ろに倒れ込んだ。

 

 井戸の底で聴くよりも現実感を伴った、木々を渡る風の音。
 どこかからウグイスの地鳴きが聞こえてくる。
 乾は結城を身の上に抱えたままぐったりと脱力していた。
 さすがに疲れたらしい。
 汗でしめったTシャツの上を通して、激しい心臓の鼓動が静まっていく。
 結城はそれを聞きながら安物の石鹸の匂いと一緒に立ち昇る男の匂いを嗅いでいた。

 何かをゆすぶる匂い。
 何かを使ってつけたものではない、ひとの肌の匂い。

 乾のやっと発した声の響きが、厚い胸郭を震わせる。
「結城さん大丈夫ですか」
「大丈夫だよ」
 最近運動不足で体の固さを自覚し始めている医師はそっと顔を上げた。
「桂ちゃんこそ大丈夫?」
「大丈夫ですよ、僕は」
 気の抜けた声で、パワー型のスタンドプレイヤーは言った。
「もう……休んでろって言ったじゃないですか」
「ごめん」
「だから連れてきたくなかったんですよ」
「ごめん」
「……だけど……」
「何」
「捻挫くらいですんでよかった」
 大きな手がのろのろと軍手を外し、腐った落ち葉が絡みついた銀色の頭を三回撫で、力なく地面に掌を投げ出す。
 結城は身を起こし乾の目を見つめた。
 橄欖色の虹彩が、斜めに差し込む光に金のコイルのように輝いている。
 褐色の色の目はひどく疲れたように、そして優しげに見返すと、すぐに瞼を閉じてしまった。
 唇が静かに動いた。
「結城さん、重いんですけど」
「失礼な」

 

 結城は起き上るとモバイルフォンで研究所にケガをした報告と配車の要請をし、その間乾は井戸を金属板で塞いだ。
 毒草が専門ということは漢方薬にも通じているということで、乾はヒガンバナの根茎を掘り取ってきて石で叩き潰し、ハンカチで包み応急の湿布薬を作って結城の腫れあがった右足首に括りつけた。
「さあ、行きましょうか」
 屈んで背を向けた乾に、結城は驚いた。
「何?」
「おんぶしますよ」
「だってもうすぐ担架持ってきてくれるんだよ?」
「結城さん、もうすぐ日が暮れるんです。明るいうちに車で入れるところまで、自力で出てないと危ないんですよ」
「肩貸してくれるだけでいいから」
「結城さん、引きずるのとおんぶどっちがいいですか」
「何その二択」
「ケガ人と歩いてると日が暮れるんですってば!」

 

 こうして往路30kgを担ぎ、井戸に落ちた人間一人引っ張り上げた植物学者は、怪我人を背負って、膝に負担がかかる下りの林道を歩くことになった。
 しっとりと湿った土を踏みしめながら歩く背中で、結城は残念そうに言う。
「あ~あ、せっかく手伝ってやるつもりだったのになぁ」
「人には人の領域ってものがあるんですよ。僕だってあなたの領域では役立たずでしょう?」
 少し笑って、乾は言った。
「ほら、金星ですよ」
 夕暮れの光が消えぬうちに、西の空に強く輝く惑星が見えた。
「あ、ほんとだ」
 結城は広い背にぴったりと身を寄せた。
「綺麗だね」
「そうですね」
 答えながら、彼は背に感じる感触に少なからず当惑していた。

 女性としては少々発達度が高く、男性としては未完成な、少年のような骨格。
 男性にはあり得ないしなやかな肉付き。
 柔らかくシャツの生地を持ち上げている胸。
 意志に引き結ばれる薄い唇。
 しなやかに動く細長い指に柔らかく波打つ髪。
 そして、男の生理的に受け付け難い匂いと女の生臭さを削ぎ落とした、何と表現すればいいのかわからない不思議な、誘引されるような匂い。
 時折危うく思えるほどの色香を感じることがある。
 それを結城も感じ取るのか、そういう時に限ってじっと顔を見つめてくる。
 それが怖い。
 花冠を失ってからの時間に、自分の心が押し流されてしまうのを感じることがつらい。

 

 だけど、こうして背を向けていれば大丈夫。
 ずっとこれからも背を向けていられればいい。
 そばにいる間、いつまでも。

 

 やっと車両の通れる広さの林道に出ると、4輪駆動車が停まっていた。
 若白髪の不良風坊主頭がトレードマークの山本が、ジーンズにスニーカーという姿で降りてくる。
 このジーンズというのがビンテージだとか何とかで、彼はジーンズ集めに熱を上げている。
 手が空いていたのは彼だけだったようだ。ねん挫と聞いて、気楽に私服で来てしまったのだろう。
「結城さん、捻挫したって?」
「あ、うん。お迎えありがとう」
「お手数掛けてすみません。このまま運びますから、担架は使わなくても大丈夫です。下ろすときちょっとだけ支えてもらえますか」
 山本に助けられつつ後部座席に背中に背負った結城を下ろし、乾は助手席に乗り込んだ。
 運転を担当する警備員に「御足労かけます」と声をかけると、運転手は軽く目礼し車が動き出した。
 それから2分。
 乾の眼は閉じられ、首はがくんとヘッドレストからずれて傾いだ。
「乾さん寝たね」
「疲れてるんだよ」
 山本は、同僚の無数に絡みついた枯葉の切れ端が無数に絡みつく長い髪や泥だらけの顔を改めて見て、ご自慢のジーンズが汚れないようそっと身を離した。

「一体何やってたんだよ」

 結城は車の窓ガラス越しに、さらに空の高みへ昇っていく金星を見た。
「まあ、ちょっとした散歩ってとこかな」

 

 

 

 

Ⅵ. おもちゃのこころ

 

 乾は真夏の果樹試験栽培ハウスからの帰り、アオイラガの幼虫に刺されぴりぴりと痛む右手首腕をシャワールームで洗っていた。


 イラガが発生しているのは知っていた。
 今収穫期真っ盛りのブルーベリーは実に「いいやつ」で、めだった病害虫もなく丈夫で栽培しやすい。それでもやはり二、三種は食害する虫がいる。
 オルトラン(植物体内に吸収されて効果を発揮するタイプの殺虫剤)を使用しない状況下での栽培を行うため、ビニールハウス内で栽培していたのだ。それなのになぜイラガが発生したのかわからない。

 研究員の出入りの時か、壁面下にある開口部の隙間から成虫が入り込んで産卵したとしか考えられないが、その可能性は低い。
 とにかく収穫期の果樹に薬剤を使うわけにもいかず、手袋を使って人力でいちいち駆除しながら熟果を摘み取っていたのだが、手袋と作業着の隙間の部分にふと枝先が入り込み、そこに特大サイズの毛虫がついていた。こういうことには慣れているので大騒ぎするほどのことでもない。しかし、ちくちくと痛み翌日から真っ赤に腫れてしつこい痒みが出るとなると喜ばしいことではない。
 応急処置の第一段階として流水で目に見えない棘を洗い流しては来たが、乾は面長の顔を少し顰め、シャワールームでまだ毒虫の微細な刺棘が残っている可能性が高い作業着を脱いだ。
 いつものごとく発汗した後だ。シャワーを浴びることとする。
 暑い中での作業に熱を持った身体にぬるい湯を浴びると、ふぅ、と気が緩む。
 石鹸を泡立てて頭から足先まで洗う。賠償金の支払いで汲々の彼にはシャンプーなどという贅沢品は使えなかった。
 ただ、植物とつきあっていれば何かしらいいことはあるもので、様々なハーブや花、果実から抽出した精油と果物の醸造液、ナッツや穀物のオイルである程度の髪や皮膚のケアやデオドラントはできる。
 彼は万能薬として知られるティートリーに精神疾患に効果があると言われるスイートオレンジがブレンドされた匂いをゆっくり吸い込んだ。
 同じ植物組の吉野が作ってくれたシャワーローションだ。
 フラワーアレンジメントといい、香りの調合といい、彼女は実に趣味がよい。少し教えてもらって作ってみたことはあるが、同じ材料で作ったはずの液体は妙に薬臭く感じた。
「ティートリーオイル多すぎだよ、乾さん」
 でもこれはこれで乾さんらしい、と彼女は笑っていた。
 彼はのんびりと綿ローンのワイシャツに腕を通し、鉄紺色のネクタイを締めるとシャワー室を後にした。
 ラボへ戻ってデスクの抽斗を開ける。右側の一番上の抽斗のちょっとした文具を入れているトレーに抗ヒスタミン軟膏があったはずだ。
 ところが、その軟膏のチューブは完全に潰れて、使い切られていた。乾はここの研究者たちの中でもかなり握力がある方なのだが、どう頑張っても圧着された状態の金属チューブは当然内容物を吐きだす様子を見せない。
――捨てればいいのに
 こんなぺしゃんこなチューブを大事にしまいこんだ過去の自分に苦笑しながら、彼は人体部門のラボに向かった。

 

「やあ、桂ちゃん、どうしたの?鳥居さんに用?」
 メディカルラボの一番手前にあるサージャリーブランチ前で、結城はたまたま大柄な友人を見かけ、早速声をかけた。
「いい匂いだね」
 彼は湯上りの匂いにふっと微笑む。
 乾もにこやかに言った。
「ああ、ちょっと毛虫にやられたんで、シャワー浴びて着替えてきました」
「刺されたの?」
「ええ、少し」
「診せて」
 骨の太い男の手首のカフスボタンを、滑らかな白い指が外した。
 イラガの幼虫に刺された部分は赤く腫れはじめ、刺棘の痕がぷつぷつと白っぽく小さな水泡となって浮き出ている。
「なんか塗った?」
「いいえ。軟膏切らしちゃっててもらいに来たんです」
「こういうのはできるだけ早く手当てしないと長引くんだよ。俺処方しようか」
「野崎さんに頼みますから」
 医師が業務として処方箋を発行すると公文書として残る。それにその紙切れを薬剤処方の窓口までいちいち提出しに行き薬を出してもらわないといけない。しかし薬学者の野崎に頼めばその場でぱぱっと手に入る。もちろん記録も残らない。
 一度野崎に大嘘をついて経皮麻酔薬を詐取してからというもの、乾はこと薬品の譲渡については彼女にうるさく事前チェックされるようになっていた。しかし、こんな風に誰の目から見ても明らかな症状があれば、悪態をつきながらもいそいそと薬を渡してくれるに違いない。
 その子どもっ気の抜けない愛らしさを思い出し乾は目を細めた。
 結城の口調が、ほんの少し冷やかになった。
「彼女は学会の展示発表の準備で忙しいから、君には構えないんじゃないかな」
「ああ、そうなんですか。道理で最近素っ気ないと」
「だから俺が処方するって」
「…………ありがとうございます」
「もうちょっとありがたそうに言ってよ」
「ありがとうございます」
 生真面目に小さく咳払いし、ややエモーショナルに言い直した乾に、結城は満足した。早速彼はこの友人をラボの扉の向こうへ引っ張りこみつつ、先ほどからずっと背後に感じていた視線の主に鋭い一瞥をくれた。

 

 生物学部門に最近収容された土岐知与はきつく吊りあがった褐色の瞳でその様子を興味深く眺めていた。
 大型犬を思わせる植物毒研究者は、あの両性具有だという銀髪に緑色の目をした医師に世話を焼いてもらうことが日常化しているらしい。
 人当たりよく見えて頑なに自分の領域に踏み込ませない乾も、結城には大人しくなすがままだった。黒髪の男が右手首を結城に預けていた姿は、躾のよい犬がお手をしている光景を彷彿とさせた。

 

 土岐は、気分屋だった。
 彼女は他者との会話中も言いたいことは言うし、気が乗らなければ言わない。
 のらりくらりとはぐらかし、時には露骨に無視していた。
 一事が万事その調子を貫いている。
 土岐は自身の研究対象である様々な動物由来の自然毒で何人もの命を奪った。平たく言えば、興味本位だ。逮捕された後も、彼女の凶行を「狂気に走った研究者の性」と纏めてしまう世間の論調の安っぽさを土岐は冷笑した。
 もちろん後悔も反省もしていない。
 彼女にとっては、人など実験動物としての価値しかないのだ。
 本来ならば死刑を免れないはずの彼女だったが、非人道的で実施不可能な人体への毒物投与実験の数々を纏めた記録が評価され最近この中四国支部へ収容された。
 人間を実験対象にするには制約がありすぎる。倫理の名のもとに、研究者たちが本当に知りたいこと、試してみたいことは封じられているのだ。
 だから、誰かがその檻を壊して人間を対象としたデータを取得し提供してくれれば自身の手も経歴も汚さずに、動物実験で得た推論を確証の域まで引っ張り上げられる。もちろんそのデータを論文に引用はできないにせよ、だ。
――ほら見ろ。ほんとは喉から手が出るほどやってみたかったんだろうが!

 中四国支部へやってきたとき、彼女は細い顎を上向き加減に、長いワンピースと愛用のあちこち傷んだ白衣に身を包んで女王然と歩いた。

 そして、土岐はここにきてから、自分以外に毒物の研究者がいることを知った。
 いる、というよりも、いたという方が正しいだろうか。
 その男は植物アルカロイドを研究していたのだが、今はこの研究所の方針に従い、農学系の方面で黙々と仕事をこなしているのだという。
「ほら、あそこにいるでしょ。乾桂28歳独身、壮絶に空気読めないお兄さん」
 医学部門に所属し、超人的な早さで仕事を済ませてはいつもぶらぶらしている斉藤が窓の外を指差した。彼の妖精のように尖った耳にはイヤーカフが光っている。
「乾さん、真面目そうに見えるけどね、ここに来たときは物理的に大暴れして手が付けられなかったらしいよ」
「ほう」
「この間も脱走しようとして変電施設ぶっ壊して、大変だったんだから」
 土岐は窓の外に、手引きのトレーラーに痩せた女を乗っけてどこかから引っ張ってきた作業服姿の男を見た。
 女は洒落にならない腹痛を起こしているらしく身体を丸め、この距離でも分かるほどに顔色を失って震えている。
「あれ、また郷田さん急性腹症起こしてるみたいだね」
 あの細い女は郷田というらしい。あまり身なりに構っていない様子だがなかなかの美人だ。
 男は通用口に駆けこみ、間もなく車椅子を調達してきた。
 トレーラーから女をひょいと抱えて座面に移し、彼は大股に車椅子を押して通用口から入っていった。
「あのお兄さん、今は優しくていい人に見えるでしょ。育ちがよくて真面目だし」
「…………ふーん」
「でもね、なんかこう、どっか冷たいっていうか薄情っていうか、いろいろどうでもいいって思ってるみたいなんだよね。死にたがってるし」
「じゃあ、自分でさっさとカタつけりゃいいじゃねえか」
「そこんとこよくわかんないんだけど、自殺はだめだって言ってた」
「クリスチャンか」
「ううん、この世には神も仏もいないんだってさ」
 死にたがりの毒物研究者、しかも柔和さはただのうわべだけと来れば、対抗心と嗜虐心が煽られる。
 あのすまし顔したでかいのをつつき回せば、どんな風に唸り、吠え、倒れ伏して這いずるか。
 少し、見てみたい気がする。
 薄い唇にアルカイックな笑みを浮かべて、土岐は言った。
「年下の眼鏡男子か。悪くないね」
「え?」
「ちょっと遊んでみよう」

 

 その夜、土岐は娯楽室の隅で何の気なしに様々な顔ぶれを観察していた。
 部屋の対角線上の隅にある古びたアップライトピアノの前には少し居ずまいを正して、乾が座っている。
 彼は誰もこの部屋のオーディオ設備で音や映像を楽しんでいないことを確認し、その場にいるものにピアノを弾いてもいいかおずおずと了解を取った上で、アナログなサイレンサーレバーを下げて寂しく優しげな曲を暗譜で弾きはじめた。
――へえ、これがあいつの趣味か

 育ちがよいというのは本当のようだ。私服のシャツもズボンもよく見れば擦り切れてみすぼらしいのだが、やさぐれた感じが微塵もない。
「To Stanford。いい曲だよね」
 突然右の至近距離から声がした。
 気が付くと、そこにはゆるくウェーブした銀髪を長く垂らした者が座っていた。容姿からも、そして声でも性別が判断できない。
「初めまして。臨床部門の結城常葉だよ」
 臨床組に結城と言う名の真性両性具有者がいることは土岐も聞いていた。
 容姿端麗でエレガント、誰にでも好かれ米国の愛憎ドラマばりに私生活が華やか。
 それでいて仕事ぶりは実直、クールかつ温厚と聞いていたのだが、横にいる眼鏡をかけた黒ずくめのキメラ(身体の様々な箇所に、本来ならば共存しない様々な遺伝情報の表現型がモザイク状に出現している個体のこと 例:真性半陰陽)は初対面でありながら、土岐に対しあまり好ましくない印象を抱いているようだ。
 そしてそれを隠す気もないように見受けられた。
「ああ、動物組の土岐知与だ。よろしく」
 儀礼的な挨拶が済んでも、結城は剣呑な目つきで土岐を見ていた。
 冷たい空気の中を穏やかにピアノの音が流れていく。
「…………何か?」
「君みたいな美人はさぞかし周りがほっとかないだろうと」
「おあいにく様。周りがどう思おうと知ったこっちゃない。数え年33歳の大厄にして稀少なまっさらの処女だ」
「……………………」
 土岐は微かな嘲りを籠めて、言葉を続けた。
「精神安定剤代わりに誰かと寝る趣味はないんで」
 無表情に押し黙る結城に、蝶の触覚に似て、上向きにカールした二束の髪を揺らしながら土岐は片頬で笑った。
「ああ、精神安定剤代わりってのは一般論な。何でお宅、黙っちゃってんの?」

 

 そこへぶらりと現れたのは、立ち居振る舞いや言葉遣いが実に女性的でマイペース極まりない、俗にいうオネェの渡島だった。この男も、誘拐して調達したヒトで様々な薬の実験を行ってここへ抛りこまれたクチだ。
「あら、年下好みの知与ちゃん! こんなとこで何やってるの?」
 尖った犬歯を覗かせて、悪戯っぽく渡島が言う。
「…………は?」
「斉藤君から聞いたわよ。年下の眼鏡男子に興味があるんだって?」
 どうもあの尖り耳の赤ロン毛が盛大に言いふらしてしまったらしい。
 渡島は、結城の肩に手をかけて土岐にふざけかかった。
「僕も常葉ちゃんも知与ちゃんの一こ下で、眼鏡かけてんだけど、僕ら、どうぉ?」
 言い触らされたところでどうと言うわけでもないが、この状況はいかがなものか。
 まるで高校生のやり取りだ。
 あまりにも馬鹿馬鹿しい。
 ところが、そうは思わない人間がもう一人この場にいる。
「年下の眼鏡男子って、具体的に言えば誰?」
 そう言いながら、結城は腕を組んだ。
 噂を耳に挟んでいて、土岐に話しかけてきたのは明白だった。
「ああ心配すんな。お宅らは射程外。エスカルゴとオネエは『男子』じゃねえから」
「エスカルゴ?」
「ああ、常葉ちゃん、エスカルゴっていうかぁ、カタツムリってね、雌雄同体なのよ」
 笑いながら渡島が感心する。
「うまいこと言うわあ知与ちゃん」
「ちょっと黙って」
 結城は低い声を出した。
「土岐さん、君のプロファイルは読んだよ」
「そりゃご苦労さん」
「君に興味を持たれた相手は、だいたい死んでるよね」
 結城の耳の奥で、乾が自嘲のように言っていたことが谺する。

――毒物で人を殺す人っていうのは、卑怯者っていうか……物事にフェアに向き合うことができない、軽蔑すべき人なんです

「ははっ、ここに来てまで派手な立ち回りはしねえよ。所長に迷惑かける気はないしな」
 実際死刑相当の罪を犯した自分をこの研究所に引き抜いた所長には、土岐は感謝していた。
 絶対にあの光岡所長を困惑させるような行為は慎む。
 これだけは彼女の中での決定事項だ。
 結城は苛立ちを押し隠した声で、言った。
「君が誰に興味を持とうと俺にはとやかく言えないけど、相手はよく選んで」
「ああ、よくよく吟味させてもらうわ」
 土岐は相手の視線を意識しながら、2曲目に奇妙な浮遊感のあるミニマルな曲を弾いている広い背中に眼差しを送った。
「彼は土岐さんの思うような奴じゃない。ほっといてやってくれないか」
 そう言い捨てて、結城はパイプ椅子から立ち上がると、そこから一番遠い部屋の隅へと向かう。曲の終わりにペダルにのせた足からそっと力を抜く乾に影のように寄り添い、耳元に口づけんばかりに何事か囁いた。
 乾は驚いたように結城を見上げた。結城が来ているのに気付いていなかったらしい。
 くすぐったさそうな微笑を浮かべると、乾はそそくさとピアノの蓋を閉じて立ち上がり、先に立って歩く結城の後にのそのそついていった。
 二人の後姿を見送りながら、ふわふわしたくせ毛を軽く掻きあげて渡島が呟く。
「不思議よねえ、常葉ちゃんと桂ちゃんって」
「何が?」
「あれでね、つきあってないんだって」
「そうなんだ」
「なのに、ほんとにたまになんだけど、常葉ちゃん、ちょっとおかしな目つきで桂ちゃん見てるときがあるのよ」
「あのエスカルゴ、下半身だらしないんだろ?エロい目で見てんじゃねえの?」
 高飛車に茶化す土岐に、渡島は記憶を探るように答えた。
「いや、そんなんじゃない感じよ。なぁんかすごく暗い顔してて、声とかかけにくいのよねえ」

 

 手にデザートフォークを持ったまま、大人しい犬が獣医の診察台の上で見せる目つきで、乾はちらちらと横にいる結城を見た。
 ここはしょっちゅう来ているはずの結城の居室のソファの上なのだが、何か変な空気を感じる。
 この優しい世話焼きな友人はどうしたんだろう?
 怒ったような目をして、妙に顔をじっと見つめてくる。
 居づらい。
「どうしたの。おいしくない?」
 結城が訊ねた。
 目の前のローテーブルにはイチジクのパイにクレームシャンティを添えた皿がある。
 以前結城が乾に、クイーンズクリームパフを食べさせたところ、それまで他者にプライベートの時間を侵蝕されるのを好まない様子だった彼が「おや?」という表情を浮かべ、目をふっと和ませた。
 そのときに、結城は気づいた。
 男は胃袋と脳が直結しているというがまさにそれだ。
 この男は、洋菓子で釣れば意外と友好的につきあえるのかもしれない。
 洋菓子だけではない。選択の余地なく草食系で動物性たんぱく質が雀の涙ほどのけちな食事をとっている乾に、肉や魚をちらつかせると困惑しつつもおずおずついてくる。
 人嫌いだという彼が、あっという間にTボーンステーキを平らげた後で、結城と空の皿を交互に見ておろおろしはじめ、今更の葛藤を始める様子はとても可笑しかった。
 乾は人見知りが激しく普段はそれを表に出さず紳士的に振舞っている。しかし食事などという生物的本能をさらけ出す場を共にするのは彼の神経に触るようで、我慢の限界が来ると何かと理由をつけて逃げ出しては、一人で非常階段や資材置き場、外の植栽、果てはトイレに隠れて食事していたりする。それを探し当て横に座るとひどく困った顔をするのも面白かった。
 そう、最初ははぐれた犬に餌付けするような感覚だったのだ。
「いえ、おいしいです」
 乾は美味を表現する語彙には乏しいが、自分の嫌いな味のものには口角が下がって唇が尖り加減になり、逆に気に入れば目元がふわりと穏やかになる。
 しかし今日は、どちらでもなく、ドイツ風のパイをしおしおと口に運んでいる。
「本当に?」
「ほんとにおいしいです」
 確かに、新しいバターに乾が謹呈した耐湿ローグルテンの粉や果実を使った菓子は美味だった。
 しかし、食べている気がしない。
 何だろうこの視線は。
 まるで怒っているようだ。
 思い当たる節はない。
 結城は怒ると怖い。滅多に怒らないが、一度怒らせるとアカデミックでもビジネスでもないシーンでの対人スキルが異常に低い彼には、どうやって収拾をつければいいのかわからない。
「あの、僕、何かしました?」
「何かって?」
「何でそんなに怒ってるんですか?」
「怒ってないよ」
 気詰まりな沈黙に、皿とフォークが触れ合う音がやたらに響く。
 乾がやっと食べ終わると、銀髪緑眼の医師は大柄な友人の右肩にそっと頭の重みを預けた。
「どうしたんですか?」
「ちょっと嫌なことがあってさ。しばらくこうしてていいかな」
「いいですよ」
 着衣を通して、体温が交わる。
「嫌なことって何ですか?」
「秘密」
 間近に、浅黒い首を呼吸が健やかに通い、胸が静かに、ゆるやかに上下する。
 それを半眼に見つめながら、乾の右腕に、「大胸筋」と揶揄される、女性と変わらぬ乳腺を持つ胸を心持ち押し当てる。
「こうしてると、落ち着くんだ」
「……僕に使い道があってよかったです」
 他の、もっと深い仲の『お友達』にこういう癒しを求めればもっとカタルシスの度合いは深まるだろうに、と乾は思うのだが、このみんなに愛されて交友関係に不自由しない友人は、様々な相手を用途分けしているのだろうか、とも感じる。
 自分に割り振られた役はどうもミスキャストな気がする。
 しかし、彼の配役を無碍にするわけにもいかない。
 いつも、この食糧事情の悪い中で動物性たんぱく質を供給してくれて、様々に気遣い、自分を友人と呼んでくれるただ一人の存在なのだから。
 とりあえず、自分の役割はお座りした犬。
 何も考えずじっとすることが要求されている。
 ところが二、三分もすると、ダメ犬は落ち着きなくごそごそし始めてしまう。
「あの……ちょっとトイレに行ってもいいですか?」
「え」
 乾はSSRI系の抗不安薬を処方され、欠かさず服用している。その主な副作用は、「性欲減退」だ。トイレへ行きたいと言えば、性的な勘繰りも何も必要なく純粋にトイレに行きたいだけだ。
「つくづく情緒もへったくれもない男だな君は」
「だって紅茶3杯も飲んだんですよ?」
「3杯くらい何だよ」
「ごめんなさい」
 そうやって、この植物学者は自然の呼び声に従ってトイレへ行き、そこで人嫌いの自分に立ち戻るらしくそのまま自室へ帰ってしまう。
 彼が壊滅的に女性にモテないわけが骨身に染みるほどわかったが、一方で結城は安心感を覚えた。
――誰にも、このまま触れられないでいてくれるといい。

 二日後の夕刻、動物部門に貴い血を持った生き物がやって来た。
 山陰の山奥の集落でそれと知らずに細々と飼い続けられていた、絶滅種と思われていた血統の和犬。
 その子犬がひと番い、この研究所の動物部門の研究者たちに再三乞われてやって来たのだ。
 犬が好きな乾は子犬と聞いてあたふたと、大して必要でもない飼料用作物のサンプルをゾーロジカルラボに届けに行った。
 乾は渡島に飼料サンプルを渡し軽く口頭で説明した後、早速子犬を膝にのせ、抱きかかえ、肩にのせ、頭にのせ、制止されるまで思い切りもふもふもふもふと撫で回し頬ずりしていた。
「乾さんもそんな顔するんだね」
 呆れた調子でそういう動物部門の主任に、乾は真面目くさって答えた。
「人には一つ二つどうしても苦手な生きものがあるでしょう?その逆もしかりです」
「うん、わかる。…………わかるんだけどね、今日来たばっかりの赤ちゃんわんこにはストレスになるからそろそろやめてよ」
「…………はい」

 

 乾はころころふわふわした子犬と別れ、温かい気持ちでボタニカルラボへ続く廊下を歩いていた。

 そしてふと、前方に屈んでいる人影に気づく。
 見るからに非力な細い身体で、重い書類ボックスを台車の荷台へ置こうと呻いている女の姿だった。
「重そうですね。手伝いましょうか?」
 黒檀色の髪を纏めて大きな鼈甲の髪飾りで留めた女は、振り向くなり声を上げた。
「うおっ!!」
「どうかしましたか?」
 バケモノでも見たように叫ばれ、乾は訝しそうに相手を見つめた。
 きつい大きな瞳。
 蝶の触角のようにゆるくカールし、上に跳ねた二束の髪。
 薄汚れた白衣とマキシ丈の、細い身体にぴったりと添うエレガントなワンピース。

 

――えっと、この人は最近入った人だった……
――名前は……絶滅しかかった鳥っぽい……えーと……何だっけ??
――……とき? ……ああ、土岐さんだ!

 

 やっとの思いで記憶を辿った。
 人の名前を覚えるのはやはり苦手だ。
 とりあえず、乾は彼女に尋ねた。
「これを、この台車に載せればいいんですね?」
「そうそう。重いんで一緒に持ってくれ」
「僕一人で大丈夫ですよ」
「高っ価い割れ物も入ってんだ。一緒に持てば、なんかあった時もお宅の責任にしなくて済む」
 二人で屈んで、段ボールの底面に手をかける。
 腰に思い切り荷重がかかる姿勢の土岐に、乾は苦笑した。重い荷物を持ち慣れていないのがありありとわかる。
「じゃあ、いきますよ。さんのーがーはい!」
「さんのーがーはいっ!」
 箱は無事持ち上がり、台車に載った。
 しかし、二人の間に奇妙な空白の時間が流れた。
「あの……土岐さん……」
「ああ、ハモったな」
 さんのーがーはい、と言うタイミングを整えるための間投詞は、北部九州、特に修羅の国とネットで揶揄される、犯罪率・交通規則違反率ともにワースト首位かその周辺をうろうろしている県で使われる。
「もしかして、ご出身は…………」
「ああ、お宅も?」
 そこからは異口同音ならぬ、異口異音だった。
「福岡なんですね」
「北九か」
 再び、白けた沈黙が流れる。
 古くからの商都で新しいもの好きの福岡に、明治以降の新興都市で第二次産業が花形の北九州。
 他県出身者には理解されにくいが、同じ県内でありながら北九州と福岡には微妙な軋轢がある。
 ややあって、乾が呟いた。
「北九州の方でしたか」
 これで一気に納得が行った。
 この気性の荒そうな言葉遣いに、美人ではあるが人を睨み上げるような眼差し。
 コンビニの前でしゃがみこみ夜を過ごす連中とイメージを重ねあわせ、彼は一人頷いた。
――ああ、なんとなく、わかるような気がする
 歳下でありながらその鷹揚ぶった態度に土岐は下卑た想像をされたことを感じ取った。
 ガラスの軋む音を耳元で聴かされたような不快感を感じる。
 それとは気づかず乾はにこ、と笑った。
「どこまで持っていくんですか、これ」
「……第3資料室まで」
「一人では荷下ろしできないでしょう?付き合いますよ」
「…………サンキュ」


 総務部が購入したばかりの台車は滑らかに動いた。
 ラボから離れて資料室のエリアへ来ると、人影もまばらになる。
 第三資料室は特にこの棟の隅にあり、吸音材でも使っているかのように静かだ。古いペーパー類を紫外線による劣化から守るため、ブラインドを下げた通風用の小さな窓が一つあるだけで日中も薄暗い。
 職務中にひっそりとここへやって来て鍵をかけ、逢引を楽しむ不埒者どももいるという噂だ。乾もここへ資料を取りに来たとき、残り香などいう典雅な表現ではとても呼べない生々しい痴態の臭気を嗅いだことがある。
「ここに置けばいいんですね?」
「そうだ」
 可動棚のハンドルを回して開き、また「さんのーがーはい」で持ち上げた段ボールをそこへ収めると、仕事は終わったとばかりに戻ろうとする乾に、土岐は声をかけた。
「待て」
「?」
「ちょっと話があるんだが、いいか」
 少し警戒するように、植物学者は答えた。
「……もっと明るい場所で話しませんか?」
「いや、ここがいいんだ。職務上の話じゃないんでな」
「そういう話なら、終業後にしませんか?」
「どうせあと3分じゃねえか」
 確かに、モバイルフォンの画面を改めると就業規定時刻の3分前だった。
 犬に構い過ぎて時間の経過を忘れていた。
「お宅の大事な『おともだち』について、なんだが」
「おともだちって?」
「医者組の別嬪キメラさんだよ。髪の長い…………」
「結城さんですか?」
「そうそう」
 植物学者はおもむろに近くの棚に軽く寄りかかり腕を組んだ。
 話につきあおう、というサインを乾のその仕草に見た土岐は、彼の斜す向かいの棚に、彼と同じ姿勢で凭れた。
「彼が、どうかしましたか?」
「大したことじゃないんだが、お宅らどういうつきあいなんだ?」
「彼はいい友人で、いろいろよくしてもらってます」
 乾はちくっと眉根を寄せた。
「どうしてそんなことを聞くんですか?」
「あいつに、この間絡まれたんだよ。お宅が悠長にピアノ弾いてる間にさ」
「え? あの人は人に絡んだりする人じゃないですよ?」
「人殺しのくせにお宅に近づくなって」
 自分も人殺しのくせにさ、と昆虫学者は鼻で笑った。
「お宅もずいぶん過保護に『いろいろよくして』もらってるもんだ。夜の帝王のご寵愛ってやつか」
「そういう下品な物言いはやめてください。僕と彼はそんな間柄じゃありません」
「あんなにべったべたくっついてるのに?」
「あの人は他人との距離の取り方が近いだけです。誰に対してもあんな感じですよ」
 憮然とした表情になる男に、土岐は楽しくなってきた。
「じゃあ何であんなに目ぇ吊り上げて、あいつは俺に絡んだんだろうな」
「知りませんよ」
「そこんとこ、私も納得できないわけよ。毒物研究してる身として、お宅とはちょいとゆっくり話してみたいんで」
「……それはあなたの研究活動の一環として、ですか」
「ああ、もちろん」
「……」
「私の部屋で続きを話さねえ? コーヒーくらいならご馳走するって」
 間髪を入れず朴念仁な台詞が返ってくる。
「僕は、単独で女性のプライベートエリアには入らない主義です」
 ふ、と土岐は笑う。
「単独じゃねえよ。私の部屋には同居のお友達がいっぱいいるからな」

 中四国研究所の研究員居住エリアは、一室一室がコンドミニアム状で4人部屋だ。
 各部屋の扉を開くと簡単なキッチンや洗面所、トイレ、ランドリーのコーナーを備え、大きな窓とソファ、テレビのある共有空間があり、そこにはそれぞれの寝室への扉が4つある。
 自殺願望のあるシリアルキラー医師の箕郷と、他殺を希求する乾は同室になっている。残る二名分のスペースは空いていた。ややこしい性格の囚人の部屋割りには精神医学研究者の鳥居が一枚噛んでいるという噂だ。しかし、彼らを同室にした意図は全く読み取れなかった。ひょっとしたら、鳥居は例によって寝不足と栄養失調で何も考えず適当に決めたのではないか、とさえ箕郷は思っていた。
 箕郷の趣味でドビュッシーの「海」が小さく流れているリビングに、ドアセンサーが来客を告げた。
 箕郷は、まずい、という顔をしてドアを開いた。
「ああ、結城さん」
「……邪魔するよ」
 苛立ちを押し殺したような声と、能面の無表情さ。
 機嫌を損ねている様子で緑の瞳がリビングを見渡す。
「桂ちゃんは、部屋?」
 少し気後れした様子で、温厚な箕郷は言う。
「……あ、ああ……あの、桂はなんか様子がおかしい。体調が悪いみたいなんだ」
「……ふーん、鬼の攪乱だね」
「いや、その……気が立ってるのか言動が攻撃的で、別人みたいになってるよ。何か変なの処方されてるのかも」
「……あのくそ藪が」
 乾の主治医、鳥居は藪医者ではない。その対極にある凄腕精神科医だ。その鮮やかな手腕には結城も尊敬の念を覚えていた。
 しかし、本人が了承しているとはいえ、不安発作で息を荒して苦しむ乾を、鳥居がその弱みに付け込んで実験動物のように扱うのは容認しがたく、ごくたまに結城の不満が表出する。
「でもあの鳥居さんなら絶対バイタルチェッカー忘れるわけないのに、桂は着けてない。何か変だ。今、鳥居さんに連絡しようと思って…………」
「その前に、ちょっと診たい」
「結城さん」
 箕郷は精悍な顔を曇らせた。
「あいつ、とんでもないこと言うぞ。正気に戻るまで会わないほうがいい」
「聞き流せばいいんだろ」
 意に介さず、結城は乾の個室の前へ立つ。
 彼はK、とだけマーカーで書いたプレートが嵌めこまれたドアを、遠慮なしに開けた。
「失礼するよ」
 返事はない。
「入るね」
 結城が乾の部屋に消えると、箕郷は居心地の悪い思いでリビングのソファに座り、鳥居のモバイルフォンナンバーを検索し始めた。

 

 今夜、少し遅めにここへ戻ってきた乾は珍しく気が立っていた。ひどく疲れた様子で、首筋には派手に紅い充血の痕がいくつもあった。
 初見ではただの虫刺されかと思ったのだが、くっきりと紅いそれは人間が唇を当てて強く吸った後に酷似している。
 箕郷はつい、訊いてしまった。
「…………誰かと会ってたのか?」
 つきあっていないと乾は言っているが、結城がわしゃわしゃと彼の短い黒髪を撫でたり、頬に軽く唇を寄せたりしているのを時折見る身としてはそう訊かざるを得なかった。
「は?」
 機嫌の悪そうな短い問い返しに、箕郷は驚いた。
「いや……遅いからさ、もしかして結城さんのとこで飯でも食って来たのかって思って」
 その後に乾の口から洩れた台詞に、箕郷は耳を疑った。
「誰があんなクリーチャーなんかと」
「……は?」
「あの人、前から気持ち悪かったんですよ」
 紳士であることを自分に課していたはずの植物学者は、妙に光のない目にぎりっと忌避感情を滲ませた。
「どうしたんだお前……」
「どうもしません」
「……薬、また変えられたのか」
 乾の豹変ぶりに、箕郷はそう訊ねるのがやっとだった。
 時々、鳥居はまだ治験データが不十分な向精神薬を人体実験的に乾に処方することがある。
 それを服用すると、たいてい乾はもともと持っていないはずの双極性障害様の発作を起こしたり、酩酊状態で呂律が回らず転んだり、トイレに籠って吐き続けていたりするのだが、このパターンは初めてだった。
 それに治験中の薬物を投与された場合、しばらく特殊な刺鍼付きバイタルチェッカーが腕に装着されるはずなのに、乾は何も巻いていないようだ。
「薬? そういう即物的な勘繰りってすごく鬱陶しいんですよ。気安く話しかけるのはやめてもらえませんか」
 そういうなり、乾は自室へ籠ってしまい今に至る。

 

 結城が今夜ここへ来たのは、夕刻、好き者の間で逢引場所として暗黙の了解がなされている第三資料室から乾と毒虫のような女が一緒に出てくるのを見た、と看護師たちが話しているのを盗み聞きしてしまったせいだった。
「乾さんと土岐さんって、ほら、性格的にも全然合わなさそうだしさ、一緒にどうこうしてたって感じではなかったのよ」
「…………なあんだ、そうなの」
 ゴシップ好きの看護師たちが心底がっかりした顔をした。
「でもね、ちょっと変な感じがしたんでついてったらさ、その後、乾さんが土岐さんの部屋に入ってったの!」
「いつの間に仲良くなっちゃったのかしら?」
「なんかすっごく合わないって感じよねぇ」
「ただ用があったってだけじゃないの?」
「でも乾先生、絶対女の部屋には入らないじゃん? やっぱ何かあるよ!」
「……同郷だって話だし、積もる話もあったりして……」
「……上になり下になり?」
「乾先生って、なんか下手そうだよね」
「でも体は大きいから抱かれ心地は良さそうよね」
「……」
「…………」
「……結城先生には黙っとかないとね」

 

「桂ちゃん、調子が悪いんだって?」
 部屋の主は、暗い中ベッドに座っていた。
 やはり、返事はない。
 薄明るい卓上ライトを点けると、刺すような、敵意とも見下しともつかぬに満ちたまなざしを向けられていることに気づいた。
「どうしたの」
「何の用ですか」
 久しぶりの問いかけだった。
 最近は、用という用もなく入り浸ってまったり過ごすのが日常化していた。
 もはや聞くことのなくなっていた問い。
 しかしこの刺々しさは、初めてだった。
「何でそんなこと聞くんだよ」
「大した用もなく入ってこられると迷惑です」
「用ならあるよ」
 今話すべきではない、とわかっているが、用らしい用はこれしかない。
「今日、資料室に土岐さんといたよね」
「それが何か?」
 冷たくぶっきらぼうな答えだった。
「その後、土岐さんの部屋に行ったよね」
「何で知ってるんですか。覗きですか」
 既に語尾が疑問形ではない。蔑みの籠った、畳み掛ける口調だった。
「いいご趣味ですね」
「桂ちゃん、話聞いてよ」
 何でこんなに目が据わっているんだろう。
 何故、病的なまでに、目に光がないんだろう。
「彼女は人の命を虫けらよりも軽く見てる。つきあうのは感心しないよ」
「僕は虫けらよりだめなやつなんですから願ったり叶ったりですよ」
 そのとき、結城は乾の襟元から覗く赤い斑に気が付いた。
 血が、一度に足元に下がっていくような感覚。
 目の前の光景が揺らぎ、吐き気を覚えた。
 この男があっさり土岐に殺されていた方がましなほどの衝撃だった。
「……彼女と何をしてたんだ」
 結城の声が震えた。
「なんでもいいでしょう」
 話しながら、乾の顔色が徐々に青ざめていく。
「だいたい何様なんですかあなたは。僕があなたの交友関係に口出しをしたことがありますか?」
「桂ちゃん…………」
「僕は、あなたの交友関係なんぞ全く興味がありません。あなたが誰と寝ようと、何人とヤリまくろうと本当にどうでもいいです」
「…………」
「話が終わったんだったらさっさと出て行ってください」
 凍りついて立ち竦む結城の胸元に、大きな手が伸びる。
「出て行けって言ってるでしょう!」
 乾の声が奇妙に上ずった。
 声帯の奥が痙攣しているような、不安定な響き。
「髭生やす半分男のクリーチャーのくせに、馴れ馴れしいんだよ!」
 カットソーの胸元を掴まれ、部屋から引きずり出される。
――何だ。
――何なんだこれ。
 外科医は先日手当てしてやったその手首に思わず、医療者としていつも短く整えている爪を立てた。
「放せ!」
「やめろ! 桂!」
 リビングにいた箕郷が駆け寄ってくる。
「もう来るな」
 乾はそう叫ぶと、リビングの扉から勢いをつけて結城を突き飛ばした。
 向かいの壁面に叩きつけられ、ずるずるとこの男の唯一無二の友人だったはずの両性具有者は頽れた。
「桂!」
 今度は自分が箕郷に胸倉を掴まれ壁に圧しつけられながら、無表情だった乾はにやっと笑った。
「僕を殴る暇があったら、あれ手当してやったらどうですか」
 口の中を切ったらしく唇の端から血を一筋流し、咳き込んでいる結城を、あれと呼んだ乾にとうとう箕郷は我慢ならなくなった。
「お前は一体どうしたんだ!」
「どうもしやしないって言ったでしょう」
 にやにやと笑う顔が、鉛色になっていく。
 そのトーンも、声のテンポも下がっていく。
 箕郷は、このルームメイトが激しく発汗しているのに気が付いた。
 そのとき箕郷の背後から、彼の肩をぽんと叩く手があった。
「はいはい、ショータイムに遅れてごめんよ」
「鳥居さん……」
 痩せて頬がこけ、死神然とした雰囲気を纏った精神科医は、乾の前に立った。
「君は本当に手がかかるねえ。今度は何だい?」
「黙れ……」
「なんか弱ってるねぇ?」
「ええ、ひどく攻撃的になったかと思ったら、たった今、急に」
 箕郷は答えた。
「治験薬かなんかのせいですか?」
「僕は処方薬の変更はしてないよ。ここのところ彼も落ち着いてたしね」
「うるさい」
 そう弱々しく悪態をつくと、乾の体から不意に力が抜けた。
 蹲ったかと思うと、床に四つん這いになり、身体を痙攣させて廊下の隅に嘔吐する。
 苦しそうだが、大人しくはなったね、と鳥居が笑った。
「なんか変な薬物っぽい感じがするね」
 無抵抗に四つん這いで頭を抱えこんでいる乾の首筋を、箕郷は鳥居に示して見せた。
「鳥居さん、ここ……」
「あ、キスマーク?」
「今気付いたんですが紅くなった部分にそれぞれ一か所、針で刺した痕みたいなのがありますね。小さくて分かりにくいですが」
「とりあえず検査しようか。結城君も運ぼう」
 乾が呟いた。
「と……」
「ん?」
 鳥居は、訊き返した。
「とき…………」
「んん??」
 悪寒に震え、がちがちと歯を鳴らしながら乾は言った。
「と……ときさんを……呼んで……」
「ああ、動物組の?」
「はやく……とき…………」
 のろのろと身を起こし顔にかかる長い銀髪を掻き上げて、結城は乾が土岐を呼ぶ声を聞いていた。
 箕郷は、ルームメイトの身に不穏なことが起こっていることを感じながら、土岐のモバイルフォンにエマージェンシーコールし、鳥居はまだ総合生検室を閉めないよう要請を始めた。

 ストレッチャーの上で後方に流れていく天井の照明を、瞬きを忘れた虚ろな目に映しながら乾は頭蓋内を掻き回したくなるような頭痛で低く唸り続けていた。
 いつのまにか自分の中のどこか遠くへ押しやられていた自我がのろのろと這い戻り、それと共に、何かとりかえしのつかないことをしてしまったような思いに駆られる。

 

――どうしてこんなことになってるんだ。
――僕は、さっき、何を?

――土岐さんの部屋に行って、コーヒーを飲まされて、その後は?
――思い出せない……

――土岐さん、僕は、あなたにこんな目にあわされるようなことを何かしましたか?


 それは彼女にとって生殺与奪のスリルを楽しむ、ほんのお遊びだった。
 この男の『ご友人』にご大層なご挨拶をいただいたのだからちょっとした「返礼」をしたい。
 土岐は、部屋の片隅の水槽から様々な薬物を親の代から投与して育て、アンボイナの毒針でテトラミンとごく僅かなコノトキシンの絶妙なカクテルを注いでくれる小さなカタツムリをひょいと二匹摘み上げ、コーヒーを飲んでいる乾の襟足、ヒヤリという感触がしないよう髪の生え際に這わせた。
 この陸生貝の毒は体内で自然分解されるので、致命的ではない。それまでは多少苦しいだろうが放っておけば治る。
――お前ら、いい仕事しろよ
 カタツムリはゆっくり体温に温められながら首筋へ這っていく。
 その跡が粘液で白く光り、まるで人間の唾液のようだった。
 刺創が、見る間に情交の痕跡のように赤くなる。
 あの真性半陰陽のキメラには、アンボイナとのキメラ体である雌雄同体のカタツムリでの返礼が相応しい。
 痴話げんかでも何でもやらかせばいいのだ。
 30分ほどほど他愛無い世間話をした後、乾は疲れを訴えながら、ふらふらと帰って行った。
――さあ、お宅はどう踊ってくれるかな

 

 カミキリムシのチャームを付けたモバイルフォンが、娯楽室のテーブルの上で嫌な音を立てている。
 研究員の持つモバイルフォンすべてに統一された、緊急時の特別召集の着信音だった。
 室内にいる者が皆、どきりとした顔で自分の機器をチェックし、安心する。
 そして、鳴りつづける小さな通信機器がテーブルにあるのを見つけ、耳障りでたまらないと言った顔をする。
 たまたま近くを通った渡島が、鳴っているモバイルフォンを手にとった。
「あ~あ、知与ちゃん、こんなところに置きっぱなしにして!」

 天文観測をするには、都市の灯りは邪魔だ。
 人里離れた山中にあるこの研究所の屋上から眺めると、星も月も人知をはるかに超える美しさだった。
 初秋の暗い夜空に大きく横たわる、無数の細かい星の粒でできた銀河の下、結城は呆けたように俯いたまま動かなかった。

 

 結城は様々なことを思い出していた。

 初めて、自分は真性半陰陽のキメラ体で性自認もどちらでもなく、男とも女とも寝る、と結城があけすけに話した時、乾は一瞬ぽかんとした顔をした後で、じわじわと忌避の感情を目元に滲ませ、慌てていつもの困ったような、曖昧な微笑を作った。
「まあ人それぞれですよね」
 その言葉で、自分とお前は根本的に違う、とばっさり切り捨てられた気持ちになった。
 相手の個性を認める、と言えばまともに聞こえるが、結局は相手と同じものを見ようとも聞こうともしない意思表示だ。

 それでも、乾は優しかった。
 しかしそれはどこかよそよそしい。
 心からしみ出るような優しさではなく、彼はどちらかと言えば徹底した個人主義者だ。他者に優しくあることが自分に課せられた義務であるように考えており、根本的に優しい心を持っているというわけではない。
 素の状態の時には、幼稚な我が儘の塊だ。
 いつもにこにこと無難に過ごしているくせに、ディスカッションやプレゼンテーションでは人の痛いところを的確に突いて一気に論理を崩していく意地悪さ。
「人の不幸? すごく好きですね」
「うっわこの論文センス悪っ! こういうちょっと足りない人が書いたんだなって感じのやつ、僕は大好きです。こういう人って、ほんとに僕をハッピーにしてくれますよ」
などと真顔で言う下衆な一面。
 その人間らしい欠点の数々を自分だけにさらけ出すようになったことが、彼の心の庭に入ることを許された証のような気がして結城は咎める気になれなかった。
 自分でも、甘やかしすぎだと思うこともあるのだが。
 なかなか人馴れしない乾の目に、やっと自分への甘え、ひいては信頼の光が宿るのを見たとき、もう自分の持っているものは何もかも渡しても構わないと思った。
 こんな気持ちになったことはこれまでの人生で幾度かあったが、今度は少し異質だ。
 頑固なヘテロセクシャルかつ「浮気はしない主義」の乾は、決して結城を自分の性的対象の範疇に立ち入らせない。
 何も求めてこないし、こちらからも求めない。
 それはとても奇妙で、新鮮だった。
 時折ふと、首筋や胸元に乾の視線を感じることがあるが、結城が気付いた瞬間に彼は気弱そうに目を逸らしてしまう。
 そのくせ、触ってもいいよ、と言うと、仏頂面で
「だからあなたは変態だって思われるんですよ」
と返される。
「はいはい、変態で悪かったね」
 最近はいちいち否定し修正するのに疲れてしまった。

 そんな日々、結城にはわだかまってきた思いがある。
 それは、乾の精神を壊して殺人及び大量無差別殺人未遂犯という境遇に追い込み、その死後もなお彼を縛りつけている彼の婚約者「絲島花冠」への怒りと嫉妬だった。
 これほど忠実な男に気も狂わんばかりに愛されて、その心を未だ所有し続けている死者。
 思い出は美化され、そこに生者が入り込む余地はない。
 死ねばいい、と呪うこともできない。
 しかし、彼女がいなければ乾はここに来ることもなく、結城と出会うこともなかった。
 そう思うことで、彼女のために花を供え、好きだったという料理を作り、TVで女優の来ている服を見ては彼女に似合いそうだと言い、彼女の遺品だという浅葱色のモヘアカーディガンに顔を埋めてうたた寝する乾にも、いちいち心を波立てずに済むようになった。
 そうかと思うと今度は、乾は花冠に似た細身で小柄な体格の野崎に目をつけ、マスクの下どんな顔をしているかも知らないくせに献身的に構い始めた。
 乾が野崎に対し、にこにこと手取り足取りフィニッシングスクールの真似ごとをやっているのを見ると、じくっと傷口を指の腹で押すような痛みを覚える。
 そんなとき結城は必要以上に研究に没頭し、夜は一時的な心の渇きを誤魔化すために様々な相手のもとを訪れた。
 それを知っても乾は何も言わないばかりか、結城と身体だけの関係を持っている相手の中でも一番のクズのところへ行き、結城を幸せにするよう願っている旨を述べ、下手なサプライズを仕組む始末だ。
 とにかく、鈍い。
 鈍いにもほどがある。
 でもその鈍さがなかったら、今頃自分は彼と一緒にはいない。

 いつも乾は小さなちゃぶ台をデスク代わりに、ホログラムモニター内の資料整理をしたり読書をしたりする。
 日々、そこを訪れ、にじり寄って行ってその右肩に業務に疲れた体をくったりと預け、固く締まった腰にふざけたふりで左腕を回す。
――多くは望まない。
――こうしていられれば、それでいい。
 そうやって、結城は激務の疲れで広い背中の方へずり下がって乾の腰に巻きつくように横になるのが常だった。そうして男の体温を感じながらうつらうつらする。
 昨晩はこんな話をした。
「結城さんってほんとに大きな猫みたいですね」
「ん?」
 結城と同様マイペースで、よく一緒にいる斉藤も猫っぽいがあれはカラカルだ。しかし結城は感じが違う。
「北国生まれで銀色の髪だし、雪豹ってこんな感じかもですね」
 つやつやした銀色の頭をそっと支えながらクッションをあてがい、クズ綿で織られたマルチカバーをかけてくれる。
「猫、好き?」
「僕は犬派です」
「本当に君はつれないというか空気が読めないねえ」
 眠そうに言う結城に、まずいことを言ったかもと思い至ったらしく彼は慌ててフォローを始める。
「……あ、動物園にいるような大きいネコ科はかっこいいと思います」
「じゃあ、撫でて」
「は?」
「頭撫でてよ」
「こうですか」
 温かい大きな手の重みが頭を滑っていく心地よさに一瞬鳥肌が立った。
 全身が、何かを待っていた。
 それとも知らず乾が無粋なことを言う。
「こんなに髪長いと頭皮も凝るでしょう。頭皮の血流が悪いとハゲますよ」
「……デリカシーなさすぎ」
「あなたのビボーを気遣ってるんです」

 

 そんなもどかしく、愚かで優しい時間が、一気に遠く思えた。

 乾は真面目そうな立ち居振る舞いの陰で何を考えているのかわからないところがあった。
 そんな彼が口にした痛罵。
 人は、思ったことがないことは言葉に出せないという。
 他の誰かに言われたのなら淡々と無視できる。笑い飛ばすことだってできる。
 大事な存在から言われたからこそ、傷つく。
 大事であればあるほど、その傷は深く抉られる。

 

 スチールのドアを軋ませて鳥居がこの満天の星の下へやってきた。
 彼は穏やかに、結城に声をかける。
「ねえ、結城君、そろそろ中に入ったらどうだい」
 結城は黙っていた。
 軽い脳震盪程度で、身体の方は何ともなかった。
「僕みたいな痩せっぽちには夜風が滲みるよ」
 精神科医は少し肩を竦めた。
 夜気が静かに冷える中、もうすぐ命を終える虫たちが精一杯、恋の歌を奏でている。
「前から聞きたかったんだけど、君はどうして乾君と親しくするんだい?」
「…………」
「君が仲良くするようになってから乾君の発作回数も減ったし、薬も少しずつ減らせてる。君は確実に彼にはいい薬になってるよ。だけどね」
 大きな丸い眼鏡レンズの奥、切れ長の黒い目が結城に向けられていた。
「僕の目から見ると、彼は君にはよろしくない影響ばかり与えているように見える」
 一瞬結城の呼気が細く、震えた。
「……これを機会に、少し冷却期間を取って落ち着いてみてはどうかな。乾君はしばらく僕の管理下に置いとくから」
「くっ……」
 結城が顔を上げた。
「?」
「ふ……ふふ……あはは……あっははははははは」
「結城君?」
 斉藤は白い喉を仰け反らせて笑い出した結城を驚愕の目で見つめた。
「だよねえ……滑稽だよね俺って……あはははははは」
「……」
「あははは…………俺、ただ犬が飼いたかっただけなのにさ」
「犬……?」
「俺だけに尻尾ふってついてくる犬が、飼いたかったんだ」
 笑いながら、ずっと心の中にあった願いを、胸の奥で呟く。

 ねえ。

 嫌がることはしないのに。
 大事に、大事にするのに。
 前の飼い主のことを忘れなくてもいい。
 ただ一緒にいて、生きている限り繰り返し押し寄せる暗い思いを掬ってくれたら。
 理解なんかしなくていい、ただ寄り添ってくれたらそれでいいんだ。

 いつだって、そう思って来たのに、
 いつも、手に入るものは偽物で、あっさりと消え去ってしまう。

 こんな体に生まれて、どろどろと醜いものを呑みこまされ抱え込まされて。
 ちょっとくらい、寄りかかれる温かさが欲しい。
 それは大それた望みなのか?

 

――俺はもう、優しくしてもらおうとか理解してもらおうなんて思ってない

 

 そのとき、ただ静かに佇んでいた鳥居のモバイルフォンが甲高くしじまを切り裂き、結城は我に返った。
 鳥居はさっと、その嫌な音を立てる通信機器を耳に当てる。
「ああ、どうだって?  …………は?  …………そうか……うんうん……麻痺ねえ…………え?  カタツムリ?」
 美しい夜空に似つかわしくない言葉がやり取りされている。
「カタツムリってあのカタツムリ?  ……え?  あ、ああ、そう…………」
――カタツムリ?
 雌雄同体(エスカルゴ)と嘲られた記憶が甦る。
 鳥居が通話を終え、結城に静かに知らせた。
「乾君の血中からは純度の低いメスカリンと貝の神経毒が数種出てきたよ。でも命に別状はない」
「……食中毒?」
「彼は昼食はランチミーティングだったそうだし、同席者に体調不良を訴えているものはいない。夕食はまだ摂ってないから食中毒じゃなさそうだ」
「……カタツムリって?」
「ああ、乾君の首の赤くなったところから、カタツムリの粘液が検出されたんだって」

 結城は立ち上がった。

 あの暗い、憑かれたような眼差し。
 尋常ではない表情筋の強張り。
 まるで急性期ラビエスのような攻撃性と憤怒調節失調、そしてその後の苦しみよう。
 苦悶の内に、絞り出すような土岐を呼ぶ声。

――何かされたんだ、あの毒虫女に。

 まだ断定するには早い。だが、結城の中ではもう確信に近かった。
 理性と自制心の殻が脆い卵のようにぐしゃりと潰れ、ぱらぱらと毀れていく。
 その隙間から、黒くどろどろした生き物が這い出てくる。

――彼に構うなって釘を刺しておいたのに

 一陣の夜風が長い髪を嬲り、星明りの下結城の顔を翳らせた。
「彼の容体は?」
「まだまともに喋れる状態じゃないが、もうだいたいいつもの彼に戻ってる。あとは快方に向かう一方だよ」
「会えますか」
 鳥居は苦笑した。
「主治医としては会わせられないね」
 ではなぜ、彼は患者から離れて自分を見張るようにここにいるのだろう。
 結城は訊ねた。
「……土岐さんは来ましたか?」
「ついさっきやっと連絡がついてね。もうちょっとしたら来るそうだ」
「何で今すぐ来ないんですか」
 鳥居は答えなかった。


 声が反響する女風呂で電話口にやっと出たかと思えば、
「今風呂入ってんだぞ?女に風呂急かすんじゃねえよ」
「ほっといても死なねえんだから別にいいんじゃね?」
「俺があいつと楽しく遊んだ余韻、ぶち壊しだぜまったく」
と嘲笑気味に土岐は話していた。


「少々事情があってね」
――事情、ね…………
 歯の根も合わぬほど震え、生理的な涙を滲ませて苦しんでいた乾の姿。
 そんな状態で口を衝いて出る、あの女の名。
 どこであの女はちゃらんぽらんと油を売っているのか。
 さっさと警備員に確保させればいいのだ。
 あの女に舐められている。
 彼も、この自分も、そしてできるだけ所内を居心地良くしたいという性善説を信奉するにもほどがある光岡所長も。
「さて、僕は所長に報告に行かないといけない。研究以外の雑事が多くて困る」
「彼には今、誰か付き添ってますか」
「オンコールの狩野君がいるよ」
 結城は、すっと目を細めた。
 狩野なら大丈夫だ。
 最近何があったのか、狩野は何くれとなく乾を気に掛けている。
 彼ならあの毒虫女に言いくるめられたりはしない。
 結城は静かな長い溜息とともに言った。
「狩野さんがついててくれるなら、彼も大丈夫ですね。安心しました」
 鳥居はその言葉に何か空々しいものを感じた。
「…………それはよかった」
「今日は疲れました。もう部屋に戻ります」
「うん、そうした方がいいね。一応警備をつけるように手配しよう」
 胸の奥で、この食わせ者が、と真黒いどろどろしたものが冷めた風に呟いた。

 

「ふん、大袈裟な」
 病室へ入るなりの第一声。
 眩暈を堪えて、嘔吐による脱水症予防の点滴に繋がれた乾がベッドの上に身を起こす。
 取りつく島もなく冷たい顔をした狩野にベッドサイドの椅子を勧められ、風呂上りの洗い髪を垂らした土岐が座っていた。
「お宅も軟弱だよな。あと一時間もトイレでゲロってりゃ、すっきり元通りになるのによぉ」
 彼女はつと椅子から立ち上がると、白いベッドの上に腰を下ろし、脚を組んだ。
 短時間でげっそりと憔悴している乾に、土岐はくっくっと笑って手を伸ばす。
「でも、俺を呼んでたんだってな、ずっと…………」
 触れられまいと身を引くのもお構いなく、彼女は不運な植物学者の頬をするりと撫で、首筋の赤みに触れた。
「なかなか可愛いとこあるじゃねえの。お宅みたいなでかぶつがさぁ」
「ベッドに座るな。そんで患者に触るな」
 狩野の声が飛ぶ。
 土岐は無視した。
 乾の大きな手が、鋭く爪を整えた女の手をのろのろと払い除ける。
「やめてください」
 もう一度、狩野の叱責が響く。
「ベッドに座るな言うたやろ! 聞こえへんのか!」
 狩野はスマートな京男で何事にも冷淡に見えるが、年齢や職位の序列、そしてマナーやルールにも厳しい男だった。
 そんな彼が、不遜な態度の土岐を気に入るわけがない。
 片手で掴んでも間隙が開くほどの細い腕をぐいと引っ張り、彼は彼女を椅子に戻した。
「かよわい女相手に、手荒な真似すんじゃねえよ」
「かよわい女は、ひとに毒盛るような真似はせえへんぞ」
 表立ってどうこうというわけではないが、狩野はあの筑前煮事件から、この植物学者が娯楽室でピアノを弾いているとぶらっとやって来て、言葉も交わさずコーヒーを飲むようになった。そこをつつくと、無料で生演奏聴けるんやったら聴くもんやろ、と憮然とする。やはり彼も不器用な男だった。
「今こいつは鳥居さんの患者や。あては鳥居さんに頼まれてこいつに付き添っとる。ま、主治医代理ってとこや。アンタ、変な真似したら警備のもんに引き渡すで」
「私は乾が呼んでるっていうから来たんだぜ? もちっと患者の意向を大事にしろよ、サービス業の兄ちゃんのくせによ」
 医師という職業は確かにサービス業だ。
 だが、この女が言うとなんと胸糞悪いのだろうか。
「おい乾、さっさと用済ませてこいつ所長に引き渡しいや。こんなのと一緒におったらアンタの身体にも障るわ」
 この部屋の外には、看守に相当する刑務警備員が二人、既に待機していた。
「もう所長に言ったのか?」
「当然や。所内の傷害事件やないか、これ。ただで済むと思うな」
「ごめんなさい、声を少し小さくお願いします…………頭が割れそうです」
 乾が呻く。
 くすっと土岐は笑った。
「……ところで色男の乾センセイ、あの別嬪キメラさんになんかやらかしたか? ん?」
 乾は弱々しく答えた。
「何のことですか」
「あれ? もしかして会ってねえの?」
「何も覚えてません…………気が付いたら処置室に運ばれるところでした」
 乾は項垂れた。
 こういうとき、真っ先に来てくれそうな優しい友人が来ない。
 頭痛にこめかみを押さえながら、狩野に結城の所在を尋ねると、知らんわ、と返された。実際狩野は結城の所在について深くは知らされていなかった。
 土岐は舌打ちする。
「お宅SSRI系飲んでるんだってな。ちぃとばかし効きすぎちまった」
「あなたは僕をどうしたかったんですか」
「どうしたかったも何も、お宅をつつき回したらどうなるのか、そんであのキメラ体がどうするのかが楽しみだった」
「僕をこんな目に遭わせたのは結城さんとのトラブルのせいですか?」
「それは否定しないがあくまで二次的なもんだ」
 土岐はちろりと舌で唇を舐めた。
「お宅がアルカロイド研究してたって聞いたもんで」
「…………それで?」
「同じ毒物扱ってる私としちゃ、おちょくり相手にぴったりだったわけだ」
 そう。
 少しばかり「ご挨拶」がしたくなったのだ。
「まあまあ面白かったぜ、乾センセイ」
 サイコな連中は大抵、自分の手腕についての多大な自信から、やたらにテクニックを誇示し吹聴する傾向がある。そしてそれを恐怖され、忌み嫌われ、あるいは称賛されると官能的なほどの喜びを覚える。
 一方、乾はフィードバックを欲しがる気持ちは分かるにせよ、自分の手の内を明かす趣味はなかった。
「殺してくれた方がよかったんですが」
「殺せって言うやつは、殺す価値もないことが多くてな」
 土岐はにやにやと笑っている。
 酷い疲労を感じながら、乾は訊ねた。
「土岐さん……植物部門の3倍体ペヨーテが一鉢、無くなってるんです。デザインドユーグレナのボトルも。さっき、植物組のみんなにチェックしてもらいました」
 歯を食いしばるその隙間から、乾が喋った。
 彼は自分から数種の貝毒とメスカリンが検出されたと聞いた。
 首筋にはカタツムリの粘液がこびりついていたという。
 動物、しかも草食系の陸棲貝類を経由してとなれば。
「ペヨーテをスーパーユーグレナでアキュムレーションして、カタツムリに食わせてたんですか」
 これほど物証を残すのは乾には愚行にしか思えないのだが土岐にとっては謎解きゲームのヒントを与えた程度の気軽さだ。
「ああ、直にだと苦くて食ってくれねえんでな。ちょうどシアノトキシンも濃縮できて便利だわ、あのミドリムシ」
「……全然否定しないんですね」
「否定したほうがよかったか?」
「否定か黙秘すると思ったので」
 この毒物研究者はどこか昆虫の複眼めいた大きな目をすいと細めた。
「今更何を、ってこった。後先考えない馬鹿だと思ってるんだろうが、言いたいことは言うし言いたくないことは言わねえ。未来の自分に今の自分が縛られることこそ、私には馬鹿みたいに思える。未来の私はいつだって過去の私を支持するぞ」
「そんな風に言えば、かっこよく聞こえるかもしれませんね」
 静かな病室の窓ガラス越しに、夏の虫たちの奏でる歌が聞こえてくる。
「話は終りです」
「なんだ、尋問の真似事だけか。つまらん」
「でも、またあなたと話したいとは思っています」
「どんな話がしたいんだ」
 彼はぽつりと言った。
「……北九の街や人の話が、聞きたいです」
「は?」
「僕は、半年間小倉に住んでました。いい街でした」
「…………」
「千仏鍾乳洞に行って風邪引いたり、糠床で煮た鰯にびっくりしたりね」

――あの頃は花冠ちゃんもまだ元気で、電車に乗って僕のアパートに来てくれたな
 医者にならなかったことで乾の親、そして祖父母までが激怒していた。
 医学部を受け直して医者になるまでは一切接触するな、ごく潰しがと罵られた。
 お前にかかった費用は返してもらう、とポスドクの微々たる給与の振込に使っていた口座を解約され、やっとの思いで口説き落とした女性を、病気持ち女、と貶められた。
 しかし、勘当状態になり裕福とは言えない生活であっても、誰にも気兼ねせずに済む初めての暮らしは、楽しかった。

 様々な思いをおし隠し、機械音声のような抑揚のなさで乾は続ける。
「つる吉の規格外のバームクーヘンとか安く買って、よく食べてましたよ」
 土岐は口をつぐんだ。
 腰高窓の枠に軽く体重を預けて二人を見守っていた狩野は、思わず目を逸らした。
「ふふ……くだらん」
 沈黙の後、土岐は人の悪い、しかしどこか気の抜けた笑い声を上げた。
「でもまあ、お宅がそう言うなら話してやらんこともないな」
 静かに狩野が付け加えた。
「懲罰房から出たあと、こいつへの接近禁止令が出えへんかったら、や。土岐、自分のしたこと弁ええ」

 そのとき、ノックもなく気密式ドアが開いた。
 病室へのドアは臨床医学部門及び管理系統のネームタグを持ったもの以外は自由に開閉できない。
 当然鳥居が入ってくると思った一同は、するりと入ってきた人影に目を遣る。
「狩野さん、お疲れ様です」
 黒ずくめに清潔な白衣を羽織った人物が穏やかに微笑んだ。
「おお、結城。アンタ大丈夫か」
 この場の全権を握っている狩野は、乾とこの外科医が親しいのは承知していたため、特段の警戒心も持たず結城を迎えた。
 土岐は歪んだ笑みを浮かべて剣呑な流し目を送り、乾はただじっと結城を見た。
 結城はオーバル型の眼鏡の奥から土岐に感情の表れない目を向け、乾を見ようとはしなかった。
「鳥居さんと所長が、土岐さんと私の話を聞きたいそうです。第5会議室で」
「聞いてへんで」
「所長のスケジュール上、急に決まったらしくて、私も急遽呼ばれたんです。土岐さんもここにいるので連れて来るようにって」
「そうか」
 胃酸で荒れた喉から、乾はかさつく声を出した。
「結城さん」
「…………」 
「結城さんは、僕がついさっきまで何をしてたか知りませんか? 記憶がないんです」
「………………」
「何か、知りませんか?」
 やっと、結城はまだ顔色が戻らず目の焦点がしっかり合ってはいない乾を見た。
 それから土岐、狩野と視線を移していく。
 ここにいるうち、あの場の状況を知っているのは、自分一人だけだ。
 乾本人でさえ、知らない。
「……君は至って普通の言動をしてたよ」
 普通。
 そう、あれが彼にとっては普通なのかもしれない。
「本当ですか」
「うん」
 顔を背け加減に返事すると、結城は土岐に声をかけた。
「さあ、行こうか。みんな待ってるよ」
「何でお宅が迎えに来るかなぁ…………」
 ぼやく土岐をエスコートするように、さっと結城はドアを開け、その脇で彼女が通るのを待った。
 振り向きもせず去っていった結城をベッドの上で見送った乾は一抹の不安を覚えた。
 僕が普通だったって?
 普通の言動って何だ?
 そもそも第五会議室を使う理由は何だ?
 所長室にはドア続きの、盗聴防止用ジャマーがついた応接室があるのに…………
 乾はそっと掛布を捲り、裸足で床に立った。少し代謝が進んだのか、立ち上がるときに少々よろめいただけだ。
 しかし視野がぐるぐると回った。
「何や、トイレか」
「いえ、監視室へ」
「何言うとるんや」
「連れて行ってもらえませんか?」
「ええと言うとでも思っとるんか」
「思いません」
 乾は床に膝をついた。
「でも、用が済めばすぐここへ戻ります。お願いです」
 狩野は、土下座しようとする乾を一喝した。
「やめえ! ああもう!」
 狩野は短い髪に、わしわしと二、三回指を突っ込んだ。
「用っちゅうのはすぐ終わるんやろな?!」
「はい」
「ここで待っとれ! 車椅子がそこにあったはずや」
 彼はぷんすか怒りながらも車椅子を押してきて、乗れ、と言った。

 

 こつこつと結城の履いている革靴の固い踵が音を立てている。
 柔らかいモカシンで音を立てぬよう歩いている土岐には神経に障る音だった。
「おい、本当にこっちか」
 深夜でも研究者たちはその辺りをうろちょろしているものだが、この辺りには人影がない。
 省エネのために、夜間の使用がほぼないと思われる場所は手動で点灯するか、事前に総務担当に夜間利用の申請をしておかない限り完全に消灯される。
 廊下はだんだん薄暗くなる。
 ここへ収容されたばかりの土岐は、未だ会議室の配置を記憶していなかった。
「うん、こっちだよ」
 緑色の非常口への誘導灯がやけに光って見え、冷たく滑らかなフロアに映りこんでいる。
 
 こつ、こつ、こつ、こつ…………こつん

 暗がりに足音が止まった。
「入って」
 OFFになっているはずのオートマチックのドアを開き、結城がぱちんと音を立てて灯りを点けた。
 そこはどう見ても、会議室ではない。

 総務の連中が管理しているランドリールームだった。
 普段の私服や下着は、研究員がそれぞれの部屋の洗濯機で洗っている。
 しかし白衣、作業衣には血液や菌、得体の知れぬ細胞や怪しい化学物質が付着する。汚染や感染を防ぐため、それを回収し纏めて洗浄、高温処理で滅菌する部屋だ。
 土岐の耳元で、低く、ほとんど甘い声で背後から結城が囁いた。


「さあ、入るんだよ、土岐さん」
 そのまま背を有無を言わさず押されて、彼女はまろぶように独特の洗浄剤や加熱されたコットンの匂いに満たされた空間へ入った。
「何すんだよ」
 月並みすぎて滑稽だと思いながら、しかしそれ以上にしっくりする言葉はなかった。
「所長とか鳥居とか、あれ嘘か」
 口を利くことすら汚らわしい、とでもいうように結城が口を歪めた。
「そうだよ」

 その辺りにいる男どもと、ロジックも何もかも超えて一個の生物として対峙したとき、土岐はほとんど勝ち目がないのを知っていた。
 自分の非力さを、弁えていた。
 この目の前にいる生き物は半分男だ。
 乾と一緒にいるとずいぶん華奢に見えてはいたが、土岐よりも背が高く、力も強い。
 退路を確保しようと窓やドアに目まぐるしく視線を走らせながら土岐は後ずさりする。
 几帳面に片づけられ本日の業務を終了した部屋には、武器になりそうなものが一つもなかった。
「俺はね、ここの人間には信頼されてるんだ。ここの鍵だって、ほらね」
 総務の連中しか持っていないストレージエリアのカードキーを結城はちらりと見せた。
 夜中になっても、疎らながらも人影の絶えない研究エリアではなく、稼働時間がきっちり定められたここは、恐ろしいほど静かだった。
 一歩後ずされば、相手はより大きな一歩で前へ出る。
 ふっと結城が笑った、ように見えた。
――何笑ってやがる?
 その瞬間、結城に抱き竦められた。
…………それが目的か?
 さすが色魔、見境がない。
 そう思ったとき、体が何の支点もなく宙に浮いた。
 そのまま床に叩きつけられる。
 肉を打つ音。
 首ががくがくと揺れ、身体がバウンドする。
 後頭部を打って、目の前に白く星が散った。
「君は美人だね」
 土岐の身体の上に、いつの間にか結城が乗っていた。
「だからあいつはのこのこ君の部屋へついて行ったのかな」
 尖った顎をぐい、と掴まれる。
「……しかも処女だって言うしね」
 腕が膝で押さえられ身動きが取れなかった。
「はっ!お宅も処女に興味があんのか?」
「…………」
「回りくどいな。女を誘うならもっと」
「黙れ」
 結城の唇から出る言葉は、悪夢のような非現実感に包まれ、そして冷たかった。
「あいつのことはほっといてくれ、って言ったよね」
「……お宅に指図されなきゃいけねえ謂れはねえよ。まったく馬鹿馬鹿しい。中高生の惚れたはれたじゃあるまいし」
 結城の目はいつになく、光を吸い込んでも吸い込んでもなお暗い緑色の洞窟のようだった。
 土岐は、緑というのは嫉妬の色だったな、と思った。
「だいたいお宅ら、そういう関係じゃねえんだろう?」

 

――結城さん、みんな友達同士ってこういうことするんですか?

 読書中、頬にキスすると、乾は困ったような顔をしていた。
 TVを見ながら、胸を押し当てると、身を引かれた。


……まあ、人によるよ
――あんまりよくないと思います
……迷惑?
――迷惑ではないですけど
……「けど」、何?
――そういうのは、本当に好きな人にしてあげるものだと思ってました

 

 もう言葉は返せなかった。
 身体だけの遊び相手が複数いることを知ると、乾ももう何も言わなくなった。
 結城という人間はこういう性質なのだと達観してしまったらしい。

「あいつは女を部屋に入れねえし女の部屋にもいかねえんだってな。でもあいつはお宅の部屋には遊びに行くんだろ? だったらお宅、ただの男友達として見られてんじゃねえか」
「…………」
「あいつ、女以外は抱けないんだろ、エスカルゴの別嬪さんよぉ。もっとも、死んだ女のことでめそめそしてる上に薬漬けでEDなんだってな、あいつ」


 煽ってどうするのか。
 それはわからない。
 ただ、相手が冷静になるか、それとも動揺するか。
 そこがただ、見たい、と土岐は思った。


「あのでか犬相手に独り相撲で熱くなってるなんてお宅も物好きだな」
「……君に何がわかる」

――そばにいて、穏やかに微笑んでくれれば。
――一緒にいられれば。

「らしくないぜ、夜の帝王が」
「黙れ。訊かれたことにだけ答えろ」
 結城の右手がつと動き、土岐の長い睫毛に触れるほど間近に冷たい金属の輝きが見せつけられた。
 外科用メスだった。
「桂ちゃんに何をした?この外道が」

 

 今夜の監視担当の刑務官は、40代の実直そうな男と20代の落ち着きがない、しかし陽気そうな男だった。今、研究員3名に突入されて、わけもわからぬまま今夜の監視カメラの録画映像を切り替え、巻き戻し、ああでもないこうでもないと指示されててんやわんやだ。
 深夜に突然やってきた研究員は2名。うち一人は病衣を着て車椅子。もう一人は特注の洒落たデザイン白衣を着けた目つきの鋭い男。
 そしてもう1名、蜻蛉のように丸く大きな眼鏡をかけた血色の悪い研究員が駆け込んできて合流。
「結城君の部屋の前には警備員を付けてたのに……どうやって出歩けたんだろう」
「…………」
「部屋の中でも、斉藤君に結城君から目を離さないように言っておいたんだけどなぁ」
「…………斉藤さん、仕事のミスをカバーしてもらってから結城さんには頭が上がらないらしいですからね」
「……結城は、こういうことはせえへん人間やと思うとった……」
「僕もです」
「ここは本当に面白い人間だらけだからねぇ」
 ぽつりぽつりと三者が喋る。
 3分後。
 車椅子の男は、3時間前の居住エリアの自室前廊下の監視カメラが撮っていた映像記録に、友人に暴力を振るう自分の姿を見て絶句。
 さらに、その場面に一緒に映りこんでいた箕郷に連絡を取り、自身の言動を聞かされて茫然自失。
 洒落男は、眉間に皺を寄せて第五会議室前の記録映像、室内の防犯センサーに誰もずっと映りこんでいないのを確認し、もう一つのモニターで自分の信頼を裏切った同僚の姿を追う。
 蜻蛉眼鏡は、土岐のGPS発信機のパルスを追っていた。
 凶悪かつ反省改悛の色が見られず再犯の可能性が高い、あるいは公的権力の社会的失墜を招いたと判断された囚人の腹腔内に埋め込まれているあのGPS発信機だ。発信機は広範囲の追跡を想定した機種のため、建物内の細かい所在まで確定するには受信設定を弄る必要がある。
 刑務官たちは、何度も何度も要求される複雑なパスワードとバイオメトリクス認証でセキュリティ解除し、様々な設定を変えながら、今夜当直に当ったのは災難だったかもしれない、と思った。

「よかった…………よかったよ土岐さん」
 結城が囁いた。
「君が、処分喰らって懲罰房行きになる前にその話が聞けて、さ」
 ぞくりとするような笑みを浮かべて、彼は膝下の土岐を見下ろした。
「俺の名前を出したらほいほいついてきたのか…………桂ちゃんも馬鹿だねえ」
 一瞬涙ぐみそうになりながら、すぐにそれは砂に染みこむように乾いていく。
「そんな桂ちゃんを面白半分で、ねぇ……なるほど」
「…………」
「俺もねえ、人をいたぶるのってちょっと面白そうだと思うんだ」
「いたぶる?」
「君みたいな美人の、鼻を削いだらどうなるか」
 ずっと皮膚に押し当て続けられて、体温に温められたメスが、人中にそっと触れた。
「それともその唇を切除したら…………ずっと歯がむき出しになるね」
 そして、ゆっくり顔を近づけて女の瞳を覗き込んだ。
「瞼を切り取っちゃうのもいいな」
 この期に及んでも強い眼差しで土岐は睨む。
「……どんなに目を閉じようとしてもね、もう閉じられなくなるんだ……うん、いいかもね。ドライアイにはせいぜい気を付けて」
 黒檀色の洗いたての長い髪。
 細い非力な腕。
 嫋やかなデコルテ。
 しなやかな腰。
 自分の意志で、まだ誰にも触れさせたことがないという秘所。
 望めば孕むことの出来る身体。
 性格の獰悪さ、言動と表情の毒々しさを差し引いても、男をして「魅力的」と言わしめるそれらの要素が全て自分へのアンチテーゼに思えた。
「お宅、そんなことしてあのお坊ちゃんに好かれようとでも思ってんのか」
「思ってないよ……あいつはきっと俺を軽蔑する」

 

――そう、こんなことをしてもしなくても、だ。
――あいつは俺を気持ち悪く思ってる。

 ふと、土岐の耳にブーンというごくわずかな音が聞こえた。
 ドアの方からだ。
 しかし人の気配はない。
 自動ドアの開錠・通電状態を示す青い小さなランプが点いた。
 恐らく中央制御システムのコントローラーで操作されたのだ。

――誰かが、気付いた。
――ここに、私とこの化け物がいることに。

 結城は開錠音に気づいていないようだ。
 この身体の上の両性具有者に、土岐はドアから注意を逸らそうと声を荒げた。
「ここからムショに逆戻りでもいいのか?え?」
「それをわかってないとでも?!」
 結城は、右手にメスを構え、左の指の腹で土岐の長い睫毛を摘まんで引っ張った。
 眼球と瞼の間に、ぷち、と音を立てて空気が入る。
「動かないでね……きれいな眼が傷つくよ?」

 

――ああ
――せっかく見つけたのに。
――ここでなら笑って生きていけると思ったのに。

――もう、俺自身にも何がしたいのかわからないよ
 

 薄く柔らかい上瞼の皮膚を、銀色の鋭利な金属片が切り裂こうとしたそのとき。

 ぎゅりり、とゴムが床に擦れる激しい音がした。
 ほぼ同時にどたん、と大きな音を立てて何かがドアにぶつかる。
 一瞬遅れて、間抜けに自動ドアが開いた。
 そこにいたのは車椅子の上で痛そうに鼻を押さえている乾だった。この研究所でも一二を争う長い鼻梁を強かぶつけたらしい。
 エレベーターでのタイムロスをものともせず、車椅子の乾はドリフティング上等の勢いでランドリールームに到着したのだ。
 狩野もそのすぐ後に続いていたが、ドアにぶつかって悶絶する乾の横をあっさりと通り抜け、先にランドリールームへ入った。貧血気味でちょくちょくダウンする鳥居は、はるか後方だ。
「結城……何しとるんや」
「…………」
 結城は顔を上げた。
 狩野はたじろいだ。
 いつも温厚で恬淡と、穏やかな人柄だったインターセクシャルの医師は、恐ろしいほど虚ろな目をしていた。
「ああ、狩野さん」
 この状況を呑み込めてないような、微笑を浮かべる。
 呆けたような声音。
 子どもめいた語調。
「この女、……この女はね、悪いやつで……本当に悪いやつで」
「おい……」


 人が来てしまった。
 細かい「作業」はできなくなった。


「この女が……ほんの遊びで……」
 土岐の睫毛から指を離し、今度は眼球にメスの切っ先を向けた。
「懲罰房なんか……すぐ出て来られるじゃないか……だったら俺が……こんな悪いやつはこうして」
 結城は、何人殺したシリアルキラーがここへ入所しても、凶悪犯を患者として診なければいけなくてもこんなに純粋に「悪」だと思ったことはなかった。


「二度とこんなことしないように…………」


 でも、もう終わりだ。
 何もかも。
 到着した刑務警備員たちが自分にシリコン弾を充填した銃口を向けているのを他人事のように眺め、彼はまるでメモでも取るかのような手つきで眼球を切り裂こうとした。

――あ

 ふと、背中が温かくなった。
 後ろから伸びる手が、結城のメスを握る手をそっと上に持ち上げた。
「ごめんなさい」
 いつもの低い声が震えていた。
 何で謝るのだろう。
 そう思った。
 大きな手が、優しくメスを取り上げ、部屋の隅へと投げた。すぐさまそのまま大きな魚でも掬うように、跪いたその膝へ結城の背を抱き寄せる。
 間髪を入れず、メスを拾いながら狩野が叫んだ。
「土岐、逃げるんや」
 土岐は、何とか這うように結城から離れると、よろけながらも気丈に立ち上がった。
 一気に体中の血管に、まともに血液が流れ出したような気がした。
 これだけの目に遭っても、このか細い女昆虫学者が立って歩けるということに警備員たちは面食らっている。
「何だよそのツラ。場数が違うんだよ!場数がよ!」
 鳥居が号令をかけた。
「とにかく、確保!」
 彼女は、無抵抗だった。
 興奮状態だった彼女は気づいていなかったが、細く長い首には躊躇い傷のように薄く皮膚の切れた箇所が幾条もあった。
「結城先生はどうしますか」
 ランドリールームを出ながら鳥居は穏やかに指示した。
「警備員六名、ドアの外に待機。この部屋の監視系統はオンで」
「え?」
「さあさあ、みんな撤収撤収」
 狩野が不思議そうに乾と結城を見た。
「鳥居さん、あいつらは? ここに置いといてええんか?」
 背後でドアが閉まり、二人の姿は見えなくなった。
 警備員が指示通り6名、しゃちこばって向こうの気配を探っている。
「二人とも肚の底の一端を見せてしまったわけだし、気が済むまで話をさせてやろうと思ってね。いい機会だ」
「大丈夫か」
「大丈夫だろう。乾君は死にたがってるけど、気に入った人間の病気やけがにはナーバスだから」
 鳥居は少し鼻の頭を掻いた。
「それに、もしかすると今回のことは僕にも責任の一端があるかもしれないからね」
「えっ?!」
「結城君は、恬淡としているように見えるけど、いろいろと複雑でね」
「そうなんか?!」
「どう見ても乾君とは共依存で共倒れになるような、……いや、乾君だけが得をするような依存形態になりそうだったんで、軽く距離を置くよう助言したらもうその直後にはこれだよ」
「……マジか」
「マジだよ。彼はどうも、アタッチメント喪失恐怖と依存欲求がおっそろしく入り組んだ世界に住んでるらしいんだ」
 傷だらけで、自分を必要とする人間を欲して、しかしもう傷付くのは怖くて作り上げた望ましい自分の姿と願望の迷宮。
 そこを結城はずっと彷徨っているのだった。

「結城さん、僕、自分が何をしたか防犯カメラの記録見てきました。箕郷さんにも聞きました」
 自分を友人のいない「ぼっち」から拾い上げてくれた結城を拘束した腕を解くと、病衣姿のままの乾は彼の前に回り、膝立ちで項垂れた。
「ごめんなさい」


 いつか、結城に自分のことを気持ち悪いと思っていないかどうか尋ねられたことがある。
 あれは、「そんなことはない」という言葉を言わせるための予防線ではなかったか。
 それは、子どもの頃から今まで言われ続け、一番生々しく残酷に傷つけてきた言葉だったからではなかっただろうか。
 それを、トリップした状態だったとはいえ、口にしてしまった。


「僕はあなたのことが大好きです。あんなこと意識したことすらありませんでした


 自分の台詞の白々しさに、また眩暈がしそうになった。
 自分自身の意識にさえ、隠し遂せてきた認識。
 そんなものはない、と思い込んできた、蔑みの気持ち。
 しかしもう、誤魔化せない。

――このひとの前では、僕は正直でいよう。

「だけど、ああいうことを言ってしまうということは、やっぱりどこかで、あんな考えを捨てきれてないんだと思います。そこは否定しません」
 表層の意識で認識していなかった心の奥底の思いを変えることなど、戦車に素手で立ち向かうようなものだ。
 どだい、無理だ。
「だけど……それは、あなたに『女性』を感じる自分が許せなくて、気持ち悪くて、あなたに責任転嫁した部分もあるんです。気持ち悪いのは僕の方です」
 冷たい床にへたり込んでいる結城を、膝立ちで見下ろしていた乾はゆっくりと腰の位置を下げ、同じ目線の高さになるよう屈んだ。
「ごめんなさい。……本当に、ごめんなさい」
 そのまま、礼法の流儀に則って床に手を付き頭を下げた。

 理性で覆い隠したその深いところで、確かに気持ち悪いと思った。
 その嫌悪するのと同じだけ、魅かれた。

――だけど僕には花冠ちゃんがいるから……

 その首輪からは抜け出せない。
 抜け出すよう命令されたのに、抜け出せない。
 いつも自分を肯定し、叱咤し、励ましてくれた慕わしい影にもう一度縋りつきたい。

――だけど……このひとにこんな悲しい顔させちゃだめだって思うんだ

 どれほど経っただろうか。
 結城が小さく言った。
「もういいよ」
「…………」
「顔、上げて」
 白衣のごわついた生地の衣擦れの音を立ててにじり寄ると、乾の鼻梁にそっと触れ、結城は淋しそうに笑った。
「腫れてる」
「…………」
「俺ね、数十日は懲罰房行きになる。臨床からも外される」
 乾いた、淡々とした言葉だった。
「だけど、許せなかった。君をおもちゃにしたあの女が。……馬鹿だと思うだろ?」
「…………」
「正直に言ってごらんよ」
「馬鹿だと思います」
 悲しげな、詰る口調だった。
「あなたは、こんな友達甲斐のない馬鹿男のことで何やってるんですか」
「そうだね」
「あなた、僕と友達でいて何かいいことありましたか?」
「考えたことないよ」
 乾の目が、大きく見開かれていた。
「ああ、今日はもう散々ですよ。僕は何にもしてないのに毒にやられて、暴言垂れ流して」
「…………」
「みんなの前でゲロ吐いて、ドアにぶつかって」
「…………」
「初めてできた友達にひどいことを言って」
 容量を拡げたその目に、乾はいっぱいに涙を溜めていた。
「だから僕は、友達を失くしても当然です」
 この歳で対人経験が致命的に不足している彼には、かなりこたえている。
 結城は細く震える息を吐いた。

 本当の気持ちを、聞けた。
 方向性はどうあれ、自分の存在は求められている。
 溜まったものを零すまいとする目と、そして首筋に残る真っ赤な痕。

 疼く。

 結城は目の前の病衣に覆われた肩を掴み、ぐっと押した。
 重み以外、ほとんど何の抵抗も声もなく植物学者はぐらりと倒れる。
 その大きな身体に、結城はそっと男でもあり女でもある身体を添わせた。
 結城の吐息が乾の頤にかかった。
「そうだね…………君も、俺も、友達を失くしたかもしれないね」
 そう襟元で呟くと、処分を待つ身の囚人は男の首筋に貼りつけてあるパッドをそっと剥がした。
 消毒薬を塗布した形跡のある紅い傷跡が現れる。
 結城はそこにに唇を触れた。
 小さなリップ音を立てたかと思うと、僅かに歯を当てて強く強く吸う。
 ちりちりと、とそこが痛む。
 猫の仔が母猫の乳にしがみつくように無心に首筋を吸われながら、乾は少し寂しい気持ちになった。
――このひとはいつから僕をそういう目で見てたんだろう…………
 確かに魅かれてはいる。
 しかし、友人としての信頼、親愛の情、そして一緒にいた時の安らぎが変質していくのはとても寂しかった。
 結城が唇を離し、壊れ物を慈しむ手で、今日一日の騒動でげっそりとしている男の頬を撫でた。
「ねえ、口を開けて」

 

 その頃、真夜中の監視室ではいつのまにやらやってきた若白髪の医師山本と、結城にはめっぽう弱い斉藤がモニターの前に陣取り、金銭授受案件を発生させていた。
「おい、チューしてるぞ」
「マジか」
「ディープだぞ」
「うっわマジだ」
「結城すげえ…………あの乾を落としやがった」
「乾さん、もうちょっと粘るかと思ったんだけどなあ」
 まだ若いのに胡麻塩頭の男は掌をひらひらと振った。
 彼の罪状は「結婚詐欺」で、もともとかなりの守銭奴らしい。
「ぶつぶつ言ってねえでさっさとよこせよ」
「あ~あ、もう…………」
 千円紙幣が斉藤から山本に手渡される。
「まいど」
 勝者はにやりと笑った。


 騒ぎをよそに黙ってモニターを眺めていた鳥居は、彼らの会話に耳をそばだてていた。
「落ちたのとはちょっと違うな」
「あ?!」
「乾君はいろいろやらかした罪悪感でじっとしてるだけで結城君もそれをわかってる」
「確かにそんな感じだな」
 結城の身体の下、乾の手は、緊張のせいで指を立てて床を掻くようなかたちで固まっていた。
「監視されてるのを知っての上だから、ひょっとしたら所有宣言的な意識があるのかもね」
「なんかややこしいな」
「さて、これからどう転ぶかねえ、この二人は…………」


 斉藤はふと顔を顰めた。
「乾さんが落ちてないんだったら、俺千円払わなくてよくない?」
 山本は、紙幣を後生大事にしまい込むと反論する。
「チューしたんだったら落ちたも同然だろ」
「落ちたも同然、と、落ちた、は違う!」
「見苦しいぞお前!」
「今月は金欠なんだよ!」
 本来は研究が好きでいつでも引き籠っていたいのに、人の思いを推測することに長けていたせいで所長のブレーンとなり、様々な雑事に追われる羽目に陥ってしまった精神医学研究者は、眼鏡を上にずらして眼精疲労に痛む目頭を押さえた。
「君たち、騒ぐなら出て行ってくれたまえ」

 

 


Ⅶ. できることを、あなたに

 今、乾はうつらうつらと夢の中でとある記憶をなぞっていた。
「静かだね」
「ええ」
 あれはある猛吹雪の夜だった。
 いつものように自室に置いた炬燵でぼんやりしていると、積雪の重量により送電線に障害が起き、突然停電した。
 乾はデスクの足元のホルダーから非常ランプを外して炬燵の上にことんと置き、仄白いLED電球を灯した。
「こんな暗さじゃ本は読めないですね」
「そうだね」
 耳元で低く呟くような声が聞こえた。
 そしていつの間にか結城がぴったりと寄り添っているのに気が付く。
 少し身を引くと、結城はそのままそっと肩に凭れてきた。
 拒否するのを憚られるような優雅さで、いかにもナチュラルに。
「どうしたんですか」
「暖房が切れて寒いんだよ」
「カーディガン貸しますから」
「いや、これでいい」
 結城の手がおずおずと腰に巻き付き、抵抗しないと見てとるときゅっと力を籠めてくる。
 不気味なほど、辺りは静まり返っていた。
「静かだね」
「ええ」
「こうしてると、他のことがみんなどうでもよくなってこないか?」
「…………」
 結城は、他の、例えば斉藤にもよくシガレットキスをかましていたし、真性半陰陽の身体について尋ねられると誰彼構わず淡々と「見るか?」とベルトのバックルやシャツのボタンに手をかけるような性分だった。もともと人に触れられるのが苦手でにじり寄られても後ずさって避けてきた乾もとうとう「この人はパーソナルスペースが狭い、スキンシップが好きな性質だから仕方ない」と納得せざるを得なくなり、近いなと思っても何も言わなくなった。
 暗闇に翳る橄欖色の瞳が、夜行性の動物のように底光りして自分をじっと見上げている。
 このまま黙っているのはこわい気がした。
 炬燵の向こうには毎日寝ている狭いベッドがある。
 その枕元には毎晩話しかけ、割り切れない負の感情でいっぱいのときには護符のように胸に抱いて寝る小さな額がある。紫外線から守るためにかけた山繭の薄絹の向こうで、妻にするはずだった女性の写真が、少し悲しげな、そして優しい顔でこちらを見ている。
 とにかくこの沈黙を破って、妙な雰囲気を壊してしまわなければ。
「……あの」
「……ちょっと黙ってろ」
「……もうすぐ電気点きますよ。そうですね、あと1分ほどで」
「何でわかるのさ」
「副電力供給機構が作動するからです」
「何で知ってるんだ」
「実験中に停電が起きたら大ダメージでしょう? 調べたんですよ」
 今、この出来事の半月後に乾は脱走騒ぎを起こし、なぜ彼が電力施設の復旧タイミングに詳しかったか、その訳を雄弁に物語ることになった

 

 肌寒さに眠りが途切れる。
 乾はごそごそと寝返りを打った。
 モバイルフォンで時刻を確かめると午前2時を過ぎたところだ。
 テントの生地を、ぽつぽつと弱い雨が叩いている。
 ここは斉藤に教えてもらった、NIR中四国研究所に大きく張り出し、もう使われることもなく孤立した古いボイラー施設の屋上だった。
 そこへシュラフと小さなテントを持ち込み寝泊まりするのももう二週間になる。
 そろそろ自分の匂いの染み付いたベッドが恋しいが、彼には自室に戻れない理由があった。特にこんな連休中だとなおさら戻れない。

 

 そののっぴきならぬ事由が発生したのは一週間前の、結城が懲罰房から戻されるという日のことだ。

 夕日が長い波長の可視光線で何もかもオレンジ色に染めている中、乾は研究所の前栽のベンチに座っていた。植物部門の同僚たちに「湿気たツラ」と評される面長の顔に弱った表情を浮かべている。
 今朝結城は懲罰房から戻され、臨床医学部門の研究棟にいる。
 外科医の彼が臨床から抜けたことで手術予定や当直予定のシフトは大幅に狂ったはずだ。結城はラボで白眼視され、針の蓆だったことは簡単に想像がつく。
 あの一種飄々とした立ち居振る舞いで、心に立っている波風を微塵も感じさせずに彼はやり過ごすだろうが、あの彼でも失った信頼を取り戻し再度臨床分野へ携わることを許可されるのには並々ならぬ努力が必要に違いない。
 結城は自分の手術手技を誇りにしていた。外科の連中のご多聞に漏れず、彼は病魔に身体も精神も打ちひしがれた人間に「もう死ななくてもよくなった」と宣言する瞬間を何よりも愛していた。
「外科医は人を治してなんぼ」といつも言っていた結城が現場から離れざるを得なくなった事由を作ったのが自分であることを思うと気が滅入る。
「しばらく会えないけど、元気で。大人しく待ってて」
 あのとき懲罰房へ連行されながら、結城は目を細めて微笑んだ。
「……はい」
 そう返事してしまったのだが、自室に戻って枕元のフィアンセの写真を見ているとまた別の自責の念が湧きあがってきてしまい、結城が懲罰房から出て来る日がもっと先だったらいいのにと思い始める体たらくだった。
 今、自室へ戻ればきっと彼は来る。
 今夜は来なかったとしても、近いうちに来る。
 乾は頭を抱えていた。

――一応早朝に、「お勤めご苦労様でした」ってカードを付けてフラワーボックスを結城さんの部屋のドアに吊るしておいたけどあれで何もかもなかったことにならないかな

――だけどもともとは土岐さんのせいだよね、僕純粋に被害者だし。一応謝ったし。
――とにかく「僕に毒盛った土岐さん:暴走した結城さん:可哀想な僕」の悪さの比率は7:3:0で確定だね、うん。

――それにさ、何が何だかわけがわからないうちにキスされちゃってセクハラだよねあれ。
――っていうかキスの真っ最中、僕ビビりまくって半泣きだったんだけど。
――そりゃ綺麗だし、優しいし、おいしいものくれるし、他の人との折衝役もしてくれるし大好きだけど、怒ったらものすごく怖いっていうのがわかったし、とにかく、僕には花冠ちゃんがいるし、ああいうのはよくない。うん。

「不運で不器用な自分」に酔って、どのくらい経っただろうか。
 足音が、かさかさと花水木の赤茶けた落ち葉を踏んで近づいてきた。
「よう、乾先生」
 慌てて顔を上げると、そこには例の、結城と懇意な関係にあった男が立っていた。
 相変わらず、場違いに胸をはだけ、到底趣味がいいとは思えないガンメタリックアクセサリーをじゃらじゃらとつけている。
 派手な化粧をしてむっちりと大きな胸を揺らした若い傍らの女の腰に手を回して、彼は座っている乾をにやにやと見下ろした。
 女も下品な匂いのする笑みを浮かべて、地味極まりない植物学者に舐めるような眼差しを向けた。
「今日、常葉出て来てたぞ。デスクで資料纏めてた」
「ああ、そうなんですか」
「気の毒だよなあ、バリバリ今まで切ったり縫ったりしてたのに」
「……そうですね」
 どさっと、実にワイルドな洒落男の体で、男は乾の右隣に座った。女もすかさず左隣に座り、乾はこの薄気味悪く友好的な男女に挟まれてしまった。
「あんたが動物組の毒虫女に殺されかけて、ブチ切れてメス振り回したんだってな、あいつ」
「…………」
「常葉らしくないわよね」
 女も頷いている。
 男はベンチの背凭れに肘を付き、モデルのようなポーズで脚を組んだ。
「あんた、常葉にすんげー気に入られてんだな」
「彼はいい友人です」
「そうか、あんたは友人とディープキスすんのか」
「…………」
 何で知っているんだ。
 言い返したいがどう言い返すべきか。
 耳まで真っ赤になった乾に、男は言った。
「まあ、ようこそってとこかな」
「え?」
「知ってるだろうけど、俺ら、常葉のセフレ仲間なんだよ」
「え?」
「俺もこのカワイコちゃんもあいつのセフレ。OBOGも入れて、他に何人かいる。あんたを歓迎するぜ?」
 女が乾の手の甲をすいっと撫で、しなだれかかってきた。
「あたしらはもちろんつきあうとかなんとか面倒なことは一切抜きで、後腐れなく愉しめればいいの」
 植物学者は慌てて振り払い、浅黒い顔が今度は青ざめ、強張った。
 男が粘りつくような口調で、畳み掛ける。
「俺と寝るとき、いっつもあいつ声を立てるなってしつこく念を押して、自分はしっかり目を瞑ってさ。誰の顔思い浮かべてんだか」
「……知りませんよ」
「一回、あんたの名前呼んでたぜ?お互い知らんふりしたけどな」
「…………嘘でしょう?」
「ほんとだよ。まあ俺もあいつには入れ込んでたし、ちょっとはムカついたんだけど、あんたが花持ってきて常葉に渡せって言ったときは拍子抜けしたぜ」
 下半身がゆるゆるな男女に友好的に絡まれて乾は一刻も早く逃げ出したかった。友人のベッドでの痴態など知りたくもない。
 だいたい、研究成果をきっちり上げさえすれば他のことには緩いこの研究所の在り方自体がおかしい。
 もっとぎっちぎちに規則で縛り上げるべきだ。
 肌寒い秋の日暮れどきだというのに、乾は脇に冷たい汗が流れるのを感じた。
「常葉、今まであんたにゃ手ぇ出してなかったんだってな」
「乾先生はおくすりのせいでセックスできないんだから、仕方ないわよ」
 女がクスクス笑った。
 どこから漏れたのかわからないが、それはこの研究所では暗黙の了解になっていた。
「こいつが勃たなくても、バックは使いもんにはなるんじゃないのか」
 乾は思わず喉の奥でカエルが潰れたような音を立てた。
「……何が言いたいんですか」
「簡単に言えば、俺らと仲良くしようぜって話だ。俺らも常葉と同じバイだし」
「乾先生がヘテロ一択だっていうんなら、あたしだっているし。挿れる以外にもいろんな愉しみ方はあるんだから」
 ふわふわとした乳房を押しつけながら、女が腕に縋りついてくる。
 鳥肌が立った。
 小さく、結構です、と答える上に男の声が被る。
「常葉だってきっと喜ぶぞ」
「結構です!」
 今度ははっきりと拒絶した。
――なんなんだこのゴミみたいなやつらは!
「僕は誰ともそういうおつきあいをするつもりはありませんから」
「常葉とも?」
「もちろんです」
「あはは、あの結城センセイをふる気か、あんた」
 そのとき女が小さく手を振りながら、居住エリアの窓を見上げた。
「ほら、あそこ!常葉がいるよ?こっち見てる!」
 ばね仕掛けの人形のように慌てて立ち上がり、女の指さす方を見ると、夕暮れに黒々と浮かび上がる建物の3階に、早々に灯りが漏れている窓がある。
――あれは僕の部屋のリビングだ。
 そこにこちらを凝視している二つの人影があった。
 一人は骨太の輪郭で誰だかはっきりしている。
 乾の同室、箕郷だった。
 もう一人の髪は長くウェーブし、白い顔をこちらに向けている。
 こちらも見間違えようがない。
「常葉……なんかちょっと……怒ってない?」
 女が呟いた。
 懲罰房から出て早々、この距離でも感じ取れるほどの怒り。
 それが誰に向けられたものかはどうでもよかった。
 窓際でこちらを睨みつけていた結城が駆けだすのが見えた。
 乾と、結城と親密な関係にあるという男女は、まるで申し合わせたかのように、脱兎のごとく散り散りに逃げ出した。

 窓辺には、血相を変えて飛び出して行った結城に取り残された箕郷が一人佇み、呆れ顔で外を眺めていた。
「あいつ、ほんとに馬鹿だな」
 リビングの小さなテーブルには、結城が持ってきたフォレ・ノワールが置かれたままになっていた。

 そしてその日の夜から今に至るまで、冷たい夜の雨に打たれたテントに、乾はカタツムリのように籠っている。

 乾は「ほとぼりが冷めるまで、結城とそのセフレどもを徹底的に避け、逃げ回る」という個人的にこの上なく素晴らしい方針でここにいる。
 臨床医学部門の研究者たちが身動き取れない時間を見計らって炊事洗濯し、シャワーを浴び、就業中は出来るだけフィールドワークに勤しみ、斉藤と自分以外誰も知らないここで寝る。
 2週間も経てばすっかり慣れた。もともと人間嫌いなのでともすれば快適に感じることもある。
 だが自室の暖かさやベッドの寝心地を思うと、やはり戻りたい。
 吐く息が白い。
 明日はもう少し厚手のシュラフシーツを持ってこよう、と彼は思った。
 夜半に目を覚ますのが嫌いな彼は、弱い雨にしとしとと濡れている小さなテントの中、酢酸リナリル、リナロール、酢酸ボルニルなどをミックスした小瓶を鼻の前で開け吸引した。こうしないとパニック障害で過呼吸を起こしてしまう。抗不安薬を少し弱めの処方に変えられてからは、この吸引ボトルが手放せない。
 動悸が収まってくると、着替えとして持ち込んでいた服の中からフリースのジャケットを取り出し、マイクロファイバーのスウェットスーツの上に着た。
 もう一度シュラフに潜り込もうとすると、この屋上への唯一の出入り口であるスチールドアが錆びついた音を立てて開いた。
「乾さん、夜遅くごめん。起きてる?」
 それは乾にこの場所の存在を教え、気紛れに合鍵を渡してくれた斉藤だった。
「ああ、こんばんは斉藤さん。起きてますよ」
 寝る前に服用した抗不安剤の効果が残る腑抜けた声だ。
「こんばんは」
「濡れますよ。入って下さい」
 ジッパーを開けてテントに招き入れると、斉藤はごそごそと這い込んできた。
 彼は目の下にいつも薄黒く隈を作っているのだが、寒くなって血の巡りが悪くなったのか、今夜はさらに下瞼あたりの色が濃い。
 狭いテントの中は、石鹸の香りに混じった男の匂いが防水布一枚で閉じ込められていた。
 乾は灯りを点けた。
「どうしたんですか?こんな夜遅く」
「あのねえお兄さん」
 斉藤は細く整えた眉を寄せている。
「俺、とっておきの場所を教えたの後悔してるよ。使っていいとは言ったけど独占して寝泊まりしていいとは言ってないよ?」
「いい場所を教えてくれたことには感謝してますが、ここは公的施設の一部ですから本来入所者なら誰が使ってもいいでしょう?」
「それはわかってんだけどさあ……そろそろ自分の部屋に戻りなよ。風邪引くよ?」
「大丈夫ですよ」
「何で戻らないの」
「僕の気紛れです。たまにはいいでしょう?」
「たまにはってさぁ……もう二週間になるんだよ?」
 乾は保温ポットに残っていた湯でぬるいタンポポコーヒーを淹れ、身体が温まるからと斉藤に勧めた。
「みんな、探してるよ?」
 乾は、うすぼんやりと笑った。
「みんなって誰ですか?」
「……えっと……」
「話を盛らないでください」
 戦時中コーヒーの代用として使われていたタンポポの根の煎じ汁を飲みながら、訝しげな顔で斉藤が訊ねる。
「お兄さんさあ、結城さんとつきあうことになったんじゃないの?」
「結城さんがそう言ったんですか?」
「いや……キスしてた……っていう噂だし、監視カメラで見た……って人もいるし」
 それを監視カメラで見た、そしてその噂をばらまいたのは自分と山本だ。
 悪気はなかった。
 とはいえ、それを乾に言うべきでないのは火を見るより明らかだ。
 温厚な人間が怒り出すと手に負えないのは、結城や箕郷を見ていると良くわかる。
「あれは事故です」
「……は?!」
「ちょっと話してたら、たまたま顔がぶつかっただけです」
「え?」
「一回のキスくらいでつきあうだなんて、中高生じゃないんですから」
 事実を否定こそしなかったが、この男のぬけぬけと言い切る神経と、なぜか尊大な態度で逃げを決め込むその姿勢に、斉藤は優しい兄貴分である結城が気の毒でたまらなくなってきた。
「すごく冷たい言い方するなぁ」
 ぱらぱらとひっきりなしに防水布に当る雨音を聞きながら斉藤は思った。
――この人と結婚しようと思えた人って、ほんとにすごいな。
「で、ここにいつまでいるつもり?」
「戻る気になるまでです」
「どうしたら戻る気になるんだよ」
「それは僕にもわかりません」
 この男と話しているとだんだん馬鹿馬鹿しくなってくる。
 柳に吹く風のような、何とも手ごたえのない応答。
 さっさと話を終わらせることを意図しているのかと勘繰りたくなってしまう。
「お兄さんさあ、……ほんとに大人?」
「年齢的にはそうですよ」

「……って言ってたよ、乾さん」
 その日の夕刻、斉藤は玉子サンドイッチととりんごジュースを手に結城の部屋を訪れていた。
 何ともつまらないメニューの夕食だ。

 結城は苦笑しながら、こちらも食堂で売っていた惣菜詰め合わせのパックを開けた。

「で、桂ちゃんどこにいるの?」


 乾は同室の箕郷に「しばらく一人になりたいので」と言って、アウトドア用品一式を背負うと部屋へ戻らなくなってしまった。鳥居も、果ては所長までも、業務を疎かにしないという条件下でならば、ああいうことがあった後だからしばらく好きにさせてやろう、という方針で時折GPSで居所をチェックしながら放任している。甘いと言ったらない。


「脱走アラーム鳴らない範囲で離れたとこにテント張って、寝泊りしてる」
 斉藤は屋上のことは伏せた。
「そこまでしてんだ」
「乾さんって見た目地味なのにやることはエキセントリックだよね」
「俺に会うの、そんなに嫌かなぁ……」
 言いながら結城がふっと微笑んだ。
「でも、桂ちゃん、風邪引いたら不安障害増悪するんだよ。この時期にテントでなんて、だめだよ」
 斉藤は4つ年上の同僚をしげしげと見つめた。結城は楽しげだった。
「…………?」
 斉藤は目をしばたたいた。
 不思議そうな顔をしている斉藤に結城はさらりと言った。
「俺の独り相撲でもね、もういいんだよ」

 今まで味わったことのない、なのに懐かしい香りのする金色の蜜のような、不思議な依存性のある心地よさ。
 しかしその関係は変質した。
 あのとき、いつになく素直に自分の心情を吐露した乾に、身体も心も疼いてしまった。
 つい、前々から触れたかった唇が目の前で震え、温和しげな目が自分を見つめて潤んでいるのを見て、もう堪えきれなくなった。
 少々軽率だった、とは思う。
 しかし後悔はしていない。

――これで、あいつは一生俺のことを忘れない。絶対に。

 それはこれからも一緒にいることを選ぶならばちょっとした笑い話に。
 もし離れていくならば、信頼していた相手からのセクシャルハラスメントの記憶として彼につきまとっていくのだろう。
 全部、物事はなるようにしかならない。
 何が起こっても自業自得なのだ。
 

 斉藤のモバイルフォンから耳障りな音がした。デスボで、killだのhellだの喚いている。斉藤お気に入りの

デスメタルバンドの曲が音源だ。

「あっ」
「何?」

「昨日手術した患者、高熱出してるって! 行かなきゃ」

 斉藤はもごもごとそう言うと、りんごジュースを口に含んで咀嚼していたサンドイッチを一気に飲み下した。「じゃあね」
「うん、またね」
 食事を済ませて歯を磨き、さっとシャワーを浴びると結城はすぐにベッドに入った。一昨日と昨晩の緊急手術の疲れがまだ残っていて、日中ふらふらだった。術後の容体によっては、斉藤のようにいつ呼び出されるかわからない。だからできるだけ眠っておくのが肝要だ。

 

 言わぬことではない、すぐに呼び出し音が鳴った。

 モバイルフォンの画面はあのマスク女子の薬学者、野崎からのコールだと表示している。

 寝起きと悟られないよう、一息入れて結城は通話ボタンをタップした。

「はい、結城です」 

「ああ、結城さん。お疲れ様」

 つんけんした若い女の声だ。

 野崎は、様々な相手と浮名を流す結城によい感情を持っていない。彼女の潔癖さは物理的なものだけではなかった。それに乾の脱走未遂の時の態度や最近の噂で、野崎の彼に対する評価は下降線をたどり続けている。

「うちに乾君が来てるんだけど、引き取っていってよ」

「うちって、ファーマシーの方?」

「そうよ。点鼻薬が欲しいって来たんだけど」

 案の定、乾は風邪を引いてしまったようだ。

「箕郷さんも鳥居さんもつかまんないし、なんかうるさいからさっさと連れて行ってよ。」

 結城の返事を待たず、不本意でならないと言った風で野崎は通話を切った。

 結城が薬学ブランチのオフィスへ行くと、乾はマスクを着けて、デスクで作業中の野崎の背後から、ああだこうだと熱心に喋っていた。

「わかってるから、もう! ほっといてよ!」

「だってこのスペルミス、前回もだったじゃないですか」

 おそらく論文について細かいことを指摘しているのだろう。相変わらず顔をマスクで隠してはいるが野崎はうんざりした様子だった。とうとう彼女は声を荒げた。

「もう帰ってくれない? 気が散るんだけど!」

「こんにちは。それとももう、こんばんはかな」

 結城が野崎と乾に声をかけると、野崎は眉を顰め、乾はあからさまに、怯えた目つきをした。

 結城は否応なしに、それでもそれなりに気を遣ったのか、自室ではなく乾の部屋へ彼を連行していった。

「ほら、パジャマに着替えて、さっさと寝て」

 そう結城が言うと、乾は困った顔をした。

「あの、パジャマはここじゃないところに置いていて……」

 結城は動じない。

「Tシャツとトランクスでもいいから」

 諦めたように、乾は衣類のキャビネットを開けてよれよれにくたびれたTシャツと、薄手の夏用短パンを引っ張り出した。やはりトランクスだけではよくないと思ったようだ。
 彼が着替えている間、結城はリビングに出て、持ってきた氷嚢をベルトのついたパイル地のカバーに包んでいた。

 包み終わると、Kと書かれたプレートが掛かったドアをノックする。
「桂ちゃん、もう着替えた?」
「はい」
 乾が返事をすると、結城はドアを開けて中に入った。馴れ馴れしいようだが、以前より少し距離が開いた物腰だった。
「ほらこれ。こうやってベルトで首に着けて頸動脈冷やして」

「あの、結城さん、何か勘違いしてませんか?」

「勘違いって?」
「……僕、熱ありませんよ」

「え?」

「これ、秋の花粉症です」
「え」

 詰まった鼻でも、氷嚢からラベンダーとティーツリーの香りが立ち昇るのを感じる。以前、結城に「こういうものなら植物組の手慰みでたくさんある」と渡した精油がカバーに染ませてあるのだろう。

 まるで母親のような気遣いと勘違いっぷりだった。

「でも、ご心配くださってありがとうございます」
 乾は小声で礼を言った。

「それって仕事で? 今寝起きしてるとこで吸っちゃったの?」

「どっちもです。もう花期も終わりだし大丈夫だと思ってたんですが」
「桂ちゃん、もう戻ってきなよ」
「……」
「花粉症起こしててもまだテント生活したいの?」
「だって合わせる顔がないでしょう」
「何それ」
「あなたが現場に立てなくなった原因作っちゃって」
「ああ、大丈夫。気にしなくていいよ」
 医師には、臨床に携わった年数、執刀手術数、そして手術記録の映像審査、筆記と面接の試験に合格した者だけが持つ様々な認定資格がある。その中の一つ、手術支援ロボット外科指導医を名乗れるのはここでは現在のところ結城だけだった。下位資格の「認定医」「専門医」なら比較的多く存在するのだが「指導医」資格までこの年齢で持っているものはそう多くない。
 自分抜きで外科がうまく回るわけがない。
 あの事件は衝動的な凶行に見えて、早々に戻されるのを見越したものだ。
 その打算は、当然誰にも言っていない。この植物学者が胸を痛め、自責の念で自分から離れなくなってくれれば、御の字だ。
「それだけじゃないだろ? 俺を避けてた理由って」
 結城は目を伏せた。
「だいたいわかってるよ」
「…………」
「『僕には、大事なひとがいますから』って言いたいんじゃない?」
 この不器用な男の一途さを、何物にも代えがたい美徳だと感嘆しつつ、皮肉なことに死んだ女に向けられっぱなしのそれは尖った氷柱のように幾度となく結城の心に突き刺さってくる。

――そんなこと言われたのは初めてじゃない。

――もういい歳だし、いちいち傷付くようなやわな俺じゃないから。

 そう自分に言い聞かせる。
「それに……あなたは、たくさん親密なお相手がいるのに、殊更僕をそこに加えなくてもいいじゃないですか」
 結城はあの、頭も尻も軽く、性的な遊び相手として使い捨てるしかないような連中に乾が絡まれていたのを思い出した。
「あいつらに何か言われたの」
「仲良くしようって言われました」
「……そう」
 結城は溜め息をついた。
「桂ちゃん、俺のこと好きっぽいようなこと言ってたよね」
「ええ」
「だったら嫉妬とかしないの?」
「しませんよ。だってあなたは、みんなのものでしょう? それに……」
 乾は淡々と言う。
「あなたは、自分で最低だって言ってる人とばかり関係を持ってるようですが、あなたは僕をそういう人たちと同列に並べようとしているんですよね?」
 結城は、そんなやつら相手だと簡単に切り捨てることも切り捨てられることもできるから、と言えば激しく軽蔑されるような気がした。
「…………違う」
 結城は少し悲しい目をして乾を見た。
「……違う……全然違うよ」
 思い切り齟齬していく感情が軋む。
「他のやつらのことなんかもうどうでもいい。ただ、桂ちゃんと一緒にいたいんだ」
「…………僕と?」
「俺を好けとか、抱けとか言わないから」
「…………」
「君が誰かを忘れられなくても構わない。お金がないなら俺が養ってもいい」
 徐々に、乾は淋しげな表情になった。
「結城さん、僕、そういう価値はない人間ですよ」
 ぼそぼそと乾が遮った。

「桂ちゃん、人は支えがないと生きていけなくなってるんだよ。君が誰かを忘れられなくて、それを支えにしてるならそれでいい。お互いに支え合わなくても、一方的でもいいんだ」

 

 彼は思い出していた。
 コルドトミー手術が功を奏し、泥沼を這いずるような痛みから解放されて終末医療センターから一時帰宅した彼女のまえで、彼は浮足立っていた。
「ねえ、なんかして欲しいこととか欲しいものとかない?」
「さっきからうろうろうろうろして……ちょっと坐ったら?」
 自らのベッドの端に座るよう促しながら、彼女は笑った。
 笑っている彼女を見るのは久しぶりで、それだけで乾は泣きそうになっていた。
「何かしたくてたまらないんだよ、花冠ちゃんのために」

「じゃあねえ……お茶を一杯淹れてくれない? 紅茶がいいわ」

 状況は随分と違うが、あの時の自分と結城は同じ気持ちなのかもしれない。

 しかも、花冠は自分の方を向いていたが、今の自分は結城と向き合うどころか逃げ回っている。

「僕は、どうすればいいんでしょう? 僕みたいなクズは」

 そう呟くと、観覧色の瞳が優しく細められた。

 

 この男のサンクチュアリには、彼女とこの男だけがいる。

 世界が焔に灼かれ氷に閉ざされようと、きっとこの男は彼女の幻影の手を握ってにこにこしている。

 自分は柵に囲まれたその花園の周りをぐるぐると回ってもの欲しそうにしている害獣。

 ちょっとした隙間さえあればいつでも入り込んで、彼女の居場所を奪い取りたいと思っているけだもの。 

 今まで幾多の庭に入ろうとして、そんな柵に阻まれてきただろう。

 だから、死ぬまで、いや、死んでもどこへも受け入れられない恐怖と焦燥、寂しさにのしかかられて、それを忘れるために散々くだらない遊びで自分の存在意義を確かめ続けてきたのだ。

 ただそばにいたいと願った相手が皆、自分の鼻先でそれぞれの門を閉じるのを見つめながら。

 

「大丈夫。俺はもっともっとクズだから」

 

 しかし、クズにはクズの流儀があるのだ。

 お互いの傷を舐めあって、詰りあって、寄りかかりあって。

 それがいつか本当の、心からの愛着になっていくことだってあっていい。

「まず、自分の部屋に戻っておいでよ」

 結城は乾の肩にそっと頬を預けてみた。黒い大きな犬のような男はじっとしていた。

 三日後の夜、いつものように結城の部屋にぶらぶらと遊びにやってきた斉藤は、以前のようにしれっとソファに座っている乾を発見した。
「乾さん、テント生活やめたんだね」
「ええ、潮時だと思ったので」

 その会話を聞きながら、結城が茶の支度をしている。ガラスのティーポットに紅い色が鮮やかだった。
 ネーミングセンスがずば抜けて悪い乾が、露地試験栽培用の茶畑でニホンアナグマを見たからと命名した「あなぐま小種」の紅茶を飲み終わると、斉藤は赤い髪の生えた頭をちょいと掻いて言った。
「あの、結城さん、俺、帰っていい? 風呂まだなんだよね」
 乾も立ち上がろうとする。
「僕もそろそろ帰ってもいいでしょうか? 僕もお風呂まだなので」
「桂ちゃんはここにいなさい。話があります」
「あの、トイレに行った後でもいいでしょうか」

「いいよ」

 いつもの如く、そのまま帰ってしまうかと思いきや乾はちゃんと戻ってきた。これはまた珍しいことだ。

 結城は何か一つ扉を開けたような気がして、微笑んだ。乾はおずおずと切り出した。

「あの、話って何ですか?」
「俺全部、カタつけたから」
「え?何の?」
「セフレってやつだよ。ぜ~んぶすっぱり切った」
「きれいな人たちだったのに、それでいいんですか?」
「いいよ」
「僕は、夜のことは、……できませんよ?」
「いいよ。もうたくさんだ」
「大丈夫ですか? いろいろ溜まりに溜まって鼻血噴いて倒れたりしませんか?」
「桂ちゃんの中で、俺は一体どういう人間だってことになってるんだ」
「ど変態」
「ほほう」
 白い手が伸びてきて乾の頬をむにっと摘まんだ。軽口を叩いた後に、言ってよかったのかなという表情を浮かべる大男のあざとさと言ったらない。

 しばらく頬の感触を楽しんだ後、指を離した結城に乾は言った。

「ああ、そうだ。今、あなぐま小種の試験栽培場でお茶の花が咲き始めてるんですよ」
「え? 茶って、お茶っぱの茶? 花とか咲くの?」
「そうですよ。茶の木は椿や山茶花の親戚ですから」
 専門分野が違う彼らはお互いの常識が通じずに驚くことが度々だった。
 乾は虚空に指で小さな輪を作り、その花の大きさを示して見せた。
「一重の山茶花を地味にした感じの白い花が咲くんです。来週あたりきっと見頃になるんですが」

 

 野生原種に近い栽培法で人の背丈ほどに伸びた木々。
 冷えた秋の大気に、陽を浴びて俯き加減に慎ましく咲く花。
 蚊はやっといなくなり、金色の毛がふさふさしたマルハナバチや土岐が飼っている勤勉なミツバチがやってきて、冬支度にせっせと蜜を集める。
 小さな白い花々には万人受けの華やかさはないが、陽だまりと木陰の境目に座って見上げていると、それなりによいものだ。

 

 ちょっと言葉を切り、照れを隠すように乾はほんの少し目を伏せた。
「一緒に見に行きませんか?」

 彼らは知らなかったが、ふっくらと素朴な花を咲かせる「茶」の花言葉は「追憶」、そして「純粋な愛情」だった。

 

Ⅷ. 不如帰の歌

 あと数日でクリスマスだ。
 NIR中四国支部の各部門のエントランスホールには、植物部門が演習林から持ち込んだシーダーが堂々と鎮座し総務部肝煎りの飾りつけがされている。


 植物部門のものはグリーン系を中心に花や木の実でガーリッシュかつ大人しめ。
 動物部門のツリーには、羽毛や卵、動物のオーナメントが賑やかだ。
 そして、この臨床医学部門のクリスマスツリーは真っ赤な飾り玉やサンタクロース人形が飾られていたが、誰かがふざけて小さな臓器や関節の模型、保管期限を過ぎて廃棄処分になったカプセルや錠剤まで吊るしてカオスな状況だった。

「何だい、話っていうのは」
 3部門中最もファンキーなツリーの横で、長い銀色の髪を無造作に後ろで束ねた外科医は、マスクを深々とつけた少女のような体つきの女を見た。
「ちょっと相談があって」
 結城は訝しげに唇を引き結んだ。
 目の前にいる野崎という女は自分のことをあまり快くは思っていないはずだ。
 結城と恋仲と言えるのかどうだか微妙な位置にある乾は、この年若い薬学者を可愛がっている。金のかからない方法で何かと貢ぎ、植物学者として薬学にも通じる部分では全面的にバックアップし、研究者としてのノウハウを伝授しようと躍起になっている。
 野崎も、ここへ来て初めて、うるさく構ってくる乾を暑苦しがりながらも、何の代償も求めない彼に親愛の情に似たものを覚えていた。
 乾は、死んだ婚約者に似た体つきの野崎に、勝手に代償行為的な義務感を抱いているだけだったし、野崎の方は、無神経な彼に反発しながらもこと植物由来の薬物については彼をブレーンとして信頼し、二人の間柄はなかなか良好だった。もちろんそこには男女の感情はない。
 それでも結城は、このマスクの下に顔を隠した小柄なハイジーンフリークが自分を不潔な存在だと考えていることは承知していて、少々疎ましく思っている。


 OCD、その中でもおそらく醜形恐怖の傾向を持つ野崎も、容姿にも交際遍歴にも華のある結城を見るたび、鳥肌が立つほど不快な記憶が脳裏に甦る。

 二年ほど前、ひどく寒い雪の降りしきる日だった。
 乾はほぼ完璧な脱走計画を遂行しようとしていた。
 面白半分について行った野崎が、それを完全に潰えさせた。
 乾は自分の意思を枉げて野崎の命を優先し、それは結果的に彼が殺害を企てていた人々と、乾自身の命、そしてNIRの社会的立場を救うことになった。


 そこまでは、よかった。
 よかったと言ってよいのかどうかわからないが、野崎としてはよかったと思い込むしかない。


 あの夜、ぶらりと入った監視室。
 そこは、脱走計画が頓挫し意識をまだ取り戻さない乾がいるICUを監視するために医療スタッフが詰めているはずだった。
 しかし、そこには誰もいなかった。
 壁に貼られたシフト表には、この時間ここにいるべきスタッフとして結城の名があった。
 結城は誰に対しても温和で優しかったが、なぜか野崎はその穏やかな物腰の中に真綿でくるまれた銀の針のような冷やかさを感じる。苦手と言うわけではないが、少し気詰まりな相手だった。
 野崎が監視モニターの電源が切れているのに気付いてスイッチを入れる。
 モニターは一瞬歪んだ光を放ったのち、ずっと意識を取り戻さない乾を映しだした。低体温と失血のダメージが大きいものの、どちらかと言えば目を覚ますことを拒んでいる、いわば心理的嗜眠状態かもしれない、と精神科医の鳥居は見ていたようだ。
 ベッドの傍らに立ち、結城は乾の髪やちくちくと髭が伸びてきている頬を撫でていた。


――何してるの、あのひと……


 野崎は思わず顔を顰めた。
 結城の手は徐に掛布を捲り、患者衣の紐をほどいて乾の胸や腹に触れていく。
 左横隔膜のすぐ下の、サージカルテープとガーゼで覆われた滅茶滅茶な切開痕。
 それは乾が腹腔内のGPS発信機を取り出すために、自らの身体にメスを入れた傷だった。
 そこへじっと手を当てていた結城は、つと乾から離れると、日々の激務で痩せた体に羽織っていた白衣と、その下に着ている黒いシャツの前を寛げ、首にかけていたペンダントを口に咥えた。
 口の端から垂れる細い金の鎖。
 半ば覗いている胸元。
 俯いた顔を隠す長い髪。
 結城は、モニター越しでもぞくりとするほど扇情的だった。


 潔癖な野崎は総毛立つような気味悪さを感じた。しかし、もう一つの、感情とも呼べないようなものが身体の奥から湧き上がり、視線が離せなかった。
 カメラの向こうで、インターセクシャルの外科医ははだけた胸元もそのままに、ベッドへ手をついて乾の上に屈んだ。
 ペンダントを咥えたまま結城は眠ったままの男と肌を合わせ、耳元で何か囁いているようだったが、執拗に、啄むように唇を重ね始めた。
 見たくはない。
 決して見たくはないのだが、野崎は結城と乾が重なる姿を瞬きもせず見つめていた。

 回復後、懲罰房での苦行僧のような生活を終えて乾が職場復帰したのは数週間後だった。
 野崎が事件後初めて会ったとき、彼はいつものように背中を丸めてホールのソファに座って新聞ホルダーに挟まった農業振興新聞を読んでいた。
 彼女はおずおずと声をかけた。
「ごめんね。やりたいこと、邪魔して」
 乾は答えなかった。礼も言わず、責めもしなかった。
 ただ、ふにゃっといつものように笑って見せた。
「あなたは謝る必要はありませんよ」
 その言葉には、少しばかり彼女にとっては酷な自嘲が混じっていた。
――彼女は悪くない。
――僕がこの娘を見捨てればよかっただけの話だから。
 しかし、野崎はほっと安堵の溜息をついた。
 乾は憔悴こそしてはいるが以前の落ち着きを取り戻している。
 言動や表情がおかしかったのがまるで自分だけが見た夢だったかのように思えた。
 彼の目に、複雑かつやや冷酷な悔恨が押し寄せているのに気付くほど彼女は人生の機微に詳らかではない。
「乾君、痩せた?」
「少しだけ」
「私、サプリメント作ってあげるね」
「ありがとうございます」
 安心がてら、年若い薬学者は、まだ血色のよくない植物学者に訊ねた。
「乾君って、結城さんと仲いいでしょ?」
「ええ、不思議なくらい、いろいろよくしてもらってます」
「つきあってるの?」
 彼は心外だというニュアンスを、柔和な表情に上らせた。
「まさか。あのひとは、僕の生まれて初めての友人ですよ」
 言葉を選びながら、野崎は言った。
「だってあのひと、乾君にべったりくっついたりするし」
「結城さんは、誰にだってそうでしょう?」
「気持ち悪いとか思ったことないの?」
「まあ、ちょっとびっくりはしますけど」
「嫌だったら嫌だって言えばいいのに」
 乾は訝しげに野崎の大きな瞳を見つめた。
 彼女は続けた。
「もし自分で言えないなら、私が言ってあげてもいいよ」
「……どうしたんですか? 結城さんと何かあったんですか?」
「何もないけど、ただ乾君が迷惑してるんじゃないかって」
 少し考え込むような顔をした後、乾はソファの肘掛に掴まりながらふらりと立ち上がる。
 約40cm差の高みから、小柄な野崎を見下ろして彼は穏やかに言った。
「そんなことより、この間の抄録、僕が追加したエビデンスをちゃんとチェックしましたか?」

 今、クリスマスツリーの横で、結城は野崎の言葉を待っている。
 記憶を振り払うように、野崎は顔にかかる髪を掻き上げた。
「あのさ、この間乾君、花粉症だったじゃない?」
「ああ」
「あのとき、乾君の飲んでる抗不安薬をチェックしたんだけど、全然知らない薬で、調べてもわかんなくて」
 野崎は言葉を切った。
 ある程度の年齢になれば、わからない、というのはそう難しくないが、年上の連中に伍する研究者であろうと背伸びする野崎には、そしてこと結城に、「わからない」と言うことは自尊心がちくりと痛む。
 結城は徐に話の続きを促した。
「それで?」
「MRさんに訊いたの。そしたらこれ、鳥居さんが特注したプラセボ(偽薬)だって」
「は?」
「低用量とか、そんなんじゃなくてただのブドウ糖の塊だって。乾君、自分に処方される薬全部あの手この手で調べてるから、鳥居さんはわざわざこのパッケージに、どんなに調べてもヒットしないでたらめなロゴと成分を印刷させたのよ」
 この情報は、乾にとっては朗報なはずだった。
 鳥居に処方され、ここに来てからずっと乾が服用していたSSRI系抗不安薬は骨量低下や不整脈、吐き気、体質によって相反して出現する眠気と不眠、EDなどの副作用をもたらすことで知られている。長期にわたる服用は、やはり望ましいことではない。
「……でも、彼、薬飲んだら気絶する勢いで寝るよ」
 結城がなぜ乾の寝つきの良さを知っているのかと思うと、野崎はつい顔を顰めた。
「……乾君、催眠療法とか自己暗示に弱いタイプかもね」
 様々な未認可薬を服用する治験協力への同意書に「あわよくば死ねるだろう」とやけっぱちにサインした乾は、この白い錠剤がプラセボだとは気づいていない。几帳面に毎晩決まった時間に服用し、この一か月以上彼は発作を起こしてはいない。
「乾君のパニック障害ってほとんど治ってるんだと思う。鳥居さん、それを言うタイミングを見計らってるんじゃないかな」
「…………」
 無言だったが、結城の目元がふっと和らいだ。
 乾の回復をひっそりと喜んでいるのだ。
 しかし、冷やかさをソフィスティケイトしたいつもの口調で、結城は言った。
「それをわざわざ、俺に教えに来てくれたの?」
「そうよ」
「君は、俺が桂ちゃんに構うのが嫌なんじゃなかったっけ?」
「仕方ないじゃない。乾君はあなたが好きみたいだから」
 野崎は素っ気なく答えた。
「あのさ、乾君って、いつもぼやけた顔して、何考えてるかよくわからないでしょ」
「その言い方、ちょっとひどくない?」
 やんわりと飼い犬を弁護する言葉に、野崎の声が被さった。
「……でもよく見てるとね、乾君、あなたが横にいるときは何となく、子どもっぽいの」
「子ども?」
「乾君っていつもはおっさん臭いっていうか、暗いっていうか、そんな感じでしょ。でも、なんて言えばいいかわからないけど、結城さんと一緒にいるときはなんだか甘えた感じなのよ」
「そうかな?あまり甘えられてはいないよ」
 結城は胸の奥に温かいこそばゆさを感じ、同僚に思わず微笑んだ。
――こうしてみると、意地っ張りでつんけんしてるけどなかなかいい娘じゃないか……
「……ううん、甘えてるよ」
 例えるならば、自分に相談もなく仲の良い叔父やいとこが恋人を作ってしまった時のような気分で、野崎は小さく言った。


 クリスマスツリーに飾られたLEDの豆球が赤く無邪気に瞬いていた。

「ここにもクリスマスツリーが飾られてるんだね」
 温かみのある口調で、絲島は義理の息子になろうとしていた乾に話しかけた。
 面会室にも、赤いリボンや金色に塗ったフウの実、小さな星のスパンコールで飾られたシルバークレストの鉢が置かれている。
「はい」
「昔はよくうちにでっかい木を抱えて持ってきてくれたね」
「懐かしいです」
 自殺幇助で情状酌量の方向へ持っていこうとした弁護士そっちのけで、絲島花冠を明らかな殺意があって殺害した、と言い張った挙句、法廷で気でも狂ったように暴力沙汰を起こした乾は、この初老の男には従順だった。
 最愛の娘の生命を奪った負い目。
 最愛の女の生命を絶たせるに至った負い目。
 二人は、一人の女の死でこの世を去るその日まで繋がっている。
「……ところで、乾君はもうすぐ誕生日だね」
「ええ」
「おめでとう。プレゼントを警備の人に渡してるからね」
 如何に刑務所より警備がゆるいとはいえ、囚人相手だ。
 面接に来た外部の者からの差し入れは、一度刑務警備員による検査を受けないと、囚人の手には届かない。
「ありがとうございます」
「直接手渡したかったな」
「すみません」
「明日福岡に戻らなきゃいけないから、遠くからだけど、祝ってるよ」
「ありがとうございます」
 絲島は、今年も天神地下街や博多駅前のイルミネーションはすごかった、とか、年を取ると庭木の手入れが大変だ、とか他愛のない話をする。強化ポリカーボネイト板の向こうで乾は、俯き加減に絲島の話を聞いていた。妻にも娘にも先立たれ、一人きりでクリスマスを過ごす彼のことを思うと、乾は胸に錐でも突き立てられるような悲しみを覚えた。
「帰りたいです」
 話が切れ、沈黙が訪れると、乾は呻くように言った。
「刑期が終わったら、福岡に帰りたいです」
「うん帰っておいで。帰ってきたら、うちにおいで」
「でも、僕みたいなごく潰しがいたら大変ですよ?  前科者が就ける仕事なんて限られてますし」
「私は君に一生かけて償うって前にも言ったね? 君が、私には出来なかったことを花冠にしてくれて、この現状があるんだから。そういうことは気にしなくていいんだよ」
「…………」
「ただ、一つ、頼みがあるんだ」
「何でしょうか」
「…………乾君」
 ふと、絲島は皺の多い手を組み合わせ、目線をそこへ落とした。
「うちに、花冠のリプログラムドセルがあるんだ」
 乾の顔がみるみる強張る。
 静かに絲島は続けた。
「アメリカに、ゲノムチェックとセル単位での治療をする民間企業があってね、そこに頼んでたのがやっと手元に戻ってきたよ」
 乾は言葉もなく、凍りついた眼差しで絲島の口元を見ていた。
 彼が理解しているかどうかを危ぶむように、絲島はゆっくりと話す。
「報告書によれば、このセルを使って生まれる子は、96%の割合で妻や花冠がかかった病気が発症することは無いそうだ」
「なぜ今まで教えてくれなかったんですか」
「もし前以て教えた後に、治療不可能、という結果になっていたら君はやけを起こさなかったかね?」
 少し言葉を切ったが、乾が完全に言葉を失っているのを見てとると、絲島は呟いた。
「私はね、この数年独りだった。花冠と君が、私と一緒に暮らしてくれるはずだった家でクリスマスも、盆正月も、ずっと独りだったよ」
 ごそごそとポケットを探りハンカチを引っぱり出すと、初老の男は目頭と小鼻を押さえた。
「たった数年と思うかもしれないが、幸せな夢を見た後だからね。余計つらく感じるよ」
 のろのろと、年よりも老けて見える動作で、絲島は安っぽいパイプ椅子から立ち上がると二歩ほど後ずさりし、床に膝と両手をついた。
 人型のオブジェのように凍りついている乾に向かい、彼は床に触れんばかりに額づいた。
「頼む。私に花冠と君の子どもを見せてほしい」

 12月24日、結城は業務の合間を縫って洒落たラッピングを施した品々をこの日に生まれた同僚に手渡そうと支度していた。
「この日に生まれた人は、目的のためならどんな犠牲も払える、人を人とも思わない人間だそうですよ」
 12月24日生まれの本人は、そんな興ざめなことを言っていたが。

「おい乾」
 くるくると筒にしたグラシン紙でいきなり頭をはたかれて、乾はホログラムモニターから顔を上げた。
「何ですか」
 そこにはきつい目つきの「残念な美人」、土岐が立っていた。
 生物学部門に所属している彼女は、昆虫の飼料用の葉物を分けてもらいに植物部門ラボに立ち寄ったらしい。左手には青々とした京菜の葉が覗いたビニール袋を提げている。
 まるで買い物帰りの主婦だ。


 土岐は、乾を死の淵へと突き落としかけた。
 当然、彼を母猫のように庇護している結城の仲も良好とは言い難い。最近やっと、大人としての節度を守った会話はできるようになったのだが、やはり雰囲気は冷えている。
 そんな彼女は、乾をライバルと見なしていた。
 一方で乾は「ライバル」という言葉に対し、夕日に照らされた川の土手で殴り合ったあと握手する以外のイメージが湧かない。そう土岐に言うと、お前は化石みたいなステレオタイプだな、と呆れられた。


「今いいところなんですから邪魔しないでください」
「何だこれ」
「アテモヤの低木化関連ゲノムの解析データです」
 真面目で職場のルールを遵守しているように見えてその実かなり協調性に欠けている彼は自分で勝手に企画立案し、決裁が下りる前から自分一人でバンレイシ科果樹の早熟・低木化に取り組んでいる。
 もし決裁が下りなくても、今の彼にはどうでもよかった。
「用が済んだら、部署に戻ればいいじゃないですか」
「はるばるここまでやってきたんだから茶ぐらい出せよ」
「はるばるって、同じフロアじゃないですか」
「あ、紅ふうき番茶でよかったら今淹れますから」
 棒付き飴を口に咥えた吉野が、パーティションで区切られた水屋スペースからひょいと顔を出した。
「ちょっと渋くて苦いんですけど」
「ああ、いいのいいの。俺はこのでかぶつがお茶くみするとこが見たかっただけだから」
 結局、若いながらも子どもの頃から苦労を重ねてきた吉野は自発的にラボにいる全員分の茶を淹れ、薔薇の棘のひっかき傷がある細い手でデスクに配った。
「かあわいいよなあ、よしのんは。よく気が利くし」
「いえ、たまたま私も一息入れたかったんで、ついでですから」
 屈託ない優しさと心配りで、吉野は誰にでも愛されていた。
 ふわふわとしたボブが実にチャーミングだ。
「よしのんを見習えよ、ウドの大木」
 乾のデスクの脇机に腰かけて熱い茶を飲んでいる土岐に、乾は苦い顔をした。
「土岐さん、行儀が悪いですよ。本当に良家の子女なんですか」
「ああ、残念なことに本当だ。わかっててやってんだからつべこべ抜かすな」
「つべこべ言われるってわかってるでしょうに、何でわざわざそこに座るんですか」
「ちょっとお前に頼みがあって」
「頼みたいなら、頼む態度を取って下さい」
 チッ、と舌打ちしつつも素直に土岐は脇机から降りた。
「ちょっとマジな頼みがあるんだ、乾センセイ」
 訝る彼に土岐は声を潜めた。
「今日……クリスマスイブだろ、その……世間一般的には」
「そうですが」
「箕郷さんと夜、飯食うことになってんだ」
 箕郷にだけ、敬称がついている。
 言葉遣いは野卑だが、土岐は顔を紅くしていた。
 土岐はどこでどうして知り合ったのか、乾の同室の医師、箕郷に恋心を抱いているらしい。彼の前でだけ不器用な、恋に不慣れな乙女の顔をしながらクールな年上の余裕を気取ろうとする。それが乾には可笑しくてならない。
 指差して笑いたいほどなのだが、臆面もなしに「見たいなら脱ぐよ」と言う結城に冷や汗を流す彼も五十歩百歩だ。
 そういう意味でも、彼らはいいライバルだったのかもしれない。
「ああ、そうですか」
「にやにやすんじゃねえよ、ウドの大木」
「で、食堂で?」
「いや、私が作る」
「え?  あなた料理できるんですか?!」
「できねえけど、やらなきゃいけねえことはきっちりやるのがこの知与さまだよ!」
 毒づいた後に土岐は溜め息をついた。
 やはり不安なのらしい。
「何作るんですか?」
「丸鶏があるんだ」
「まさかローストするつもりじゃないでしょうね?!」
「悪いか?」
「下拵えは?」
「これからだ」
「ああ」
 乾も長い息を吐いた。
「ローストチキンは前日から下拵えをしてないと、いまいちなんですよね」
「えっ?! でもネットで検索したレシピだと……」
「ぱぱっと作れておいしい、っていうレシピを見たんでしょ。丁寧に仕込まれたものと時短料理だと、まるっきり仕上がりが違うんですよ!」
「美味しいんだったらいいじゃんか」
「いいえ! ローストチキンは味が染みにくいんです!」
 そしてさらに乾は爆弾を投下した。
「それに僕らの部屋にはオーブンがありません」
「は?!」
「ダッチオーブンとかでやる方法もありますが、あなたができるとは思えません」
 土岐は、明らかに計画が狂ったという調子で口をへの字にした。
「じゃあ乾先生よぉ、オルタナティブプランの提案を頼むぜ」
「何で僕が?」
「お前、料理うまいって聞いたんでオーブンくらい持ってんだろって思ってたんだぜ」
「思い込みって怖いですね」
「とにかく、何か作れるもん提案しろっつってんだよ!」
 意味なく凄んだ後、土岐は少し顔を赤らめ、目を伏せた。
 乾は鼻で笑っている。
 土岐にとっては屈辱だった。
「ああ、コッコ・オ・ヴァンなんてどうでしょうね? 今からだと急げば間に合いますよ」
「なんだそれ」
「丸鶏のワイン煮込みです」
「ワインはねえよ」
「植物組はちょっと醸造学も齧ってるもんで、僕らの部屋の冷蔵庫に白が入ってますよ」
 言いながら、乾はささっとレシピを反故の裏に走り書きした。
 諳んじているところを見ると、何度も作ったことがあるらしい。
「はい、これですよ。簡単でしょ? 材料は肉以外は僕らのとこの冷蔵庫にありますから使っていいですよ。鍋も調味料も揃ってますから頑張って下さいね」
「すまん」
「じゃあこれで頼みごとコンプリートですね」
「いやそれだけじゃなくて」
「?」
「今夜、当該時間中、部屋を空けてほしい」
 要するに、箕郷と同室の乾は邪魔だから、どこかで時間を潰して来いということだ。
 乙女か、と乾は思った。
「いいですよ。上手くやって下さい」
 乾はあっさりと承諾し、土岐の顔は今やまっかっかだった。
「すまん」
「今夜はここでIBA(アルカロイドの一種。植物体内でホルモンとして働く)で遊んでますから、どうぞ朝までごゆっくり」
「は? 結城んとこ行くんじゃねえの?」
「僕は、誕生日の夜は当番を引き受けてここで過ごすんです。クリスマスイブくらい、植物組のお嬢さん方を早く帰してあげたいじゃないですか」

 午後11時を回った。
 乾のデスク周りを残し、人感センサーが照明の電源を自動的に落としている。
 人気のないクリスマスイブの夜の研究フロアで、自分の周りだけが明るく周囲が暗いと、わびしさがいや増す。
 彼は持参していた抗不安薬の白い錠剤を口に抛りこんで電気ポットの湯で胃に流し込み、卓上デジタル時計の液晶画面に指の腹で触れて2時間30分後にアラームをセットした。
 今夜は乾の人工ゲノムを組み込んだアテモヤと植物組チーフが担当している翌檜のカルスを各細胞周期チェックポイント毎に撮影する。平たく言えば、時々、カメラの作動状況を確認すればいいだけだ。
 植物体への定時給水・薬剤投与はオートメーション化されており、大してすることもない。
 気楽な当番業務だった。
 眠気を感じながら、彼は発根促進ホルモンの溶液をデスクの隅に置いた。

――疲れたなあ……

 これまで、ほんの少し大人のからくりを知っている身として、純粋に研究対象を愛し情熱を持って研究を進める年少者を、様々な雑事から庇ってきたつもりだった。
 面倒な研究補助金申請はすべて引き受け、思えばもう、この部門で自分以外補助金関連の事務折衝ができる者はほぼいない。もし乾がいなくなった後に、全ての官公庁の出納関係者が死ぬほど恐れる「会計検査院」の検査でも入ればこの部署はどうなるのだろう。

――近々、研究費補助金申請事務のワークショップでもしよう
――レジュメでも作るか

 ホログラムに立体表示させた補助金要項を銀縁の眼鏡に映しながら、業務フローを頭の中で組み立てるうち乾は瞼が重くなってくるのを感じた。
 無理もない。最大級に重要な業務でありながら、最高に退屈な内容なのだから。

 しゅう、と空気圧で制御されたドアの開く音がしても、さらに足音を忍ばせて入ってきた部外者が背後に立っても乾は目を覚まさなかった。

「桂ちゃん、風邪引くよ」
 結城は、机で寝入っている植物学者に声をかけた。
 乾は目を覚まさない。
 疲れた顔してるな、と銀髪の外科医は思った。
 ここ数日、なぜか彼は結城と目を合わせようとはしない。
 傍へ寄ろうとしただけでもやんわりと拒否され、距離を空けられる。
――俺、何かした?
 そう訊ねても乾は「疲れていて」というだけだった。


「ほら、起きて」
 肩に手をかけて揺すると、喉仏がくいっと動きやっと大男は目を覚ました。
「え? もう二時……?」
 眠そうに目を擦りながら、手を伸ばして卓上時計を確認する。
 時刻は23時56分だった。
 なあんだ、という体でまた瞼を閉じようとする乾の黒い髪を、結城はわしゃわしゃと掻き回した。
「ほら起きろ!」
「…………」
 眉根に皺を寄せ、乾は再び目を開けた。
「結城さん……何か用ですか」
 欠伸をかみ殺す声。
 結城は微笑んだ。
「ほんとに疲れてるね」
「やることがたくさんあって」
「クリスマスにはいつもラボに詰めてるんだねえ、君は」
「ここにいるといろんなことを思い出さなくて済みますから」
 寝ぼけ眼の乾は、重たげに口を利きながら、頭を小さく揺らしている。
 余程眠いらしい。
 その彼の前に、結城は緑色のギフトボックスを差し出した。
「お誕生日おめでとう、桂ちゃん」
「ああ……ありがとうございます」
「去年は、真っ先におめでとうって言ったけど、今年はラストだよ。ほら」
 結城は白い指で時計を指差した。
「ぎりぎり間に合った」
「そうですね」
 一日分伸びた髭でざらつく頬を、結城は優しくつまんで引っ張った。
「ちゃんと目を覚ませよ。ほら、プレゼント開けてみて」
 乾の目が、やっと眠気を振り払うように何度かぎゅっぎゅっと瞑られ、大きな手が顔を擦る。
 結城は隣のデスクから椅子を借りて、乾の脇に座った。
 乾は言われるままに、かさかさと音を立てて、リボンをほどき包装紙を開いて箱を開けた。
 黒いローゲージの手編み地がトラッド過ぎずカジュアル過ぎない、シンプルなベストを見つけると、彼はそれを恭しく胸の前に広げた。
「……俺が仕事の空き時間に編んだからさ……デザインとか凝れなかったけど」
「忙しいのに、すみません」
 乾は白衣と、その下に着ているベストを脱いだ。背に虫食いがあるのに、「背中なら人に見えないから大丈夫」と着つづけている毛玉だらけの年季ものだ。
 ベストが含んでいた温かい空気の層が失われ、ちょっと肩を竦めると、乾は結城が編んだというベストを頭から被って、白いシャツの上に着けた。
「これ、お洒落ですね。首があったかいし」
 地味なVネックか、前開きボタンのベストしか持っていなかった彼は、ややハイネックなショールカラーに感心している。
「大事に着ます」
「どんどん着て、使ってるところちゃんと見せてよ」
「ちょっともったいないですけど」
「使ってるとこ見せるのが一番のお礼だって言うだろ?」
 このニットベストの脇の綴じ糸には、長い銀髪が目立たぬよう幾条も絡ませられ、編地を縫いとめている。
 それを結城は、この訳ありでキスどまりの相手には言わなかった。気持ち悪がられるのがオチだ。
 ベストの綴じ目をじっと見ていた結城は、訝しげな乾の視線にぶつかってはっとしたように明るい声を出した。
「ほら、桂ちゃんの好きなの作って来たよ」
 もう一つの箱の中、ホットビスケットが小さな容器に入った蜂蜜を添えられて温かい匂いを漂わせていた。

 数年前、人工飼育されたクローンセイヨウミツバチは絶滅寸前まで行ったあと何とか持ち直したのだが、蜂蜜はまだまだ貴重品だ。
「お夜食にいかがですか、乾先生」
 彼は食べ物に滅法弱く、簡単に釣られる男だ。
「あ、いただきます」
 パイのように層になるよう焼かれたビスケットは乾の手の中でひどく小さく見えた。
「……あ、さくっとしてふわっとしてます」
「うん。冬はうまく出来るんだ」
 乾は、真剣に味わう風情で重々しく言った。
「おいしいです」
「よかった」
「ごちそうさまでした」
 相変わらず、口の端にビスケットの屑を付けている。
 結城は眼鏡を取って白衣の胸のポケットに浅く引っ掛けた。
 そのままキスして舐め取ってやりたい気分だ。
 だが、やめた。
 ここのところの乾の態度を思うに、拒否されるだろう。
「桂ちゃん、口のここんとこに屑がついてるよ」
 実験器具の拭き取り用ペーパーで拭いてやると、やはり乾は身を引いた。
「どうしたの?最近変だよ」
「…………」
 自分には不釣り合いに優しくエレガントな相手から目を逸らし、乾はギフトボックスの隅の、印伝張りの細長い箱を手にとった。
「これもいただいていいんですか?」
「うん。開けてごらんよ」

 

 荒れた武骨な手が、慣れない仕草でビロード張りの箱の蓋をずらす。
 結城は、多分彼にはこの贈り物の意図が一生理解できないだろうという確信があった。
 懇切丁寧に説明してやったとしてもきっと、だから何、程度の感慨しか持たないだろう。
 それでも、贈りたかった。


「ネックレスですか……これを僕に?」
 細い金鎖がケースの中でさらさらと動いている。
 プレーンな意匠だが、少しアンティークな雰囲気もある大ぶりのトップ。
 それは透明で、そしてほんの少し乳白色の色味を帯びたムーンストーンだった。
 朧月の光、と鉱物学者に評されるその石は涙型に磨かれ、優しげに夜半の灯りを映している。


「何かの間違いでは?女性へのプレゼントと間違えたとか」
「間違えてないよ」
「でも僕はこういうの着けませんよ?結城さんが着けた方がずっと……」
「いいんだよ、お守りに使ってもらいたいだけだから」
「だけどこんなに高価な」
「いちいちうるさいなぁ。これは俺がずっと前から持ってたやつなんだから気にするなよ」
「それならなおのこと、受け取れません」
 急に硬い、よそよそしい口調で乾はジュエルケースを結城の方へ押しやった。
 それは初めて会った日、喫煙者だと知った時の態度にそっくりだった。
 結城には、乾の態度がとても礼儀知らずで高圧的に思えた。
「普通、ありがとうって受け取るだろ?! 君の態度は何なんだ!」
「普通の人と僕を十把一絡げにしないでください」
「君は本当に失礼だよ」
「あなたは無神経なんですよ」
「君に言われたくないよ!」
「自分が大事に持っていた宝石を、他者に分け与える行為を世間一般に何と呼ぶか知っていますか?」
「はいはい、自分以外は不作法者に見えるんだよな君は!そういう君はどうなんだ!」
 疲れと、プラセボの自己暗示と、様々な思いがごちゃごちゃと頭で渦を巻き、乾は唇を軽く噛んだ。
 結城は、考えに考えた末の贈り物を拒絶するこの不調法極まりない大男を睨んでいる。
 お互い押し黙ったまま、2分ほど経っただろうか。
 デスクの、落ちかかりそうなほどの端にあるネックレスケースを二人は寒々とした思いで見つめていた。
「まるで形見分けみたいじゃないですか」
 沈黙を破ったのは、他人の生死などどうでもいいくせに親しいものの死となると卒倒せんばかりのセンシティヴさを見せる植物学者だった。
「そういう縁起でもないことはしないでください」
「そんなこと言われたの初めてだよ」
 結城は苛々している。
「あなたは長生きしてください。お願いですから」


 深入りしなければよかった。今ではそう思う。
 いや、そもそも深入りなどしてはいないのかもしれない。
 唇は重ねても、ただの一度も、結城との間に下衆の勘ぐるようなことはなかったのだから。
 結城は誰にでも愛される。
 毅然と、そしてそばにいる賛美者を途切れさせることなく自分の道を歩いていく。
 自分は、ずっと彼に甘え、都合の良い避難所扱いにしてきた。
 そこにあるものを愛情と呼べないわけではないが、認めるわけにはいかないまま、ずっと胸の奥に生き続ける声に対し後ろめたさを抱えていた。

――もう、わたし、がんばれない
――まだがんばれっていうのは、あなたと、父さんのエゴだわ

 ある夜のことだ。
 彼の婚約者は、天使のような美貌も美しかった髪も失い、ただ横たわっていた。
 ニットの帽子の隙間からカラフルな電極線が覗く。
 彼女は麻酔や鎮痛剤の類が利かない体質で、コルドトミー手術を繰り返した挙句頭蓋に穴をあけ、脳に直接電流を流して鎮痛作用を得ていた。
「ねえ、桂……」
 骨に皮がへばりついた細い手をやっと動かし、彼女は乾の手に触れた。
「今のわたしを、抱ける?」
「……急に何を言うんだ」
「あなたにとって、わたしはまだ、女なの?」
「当たり前じゃないか」
「じゃあ、抱いて」
 頭蓋骨の形状がはっきりとわかる顔の中で、大きな瞳が病的に潤んでいた。
「何言ってるんだ……ここは病院だよ?」
 男は言葉こそ優しかったが、顔をひきつらせ青ざめていた。
 彼女はそこに、わかりきっていた答えを見た。
「冗談よ」
 窓の外、甲高い鳥の声がする。窓の外には大きな神社の鎮守の森が広がっている。そこで啼いているのだろう。
「不如帰……うちの周りでもよく鳴いてた」
「…………うん」
「ひとに自分の子を育てさせる鳥……憎まれ者だわ」
「…………」
「わたし、あなたの子供、欲しかった……わたしが育てられないのはわかってても」
 弱々しく言った後、幽鬼のような姿の彼女は目を閉じた。

――もう、おしまい。何もかもおしまい。

 柔らかいガーゼをキャビネットから取り出し、そっと目じりから流れ出るものを拭う乾の手に触れながら、絲島花冠は彼と出会ってから最初にして最後の我が儘を言った。
「桂、私を楽にしてくれないかな……痛いの。ずっと痛くてたまらないの」
 ぴたりと動きを止めた乾の手に、花冠はそっと頬ずりした。
「……先生に何とかしてもらおう。ね、そんなこと言わないで」
 その言葉がどんなに救いがなく虚ろなものか。
「先生に言ったら、また別のところに電気流されるだけ。もう嫌なのよ」
 かつてあれほど澄んで、優しく輝いていた大きな瞳は、病み疲れ、苦痛に濁っていた。
「……ごめんね。もう、わたし、がんばれない」

 あのときの光景を思い出すと彼はたまらなくなる。
 あそこで、なりふり構わず彼女を抱き締めていれば、どうなっていただろうか。
 頭蓋に穴が開きっぱなしの『生きた骸骨』そのものだった姿に怖気を抱いてしまったこと、もはや男として彼女を求めることはできなくなってしまったことを彼女は悟っていたに違いない。
 そう思うと、自責の念で狂いそうだった。
 パニック障害や薬剤の副作用という避難所を作って逃げ込み、彼はこの世の総てを男として愛そうとはしなくなった。
 幼いころ読んだオスカー・ワイルドの童話のように、高い塀を積み上げて毒草を巻き、ひたすら彼は精神的玄冬に住み続けた。
 そこへ、緑の目を持つ生き物が、入り込んできたのだ。

「君は本当にめんどくさい男だね」
 結城は半ばやけくそな気分で、立ち上がった。
 座っている乾の脚の間に割って入ると、呆気にとられている顔をぐい、と己が胸に押し当てる。
 大男は「ちょ」だの「まっ」だの言いながら首を横に振って離れようとするが、結城はしっかりと植物学者の首を抱きかかえている。
 服を通して、一生、哺乳類としての本来の目的に使うことはできない乳房に温かい息が届く。
「ちょっと黙ってろ」
 乾はだんだん大人しくなった。
 彼の顔を胸に抱えながら結城はしじまに響く音を聞いていた。
 精密機械の数々が立てる、音とも言えないような静かな通電音。
 植物を扱うこのラボ特有の、高湿度を保つよう設定された加湿器の間欠的な作動音。
 そして自分と、この可愛げがない植物学者の息遣い。
 地味な黒い短髪を白い長い指が撫でた。

 この可愛げのなさが、いい。
 誰にでも優しく真面目であるようで、実は薄情で誰にも好かれようと思っていないのも、いい。
 自分を愛さないのなら、このまま一生、誰も愛さなければいい。
 自分がいなければ、生きていけないようになってくれれば、なおいい。

 抱き締めている頭が徐々に重くなる。
 植物学者の身体から力が抜けていくのを感じ、結城は乾の頭を抱えなおそうとしたが、彼は一息、深く息を吐くと柔らかい胸から顔を上げた。
「……何なんですか」
 もそもそと、抑揚のない声で乾は言った。
 こんな状況下でも、彼は奇妙によそよそしい。
 そのまま、そっと身を離す。
 結城はしゃがんで、デスクの脚の脇に落ちているジュエリーケースを拾い、懐いたようで芯のところでまだ懐き切ってはいない飼い犬の隣にまた座った。
「桂ちゃんがこういうのに興味ないの知ってるよ」
「…………」
「それでも何で贈ろうと思ったか、くらいは聞いてくれてもいいんじゃないかな」
 乾はもう抗弁しようとはしなかったが、ゆっくりとあらぬ方を向いた。
 この他者の理解を求めない、訳のわからない頑固さは、本当に日本犬そのものだ。
 結城はジュエリーケースの蓋を開け、涙型の石を眺めながら話し始めた。
「この石、ムーンストーンっていうんだけどさ、願いを叶えるって昔から言われてるんだ」
「…………」
「これを口に咥えて、念じると叶うんだって。俺もね、このネックレスでやったことあるんだ」
 クリーニングはちゃんとしたから唾液はついてないよ、ととってつけたように付け加えて結城はほんの少し笑い、右の掌にネックレスをのせ、弄んだ。
 指の隙間から、さらさらと細いベネチアンチェーンが零れた。
 乾はただじっと明後日の方向を見ている。
「でもね、俺って欲張りだから、二つ願い事しちゃって、願わなくてもいつかは叶ってたようなことは叶ったけど、本当に叶えたいことは半分くらいしか叶ってないんだ」
「…………」
「多分、一人に一つの願いしかまともに聞いてくれないんじゃないかな。だから、俺の持ち分は使っちゃったし、次に桂ちゃんに渡して、君の願い事を叶えてもらおうと思ったんだ」
「石ごときで願いなんか叶うわけないでしょう」
「……なんか、ここのところ可愛げのなさがパワーアップしてるよ、桂ちゃん」
「そもそも僕が好きなのはモンモリロナイ……」
 民間薬や化粧品、土壌改良剤になり、精製すれば食用にすらなる鉱物の名を言いかけた乾の口に、結城は素早く涙型の月長石を押し込んだ。
 歯が、固いものに当る音がする。
 何をするんだと言わんばかりの乾の口を、結城の手が強く塞いだ。
「ぐだぐだ言ってないで、さっさと願い事をしろ!」

 その2か月後、所内に通達された内容に研究員たちは驚いた。

――乾桂
――上の者、本年3月31日を以て現職の任を解き、本年4月1日より鎮西研究所への転籍を命ず。
――身柄の移送にあたり、本年3月30日より本年3月31日まで、職務専念義務を免ず。

「乾って誰だ」
「あの脱走失敗したやつか」
「ああこりゃ厄介払いだね」
「鎮西って、この春から稼働するとこだろ?」
「確か、農水省直属で、こことは統括系統が違うらしい。よく行けたな」
 研究員たちの格好の茶請け話になったが、当の本人は淡々と職務をこなしていた。

「鎮西は、あなたをチーフで迎えるって言ってるから、まずまずの栄転って感じだね。おめでとう」
 乾はすまなさそうな顔をしたが、その目は明るかった。
 彼は結局決裁が下りず、認可されなかった研究成果を非公式に鎮西研究所に送っていたのだ。
 咎めようにも咎めようがない。
 法律や判例や約款、職務規則。
 そういうものを潜り抜ける一種不気味な才能が彼にはあった。
 グレーゾーンに踏み込むなら、組織のシステムが未熟なうちが一番だということも、彼は熟知していた。
 そこが精神科医の鳥居をして「法曹界に入った方が向いているかも」と言わせた所以だ。
 この気弱そうな顔をしたスタンドプレイヤーに、光岡は溜め息をついた。


――この人、まさに問題児だったな
――所内規則、見直さなきゃ

「これで満足?」
「はい、ありがとうございます」
 彼女は初代所長としてここへ就任し、自分が心血を注ごうと思った研究も片手間に押しやって、犯罪者たち相手に舐められまいと努めてきた。
 その甲斐あってか、ほとんどの研究員が彼女を敬愛し、このNIR中四国支部に骨を埋めるつもりでいる。刑期を終えて娑婆へ出ても、前科者として指弾されまともな職に就けないのがわかっているし、何より、好きな仕事に没頭できるここが居心地良いのだ。
 その現状に、ほっと胸を撫で下ろしていたところへ、見た目は地味なのに派手な立ち回りをし、彼女の首を飛ばしかけた男が転籍願を提出してきたのだ。


「本当に、あなたには手を焼いたよ」
「すみません」
「いろいろ庇ってきたんだよ、これでも」
「これでお手を煩わせることもなくなりますよ」
「私、胃が痛いんだけど?」
 乾はやたらと年寄り臭い笑顔を浮かべた。
「すみません。ご心労、お察しいたします」
 他人事のような口調に、光岡はまた溜息をついた。
「……あ、所長、今までのご恩に相当するほどのものではありませんがお受け取りを」
 乾が小さな記録媒体のチップを渡すと、所長は怪訝な顔をした。
「あら、なあに?」
「この研究所の監視カメラや赤外線センサーの死角、人的警備の手薄なポイントなど、全部網羅したファイルです。警備にお役立て下さい。それから全壁面と床の汚れが目立つので、塗装し直した方がいいと思います」
「そうかなあ。まだ綺麗なのに」
「特に男子トイレ」
「ああ、そこは盲点だわ」

 終業後、いつも冷ややかで、特に服役中の同僚をひたすら見下す態度の内科医は、いつものように大柄な植物学者がピアノの前に座っているのを見つけた。弾くでもなく、ただぼんやりと鍵盤を見ている。
 ジャラジャラと、部屋の隅ではお馴染みの連中がマージャンに興じ、騒いでいる。
 狩野は、普段通りの不遜な態度で乾に声をかけた。
「よう、乾」
「ああ、こんばんは、狩野さん」
「アンタ、この春異動やてな」
「はい。おかげさまで」
「この研究所始まって以来の異動や。びっくりしたで」
「転籍願を出したんです。やっと福岡に戻れます」
「何ぞやりたいことでもあったんか」
「はい」
 人間の望郷の思いは、本能だともいう。
 しかしその発現はもっと年齢を重ねてからであることが多い。
 こいつ、本当に老けてるんやな、と狩野は思った。
「地元ってゆうても風当たりきついで。わかっとるんか」
「わかってます」
「なら、ええけど」
 乾は目を細めて笑った。
 いつもふやけた曖昧な笑顔を浮かべていることが多かったが、なぜか今、ここで笑っている乾は肩の力が抜けた、ただの28歳の男に見えた。
「福岡に帰ったら模範囚になってみせますよ」
「そうか」
「残った刑期中に、何度か恩赦のチャンスも来ますしね。オリンピックとか、選挙とか」
「アンタ、やらしいな」
「ええ、僕はいやらしいですよ」
 楽しそうに、乾は言う。
「狩野さん、今までありがとうございました」
「あては何にもしとらんで」
 狩野は複雑な気分だった。
「僕はあなたが好きでしたよ」
「ふーん。どこら辺がええんや」
「あなたの感性がまともなところがです」
「どういう意味や」
「僕たち囚人は、所詮犯罪者です。だけどここは、一般人も罪人も、みんなゆるく暮らしている。罪のことさえ忘れている連中も多いでしょう? でもあなたは、その点きっちり線引きしている。それは素晴らしいことではないかと思うようになったんです」
「素晴らしい……か?」
「いつか世間に出たとき、自分はどういう目で見られるか、それをあなたは世間に成り代わって教えているんですよ、狩野さん。いつも意識しろというわけではないですが、囚人は罪を犯しながらも税金で飼われている身で、自分の立ち位置を時々は確認すべきだ、というのがかつて納税していた者としての意見です」


 乾は浮かれているのかよく喋る。
 犯罪者であったり、学者であったり、元納税者であったり、様々な視点からぺらぺらと訊いてもいないことを並べられながら、狩野は考え込んだ。
 他者から見た自分のスタンスは、そういうものだったのか。
 自分にはそういうつもりはなかった。
 ただ、一般枠採用だった自分が犯罪者と一緒くたにされることが不快でならなかったのだ。
 上下の枠組みを壊されることが、嫌なのだ。


「だから、狩野さんは狩野さんらしくこのままでいてくださいね」
 黙っている狩野に、乾は畳み掛けた。
 妙にむず痒いような気分になった狩野は口調を変えた。
「ピアノ、弾くんやなかったんか」
「寒いと指が動きにくくて」
 そう言いながら、乾は古い映画のシャンソン「ムーランルージュの歌」をゆっくりと弾きはじめた。
 ショービズの華やかさと脂粉の匂いの、その裏側にある寂しさに満ちた曲だ。
 曲が終盤に差し掛かったとき、音も立てず、狩野の横に座った者がある。
 それは、この植物学者とわりない仲だと自他ともに認めているインターセクシャルの同僚だった。
「よう」
 結城は何も言わず、軽く会釈した。
「アンタ、これからどうするんや」
「どうすればいいんでしょうね」
 呟くように弱く答えられ、狩野は居心地悪そうに、床の天然材を模したメラミンの木目を見つめる。
 マージャンに興じていたゴシップ好きな連中がこちらを注視し、耳を欹てている。
 狩野は曲が終わるとそそくさとその場を後にした。

 一曲弾き終わって、まだ冷えている指をさすりながら振り返った乾は、背中に触れんばかりに立っていた結城にぶつかりそうになった。
「わっ」
 結城は無表情に、ピアノ椅子の上の男を見下ろした。
「桂ちゃん、話がある」
「はい」
「俺の部屋に来なさい」

 乾が部屋へ行くといつも、結城はブラックコーヒーが苦手な彼の好みに合わせて様々な種類の茶を選んで淹れてくれたものだった。
 だが、今日はソファの上で結城はクッションを抱き、動こうとはしない。
 乾は床の上、端座していた。
 部屋の主とその客を迎えた部屋は、なかなか暖まらない。


「桂ちゃん、自分で転籍願出してたんだって?」
 ややあって、結城がぽつりと訊ねた。
「はい。ダメもとで」
「いつ?」
「クリスマスの前です」
 結城は顔を上げた。
 乾が突然、よそよそしくなったのは、確かにその頃だ。
 緑色の目が、眼鏡の奥で悲しみを湛えていた。
「どうして言わなかったんだ」
「言わなきゃだめでしたか?」
 結城はがくりと項垂れ、クッションに顔を埋める。
 クッション越しにくぐもった声がした。
「もしかして、あのときの君の願い事って」
「あのとき?」
「ムーンストーン咥えさせた時のだよ」
「ああ、あれですね……叶いましたよ。これで福岡に帰れます」
 結城は、身体が震えだすのを感じた。
 凍りつくような寒さ。
 この男の心の底には何一つ届いていなかったのだという寂しさ。
「帰ってどうするんだよ」
「今まで以上に頑張って、釈放後の就職の足掛かりを作りますよ」
「ここでずっと働けばいいじゃないか」
「いえ、僕は帰らないと」
 乾は、ふと夢でも見ているような優しい微笑を浮かべた。
「僕は、父親になるんです」
 新しい光を得た焦茶色の瞳と、一つのよすがを失おうとしている緑の瞳が、真っ直ぐに見つめ合った。
「僕の『妻』の初期化セルを、義父が持っていたんです。今、人工子宮の順番待ちなんです。九州医療センターで4年待ちなんですけどね」
――そうか、それで俺を置いて、逃げるのか
「だから、もうすぐお別れです」
――あんなに甘やかしてやって、こんなにそばにいたのに
「…………どうして俺に言ってくれなかったんだ?」
詮無い質問なのは自分が一番わかっている。
声が震える。
乾は困った顔をした。
「言ってどうなるわけでもないでしょう? 鎮西は農林水産省直轄で農業に特化した研究所ですから、あなたは行けませんし」
「そんなこと訊いてるんじゃない!」
「……?」
 膝の上のクッションを抱いている手が、冷たい汗に濡れた。
「俺、桂ちゃんと一緒にいたかった。もし、君が俺を愛していなくても、一緒にいられるならそれでよかったんだ」
「結城さん」


 周囲にわりない仲と目されながら、大人の割に清い関係だった相手。
 いつでも優しく庇ってくれたひと。
 一生誰も好きにならない、という心の檻を器用に開錠してしまった謎の生き物。

――このひとと寄り添って生きられたら

 そんな思いが今まで何度も胸を掠めたが、その都度、もう薄れかけた面影の中で大きな瞳がきらきらと涙を溜めていたのを思いだし、そこからどこへも踏み出せなくなる。
 そしてこれから訪れる、世間から「人殺し」と指弾されながら義父と一緒に住み、子どもを守り育てる田舎暮らしにこの美しい外科医を巻き込む気にはなれなかった。
 自分はいい。
 絲島が街頭に立ち、必死に減刑嘆願書の署名を集めた折、花冠を乳児の時から知っている人々が協力してくれた。彼らは一人暮らしの義父にも、様々な配慮をしてくれているという。そういう基盤があるからこそ、彼は様々なことを一気に決断した。
――でも、結城さんは、違う

「あなたは、今まで何回、人を愛したことがありますか?まさか僕だけではないでしょう?」
「…………」
「だから今度だって、大丈夫ですよ。きっと僕よりずっといいひとがいます」
その度どんなに苦しんだか知らないくせにしゃあしゃあと言われて、結城は目の前が昏くなった。
「君に俺の何がわかるって言うんだ」
結城は呻いた。
「俺さ、こんな体で生まれて、子どもの頃からレイプとかおもちゃにされたりとかしょっちゅうで、親も学校も助けてくれなくてさ」
「…………」
「親に『汚らわしい色キチガイ』って言われて育ってさ……もう俺は誰からも愛されないんだ、要らない子なんだって思ってた」
「…………」
「だから、親元から離れて暮らすようになって、俺のことを好きって言ってくれるやつが出来たときは、すごく嬉しかった」


 突然始まった身の上話を、乾は黙って聞いている。
 結城が、過去のことを話すのを聞くのは、初めてだった。


「でもさ、やっぱり不安でさ、相手を試すようなことをいろいろやらかすわけだ。そしてもうこいつがいないと生きられない、って全力で寄りかかった頃に捨てられる。それの繰り返しだよ。だから、捨てても捨てられてもどうでもいいような連中とつきあうようになって、セックスのときだけだろうが何だろうが、とにかく誰かに必要だって思われたかった」


 おそらく、多くの大人に虐げられ機能不全の家庭で育った結城にとって、誰かに「必要とされている」という思いは麻薬のように甘美で、一生抜け出せない罠のようなものだったのだろう。
 しかしそれは乾も同じだった。
 結城は震えたままの声で訥々と話す。
「俺は、どうしようもなく、誰かに必要だと思われたいんだ。医者としてでなく、一個の人間としての俺を。でも俺、いざとなると不器用でさ……」
 痛ましい話だった。
 ところが、乾は慰めるつもりか至って空気の読めないことを言い出した。
「あなたを必要としている人はたくさんいるじゃないですか。ほら、あの看護師の人とか……だから大丈夫です」
「……俺にも選ぶ権利がある」
 さらに斜め上の返しをしてしまうあたり、結城は乾の思考パターンに毒されてしまっている。
「……そうですか」
 大男は畏まった犬のように引き下がった。
 こいつは、嫉妬もしないが、軽蔑もしないのだな、と結城は思った。
 結城はソファーから崩れるように床に降り、正座したままの乾ににじり寄った。
「あの、僕、足が痺れてるので触らないでください」
 その言葉を聞くと、結城は無性に腹が立った。
 乾にがんと体当たりする。
 鳩尾に額が強く当たり、乾は横ざまに倒れ込んだまま咳き込む。
 足の痺れに悲鳴を上げられようが、咳の飛沫を浴びようがお構いなしに、結城はこの薄情な男の懐に潜り込んだ。
「俺が、もしちゃんとした女に生まれて、桂ちゃんと奥さんの子、俺が代理母になって産むって言ったら俺を連れて行ったか?」
「…………」
「答えろ。俺が女で、代理母を喜んで引き受けるって言ったら、どうしてた」
「……断ります」
「俺がごり押ししたら?」
「一緒に福岡へ帰って、それから一生あなたに償います」
「そうか……」


――簡単なことだったんだ
――俺に、生殖可能な子宮があれば

 きっとこの男は、今この場で手に入ったのに。


「ごめんなさい」
 自分がどんなに残酷なことを言ったか彼にはわかっていた。
 脚の痺れが落ち着くと、乾は少し前までよくしていたように、腕の中の結城の背を撫でた。
 大きな手の忘れがたい温かさ。
 しっかりと筋肉のついた腕と広い胸。
 結城の目から、蝋が溶け出るように涙が零れた。

――いいじゃないか
――大人だって、アラサーだって、泣くときゃ泣くんだ

「あなたは僕を支えてくれました。どうお礼をすればいいかわかりません」
 わからないから、打っ棄ってしまう。
 この男の思考パターンはだいたいわかっている。
 対人関係的にわからないことが起こると、たいてい抛りだし逃げ回る。
 職務上のディスカッションになると底意地の悪い質問で相手をつつき回すくせに。
 ところが、今回は違った。
「だから、残りの一か月、職務に支障のない範囲で何でも言うことを聞きます」
 思わず結城は乾の胸から顔を上げて、まじまじとその瞳を見つめた。
 申し訳なさそうな、叱られた犬の面持ちで、乾も見返してくる。
 何を言い出されるか恐れているような、怯えた目がふと虚空に泳ぐ。
 その唇がぐっと近づいたかと思うと、結城の目元から軽いリップ音を立てて涙を吸い取った。
 結城は引きつりそうになる咽喉を抑えながら、小さく低く言った。
「じゃあ、俺の部屋に住んで、ご飯作って」
「わかりました」
「それから、君が寝る前に飲んでる抗不安薬、あれプラセボだから」
「……は?」
 何のことだかわからない風の乾に、噛んで含めるように結城が言う。
「プラセボ。野崎さんに確認してもらった。もう4か月ぐらい飲んでるよね」
「あ、ああ……」
「その間、発作起こしてないよね」
「…………」
「君ね、多分パニック障害治ってる。そしてSSRIの副作用もそろそろ消えてる」
「そう……なんでしょうか?」
「ねえ、桂ちゃん」
 少し躊躇った後、結城は小さく言った。
「ベッドに行こう」


 もう別れは確定しているのに、色情狂だと思われただろうか。
 自分の身体……男の部分を見て、気持ち悪く思われないだろうか。
 結城は俯いて固唾を飲んだ。小さめの喉仏が動いた。
 その姿はどこか心許なく、不安げだった。
「あの、多分無理ですけど」
「嫌なら、いいから」
 思いがけなく、乾は穏やかに答えた。
「僕は、多分薬のせいじゃなくて、ちょっと心的外傷があって無理なんです」
「いいよ。嫌がることはしないから……ただ……たださ、俺が何をしても軽蔑しないでくれれば」
「するわけないでしょう」


 このひとといて、男とか女とか、そういうものが馬鹿馬鹿しくなってきたな、と乾は思った。
 やはりむくつけきもじゃもじゃ男は嫌だが、身ぎれいにしている中性的な男なら……?
 いややはり、あり得ない。
 インドール・スカトール臭や腸内細菌叢を思い出して吐きそうだ。
 しかし、この自分の前にいる結城は半分女性だ。半分の男性成分なら耐えられそうな気がする。
 それに、ちょっとしおらしい結城は何と言うか……
「可愛い」
「は?」
「あなたはどこの誰よりも可愛い」
 歳下で、心のどこかで自分より格下だと思っていた相手に突然そう言われ、結城は今更のように吃驚した顔をした。
 憑き物が落ちたようにさっぱりと、乾は言った。
「じゃあ、風呂に入ってきます」

 今まで、自分の中に蟠る欲求を宥め、ひたすら相手の体調を気遣い、緩やかに穏やかに相手を苦しめないよう、ストイックな行為しかしたことがなかった乾は、結城のペースに翻弄され、わけのわからないうちにあっさりただの男に戻ってしまっていた。
「よかったねえ」
「そうですか?」
「うん、よかったよかった」
 結城に犬のように頭を撫でられる。
 どっちの意味で「よかった」のか聞くのは気が引けた。
「あのムーンストーンで俺が何を願ったか教えてやる」
「いや、別にいい……」
「桂ちゃんが前にハラキリやって凍死しかけて、ずっと目を覚まさなかった時、俺、君の回復を願ったんだからね」
「ありがとうございます」
「もう一つ、いまいち叶わなかった方は、君が俺のものになりますようにって」
「ごめんなさい」
「でも、一か月間は俺のものだ」
 結城は裸の胸をぴったりと乾の脇腹に押し当て、顔を寄せて深々と唇を重ねた。
 彼はもう一度結城の腰骨を掴んで引き寄せた。

 そして3月27日、きっちりとスーツを着けネクタイを締めた乾はメインエントランスで深々と頭を下げると移送車に乗り、鎮西研究所へと出立した。
 結城は見送りには出なかった。
 助手に入った山本に、どことなく痛ましげな視線を向けられながら、結城は患者の腸をステープルで繋いでいた。
 昨晩、乾が弾き語りしていたTell me on a Sundayが耳に残っている。
 初めて会ったときに弾いていた曲だ。
「僕に義理立てせず、好きな人を作って、幸せになって下さいね」
 それが最後の言葉だった。

Ⅸ. 心の庭の足跡

 乾はあの後、目論見通りに短縮された刑期を終え、正式に絲島の養子となった。

 亡き娘の体細胞を治療し、初期化して体外授精を行い、人工子宮で39週まで育てる。
 これだけで莫大な金額が必要だった。しかも、体外受精の場合、胚を複数作りその中で最も生育に適したと思われるものだけを着床させ、育てるのが通常なのだが、男二人は迷いなく、成長の可能性がある全ての胚を育てることを強く希望した。
 絲島の退職金だけでは到底足りず、絲島家に代々相続され、周囲の農家に賃借に出していた田畑を売り、都市部に所有していた猫の額ほどの土地も手放した。
「あと、私にはたくさん生命保険がかかってるから、いざというときには何とかなるよ。君の賠償金の残額はぎりぎり支払えそうだ」
 笑ってそう言う義父に、絲島の姓を獲得した植物学者は言った。
「そういうことは言わないでください、本当に」

 今、絲島家には4歳の三つ子が、すくすくと育ち、犬の仔のように連れだって近所の畦道を駆け回る。
「おとうさん、照葉がわたしのいちごとったー!」
「曄が先にわたしのヨーグルト一口とったんだもん」
「はいはい、声を小さくしなさい。香樹が寝てるから」
 祖父に似た少し気弱な香樹は、熱を出して夕食後すぐに寝込んでいる。
 外見だけは父親に似た気の強い照葉と、母親に生き写しの曄は竹製のスプーンでデザートの苺ヨーグルトを巡ってバトルを始めている。
「早く食べてしまいなさい。おじいちゃんとお風呂に入るんでしょう?」
「今日はおとうさんとはいる」
「わたしも」
「お父さんはお風呂掃除するから、最後に入るの!ほらさっさと食べた!」

 そのとき、廊下で床板の軋む音がした。それは重みのある、足音のように聞こえた。

「あれ? 香樹、トイレかー?」

 テーブルでのバトルに手を焼きながら、トイレの方向へ声をかける。返事はなかった。

 ここは古く、よく家鳴りする。彼は床に零れたヨーグルトの処理に追われ、深くは考えなかった。

 絵本を読んで子どもたちを寝かしつけて喧噪のときが終わると、時計は9時を指していた。
 細く開いた襖の間から、リビングの隣の和室に長く光が差し込んでいる。
 そこには布団が敷かれ、小さな三つの枕にはめいめい小さな頭が並んでいる。
「あの子たちが寝ると、ほんとにほっとするねえ」
 TVの報道番組を見ながら、老いた絲島は息子に言った。
「はい」
「でも、幸せだなあ」
「はい」


 九州の春は早い。
 もうチューリップの花期も終わり、日によっては初夏めいた風が緩やかに吹く。
 それでも夜は肌寒い。
 温かいほうじ茶を二人は静かに飲みながら、TVを眺めていた。


「桂君、君はいくつになったんだったかな」
「37です」
「そうか、花冠を初めてうちに送ってきてくれたときからもう20年経つんだね」
「何だか滅茶苦茶な20年でした」
「そうだねえ、そのうちの何年かは、私は記憶が飛んでるよ」
「僕もです」


 しみじみと思い返すように、絲島はもう一口茶を啜る。
 息子として、婿として、申し分のない男。
 だが、絲島はストイシズムに満ちたこの養子に、罪の意識を感じる。
 今は老いてこそいるがこんな絲島でさえ、若い頃は様々に遊び、浮名を流したこともあったのだ。
 この男にも、もう少し遊びの部分があっても良いのではないか?


「君はまだ若いんだから、誰か理解あるひととおつきあいしてみたらどうかな」
「いえ、子どもたちの世話と仕事だけで手一杯ですから」
 三つ子の父親は、先ほど子どもたちに食べさせた残りの苺をぱくんと口に抛りこんだ。
「三つのコブ付き前科者とつきあおうなんてひと、そうそういませんよ」
「そうかね」
 絲島も、赤黒く熟れたイチゴに手を伸ばした。
「私は、君には好きなひとがいるんじゃないかってずっと思ってるんだが」
「どうしてそう思うんですか?」
「そうだね……君がとても大事にしているベストとマフラー、どう見ても手編みなんだけどね」
 血の繋がらない息子は、思い切り噎せた。
「今はね、花冠の父親じゃなくて、ただの男同士として、君の恋バナが聞きたい」
「……お義父さん」
「そうだね、義父だと思うから言いにくいのか……男同士だから、今は滋って呼んでいいよ。いっそ滋やんでもいい」
「いや、それは……」
 ははっと二人で短く笑う。
 元大学教授は柔らかい笑顔のまま言った。
「君は随分雰囲気が変わったよ」
「そりゃあ、こんなに経てばいろいろ変わりますよ」
「いや、君がNIRにいたとき、劇的に変わった」
「そうですか?」
「最初はね、花冠の父として必死に毅然としていたけど、君は本当に怖かったよ。目を吊り上げて暴れ回ってたし」
「すみません」
「でも面会に行くたび、どんどん雰囲気が柔らかくなっていってね。好きな相手でもできたかなと思ってたんだ」
 目を泳がせる彼を、絲島は微笑ましく思う。
 そのときこそ、娘の存在の風化を突き付けられた気がして身を切るようにつらかったが、今となっては彼が何らかの、人生の実りを手に入れていたことを願う。


「真面目な話、私は心配なんだよ。君は人生の早いうちにうちの花冠と出会ってしまった。そしてそれからずっと、親子二代で寄ってたかって君をかんじがらめにしたんじゃないかと」
「そんなこと考えてたんですか」
「だから、親孝行だと思って恋バナを聞かせてくれないか。そうすれば安心するから」
「本当に安心するんですか」
「するよ」
 彼は、『妻』の父親の顔をじっと見た。
 絲島は、眉をハリウッド俳優のように大袈裟に動かし、話を促す。


「僕は、NIRで他の研究員たちと必要最小限にしか接触しないようにしてたんですが、一人すごく世話好きのひとがいて、僕にいろんな美味しいものを食べさせてくれたんです」
 思わず絲島は鼻息を噴き出した。
「君は本当に食べものに釣られる男だね」
「花冠ちゃんは僕を食べもので釣りませんでしたよ?」
「あの子は料理、本当に下手だったからね……さあ、続きは?」
「僕に高価い肉とかケーキとか食べさせてくれたし、優しかったし、すごく綺麗な人でした。怒ると怖かったですけどね」
「花冠と似たタイプだったとか?」
「いえ、全然違いました。背も高かったし、……全体的に男っぽいっていうか、まあそんな感じです」


 話を聞きながら、妻子を早く亡くした男は思っていた。

――私と、死んだ娘と、まだ姿かたちもなかった孫たちが、彼とそのひとをよってたかって引き裂いたんだろう
――彼の人生は、私たちの血筋が食いつぶしたようなものじゃないか

「もし、花冠と出会う前に、その人と出会ってたら、君はどうしてた」
 絲島は訊ねた。
 義理の息子は、少し照れたような顔をしている。
「正直に言っていいから」
「……きっと結婚を申し込んでましたが、あくまでも仮定ですから」
 絲島は、努めて平静を装いながらも、この義理の息子が哀れで鼻の奥が痛くなってきた。
「会いたくはないのかい」
「こんなダメ男ですし、今更会えませんよ。もう9年も経ってますし」


 あのとき、泣いて縋って、一緒に来てくれと頼みたい自分も確かにいた。
 でも、そうしなかった自分を、彼は我ながらよくやった、と思う。
「連絡を取ってみてはどうかね?」
 外で不如帰がしきりと啼いている。
 彼は目を細めて懐かしげな微笑を浮かべ、首を振った。

「いいえ。華やかなひとでしたから、きっと今頃、自分の人生を歩んでますよ」

 そのとき、リビングの納戸がすっと開いた。

 本能的にさっと身構える彼に、そこから出てきた人物は緑色の瞳をひたと据えた。

 絲島は恭しく目礼した後、立ち上がって書斎へ向かう。

 

 言葉を無くして目を見開いているかつての恋人に、結城は静かに言った。

「久しぶり。元気だった?」

「ゆ……結城さん……」

「お互い、老けたねえ」

「何でここに……」

「刑期が終わったら、すぐ会いたかったんだ。もう桂ちゃんには桂ちゃんの生活があるのはわかってるけどさ」

 ロングだった髪をセミロングまで切り詰めて、しかし彼は懐かしい手つきで顔に掛かる髪を掻き上げた。

「さっきの話、聞いてたんですか」

​「うん。……君のお義父さんは本当にいい人だね。子どもたちもすごく可愛いし、桂ちゃんもいいお父さんだ」

 結城の持つことのできない幸せがそこにあった。

 結城の瞳には涙が溜まっていた。

「羨ましいよ、本当に」

 三つ子の父親は、しばらく黙っていた。

 風が鳴っている。

 葉擦れの音がする。

 不如帰がまた一声鳴いた。

 襖の向こうの子どもたちが目を覚ます様子がないか視線を飛ばしてから、彼は昔のようにおずおずと言った。

「あの、僕も結城さんにも結城さんの生活がもうあるのはわかってるんですけど、その……」

「何?」

「一回だけハグさせてもらってもいいですか」

 冗談を言うな、と躱されるかと思った。

 結城は予測していたのとは違う、寂しい笑顔を浮かべた。

「うん、いいよ。君には何をされてもいいって言っただろ」

「あのときとはずいぶん状況が変わりましたよ」

「変わったのは君だけで、俺は変わってない」

 何かを恐れるように、絲島桂は一歩一歩ゆっくり結城に近づいた。

 二人とも祈るような目で見つめ合う。

 時が巻き戻されるような感覚が襲ってくる。

​ 多分この感情は、どんな言葉でも言い表せない。

 彼は、この優しい恋人をぎゅっと抱きしめた。


 

             <了>
 

 


 


 

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